大和怪異記 卷之二 第三 室生の龍穴の事
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、これ以降では、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]
第三 室生《むろふ》の龍穴《りゆうけつ》の事
大和国室生の龍穴は、善達龍王のすめる所なり。龍王、はじめは、「猿沢の池」に住(すみ)けるに、天智帝の御宇に、采女(うねめ)、身を投(なげ)し故、龍王、死穢(し《ゑ》)をさけて、香山《かうぜん》に住《ぢゆう》す。此所にても、死人を捨(すつ)るもの、有《あり》しかば、爰をも、去《さり》て、室生に移れり。
室生に賢俊僧都といふ人あり。
『龍王を拜(おがま)せむ。』
と思ふの志(こゝろざし)ありて、龍穴に入《いる》こと、三、四町に及び、くらきを凌(しのぎ)て後、靑天の所にいたる。
此所に、一つの宮殿あり。
僧都、其南《みんなみ》砌(みぎり)に、立(たつ)てみるに、珠簾(しゆれん)をかけ、光(ひかり)、あたりを、かゞやかす。
簾(すだれ)を、風の吹(ふき)あげたるに、裏(うち)を見れば、玉机(ぎよくき)の上に「法華經」一部を置《おけ》り。
しばらく有《あり》て、人、出《いで》て、
「足下(そこ)。何のために、來《きた》るや。」
と、とふ。僧都、答《こたへ》て、
「御躰(《おん》てい)を拜し奉らんとて、參入(さんにう)せしむ。」
と、いふ。
龍王いはく、
「此所にをいて[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、對面、かなふべからず。穴を出《いで》、三町を經て、あふべし。」
と。
僧都、もとのごとく、穴(あな)に出《いづ》るに、約せしごとく、龍王、衣冠を着し、腰より上(かみ)、水中より、出《いで》つ。
僧都、拜するに、たちまち、消(きえ)うせぬ。
是によつて、件《くだん》の邊(ほとり)に社《やしろ》を建(たて)、龍王のかたちをきざんて[やぶちゃん注:ママ。]、安置す。
是よりして、雨を祈るには、件の社頭にをいて、經をよめば、龍穴の上に、黑雲(くろくも)、たなびき、雨、くだる、といふ。「古事談」
[やぶちゃん注:出典の「古事談」は既注。「佛教大学図書館デジタルコレクション」のこちらの嘉永六(一八五三)年の版本で13コマ目、単独画像ではここと、ここ。それを見ても判る通り、僧名を本篇では誤っていることが判る。「賢俊僧都」ではなく、「賢憬僧都」が正しい。所持する「新日本古典文学大系」版四十一「古事談 続古事談」(川端善明・荒木浩校注)では、本文を『賢憬(けんきやう)僧都』とする一方、脚注では、佐久間竜氏によれば、「賢環」が正しいとする、とある。但し、ウィキでは「賢憬」で挙げている(孰れにせよ、その脚注中には「賢俊」と記す資料はないことが判るので、誤りである)。以下、引用する。賢憬(けんけい 和銅七(七一四)年~ 延暦一二(七九三)年)は『奈良時代の法相宗の僧。俗姓は荒田井氏。尾張国の出身。賢璟(けんきょう)とも称される。尾張僧都あるいは尾張大僧都とも呼ばれた』。『興福寺の宣教に師事し』、『唯識法相を学ぶ一方で』、『苦業練行を重ね』、天平一五(七四三)年『正月に「師主元興寺賢璟」として同族の子麻呂を優婆塞に貢進推挙し』ている。天平勝宝六(七五四)年、『唐の僧鑑真を難波に迎え、翌』年に『旧戒を破棄し』、『鑑真から具足戒を受けた』。天平宝字二(七五八)年に『唐招提寺に一切経』四百二十『巻を奉納して』おり、宝亀五(七七四)年には『律師に任じられている』。宝亀九(七七八)年『頃、大和国室生山で延寿法を修して』、『山部皇太子(後の桓武天皇)の宿痾を治したために、後に桓武天皇の深い信頼を得た』宝亀一一(七八〇)年には、『多度大社神宮寺に三重塔を建立、また』、この『宝亀年間』(七七〇年~七八〇年)『には室生寺を創建している』。延暦三(七八四)年、『大僧都に任じられ』、翌延暦四年四月の『最澄の戒牒』(かいちょう:僧尼が戒を受けた後、その事実証明として交付される公文書。「度牒」とも言う)や「多度神宮寺伽藍縁起並資財帳」には、『ともに僧綱の一人として署名し』ている。延暦一二(七九三)年、『遷都を行うにあたって』、『遷都先の地を選ぶ際、山背(山城)の地に派遣されて』おり、『その際、比叡山文殊堂供養で導師をつとめている』。八十『歳で没した』。『高い学識で知られ、大安寺戒明が入唐求法で請来した「釈摩訶衍論」を調べ』、『これを偽書と判定し、最澄と』、陸奥国『会津』(あいづ)の法相宗の僧『徳一』(とくいつ)『との論争に影響を与えた。多くの弟子がいたが、その中でも修円・明福は有名である』とある。
「室生」現在の奈良県宇陀市室生にある真言宗室生寺派大本山宀一山(べんいちさん:又は檉生山(むろうさん))室生寺(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。本尊は如意輪観音。当該ウィキによれば、『この寺は奈良時代末期の宝亀年間』(七七〇年~七八一年)』に『興福寺の僧』でここに出る賢憬に『よって開かれた。創建については、役小角(役行者)の草創、空海の再興とする伝えもあるが、これらは後世の付託である』。『平安時代を通じて興福寺別院としての性格が強く、俗世を離れた山林修行の場、また、諸宗の学問道場としての性格も持っていた。中世以降の室生寺は密教色を強めるものの、なお興福寺の末寺であった。興福寺の傘下を離れ、真言宗寺院となるのは江戸時代のことで』、『真言宗の拠点である高野山が』、『かつては女人禁制であったことから、女性の参詣が許されていた室生寺には「女人高野」の別名があるが、この別名は』以上から、『江戸時代以降のものである』とあり、『なお、山号の「宀一」は「室」のうかんむりと「生」の最後の一画だという』とある。
「龍穴」「新日本古典文学大系」版脚注に、『室生川上流の、室生火山群の造り出した洞穴が屏風岩の下に口を開け』ており、『そこに龍が棲むという伝承と信仰は古い』とある。ここ。以上の地図で判る通り、室生寺東南直近(徒歩実測で一キロほど)に「室生龍穴神社」があり、これが最後の「件の邊(ほとり)に社を建(たて)」に相当する。
「善達龍王」「阿那婆達多竜王」(あなばだったりゅうおう)。サイト「神魔精妖名辞典」によれば、『仏教における八大竜王の第六尊。八大竜王の中でも最も徳が高いとされる。尊名の「阿那婆達多(あなばだった)」はサンスクリット名である』「アナヴァタプタ」を漢音写したもので、『他に「阿耨達龍王(あのくだつりゅうおう)」』(「長阿含経」等)、 『「阿耨大龍王」(あのくだいりゅうおう)」』(「仏説興起行経」)、『「阿那婆答多龍王(あなばとうたりゅうおう)」』(「大唐西域記」)『と音写されるほか、住んでいる池の名前から「阿耨達池龍王(あのくだっちりゅうおう)」、「阿耨大池龍王(あのくだいちりゅうおう)」、サンスクリット名の意味訳から「無熱惱池龍王(むねつのうちりゅうのう)」、「無熱池龍王(むねつちりゅうおう)」、「無熱龍王(むねつりゅうおう)」とも称される。大雪山の山頂にあり、人間界を潤す源泉となっているとされる、「阿耨達池(あのくだっち)」と呼ばれる池に住んでいるとされる』とある。これは前掲の「新日本古典文学大系」版の別な記事の脚注で、以上の内容とほぼ同じものが確認出来た。
「猿沢の池」法相宗興福寺(天智天皇八(六六九)年に山背国山階(現在の京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が起源で、「壬申の乱」があった天武天皇元(六七二)年、寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。以上は当該ウィキに拠った)が行う「放生会」の放生池として天平二一(七四九)年に造られた人工池。ここ。「新日本古典文学大系」版脚注に、興福寺の縁起類を纏めた秀盛編の「興福寺流記(るき)」に、『興福寺伽藍は伏龍の集まる上に結構されたといい、殊に金堂の下は龍宮で、南大門の槻木』(つききのき:欅(けやき:バラ目ニレ科ケヤキ属ケヤキ Zelkova serrata )の別称)『のもとの穴から通うことができたという』とあり、この『南大門の外に位置した放生池である猿沢池は龍池であった』とる。底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」の「興福寺流記」(写本)の、ずっと後のここで(単独固定画像)、金堂の伝承は記されてあり、前のここと、ここで、以上の本篇の第一段落の内容も含めて、総てが確認出来る。なお、この猿沢の池の龍伝承は、「宇治拾遺物語」の「藏人得業猿さはの池龍事(蔵人(くらうど)得業(とくごふ)、猿澤の池の龍の事/巻第十一第六話・第百三十話)で知られ(「やたがらすナビ」の同話(訓読・新字)をリンクさせておく)、また、芥川龍之介の小説「龍」でとみに知られる(『中央公論』大正八(一九一八)年五月初出で、翌年に刊行された作品集『影灯籠』に所収された。国立国会図書館デジタルコレクションの同原本の本文冒頭をリンクさせておく)。
「天智帝の御宇に、采女(うねめ)、身を投(なげ)し」「新日本古典文学大系」版脚注に、『奈良の帝に仕える采女が一度しか召されなかったことを憂えて投身した伝説』に拠るとある。「天智帝の御宇」は天智天皇七(六六八)年から天智天皇一〇(六七二)年(没年)。
「香山《かうぜん》」読みは「新日本古典文学大系」版本文に拠った。脚注に、この山は『春日山の東南、もと香山薬師寺』(こうぜんやくしじ)『の存在した山』で、『平城京の水源の一つに当たり、水神の信仰があり』、『祈雨も行われた』。この附近に当たる。上に示した「興福寺流記」画像にある通り、『興福寺南大門に七十年住んだ龍は香山に移り』、さらに、その『四十後、室生に移住したという』とある。
「三、四町」約三百二十七~四百三十六メートル。
「砌(みぎり)」軒下或いは階下の石畳。
「法華經」「新日本古典文学大系」版脚注に、「法華経」には、『釈迦の説法を八代龍王が聞いた話や八歳の龍女成仏の話がある』とある。
「雨を祈る」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『龍穴神への祈雨は、以後、興福寺僧で僧綱(律師以上)のものが導師となり』、『天応元年(七八一)から承平七年(九三七)までに二十七度の請雨・止雨の祈禱がなされている』とある。]
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