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2022/11/18

大和怪異記 卷之二 第八 石塔人にばけて子をうむ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分は、ここと、ここ(単独画像)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第八 石塔(せき《たふ》)人にばけて子をうむ事

 大内左京太夫義弘(おほうちさきやう《たいふ》よしひろ)、在京のとき、「玉屋《たまや》)」といへる糸屋(いと《や》)が娘に、ちぎり、歸国のとき、つれてくだりまほしけれ共《ども》、さはる事あれば、

「むかひに、人をのぼすべき。」

と云《いひ》かはし、とかくして、打過《うちすぎ》たりしを、女、おもひわづらひて、身まかりぬ。

 父母、かなしみにたへず、發心(ほつしん)しけり。

 かゝる所に、彼(かの)女、周防(す《はう》)の山口にいたり、義弘の許《もと》へ、「御あとをしたゐ[やぶちゃん注:ママ。]、くだりたる。」

由(よし)を云入(いひ《いれ》)しかば、義弘、

「女の身として、はるばるの旅泊を凌(しのぎ)、よくこそ、來りたれ。」

とて、妹背(いもせ)の契(ちぎり)、あさからざりし中に、ひとりの男子を、まうけたり。

 其子、三歲のときに、世をのがれし父母、修行の身となり、周防にくだり、かなたこなた、徘徊せしに、相《あひ》しれる人に、あひ、

「娘に、をくれし[やぶちゃん注:ママ。]歎(なげき)にたえず、かく、さま、かへ侍り。さすが、殿の御事を思ひにたえで、よそながらも、見たてまつらんと、くだりし。」

と、かたりて、なきければ、其人、手をうちて、

「不審なる事かな。足下(そこ)の息女は、こなたにくだり給ひ、若君、出來(いでき)、はや、三歲にならせ給へ。」

とて、殿に、

「かく。」

と、つげしかば、

「それ、めせ。」

とて、むかえ[やぶちゃん注:ママ。]とり、むすめに、

「汝が親ども、來《きた》れり。いで、あへ。」

と有《あり》しかば、一間(ひとま)なる所に入《いり》て、衣(きぬ)、引《ひき》かづき、ふしたりしを、行《ゆき》て見れば、五輪一基(いつき)、有《あり》て、女は、見えず。

 義弘も、大《おほき》におどろき、あはれに思ひ、いみじく、跡を、とふらはる。

 其男子、ひとゝなりて、「石丸」何がしと名づく。

 石丸氏の祖なり。

[やぶちゃん注:典拠の「同」は前話と同じ「犬著聞」を指す。正しくは「犬著聞集」。本書は既に前々話の冒頭で注済み。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、前話の最後で示した同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていない。

「大内左京太夫義弘」(延文元/正平一一(一三五六)年~応永六(一四〇〇)年)は南北朝末から室町前期の武将。弘世(ひろよ)の子。周防介・左京権大夫(さきょうごんだゆう)。周防・長門・豊前・和泉・紀伊の五ヶ国の守護。建徳二/応安四(一三七一)年、九州探題今川貞世(さだよ:了俊(りょうしゅん))に従い、転戦し、天授三/永和三(一三七七)年には懐良(かねよし)親王を奉ずる菊池武朝(たけとも)を大破した。元中六/康応元(一三八九)年三月の足利義満の厳島参詣に際し、防府にて迎え、義弘はこれに随行して二十七日から二十八日に上洛、以後、義弘は幕政の中枢に参加したため、在京が多くなる。元中八/明徳二(一三九一)年の「明徳の乱」では幕府方として反乱を起こした山名氏清らを破るなど、活躍し、その功により、山名氏の旧領国である和泉・紀伊の守護職を与えられている。また、南北朝合体斡旋に尽力した。さらに室町幕府と朝鮮との通交に仲介の労をとり、自らも朝鮮と交易して強盛を誇った。応永六(一三九九)年、義弘は、大内氏が百済の後裔であることを理由に、その縁故の土地を分けてくれるよう、朝鮮に要求していることは注目に値する。同年、義弘は鎌倉公方足利満兼や山名時清らと謀って「応永の乱」を起こしたが、地方での挙兵も鎮圧され、和泉堺に拠った義弘も幕府軍の攻囲を受け、十二月二十一日(ユリウス暦では一四〇〇年一月十七日)、敗死した。享年四十五。また、義弘は和歌・連歌に通じ、「新後拾遺和歌集」の作者に列している。死後、堺の義弘山(ぎこうさん)妙光寺に葬られたが、後に、彼が、生前、山口に建立した菩提寺である香積寺(こうしゃくじ:現在の瑠璃光寺)に移葬された(小学館「日本大百科全書」に拠ったが、一部で当該ウィキも参考にした)。「在京のとき」。元中六/康応元(一三八九)年三月末以降の初上洛を時制としてよいか。但し、史実上は、上記の通り、それ以降は在京が多くなるので、本話の内容とは上手くは噛み合わない。以下の「石丸」某の注に引いた内容からは、実は義弘の没年である応永六年の出生とする。

『「石丸」何がしと名づく。石丸氏の祖なり』不詳。但し、その末裔とする戦国末から江戸初期の石丸忠兵衛なる人物がおり、サイト「愛媛県生涯学習センター」の「石丸忠兵衛」のページによれば、石丸忠兵衛(天正一三(一五八五)年~万治元(一六五八)年)は現在の今治市の『越智朝倉下村に』『生まれる。その祖は大内義弘で、応永』六『年』、『一子石丸の来住と伝える。庄屋、開拓者。初め甚蔵、後に忠兵衛吉久と改める。寛永』六(一六二九)年から同九『年の間、松山藩庁の許可を得て同村野々瀬原を開拓し、同村天王堰から山鼻を開削して水田』十二『町余を得た。しかし同地が今治藩との係争地となり、両藩協議によって野々瀬は今治領の朝倉中村となり、朝倉中村の内字岡、榾を朝倉下村とした。忠兵衛は仕方なく同郡長沢~桜井間の湾入の低湿地に着目、藩許を得て寛永』一一(一六三四)年五月、『一族と共に移住し、干拓に着手、同』十七『年に田畑』十五『町』七『反余を得た。後に藩は彼の功を賞して忠兵衛作村を立村し、忠兵衛を庄屋とした』(但し、忠兵衛の死後百五年の後の明和二(一七六五)年に『松山藩が』一『万石上地の際に、同村』は『長沢・桜井』の『二村に分割されて消失し』てしまっている)。鋭敏『闊達で』、『胆力があり』、『忠厚』の人物であったと『伝える。墓所は朝倉村満願寺にある。雲晴院秘月道円居士。(『愛媛県史 人物』より)』とあった。]

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