大和怪異記 卷之二 第七 一條兼良公御元服のとき怪異ある事
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]
第七 一條兼良(かねよし)公御元服(《ご》げんぶく)のとき怪異ある事
一條兼良公、十二歲にならせ給ひ、御元服有《あり》しとき、虛空(こくう)に、ものゝ聲して、
さるのかしらにゑぼしきせけり
と、きこえしかば、其まゝ、緣にはしり出《いだ》させ給ひて、
元服はひつじの時のかたふきて
と、つけさせ給ひし、となり。
此君の御かほ、猿に似たまへる故とぞ。
おさなくわたらせ給ふときより、御才智、他にすぐれ、博識にして、あらはし給ふ書、おほし。「犬著聞」
[やぶちゃん注:原拠は「犬著聞集」が正しい。本書は既に前話の冒頭で注済み。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、前話の最後で示した同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていない。
「一條兼良(かねよし)公、十二歲にならせ給ひ、御元服有《あり》しとき」「一條兼良」(応永九(一四〇二)年~文明一三(一四八一)年)は室町前期から後期にかけての公卿で古典学者。名は「かねら」とも読む(私は一貫して「かねら」と読み慣わしてきた)。関白左大臣一条経嗣の六男で、一条家八代当主。最終官位は従一位で、摂政・関白・太政大臣・准三宮。但し、当該ウィキ(引用符内はこちらのもの)、及び、信頼出来るネット上の「一条兼良略年譜」(PDF)でも、正長二(一四二九)年、二十八歳で『左大臣に任ぜられるが、実権は従兄弟の二条持基に握られて』おり、永享四(一四三二)年八月十三日には『摂政となったが』、『月余で』(後者によれば、十月二十七日)『辞退に追い込まれ、同時に左大臣も辞職を余儀なくされる』(後者によれば、摂政辞任の前の八月二十八日)。『その背景には』、『同年に実施された後花園天皇の元服を巡る』、『兼良と二条持基の対立があった』。嘗つて、『後小松天皇の元服の際に、摂政の二条良基が加冠役』を、『将軍の足利義満(左大臣)が理髪役を務めた。後花園天皇の元服を後小松天皇の先例に倣って実施しようとした際に、二条家の摂政が加冠役』、『足利将軍が左大臣として理髪役を務めるべきとする主張が出され、兼良は摂政を持基に、左大臣を足利義教に譲』らざるを得ない状況へ追い込まれのであった、とある。『その後は』政治的に『不遇をかこったが、学者としての名声は高ま』った。『将軍家の歌道などに参与し』、古典・有職故実・神道・和歌に通じていたため、周囲からも「日本無双の才人」と評され、自身も「菅原道真以上の学者」と豪語しただけあって、「公事根源」・「桃華蘂葉」・「樵談治要」・「文明一統記」・「花鳥余情」・「日本書紀纂疏」や、複数の「源氏物語」注釈書など、著書も多い。さて、当該ウィキによれば、応永一九(一四一二)年、『病弱であった兄の権大納言・経輔が隠居した後を受け、元服して家督を継ぐ』とあり、生年を見て貰うと、本篇の「十二歳」というのは、「十一歲」でないとおかしいことが判る。前掲「一条兼良略年譜」でも、『応永十九(一四一二)』の数え十一歳の十一月二十八日に『元服、禁色・昇殿を聴』(ゆる)『され、正五位下い叙せらる(補任』(「公卿補任」)『・一条家譜)』とあるので、誤りである。因みに、応永十九年十一月二十八日はユリウス暦でギリギリの一四一二年である(グレゴリオ暦換算では翌一四一三年一月九日となる)。
「さるのかしらにゑぼしきせけり」「元服はひつじの時のかたふきて」南方熊楠の知られた『十二支考』の内の「猴に関する民俗と伝説」の「一 概言(1)」(大正九(一九二〇)年一月発行『太陽』初出)のまさに冒頭の枕として本話を洒落て引き、
*
一条摂政兼良公の顔は猿によく似ておった。十三歳で元服する時、虚空に怪しき声して「猿のかしらに烏帽子(えぼし)きせけり」と聞こえると、公たちまち縁の方へ走り出でて「元服は未(ひつじ)の時の傾きて」と付けたそうだ。予が本誌へ書きかけた羊の話も、例の生活問題など騒々しさに打ち紛れて当世流行の怠業中、未の歳も傾いて申(さる)の年が迫るにつき、猴(さる)の話を書けと博文館からも読者からも勧めらるるまま今度は怠業の起らぬよう手短く読切りとして差し上ぐる。
*
と述べている(所持する平凡社「南方熊楠選集」第二巻(一九八四年刊)に拠った)。未の刻は午後二時前後、申の頭(「かしら」)は午後三時である。怪しの響きが虚空から齎したいまわしい前句の意の即物性を、完璧に時刻へと転じて封じ込め、自らの元服の言祝ぎへとメタモルフォーゼさせた手腕は、凡そ現在の普通の中学一年生には無理であろう。作り話ながら、面白い。]
« 大和怪異記 卷之二 第六 吉田兼好が墓をあばきてたゝり有事 | トップページ | 大和怪異記 卷之二 第八 石塔人にばけて子をうむ事 »