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2022/11/08

大和怪異記 卷之一 第六 猿うたをよむ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。【 】は二行割注。歌の読みの表記はママ。]

 

 第六 猿うたをよむ事

 皇極天皇三年夏六月、大和國志紀郡(しきのこほり)より、まうさく、

「ある人、三輸山にをゐて[やぶちゃん注:ママ。]、猿のねぶれるを見、ひそかに、其ひぢをとらふるに、さる、寄《より》て、いはく、

武鮒都烏尒(むかつをに)【向峯(むかひのみね)なり。】陀底屡(たてゐ)【「立《たて》る」也。】制羅我伱古弥挙(せらがにこねこ)【能寢《よくねる》なり。】倭我底鳴(わがてを)【「我手」なり。】騰羅毎(とらめ)【「取」也。】拖我佐基泥(たがさきて)【「誰前來(たがさきき)」也。】基佐泥曾母㙒(きさぢそもや)【「不ㇾ來《きたらず》」也。】倭我手(わがてを)【「我手」也。】騰羅須謀也(とらずもや)【「取」也。】

其人、おどろき、猿の哥《うた》を、あやしみ、すてゝ、さる。」

と云。同・「釈日本紀」

[やぶちゃん注:「同」は、今までの話と同じく原拠は「日本書紀」の意。ここでは、今一冊、「釈日本紀」をともに参考したことを示す。「釈日本紀」は日本書紀]全三十巻に亙る纏まった注釈書としては、現存最古のもので、目録と合わせて全二十九巻。卜部兼方(うらべかねかた 生没年未詳:鎌倉時代の神道家。弘安から嘉元(一二七八年~一三〇六年)頃の人で、神祇権大副(じんぎのごんのたいふ)兼(けん)山城守(やましろのかみ)。名は懐賢とも書く)の著になる。内容は「開題」・「注音」・「乱脱」・「帝皇(ていおう)系図」・「述義」・「秘訓」・「和歌」の七部立で、詳しく注釈している。その父兼文(けんふみ)が文永十一年から建治元年(一二七四年~一二七五年)頃に前関白一条実経に進講した講義案をもとに、これに平安初期以降、宮廷で行われた講書の私記やその他の旧説を参照して、正安二(一三〇〇)年頃、纏め上げたと推定されている。他にみえない各種古典を豊富に引用するなど、その価値は大きい(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

 「日本書紀」の原文は皇極天皇三年の条の一節。

   *

夏六月[やぶちゃん注:中略。]乙巳、志紀上郡言、有人於三輪山、見猿晝睡、竊執其臂、不害其身。猿猶合眼歌曰、

 武舸都烏爾、陀底屢制囉我、儞古泥舉曾、倭我底烏騰羅毎、拕我佐基泥、佐基泥曾母野、倭我底騰羅須謀野。

其人驚怪猿歌、放捨而去。此是、經歷數年、上宮王等、爲蘇我鞍作、圍於膽駒山之兆也。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年岩波書店刊黒板勝美編「日本書紀 訓讀」下巻で示すと、ここの左ページ最終行から、次のコマ。「日本書紀」では既に起こってしまった事件の、それよりも前に起こっていた事件の凶兆であったとする。事件とは、「蘇我鞍作」(くらつくり)=蘇我入鹿の山背大兄王襲撃を指す。ウィキの「蘇我入鹿」に、皇極天皇二年十一月一日(六四三年十二月二十日)、入鹿は百名の『兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させた。山背大兄王が皇位継承を望まれなかったのは、山背大兄王が用明天皇の』二『世王に過ぎず、既に天皇位から離れて久しい王統であったからであり、加えて、このような王族が、斑鳩と言う交通の要衝に』、『多数』、『盤踞して、独自の政治力と巨大な経済力を擁しているというのは、天皇や蘇我氏といった支配者層全体にとっても望ましいことではなかったからであ』った。『山背大兄王』『斑鳩宮から脱出し、生駒山に逃亡した』が、『結局、山背大兄王は生駒山を下り』、『斑鳩寺に入』って、十一月十一日(十二月三十日)、『山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶え』たとある事件である。事件を既定にして必然のものとし、後出しで凶兆とするえげつない記載方法が透けて見えるわけである。

 「釈日本紀」のそれは、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの版本(巻一括版PDF)の40から41コマ目にある。なお、ここを見ると、実は「日本書紀」の先立つ皇極天皇二年冬十月の条に、やはり、曽我臣入鹿が、上宮(聖徳太子)の皇子らを廃して、舒明天皇の皇子古人大兄(ふるひとのおおえ)を立て、天皇にしようとした際、巷間の童謡(わざうた)として、異様に類似した、

   *

伊波能杯儞(いはのへに)古佐屢渠梅野俱(こさるこめやく)渠梅多儞母(こめだにも)多礙底騰衰囉栖(たきてとほらせ)歌麻之々能烏膩(かましのをぢ)

   *

があることが判る(黑板版訓読ではここの右ページ末)。確信犯の操作も、ここまでくれば、なかなか大したもんだ。この歌については、サイト「日本神話・神社まとめ」の「皇極天皇(日本書紀)」の「皇極天皇(十四)蝦夷は紫冠を入鹿に・祖母が物部弓削大連の妹・古人大兄を天皇に画策」に、

   《引用開始》

岩の上(ヘ)に 小猿(コサル)米(コメ)焼く 米だにも 食(タ)げて通(トオ)らせ 山羊(カマシシ)の老翁(オジ)

 

歌の訳 岩の上で小猿がコメを焼いている。その焼いた米だけでも食べて行きなさいよ。山羊(=カモシカ)のように白い髭を生やしたおじいさんよ

 

蘇我臣入鹿は上宮(=聖徳太子)の王(=子供)たちの名声があり、天下に広がっていることを忌み憎み、一人、臣の職権を越えて行こうと計画していました。

   《引用終了》

とある。序でなので、本篇の歌も同サイトのこちらから、引用させて貰う。

   《引用開始》

向(ムカ)つ嶺(オ)に 立てる夫(セ)らが 柔手(ニコデ)こそ 我が手を取らめ 誰(タ)が裂手(サキデ) 裂手そもや 我が手取らすもや

 

歌の訳 向かいの山に立ってる男の柔らかな手で、私の手を取るのはいいのだけど、誰か分からない、この裂けたゴワゴワした手! こんなゴワゴワした手が、私の手を取るのでしょうかね!

   《引用終了》

「大和國志紀郡」この附近(グーグル・マップ・データ)。]

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