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2022/11/17

大和怪異記 卷之二 第六 吉田兼好が墓をあばきてたゝり有事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここ(単独画像ページ)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第六 吉田兼好(けんかう)が墓をあばきてたゝり有《ある》事

 兼好法師、高師直(かうのもろ《なほ》)にそむきて後、伊賀守橘成忠《たちばなのしげただ》を賴《たより》て、伊賀国にいたり、阿拜郡《あはいのこほり》多那尾村《たなをむら》国見山《くにみやま》の麓(ふもと)、田井といふ所に住居(すみゐ)す。

 此とき、成忠が女子(むすめ)、十七、八にて、容色すぐれたるありしに、兼好、密通し、他(た)にしられんことを恥(はぢ)て、

〽しのぶ山又ことかたの道もがなふりぬる跡は人もこそしれ

と、よめり。

 かくて、數年を經て、貞治元年五月廿三日、兼好、病死す。六十三歲なり。國見山に葬(はうふ)る。

 しるしに、松を植置(うえおき)しに、近きころ、土民とも[やぶちゃん注:ママ。]、塚をほりてみれば、六尺四方斗《ばかり》に、刀《かたな》を、

「ひし」

と、うゑ、其下に、大瓶・小瓶を置《おき》、其中に、鏡(かゝみ)、あり。

 不審に思ふに、殊の外に、たゝり有《あり》ければ、おそれて、もとのごとくに埋(うづみ)ぬ。

[やぶちゃん注:典拠が挙げられていないが、次話「第七 一條兼良公御元服のとき怪異ある事」が典拠とする「犬著聞集」(いぬちょもんじゅう) に係わるものであることが判った。「犬著聞集」(いぬちょもんじゅう:別名「古今犬著聞集」)は江戸初・中期の俳諧師椋梨一雪(むくなしいっせつ 寛永八(一六三一)年~宝永三(一七〇六)年から宝永五年頃か)が書いた江戸時代の説話集の濫觴の一つで、貞享元(一六八四)年に成稿、元禄九(一六九六)年板行されている。但し、本篇は当該書ではなく、以下に示す論文と、「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の解題から、本篇は、椋梨が儒学者で神道家であった谷泰山谷秦山(たにしんざん 寛文三(一六六三)年~享保三(一七一八)年)に送った「犬著聞集抜書」に拠っていることが判明している。調べてみたところ、底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」のこちらで、当該抜書と同一と思われる写本「犬著聞集 拔書 全」(高知県立高知城歴史博物館・山内文庫)があり、その「兼好法師塚叓」(けんかうはうしつかのこと)がそれであると思われる。ただ、前半の和歌までの内容はなく、塚の話がほぼ一致している。因みに、原拠のそこでは、を掘ったのを、『寛文七年歳』(一六六七年)と明記していることが注目される。因みに、土屋順子氏の解題によれば、本「大和怪異記」の出典の多くは「犬著聞集」に求められるとされ、『その数は飯倉』洋一『氏の調査によれば』、本書『所収の説話百五話のうち』、半分を超える『五十六話に及ぶ』とされる。私は生憎、同書を所持せず、ネットでも完本を披見出来ないため、原拠との対比が出来ないことは、ちょっと残念ではある。

 さて、先に私が述べた論文とは、「J-STAGE」のこちらからダウン・ロードできる川平敏文氏の「兼好伝と芭蕉」(『近世文藝』第六十五巻所収・一九九七年発行)で、その17ページ上段末から二行目以降がそれである。さらに、本篇の前半の兼好が女の色香に惑うという如何にも作話性の強い怪しい箇所については、その原拠とともに、同じ川平氏の論文「兼好伝の造型――『園太暦』偽文を読む――」(熊本大学『文学部紀要』第九巻二号所収・二〇〇三年三月発行/「熊本県立大学学術リポジトリ」のここからダウン・ロードできる)がそれを明らかにしておられるので、是非、参照されたい。ここに出る「園太暦」(えんたいりゃく)は、兼好と同時代人であった「中園太政大臣」と称された鎌倉後期から南北朝時代の公卿洞院公賢(きんかた)の実在する漢文体日記であるのだが、川平氏は論の冒頭で、

   《引用開始》

 兼好がその晩年を伊賀国のとある山村で過ごし、そこで最期を遂げたという、何とも奇妙な行状が世に注意されるようになるのは、ちょうど『徒然草』の注釈書が量産され、様々な角度からの「読み」が交錯していた時期と重なる。すなわちそれは、前述した『徒然草』の「発見」から約七〇年が過ぎた頃、寛文・延宝期[やぶちゃん注:一六六一年から一六八一年、]である。いま、この偽文を〈『園太暦』偽文〉と称する事とするが、それはこの偽文が、兼好と同時代の公卿、洞院公賢の漠文体日記『園太暦』からの抜粋という体裁で書き綴られているからである。

   《引用終了》

とある。我々は、この「大和怪異記」の本篇を相当に眉に唾して読む必要があるのである。

「兼好法師」卜部兼好(うらべかねよし 弘安六(一二八三)年頃?~文和元年/正平七(一三五二)年以後?)は、知らぬ者のないほど、古文の授業でやった。かなり長い間、大学受験の古文のバイブルが「徒然草」の全文であった(私も一応、古い学習参考書で全文を、嫌々、読んだ)。私は定番の「あだし野の露」と「花は」以外は、辛気臭くて嫌いであったから、それ以外はすっ飛ばすのを常としていた。所収する笑話や擬似怪奇談も高校生時代からまるで面白くなかった。だから、度応時期に芥川龍之介の「侏儒の言葉」を読んで、その「つれづれ草」(私のブログの同条の「やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈」を参照)を読んだ時は、痛快極まりなかったのを覚えている。

「高師直」(?~正平六/観応二(一三五一)年)は足利尊氏に側近として仕えた武将で官僚。歌人としても知られた。正式な名乗りは「高階師直」(たかしなのもろなお)である。当該ウィキ他によれば、事実、晩年に兼好の方が接近して親交があり、『公卿洞院公賢に狩衣着用の規則を尋ねる際、兼好法師を使者として遣わしている』(「園太暦」貞和四(一三四八)年十二月二十六日の条)とある。しかし、また、彼は、「太平記」では『卑小な好色家としても描かれる。例えば、師直が塩冶高貞の妻に横恋慕し、恋文を』『吉田兼好に書かせ、これを送ったが』、『拒絶され、怒った師直が高貞に謀反の罪を着せ、塩冶一族が討伐され』、『終焉を迎えるまでが描かれている』とある。「あだしの露」を授業で初めて読んで、ちょっと感心した高校時代の私は、その古典の蟹谷徹先生の雑談で、ラヴ・レター代筆を聴くや、一気に鼻白んだのを覚えている。兼好は、「徒然草」から想像される隠者などではなく、生涯を通じて、諸著名人の関係を結んで工作を成した俗臭の強い男であり、その故に父が神職であった吉田神社との関係などでも上手くゆかなかった。ここでは兼好が彼「にそむきて」とあるが、そうした彼の小賢しい部分を見抜いた師直が、体よく使い捨てたというのが、事実ではなかろうか。

「伊賀守橘成忠」不詳。同姓同名の人物がいるが、戦国時代の武将であり、違う。彼が兼好を招いたとする話は、先の川平氏が後者の論文で示された「園太暦」偽文が元であろうからして、架空と考えてよい(ネットで兼好を招いた伊賀守橘成忠という文々(もんもん)はあっても、その人物が如何なる事績の実在した人物であるかを述べているものは、管見した限り、一切ないのである。例えば、兼好がメインではないが、サイト「三重の木」の「種生のオオツクバネガシ」(伊賀市指定天然記念物)を参照。「兼好塚」の写真もある)。川平氏自身、そこで『伊賀守橘成忠なる』(☜「なる」に注目)『人物と親交のあった兼好が伊賀国に下り、国見山のふもと田井庄に結庵した事、そして其頃十七、八歳であった成忠の娘と数年にわたって通じていた事』を「園太暦」偽文の『何と言っても』『新奇な点』の一つである、と述べておられることからもほぼ明らかなのである。

「伊賀国」「阿拜郡多那尾村国見山」現在の三重県伊賀市種生(たなお)「国見山城跡」(グーグル・マップ・データ)があり、その山城の北西の麓の平地の向かいの山の下に伝「兼好法師終焉之地(草蒿寺跡)」(グーグル・マップ・データ航空写真)がある。サイド・パネルの伊賀市教育委員会の説明板をリンクさせておく。なお、「阿拜」は現代仮名遣で「あはい」の他、「あえ」と読む。

「田井」「Stanford Digital Repository」のこちらで戦前の地図を見たが、これに相当する小字地名は見当たらなかった。従って読みも不明である。

「しのぶ山又ことかたの道もがなふりぬる跡は人もこそしれ」「新拾遺和歌集」の卷第十一 戀歌一」に兼好の作として載る(所持しないので国立国会図書館デジタルコレクションの「二十一代集 第九」のこちらで確認した)。

   *

   忍久戀

しのふ山又ことかたに道もかなふりぬる跡は人もこそしれ

   *

「貞治元年五月廿三日」南朝で正平十七年、北朝は康安二年九月二十三日に貞治に改元している。従ってまだ康安二年であるが、改元年は後代に記す場合、元日に遡って表記するのが普通であるから問題はない。ユリウス暦一三六二年六月十五日でグレゴリオ暦換算で六月二十三日。

「六十三歲なり」機械換算すると、彼の生年は正安二(一三〇〇)年となる。現在の推定

生没年より、不自然ではないが、かなりのズレがある。

「六尺」約一メートル八十一センチメートル。

『刀を、「ひし」と、うゑ、其下に、大瓶・小瓶を置《おき》、其中に、鏡(かゝみ)、あり』ちょっと聞いたことのない、恐ろしげな埋葬法・副葬品である。

 なお、本篇は後の寛延二(一七四九)年刊の紀州藩士の学者神谷養勇軒の「新著聞集」(こちらの「新著聞集往生篇第十三に、上總福津(ふつつ)のじやじや庄右衞門てふ大若黨者、……」の私の注を参照されたいが、実は椋梨の「犬著聞集」の再編集版である)の「第六巻 勝蹟篇」にも載る。所持する吉川弘文館随筆大成版の当該部を恣意的に正字化して示す。

    *

   ○伊賀國兼好法師の塚

伊賀の國阿拜郡多那尾村の内國見山に、吉田の兼好塚あり。そのしるしに松のありし。寬文七年に、土民ども塚をほりくずしてみれば、四面六尺ばかりに、刀をひしとつめ、其下に大小の甁二つありて、中に鏡をおさめし。此ころ、村中多く煩しまゝ、神子をよせてきゝしに、塚を崩せし咎めにてありしと云しを、地頭の藤堂玄蕃殿聞たまひ、かばかりの舊蹟を、容易に掘べき事かはとて、本のごとくにおさめおかれしと也。洛西の雙丘に、無常所をかまへしと、みづからの家の集に記されしかど、もしその比、亂世にて、かゝる所へさそうへ[やぶちゃん注:底本にママ注記有り。「左樣に」か。]行れしやらん。いと不審き事なり。

   *]

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