大和怪異記 卷之一 第十四 阿部晴明花山院の前生をうらなふ事
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。
標題の「阿部晴明」の「阿部」はママ。「安倍」が正しい。「髑髅」の「髅」は「髏」の異体字。]
第十四 阿部晴明花山院の前生(ぜんじやう)をうらなふ事
阿部晴明は、讚岐國厚東(こうとう)郡の人なり。賀茂保憲(かもやすのり)に從(したがふ)て、曆算推步(れき《さん》すいほ)の術を、きはむ。
しかるに、花山院在位のとき、頭風(づふう)を病《やみ》給ふ。
雨氣(うき)あるときは、殊《こと》に、甚だし。
醫療、更にしるし、なし。晴明、奏しけるは、
「君の前生は、やんごとなき行者(ぎやうじや)にておはします。大峯(《おほ》みね)」に入(いり)て、入滅し給ふ。其德によつて、今、天子と、うまれさせ給へども、前生の髑髅(どくろ)、岩(いわ[やぶちゃん注:ママ。])のはざまに落入(おち《いり》)侍るが、雨氣(あまけ)には、岩、ふとりて、つめ侍るあいだ[やぶちゃん注:ママ。]、かく、御《おん》いたみ、あり。御療治にをゐては[やぶちゃん注:ママ。]、かなふべからず。かの、どくろを、取《とり》て、廣き所に、をかれ候はゞ、御平愈ましまさん。」
とて、
「しかじかの谷底に。」
と、をしへて、人をつかはし、髑髅を取出《とりいだ》さしめければ、御頭風(《おん》づふう)、ながく、御平愈あり。「古事談」・「讚州志」
[やぶちゃん注:原拠の「古事談」は源顕兼の編になる鎌倉初期の説話集。全六巻。建暦二(一二一二)年から建保三(一二一五)年の間に成立した。「王道・后宮」・「臣節」・「僧行」・「勇士」・「神社」・「仏寺」・「亭宅・諸道」の六篇に分類された上代から中古の四百六十一話を収める。文体は和製の漢文体・仮名交り文など、多様で、どの説話も短文であり、資料からの抄出が多い。「続日本紀」・「往生伝」・「扶桑略記」・「江談抄」・「中外抄」などの記録や談話録に取材している。「佛教大学図書館デジタルコレクション」のこちらの嘉永六(一八五三)年の版本の24コマ目を見られたい。単独画像ではここ。この話は私の非常に好きなニクい話である。しかし、これ、少しく読み難いので、カタカナをひらがなに代え、岩波の「新日本古典文学大系」版を参考に読み下し(カタカナはひらがなに代えた)、異体字漢字を書き変え、読みなど添えて、書き換えたものを、『「南方隨筆」底本正規表現版「紀州俗傳」パート 「七」』で既に公開しているので、そちらを参照されたい。今一つの「讚州志」は増田休意撰の「讚州府志」のことであろう。別名「翁嫗夜話」(おきなおうなやわ)。原本はネットでは一部しか見られないので、お手上げ。
「阿部晴明」安倍晴明(延喜二一(九二一)年~寛弘二(一〇〇五)年)平安中期の陰陽(おんみょう)家で土御門家(つちみかどけ)の祖。益材(ますき)の子。文武朝の右大臣阿倍御主人(あべのみうし)の後裔とされるも、ここにあるように讃岐国の人という伝承もある。天文博士(はかせ)・大膳大夫(だいぜんだいぶ)などを歴任した。従四位下。清明社が九月二十六日を例祭日とするのは没した日に因むという。賀茂忠行・保憲父子を師として陰陽道の達人となり、とくに「天文密奏」は安倍氏の独占するところとなって、暦道の賀茂家と並ぶ天文道の安倍家(土御門家)の基礎を開いた。花山天皇の譲位を天変で予知したなど、神秘化された説話が諸書(「大鏡」・「今昔物語集」など)に多い。彼の著書と伝えるものも多いが、現存する確実なものは「占事略決」一巻のみである(小学館 「日本大百科全書」に拠った)。後代の土御門家については、私の「譚海 卷之三 土御門家の事」を見られたい。
「讚岐國厚東(こうとう)郡」「厚狹郡(あづさのこおり)」の誤り。「厚東郡」は嘗てあるにはあったが、それは南北朝時代から寛文四(一六六四)年まで(厚狹郡はこの間、厚東郡と厚西郡に分かれていた)であり、平安時代としても、本書刊行頃(宝永五 (一七〇八)年)としてもおかしな謂いである。個人ブログ「讃岐の風土記 by 出来屋」の「(42)“陰陽師安部晴明は讃岐生まれ”」に、
《引用開始》
晴明の生まれは謎に包まれていますが、その出生地のひとつとして讃岐が数えられています。大日本史料「讃岐国大日記」によれば讃岐国香東郡井原庄、また丸亀藩の公選地誌「西讃府志」によれば讃岐国香川郡由佐がその生まれだとされています。「井原」という地名は古代讃岐の郷の一つで、現在の高松市香南町辺りです。「由佐」という地名は現在も香南町にあり[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]、そこは室町時代に由佐氏という武将が領有していたところです。
由佐氏は、藤原秀郷の後裔といい、そもそもは常陸国(現在の茨城県)益戸(下河辺)の城主だったといい、建武の争乱に際して、足利尊氏に従って活躍し、讃岐国香東郡井原庄の荘司職を与えられたといいます。その後、讃岐守護となった細川氏に従い、東に香東川、西に沼地が広がる要害の地に居館由佐城[やぶちゃん注:ここ。]を築いて代々の本拠としたと云われています。
おもしろいことに、晴明の生誕地については、由佐氏の出身地である常陸国であるという説もあります。「ほき抄」[やぶちゃん注:安倍晴明撰と伝える「簠簋内伝」(ほきないでん)全五巻(「続群書類従」所収)のこと。但し、晴明の撰であるかどうかは疑わしいとされ、私は抄訳本で読んだが、それだけでも彼の書いたものという感じはしなかった。]所収の「由来」によると、常陸国筑波山麓の猫島、現在の茨城県真壁郡明野町猫島[やぶちゃん注:現在の茨城県筑西市猫島(ねこしま)。]というところで生まれたとされています。猫島の旧家である高松家の敷地には誕生に由来する晴明神社があり、また、高松家には宝永8年(1711年)頃にまとめられた「晴明伝記」が蔵されているそうです。由佐氏と安倍晴明には何らかの関係があるのかもしれません。
《引用終了》
とあった。
「賀茂保憲」(延喜一七(九一七)年~貞元二(九七七)年)陰陽家で賀茂忠行の子。暦博士・陰陽頭・天文博士・主計頭・穀物院別当などを歴任する。「今昔物語集」によれば、十歳程の時、忠行に伴われて祓殿(はらいでん)に行くと、おそろしい姿の鬼神を目撃し、そのことを父親に語った。鬼神を見ることが難しいことであることを知っている忠行は、我が子の天分に驚き、陰陽道の奥義を、残らず伝えたことで、保憲は斯道の第一人者となったという。暦道と天文を司り、暦道を子の賀茂光栄に、天文道を弟子の安倍晴明に伝えた。それ以降、陰陽道は賀茂家と安倍家が分掌するようになったとされる。入唐僧日延に依頼し、新修の暦経を求めるなど、中国の知識の移入にも意を用いた。神護寺で「三方五帝祭」を行い、八省院で「属星祭」(開運のため、その年に当たる星を祭る行事)を修すなど、陰陽道の祭祀を主宰し、日時や方角の吉凶・災異を占って上申するなど、陰陽家として活躍した。娘の賀茂女(かものむすめ)は歌人として有名で、「賀茂保憲女集」がある。著書に「暦林」があったが、伝存しない(朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。そこに出た「今昔物語集」のそれは、巻第二十四の「賀茂忠行道傳子保憲語第十五」(賀茂忠行、道を子の保憲に傳ふる語(こと)第十五)である。「やたがらすナビ」の当該話をリンクさせておく。実は、この話の次が、「安倍晴明隨忠行習道語第十六」(安倍晴明、忠行に隨ひて道(みち)を習ふ語第十六)なので、それもリンクさせておく(但し、総て新字である)。
「曆算推步」「推步」は天体の運行を測ること。そのためには天文観測による数値や、暦などの計算をする必要があるために頭がつく。
「花山院在位」花山天皇の在位は永観二年八月二十七日(九八四年九月二十四日)~寛和二年六月二十三日(九八六年八月一日)で僅か二年足らずである。即位時で数え十七であった。古文でよくやったよなぁ、「大鏡」の藤原兄弟のバレバレの芝居、晴明の予言もやったなぁ、ただ、花山天皇を可哀そうと思う生徒は甚だ多かったのを記憶する。だから言わなかったが、彼は生まれつき、性欲過多の病的傾向が強い人物だったようで、退位後、出家してからも、甚だお盛んだったのである。四十一で亡くなっている(推定で悪性腫瘍)。
「頭風(づふう)」頭痛。]
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