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2022/11/23

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 米糞上人の事

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は全体が一字下げなので、それを再現するために、ブラウザの不具合を考えて、一行字数を少なくしておいた。今まで通り、後に〔 〕で推定訓読文を添えた。

 なお、底本では標題下に「同前」とあるが、これは冒頭の本文が前話と同じ大正二(一九一三)年五月『民俗』第一年第一報所収であることを言う。

 標題「米糞上人」は引用の「日本文徳天皇実録」の訓点から「べいふんしやうにん」と読んでおく。] 

 

      米糞上人の話 (大正二年五月『民俗』一年一報)

 

 明治四十一年六月の『早稻田文學』六三―四頁に、予此話に就き說く所有り。略記せんに云く、「文德實錄」に之を齊衡元年の事實として、

 六月乙巳、備前國貢一伊蒲塞、斷ㇾ穀不ㇾ
 食、有ㇾ勅安置神泉苑、男女雲會、觀者
 架ㇾ肩、市里爲ㇾ之空、數日之間、遍於天
 下、呼爲聖人、各々私願伊蒲塞、仍
 有許諾、婦人之類、莫ㇾ不眩惑奔咽
 後月餘日、或云、伊蒲塞、夜人定後、以ㇾ水
 飮送數升米、天曉如ㇾ廁、有ㇾ人窺ㇾ之、
 米糞如ㇾ積、由ㇾ是、聲價應ㇾ時減折、兒婦
 人猶謂之米糞聖人

〔六月乙巳(きのとみ)、備前の國より、一(ひとり)の伊蒲塞(いふそく)[やぶちゃん注:「優婆塞(うばそく)」に同じ。僧。]を貢(かう)す。「穀を斷ちて、食らはず。」と。勅、有り、神泉苑に安-置(おら)しむ。男女(なんいよ)、雲のごとく、會(あつ)まり、觀(み)る者、肩に架(の)る。市-里(まち)、之れが爲めに空(むな)し、數日(すじつ)の間に天下に遍(あまね)し。呼んで「聖人」と爲(な)す。各々、竊(ひそか)に伊蒲塞に願ひ、仍(よ)つて許諾する有り。婦人の類(たぐゐ)、眩惑し、奔咽(ほんいん)せざるなし。後(のち)、月の餘日(よじつ)、或(あるひと)云はく、「伊蒲塞は、夜(よる)、人(ひと)定(しづ)まりたる後、水を以つて、升の米(こめ)を飮み送(くだ)し、天(てん)の曉(あ)くるとき、厠(かやは)に如(ゆ)く。人、有りて、之れを窺(うかが)ひしに、米糞(へいふん)、積むがごとし。」と。是れに由りて、聲價(せいか)、時に應じて、減折(めつせつ)す。兒(こ)と婦人、猶ほ、之れを「米糞聖人」と謂へり。〕

と錄せり。イタリア人ヨサファ・バーバロの紀行(上記「無眠、一眼、二眼」に引けり)一一一頁に云く、『爰に囘敎の一聖人あり。野獸の如く裸行說法し、民の信仰厚く、庸衆、羣集追隨す。聖人、尙、以て足れりとせず、公言すらく、「一密室に入定し、四十日、斷食して、出《いづ》るに及び、よく、心身、異狀なからん。」と。仍《よつ》て此邊にて、石灰を作るに用ふる石を、林中に運ばせ、圓廬(ゑんろ)を構へて入定す。四十日後、出來《いできた》るを見るに、心身、安泰なれば、皆、驚嘆す。一人、細心にして、廬傍の一處、肉臭を放つを感知し、地を發掘して、積粮《せきらう》を見出す。事、官《くわん》に聞え、聖人、獄に繫《つなが》る。一弟子、又、囚《とら》へられ、拷問を重ねざるに、自白しけるは、「廬の壁を穿ちて、一管を通し、夜中、私《ひそ》かに滋養品を送り入れし也、と。是に於て、師弟併《あは》せ、誅せらる。賣僧、種々の方便もて、人を欺く事、古今諸國、例《ためし》多ければ、本邦と裏海《カスピかい》地方に、此《この》酷似せる二話有るは偶合ならん。「實錄」に日附をすら明記したれば、多少の事實は有りしなるべし。馬琴の「昔語質屋庫」末段に、見臺先生、次の夜の會合に演《の》べらるべき題號を拳ぐる中に、この聖人のことあれば、曲亭、多分、「實錄」と「宇治拾遺」の外にも、之に似たる東洋の古話を、若干、集置《あつめおき》たりつらめ、その續篇、版行無くて、其考、世に出でざりしは遺憾也。

[やぶちゃん注:「明治四十一年六月の『早稻田文學』六三―四頁に、予此話に就き說く所有り」前回と同じく「Googleブックス」のこちら以降で、原雑誌画像を視認して、以下に初出形そのままを示す。二重右傍線は太字とした。

   *

第一 米糞聖人の話、文德實錄に、之を齊衡元年の事實として、六月乙巳、備前より此伊蒲塞を貢せし由を記せり、伊太利人ヨサフアバーバロの、一四三六より十六年間に涉れるタナ紀行(Viaggio di M. Iosafa Barbaro alla Tana,’ in Ramusio, vol.ii. p. 111.)に曰く、「爰に回敎の一聖人あり、野獸の如く裸にして行き[やぶちゃん注:「ありき」。]ながら說法し、民の信仰厚ければ、庸衆羣集して追隨す、聖人尙以て足れりとせず、公言すらく、密室に入定し、斷食四十日して、出ずるに及び能く精神健かに、身體聊も恙無らんと、仍て此邊にて石灰を製するに用る石を林中に運ばせ、一圓盧を構へて入定す、四十日の後、出來るを見るに、心身安泰なりければ、僉な[やぶちゃん注:「みな」。]驚嘆す、一人細心にして、廬傍の一處、肉臭の氣を放つを齅[やぶちゃん注:「かぎ」。]知り、地を發掘して積粮を見る、事[やぶちゃん注:「こと」。]官に聞し、聖人獄に繋がる、一弟子又囚へられ、拷問を重ねざるに自白すらく、盧の壁を穿て一管を通じ、夜中竊に滋養品を送り入れし也と、是に於て師弟併せて誅せらる」と、諸國に賣僧[やぶちゃん注:「まいす」。]が種々の方法を以て人を欺くこと、古今例多ければ、本邦と裏海[やぶちゃん注:「カスピかい」。]地方に、此相似たる二話有るは偶合ならん、實錄に日附をすら明記したれば、多少所據とする事實は有しなるべし、但し、馬琴の質屋庫末段に、見臺先生明夜の會合に論ずべき題號を擧る中に、米糞聖人の事あれば、曲亭は多分實錄と宇治拾遺の外より、之に似たる、日本若くは支那印度の古話を若干集め置たりしならんが、質屋庫の續編版行無りし故、其考は世に出ずして已みたるにや。

   *

「文德實錄」「日本文德天皇實錄」(にほんもんとくてんのうじつろく)の略称。勅撰の歴史書で全十巻。六国史の一つ。嘉祥三(八五〇)年から天安二(八五八)年までの文徳天皇の在位の一代の歴史を編年体に記したもの。藤原基経らが、貞観一三(八七一)年に文徳の次代の清和天皇の勅により、撰集が開始されたものの、一時、中止された。後、元慶二(八七八)年に清和の次代の陽成天皇の勅によって再開され、翌年に完成した。本書は以前の史書に比べ、薨卒伝(こうしゅつでん:令制で「薨」は親王と三位以上、「卒」は四位・五位と諸王の逝去することを指す)が豊かで、これは、律令体制の解体期に、古代国家再編に努めた人物群の伝記によって、当代と将来の範としたものと考えられている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。さて、後者「日本文徳天皇実録」の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、巻一のここである(出雲寺和泉掾の宝永六 (一七〇九)年出版になるもの)ので、それで本文を校合し、訓点附きなので、それも参考にして訓読文を作った。

「馬琴の質屋庫」「昔語質屋庫」(むかしがたりしちやのくら)は小説仕立ての考証随筆。その初編末尾の広告に(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の文化七(一八一〇)年の後刷原本の画像)、確かに『○崇德院(しゆとくゐん)天狗(てんぐ)の爪取剪(つめとりはさみ) ○鎌倉時代(かまくらじだい)の上下(かみしも) ○米糞上人(べいふんしやうにん)の乞食袋(こじきふくろ)右初編總目録(しよへんそうもくろく)に載(の)せるといへども巻数(かんすう)既(すで)にかぎりあれば釐(さい)て次編(じへん)の首巻(しゆくわん)に入(い)れたり』とあるものの、後に並ぶ「中編五册」も「同後篇五册」も全く刊行されなかった。

「イタリア人ヨサファ・バーバロの紀行(上記「無眠、一眼、二眼」に引けり)」そちらで注済み。]

 此拙考、『早稻田文學』に載せられて後、印度、亦、此類話有るを知れり。龍樹大士の「大智度論」卷十六(鳩摩羅什譯)に、釋迦佛、前身、大國王の太子たり。父王の梵志師、五穀を食《くらは》ずと詐《いつは》り、一同、尊信す。太子、之を信ぜず。林間に至り、其住處を探り、林中の牧牛人より、「梵志師、夜中、少しく酥(ちゝ)を服して、活《いく》る。」と聞き知り、宮に還りて、種々の瀉下劑を以て、靑蓮花を薰じ置く。明旦、梵志、宮に入り、王の側に坐するを見、太子、此花を、自ら彼に奉りけるに、梵志、『是迄、此太子のみ、我を敬せざりしに、今こそ歸伏したれ。』とて、大《おほい》に喜び、花を嗅ぐに、藥氣、腹に入り、瀉下を催す事、頗る急なり。因て、厠に趨《おもむ》かんとするを、太子、「物食《くら》はぬ者、何の譯《わけ》有つて、厠に向ふぞ。」とて、捉へて放たず。梵志、耐《たふ》る能《あた》はず、王の邊りに嘔吐す。之を見るに、純(もつば)ら酥也。王と夫人と、乃《すなは》ち、其詐りを知る、と出でたる也。

[やぶちゃん注:以上の『「大智度論」卷十六(鳩摩羅什譯)』の当該部を「大蔵経データベース」から引く。一部の漢字を正字化した。

   *

宿世爲大國王太子。父王有梵志師不食五穀。衆人敬信以爲奇特。太子思惟人有四體必資五穀。而此人不食必是曲取人心非眞法也。父母告子此人精進不食五穀是世希有。汝何愚甚而不敬之。太子答言。願小留意。此人不久證驗自出。是時太子求其住處至林樹間。問林中牧牛人。此人何所食噉。牧牛者答言。此人夜中少多服酥以自全命。太子知已還宮欲出其證驗。卽以種種諸下藥草熏靑蓮華。淸旦梵志入宮坐王邊。太子手執此花來供養之拜已授與。梵志歡喜自念。王及夫人内外大小皆服事我。唯太子不見敬信。今日以好華供養甚善無量。得此好華敬所來處。擧以向鼻嗅之。華中藥氣入腹。須臾腹内藥作欲求下處。太子言。梵志不食何緣向厠。急捉之須臾便吐王邊。吐中純酥。證驗現已。王與夫人乃知其詐。

   *]

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