「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 羊を女の腹に𤲿きし話
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文部は後に〔 〕で推定訓読文を添えた。特に今回より、読者の便宜を考えて、底本中の表記の有無を無視し、基本、書名は「 」、雑誌名・引用部は『 』で統一することとした。
なお、標題中の「𤲿きし」は「ゑがきし」と読んでおく。また、標題下の「同前」は前の「蟻を旗印とせし話」と同じで、大正二(一九一三)年五月『民俗』第一年第一報所収であることを言う。]
羊を女の腹に𤲿きし話 (同 前)
無住法師の「沙石集」七卷六章に、遠江池田の庄官の妻、嫉妬甚しく、磨粉(みがきこ)に、鹽を和し、夫の陰《かくしどころ》に塗り、夫が娼《よね》[やぶちゃん注:情人。]を置けるを驗證せる話を擧げ、次に、或男、他行《たかう》に臨み、『妻の貞操を試みん。』とて、陰所《かくしどころ》に牛を描きしに、姦夫、來たり、通じて後、實の男は臥牛を描けるに、姦夫は、立てる牛を描く。夫、還り來たり、檢《けん》して妻、を詰《なぢ》りしに、「哀れ、止《や》め給へ、臥せる牛は、一生臥せるか。」と云ひければ、「さもあらん。」とて、許しつ。男の心は淺く大樣《おほやう》なる習《ならひ》にや云々。「池田の女人には、ことのほかに似ざり鳧《けり》。」と見ゆ。紀州に行はるゝ此話の作替へには、夫、彼所に勒具(くつわぐ)したる馬を畫き、還り視れば、勒(くつわ)無(な)し。妻を責めしに答へて、「豆食ふ馬は、勒を脫するを知らずや。」と云へり、と。(「松屋筆記」卷九四、「室町殿日記」十九「德永法印咄のこと」の條に、『女陰《ぢよいん》を「豆」と云ふ。西行の歌に見ゆ。「豆泥棒」抔も云ふめり。「宇治拾遺」に陰莖を「まめやか物」と云へり。可考《かんがふべし》。』。)
[やぶちゃん注:「無住法師」(嘉禄二(一二二七)年~正和元(一三一二)年)は鎌倉時代後期の僧。当該ウィキによれば、『字は道暁、号は一円。宇都宮頼綱の妻の甥。臨済宗の僧侶と解されることが多いが、当時より「八宗兼学」として知られ、真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていた』。『梶原氏の出身と伝えられ』、十八『歳で常陸国法音寺で出家。以後』、『関東や大和国の諸寺で諸宗を学び、また』、臨済僧『円爾』(えんに)『に禅を学んだ。上野国の長楽寺を開き、武蔵国の慈光寺の梵鐘をつくり』、弘長二(一二六二)年に『尾張国長母寺(ちょうぼじ)を開創してそこに住し』、八十歳で『隠居している』。「和歌即陀羅尼論」の提唱者で、『「話芸の祖」ともされる』。『伝承によっては』、『長母寺ではなく、晩年、たびたび通っていた伊勢国蓮花寺で亡くなったともされる』。『様々な宗派を学びながらも、どの宗派にも属さなかった理由については、自分の宗派だけが正しいとか』、『貴いものと考えるのは間違いで、庶民は諸神諸仏を信仰していて、棲み分けており、場合や状況によって祀るものが異なり、そうした平和的共存を壊すのは間違った仏教の行き方だと考えていたためとされ、諸宗は平等に釈迦につながるため、どれも間違ってはいないという立場であったとする』。『また、説法の対象は読み書きのできない層だった』という。著書は、この知られた説話集「沙石集」(しゃせきしゅう)の他、「妻鏡」・「雑談集」(ぞうだんしゅう)などで「沙石集」は五十四歳の『時に執筆』にとりかかり、『数年かけて』五『巻を完成させたが、死ぬまで手を加え続けた結果、全』十『巻となり、書いている過程で、他の僧侶に貸したものもあり、どの段階の本が無住の考えた最終的な本かを判断するのは難しいとされる』。本書は私の愛読書でもあり、『無住は鎌倉の生まれで、梶原氏の子孫と考えてよい』とする判断に私は賛同している。
『「沙石集」七卷六章に、遠江池田の庄官の妻、……』「池田」は遠江国にあった古代末期から中世の宿駅で、現在の静岡県旧豊田(とよだ)町、今は磐田市池田(グーグル・マップ・データ)に比定されている。この二つの話は、「無二嫉妬ノ心一人ノ事」の条であるが、この話は複数の類話を重ねた、やや長いものの中の二つを抜粋・抄録(不全)したものである。以下に所持する筑土鈴寛校訂の一九四三年岩波文庫刊の「沙石集 下卷」他を参考底本に全文を示す。段落を成形し、読点や記号及び送り仮名を追加した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。話柄の変わる部分に「*」を入れて読み易くした。
※
六 嫉妬の心無き人の事
或殿上人、田舍下りの次(つい)でに、遊女を相具して上洛せられけるが、使をさきだてて、
「人を具して上り候なり。むつかしくこそ思し食さんずらめ。出させ給へ。」
と、女房の許へ情なく申されけり。
女房、すこしも恨みたる氣色なくして、
「殿の、人を具して上せ給ふなるに、御まうけせよ。」
とて、こまごまと下知して、見苦き物ばかりとりしたためて、よろづあるべかしく用意して、我身ばかり、いで給ひぬ。
遊女、この事を見聞きて、おほきに恐れ驚きて、殿に申しけるは、
「御前の御ふるまひ、ありがたき御心ばえにておはしますよし、承りて、且つ、事の樣、モ見まゐらせ候ふに、いかがかかる御栖居(おすまゐ)の所には候ふべき。身の冥伽も、よも候はじ。ただ、御前をよびまゐらせて、本のごとくにて、此身は別の所に候ふて、時々めされんは、しかるべく侍りなむ。さらでは、一日も、爭(いかで)か、かくて侍べき。」
と、おびただしく誓狀しければ、殿も理りに折れて、北の方の情もわりなく覺えて、使者をやりて、北方をよびたてまつる。すべて、返事もなかりけれども、たびたび、とかく申されければ、歸り給ひぬ。
遊女も心あるものにて、互に遊びたはぶれて、へだてなき事にてぞありける。
ためしなき少なき心ばえにこそ。
*
遠江の國にも、或人の女房、さられて、すでに馬に乘りて出でけるを、
「人の妻のさらるる時は、家中の物、心にまかせて、とる習ひにて侍れば、何物もとり給へ。」
と、夫、申しける時、
「殿ほどの大事の人を、うちすててゆく身の、何物か、ほしかるべき。」
とて、うち咲うて、にくいげもなくいひける氣色、まめやかに、いとほしく覺へて、やがて、とどめて、死のわかれになりにけり[やぶちゃん注:「偕老同穴」の意。]。人に、にくまるるも、思はるるも、先世の事といひながら、只、心がらによるべし。
*
常陸の國、或所の地頭、京の名人、歌道、人にしられたる女房を、かたらひて、年ひさしく、あひすみけるが、鎌倉へ、おくりて後、年月へて、さすが、昔のなごりのありけるにや、衣・小袖など、色々に調へて、送りたりたりける返事、別の事はなくて、
つらかりしなみだに袖は朽ちはてぬこのうれしさをなににつつまん
是を見て、さめざめとうち泣きて、
「あら、いとほし。その御前、とくとく、むかへよ。」
とて、よび下して、死のわかれになりにけり。更に近くは、まゝ、あるべし。
*
同國に或人の女房、鎌倉の官女にてありけり。歌の道も心得て、やさしき女房なりけり。心ざしやうすかりけん、
『事の次でをもとめて、鎌倉へ送らばや。』
と思ひて、
「この前栽の鞠(まり)のかかりの四本の木を、一首によみ給へ。ならずば、おくりたてまつるべし。」
と、男にいはれて、
櫻さくほどはのきばの梅の花もみぢまつこそひさしかりけれ
これを感じて、おくる事、思ひ留まりにけり。人の心は、やさしく、いろ、あるべし。
當時、ある人なり。
*
或る人、妻を送りけるが、雨のふりければ、色代(しきだい)に[やぶちゃん注:挨拶の代わりに。]、
「けふは、雨ふれば、留まり給へ。」
と云ふを、既に出でたちて、出でつつ、かくこそ詠じける。
ふらばふれふらずはふらずふらずとてぬれでゆくべき袖ならばこそ
餘りに、あはれに、いとほしく覺えて、やがて留めて、死のわかれになりにけり。
「和歌の德は、人の心をやはらぐる。」と云へり。誠なるかな。「西施が江(え)を愛し、嫫母(ぼも)は鏡を嫌ふ。」[やぶちゃん注:「嫫母」は黄帝の妃の一人で、才徳を備えた賢い婦人だったが、顔は醜かったとされる。一方で石板鏡の発明者とされる。]と云ひて、わが形、よかりし西施は、江に影のうつるを見て、是を愛しき。我貌(かたち)、みにくかりし嫫母は、鏡にうつるかげ、見にくきまゝに、鏡をきらひき。是、江のよきにあらず、わが形のよきなり。鏡のわろきにあらず、わが顔の見にくきなり。然れば、人のよきは、我が心のよきなり。あたみ[やぶちゃん注:憎み、敵視し。]、恨めしきは、我が身のとがなり。縱ひ、今生にことなるとがなきに、人のにくみあたむも、先世の我がとがなり。おのづから人に愛せらるるも、先世の我がなさけなるべし。されば、人を恨むる事なくして、我が身の過去、今生の業因緣、心からと思ひて、いかり恨べからず。世間の習ひ、多くは、嫉妬の心ふかくして、いかり、はらたち、推し疑ひて、人をいましめ、うしなひ、色を損じ、目をいからかし、語をはげしくす。かかるにつけては、彌(いよいよ)うとましく覺えて、鬼神の心地こそすれ。爭(いかで)か、いとほおしく、なつかしからむ。或は龍(りやう)となり、或は蛇となる。返々も、よしなくこそ。されば、かの昔の人の心ある跡をまなばば、現生は敬愛(きやうあい)の德を施し、當來には毒蛇の苦をまぬかるべし。
*
ある人、本(もと)の婦(め)をも、家におきながら、又、婦を迎へて相住みけり。今の妻と一所に居て、かき一重へだてて、本の妻ありけるに、秋の夜、鹿の鳴く聲、聞えければ、夫、
「聞き給ふか。」
と、本の妻に云ひければ、返事に、
我も鹿なきてぞ人に戀られし今こそよそに聲ばかりきけ
と云ければ、わりなく覺えて、今の妻を送りて、又、還りあひにけり。
嫉妬の心ふかくして、情なくば、かくはあらじかし。ただ、嫉(そね)み妬(ねた)まず、あたをむすばずして、まめやかに色ふかくば、おのづからしも、あるべきにや。
*
信濃國に、或人の妻のもとに。まめ夫(をとこ)のかよふ由、夫、聞きて、天井の上にて伺ひけるに、例のまめ夫、來たりて、物語し、たはふれけるを、天井にてみるほどに、あやまちて、落ちぬ。
腰打損じ、絶入しければ、まおとこ、是を、かへて看病し、兎角あつかひ、たすけてけり。心ざま、たがひに、おだしかり[やぶちゃん注:「穩しかり」。]ければ、ゆるしてけり。
*
洛陽にも天文博士(はかせ)が妻を、朝日の阿闍梨と云ふ僧、かよひて、すみけり。
ある時、夫、他行の隙と思ひて、うちとけて居たる所に。夫、にはかに、來たる。逃ぐるべき方無くして、西の方の遣戶をあけて、にげくるをみつけて、かくぞ云ひける。
あやしくも西に朝日の出るかな
阿闍梨、とりもあへず。
天文博士いかが見るらん
さて、よびとどめて、さかもり・連歌などしてゆるしてける。
*
ある人の妻、まをとこと、ねたりける時、夫、俄に、ねやのうちへ、いらんとす。
『いかにしてか、にがさん。』
と思ひて、「衣の蚤(のみ)とる。」由にて、にがさんとて、まをとこの、はだかなるを、むしろに、かいまいて、
「衣の、のみ、とらしむ。」
とて、すびつを、とび越えけるほどに、すべらかして、すびつに。
「とう」
ど、おとしつ。
男、是を見て、目、見のべ、口、おほひして、のどかなる氣色にて、
「あら、いしののみの、大きさや。」
と云ひて、なにともせざりければ。勢は大なれども。小(こ)のみの如くも、とばずして、はだかにて、はひにげにけり。
あまりに、肝すぎてしてけるにこそ。夫の心、おだしかりけり。
*[やぶちゃん注:以下が熊楠の引いた第一話。]
遠江國、池田の邊(ほとり)に、庄官、ありけり。かの妻。きはめたる嫉妬心の者にて、男をとりつめて。あからさまにもさし出さず。
所の地頭代、鎌倉より上りて、池田の宿にて、あそびけるに、見參のため、宿へゆかんとするを、例の、ゆるさず。
地頭代、知音なりければ、
「いかが見参せざらん。ゆるせ。」
といふに、
「さらば、しるしを、つけん。」
とて、かくれたる所にすり粉をぬりてけり。
さて、宿へゆきぬ。地頭みな子細しりて。いみしく女房にゆるされておはしたり。
「遊女よびて、あそび給へ。」
と云ふに。
「人にもにぬ物にて、むつかしく候。しかも符(しるし)をつけられて候。」
というて、
「しかじか。」
と、かたりければ。
「冠者原にみせて、本の如く、ぬるべし。」
とて、遊びて後、もとの樣に、たがへず、摺粉(すりこ)をぬりて、家へ歸りぬ。
妻
「いで、いで、見ん。」
とて、すりこを、こそげて、なめてみて、
「さればこそ、してけり。我がすりこには、鹽をくはへたるに、是は、しほが、なき。」
とて、ひきふせて、しばりけり。
心深さ、あまりに、うとましく覺えて、頓(やが)て、うちすてて、鎌倉へ下りけり。
近き事なり。
*[やぶちゃん注:以下が第二話。]
舊き物語に、ある男、他行の時、まをとこもてる妻を、
「しるし、つけん。」
とて、かくれたる所に、牛を、かきてけり。
さるほどに、まめ男の來たるに、
「かかる事、なん、あり。」
と語りければ、
「われも、繪はかけば、かくべし。」
とて、さらば、能々、みて、もとのごとくもかかで、實の男は、「ふせる牛」をかけるに、まをとこは、「たてる牛」を、かきてけり。
さて、夫、歸りて見て、
「さればこそ。まをとこの所爲にこそ。我がかける牛は『ふせる牛』なるに、是は『たてる牛』なり。」
と、しかりければ、
「あはれ、やみ給へ。『ふせる牛』は、一生、ふせるか。」
と云ひければ、
「さも、あるらん。」
とて、ゆるしつ。
男の心は、あさく、おほやうなるならひにや。おこがましきかたもあれども。情量のあさきかたは、つみも、あさくや。
池田の女人には、事のほかに似ざりけり。
*
ある山の中に、山臥と、巫女(みこ)と、ゆきあひて、物語しけるが。人もなき山中にて、凡夫の習ひなれば、愛欲の心、起りて、このみこに、おちぬ。
このみこ、山澤の水にて、垢離(こり)かきて、つづみ、
「とうとう」
と、うち、數珠(じゆず)をしすりて、
「熊野、白山、三十八所、猶も、かかるめにあはせ給へ。」
と祈りけり。
山臥、又、垢離かきて、數珠をしすりて、
「魔界の所爲にや。かかる惡緣にあひて、不覺を仕りぬる。南無惡魔降伏、大聖不動明王。今は、さて、あれと、制せさせ給へ。」
と云ひて、二人、ゆきわかれにけり。
是も男子は愛執のうすきならひなるべし。
※
『「松屋筆記」卷九四』国学者小山田与清(ともきよ 天明三(一七八三)年~弘化四(一八四七)年)著になる膨大な考証随筆。文化の末年(一八一八年)頃から弘化二(一八四五)年頃までの約三十年間に、和漢古今の書から問題となる章節を抜き書きし、考証評論を加えたもの。元は百二十巻あったが、現在、知られているものは八十四巻。松屋は号。当該箇所は、国立国会図書館デジタルコレクションの活字本画像ではここの「(六十七)女陰を豆といふ事」にある。
「室町殿日記」室町幕府将軍足利義晴・義輝・義昭、及び、織豊期の軍事・政事のほか、世相などの説話的な事柄を記した二百四十余章から成る軍記物。編者は楢村長教。当該ウィキによれば、『序によれば、前田玄以の要望により、京都検断職猶村市右衛門尉長高、脇屋惣左衛門尉貞親の日記、幕府料所沙汰人三好日向守義興の日記、将軍の祐筆鳥飼如雪斎の書簡・日記をもとに』、『編者により文禄年間』(一五九二年~一五九六年)『の風説を加え』て『編まれた』『前田玄以』『の指示であること、また足利義昭の臨終』(慶長二(一五九七)年『の記事があることから、慶長年間』(一五九六年~一六一五年)『頃の成立とされる』とある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の写本を見たが、当該巻中には発見出来なかった。
「德永法印」徳永寿昌(ながまさ 天文一八(一五四九)年~慶長一七(一六一二)年か。彼は戦国時代から江戸前期にかけての武将で大名。美濃高須藩初代藩主。彼は別名を「式部卿法印」と称した。
『女陰を「豆」と云ふ』陰核(クリトリス)のメタファー。
「西行の歌に見ゆ」当該歌不詳。
「豆泥棒」不正確。「夜這い」の隠語である。
『「宇治拾遺」に陰莖を「まめやか物」と云へり』「宇治拾遺物語」巻一の「中納言師時、法師の玉莖(たまくき)檢知(けんち)の事」を指す。下ネタお笑い古文としてはかなり有名な一篇。サイト「日本古典文学摘集」のこちらで原文(但し、新字)が電子化されており、別ページに現代語訳もある。但し、これは陰茎の隠語とは言い難い。本文を見れば判る通り、隠語としては「松茸」ではっきりと判るように出してあり、最後に出る「まめやか物」とは、隠語とは言えず、「まめやか(なる)物」(本物である対象物)の意であるに過ぎない。]
英國の「エー・コリングウッド・リー」氏、予の爲に此の種の諸話を調べられ、伊、佛、獨、英等に在れど、無住より三百年後、十六世紀より古き者、なし。例《たとへ》ば、十六世紀に刊行せる書に、畫工、旅するとて、若き艶妻の腹に、羊を畫き、己《おのれ》が歸り來る迄、消さぬ樣、注意せよ、と命じ、出行《いでゆき》し跡に、好色未娶《みしゆ》の若き商人、來《きたり》て、彼《かの》妻を姦し畢《をはり》て、前に無角の羊なりしが消え失せたる故、角有る羊を畫きしてふ譚、見ゆ。委細は、予の‘Man who painted the Lamb upon his Wife's Body’, Vragen en Mededeelingen, Arnhem, I ser., i, 261-262, 1910. 又『東京人類學會雜誌』三〇〇號二一八―九頁に出《いだ》せり。
[やぶちゃん注:「‘Man who painted the Lamb upon his Wife's Body’, Vragen en Mededeelingen, Arnhem,」これは、既に「南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 3」に出るが、不詳。欧文名を検索すると、一番上に私の以上のページが出てしまう。標題は「妻の身体に子羊を描いた男」。“Arnhem”は出版地で「アーネム」「アルンヘム」で、オランダのヘルダーラント州の州都。“Vragen en Mededeelingen”はオランダ語で「質問と回答」であるから、オランダ版の‘Notes and Queries’とは思われる。
「エー・コリングウッド・リー」前のリンク先にも出ており、私は「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(20:蟾蜍)」に「A. C. Lee, ‘The Decameron its Sources and Analogues, 1909, p.139」(「デカメロンの原拠と類譚」か)と出た著者のアルフレッド・コーリングウッド・リー(Alfred Collingwood Lee)であろう(詳細事績未詳)、と注した。
「『東京人類學會雜誌』三〇〇號二一八―九頁」前掲「南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」初出のこと。「J-STGE」のPDF版原本画像の4~5コマ目。]
「沙石集」の話、佛經より出でたるならんと、精査すれども、今に見出でず。漸く近日、支那にも此類話有ると知れり。乃《すなは》ち「笑林廣記」卷一に云、(掘荷花)一師出外就舘、慮其妻與人私通、乃以妻之牝戶上、𤲿荷花一朵、以爲記號、年終解舘歸、驗之已落、無復有痕跡矣、因大怒、欲責治之、妻曰、汝自差了、是物可𤲿、爲何獨揀了荷花、豈不曉得荷花下靣有的是藕、那須來往的人、不管好歹、那個也來掘掘、這個也來掘掘、都被他們掘乾淨了、與我何干〔「荷(はす)の花を掘る」 一(ひとり)の師、外に出でて、舘(じゆく)に就(つと)めんとし、その妻、人と私通するを慮(おもんぱか)り、乃(すなは)ち、妻の牝戶(ほと)の上に荷の花一朶(いちだ)を號(しる)し、以つて、記號と爲(な)す。年、終はりて、舘を解かれ、歸りて、之れを驗(あらた)むるに、落ちて、復(ま)た、痕跡も無し。因りて大いに怒り、之れを責め治(こらし)めんと欲す。妻曰はく、「汝、自(みづか)ら差(たが)へ了(をはん)ぬ。是(いか)なる物にても畫(ゑが)くべきに、何-爲(なんす)れぞ、獨(ひと)り、荷の花を揀(えら)べるや。豈に曉(し)るを得ざらんや、荷の花の下(しも)の靣(むかひ)に有るは、是れ、藕(れんこん)なるを。那(なん)ぞ須(すべか)らく、來往せる人、好歹(こうたい)[やぶちゃん注:好むことと、悪く思うこと。]に管(かかは)らず、那個(それかれ)や、來たりて掘り、這個(これこれ)や、來たりて掘る。都(すべ)て、他們(かれら)に掘り乾-淨(つく)されたり。我れと、何ぞ干(かかは)らんや。」と。〕。
[やぶちゃん注:「笑林廣記」(清の遊戯主人編著になる笑話集。「古艶」(官職科名等)・「腐流」・「術業」・「形體」・「殊稟」(しゅひん:癡呆善忘等)・「閨風」・「世諱」(幫間娼優等)・「僧道」・「貪吝」(どんりん)・「貧窶」(ひんろう)・「譏刺」(きし)・「謬誤」(びようご)の十二部で構成されている)は、かなり画像が傷んでいるが、「中國哲學書電子化計劃」の「新鐫笑林廣記」のこちらから載る影印本当該部で校合した(底本は冒頭標題からして「拙荷花」と致命的に誤っている)。但し、この影印本、活字の一部が明らかに後代に補正されてあるので、推定で正字に直した箇所があるので、「選集」(近代漢文であるため、読みの一部は「選集」のそれにかなり頼った。これは以下の「追加」でも同じ)の訓読文の漢字表記も参考にした。]
追 加 (大正三年四月『民俗』第二年第二報)
「笑林廣記」卷三に出づ。云く、(換班)一皂隸妻性多淫、夫晝夜防範、一日該班、將妻陰戶左傍畫一皂看守、並爲記認、妻復與人幹事、擦去前皂、姦夫倉卒仍畫一皂形于右邊而去、及夫落班歸家、驗之已非原筆、因怒曰、我前記在左邊的、緣何移在右邊了、妻曰虧你、做衙門多年、難道不要輪流換班的麼。〔「換班(くわんはん)」 一(ある)皂-隸(さいれい/こもの)[やぶちゃん注:身分の低い使用人。]の妻、性、多淫なり。夫は晝夜、防-範(みはり)をせり。一日(あるひ)、該(か)の班(をとこ)、將に妻の戶(ほと)の左の傍(わき)に一(ひとり)の皂隸を畫(ゑが)きて、看-守(みはら)せ、並(あは)せて記-認(しるし)とす。妻、復た、人と事を幹(おこな)ひ、前(さ)きの皂(こもの)を擦(す)り去る。姦夫(まをとこ)は倉-卒(あはただ)しくせば、仍(よ)りて一(ひとり)の皂の形を、右の邊(ほと)りに畫きて去る。夫、落-班(ことをは)りて、家へ歸るに及び、之れを驗(あらた)むるに、已(すで)に原(もと)の筆に非ず。因りて怒りて曰はく、「我、前(さき)に記せしは左の邊りに在り。何に緣(よ)りてか移りて右の邊りに在るや。」と。妻は虧你(いに/からか)ひて曰はく、「汝(なんぢ)、衙門(がもん/やくしよ)に做(つと)むること多年なるに、難-道(よも)や、輪-流(いれかは)り、換班(かんはん/こうたい)するを、要せずとせんや。」と。〕。
[やぶちゃん注:『「笑林廣記」卷三』のそれは、同じく「中國哲學書電子化計劃」のこちらから載る影印本当該部で校合した。前と合わせて訓読に自信がない。識者の御教授を乞うものである。
以下の〔 〕は底本のものである。「增」は「增補」の意。]
〔(增)(大正十五年九月二十四日記) 和歌山市に古く行なわれし笑話に、行商する者、出立に臨み、彼《かの》所の右の方に鶯を描き置き、歸つて見れば、左に描けり。妻を詰《なじ》ると、「鶯は。『谷渡り』せり。」と答へし。次に他行の時、「玄米」と書《かき》て出で、歸つて見れば「白米」と書きあり。又、詰るに、「米屋に搗《つい》て貰つた。」と答へしと。蓋し、其妻は、米屋の番頭を情夫に持ちたるなり。(吉備慶三郞氏報)〕
[やぶちゃん注:この最後の和歌山の猥談は前の如何なる古話よりも出色の出来である!]
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