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2022/11/03

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 盜人灰を食ひし話

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 盜人灰を食ひし話

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 なお、ここから暫くは比較的短い「話俗隨筆」パートとなる。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は直後に、「選集」を参考にしつつ、〔 〕で推定で訓読文を附した。

 標題は「盜人(ぬすびと)、灰(はひ)を食(く)ひし話」。] 

 

    話 俗 隨 筆

 

     盜人灰を食ひし話 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 

 鴨の長明の「發心集」卷八に云く、『或人、語りて曰く、「唐土に御門《みかど》坐《おは》しけり。夜更《よふけ》て、燈火《ともしび》、壁に背《そむ》けつゝ、寢所に入りて座《ま》しますほどに、火の影に、かげろふ物あり。怪《あやし》くて、寢入りたるさまにて、よく見給へば、盜人なるべし。此處彼處《ここかしこ》に步《あり》きて、御寶物《おんたからもの》、御衣《ぎよい》など取りて、大《おほき》なる袋に入《いれ》てけり。尤《いと》むくつけなく思《おぼ》されて、いとど息音《いきおと》も仕玉《したま》はず。斯《かか》る間、此盜人、御側《おんかたはら》に、藥、合《あは》せんとて、灰を燒置《やきおか》れたりけるを見て、左右《さう》なく摑み食《くら》ふ。『糸怪し。』と見給ふ程に、と計《ばか》り有《あり》て、打案《うちあん》じて、此袋なる物共、取出《とりいで》て、皆、元の如く置《おき》て、頓《やが》て出《いで》なむとす。其時、御門、尤《いと》心得がたく思して、「汝は何者ぞ。いかにも、人の物を取《とり》ぬ。然るを、又、いかなる心にて返し置くぞ。」と、のたまふ。申《まをし》て曰く、「我は某《なにがし》と申《まをし》候ひし大臣が子也。幼くて、父に罷り後《おく》れて後、絕えて世に在るべきたつきも侍らず、去迚《さりとて》も、今更に人の奴《やつこ》と成《なら》ん事も、親の爲《ため》、心憂く思ひ、構へて、念じ過《すご》し侍りしかど、今は、命、生《い》くべき謀《はかりごと》も侍らねば、『盜人をこそ仕《つかまつ》らめ、』と覺えて侍るに、取《とり》て、並々の人の物は、主《ぬし》の歎き深く、取得《とりえ》て侍るに付《つけ》て、物淸《ものぎよ》くも覺え侍らねば、忝《かたじけな》くも、斯《かく》參りて、先《まづ》、物の欲《ほし》く侍りつる儘に、灰を置れて侍りけるを、『去《さる》べき物に社(こそ)。』と思ひて、之をたべつる程に、物の欲《ほし》さ、直《なほ》りて後、灰にて侍りける事を、始《はじめ》て了《さと》り侍れば、責《せめ》ては、かようのものをも、食し侍りぬべ可《か》りけり。『由なき心を起《おこ》し侍りける物哉。』と、悔しく思ひ構へて。」となん、申す。帝、具《つぶ》さに此事を聞給ひて、御淚を流され、感じさせ給ふ。「汝は、盜人なれども、賢者也。心の底、潔し、我、王位に在れど共、愚者と云可《いふ》べし、空しく忠臣の跡を失へり。早く罷歸候へ。明日、召出《めしいだ》し、父の跡を興《おこ》さしめん。」と仰《おほせ》られければ、盜人、泣々《なくなく》、出《いで》にけり。其後、本意の如く仕え奉りて、卽ち、父の跡をなん、傳へたりける」云々』。

[やぶちゃん注:鴨長明(久寿二(一一五五)年~建保四(一二一六)年)の仏教説話集「發心集」は晩年の編著で、亡くなる前年の成立かとされる。熊楠が引用したのは、第八の「三 仁和寺西尾の上人、我執に依つて身を燒く事」の中の長明の終りの評言に置かれた挿入話である。テクストは所持する『新潮日本古典集成』で校合した(脱字があった)。本篇の最後で熊楠も述べているが、新潮三木紀人氏の注によれば、この話は後の伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集「古今著聞集」(原形は建長六(一二五四)年頃の成立か)の巻十二の「偸盗第十九」の中にある「偸盗、空腹に堪へず、灰を喰ひて惡心を翻へす事」と類似するとあり、その後に熊楠の本篇の説を挙げて、『『大荘厳論経』六の説話を典拠とするかという』とある。当該話は、「やたがらすナビ」の宮内庁書陵部本「古今著聞集」のこれである(新字体電子化)。そこでは本邦の話としているようで、主人も盗人も匿名で、地位其の他も示されていない。灰も薬剤調合用(漢方では生薬を熱した灰の上で転ばすことがある)ではなく、また、盗人は空腹のあまり、鉢に入れ置いた灰を「麥の粉(こ)」(これは以下に見る原話に同じ)と誤認して食うという展開となっている。但し、明かに酷似する譚で、同源であることは疑いようがない。

「奴」人の使用人。

「並々の人」世間一般の庶民。]

 馬鳴《めみやう》菩薩の『大莊嚴經論』(鳩摩羅什譯)卷六に、諸欲求利者、或得或不得、有眞善心者、不求自得利、實無眞善心者、爲得貪利故、應作眞善心、我昔曾聞、有一國王、時輔相子、其父早喪、其子幼稚、未任紹繼、錢財已盡、無人通致可得見王、窮苦自活、遂漸長大、有輔相才、理民斷事、一切善知、年向成立、盛壯之時、形體姝大、勇猛大力、才藝備具、作是思惟、我今貧窮、當何所作、又復不能作諸賤業、今我無福、何所有、才藝不得施行、復不生於下賤之家、又聞他說是偈言、

   業來變化我 窮困乃如是

   父母之家業 今無施用處

   下賤所作業 非我所宜作

   若我無福業 應生下賤家

   生處雖復貴 困苦乃如是

   賤業極易知 然我所不能

   當作私竊業 使人都不知

   正有作賊業 覆隱人不覺

   腰繫二箭筒 幷持鋼利劍

   縛𨄔手秉弓 種種自莊嚴

   喩如師子兒 都無有所畏 (以上、泥棒の讃也)

說是偈已、作是思惟、設劫餘處、或令他貧、我當劫王(俗書『眞書太閤記』に石川五右衞門の立志を說くに似たり)、作是念已、至王宮中、詣王臥處、王覺有賊、怖不敢語、持王衣服幷諸瓔珞、取安一處、時王頭邊、有一器水、邊復有灰、飢渴所逼、謂灰是麨、和水而飮、飮已飽滿、乃知是灰、卽自思惟、灰猶可食、况其餘物、我寧食草、何用作賊、先父以來不爲此業、卽棄諸物、還來歸家、王見空出、歎言善哉、卽喚其人、而語之言、汝今何故、既取此物、還置於地而便空去、白言、大王聽我所說。〔諸々(もろもろ)の利を求めんと欲する者、或る者は得、或る者は得ず。眞の善心有る者は、求めずして、自づから利を得。實(じつ)に眞の善心無き者は、利を貪るを得んが爲めの故に、應(まさ)に眞の善心を作(おこ)すべし。我、昔、曾つて聞く、「一(ひとり)の國王有り。時に輔相(ほしやう)の子、其の父を早く喪ふ。其の子、幼稚(をさな)くして、未だ紹繼(あとをつ)ぐに任(た)へず。錢財、已に盡き、王に見(まみ)ゆるを得べき通致(とりも)つ人も、無し。窮苦して自活し、遂に漸(やうや)く長大す。輔相の才有りて、民を理(をさ)め、事を斷じ、一切を善(よ)く知れり。年(よはひ)、成立(せいじん)に向かひ、盛壯の時、形體も姝(みめよ)く大きく、勇猛大力にして、才藝、備-具(そな)はれり。是れ、思惟をなすらく、『我、今、貧窮にして、當(はた)、何の作す所ぞ。又、諸々の賤業をも作(な)す能はず。我、今、福、無くして、有る所の才藝を施行するを得ず。復(また)、下賤の家にも生まれず。』と。又、他(かれ)の是の偈(げ)を說きて言ふを聞くに、

 業(ごふ) 來つて 我を變化(へんげ)し

 窮困すること 乃(すなは)ち 是(か)くのごとし

 父母(ぶも)の家業は

 今 施用(せよう)せん處(すべ)なく

 下賤の所作(なすところ)の業(わざ)は

 我れ 宜(よろ)しく作(な)すべき所に非ず

 若(も)し 我に福業無ければ

 應(まさ)に 下賤の家に生まるべし

 生まれし處は 貴(とふと)しと雖も

 困苦すること 乃ち 是くのごとし

 賤業は 極めて知り易きも

 然(いか)も 我れ 能(よ)くせざる所たり

 當(まさ)に 私(ひそ)かなる竊業(ぬすみ)を作(な)し

 人をして 都(みな) 知らざらしむべし

 正(まさ)に 賊業(ぞくぎやう)を作す有るのみ

 覆ひ陰(かく)さば 人は 覺(さと)らざらん

 腰に 二つの箭筒(やづつ)を繋げ

 幷(あは)せて 鋼(はがね)の利劍を持(じ)し

 𨄔(はぎ)を縛(ばく)して 手に弓を秉(と)り

 種種(しゆじゆ) 自(おのづか)ら莊嚴(よそほ)へば

 喩へば 師子(しし)の兒(こ)のごとく

 都(すべ)て 畏るる所 有る無し(以上、泥棒の讃なり)

是(こ)の偈を說き已(をは)て、是の思惟を作(な)すらく、『設(も)し、餘處(よそ)を劫(おびや)かさんには、或いは他(かれ)をして貧ならしめん。我は當(まさ)に王を劫かすべし(俗書『眞書太閤記』に石川五右衞門の立志を說くに似たり)。是の念をなし已(をは)り、王宮の中に至り、王の臥(ふ)せる處に詣(まゐ)る。王、賊の有るを覺(さと)るも、怖れて、敢へて語(ものい)はず。王の衣服幷びに諸々の瓔珞(やうらく)を持ち、取りて、一處に安(お)く。時に、王の頭(かうべ)の邊りに一器の水有り、邊(かたへ)に、復(また)、灰、有り。飢渴の逼(せま)る所、灰を、『是れ、麨《はつたいこ》なり。』と謂(おも)ひ、水に和して、飮む。飮み已りて、飽滿し、乃(すなは)ち、是れ、灰なることを知れり。卽ち、自づから思惟すらく、『灰すら、猶ほ、食らふべし、况(いはん)や、その餘(よ)の物をや。我は、寧ろ、草を食らはん。何を用(も)つて賊を作(な)さんや。先父以來、此の業を爲(な)さず。』と。卽(ただ)ちに、諸物を棄て、還り來たりて、家に歸らんとす。王、空(むな)しくして出づるを見て、歎じて言ふ。「善(よ)きかな。」と。卽(ただ)ちに、其の人を喚(よ)んで、之れに語りて言はく、「汝、今、何故に、既に此の物を取るも、還(ま)た、地に置き、而して便(すなは)ち、空しくして去るや。」と。白(まを)して言はく、「大王、我が言ふ所の說を聽け。」と。〕とて、如上《によじやう》の次第を、偈(げ)で說きしに、王、感じ、用ひて、輔相とせり、と載《のせ》たり。

[やぶちゃん注:以上の漢文は中文サイト「CBETA 漢文大藏經」の「大莊嚴論經」「第六卷」の電子化されたそれと校合した(誤字・脱字があった)。「偈」の部分は底本では六段組みであるが、ブラウザの不具合を考え、二段組みとし、訓読では一段とした。なお、リンク先を見て戴くと判る通り、最後の王に直接に読み上げた「偈」は、また、別にあり、さらにそれを聴いた王が感銘して、偈を述べ、その中で彼を輔相(王の補佐役)となすという詞章が出るのである。]

 此の印度話を唐土の事と心得て、或人が長明に語れる也。

 『古今著聞集』には、或所に盜人《ぬすびと》入りて、鉢に入たる灰を食ひて後、袋に竊《ぬす》み納《い》れたる物を、本の如く、置て歸る所を、主人待設《まちまう》けて搦《から》めたり。其擧動を怪しみ、尋ねければ、盜人、仔細を述べ、『灰を食ひても餓《うゑ》を治《いや》すべし。』と思ひ、取る所の物を本に復《かへ》せしといふ。主人、哀れに思ひ、物取らせて、返し、『「後々も、詮盡《せんつき》ん時は、憚らず、來て、言へ。」とて、常にとぶらいけり。』と、日本、其頃の事の樣に書けり。

 

追 加 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 前回、『大莊嚴經論』や『發心集』・『著聞集』から引《ひい》た、盜人が麨(はつたい)と謂ふて、灰を食ひ、灰食ふてさへ、饑を治すべしと反省して、盜んだ物を復した話に似て、趣向が別な奴が、趙宋の初め、智覺禪師、集に係る『宗鏡錄《すぎやうろく》』七三に出づ。云く、又律中四食章、古師義門手鈔云、思ㇾ食者、如饑饉之歳、小兒從ㇾ母求ㇾ食、啼而不ㇾ止、母遂懸砂囊誑云、此是飯、兒七日諦視其囊、將爲是食、其母七日後解下視ㇾ之、其兒見是砂絕望、因此命終。〔又、「律」中の「四食(しじき)」の章、古師の『義門手鈔』に云はく、「食を思ふ者は、饑饉の歲(とし)のごとし。小兒、母に從ひて、食を求め、啼きて止まず。母、遂に、砂の囊(ふくろ)を懸け、誑(あざむ)きて、「これは、飯(めし)なり。」と云ふ。兒(こ)、七日、其の囊を諦視(ていし)し、『是れ、飯なり。』と將-爲(おもへ)り。その母、七日の後に、解き、下ろして、之れを視(しめ)す。其の兒、是れ、砂なるを見、絕望し、此れに因りて、命、終はれり。」と〕。饑《うゑ》た兒が、砂を飯と心得、食ふのを樂しんで、七日、生き延びたが、砂と分つて、忽ち、絕望の極《きはみ》、死んだのぢや。同錄卅三に、暗中で寶玉に觸れ、蛇に螫《ささ》れたと思ふと、毒で身が脹《ふく》れ、種々、苦《くるし》む。智者、燈を持ち來り、「是れは、寶だ。」と示すと、忽ち、毒、去り、痛《いたみ》、癒《いえ》る、と有ると同規だ。世親《せしん》菩薩の『阿毘達磨倶舍論《あびだつまきしやろん》』卷十に、世傳有ㇾ言、昔有一父、時遭飢饉、欲ㇾ造他方、自既飢羸、二子嬰稚、意欲携去力ㇾ所ㇾ不ㇾ任、以ㇾ囊盛ㇾ灰、挂於壁上、慰喩二子云是麨囊、二子希望、多時延ㇾ命、後有ㇾ人至、取ㇾ囊爲開。子見是灰、望絕便死。〔世に傳へて言ふ有り。『昔、一(ひとり)の父有り。時に饑饉に遭ひ、他方に造(いた)らんと欲す。自(みづか)ら既に飢え羸《やつ》れ、二子、嬰稚(いとけな)し。意(おもふ)には、携へ去(ゆ)かんと欲(ほつ)するも、力、任(た)へざる所なれば、囊(ふくろ)を以つて、灰を盛り、壁の上に挂(か)け、二子を慰め喩して、「是れ、麨(はつたい)の囊なり。」と云ふ。二子、希ひ、望みて、多くの時、命(いのち)を延ぶ。後、人の至る有り、囊を取りて爲(た)めに開く。子、是れ、灰なるを見、望み、絕えて便(すなは)ち、死す。』と。〕。『宗鏡錄』に引《ひい》た『義門手鈔』の文は、是から出たんだろ。又、『倶舍論』右の文の次に、大海で難船、絕食した諸商人が、遙か距《へだて》て、大きな沫《あは》の積つたのを、陸地と誤認し、著岸を望んで、長時《ながく》、生延《いきのび》たと載せて居《を》る。『今昔物語』十六の四章、丹後の國の貧僧、寒に飢《うゑ》て、觀音像の木《き》を、猪肉《ししにく》と心得、食《くふ》た話も、似た例だ。

[やぶちゃん注:「宗鏡錄」は「大蔵経データベース」で校合した。なお、二番目に熊楠の梗概で出る暗闇の中の宝玉を蛇と誤認する話は、「同錄卅三」ではなく、三十五巻の誤りであることが判明した。「選集」も誤ったままである。参考までに、本文を「大蔵経データベース」から示しておく。一部の漢字を正字化し。私の判断で句読点を打った。

   *

譬如、暗家寶人不知故、無燈明故、於彼觸誤謂爲蛇所毒。由誤故、毒氣入身、其身膖脹、受種種苦。智者見已。卽將燈明示以利寶。其所螫人即見此寶、身内毒氣卽能除愈。

   *

「趙宋の初め、智覺禪師、集に係る『宗鏡錄』」(すぎょうろく)は五代十国時代の呉越から北宋初めの僧、永明延寿(九〇四年~九七六年:「智覺禪師」は尊称)が撰した仏教論書。全百巻。九六一年成立。ウィキの「宗鏡録」によれば、『撰者の永明延寿は、雪峰義存の弟子である翠巌令参のもとで出家し、天台徳韶』(とくしょう)『の嗣法となった禅僧である。永明延寿の主著が、本書であり、禅をはじめとして、唯識宗・華厳宗・天台宗の各宗派の主体となる著作より、その要文を抜粋しながら、各宗の学僧によって相互に質疑応答を展開させ、最終的には「心宗」によってその統合をはかるという構成になっている』。『この総合化の姿勢は、その』「万善同帰集」『にも見られるものであり、後世になって、「禅浄双修」「教禅一致」が提唱された時、永明延寿の著書が注目されることとなった』とある。北宋は趙匡胤(きょういん)が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は「宋」であるが、後に金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別する際に、「北宋」以外に王の姓氏を附して「趙宋」とも呼ぶのである。

「四食(しじき)」サイト「WikiArc」のこちらによれば、『衆生』『を養い育てる四種の食物』で、第一に『段食(だんじき)』で、これが物理的な『肉体を養う飲食物など』の『有形の食物』を指し、第二に、『触食(そくじき)』で、これは感情的な『よろこびのこころをおこす感触によって身を養うこと』を言う。第三は、精神的な『思食(しじき)』で『意思作用や願望などによって身を支えること』を指し、第四に高度な感官の齎す『識食(しきじき)』であって、これは『心(識別作用)によって身を支えるもの』を言うとあった。

「古師の『義門手鈔』」不詳。永明延寿は天台徳韶の法嗣を受けているが、ここでは「古師」とあり、彼は初め、雪峰義存門下の翠巌令参の下で出家している。雪峰は五代時代に於いて最大の仏教教団を形成した知られた僧であり、永明の関係者で「義」を名に持つ師は彼だけのようであるから(但し、永明が四歳の時に雪峰は示寂しているから、直接の師ではない)、雪峰義存の伝された自筆手記の抄録を指すものかも知れない。

「世親菩薩の『阿毘達磨倶舍論』」こちらも「大蔵経データベース」で校合した。熊楠は最初に出る子の数を「三」と誤っているのは致命的である。こちらの方は、「選集」では正しく「二」となっている。世親は紀元四世紀頃の古代インド仏教の瑜伽行唯識学派の僧。「世親」はサンスクリット名である「ヴァスバンドゥ」の漢音写で、玄奘訳以降、定着し、広く知られる。この書は、部派仏教の教義体系を整理・発展させた論書で、永く玄奘訳で伝えられてきた。

「大海で難船、絕食した諸商人が、遙か距て、大きな沫の積つたのを、陸地と誤認し、著岸を望んで、長時、生延た」本当に先の引用に続いて出る。以下に「大蔵経データベース」のものを、一部、漢字を正字化して示す。

   *

又於大海有諸商人。遭難敗船飮食倶失。遙瞻積沫疑爲海岸。意望速至命得延時。至觸知非望絕便死。

   *

「『今昔物語』十六の四章、丹後の國の貧僧、寒に飢《うゑ》て、觀音像の木《き》を、猪肉《ししにく》と心得、食《くふ》た話」「今昔物語集」巻第十六の「丹後國成合觀音靈驗語第四」(丹後國(たんごのくに)成合觀音(なりあひくわんおむ)靈驗(れいげむの)語(こと)第四(し))。以下に所持する小学館『日本古典文学全集』の同集の第二巻を参考に、漢字を概ね正字化して示す。

   *

 

   丹後國成合觀音靈驗の語第四

 

 今は昔、丹後國に「成合」と云ふ山寺有り。觀音の驗(げん)じ給ふ所なり。

 其の寺を「成合」と云ふ故を尋ぬれば、昔し、佛道を修行する貧き僧有りて、其の寺に籠りて行ける間に、其の寺、高き山にして、其の國の中(うち)にも、雪、高く、降り、風、嶮(けは)しく、吹く。

 而るに、冬の間にて、雪、高く降りて、人、通(かよ)はず。

 而る間、此の僧、粮(かて)絕えて、日來(ひごろ)を經(ふ)るに、物を食はずして、死ぬべし。

 雪、高くして、里に出でて乞食(こつじき)するにも、能はず、亦、草木の食ふべきも、無し。

 暫くこそ、念じても居(ゐ)たれ、既に十日許りにも成りぬれば、力無(ちからな)くして、起き上がるべき心地(ここち)せず。

 然(しか)れば、堂の辰巳(たつみ)の角(すみ)に、䒾(みの)の破れたる敷きて臥したり。力無ければ、木を拾ひて火をも燒かず。寺、破損して、風も留(とど)まらず、雪風、嶮(けは)しくして、極めて、怖ろし。力無くして、經をも讀まず、佛をも念ぜず、『只今、過ぎなば、遂に、食物、出來(いでく)べし。』と思はねば、心細き事、限り無し。

 今は、死なむ事を期(ご)して、

「此の寺の觀音を助け給へ。」

と念じて、申さく、

「只一度(ただひとたび)、觀音の御名(みな)を唱ふるそら[やぶちゃん注:「すら」の訛り。]、諸(もろもろ)の願(ねがひ)を滿て給ひしなり。我れ、年來(としごろ)、觀音を憑(たの)み奉りて、佛前にして餓ゑ死なむ事こそ、悲しけれ。高き官位を求め、重き財寶を願はばこそ、難(かた)からめ、只、今日(けふ)、食(じき)して、命(いのち)を生(い)く許(ばかり)の物を、施し給へ。」

と念ずる間に、寺の戌亥(いぬゐ)の角(すみ)の破れたるより見出(みいだ)せば、狼に噉(くら)はれたる猪(ゐのしし)、有り。

『此れは。觀音の與へ給ふなめり。食(じき)してむ。』

と思へども、

「年來、佛を憑み奉りて、今更に、何(いか)でか、此れを食(じき)せむ。聞けば、『生(しやう)有る者は、皆、前生(ぜんしやう)の父母(ぶも)なり。』と。我れ、食に飢へて死なむと□□□□□□□□[やぶちゃん注:破損による欠字。参考本の頭注に『古本説話「我ものほしといひながらおやのししむらほぶりてくらはん」。』とある。]肉村(ししむら)、屠(ほ)ふり食(く)はむ。況(いはむ)や、生類(しやうるゐ)の肉を食(じき)する人は、佛の種(しゆ)を斷ちて、惡道に墮つる道なり。然(さ)れば、諸(もろもろ)の獸(けだもの)は、人を見ては、逃げ去る。此れを食する人をば、佛も菩薩も、遠く去り給ふ事なれば。」

[やぶちゃん注:ここに「と」が欲しい。]返々(かへすがへ)す、思ひ返せども、人の心の拙(つたな)き事は、後世(ごせ)の苦しびを思はずして、今日(けふ)の飢への苦しびに堪へずして、釼(つるぎ)を拔きて、猪の左右(さう)の腂(もも)の肉を屠り取りて、鍋に入れて、煮て、食(じき)しつ。

 其の味、甘き事、並び無し。飢の心、皆、止(とどま)りて、樂しき事、限り無し。

 然(しか)れども、重き罪を犯しつる事を、泣き悲しむで居(ゐ)たる程に、雪も、漸(やうや)く消えぬれば、里の人、多く來(きた)る音を聞く。

 其の人の云はく、

「此の寺に籠たりし僧は何(いか)が成りにけむ。雪、高くして、人、通ひたる跡も、無し。日來(ひごろ)に成りぬれば[やぶちゃん注:「人跡絶えてより、随分、日数が経ってしまっているので」。]、今は食物(じきもつ)も失せにけむ。人氣(ひとけ)も無きは、死にけるか。」

と、口々に云ふを、僧、聞て、先づ、

『此の、猪を、煮噉(にちら)したるを、何で、取り隱さむ。』

と思ふと云へども、程無くして、爲(す)べき方(かた)、無し。

 未だ、食ひ殘したるも、鍋に、有り。

 此れを、思ふに、極めて、恥ぢ、悲び、思ふ。

 而る間、人々、皆、入り來たりぬ。

 人々、

「何(いか)にしてか、日來(ひごろ)、過ごしつる。」

など云ひて、寺を廻(めぐ)りて見るに、鍋に檜(ひ)の木(き)を切り入れて、煮て食ひ散したり。

 人々、此れを見て云はく、

「聖(ひじり)、食(じき)に飢ゑたりと云ひ乍ら、何(いか)なる人か、木(き)をば煮食(にく)ふ。」

と云ひて哀れがる程に、此の人々、佛を見奉れば、佛の左右(さう)の御腂(おほむもも)を、新たに、切り取りたり。

『此れは。僧の切り食ひたるなりけり。』

と奇異(あさま)しく思ひて云はく、

「聖、同じ木を食(じきす)るならば、寺の柱をも、切り食はむ。何ぞ、佛の御身(おほむみ)を、壞(やぶ)り奉る。」

と云ふに、僧、驚きて、佛を見奉るに、人々の云ふが如く、左右の御腂(おほむもも)を切り取りたり。

 其の時に思はく、

『然(さ)らば、彼(か)の煮て食(じき)しつる猪は、觀音の、我を助けむが爲めに、猪に成り給ひけるにこそ有けれ。』

と思ふに、貴(たふと)く悲しくて、人々に向ひて、事の有樣を語れば、此れを聞く者、皆、淚を流して、悲しび、貴ぶ事、限り無し。

 其の時に、佛前にして、觀音に向ひ奉りて、白(まう)して言(まう)さく、

「若(も)し、此の事、觀音の示し給ふ所ならば、本(もと)の如くに、□□□□□。」

□[やぶちゃん注:先と同じく頭注で『古本説話「もとの様にならせ給ねと、返々申ければ」』とある。]申す時に、皆人、見る前へに、其の左右の腂(もも)、本の如く成□□□□□□□□□□[やぶちゃん注:同前で『古本説話「もとの様になりみちにけりされば、この寺をなりあひと申侍なり」』とある。]。

 人皆(ひとみな)、淚(なむだ)を流して□泣悲(なきかなしま)ずと云ふ□□□□□□。□□□□此の寺を「成合」と云ふ也けり。[やぶちゃん注:同じく頭注に最初の一字欠損は破損による旨の記載があり、『「不」が擬せられる』とある。則ち、原本は漢文式訓点附きであるから、後の「ず」に当たる漢字表記の元ということになる。最後のそれは破損によるもので、『「事無カリケリ。然レバ」が擬せられる』とある。]

 其の觀音、今(いま)に在(ましま)す。

「心有らむ人は、必ず、詣でて禮(れい)奉るべきなり。」

となむ、語り傳へたるとや。

   *

この成相寺は現在の京都府宮津市にある天橋立を一望する真言宗成相山成相寺(なりあいじ)。本尊は聖観世音菩薩。当該ウィキによれば、『寺伝によれば慶雲元年』(七〇四年)、『真応上人の開山で文武天皇の勅願寺となったというが、中世以前の寺史は判然としない』とある。]

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