大和怪異記 卷之一 第七 河邊の臣雷神をやきころす事
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。]
第七 河邊(かはべ)の臣《おみ》、雷神をやきころす事
推古天皇二十六年八月、河邊の臣を、安藝国につかはして、舶(ふね)をつくらしめらる。
河邊の臣、好材(よきき)を得て、きらしめむとするに、人、ありて、
「これ、霹靂(かんとき)の木なり。」
と云。
河邊の臣、
「雷神といふとも、皇命(すへらきのみことのり)を、つかはんや。」
と、いひて、きらしむるに、大雨(《だい》う)、雷電(らいでん)す。
河邊臣、劔(けん)をとりて、いはく、
「雷神、人夫(《にん》ぶ)を、おかす事、なかれ。まさに、我身を、やぶるべし。」
と、いひて、待(まつ)に、雷神、おかす事、あたはず。
小魚となりて、樹の枝に、はさまれり。
則《すなはち》、魚(いを)を取《とり》て、やきころし、つゐに[やぶちゃん注:ママ。]其木をもつて、船をつくる、と云。同
[やぶちゃん注:最後の「同」は、前話の「同」で、原拠を「日本書紀」とすることを意味する。原文は推古天皇二十六年以下。
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廿六年[やぶちゃん注:中略。]、是年、遣河邊臣闕名於安藝國令造舶。至山覓舶材、便得好材、以將伐。時有人曰「霹靂木也、不可伐。」河邊臣曰「其雖雷神、豈逆皇命耶。」多祭幣帛、遣人夫令伐。則大雨雷電之。爰、河邊臣案劒曰「雷神無犯人夫、當傷我身」而仰待之、雖十餘霹靂不得犯河邊臣。卽化少魚、以挾樹枝。卽取魚焚之。遂脩理其舶。
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細かいことを言うと、この言説の頭部分は、あくまで「是年」である。この前の叙述は推古天皇「廿六年秋八月癸酉朔」で高麗が遣わした貢献の品物に係わる記載であるが、この前の話で見た通り、ある事件の凶兆を、事件があった後にやおら出すような書物が「日本書紀」である。されば、この出来事を「八月」と規定するのは、とんでもハップンである。
国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年岩波書店刊黒板勝美編「日本書紀 訓讀」下巻で示すと、ここの左ページ二行目から。
「推古天皇二十六年」六一八年。
「河邊の臣」『國學院大學「古典文化学」事業』の「氏族データベース」の「川辺臣」でも、この記事の人物を『名不詳の河辺臣が安芸国に派遣され、造船のことを管掌している』と記すだけである。但し、次注参照。
「安藝国」この場所はどこだろうかと調べてみると、まさに、現在の広島県三原市本郷町(ほんごうちょう)船木(ふなき:グーグル・マップ・データ)に、文字通り、菅霹靂(すがへきれき)神社という神社が現在もあることを発見した。この三拍子揃ったそれは、本話とは偶然とは思われない。さらに、調べるに、個人サイト「神社の世紀」の「かむとけの木から(1)【河辺臣と霹靂の木】」、及び、その続編(2)の考証が見つかった((2)(2)では、先に私がこちらの注で電子化した「日本靈異記」の「雷(いかづち)を捉ふる緣第一」にも言及がある。このシリーズは以降も(6)までは続く)。その(1)に、この菅霹靂神社の縁起はまさに、「日本書紀」に由来するものとされており、『由緒を刻んだ石碑には』、「日本書紀」の本『記事の後を次のようにつづけている』。『「霹靂(かんとけ)の木は周囲十周、高さ百二十丈もある大木で、高天原より神が降臨される神木として崇められ、雷は雷鳴と共に雨をもたらし、耕作の豊穣と結びつけ農業の神として信仰があった」。『雷神のたたりを畏れた村人が』、『神々を勧請し、社号を船材敏(ふなきと)神社とし、船木郷の産土神としてまつられたといわれている』。『船木郷で造られた船は遣唐使船として活躍し、唐(中国)の文化を導入し、我が国、文化の水準を高め、国内改革の促進に貢献したと言われている』とあるのである。さらに、『河辺臣の出身氏族、河辺氏の本拠地は河内国石川郡川辺野(大阪市平野区長吉町ふきん)である。そこは住吉大社から東に』八キロメートル『程度しか離れておらず、こうした地縁関係から河辺臣と船木氏に関係があったとしてもおかしくないのだ』とされ、『また、由緒書きでは河辺臣が切り倒した霹靂の木は遣唐(随)使船の材料としてつかわれたことになっているが、実際のところどうだったのか。河辺臣は闕名だが、たぶん』、『推古天皇三十一年』(六二三年)『条で新羅征討に加わった副将軍の河辺臣禰受と同一人物だろう。してみると、霹靂の木は』、『この時の軍船に使用された可能性が高い。総じて、神功皇后の伝承に登場するエピソードをはじめとして、航海神である住吉神は古くから新羅出兵との関係が深かった。したが』って、『ここにも住吉神が管轄する杣山の管理をしていた船木氏と、推古天皇二十六年の記事のつながりが感じられる』。『こうしたことから』、『河辺臣と霹靂の木の記事の舞台となったことを主張する菅霹靂神社の由緒には、それなりの信憑性が感じられる。その場合、霹靂の木を伐ろうとした河辺臣を止めようとした人物は船木氏の者であったと考えられる』とされる。因みに、最後の写真のキャプションのように、『平凡社の「広島県の地名」によれば、当社には河辺臣を祀る河辺神社という境内末社があるとあったが』、『見つからなかった』とあった。ここに出る河辺禰受(かわべのねず 生没年未詳)は飛鳥時代の武人で、引用者も記すように、「日本書紀」によれば、征新羅副将軍となり、大将軍境部雄摩侶(さかいべのおまろ)や中臣国(なかとみのくに)らとともに、数万の軍を率いて新羅を攻めたとする先の『國學院大學「古典文化学」事業』の「氏族データベース」の「川辺臣」でも、彼は小徳(冠位十二階の第二位)の『地位にあり、国内においても有力な氏族であった』とあるのである。
「霹靂の木」「雷神の宿る神木」の意であろうが、そう名ざされ、しかも河辺が造船の良材と考えたからには、落雷を受けた木で、しかも、その痕を残しつつ、枯れることなく、すっくと聳えてたっている雷神の聖痕(スティグマ:stigma)を持つ聖樹という謂いであろう。
「人夫」黒板版で「おほむたから」と訓じているので判る通り、「人民・庶民一般」を指す。「にんぶ」は、古い読み方で、「にんぷ」より遙かに正しい。
「我身」言わずもがなだが、川辺の臣自身を指す。
「小魚となりて、樹の枝に、はさまれり。則、魚(いを)を取て、やきころし」という箇所には、何らかの重要なメタファーが潜んでいる。雷神がしょぼい「小魚」になるというのは、いかにも面白い。]