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2022/11/13

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「松坂友人書中御陰參りの事」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上段後ろから五行目以降)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は読み易さを考えて段落を成形した。]

 

   ○松坂友人書中御陰參りの事【文政十三庚寅年三月下旬より、同年五月上旬に至る略記也。】

一、扨《さて》、前段に申上候「おかげまゐり」の事、委しく申上《まをしあげ》んには、殊の外、長く相成候。且、珍らしき事はめづらしき事ながら、先年もありて、此度とても大かた、その先年のありさまなる事、先年のは、御如才なく、何ぞ、記《しる》し候もの御所藏と奉ㇾ存候故、あらあら、申上候。

[やぶちゃん注:「文政十三庚寅年」グレゴリオ暦一八三〇年だが、この文政十三年は十二月十日(一八三一年一月二十三日)に天保に改元しており、まさにこの文政十三年=天保元年にも「お蔭参り」が流行しているのである。因みに、本「兎園小説拾遺」の末尾の追記のクレジットは天保三(一八三二)年である。

「同年五月上旬」以下に見る通り、閏三月があったので、六月上旬はグレゴリオ暦で七月

二十日から二十九日相当。

「前段に申上候」相手を伏せているが、思うに、既出(『曲亭馬琴「兎園小説余禄 雷雪』他、三篇に登場する」の馬琴の親友で国学者の殿村安守(号は「篠齋」)と思われ、その往復書簡の、この前の便で語っているのであろう。

「おかげまゐり」「御蔭參り」。江戸時代、特定の年に起った集団的な伊勢参詣の現象。「抜け参り」ともいう(こちらの方が古い。但し、本文を読む限りでは、話者は、単独の内緒の「伊勢参り」を「抜け参り」と呼び、集団化したものを「お蔭参り」と言っているようにしか見えない)。これは、奉公人などが主人に無断で、または、子供が親に無断で参詣したことに由来する別称で、大金を持たずとも、「信心の旅」ということで、「お遍路さん」と同じように、沿道の人々から施しを受けることも出来た。伊勢参詣は封建的抑圧からの解放感を味わえるので、農民は競って「御蔭参り」に参加した。江戸時代を通じ、約六十年前後を周期とし、慶安三(一六五〇)年より、数回、発生しているが、伊勢の御師(おし)[やぶちゃん注:次の次の私のリンク先を参照のこと。]や、豪商の扇動により意図的に発生したケースもあると言われている。特に幕末の、この伝統の上に「世直し運動」として展開した有名な「ええじゃないか」は伊勢参りをするわけではないが、この影響下にあった集団ヒステリーの一種である。以上は概ね「旺文社日本史事典」に拠ったが、当該ウィキが非常に詳しいので、参照されたい。そこでは、江戸時代の集団参詣現象としては、慶安三年の前に寛永一五(一六三八)年を挙げてある。これは、最近の電子化物の『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「一 神明利生之事 附 御罰之事」』に寛永中のこととして、伊勢への『ぬけ參り』が登場している。また、同ウィキでは、「お蔭参り」という呼称は明和八(一七七一)年のそれから始まったとある。さらに、なお、「お蔭参り」と直接にはリンクはしていないが、驚天動地の、犬や豚が単独で伊勢参りをした事実があることもお示ししておく。私の「耳嚢 巻之九 奇豕の事」を読まれたい。]

 此度《このたび》のは、御聞及《おききおよび》の如く、阿波國より、はじまり候。

 尤《もつとも》、當春は御返宮翌年故、早春より參宮人、おほし。

 但し、いつも三月は、京・大坂、もつぱら出《いで》候事なれども、當春は餘寒長きと、閏月との故にや、三月、いまだ、京・大坂は、いかふ、出不ㇾ申候所、三月廿七、八日比《ころ》、阿波と記し候笠、おほく見えかけ、閏月朔日二日、いよいよ、阿波、たくさん、其内、大坂へ、阿波船、日々《ひび》、着《つき》候噂なども有ㇾ之、

「御陰詣が、はじまる。」

など、申内《まをすうち》、三日、四日と續《つづけ》て、ドヤドヤいたし、且、阿波船、紀州へも着《つく》。

[やぶちゃん注:「御返宮翌年」この前年の文政十二年に伊勢神宮の式年遷宮が行われていた。

「閏月」文政十三年は閏三月があった。春三月まで余寒が続いたことと、「まだ三月がもう一月あるから」という認識で、やや参詣者が出遅れたということか。

「いかふ」恐らくは「一向」の意であろう。

「三月廿七、八日」文政十三年のそれは、グレゴリオ暦で四月十九、二十日である。]

 それに、さそはれて、紀州も出かけ、泉州も、おひおひ、出かけ、六日、七日にいたりては、いよいよ

「おかげに成《なり》たり。」

とて、當地なども、町々、施行《せぎやう》をはじめ候。

 大坂も、其比より、施行、始候よし。

[やぶちゃん注:「施行」この場合は、膨大な「お蔭参り」の発生を受けとめるための、伊勢の町全体が、いろいろな準備・仕度をし出すことを言っていよう。中心になるのは、伊勢の御師(おし)であるが、宿屋・飲食店・土産物屋等も相応のそれが急務となる。]

 もちろん、其比より、大坂も、追々、出かけ、大和も出かけ、上野街道・阿保《あお》街道・田丸街道と、三つ、有ㇾ之候。上野と阿保は、當地より一里西なる、三渡六軒茶屋《みわたろくけんちやや》と申にて、落合候。田丸街道は宮川上《みやがはうへ》之《の》渡《わたし》え[やぶちゃん注:ママ。]出候。よつて、是は、當所は通り不ㇾ申候。此街道も、其比より、日々、大込合《おほこみあひ》、當所は、前《さきの》二街道、落合《おちあひ》候事故、猶、又、大込合、宇治山田は、右、三方、人、込《こみ》候事、其大込は申上る迄も無御座候。十日比は、大坂、もつぱら、攝州・阿州・播州、追々、出候。備中、其外、石見なども、ちらちら見え候。され共、是等は、「おかけ」に出《いで》しに、あらじ。例の「ぬけまゐり」が、途中から、「おかげ」に成《なり》候にも有るべし。廿日比は、京、もつぱら、城州・江州、おほく見かけ候。尤、阿波・大坂・和泉・攝・播抔《など》も、やはり、うちまじり出候事、右に、「何日比は何州。」と認《したため》候は、其比、その州がおもに出盛り候を申上候なり。

[やぶちゃん注:「上野街道、阿保街道、田丸街道と、三つ、有ㇾ之候」伊勢の株式会社「伊勢福」の公式サイトでズバり、「おかげ横丁」の「ちょっと寄り道 第二回」の、うえのめぐみ氏の「お伊勢まいり 各道」の地図を見られたい。「上野街道」は恐らくそこにある現在の三重県「伊賀」上野から津の方に向っている街道で地図では「伊賀街道」とあり、その下の桜井から松阪(まつさか)に出る地図の「初瀬(はせ)街道」が途中で伊賀市阿保(あお:グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)を通過することから「阿保街道」となろう。最後の「田丸街道」は起点を名古屋として終点直近の伊勢参宮の宿場町として栄えた旧度会郡田丸町、現在の三重県度会郡玉城町(たまきちょう)に至るまでの「伊勢参宮街道」のことを指すのであろう。

「三渡六軒茶屋」三重県松阪市六軒町(ろっけんちょう)に三渡神社(みわたりじんじゃ)があり、その東方直近の三渡川の南詰に「いがごえ追分」の石柱が残る。三渡川の右岸をそこから少し川上に行くと、これが旧初瀬街道とある。

「宮川上之渡」現在の三重県伊勢市川端町にあった「上の渡し」(別名「柳の渡し」)のこと。宮川にある三箇所の「渡し」の中で一番上流にあった。サイド・パネルの説明板を見られたいが、ここは主に上方・西国・熊野からの参宮客を渡したとある。そこには、渡しは二つとあるが、ここから下った中流に「宮川・桜の渡し」があり、そのサイド・パネルの記銘石の写真を見ると、他に「磯の渡し」があったとあるので、都合、三つの渡しがあったということになる(ここには「おかげまいり」の集団を描いた浮世絵もある)。伊勢参宮のためには、必ず、この宮川を舟で渡らねばならなかった、とある(橋は架かっていなかった。従って、物資の運搬もそうであったということで、これは、「お蔭参り」の前の「施行」は、これ、なかなか大変だっただろう。但し、それらの大物や、量のある物は、以下に出る沿岸を抜けて宮川右岸に持ち込まれたのであろう)。

「宇治山田」伊勢神宮の前の広域の地名

「十日」閏三月十日はグレゴリオ暦四月二十九日。

「廿日」同じく五月十二日。]

 閏月末《すゑ》、四月差入《さしいり》は、丹波、丹後、多く候。十日比は、尾張・三河・遠江など、船にて、おほく、出かけ候。猶、陸路をも、尾州・美濃・其内、陸は濃州澤山、廿日頃より、尾張、又、陸を多く出かけ候。此節も尾張、不ㇾ絶、見かけ候。

[やぶちゃん注:「閏月末、四月差入」閏三月末から四月の初め頃。

「十日」四月十日はグレゴリオ暦五月三十一日。]

 閏七、八日頃がはじめの盛《さかり》、十五、六日比も、又、一盛り、廿日過《すぎ》が、一番、大さかりにて、四月に成候ては、そろそろ、減《げん》じかけ、此節は、大に、うすく相成候。

[やぶちゃん注:「閏七、八日」同前で四月二十九、三十日。

「十五、六日」同前で五月七、八日。

「廿日」同前で五月十二日。

「四月」この年の陰暦四月一日はグレゴリオ暦五月二十二日。]

 されども、猶、此節とても、地場《ぢば》は、三月比のにぎはひほど、有ㇾ之候。日によりては、それよりも賑ひ候日、有ㇾ之候。東國は遠州まで、その餘は、いかふ、見かげず、打《うち》まじりは、あるべく候へども、目立候ほどにあらぬ成べし。江戶々々といふも、大ぶん有ㇾ之候へども、地場の「ぬけ參り」か、「おかげ」に出かけ候か、はかりがたし。

[やぶちゃん注:「地場」ここは狭義の「地元」の意でであろう。宇治山田、或いは、話者の住む「いがごえ追分」附近から東に一里離れた場所(松阪市市街地の海浜近く)の様子ででもあろう。

『地場の「ぬけ參り」』この場合の「地場」は、かなり広域の意味での「地元」の意でもとれるが、或いは「その土地の取引所に出入りする取引員及び常連客」の謂いかも知れない。]

 此節の處、まづは、末とも見え候へども、

「植付《うへつけ》、片付《かたづき》候はゞ、又、今、一盛りあるべし。」

とも申候へば、そも、はかりがたし。先年も、一旦、薄く成《なり》、また、出盛《でさかり》候事ありし趣也。何《いづ》れ、少々宛《づつ》の增減は、かれこれ、秋迄は、「おかげ」のなごりは、あるべく存ぜられ候。

[やぶちゃん注:「植付」稲の植え付け。

「先年」物理的に直近の「お蔭参り」とすると、当該ウィキによれば、二十七年前の享和三(一八〇三)年となる。その前となると、ウィキに詳細が載るほどのデータがある明和八(一七七一)年があるが、これは凡そ六十年前のことで、ここで現役の商人や庶民が「先年」と呼ぶようなもの、記憶に残っているものとは認められないのだが……(後注参照。この否定を結果として解除し、明和八年のそれを言っていると採る)。]

 先年は、凡《およそ》百日餘りに及《および》候よし。此度は、此節を「末」と見れば、日數は、みじかく、但し、はじめより、ドヤドヤと出かけ候模樣、先年とは、はげしき樣子なり。猶、又、先年の「おかげ」にうたひし唱歌、老人、謠ひ候を聞くに、拍子、ゆるき者なり。此度の、あるきぶりには合不ㇾ申候。

[やぶちゃん注:前注では、ああ書いたが、この『先年の「おかげ」にうたひし唱歌、老人、謠ひ候を聞くに』という辺りは、寧ろ、明和八年のそれのようにも見えてはくる。明和のそれは、当該ウィキによれば、参詣者は約二百万人(当時の日本総人口は三千百十万人ほど)、発生したのは山城国の宇治で、期間は四月から七月(四箇月間・機械計算で百四十七日)であった。また、『参詣者らは「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃しながら歩いた』とある。『先年の「おかげ」にうたひし唱歌』とは、これか?]

 されば、此度のは、先年にくらべ候へば、はげしくせわしきかたとも申べし。六十年のちがひと、ぞんじられ候。

[やぶちゃん注:「六十年」これは明らかに明和八年の「お蔭参り」を念頭に置いた謂いである。]

 且、京・大坂の男女は申に不ㇾ及、其餘も、何れも、花やかにて、一《ひと》むれ、一むれ、揃《そろひ》の出立《いでたち》なり。勿論、着のまゝぬけ出候筋も多く見え候へ共、

「いざや、おかげ詣せん。」

とて、こしらへて出かけ候樣なるも、多く相見《あひみ》え候。老人の中に、

「すべて、此度《このたび》のは、先年より、何事も、陽氣、花やかなり。」

と申候。さもあるべくぞんじ候。

「にぎはひは、先年より、多い。」[やぶちゃん注:「多い」はママ。]

と申《まをす》老人も、あり、又、

「先年のかた、多かりし。」

といふ老人も、あり、定めがたく御座候。

 廿日頃、「宮川の渡し」、幷に「上《か》みの渡し」とも、一艘に百人として、一日、凡《およそ》、二十四、五萬人、左樣の日、前後十日計《ばかり》、有ㇾ之候樣にも相聞え候也。又、左もなく、頂上《ちやうじやう》の日、凡、十四、五萬人なりし樣に申《まをす》人もあり。いづれならんや。何にもせよ、大そう成《なる》事にて、ちよと、むかう側へ往來《ゆきき》も、おしわけかね候とも、よろしき程の事、有ㇾ之候。

[やぶちゃん注:「頂上の日」最も乗船客が多かった日の意であろう。]

 「おかげ」につきての奇事、いろいろ、たくさん、中々、かりそめの筆には、盡しがたく御座候。前段人數の事抔も、猶、とくと聞定め候はゞ、大體、實《じつ》に近き所もしれ候はんか。何やかや、此度の「おかげ」、くわしき事、一册に、しるしたく、友達共、申合せ居候へば、委敷《くはしき》のか、あらきのか。いづれ、出來《しゆつらい》可ㇾ申候へば、追《おつ》て、御目にかけ候樣可ㇾ仕候。

 先年のは、はなしにのみ、聞及居《ききおよびをり》候處、此度のにて、實に、おどろかれ候ほどの賑ひ、閏月一月《ひとつき》は、唯、ざわざわと、日を立《たたせ》候事也。宇治山田をはじめ、當所、其外、往還、いづかたも、諸施行、此費用も、すくなからぬ事成《なる》べく候へ共、又、宇治山田は、勿論、往還筋へ、潤ひ候金銀、錢《ぜに》、大き成《なる》事、何にもせよ、昇平の餘澤金澤結構《よたくきんたくけつこう》難ㇾ有き事と奉ㇾ存候。京大坂抔も、色々、施行、花々敷《はなばなしき》樣子承り申候。すべて、見、あつめ、聞、集め、いかで委敷一册を記したく、心組《こころぐみ》はいたし居候へ共、例の多用、いかゞ御座候はん。無覺束候。

[やぶちゃん注:「昇平の餘澤金澤結構難ㇾ有き事」「世の中が平和に治まっていることによるおこぼれを戴き、その黄金(こがね)が、この伊勢の地に落ち溜まって、結構毛だらけ猫灰だらけ、「お蔭」を以って有り難い。」という感じか。]

 扨《さて》、閏月十九日夜より廿日朝へかけての、宇治橋燒落《しやうらく》、御山《みやま》へ飛火《とびひ》にて、燒込《やけこみ》、御古殿《おんこでん》荒祭宮《あらまつりのみや》、其外、いわゆる八十末社抔、御炎上、いともかしこく恐入候。しかれども、御正殿、幷、東・西寶殿、御饌殿、御神樂殿無御別條、わきて、御正殿、東西、寶殿は東と御古殿、西は八十末社、實《じつ》に、わづかの隔《へだて》のみ。その東西は炎上いたし候に、中にありて、無御別條、鳥居・玉垣迄、聊《いささか》の焦《こげ》も無ㇾ之事、今更、申上《まをしあぐる》も、無ㇾ之候へ共、神威、かしこく、難ㇾ有奉ㇾ存候。

[やぶちゃん注:「宇治橋」伊勢神宮内宮の入り口の手前の五十鈴川に架かる檜造りの橋。ここ

「御古殿」以下の荒祭宮の敬称冠辞ととっておく。

「荒祭宮」内宮(皇大神宮)の境内別宮。ここ

「八十末社」不詳。私は妻と行ったが、「伊勢うどん」を食って、宇治橋の北詰までで、神宮内には足を踏み入れなかったから、中を知らない。入らなかったのは西行・芭蕉に倣ったのではなく、興味が全くなかったからである。

「御正殿」ここ

「東・西寶殿」前記リンクの北に東西にある。

「御饌殿」ここ

「御神樂殿」ここ。]

 但し、かぐつちの神の御あらびは、大御心《おほみこころ》にも、まかせられざる事なれば、御正殿、御炎上ありとて、あやしむべきにあらず。

 既に、昔より、萬治年中などにも、御炎上ありし事にはあれど、今年、「おかげ」の最中、御炎上にては、何とやらん不都合成べきを、三方、四方、火の中にて、聊の焦も無ㇾ之事、諸人、かんるいを流し、尊《たつと》く有がたく奉レ存候事也。且、風烈急火《ふうれつきふくわ》の處、大勢、入込居《いりこみをり》候土地不案内の諸國人迄、一人も怪我無ㇾ之事、是又、有がたく奇妙の至《いたり》に御座候。火は、山のうしろ、磯部山の方へ、凡、一里餘小二里も燒行《やけゆき》、廿一日の朝、雨にてしづまり候趣に御座候。

[やぶちゃん注:「かぐつちの神」伊耶那岐(いさなき)・伊耶那美の産んだ最後の火之迦具土神(ヒノカグツチ)。火の神。そのため、出産時に伊耶那美の陰部が焼け爛れて、伊耶那美は亡くなる。それに怒った伊耶那岐によって天之尾羽張(あめのをはばり)の剣で首を落とされ、殺されてしまう。回禄除けの神として知られる。

「大御心」ここは伊勢神宮の祭神天照大御神のことであろう。

「萬治」一六五八年から一六六一年まで。第四代徳川家綱の治世。

「磯部山」内宮の神宮宮域林のある広域の山体を古くには、かく読んでいたのであろう。この地域を南東に抜けると、三重県志摩市磯部町が広がり、皇大神宮別宮である伊雜宮(いざわのみや)がある。]

 荒祭宮は御案内の如く、おもき御宮故、右に付、閏下旬、禁中五日(イ、二、三日)の御つゝしみ被ㇾ爲ㇾ在候。此節、公卿勅使として、葉室左大辨殿、藤波祭主殿、參向、有ㇾ之候。右、火の節、いろいろの奇妙申《きみやうのまをし》となへ候事、有ㇾ之候へども、碇《しか》と致し候儀も不ㇾ承候。

[やぶちゃん注:「イ」不詳。物忌(ものいみ)のそれか。

「葉室左大辨殿」当時の藤原北家勧修寺流の支流葉室家当主は葉室長順(ながとし)。

「藤波祭主殿」藤波家は祭主として神祇を司る家。伊勢両宮・伊勢大湊八幡宮・伊勢香良洲社・尾州内宮御祭社の伝奏役であった。]

 荒祭宮、自然《おのづ》と、御扉の、ひらけたる事は、實正《じつしやう》と承り候。

 閏月上旬、外宮、玉串、御門内の敷莚《しきえん》に、穗を生じ、實を生ず祥瑞、有ㇾ之候。是も實正の趣に御座候。

 前にも「おかげ」に付、例の御祓《おんはらへ》のふり候事抔、又、いろいろ、さまざま、奇事《くしきこと》、かぞへ盡しがたし。

[やぶちゃん注:「御祓」幣帛(へいはく)。御幣のこと。]

 先年の「おかげ」の節、京都何某が書し、「ぬけ參夢物語」てふものゝ如き、いはゆる。儒見漢意にて論ぜんは、いかぞ也《や》。されども、又、中には、あまり奇怪過《すぎ》、世にいふ「はやり神さま」などに有《あり》そうな[やぶちゃん注:ママ。]奇特《きどく》にては、御人柄ではない御神柄《おかみがら》には不似合など、難說等も御座候。

 あらあらと申せど、認《したため》かけ候へば、つい、長く相成候。まづ、此邊にて差置候。

 前段、申上候如く、小子《しやうし》は、多用、おぼつかなく候へ共、友人ども申合せ置候へば、友人のにても出來候はゞ、近日入御覽候樣可ㇾ仕候。此間中は、梅雨、降つゞき、尤《もつとも》、おりおりは、雨間も候ヘ共、とかく晴《はれ》かね候。貴地も同樣と奉ㇾ存候。もはや、植付に十分のよし候へば、早々、快晴を祈入候。晴上候《はれあがりさふら》はゞ、追々、暑《あつさ》をもよほし可ㇾ申候。せつかく、御自愛被ㇾ成候樣奉ㇾ存候。恐惶渥言。

 五月七日

[やぶちゃん注:実は、この後、四篇、「お蔭参り」の記録が続くことを断っておく。]

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