大和怪異記 卷之二 第四 鵺が執心馬となつて賴政に讐をなす事
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、以降では、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]
第四 鵺(ぬえ)が執心《しふしん》馬となつて賴政に讐(あた)をなす事
源三位賴政、化鳥(けてう)を禁庭(きんてい)に射る。
其鳥(とり)、化(くは)して良馬となつて、賴政が方(かた)あり。
賴政、及《および》、其子仲綱、此馬を愛し、名付(なづけ)て「木下(このした)」と云《いふ》。
平宗盛、「木下」を仲綱に、こふ。
仲綱、おしみて[やぶちゃん注:ママ。]あたえず。
つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、馬故に、宗盛が爲に、ころさる。
「木下」、此宿怨を、むくゐて後[やぶちゃん注:ママ。]、斃《たふ》る。
時の人、これを「うづみ神」と、いはふ。
今の洛陽の「木嶋明神(このしま《みやうじん》)」」なり。「常陸志」
[やぶちゃん注:原拠「常陸志」が同定できず、また、常陸の地誌に頼政を繋げるものも、私にはよく判らない。ネットで判ったことは、wata氏のサイト「茨城見聞録」の『【まとめ】源三位頼政の伝説【源頼政】』に、「茨城にも来ていた?」という条があり、『確実ではないものの頼政公は茨城に来ていた可能性があります』。『頼政公の父・源仲政(なかまさ)は下総守でした。下総は常陸国(いまの茨城)の南と南西部の辺り。どうやら父について兄の頼行(よりゆき)と共に下総国まで来ていたようなんです』。『兄弟揃って「東国」の和歌を詠んでいるんですが、頼政公には信太の浮島(いまの稲敷市)の和歌もあるんです』。『あきさゐる 海上潟を見渡せば 霞にうかぶ信太の浮島』[やぶちゃん注:これは「源三位頼政集」の九にあり、読みは「あきさゐるうなかみがたをみわたせばかすみにまがふしだのうきしま」である。]
『下総から浮島は比較的近くです。浮島では歴史人物がいくつも歌を残していますから、昔はちょっとした観光地だったかもしれませんね』とある。彼が実際に東国に行ったかどうかは確認出来なかったが、今回、原拠を探すために、複数の新旧の常陸地誌を縦覧した際、そもそも「茨城郡」がそこに所収されていたから、まず、この常陸との違和感は緩んだ。さらに、サイト「妖怪検索」の「鵺」の記載ページに、「続日本妖怪大全」からの引用として、頼政の鵺退治を扱った謡曲「鵺」の梗概を記した後に、
《引用開始》
現在、大阪府都島区都島町3丁目の商店街の一角に、〈鵺〉の死体を埋葬したという《鵺塚》がある。京より頼政によって空舟(うつぼぶね)に乗せられ、淀川を流れて、この近くに漂着したからである。[やぶちゃん注:注記略。]
源三位頼政による『鵺退治』の話は『平家物語』『源平盛衰記』などに詳しく、当時から有名な話であったらしい。それが世阿弥の謡曲により、さらに知られるところとなった。謡曲では歌や掛け詞を交えながら、〈鵺〉の未練や悲哀を見事に表現している[やぶちゃん注:注記略。]。
〈鵺〉の亡骸を入れて淀川に流したという《空舟》は丸太をくりぬいて造られた船で、魂を封じ込めることができると伝えられる。しかし、この空舟が流れ着いた蘆の郷では病気が蔓延し、〈鵺〉の祟りと恐れられた。そこで築かれたのが《鵺塚》であるという。
こうした〈鵺〉の怨霊が、源三位頼政自身に祟ったという伝承が『常陸志』にあり、『大語園_7』に収められている。
この伝承によると、〈鵺〉の怨霊は良馬と化し、頼政の家に飼われたという。頼政も息子の仲綱もこの馬をかわいがり、《木下(このした)》という名前まで付けられた。
ところがこの馬に、平家の大将である宗盛が目をつけ、盛んに仲綱に所望した。仲綱は何度も断り、このことをきっかけに源氏の中で唯一、平氏政権内部にとどまっていた頼政父子と平家との関係が悪化し、やがて頼政は挙兵し宇治平等院での討ち死にに至る。《木下》は宿怨を晴らしたことを確認した後に倒れ、土地の人はこの馬を埋めて神として祀った。木馬明神とよばれ、崇められたという。
《引用終了》
とあった。喜び勇んで、巖谷小波の「大語園」を探したが、国立国会図書館デジタルコレクションのそれは公開になっていないので、糸口が断たれた。最早、これまで、である。因みに、この話、「柴田宵曲 續妖異博物館 化鳥退治」の引用注で、一度、出しており、知ってはいた。因みに、本篇は余りに知られた対象が多いので、注はごく一部に留めた。
「仲綱」(大治元(一一二六)年?~治承四年五月二十六日(一一八〇年六月二十日)は頼政の嫡男。父と同じく平等院で自害した。詳しい事績は参照した当該ウィキを見られたい。序でに、父頼政のそれもリンクしておく。
「うづみ神」「埋み神」で御霊信仰であろう。
『洛陽の「木嶋明神(このしま)」』「木嶋(このしま)」となると、「蚕(かいこ)の社(やしろ)」として知られる、京都市右京区太秦森ケ東町(うずまさもりがひがしちょう)にある木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)が知られるが、この神社は鵺とは関係がないようである。京都市上京区主税町(しゅぜいちょう)に鵺大明神はある。但し、これは昭和六(一九三一)年の建立である。しかし、サイト「シティリビングWeb」の「京都の魔界スポット」には、『頼政の矢が刺さった鵺は、恐ろしい声を発し、現在の二条城の北あたりに落ちたとか。その鵺を退治した矢じりについた血を洗った池が、二条公園の中に “鵺池” として現在も残されています』とは、ある。因みに、その記事の真上に、偶然だろうが、木嶋坐天照御魂神社の「三本柱の鳥居」が載っている。いやいや、或いは、これも因縁か?]
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