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« 大和怪異記 電子化注始動 / 序・卷之一 第一 日本武尊山神を殺し給ふ事 | トップページ | 大和怪異記 卷之一 第三 吉備縣守虬をきる事 »

2022/11/07

大和怪異記 卷之一 第二 小竹宮怪異の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。この回はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを加工データとする。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。]

 

  第二 小竹(しのゝ)竹宮怪異の事

 神功皇后(じんぐうこうごう)、紀伊國日高にいたりまして、忍熊王(をしぐまわう)を、せめんがために、小竹宮にうつり給ふ。此とき、晝、くらき事、夜のごとくにして、おほくの日を、經たり。

 

Sinonomiyakaii

 

[やぶちゃん注:底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分はここ。御覧の通り、三箇所に台詞のようなものが記されているが、版の色とその文字が微妙に異なり、特に老父夫の右上のそれは、明かに薄く、私は総て、当時のもとの本書の持ち主、或いはその家内の者が、書き込んだものと断じ、特に判読しない。

 

 皇后、紀直(きのあたい)の祖(そ)、豊耳(とよみゝ)に、とふて、のたまはく、

「このあやしみ、何のゆへ[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]ぞや。」

 時に、ひとりの老夫(をきな[やぶちゃん注:ママ。])ありて、いはく、

「傳聞(つたへきく)、かくのごときあやしみをば、『阿豆那比(あつなひ)の罪と、まうす。」

 問(とは)く、

「何(なに)の謂(いひ)ぞ。」

 こたへて、いはく、

「二社の祝者(はうり[やぶちゃん注:ママ。])を合葬(あはせはうふ)れるか。」

 よつて、とはしむるに、

「巷里(むら)に、小竹祝、天㙒(あまの)祝といふもの、ありき。ともに、うるはしき友なり。小竹祝、逢-病(やまひ)して死しぬ。天㙒祝、血-泣(なき)て、いはく、

『我、いけゝるとき、交友(よろしきとも)たりき。なんぞ、死《しぬ》るに、穴(あな)を同《おなじ》ふせざらんや。』

と、いひて、屍(かばね)のかたはらに、ふして、自(みづから)死す。よつて、合葬(あはせはふる)る。このゆへ、ならんか。」

と。

 則(すなはち)、墓をひらきみれば、まことなり。

 これによつて、又、棺槨(ひつぎ)をあらため、所(ところ)を異(こと)にして、埋(うづみ)しかば、日暉(ひのひかり)、炳燀(あきらかにし/かゝやき[やぶちゃん注:右/左の読み。])て、日夜(ひる と よる)、別(わいだめ)あり。「日本紀」

[やぶちゃん注:以下は、底本では、最後まで全体が一字下げ。]

 「紀州志」には、『小竹宮は那賀(なか)郡に有しと云《いふ》。今、尋(たづぬ)るに、なし。志㙒村の中に社あり、「あづまやの御前」と云《いふ》小社なり。側(かたはら)に寺あり、「神宮寺」と号す。此所、山伏の行所(きやう《しよ》)たるよし。これ、むかしの『小竹宮』歟(か)。』とあり。

[やぶちゃん注:この「日本書紀」の記事は、先日、電子化注した、私の決定版の『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 奇異の神罰』の中に出てきたため、電子化してある。これに先立って、その原文(訓読版)と現代語訳の後に、先ほど、追記注も施した。その追記、及び、そこに示した難波美緒氏の論文『「阿豆那比の罪」に関する一考察』(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第四分冊・二〇一三年発行。「学術機関リポジトリデータベース(IRDB)」のこちらからダウン・ロード可能)を、是非、読まれたい。

「神功皇后(じんぐうこうごう)」「こうごう」の読みはママ。「くわうごう」が正しい。小学館「日本大百科全書」から引く。「記紀」や「風土記」『などにみえる伝承上の人物』で、「日本書紀」によると、第十四代仲哀天皇の『皇后で、名を気長足姫尊(息長足姫命)(おきながたらしひめのみこと)という。父は』第九代開化『天皇の曽孫』『気長宿禰王(おきながのすくねのおおきみ)、母は葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。『古事記』では、父は開化天皇の玄孫で、母は新羅(しらぎ)国の王子天之日矛(あめのひぼこ)の)五『世の孫にあたると』する。『仲哀天皇が熊襲(くまそ)を討つため』、『筑紫』『の橿日宮(かしひのみや)(香椎宮(かしいぐう)。福岡市東区香椎町に』現存する。ここ。グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)『にきたとき、天照大神』『と住吉』『三神が皇后にのりうつって託宣を下したが、仲哀はこれを信じなかったために急死した。そこで神功は、臨月であったにもかかわらず』、『新羅を討ち、帰国後、筑紫の宇美(うみ)』(福岡県糟屋(かすや)郡宇美町(うみまち)。ここ)『で後の』第十五代応神『天皇を出産。さらに大和』『に帰還して麛坂(かごさか)・忍熊(おしくま)』の二人の『王の反乱を鎮定し、応神が即位するまで』六十九『年間も政治をとっていたと』される。「日本書紀」には、『さらに多くの日朝関係記事が記され、なかには干支(かんし)二運』(百二十年)『を下げれば』、『史実と考えられるものもある。また』、四『か所にわたって』「魏志」や「晋書起居注」が『引用され、編者が神功を倭』『の女王(卑弥呼(ひみこ))に比定していたことは疑いない』。『この伝説は、古くから朝廷に伝えられていた朝鮮半島侵略の物語に、各地で語られていた』母子神(ぼしじん)信仰(汎世界的に見られる、母と子の母子像に宿る聖なる呪力を信じ、また、子育ての力を信じて、それを祭祀の対象とする信仰)に『基づく民間伝承的なオホタラシヒメの伝承や、京都府綴喜(つづき)郡』(ここ)『に居住した古代豪族』息長氏(おきながうじ:近江国坂田郡(現在の滋賀県米原市)を本拠としていた古代豪族。意富富杼(おほほど)王の後裔と伝えられ、姓(かばね)は「公(きみ:君)。天武天皇一三(六八四)年の「八色(やくさ)の姓」では、同族の三国公、「坂田公」・「酒人(さかひと)公」らとともに筆頭の「真人(まひと)」の姓を賜った。継体天皇の即位に当たっては、その背後にあって、重きをなし、天皇家とも、しばしば姻戚関係を結んだが、社会的地位が高いわりには、有力者を出さなかった。奈良・平安時代には坂田郡司を歴任した他、この綴喜郡附近にも居住していた。その祖先伝承には、この神功皇后伝説をはじめ、天皇家との関係を語る説話が多い)『の伝承などが加わり、さらに』七~八『世紀に』、『古代天皇制の思想によって潤色を受け、最終的に記紀に定着したと考えられ』ている、とある。

「忍熊王(をしぐまわう)」講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」によれば、『記・紀にみえる仲哀』『天皇の皇子』で、『母は大中姫(おおなかつひめ)。仲哀天皇没後の神功』『皇后摂政元年』、『兄の麛坂(かごさかの)皇子とともに』挙兵し、『神功皇后を討とうとした。武内宿禰』・『武振熊(たけふるくま)らと逢坂(おうさか)でたたかっ』たが、『敗走』、のちに『近江』『の瀬田川(または琵琶湖)に入水した。「古事記」では忍熊王』、「日本書紀」では「忍熊皇子」や「忍熊王」と表記する。

「小竹宮」サイト「神奈備」のこちらによれば、『宇治に陣取った忍熊王を攻めようとして、神功皇后は紀の国の日高から小竹宮(しののみや)に遷』ったとし、『この小竹宮については』、『今の所』、『四箇所の候補地が』挙げられているとあって、以下が記されてある。引用文中のリンクは同サイト内で、地図も完備している。

   《引用開始》

●小竹八幡神社(和歌山県御坊市薗[やぶちゃん注:「ごぼうしその」。])

 小竹宮に比定するのは、社名からの推定ですが、天野祝とともに葬られて暗い世にしたとする小竹祝をこの神社の神人とし、ここには祝塚と言われるものもあるとか。

志野神社(和歌山県那賀郡粉河町北志野[やぶちゃん注:現在は紀の川市北志野。])

 天正の時代に兵火に焼かれていた神社があり、再建されています。地名・社名からの推測。ただ、天野祝を丹生都比売神社[やぶちゃん注:「にふつひめじんじゃ」或いは「にうつひめじんじゃ」で、現在は和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野。ここ。]の祝とするならば、両祝が仲がよいとする距離感にはあいそう。

波宝神社[やぶちゃん注:「はほうじんじゃ」。](奈良県吉野郡西吉野村夜中[やぶちゃん注:現在は五條市西吉野町(よしのちょう)夜中(よなか)。])

 小竹宮と呼ばれていたことがあります。大山源吾著『天河への招待』には、「神功皇后は紀伊日高に上陸、紀和国境を越えて、吉野丹生の里、銀峯山小竹宮(シヌ)に入ったと、この地の伝承は伝える。」と記している。吉野とは「よ」+「小竹:しぬ」であると言う。ここにも神功皇后にまつわる伝承が多い。地名の「夜中」も暗くなった名残と言う。

●舊府神社、小竹宮(大阪府和泉市信太[やぶちゃん注:「しのだ」。旧広域地名。ここ。])

 『大阪府全志』には神功皇后縁の小竹宮跡とする。一時、阿部晴明生誕伝説の信太森神社(葛ノ葉稲荷神社)[やぶちゃん注:現在位置は大阪府和泉市葛の葉町(くずのはちょう)。]に合祀されていましたが、境外摂社として元の社殿に祀られています。

 また尾井の西の雨降塚(信太雨降社)として信太森神社の[やぶちゃん注:ママ。]合祀されたようです。

 他には近くに伯太神社[やぶちゃん注:「はかたじんじゃ」。]が鎮座、伯太神社の祭神の中に小竹祝丸、天野祝丸の名が見えるのです。小竹祝、天野祝を祭神とした神社は伯太神社以外には見つかっていません。

 また泉井上神社[やぶちゃん注:「いずみいのうえじんじゃ」。]に小竹神社と呼ばれる末社があるそうです。

   《引用終了》

この内、旧日高郡に属するのは、頭に挙げられてある小竹八幡神社(ここ)と次の志野神社(ここ)である。『祭神の中に小竹祝丸、天野祝丸の名が見え』、『小竹祝、天野祝を祭神とした神社は伯太神社以外には見つかってい』ないとされる伯太神社は、ここであるが、地理的にここを古代の日高に含まれるとするのは、無理がある。しかし、祭神のそれは、明かに本説話に基づくものと考えられよう。また、先に掲げた、難波美緒氏の論文『「阿豆那比の罪」に関する一考察』では、「2、地誌と考古学研究史」の「2―1 比定地について」で、「紀伊続風土記」の記載を引かれた後、

   《引用開始》

 小竹には志野神社が現存しているが、志野神社は、江戸時代に再興されたものが現在に伝わるようで、『紀伊続風土記』にも、一度廃絶されたものとして扱われている。また、小竹については和歌山県御坊市薗に小竹八幡神社があり、ここを宮跡と比定する説がある。字は小竹で同じであるが、『紀伊続風土記』に記載はなく、天野に当たる地名が近くにない。漢字についても、「しの」を「芝努」や「斯奴」という記載が『日本書紀』内に見られる。このため、志野神社が小竹祝の神社の比定地とする方が順当であろう。

 天野は現在の和歌山県伊都郡かつらぎ町大字上天野に比定されている。上天野は平安初期の施行細則をまとめた『延喜式』にも載り、現存する丹生都比売神社が鎮座する場所である。前述した鎌倉時代末期成立の『釈日本紀』でも天野祝の神社を丹生都比売神社に比定している。天野は、著名な丹生都比売神社が存続していることもあり、『紀伊続風土記』巻四八に数十頁にわたり、祭神や祝詞、縁起や代々の祝について記載がある。丹生都比売神社は四神を祀るが、その第二番目の神についての記載にこの神功皇后摂政元年二月条についての言及があり、小竹の項に詳述した旨が記される。『日本書紀』に、神功皇后に質問を受ける立場で登場する紀直祖豊耳[やぶちゃん注:「きのあたいのそとよみみ」。]は、その後天野社の祝となったようで、『紀伊続風土記』巻四八天野社の内、総神主系図第九、及び、丹生都比売神社の神主の系図である『丹生祝氏本系帳』の神主系図にても説明される。豊耳はまた、『紀伊国造系図』に、国造の家系として出現し、その子孫が丹生都比売神社の神主と国造をそれぞれついだという系譜が残る。

   《引用終了》

とされた上で、一五一ページの末に『小竹と天野と薗の位置関係』を示した地図を掲げられ、

   《引用開始》

 小竹と天野の二地点は直線距離で一二〜一三キロメートル、道を考えれば一五キロメートルほどの距離があり、川を挟んで位置する。舟で川下りをすれば一日で移動可能な距離である。また、双方とも神社の前に小さな川が流れており、どちらも最終的には紀ノ川に注ぐ。現在の町村名も異なっており、川を挟んでいることから、小竹と天野は別の共同体にあるそれぞれの神社であった可能性が高いと考えられる。また、『紀伊続風土記』は、地誌という史料の性格上、特に『日本書紀』内の記載事項を考察している訳ではないが、『日本書紀』の小竹と天野が紀伊国のこの地名に比定できる事は採用できるだろう。

   《引用終了》

と述べておられる。この『小竹と天野は別の共同体にあるそれぞれの神社であった可能性が高い』というのは、私が『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 奇異の神罰』で、この話を初読した際の印象と完全に合致するのである。熊楠先生、異変の原因は、男色じゃあ、ないよ!

「晝、くらき事、夜のごとくにして、おほくの日を、經たり」日食現象、及び、大きな火山噴火の噴煙による太陽遮蔽の体験が元とした作話であろう。

「紀直(きのあたい)の祖(そ)、豊耳(とよみゝ)」「あたい」はママ。歴史的仮名遣は「あたひ」が正しい。「紀直」の「直」(あたひ(あたい))は小学館「日本国語大辞典」に、『大化前代、県主(あがたぬし)などの地方豪族に与えられた姓(かばね)の一種。あたえ。あたいえ。』とし、「語誌」で、『⑴五~六世紀と見られる和歌山県隅田八幡宮蔵人物画像鏡銘に「開中費直」とあり、「書紀‐欽明二年七月」に河内直の中に「百済本記」を引用して「加不至費直(内閣本訓あたひ)」が見えるところから、この語は遅くとも六世紀の初めまで遡ることができる。』とし、『⑵「書紀」では普通「直」が用いられるが、法隆寺金堂の四天王像の銘文には「費」ともあり、「続日本紀―神護景雲元年三月乙丑」には「追注凡費。情所ㇾ不ㇾ安。於ㇾ是改為栗凡直」と「費」の字を「直」に改めてほしいとの記述が見える。』とあり、さらに『⑶「書紀」では前田本、北野本など院政期の古訓に「あたひ」「あたひえ」が見られるが、「あたえ(へ)」の確例は時代がずっと下る。最近まで「あたえ」が主に用いられていたのは、あるいは本居宣長「古事記伝」によるものか。』とある。而して、「紀直」は、則ち、「紀伊国造(きいのくにのみやつこ)家」のことである。小学館「日本大百科全書」によれば、「国造本紀」(こくぞうほんぎ)によれば、『神皇産霊尊(かんむすひのみこと)』の五『世孫天道根命(あめのみちねのみこと)に始まる神別氏で、代々日前(ひのくま)・国懸(くにかかす)神社の神主と、名草郡領(なぐさぐんりょう)を世襲した。直(あたい)姓』は、後に『宿禰(すくね)姓』となり、『平安中期』、『紀朝臣(きのあそん)行義が入婿して皇別氏となり、江戸末期』、『飛鳥井三冬(あすかいみふゆ)が養子となって藤原氏となった。明治に至り』、『男爵を授けられた』とある。「豊耳」の名は、ここが最古の初出であり、事績は未詳。

「阿豆那比(あつなひ)の罪」小学館「日本国語大辞典」には、「あずない」で載り、歴史的仮名遣を「あづなひ」とする。名詞で、『語義未詳。同性愛、男色のこととも、氏族の違う二人をいっしょに葬ることともいうとし、本篇の原典「日本書紀」の当該部を引く。さらに、「語源説」の項に、『⑴アヒウヅナヒ(相諾)の意〔仮字拾要〕。⑵ウヅナヒの転〔大言海〕。⑶二人を相合わせて葬った罪で、アツナ(相着行)ヒの義か〔目本語源日賀茂百樹〕。⑷アツは集、ナヒは活用語尾。集まり寄る意で、集合すべきでないものが一所にある穢(けが)れということ。この語はアツラワの形で、「共に」の意としてアイヌ語に残っている〔日本古語大辞典=松岡静雄〕』とする。しかし、難波美緒氏の論文では、この記載に批判的で、『1、「阿豆那比の罪」の語義的研究史』の中で、『『日本国語大辞典』が、『大日本国語辞典』[やぶちゃん注:難波氏の注に、『上田万年・松井簡治『大日本国語辞典』(富山房・金港堂書籍、一九一五)』とある。]の流れをくむことを考えると、合葬説に男色説が付加されるも、一九七〇年代以後に』、『研究成果によって双方共が否定されたため、語義未詳とするしかない状態といえるのではないか』と述べておられる。この研究史の論考部は、特に圧巻の箇所なので、是非、原論文を読まれたい。未だに、ネット上には、本話を男色禁忌の最古の例などとする記載があるが、私は甚だ不適切な誤った認識としか考えない。なお、「近世民間異聞怪談集成」では、「あづなひ」とルビするが、私の底本は明らかに濁点はない(右丁後ろから三行目上方)。古く本邦では濁音(少なくとも表記で)が好まれなかったことを考え、本書が江戸時代のものであっても、内容が神話時代のものである以上、清音で表記すべきだと考える。これは、正本文(評言の前)最後の読み「かゝやき」(同左丁六行目)も同様で、「近世民間異聞怪談集成」は『かゞやき』とするが、私の底本は清音で問題ない。この語は、結構、後の平安時代まで、「かかやく」が普通であったから、なおのことである。

「合葬(あはせはふる)る」ママ。「はふる」は四段動詞であるから、「はふるる」という活用はしない。古文では、しばしば、読み仮名と送り仮名がダブることがあるが、ここの読みの方の「る」は、それと断ずる。なお、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年岩波書店刊黒板勝美編「日本書紀 訓讀」中巻の、ここの右ページ七行目では『葬む』(をさむ)と訓読している。

「棺槨(ひつぎ)」「槨」は音「クワク(カク)」で、墓室内部の棺を保護する物・構造物或いは区画を指す。木槨・石槨・粘土槨・礫槨 ・木炭槨などがある。

「あらため」「改め」。

「所(ところ)を異(こと)にして、埋(うづみ)しかば」万が一、これが男色の禁忌であったり、神意に従わない、神以外の人間或いは人間同士が勝手に決めたいまわしいアンタッチャブルな行為として神罰が下されたととるならば、私はここで、別に分けて新たにそれぞれ別に改葬すること自体が、不審だと思う人間である。神の許さざる行為である以上、それは、滅せられなくてはならない忌まわしい対象であるからである。則ち、少なくとも、それを実行に移してしまった天野の祝の遺体は破棄されるのが、民俗社会の定法と考えるからである。「しかし、時間が経ってしまって、どっちがどっちの遺体かは判らないんじゃないか?」と反論するとなら、それならば、神罰を鎮めるためには、小竹の祝の遺体を含めて、山野に遺棄すべきものであろう。しかし、分けて改葬した結果、天変が治まったからには、これはやはり、異なった産土神に仕える神職を同じ穴(熊楠先生、決して肛門ではありませんぞ!)に葬ったことが禁忌であるというシンプルな真相であり、それ以上、それ以下では、決してない、と私は信ずるものである。

「炳燀(あきらかにし/かゝやき)て」「炳」は音「ヘイ」で、「明らかなさま」或いは「光り輝くさま」を言い、「燀」は、ここでは、音「セン」で、「燃える・火のおこるさま」或いは「盛ん・盛んである」の意で、合わせて、太陽の燃え輝くそれを表わしている。

「別(わいだめ)」「辨別(わいだめ)」。「区別・判別・けじめ」の意。

「紀州志」「南紀名勝志」或いは「紀州名勝志」・「南紀名勝略志」という名で伝わる紀州藩地誌の写本の中の一冊であろう。底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」の「南紀名勝志」を参看したところ、同書の「那賀郡」のここにあった。本篇の内容と同様のものがあって、本篇が引くのは、その最後の部分だけであることが判明した。訓点附きの日本漢文であるので、この際、訓読して電子化する。読みの「/」は本編本文と同じく左右の読み。約物「乄」「ヿ」は正字化し、句読点・記号・濁点や、一部の送り仮名や読みを推定で打った。一度、読みを振った箇所、普通の読みの箇所は、一部を除いて省略した。

   *

   小竹(しぬの/しのゝ)宮

「日本記」巻九に曰はく、神功皇后、南して、詣(いたりま)して紀伊國に、太子と日高に會して、議(はかりこと)を、以つて、群臣に及(およぼし)て、遂に、忍熊王を(をしぐまわう)を攻めんと欲して更に小竹(しぬの/しのゝ)宮に遷(うつ)る【「小竹」、此(ここ)には、之れを妨(さまたげ)ると云ふ。】。是の時、適(おもむ)きてや、晝、暗きこと、夜のごとし。已に多くの日を經(ふ)。時の人、「常夜(とこやみ)、行く。」と云へり。之れや、皇后、紀の直の祖、豊耳に問ひて曰はく、「是れ、恠(しるまし)[やぶちゃん注:「奇怪な前兆・不吉な前触れ」の意の上代語。]、何の由(ゆゑ)ぞ。」と。時に

一(ひとり)の老父(おきな)有りて、曰はく、「傳聞(つて に きく/つたへきく)、是々のごとき恠をば、『阿豆那比の罪』と謂ふなり。」と。問ふ、「何(なに)の謂ひぞや。」と。對(こた)へて曰はく、「二社の祝(ほふり)、共に合葬か。」と。因りて、以つて、推(と)はしむ。問ふに、巷里(むら)に、一人、有り、曰はく、「小竹(しぬの/しのゝ)祝、天野の祝と共に善友(うるはしきとも)たり。小竹の祝、逢病(やまひ)して、死す。之れ、天野の祝、血泣(いさ)ちて、曰はく、「吾や、生きし時に、交友たりき。何の死して、穴を同じくすること、無(な)けんや。」と云ひて、屍(かばね)の側(そば)に伏して、自死す。仍(よ)りて、合葬す。蓋し、之れか。」と。乃(すなは)ち、墓を開き、之を視れば、實(まこと)なり。故に、更(また)、棺櫬[やぶちゃん注:「櫬」は「柩(ひつぎ)」の意。読みは振られていないので、二字で「ひつぎ」と読んでおく。]を改めて、處を異にして、以、之れを埋む。則ち、日暉(ひのひかり)、炳爃(てり)て、日夜、別(わきだめ)、有り云〻。

小竹の宮、今、尋(たづ)ぬるに、なし。志野村の中(うち)に社あり、「あつまやの御前」と云ふ。小社なり。側(かたは)らに、寺、あり、「神宮寺」と号す。此所、山伏の行所(ぎやうしよ)たるよし。是れ、昔しの「小竹宮」か。詳からならず。

   *

これを見るに、本書の著者は、「日本書紀」の原文に当たらず、以上を表記を変えて写しただけのように思われる。なお、同じ「新日本古典籍総合データベース」の「紀州名勝志」では、同書の「附録」のここに、やや似た条があった。朱点の内、読点のみ採用した。

   *

  小竹(しのゝ)宮 那賀郡

日本紀載神功皇后行幸此、按志野庄志野村中有小祠、其傍有寺、名神宮寺或其地也歟、

   *

「那賀(なか)郡」旧称は「なが」(「奈我」)で、ここは現行では漢字表記からも、「なが」と読むべきであろう。紀伊国及び和歌山県にあった郡。郡域は当該ウィキを参照されたい。旧地名はこの附近の施設に散見される。難波氏が小竹宮があったとする位置に極めて近い。

「あづまやの御前」東屋御前弁財天の宮として現存する。

「神宮寺」現存しない模様。神宮寺は大方、廃仏毀釈で廃されてしまった。

「むかしの『小竹宮』歟(か)」位置的に、この近くであることは疑いようがない。]

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