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2022/11/04

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 一休他人の手を假て惡童を懲せし話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈の長い部分は直後に、「選集」を参考にしつつ、〔 〕で推定で訓読文を附した。

 標題は「一休、他人の手を假《かり》て惡童を懲《こら》せし話」と読む。]

 

     一休他人の手を假て惡童を懲せし話

               (大正二年九月『民俗』一年二報)   

 『烈公間語』に、其著者、幼少の時、光政の母公へ、「光政樣、御越被成時分、我等に、何にても御物語仕候樣。」と、福照院樣(母公)、被仰に付、「童の時に人の語《ものがたり》聞《きか》せし跡先も、無之、物語、爲御慰、一、二、申上る。」迚《とて》、「一休和尙、行路の節、道の傍の木の梢に、童、登居《のぼりゐ》て、一休に小便を仕懸《しかけ》て、自《みづか》ら、大きに笑ふ。一休、腰より、錢を取出《とりいだ》し、彼(かの)童に遣《や》り、「能社ケ樣之(よくこそかやうなる)仕形《しかた》仕候。」迚、打過候。彼童、『能事仕《よきことし》たり。』と思ひ、「重《かさね》て、人、通るならば、亦、右の仕形に仕《つかまつり》て、錢を乞取《こひとら》ん。」と、待ち候ところへ、士《さむらひ》通り候時、如最前、小便、仕懸て笑ふ。忿《おこり》て打擲《ちやうちやく》仕る。是、一休の作意、利口故、人を以て、意趣を返すと承る。」と申上る。光政樣、被仰付、「此物語の趣意、然るべからず。一休、まことの志ならば、最前、小便仕懸けられ候時、强く詈《ののし》り、叱《しかり》て、「我は、是、出家なれば、不ㇾ及打擲、他人にかやうの仕形仕るならば、命を可失。」と、申し敎へ可通《とほるべき》に、何ぞや、錢を遣りて、人を以て、讐《むくい》をす。奸心、淺からず、ケ樣之(かやうの)事にて、若輩の者心附べき事也《や》。幼童に語り聞す物語にも、尤(いと)心得可有也《あるべきことなり》。」と仰也《おほせなり》云々。

[やぶちゃん注:「一休」臨済宗大徳寺派の僧で、とんち話で知られる一休宗純(明徳五(一三九四)年~文明一三(一四八一)年)。詳しくは当該ウィキをどうぞ。

「大正二年」一九一三年。

「烈公間語」は、さる論文で漸く見つけたが、池田政倫著で元禄二(二八八九)年刊のもの。この作者不詳(旗本に同姓同名の池田政倫(享保二(一七一七)年~安永四(一七七五)年)がいるが、刊記が余りにも後であり、本文の冒頭から考えても、この旗本は別人であ)。この「烈公」は播磨姫路藩第三代藩主・因幡鳥取藩主・備前岡山藩主(池田宗家)の池田光政(慶長一四(一六〇九)年~天和二(一六八二)年)の諡号「芳烈公」によるもの。

「光政の母公」「福照院樣(母公)」「福正院」が正しい。鶴姫(文禄三(一五九四)年~寛文一二(一六七二)年)で、姫路第二代藩主で光政の父池田利隆の正室。徳川四天王や徳川三傑に数えられ、家康覇業の功臣として知られる榊原康政の次女。]

 『塵添壒囊抄《ぢんてんあいなうせう》』一に、孔子の腹黑と云事ありとて、孔子、山中を行くに、童子、木の上より尿《いばり》をしかけた。孔子、「大剛の者也《なり》。よくしたり。」と、ほめて過去《すぎさつ》た。其後ち、令尹《れいいん》、通るに、童子、また、小便をしかけた。「天下の大害を爲《なさ》ん者。」とて、引きおろし、頭を刎《はね》た云々に作れり。

[やぶちゃん注:「塵添壒囊抄」先行する原「壒囊抄」は室町時代の僧行誉の作になる類書(百科事典)。全七巻。文安二(一四四五)年に、巻一から四の「素問」(一般な命題)の部が、翌年に巻五から七の「緇問(しもん)」(仏教に関わる命題)の部が成った。初学者のために事物の起源・語源・語義などを、問答形式で五百三十六条に亙って説明したもので、「壒」は「塵(ちり)」の意で、同じ性格を持った先行書「塵袋(ちりぶくろ)」(編者不詳で鎌倉中期の成立。全十一巻)に内容も書名も範を採っている。これに「塵袋」から二百一条を抜粋し、オリジナルの「囊鈔」と合わせて、七百三十七条としたのが、「塵添壒囊抄」(じんてんあいのうしょう)全二十巻である。編者は不詳で、享禄五・天文元(一五三二)年成立で、近世に於いて、ただ「壒囊鈔」と言った場合は、後者(本書)を指す。中世風俗や当時の言語を知る上で有益とされる(以上は概ね「日本大百科全書」に拠った)。南方熊楠御用達の書である。当該部が「日本古典籍ビューア」のこちらで視認出来る。]

 較《やや》似たる話、西晉の竺法護譯『佛說生經』卷四に、給孤獨園《ぎつこどくおん》にて、佛告諸比丘、乃昔去世、有異曠野閑居、彼時有水牛王、頓止其中、遊行食草、而飮泉水、時水牛王、與衆眷屬、有所至湊、獨在其前、顏貌姝好、威神巍巍、名德超異、忍辱和雅、行止安詳、有一獼猴、住在道邊、彼見水牛之王與眷屬俱、心生忿怒。興于嫉妬、便卽揚塵瓦石、以坌擲之、輕慢毀辱、水牛默然、受之不報、過去未久、更有一部水牛之王、尋從後而來、獼猴見之、亦復罵詈、揚塵瓦石打擲、後一部衆。見前牛王默然不報、効之忍辱、其心和悅、安詳雅步、受其毀辱、不以爲恨、是等眷屬過去、未久有一水牛犢、尋從後來、隨逐群牛、於是獼猴、逐之罵詈、毀辱輕易、見水牛犢、懷恨不喜、見前等類、忍辱不恨、亦復學効、忍辱和柔、去道不遠、大叢樹間、時有樹神、遊居其中、見諸水牛、雖被毀辱、忍而不瞋、問水牛王、卿等何故、覩此獼猴、猥見罵詈、揚塵瓦石、而反忍辱、默聲不應、此義何趣、有何等意、云々、水牛報曰、以說偈言、以輕毀辱、我必當加施人、彼當加報之 爾乃得疾患、諸水牛過去、未久有諸梵志大衆群輩仙人之等、順道而來、時彼獼猴、亦復罵詈、毀辱輕易、揚塵瓦石、以坌擲之、諸梵志等、即時捕捉、以脚蹋殺、則便命過云々。〔佛、諸比丘に告ぐ。乃-昔(むかし)、去(とほ)き世に、異(い)なる曠野に閑居する有り。彼(か)の時、水牛王、有り。其の中に頓-止(とど)まり、遊行(ゆぎやう)して草を食らひ、泉水を飮む。時に水牛王、衆(おほ)くの眷屬と與(とも)に、至る所有りて、湊(あつ)まる。獨り、其の前に在りて、顏貌、姝-好(みめよ)く、威神、巍々(ぎぎ)たり。名德は超-異(ぬきんで)て、忍辱(にんにく)して、和雅《わげ》にして、行-止(ふるまひ)は安-詳(ものしづ)かなり。一(いつ)の獼-猴(さる)有り。住みて、道邊(みちのべ)に在り。彼、水牛の王の、眷屬と俱(とも)にあるを見て、心に刎-怒(いかり)を生じ、嫉妬(ねたみ)を興(おこ)す。便-卽(すなは)ち、瓦石を揚塵(やうぢん)し、坌(ちり)を以つて、之れに擲(なげう)ち、輕んじ、慢(あなど)りて、毀(そし)り辱しむ。水牛は默然として、之れを受くるも、報《もち》ひず。過ぎ去って未だ久しからざるに、更に一部(ひとむれ)の水牛王有り、尋(つ)いで、後ろより來たる。獼猴、之れを見、亦-復(また)も罵-詈(ののし)り、瓦石を揚塵して打擲つ。後との一部の衆は、前(さき)の牛王の默然として報ひざるを見、これに効(なら)ひて、忍辱し、其の心、和-悅(なご)み、安詳に雅步し、その毀り辱しめを受くるも、以つて恨みと爲(な)さず。是等の春屬の過ぎ去りて、未だ久しからざるに、一(ひとつ)の水牛の犢(こうし)有り、尋(つ)いで後ろより來たり、群牛に隨ひて逐(お)ふ。是に於いて、獼猴、之れを遂ひて、罵詈り、毀り辱しめて、輕-易(あなど)る。見て、この水牛の犢、恨みを懷きて喜ばざるも、前の等類(なかま)の忍辱して恨まざるを見、亦、學-効(なら)ひて、忍辱し、和柔(にこや)かなり。道を去ること、遠からず、大叢樹の間に、時に樹神、有り。其の中に遊居す。諸水牛の毀り辱しめらると雖も、忍んで、瞋らざるを見、水牛王に問ふ。「卿(きやう)ら、何故に、此の獼猴の猥(みだ)りに罵詈るを見、瓦石を揚塵するを覩(み)て、反(かへ)つて忍辱し、聲を默(もだ)して應ぜざるや。此の義は何(いか)なる趣(わけ)、何なる意(おもひ)有りてか、」云々、水牛、報(こた)へて曰はく、「もって偈を說きて言はん、『輕んじて 我を毀り辱しむるを以つて 必ずや 當(まさ)に人にも加へ施すべし 彼は當に之れに報ひを加ふべく 爾(なんぢ) 乃(すなは)ち疾-患(わざはひ)を得ん』と。諸水牛、過ぎ去りて、未だ久しからざるに、諸梵志・大衆輩・仙人等、有り、道に順(したが)ひて來たる。時に、かの獼猴、亦、罵詈り、毀り、辱しめて、輕易(あなど)り、瓦石を揚塵し、坌(ちり)を以つて、之れに擲つ。諸梵志ら、卽時に捕-捉(とら)へ、脚を以つて蹋(ふ)み殺すに、則-便(たちまち)、命、過(をは)りぬ云々」。〕。

 水牛は佛、眷屬は諸比丘、犢は諸梵志、仙人は淸信士居家學者、猴衆は外異道の前身、とあり。

[やぶちゃん注:「西晉の竺法護譯『佛說生經』」西晋時代(二六五年~三一六年)に活躍した西域僧で、鳩摩羅什以前に多くの漢訳経典に携わった代表的な訳経僧の一人である竺法護(じくほうご 二三九年~三一六年:敦煌の月氏(中央アジアの民族)の家系に生まれ、熱心な仏教徒であった)の訳になる「生經(しやうきやう)」。正式には「佛說」は入らない。それを入れて「大蔵経データベース」では表示されないので注意。おかしいことに気づき、同サイトで「生經」で検索したら、目出度くヒットした。それで本文を校合した。「云々」で判る通り、途中が省略されており、一部に誤りもあった。

「梵志」バラモン僧。

「淸信士居家學者」仏教の真の理解には至っていない僧・在家信者及び仏教学者。

「外異道」仏教徒は全く異なる起源の淫祠邪教。]

追 加 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 唐義淨譯『根本說一切有部毘奈耶雜事』十六、舍衞の婆羅門、阿難を打ち、次に鄔波難陀《うばなんだ》を打《うち》て求刑され、遂に王命に依つて、兩手を截《き》らる。佛、鄔波難陀を罸し、因緣を說く。昔し、花果浴池、滿足せる一園中に、隱士、住み、樹下に靜座思惟する。其上から猴が果《このみ》を落して、其頭を打破《うちわ》つた。隱士、騷がず、頌(しよう)を說く、我終不ㇾ起ㇾ念、令汝苦身亡、由汝自作ㇾ愆、當ㇾ招斷ㇾ命報。〔「我れ 終(つひ)に念(おもひ)を起こさず 汝をして苦しみて身を亡(うしな)はしむ 汝自(みづか)ら愆(とが)を作(な)せしに由(よ)りて 命を斷つの報ひを招くべし」[やぶちゃん注:この部分は「頌」(仏の徳をほめたたえる歌)の部分であるから、恣意的に句読点を排した。]〕と。此隱士の知れる獵師、隱士不在中へ來り、俟《まつ》て居《を》ると、猴、又、大《おほい》なる果を、其禿頭へ落し、血、流る。獵師、大に腹を立《たて》て、毒矢で、猴を射殺《いころ》した。隱士と猴と獵師は、今の阿難と婆羅門と鄔波難陀だ、と。

[やぶちゃん注:何度も出ている「唐義淨譯『根本說一切有部毘奈耶雜事』」は今までと同じく「大蔵経データベース」で校合した。

「阿難」「鄔波難」孰れも釈迦の十大弟子の一人。]

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