曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第一 「文政十一年戊子の秋、西國大風洪水幷に越後大地震の風說」
[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段六行目から)から載る正字正仮名版を用いる。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。
馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]
○文政十一年戊子の秋、西國大風
洪水幷に越後大地震の風說
文政十一年秋八月、西國筋、大風・洪水にて廬舍、轉倒、人、多く、死せりといふ。就中《なかんづく》、肥前長崎・豐前小倉・筑後柳川など、尤《もつとも》甚し。柳川の大風・洪水は、八月四日、十六日、廿四日、三度也とぞ。關東は七月廿九日なりき。柳川候の家臣西原一輔老人、その愛婿關子亮【潢南《くわうなん》の子、號、「東陽」。】に消息して、これらの事を巨細《こさい》に告《つげ》たり。この天災にて、柳川領分に、士庶、死たるもの、五百許《ばかり》人《にん》とか、聞《きき》にき。この條も、「千里面談」【書名。】にあり。異日、閑を得ば、借抄すべし。只、これのみにあらずして、東海道、遠州濱松領見附邊《へん》、甚しく、上野は高崎在、坂東太郞の河筋、人家の家根まで、水の浸《ひた》せしといふ【杉浦氏、當時、高崎近鄕に在勤して目擊する所。予が爲に、いへり。】又、陸奧は、仙臺領・岩城領・下野宇津宮領は洪水によりて、六萬五千石許、損毛のよし、公儀へ、御屆あり。江戶近鄕は、葛西・二合半なども枚擧に遑あらず。戶田・岩城、すべて、領分、大損毛の諸侯は、十一月に至《いたり》て、諸役御免なり。今茲《こんじ》、夏より、秋、冬に至て、米穀、高直《かうじき》、金一兩に、六、七斗を挽《ひき》たり【小賣は百文に八合に至り。】。鹽・蠟燭・燈油・紙【就中、半紙、高直なり。】・薪炭・五穀・野菜・魚肉類の價《あたひ》、みな、とし來《きたる》に、倍したり。今茲、風水に傷《きずつけ》られたる處々多かれども、予が見聞の及ばざるをもて、つばらにせず。よく知れるものは記しおきて、子弟の驕《おご》れるを、いましめ、荒年の備《そなへ》あらせたき事なりかし。又、文政十一年戊子冬十一月十二日、越後州《えちごのくに》、大地震の風聞あり。その事を、板して、巷を賣りあるきたり。長岡は城も、聊《いささか》、破損して、死せしもの、疵をかうむりし士庶、凡《およそ》、九百九十餘人なりしとぞ【この事、公儀へ御屆の人數也と云。】。この他、三條・村松・新津・燕・今町・與板邊《へん》、凡、十里四方、この地震によりて、廬舍、倒れ、人、死すること、三千餘といふ。三條に本願寺の掛り所あり。この邊、殊に甚しく、本堂【十二間に八間。】・庫裏、轉倒し、剩《あまつさへ》、失火してければ、一宇も殘らず、とぞ。予が相識《さうしき》なる鈴木牧之は、越後魚沼郡鹽澤の里長《さとをさ》也。聞くに、鹽澤邊は、恙なし。當時、地震も、甚しき事、なかりしと、いへり。
[やぶちゃん注:「文政十一年秋八月」文政十一年八月一日はグレゴリオ暦一八二八年九月九日。この陰暦八月には、百三十三年後の昭和三六(一九六一)年になって「シーボルト台風」と命名された台風が襲来(当時、発覚した「シーボルト事件」、及び、当時、出島にいたシーボルトがこの未曾有の台風の気圧を観測していたことによる)。九州地方北部を中心に死者は一万九千人以上とされる。詳しくは、当該ウィキを読まれたいが、『過去』三百『年間に日本を襲った台風の中では最大級のものとされている』とし、さらに『日本史上』、『最大級の被害をもたらした台風といえ』、最後に『北陸の加賀藩や東北の仙台藩にも被害の記録が見受けられることから、全国で』二『万人以上の死者を出したことは確実である』とある。
「柳川候の家臣西原一輔老人」「兎園会」の初期に会員として「松蘿舘」の号で参加している筑後国柳河藩士西原好和こと、西原一甫(にしはらいっぽ 宝暦一〇(一七六〇)年~天保一五(一八四四)年)。「耽奇会」会員でもあり、「図説立花家記」では、「耽奇会」の主催者ともなっている。通称は半三郎・六弥太・新右衛門。公和は本名。号に一甫・南野・一輔・梭江(さこう)。家号は松羅館。当該ウィキによれば、『幼少より江戸で生活し、定府藩士として留守居や小姓頭格用人などを勤め』た。文政七(一八二四)年五月から「耽奇会」に参加、「兎園会」にも『参加していたものの』、文政八(一八二五)年四月に藩命(実際には幕府からの譴責。後述する)により、『江戸から柳川に下向したので、結局』、『両会に』は『最後まで』は『参加できなかった』。『天保年間は柳河藩領南野(現在の柳川市大和町)に隠棲』とあるのだが、『曲亭馬琴「兎園小説」(正編・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余録」・「兎園小説拾遺」/全十二巻)正字正仮名電子化始動 / 大槻修二解説・「兎園小説」正編目録・第一集「文政六年夏の末、沼津駅和田氏女児の消息」』の大槻修二氏の解説に以下のようにある通り(「蘿」はママ)で、
*
松蘿舘 西原好和、通稱は新右衞門、立花侯の留守居なり。是年三月、其藩柳河に赴きしかば、四月以後は此會に出でず。元來、好事家にて、且、當時、留守居役の風習として、驕奢遊蕩を競ひしが、文化十二年四月、幕府より風聞不宜國元蟄居の譴責を受けて歸國し、天保のはじめ歿せりといふ。
*
というのが真相である。謂わば、幕府からの譴責が伝えられ、当時の筑後国柳河藩第九代藩主立花鑑賢(たちばなあきかた)が幕命を受けて、強制的に藩に下向させ、帰国後は恐らく速やかに藩内の僻地に蟄居させられ、不遇のうちに亡くなったようである。
「その愛婿關子亮【潢南の子、號、「東陽」。】」既にこれ以前の「兎園小説」で「海棠庵」の号でお馴染みの「兎園会」会員の一人である、三代に亙って書家であった関思亮(せき しりょう 寛政八(一七九六)年~文政一三(一八三〇)年)。本書に先立つ天保元(一八三〇)年九月に三十六の若さで亡くなっている。「潢南」は、その思亮の父親である、書家で儒者の関克明(こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)。書家関其寧(きねい)の養子で、常陸土浦藩藩儒で、書を其寧に学び、天保四年には子の思亮とともに、名家の法帖から行書体を集め、「行書類纂」を編集した。本姓は荻生。その事実は判らないが、こう言っているところを見ると、西原好和一甫の娘が関思亮の妻となっていたということになる。恐らくは謹慎蟄居で、書簡なども自由にならなかったところが、思亮が娘婿であったことから、娘からの手紙という体裁で、馬琴と間接的に、時に、接触することが出来たのであろう。
「巨細」「委細」に同じ。
「千里面談」不詳。
「遠州濱松領見附」東海道の旧見附宿(グーグル・マップ・データ。以下指示の無いものは同じ)。現在の静岡県磐田(いわた)市中心部。
「坂東太郞」利根川の古くからの異名。
「杉浦氏」不詳。
「二合半」これは正確には「二鄕半領」が正しい。Enpediaの「二郷半領」(にごうはんりょう)によれば、『現在の埼玉県吉川市から三郷市にかけての地域』(この附近)『のことを江戸時代で称していた地名である。ここは早場米の産地として知られていた。なお、史料によっては二合半領とも書かれている』。『二郷半の由来は、江戸時代の初期にこのあたりを「吉川・彦成の二郷、彦成郷以南は下半郷」として、合わせて二郷半領と呼んだといわれている。この付近は江戸川、中川に挟まれた低湿地で洪水が多かったことから、一郷にすら値しない半領と言われていたが、江戸時代には水害対策により』、『早場米を出荷し』、『「葛飾早稲」として知られていたという。なお、異説として徳川家康の家臣で関東郡代を務めた伊奈忠次が、この地方を一生涯にわたって支配せよと家康から命じられたため、「一生にわたって支配(四配)するのだから二合半領」と忠次が言ったといわれているが、これについては信憑性が疑問視されている』とある。ウィキの「二郷半領用水」の解説より、肝を摑んでいて、しかも短く認知出来る。
「戶田」埼玉県戸田市。荒川左岸。
「岩城」前の戸田との並置から、江戸近郊であると踏めば、現在の埼玉県さいたま市岩槻区附近ではなかろうか。東端を綾瀬川が流れ、元荒川が貫流する。
「夏より、秋、冬に至て、米穀、高直《かうじき》、金一兩に、六、七斗を挽《ひき》たり【小賣は百文に八合に至り。】」八年前の文政三年で米一石は幕府張紙値段で〇・九両、江戸小売値で米一升は百二十文。天保元(一八三〇)年で、同順で一・一四両、小売は百五十文。
「文政十一年戊子冬十一月十二日、越後州、大地震の風聞あり」「三条地震」或いは「越後三条地震」「文政三条地震」とも呼ぶ。文政十一年十一月十二日(一八二八年十二月十八日)、現在の新潟県三条市芹山附近を震央とし、マグニチュードは六・九と推定されている。朝五ツ時上刻(午前九時前頃)に発生したとされる。現在の新潟県三条市・燕市・見附市などで、震度七相当の揺れがあったと推定され、死者一千人以上、家屋全壊約一万棟、焼失家屋一千棟以上の被害が発生した(当該ウィキに拠った)。
「村松」新潟県五泉市村松。震源の東北東約二十七キロメートル。
「新津」新潟県新潟市秋葉区新津(にいつ)。村松の北西。
「燕」新潟県燕市。震源地の三条市に東北で接する。
「今町」新潟県見附市今町(いままち)。 震源の直近で真南約五キロメートル。
「與板」新潟県長岡市与板町(よいたまち)与板。今町の西方直近(信濃川の対岸)。震源からは南西十一キロメートル圏内。
「三條に本願寺の掛り所あり」真宗大谷派三条別院のこと。震源から東北約六キロのごく直近。「掛り所」は「掛(か)け所(しよ)」が正しい。浄土真宗の寺院で、地方に設けられた別院。後には別院の資格のない支院をも呼ぶようになった。本願寺派では区別して「休泊所」と称した。
「十二間に八間」約二十一・八二✕約十四・五四メートル。
「庫裏」「庫裡(くり)」に同じ。
「一宇も殘らず、とぞ」同別院公式サイトの「歴史・沿革」の「文政十一年」の条に『三条大地震三条掛所建物全壊そのうえ類焼し残るものなし』とある。
「鈴木牧之」(ぼくし 明和七(一七七〇)年~天保一三(一八四二)年)現在の新潟県南魚沼市塩沢で縮仲買商・質屋を営んだ町人で随筆家にして、塩沢の村長(むらおさ/りちょう)。越後魚沼の生活を詳細に綴った博物誌的民俗誌「北越雪譜」(天保八(一八三七)年秋頃に初編各巻が江戸で発行され、天保十二年十一月に二編四巻が出た)はコスタ・デ・ソルの海浜のホテルのプール脇で、ぢりぢり焼かれながら読んだのが、いっとう、忘れ難い、私の愛読書である。塩沢は震源から六十三キロメートルも真南に当たる。]
この十一月十二日の地震は、江戶も【朝辰中刻。[やぶちゃん注:午前七時四十分から八時二十分相当。]】頗《すこぶる》震へり。婦幼等が、驚き立《たつ》程に、鎭《しづま》りにき。越後は本日、朝、辰の比《ころ》より、未牌まで、震ひし、といふ。しかのみならで、十一月初旬より、折々、地震あり。終《つひ》に十二日に至て、甚しかりけるとぞ。
[やぶちゃん注:「辰の比」午前七時から九時。
「未牌」意味不明。「牌」はお手上げ。時刻を示す意味はない。前の「未」は「ひつじ」でとるなら、午後二時前後まで余震が続いたという意で附には落ちるのだが、「牌」の字を誤字として、正字が思い浮かばぬ。
以下は鈴木牧之の馬琴宛書簡。板垣俊一氏の『資料「文政十一年三条地震の記録」』(PDF)で活字化されてあり、その他の記録資料もあるので、是非、読まれたい。]
文政十一年戊子冬十一月十二日朝五時、
越後長岡領地雲之記。
一、長岡町、潰れ家十八軒、半潰廿三軒、橫死四人、土藏壁落三百八十宇。
一、長岡北組村々(三十三ケ村)、潰れ家千八十五軒、半潰四百十五軒、怪我人百四十五人、橫死百八十六人、寺院十一ケ寺、馬五疋、長屋廿四軒、深山御藏。
【長岡栃尾組村々。】
一、椿澤《つばきざは》、家數百三十軒有ㇾ之處、建家、纔に六軒殘り、橫死二十四人。
[やぶちゃん注:「椿澤」新潟県見附市椿澤町(つばきざわまち)。震源の南南東十三キロメートル。]
【同。】
一、田井村、同二十軒有ㇾ之處、建家三軒殘り、橫死十七人。
[やぶちゃん注:「田井村」新潟県見附市田井町。「椿沢町」に直に北で接する同じく小さな地区である。]
【同。】
一、棚野村、同百三十軒有ㇾ之處、不ㇾ殘潰れ、橫死三十七人。
[やぶちゃん注:「棚野村」不詳。]
【同。】
一、太田村、同六十軒有ㇾ之處、建宗三軒殘り、橫死十七人。
[やぶちゃん注:新潟県長岡市山古志虫亀(むしがめ)のこの附近と思われる。]
【同。】
一、栃尾町、此栃尾町は、潰家《くわいけ》も有ㇾ之候へ共、格別の事無ㇾ之候。乍ㇾ去、城山、大疵《おほきず》入候間、「抜落候はゞ、可ㇾ及二大變一。」とて、栃尾、總町《さうちやう》、小家共、轉宅、大騷動之由。
[やぶちゃん注:新潟県長岡市栃尾町(とちおまち)。
「城山」栃尾城跡であろう。
「總町」「町をあげて」の意。]
一、見附町、總《すべて》、潰家の上、失火にて燒亡いたし、やうやく、五、六軒殘り、橫死人、怪我人、甚、多、未その數を知らず。
[やぶちゃん注:「見附町」現在の新潟県見附市市街地か。震源から南南東九キロ圏内。]
一、今町、建家、不ㇾ殘潰れ、殘り候家、五、六軒に不ㇾ過候。是も半潰れ也。
一、三條町、潰家二千九百十八軒、右、潰れ候上、失火にて、大抵、燒亡、殘る所、二、三の町、少し殘り候へ共、是も半潰也。但、三、四十軒、殘り候よし。橫死八百六十人、怪我人は數を知らず。本願寺掛所、四坊、皆、潰れ、且、燒亡畢《をはんぬ》。
一、脇野町、潰家五十七軒、橫死人は無ㇾ之よし、此處は輕し。
[やぶちゃん注:「脇野町」新潟県長岡市脇野町(わきのまち)。]
一、與板町、潰家三百五十軒、半潰九十軒、橫死三十五人。
右與板より長岡迄、在々《ざいざい》、潰家、無ㇾ之は稀也。枚擧に遑あらず候。
加茂、芝田、新津、水原等は無難の由、乍ㇾ然《さりながら》、土藏の壁は、大かた、搖落《やうらく》し、庇等は、いたみ候へ共、他處よりは輕く御座候。
[やぶちゃん注:「加茂」新潟県加茂市市街。
「芝田」新潟県新発田(しばた)市があるが、急に北に有意に移るのが不審ではある。
「水原」新潟県阿賀野市水原。]
一、拙家の入魂《じつこん》、三條の小道具屋小高屋宅右衞門と申者の忰《せがれ》、商ひに參居候處、右地震にて、早速、下船仕候。然所、同人の家も潰れ、且、燒亡、土藏も壁落候に付、直《ぢき》に、火、かゝり、鍋一つ出し不ㇾ得、仕合《しあはせ》に御座候。此小高屋は、北越第一の小道具屋にて、珍敷《めづらしき》茶器・刀劔・掛物等、致二所持一候處、不ㇾ殘燒失。其上、地震後、雨、雪に成候故、立《たち》ばも、無ㇾ之罷在候に付、御堂の潰れかゝる大門先に、一夜、あかし、寒さに不ㇾ堪候得ども、翌日に至り、一飯を贈るものもなく、只、失火の處へ近付候て、火にあたり、命からがら凌《すごし》候よし。三條は越後の中央にて、金銀、融通よく、富家、多く候處、一時に灰燼となり、良家の女房、娘、平生、定《さだめて》、綺羅に候へば、その絹布の上へ、雨・雪を受、無二是非一、菰俵《こもだわら》を身に覆ひ、兩三日、路頭にさまよひ候事、古今未曾有の珍事に御座候。家の潰れ候下《した》では、「やれ、助けてくれ、助けてくれ、」と叫び、或は、泣《なき》さけび候有樣、あはれなりし事のよし、種々承り候事も有ㇾ之候へども、筆紙に盡しがたく候。父子夫婦の間、眼前に橫死の有樣を見候得ども、いたし方もなく、貴賤となく、家每に、五人、三人、燒死し候へども、葬を助《たすく》るものも、あらず、銘々、燒跡の畑などを穿《うがち》て、そのまゝ埋め候もあり、或は、その死骸、知れず、辛《からう》じて、骨を拾ひ候も、多し。家は潰れ候へども、手傳ふて片付るものも、なし。土中は、大かた、われ候て、泥をふき出し候間、往來も自由ならず。その混雜、愁嘆、可ㇾ被ㇾ成二御察一候《おさつしなさらるべくさふらふ》。鹽澤邊は、當時、何事も無ㇾ之、無難に候へ共、度々《たびたび》小地震に困り入申候。今朝《けさ》も、一度、晝後《ひるののち》も、一度、地震にて、火難も氣づかはしく、家内のもの一統に、おそれ申候。亂書、御判じ御高覽可ㇾ被二成下一候。
十二月三日 鈴木牧之拜
[やぶちゃん注:「下船」越後は海浜に近い並置では水利がよいため、往来には、極めてよく船を用いた。
「土中は、大かた、われ候て、泥をふき出し候」液状化現象である。ウィキの「三条地震」によれば、昭和三九(一九六四)年の『新潟地震で注目された「液状化現象」が、三条地震でも発生していたことが最近の調査でわかってきた(三条城址遺跡:三条市元町、石塚遺跡:三条市茅原)。当時の文献に砂・水の噴出した記録が残っており、地質調査でもそのことが裏付けられている。液状化現象はかつて河道であった箇所で多く発生している』とある。いやいや、とっくに牧之先生が、かく、書いておられたのだ!
以下、底本では「追加」を除き、全体が最後まで一字下げ。頭の干支後の月の数字が抜けているのはママ。干支は翌文政十二年であるから、牧之の書簡のクレジットから、一月と思われる。]
此狀、己丑月廿八日、江戶新大坂町足袋商人二見屋忠兵衞、持參、被ㇾ屆ㇾ之。依ㇾ之、その詳《つまびらか》なることを得たり。則、こゝに追書す。牧之は、予が舊友、越後鹽澤の里長なる事、前にいへるが如し。典物鋪《てんぶつみせ》にして、且、半農なるものなり。
文政十二年端月《たんげつ》念九 著作堂主人錄
[やぶちゃん注:「典物鋪」質屋のこと。
「端月念九」「端」は「最初」の意で一月の異名、「念九」の「念」は「廿」の代字であるから(中国語で「廿」の俗音が「念」に近いことから、宋代よりよく代用さられるようになった)、一月二十九日。]
迫加、
越後魚沼郡市の越といふ村の持山《もちやま》に、船山といふ山あり。いかなる故に、この名あるや、知るものなかりしに、右の地震の比、この船山の澗間、崩れて、長さ丈許《ばかり》、橫四尺、船石《ふないし》、出現、出《いだ》しけり。これ、自然石にて、凹《へこみ》て、船の如し。宛《あたか》も、石工の手に成れるに異ならず。この儀、神子《みこ》の口よせにて、同村なる鎭守の社頭へ曳着《ひきつけ》たりと云【壬辰の夏、鈴木牧之が狀中に、これを告《つげ》らる。卽-便《すなはち》、誌二于此一。】
[やぶちゃん注:「越後魚沼郡市の越といふ村の持山に、船山といふ山あり」「船石」これは既に『曲亭馬琴「兎園小説別集」下巻 越後船石』で、かなり、てこずったけれど、かなり綿密に考証しておいたので、そちらを見られたい。結論だけいうと、この「船石」は現存する。最後まで見てね、所在地候補をストリートビューで遠くから見たものもリンクさせているからね!]
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