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2022/11/21

亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「文政十三年庚寅秋七月二日京都地震之事」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ下段後ろから三行目以降)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は短いので、そのままとした。

 なお、これは京都地震の様子を語った書簡が主文であるが、以下、それの関連記事が、六つ、続く。]

 

   ○文政十三年庚寅秋七月二日京都地震之事

一、七月二日申の上刻、大地震ゆるぎ出し、尤《もつとも》、所々の地、さけ、京中の土藏、一ケ所も無難のもの無ㇾ之、大造《たいさう》に倒れ、又は不ㇾ殘、土、落《おち》候て、壁、したじ計《ばかり》に成候も有ㇾ之。處々、怪我人も多く、別《べつし》て上京西山邊、嵯峨・桂川つゞき、伏見邊、荒れ、强く、前代未聞の事にて、「何時《いつ》死命相成候哉《や》。」と、京中の人々、大道中へ、皆々、疊等、其外、丈夫成《なる》物を拵へ、子供・老人・病人・女共、野宿同樣にて、二日より四日朝迄、更に人心地付不ㇾ申、不快の由、處々騷敷《さはがしき》に付、大工等、呼《よび》に遣し候ても、御所方人足《ごしよがたにんそく》にとられ、つぶれのつくろひも出來不ㇾ申。其中に、火事をあんじ、大心配に御座候。上《うへの》禁裡御所・仙洞御所、御庭廣き處え、御立退《おたちのき》、御所司代、町御奉行、御附方《おつきかた》、其外、近國の大・小名、不ㇾ殘御所え、御詰《おんつめ》、大變、いふばかりなく、一時に、大ゆり、五、六度づゝ、ゆり返しもあり、諸人、面色、靑ざめ、食事もすゝみ不ㇾ申、誠に生《いき》たる心地、無ㇾ之と申《まをす》事に御座候。

  寅七月      手利組合飛脚所

               島屋佐右衞門

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]

此一左右《このいちさう》[やぶちゃん注:「左右」は書簡の意。]を得て、尙、亦、島屋、三度、飛脚、當時、京都に逗留せし者に聞しに、其者の言《いはく》、所によりて、地の裂《さけ》たるも有ㇾ之。最初は卽死人、六百許《ばかり》、怪我人二千餘と風聞御座候へ共、實は其半分位の事のよし。

禁裡御所は煩《わづらはし》き候處も有ㇾ之、御築地《おんついぢ》等は、たふれざるよし。寺院・門跡をはじめ、倒れ候處は無ㇾ之、況《いはんや》、山などの崩れ候事は、決して無ㇾ之候。此節、ちまたを賣《うり》あるき候者は、多く相違の事に御座候。七月二日申の刻より、翌三日辰の刻迄、ゆりかへし、ありし、といふ【實は、酉の刻以來は、振動なり。】。

右、京師の大震は、豐太闇の時、伏見大地震の外、實に前代未聞也。

七月朔日、京四條鉄屋町、失火、半町四方、延燒、家數六十棟許《ばかり》類燒せり。其翌日、此土、地震あり。是、實說也。

[やぶちゃん注:以上は文政十三年七月二日(一八三〇年八月十九日)に発生した京都地震の記録。当該ウィキによれば、「京都大地震」「文政京都地震」とも『呼ばれる直下型地震で、京都市街を中心に大きな被害を出した』。震央は『京都府亀岡市付近と推定』され、『地震規模は』マグニチュード六・五前後とされる。『京都市街地を襲』った『内陸型の地震で』、『二条城や御所では石垣や塀が崩れ、町人街では土蔵に被害が集中した』。『被害は京都市内だけでなく、伏見、宇治、淀でも生じ』、研究者は、『天明大火以降』、『急速に普及した倒壊しやすい桟瓦葺屋根(波形の瓦葺き屋根)が被害を拡大したと分析している』。「甲子夜話」の『記述では、市中の二階建ての建物は』、『ことごとく倒壊し、土蔵や塀なども大きな被害を出したと伝えている』『が、御所や公家屋敷地区では壊滅的な被害ではなかった』。「文政雑記」の『記述によると、町方の人的な被害は怪我人』千三百『人、即死』二百八十『人であるが、御所内や武士の犠牲者数は不明である』。『著名な建築物や寺院も例外ではなく、二条城、興正寺、北野天満宮など多数の建築物が被災している』。『扇状地内の旧池沼地に造営された二条城は地盤が軟弱で』、『局所的に被害が集中し、石垣の崩壊、櫓・門・土塀の倒壊が記録されているが』、『二ノ丸御殿』等は『部分的な損壊であったとされている』とある。

「申の上刻」午後三時頃から午後三時四十分頃。

「手利組合飛脚所」飛脚業の「優れた」の意を冠した通称の固有名詞か。

「島屋佐右衞門」「島屋」「嶋屋」で江戸の定飛脚問屋の支配人で、元禄四年五月に江戸で飛脚会所を開いて、飛脚組合を始めたのが始まり。

「辰の刻」午前七時頃から午前九時頃まで。

「酉の刻以來は」地震発生の日の午後五時頃から午後七時頃まで。

「振動なり」軽い微振動。軽い余震。

「伏見大地震」「慶長伏見地震」。文禄五年閏七月十三日(一五九六年九月五日)子の刻(午前零時前後)に山城国伏見附近(現在の京都府京都市伏見区相当地域)で発生した大地震。推定マグニチュードは七・五前後で、畿内の広範囲で震度六相当の揺れであったと考えらえれている。京都では、伏見城天守・東寺・天龍寺・方広寺大仏等が倒壊し、死者は千人を超えたとされる。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。

「七月朔日」一八三〇年八月十八日。

「半町四方」五十四・五メートル四方。]

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