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« 大和怪異記 卷之一 第十二 雲中ににはとりたゝかふ怪異事 | トップページ | 大和怪異記 卷之一 第十四 阿部晴明花山院の前生をうらなふ事 »

2022/11/11

大和怪異記 卷之一 第十三 金峯山の上人鬼となつて染殿后を惱す事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。【 】は底本では二行割注。漢文部は読みを訓点風にして、その一部をカタカナに代え、変則的に示した

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。

 なお、標題の「鬼」の読み「をに」はママ。]

 

 第十三 金峯山(きんぶせん)の上人(しやうにん)鬼(をに)となつて染殿后(そめどのゝきさき)を惱(なやま)す事

 染殿の后、やまひにおかされて、醫療、かなはざりけるに、

「金峯山に一人の沙門(しやもん)あり、咒力(じゆりき)をもつて、人のやまひを、のぞく。」

と聞えしかば、忠仁公(ちゆうじんこう)、かの僧を、めして、后を、いのらしめらるゝに、一兩日の間に、后の病(やまひ)、いヘぬ[やぶちゃん注:ママ。]。しかるに、沙門、后の容色にまよひ、后に、とりつき奉る。數百(すひやく)の侍女ありといへども、これをふせぐこと、あたはず。

 侍醫當摩鴨繼(たへまかもつぐ)、御簾(みす)の中(うち)に、はしり入《いり》、僧を引出《ひきいだ》し、からめて、文德天皇(もんどくてんわう[やぶちゃん注:ママ。])に、まうす。

 天皇、大《おほい》に、いかり給ひて、獄に入(いれ)しめ給ふ。

 僧、大にいかり、天にあふぎて、

「ねがはくは、我、はやく死して、鬼となり、后と配匹(はいびつ)すべし。」

と云《いふ》。

 獄吏、此よしを、忠仁公に、まうす。

 忠仁公、をどろきて[やぶちゃん注:ママ。]、沙門を、ゆるさる。

 沙門、南山(なん《ざん》)にかへり、食をたち、十餘日にして、餓死(がし)す。

 

Somedono

 

 其後、宮中に、鬼、あらはる。

 其かたち、長(たけ)、八尺ばかり、かしら、かぶろにして、はだかなり。身のいろ、黑ふして、うるしのごとし。

 すぐに、后の帳(てう[やぶちゃん注:ママ。])に入(いる)に、后、本心を、うしなひ、鬼と通ず。此鬼、あるひは、其かたち、見へ、又は、すがたを見せず、つねに、后と物がたりす。其趣(をもむき[やぶちゃん注:ママ。])を知(しる)もの、なし。

 天皇、是におぢて、后に、ちかづき給はず。

 あるとき、鬼、ことばをはなして、

「鴨繼を、とりころさん。」

と云。

 程なく、鴨繼、死《し》しぬ。

 元慶のはじめ、大后(をほきさき[やぶちゃん注:ママ。])、すでに五十になり給ふ。

 淸和天皇、御賀(をんが[やぶちゃん注:ママ。])をいとなみ給ひ、后の前に再拜ましましけるに、大后、人の心なくして、鬼、后のかたはらに有(あり)て、あたかも、夫婦のごとく、盃(さかつき)を、のみかはし給へり。

 帝、これを見させ給ひ、大《おほい》に御《おん》かなしびありて、世をいとふの賢慮(けんりよ)、これより、甚だし。

 昌泰(しやうたい)二年春三月に、三善淸行(みよしきよゆき)、翰林学士として、閑居のいとま、あり。 時に、后宮(こうぐう)の命婦(めうぶ[やぶちゃん注:ママ。「みやうぶ」が正しい。])百濟繼子(くだらのつぐ《こ》)、暮齡(ぼれい)にいたるまで、后につかへ、年八十餘(よ)なりしが、言談(こんだん[やぶちゃん注:ママ。])のつゐでに、このことを述(のぶ)るを聞《きき》て、淸行、これをしるすといふ。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

 愚(ぐ)、按(あんず)るに、世に此事をあやまり傳へ、『眞濟(しんせい)僧正、染殿后の色にまよひ、「紺靑鬼(こんせいき)」となつて、后をなやます。』といふ。あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、「三代實錄」に、『眞濟僧正、入(い)リ愛宕山高尾(あたごさんたかを)ノいて、ざる[やぶちゃん注:ママ。連体詞「然(さ)る」(そのように)の誤りであろう。]事、十二年、嵯峨天皇聞(きゝ)テ其苦行、爲《す》内供奉(ないぐぶ)十禪師《ト》。』とあるを、あやまり、右の說に混(こん)じて、「眞濟僧正、染殿后を戀(こひ)、愛宕山に入《いり》、天狗となり、太郞坊と、なづく。」と附會す。眞濟は弘法大師のの[やぶちゃん注:ダブりはママ。]高㐧(こうてい)なり。いかでか、魔魅(まみ)とならんや。殊に「三代實錄」に、『貞觀二年二月五日丙午、僧正傳燈(でんどう)大法師位、眞濟、卒(そつ)す。時に六十一。』と、みえぬれば、其妄説(まうせつ)、論せずといへ共、明《あきら》かなり【一説には、善祐法師が、二条后に通じて、伊豆に流されし事を、眞濟法師と誤《あやまり》傳ふとも、いへり。豆州熱海に善祐が塚、あり、所にては「紀僧正《きのそうじやう》」と誤《あやまり》いふ。】。

[やぶちゃん注:半年余り前に、『「今昔物語集」卷第二十「染殿后爲天宮被嬈亂語第七」(R指定)』細かく注を入れて電子化訳注してあるので、そちらを読まれたい。そこで注したものは繰り返さない。なお、本篇の原拠は記されていないので、不詳。前半のメイン・ストリーの原拠は「今昔物語集」とよく一致するが、「今昔物語集」の原拠は平安中期(十世紀初頭)の三善清行(きよつら:後注する)の撰になる伝奇的古伝承や巷間の奇譚異聞怪奇譚を集めた「善家秘記」であり、そこでは後半の下りも書かれていることが、小学館の『日本古典全集』「今昔物語集(3)」の当該話の前説に記されてあった。しかも作者清行が最後部分で登場してもいるので、本話の原拠は「善家秘記」とするべきであろう。なお、染殿=文徳天皇の女御=清和天皇の母藤原明子(あきらけいこ:良房の娘)の当該ウィキによれば、『父の良房が「年経れば 齢は老いぬ しかはあれど 花をし見れば 物思ひもなし」と詠じて、明子を桜花とみた話が『古今集』によって伝わっており、大変な美貌の持ち主だったという』が、貞観七(八六五)年)『ごろから、物の怪に悩まされるようになったという記述が』、「今昔物語集」・「古事談」(巻第三第十五話)・「平家物語」(延慶本)・「宇治拾遺物語」『(第百九十三話)などに散見され』、『これらの記述にある言動により』、『一種の双極性障害』(旧躁鬱病)『に罹患していたとみる説もある』とするが、単なるそれでは、このような怪異印象は生まれにくいと思われ、一人で二役を演ずるような状態が異様に見做されたとすれば、私は寧ろ、解離性同一性障害(多重人格)を深く疑うものである。

「忠仁公」は文徳天皇の即位を推しながら、結果して、実際の権勢を揮った摂政太政大臣藤原良房の漢風の諡号。

「元慶のはじめ」元慶は八七七年から八八五年まで。染殿は元慶六年一月七日(八八二年一月二十九日)に没しており、「五十になり給ふ」とあるので、元慶二年で確定。

「淸和天皇」元文徳天皇の第四皇子であるが、この時は既に退位しているので、清和上皇が正しい。天皇は陽成。清和は、この二年後の元慶四年十二月四日に享年三十一で崩御している。

「御賀」数え五十で「早寿(そうじゅ)の祝い」と呼ぶ。

「昌泰(しやうたい)二年春三月」

「三善淸行」(承和一四(八四七)年~延喜一八( 九一八)年)は平安前期の文人官僚。三善氏吉(うじよし)の子で、善相(ぜんしょう)公とも称される。また、「きよつら」という訓もあるが、正しくは「きよゆき」である。貞観一五(八七三)年に文章生(もんじょうしょう)、翌年、得業生となり、元慶五(八八一)年に「方略試」(平安初期から室町時代まで行われた官吏登用のための最高国家試験。この試験に合格すれば、必ず、官吏に登用された)を受けたが、不合格となった。この時の問者(試験官)が菅原道真で、以後、清行が道真と立場を異にすることが多いのは、これに起因するとみる説もあるが、明らかではない。二年後に三十七歳で「対策」(先の「方略試」に同じ)に及第し、大学少允(しょうじょう)となった。仁和二(八八六)年には少内記となり、翌年には従五位下・大内記となる。この年に始まる「阿衡(あこう)紛議」では藤原佐世(すけよ)らの意見に組みし、橘広相(ひろみ)を弁ずる菅原道真に対した。寛平五(八九三)年に備中介となり、初めて地方社会の実情を知り、また政治の生きた理念を学んだ。この経験は、後の延喜一四(九一四)年の「意見封事十二箇条」に強く反映されている。昌泰三(九〇〇)年に刑部大輔(ぎょうぶたいふ)・文章博士(もんじょうはかせ:大学寮に属して詩文と歴史とを教授した教官。天平二(七三〇)年設置。平安時代には多く東宮学士・大外記を兼ね、天皇の侍講としても仕えた)となり、右大臣菅原道真に辞職を勧め、さらに同年に道真左遷の後、翌年が辛酉の年に当たるとして「辛酉革命の勘文」を上奏して改元を主張し、延喜(九〇一年~九二三年)への開元を実現させた。次いで、大学頭(だいがくのかみ)となり、「延喜格式」(えんぎきゃくしき)の編纂にも参画したが、晩年は特に目立った活動はなく、延喜一七(九一七)年には七十一歳の高齢で、参議・宮内卿となっている。著作には他に「円珍和尚(えんちんかしょう)伝」「藤原保則伝」「などがあり、歌集として「善家集」(一巻。但し、現存しない)があった(以上は概ね、小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「翰林学士」文章博士の唐名。

として、閑居のいとま、あり。

「百濟繼子(くだらのつぐ《こ》)」小学館の『日本古典全集』「今昔物語集(3)」の前説では、『くだらのつぎこ』とルビがある。

「暮齡」老齢。老いた晩年。

「眞濟(しんせい)僧正」真済(しんぜい、延暦一九(八〇〇)年~貞観二(八六〇)年)は平安前期の真言僧。当該ウィキによれば、父は巡察弾正紀御園。『空海の十大弟子の一人で、真言宗で初めて僧官最高位の僧正に任ぜられた。詩文にも優れ、空海の詩文を集めた』「性霊集」(しょうりょうしゅう)を『編集している。また、長く神護寺に住し、その発展に尽力した。高雄僧正・紀僧正・柿本僧正とも称される』とあり、リンク先の箇条履歴を見ても、天安元(八五七)年一〇月、『文徳天皇、真済の師を思う心に感激し、空海に大僧正位を追贈し、真済を僧正とする』とある。但し、翌天安二年八月二十三日に、『文徳天皇が突然』、『病に倒れる。真済の看病も空しく』、二十七日、三十二『歳で崩御』し、『天皇の急死』によって、彼は『世論の激しい批判を浴び』、『隠居する』とあり、『真済の付法』を受けた『弟子は一人もいない。真済の地位からすれば』、『極めて不自然で、文徳天皇の急死に際し』、『激しい批判を浴び』て『隠居したこととの関連が疑われる』とある。『染殿后の色にまよひ、「紺靑鬼(こんせいき)」となつて、后をなやます』などという感じは、史実上は見られない。敢えて言うなら、この最後の世上の批判が、僧正という高位へのやっかみとともに、こうした巷間のデッチ上げの怪奇談に組み込まれて堕(お)とされてしまったものかも知れない。

「嵯峨天皇」在位は大同四(八〇九)年~弘仁一四(八二三)年で、当時は既に退位しているので「上皇」が正しい。先のウィキには、承和二(八三五)年頃、『嵯峨天皇(上皇)が』、十二『年篭山の苦行を評価して』、『内供奉十禅師に抜擢する。ただし、通説では』承和七(八四〇)年とする、とある(前者を採る理由が注で記されてある)。本文にも出る、「内供奉十禪師」は「内供」「内供奉」「十禅師」などと略称され、宮中で天皇の安穏を祈ることを職務とし、天皇の看病などに当たる他、正月の「御斎会」(ごさいえ/みさいえ)で読師となる。原則として地位は終身で、童子二人と供養米が支給される。僧綱(そうごう)との兼帯は出来なかった(但し、天台宗は例外)。

「高㐧(こうてい)」「高弟」の「弟」の異体字。

「三代實錄」「日本三代實錄」。「六国史」の第五の「日本文徳天皇実録」を次いだ最後の勅撰史書。天安二(八五八)年から仁和三(八八七)年までの三十年間を記す。延喜元(九百一)年成立。編者は藤原時平・菅原道真ら。編年体・漢文・全五十巻。

『貞觀二年二月五日丙午、僧正傳燈(でんどう)大法師位、眞濟、卒(そつ)す。時に六十一』先のウィキには、貞観二(八六〇)年二月二十五日没で享年六十一とある。「曆のページ」で見ると、「丙午」(ひのえうま)は二十五日で、五日は「丙戌」(ひのえいぬ)である。諸史料から、「五日」は「二十五日」の誤りである。

「善祐法師が、二条后に通じて、伊豆に流されし事」「二条后」は、かの在原業平の悲恋の相手で、清和天皇の女御、後に皇太后となった藤原高子(たかいこ 承和九(八四二)年~延喜一〇(九一〇)年)のこと。ウィキの「藤原高子」によれば、寛平八(八九六)年、『宇多天皇の時、元慶年代に』、『自らが建立した東光寺』(現在の京都府京都市左京区岡崎東天王町にある「兎の神社」として知られる岡﨑神社。グーグル・マップ・データ)『の座主善祐と密通したという疑いをかけられ、皇太后を廃され、翌年天皇の生母班子女王が皇太夫人から皇太后に進んだ。没後の天慶』六(九四三)年に『朱雀天皇の詔によって(』但し、『詞を濁して)復位されている』とあるのが、それである。当時、彼女は五十五歳であった。「善祐法師」の経歴は不詳。業平、善祐、それに実子の乱行の陽成といい、なんとなく、高子って哀れな感じだなぁ。

「豆州熱海に善祐が塚、あり。所にては「紀僧正」と誤いふ。】」熱海の「古屋旅館」公式サイトの「熱海古屋旅館の歴史」に、『善祐のお墓』とあって、『平安時代には流刑にも幾つかの段階があり、伊豆や四国はもっとも重い「遠流の地」と定められていました。つまり都から一番離れた遠隔地と考えられていた訳です』。「続日本紀」『によると、平安時代』、『寛平』八(八九六)年に、『京都東光寺の僧』『善祐が』、『密通の罪で』、『阿多美郷(今の熱海)に遠流となった記録があります』。『密通の相手は清和天皇の女御で、狂気の帝』、『陽成天皇の生母藤原高子』『でした』として、注して、『ちなみに』、『歴史文献上』、「続日本紀」は、『熱海(当時は』「阿多美」『と表記)の名前が出現する最古の文献です』とあって、さらに『善祐は熱海市和田浜の辺りに住み、松を植え』、『枝を都の方角に曲げて』、『京都を偲んだそうです。その後』、『和田浜にあった善祐のお墓は古屋旅館敷地内に移され、現在に至っております。平安の時代にまで遡って、思いを巡らせてみるのも楽しいものですね』とあった。お墓の写真もある。古屋旅館さんのお蔭で「紀僧正」などと誤らずに、大事にされてるんだ。よかったな。善祐法師も毎日、いい湯に浸かっているんやなぁ……。]

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