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2022/11/26

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 寄席 附:草稿二種 オリジナル注附き

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 寄席 附:草稿二種

[やぶちゃん注:大正一三(一九二四)年六月一日発行『女性』に掲載され、後、作品集『百艸』『梅・馬・鶯』に収録された。芥川龍之介満三十二歳の折りの小品である。盟友小穴隆一によれば、この作品が書かれた凡そ一年足らずの四月十五日、龍之介は自決の覚悟を小穴に伝えている(私の『小穴隆一 「二つの繪」(5) 「自殺の決意」』、及び、『小穴隆一「鯨のお詣り」(13) 「二つの繪」(2)「自殺の決意」』を参照されたい)。

 底本は岩波旧全集「芥川龍之介全集」第七巻(一九七八年刊)を使用した(『梅・馬・鶯』版底本で校合)。

 後に岩波新全集「芥川龍之介全集」の「第二十一巻 初期文章・草稿」に載る本作の草稿を恣意的に概ね正字化して添えた。

 オリジナルな簡単な注を文中及び最後に附した。]

 

 寄  席

 

 或春の夜、僕は獨逸から歸つて來た高等學校以來の友だちと或寄席の二階へ上つた。寄席へは何年にもはひつたことはない。のみならず高座を眺めるのも古往今來七八遍目である。それを今夜はひつたのは――寄席に藝を賣る藝術家諸君には甚だ失禮には違ひない。が、實は生憎ふり出した雨の晴れ間を待つ爲にはひつたのである。

 この寄席の天井は合天井である。高座も昔見た高座のやうに塗り緣の杉戶のあるばかりではない。お神樂堂を數寄屋にしたらばかうなるに違ひないと思つた位、甚だ瀟洒に出來上つてゐる。僕は寄席の高座と雖も、一藝を天下に示す舞臺は莫迦に出來ないのを發見した。

 かう云ふ高座に上つてゐるのは何とか云ふ年少の落語家である。落語家?――實は落語家と云ふものかどうか、その邊は頗る判然しない。もし藝を以て判斷すれば正に物眞似の藝人である。彼はやつと二分ばかり、何か辯舌を弄したと思ふと、忽ち座蒲團を向うへはねのけ、操り人形の眞似をし出した。それも日本の操り人形ではない。活潑なる西洋の操り人形である。僕は再び如何なる藝術も勞働を伴ふのを藝見した。

 その次に現れたのは女琵琶師である。これは綠色の袴の上へ桃色の被布を一着してゐたから、田園の春のやうに美しかつた。琵琶も亦甚だ小さい。まづ臺所の龜の子笊よりも幾分か大きいぐらゐである。彼女は情緖纏綿と那須の與一の扇の的を語つた。昔天德寺了伯はこの琵琶の一曲に淚を落したと云ふことである。僕は幸ひに泣かなかつた。――と云ふよりも寧ろ那須の與一に名狀すべからざる可愛さを感じた。彼女の曲中の與一は鞦置いたる木馬に跨り、五六間離れたる扇の的へ握り細の楊弓を引絞つてゐる。[やぶちゃん読み注:「鞦」「しりがい」。「握り細の楊弓」「にぎりほそのやうきゆう」。]

 その次に現れたのは落語家である。これは落語家に違ひない。正に落語を一席辯じた。但し一席か半席か或は又四半席か、その點は保證出來ない。のみならず落語家には違ひないにしろ、頗る騷騷しい落語家である。ハイネは徒らなる饒舌を「舌の戰ぎ」と形容した。これは「舌の戰ぎ」所ではない。盛なる舌の鳴動である。僕は活力に充滿した彼の顏を眺めながら、纔かに七八遍足を入れた昔の寄席を思ひ出した。――[やぶちゃん読み注:「戰ぎ」「そよぎ」。]

 僕の最初に聞いたのは柳橋と云ふ落語家である。ぼんやりした記憶を正しいとすれば、柳橋は色の蒼白い才槌頭の落語家だつた。當時まだ小學校の生徒だつた僕が孝行鍛冶の名を覺えたのは柳橋を聞いたおかげである。その次に聞いた落語家は――必しもその次には聞かなかつたかも知れない。しかしその次に思ひ出すのは圓喬と云ふ落語家である。彼は人間と云ふよりも火喰鳥に近い顏の持ち主だつた。その上又話をはじめる時には高座の直前に坐つてゐたにもしろ、到底はつきりとは聞えない位、小聲を出す技巧の持ち主だつた。その次に記憶に殘つてゐるのは「彌太つぺい」と稱する落語家である。僕は後に「彌太つぺい」の馬樂なることを發見した。馬樂は吉井勇君の俳諧亭句樂に違ひない。彼は酒燒けのした胸をいつも懷に覗かせてゐる毬栗坊主の落語家だつた。その次には全然身動きもせずに滔滔としやべり立てる圓藏である。或は高座へ脫いだ羽織に赤い色の見える遊三である。或は又枯骨にも舌のあるかと思ふ芝居話の桂小文治である。彼等は今日の落語家よりも、悉く上品ではなかつたかも知れない。たとへば遊三は年少の僕をも辟易させたことは確かである。しかし彼等は悉く今日の落語家よりも上手だつた。少くとも西洋人の言葉を借りれば、彼等自身のビズネスをちやんとのみこんでゐたやうである。が、あの高座にゐる落語家は――いや、もう高座に上つてゐるのは盛なる舌の鳴動業者ではない、嬋娟たる男裝の女劍舞である。[やぶちゃん注:「嬋娟」「せんけん」は容姿が艶(あで)やかで美しいこと。品位があって艶(なま)めかしいさま。]

 女劍舞はその後ろに羽織袴を着用した八字髭の紳士を從へてゐる。彼は劍舞のはじまる前――讀者はこの一條を信じないかも知れない。少くとも僕の老父などは「莫迦を云へ」と一笑に付したものである。が、これは譃ではない。彼は劍舞のはじまる前に雲井龍雄の詩の講義をした! 事の民衆に關するものは一として莊嚴ならざるはない。俗惡も勿論莊嚴である。寄席は百年の洗練に成つた江戶の風流を失却した。しかし風流は滅んだにしろ、莊嚴なる俗惡の存する限りは、必しも絕望に及ばずとも好い。俗惡は僕の脣に多少の嘲笑を浮べさせるであらう。が、俗惡を憎むことは、天の成せる通人は知らず、少くとも僕には出來ないことである。けれども公然と高座の上に雲井龍雄の詩の講義をするのは俗惡どころの不料簡ではない。まづ贋物の天國の劍を田舍の成金へ賣りつけるのと類を同うした罪惡である。僕はこの講義を聞いてゐるうちに、いつかあの八字髭の紳士を射殺したい誘惑を感じ出した。

 この誘惑を實行に移さなかつたのは一つには平生ピストルをポケツトに入れて置かない爲である。しかしまだその外にも全然理由のなかつた譯ではない。女劍舞をする女史は詩の講義の終つた後、朗朗たる紳士の吟聲と共に勇ましい劍舞を演じ出した。僕は如何なる劍舞にも危險以外の感銘を受けたことのない臆病者である。が、この一場の女劍舞は忽ち僕に幸福なる少年時代を想起させた。何でも明治三十年頃の「牛の御前」のお祭などには屢かう云ふ女劍舞の見世物小屋がかかつてゐたものである。其處までは無事だつたのに違ひない。けれども劍舞を終つた女史は刀や襷をとつてしまふと、今度は雲井龍雄からお龍さんか何かになつたやうに娘手踊りを演じ出した。これはもう善惡の問題ではない。善惡を超越した悲劇である。我我の生活に共通した二重職業の悲劇である。僕はこの悲劇的感銘のもとにあらゆる意志を失却した。同時に又あの八字髭の紳士を射殺したい誘惑をも失却した。悲劇は美學者の敎へるやうにまことに人間を淨化するものである!

 「おい、出よう。」

 僕は匇匇立ち上つた。

 「出るか? まだ降つてゐるだらう?」

 友だちも雨だけ氣にしてゐるのはさすがにあきらめの好い江戶つ兒である。二人は廣い木戶を出た後、蕭蕭と降る春雨の中を軒下も傳はらずに步きつづけた。兎に角今日の寄席と云ふものは雨宿りの役にも立たないらしい。

 

 

   「寄席」草稿二種

[やぶちゃん注:以下、おぞましい新字体採用の岩波新全集に載る草稿を概ね恣意的に正字化したもの(『久保田万太郞』は久保田自身が「万」と表記し、芥川龍之介の諸作でも「萬」ではなく「万」であるので、「万」としてある)。同書解題に拠れば、二種あって最初の草稿(編者によって『Ⅰ― a』とされるもの)は『署名の入った四枚』で、後の草稿(編者によって『Ⅰ― b』とされるもの)は御覧の通り、『同じ書き出しの箇所で表題などの無い二枚連続のもの』とある。興味深いのは、冒頭が元はロケーション設定ではなかったということである。二種を見るに、その書きっぷりから見ても、初めは純粋な随筆として書き始め、決定稿の額縁となる物語風の実景ロケーションは、実際の実見ではあるものの、後から嵌め込んだ可能性が高いと思われる。]

 

     寄  席

 

 寄席、落語家、講釋師、――さう云ふものに通じてゐるのは日暮里の久保田万太郞君である。或は根岸の小島政二郞君である。僕は――僕の田舍者に異らぬことは斷る必要もないかも知れない。が、時たま該博なる兩君の見聞を聞かされると、同じ東京に生まれながら、かうも違ふかと感心するほど、卸何にも無學を極めてゐる。けれども昔をふり返つて見ると、――と云ふと老人のやうに聞えるかも知れない。が、二十何年か前は兎に角昔には違ひないから、その昔なるものをふり返つて見ると、不思議にもやはり二三人は落語家や講釋師を覺えてゐる。

 その一人(ひとり)は柳橋である。僕は芝の何とか云ふ寄席へ父と一しよに行つた時に、この人の話す牡丹燈籠を聞いた。が、唯聞いたと云ふ外には殆ど何も覺えてゐない。柳橋自身も漠然(ばくぜん)と妙に色の靑白い好男子だつたやうに思ふだけである。

 圓喬と云ふ落語家は柳橋よりもはつきりと覺えてゐる。これは人間と云ふよりも駝鳥に近い顏の持ち主だつた。その上話をはじめる時には高座の下に坐つてゐても、決して滿足には聞きとれないほど、小さい聲を出す技巧家だつた。僕は誰よりも彼の顏や彼の話しぶりを覺えてゐる。しかし聞いた話そのものは不幸にも全然覺えてゐない。

 馬樂と云ふ落語家は當時の僕にはまづ「彌太つぺい」と敎へられてゐた。これは後に吉井勇君の戲曲に仕組まれた落語家であらう。彼は毬栗坊主の上に、いつもはだけた懷の中に酒燒けの胸を曝らしてゐた。僕は   [やぶちゃん注:底本に編者注で『三字欠』とある]〕の橘亭に彼の話す「三人心中」を[やぶちゃん注:以下、なし。]

 

[やぶちゃん注:以下、草稿の二種目。]

 

 寄席、落語家、講釋師、――さう云ふものに關する僕の知識は田舍出の書生も同じことである。動坂の寄席の前を通る時に、看板の名前を讀んで見ても、知つてゐる名前などは滅多にない。たまに又知つてゐる名前でもあれば、それは大抵新聞か何かに出てゐたと云ふ記憶のあるばかりである。けれども昔をふり返つて見ると、――と云ふと老人のやうに聞えるかも知れない。が、二十何年か前は昔と稱しても好いと思ふから、兎に角昔をふり返つて見ると、東京に生まれた難有さにはやはり落語家や講釋師の顏の二人や三人は覺えてゐる。[やぶちゃん注:以下、なし。]

 

[やぶちゃん決定稿注:「龜の子笊」(かめのこざる)は底が円く、口が広いもので、伏せた形が亀の甲に似た笊。「どんがめ笊」「どうがめいかき」とも呼ぶ。所謂、上部の一部が箕(み)のように開放されているタイプのものが、その形状に最もマッチする。

「天德寺了伯はこの琵琶の一曲に淚を落したと云ふ」戦国・安土桃山時代の武将佐野房綱(永禄元(一五五八)年~慶長六(一六〇一)年)。剃髪して「天徳寺宝衍」或いは「了伯」と号した。兄昌綱と甥宗綱の二代に亙り、下野佐野家当主を補佐した。天正一三(一五八五)年に宗綱が戦死し、北条氏忠が養子として佐野氏の家督を継ぐに至り、佐野家を出た。その後、上洛して豊臣秀吉に仕え、北関東の佐竹・宇都宮や下総結城氏・会津蘆名氏に、秀吉の意向を取り次ぐ役割を果たした。天正十八年の「小田原攻め」で北条氏を滅ぼして関東を支配下に収めた秀吉から、佐野家当主の地位を認められ、佐野唐沢山城に戻った。文禄元(一五九二)年、秀吉の命で富田知信の子信吉を養子に迎えて隠居している。以上は朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠ったが、当該ウィキによれば、天正一五(一五八七)年には、『すでに秀吉に仕えており、京都で自らルイス・フロイスと面会、佐野領奪還とその際のキリスト教保護の意向を示している』として、フロイスの「日本史」には、『「天徳寺と称する坂東の一人の貴人が」三、四『度、司祭を訪ねて来た。彼は思慮分別のある人物で、今なお繁栄している坂東随一の大学、足利学校の第一人者であった。知識欲が旺盛なためにヨーロッパの諸事ならびに我らの教えについて質問し、」と描かれている』とある。而して、この「琵琶の一曲に淚を落したと云ふ」のは、備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒者湯浅新兵衛常山(宝永五(一七〇八)年~安永一〇(一七八一)年)の書いた戦国武将の逸話四百七十条から成る江戸中期の逸話集「常山紀談」(明和七(一七七〇)年成立とされる)の巻一にある「輝虎平家を語らせて聞かれし事佐野天德寺の事」に載る。国立国会図書館デジタルコレクションの湯浅元禎(他)輯の有朋堂大正一五(一九二六)年刊の画像のここの右ページ後ろから六行目から視認出来る。それによれば、彼が落涙したのは、まず、「平家物語」の佐々木高綱の「宇治川先陣」で、さらに望んで、「屋島の戦い」の那須与一の扇の的を射る下りを語った時、滂沱と落涙したとあるのを指す。読点を増やし、段落を成形し、記号と推定の読みも添えて以下に電子化する。別に所持する岩波文庫版の同書も参考にした。

   *

 相州北條の幕下佐野城主天德寺、勇將なりしが、或時、琵琶法師に「平家」を語らせ聞きけるに、未だ語らぬ先に、

「我は唯、哀(あはれ)なる事を聞き度(た)こそあれ。其心得せよ。」

と言ひしに、法師、

「承り候。」

とて、佐々木髙綱が宇治川の先陣を語り出(いだし)たりしに、天德寺、雨雫(あめしづく)と淚をながして泣たりけり。さて、又、

「今、一曲、前のごとく、哀なる事を、聞きたし。」

と、いへば、那須與一が扇の的を語る。半(なかば)に及びて、天德寺、また、落淚數行(すかう)に及べり。

 後日に、側(そば)に仕へし者どもに、

「過ぎにし日の『平家』は、如何(いかが)聞きつる。」

といふに、皆、

「面白き事に覺え候。但し、一つ、心得ぬ事こそ候へ。二曲ともに、勇氣功名なる事にて、哀なるかた、少(すこし)も候はぬに、君には、御感淚に咽(むせ)ばせられ候。今に不審なる事と申し合ひ候。」

といへば、天祐寺、驚きて、

「只今迄は、各(おのおの)を賴母(たのも)しく思ひ候ひしが、今の一言にて、力を落したるぞ。」

とよ。

「先(まづ)、佐々木が事を、よく、心にうかべて見られ候へ。右大將、舍弟の蒲冠者(かばのくわんじや)[やぶちゃん注:頼朝の異母弟源範頼。]にも賜はらず、寵臣の梶原[やぶちゃん注:梶原景時の弟影季。]にも賜はらぬ生唼(いけずき)を、高綱に賜はるにあらずや。『其甲斐もなく、此馬にて、宇治川の先陣せずして、人に先をこされなば、必ず、討死して、ふたゝび歸るまじき』暇乞(いとまごひ)して出(いで)ける。其志、哀ならぬ事かは。」

とて、屢(しばしば)、淚を拭(のご)ひつ〻、暫しありて、言ひけるは、

「又、那須與一も、人多き中より撰ばれて、只一騎、陣頭に出(いで)しより、馬を海中に乘入(のりい)れて、的にむかふに至るまで、源平兩家、鳴(なり)を靜めて、是を見物す。『若(も)し、射損じなば、味方の名折(なをれ)たるべし。馬上にて、腹、搔切(かきき)つて海に入らん。』と思ひ定めたる志を察して見られよ。弓箭(ゆみや)取る道ほど、哀なるものは、あらじ。我は每(いつ)も戰場に臨みては、高綱・宗高[やぶちゃん注:その武勇から「丹波鬼」と呼ばれた丹波波多野氏の家臣波多野宗高(永正八(一五一一)年~天正元(一五七三)年)か。]が心にて、鎗を取り候ゆゑ、右の平家を聞時も、兩人の心を思ひ遣り、落淚に堪へざりし。然るに、各(おのおの)は、哀に無かりしとや。思ふに、『各の武邊は、只、一旦の勇氣にまかせて、眞實(しんじつ)より出(いづ)るにては、無きにや。』と思はれ候。夫(それ)にては、賴母しからず。」

と、歎きけるとぞ。

   *

「鞦」馬具の緒所(おどころ)。馬の頭・胸・尾に繋げる緒(帯)の部分の総称。

「五六間」約九~十一メートル。

「握り細」弓の弦(つる)張る本体部である弓柄(ゆづか=握(にぎり))がいかにも細いちゃちなもの。

「楊弓」(やうきゆう(ようきゅう))遊戯用の小さな弓。約八十五センチの弓に約二十七センチの矢を番(つが)え、座って射る。江戸時代から明治にかけて民間で流行した。もと、柳の枝で作られたため、この名がある。

「柳橋」春風亭の四代目麗々亭柳橋(万延元(千八百六十)~明治三三(一九〇〇)年)。「坐り踊り」高座にしゃがんだままで、膝と腰とで呼吸を巧みとって踊るもの)で人気を博した。落語は実父三代目譲りの人情噺が得意とした。

「才槌頭」(さいづちあたま)木槌の形に似て、額と後頭部が突き出ている頭。しばしば人を罵倒する際にも用いられる差別語である。

「孝行鍛冶」(かうかいかぢ)落語の演目であろうが、不詳。「孝行糖」(当該ウィキ参照)なら知っているが。

「圓喬」三遊亭の四代目橘家圓喬(慶応元(一八六五)年~大正元(一九一二)年)。江戸生れ。本名は柴田清五郎(元は「桑原」姓で養子になったものと思われる)。当該ウィキによれば、『叔父が三遊亭圓朝の贔屓客だった関係で』、『幼いころから寄席の楽屋に出入りするようになり』明治五(一八七二)年に七歳でかの『三遊亭圓朝門下に入門し』た高弟である。『「鰍沢」「三軒長屋」「牡丹灯籠」「柳の馬場」「真景累ヶ淵」』『などを得意と』し、『後世に大きな影響を与えた名人であ』るとある。

「彌太つぺい」「馬樂」三代目蝶花楼馬楽(ちょうかろうばらく 元治元(一八六四)年~大正三(1914)年)。本名は本間弥太郎。当該ウィキによれば、『俗に「弥太っぺ馬楽」「狂馬楽」「気違い馬楽」』と呼ばれた。『俳句も好くし』、「長屋の花見」の『マクラに好く使われている』「長屋中齒を食ひしばる花見かな」「古袷秋刀魚に合わす顏もなし」『などの佳句を残している』とある。

「吉井勇君の俳譜亭句樂に違ひない」所持する筑摩書房『全集類聚』版「芥川龍之介全集」(第五巻)の脚注に拠れば、歌人で劇作家でもあった『吉井勇作』の戯曲『「俳諧亭苦楽の死」(一九一四年初版)の主人公』とある。

「圓藏」四代目橘家圓蔵(文久三或いは四年或いは元治元(一八六四)年~大正一一(一九二二)年)。本名は松本栄吉。当該ウィキには、『立て板に水の能弁で、作家芥川龍之介は「この噺家は身体全体が舌だ。」と感嘆した。「嘘つき弥次郎」「首提灯」「蔵前駕籠」「お血脈」「反魂香」「釜どろ」「百川」「松山鏡」「廓の穴」「芝居の穴」「三人旅」などが得意』であったとあるのだが、この芥川龍之介の引用は出典が示されていない。旧全集で彼の名が出るのは、本篇だけである。不審。

「遊三」(いうざ(ゆうざ))は初代三遊亭遊三(天保一〇(一八三九)年~ 大正三(一九一四)年)。当該ウィキによれば、もとは『徳川家に仕えた御家人の生まれで』、本名を『小島弥三兵衛長重と言』ったが、『その頃の御家人の例に漏れず、武士の階級でありながら』、『芸人仲間に加わり好きな芸事に耽溺していた。幕末頃』、『病昂じて』二『代目五明楼玉輔門人となり』、『玉秀と名乗って寄席に出るようにな』っていた。慶応四(一八六八)年の「上野戦争」には『彰義隊の一員として参加した。倒幕後の維新後は司法省に入り』、『裁判官の書記を経て判事補となるなど』、『完全に寄席から離れ』た『が、函館に勤務中、関係を持った被告の女性に有利な判決をするという不祥事を引き起こし』、『官を辞』し、『女性をつれて東京へ戻』った。『帰京後、口入屋などをしていたが、旧友初代三遊亭圓遊を頼って寄席に復帰』し、六『代目司馬龍生門で登龍亭鱗好となるが』、『師が女性問題で駆落ちしてしまい、止む無く』、『三遊亭圓朝の進めで圓遊門人となり』、『三遊亭遊三となる。「三遊亭遊三」は回文形式の洒落た名前で』ある。『御家人生まれだけに「素人汁粉」など武士の演出が優れていたという。十八番は「よかちょろ」で「よかちょろの遊三」とまで呼ばれた。他に「転宅」「厩火事」「お見立て」「権助提灯」などの滑稽噺を得意とした』。五『代目古今亭志ん生が』、『若い頃、遊三の「火焔太鼓」を聞いて、後に自身の十八番とした逸話は有名である』。『晩年に義理の甥(妻の甥)にあたる』二『代目三遊亭遊三に譲り』、『隠居』した、とある。

「桂小文治」前掲の筑摩類聚版の脚注によれば、大阪出身の落語家で、上方の『七代目桂文治』(嘉永元(一八四八)年~昭和三(一九二八)年:本名は平野治郎兵衛)『の弟子。上方古典落語に巧み。本名稲田祐宏』とあり、生年は明治二六(一八九三)年とする。

「雲井龍雄」(天保一五(一八四四)年~明治三(一八七一)年)は佐幕系志士。米沢藩士中島惣右衛門の次男で、後に同藩士小島才助の養子となった。通称は龍三郎。雲井龍雄は変名。慶応元 (一八六五)年、江戸に遊学して安井息軒に師事し、朱子学・陽明学を修め、後に藩の依頼で、公武合体に奔走。慶応四(一八六八)年四月、新政府の貢士として議政官下局に名を連ね、徳川氏の立場を弁護した。官軍東征の動きを知ると、帰東して迎撃の態勢を整えるよう奔走し、「討薩の檄」を作成して、薩長間の離間を策した。「奥羽越列藩同盟」の結成に尽力して策謀を練り、敗戦とともに米沢に謹慎した。明治二(一八六九)年七月、東京に出て、再挙をはかり、長州・土佐系高官と通謀して、新政府の転覆を策したが、新政府側の察知するところとなり、捕えられ、斬首された。雲井の思想は佐幕・勤王・攘夷・封建で、つまりは「公武合体」のうえに立った「攘夷論」で、極めて特異なものであった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。当該ウィキには、『壮志と悲調とロマンティシズムに溢れた詩人とも評されている』とあった。

「天國の劍」」前掲の筑摩類聚版の脚注によれば、『天国は飛鳥の時代の刀工、日本刀剣の祖といわれる。平家の重宝小烏丸』(こがらすまる)『はこの人の作という。歌舞伎にはこの刀をめぐる騒動が多く扱われる』とある。

「明治三十年」一八九七年。

「牛の御前」現在の東京都墨田区向島にある牛嶋神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。江戸本所総鎮守で、隅田公園内にある。当該ウィキによれば、貞観年間(八五九年~八七九年)の創建とされ、『慈覚大師円仁が当地に来た際に、須佐之男命の化身の老翁から託宣を受けて創建した。明治以前は「牛御前社」と呼ばれており、本所の総鎮守であった』。『鎌倉に進軍する源頼朝の軍勢が隅田川を渡河する際に、千葉常胤が当社で祈願したため、無事に渡ることができたという。以降、千葉氏の崇敬を集めるようになった』。『元々は』五百『メートル北の弘福寺』(ここ)『のそば(現在の桜橋付近)に位置していたが』、大正一二(一九二三)年の「関東大震災」で『罹災し、また』、『墨田堤の拡張工事に伴い』、昭和七(一九三二)年に『現在地に移転した』。『なお、神社には』弘化二(一八四五)年に『奉納された葛飾北斎の大絵馬「須佐之男命厄神退治之図」があったが、関東大震災で現物は焼失し、現在は原寸大の白黒写真が本殿内に掲げられている。なお、同作は』二〇一六年に『色彩の推定復元が行われ、すみだ北斎美術館にて展示』されている。『境内には「撫牛」と呼ばれる牛の像がある。自分の体の悪い所と同じ部分を撫でると病気が治ると言い伝えられている。また』、『本殿前の鳥居は三ツ鳥居と呼ばれる比較的珍しい形態の鳥居である』とある。本所は芥川龍之介の生地である。]

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