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2022/12/31

恒藤恭 「旧友芥川龍之介」の「芥川龍之介」(全)

 

[やぶちゃん注:本篇は芥川龍之介自死の一ヶ月あまり後の昭和二(一九二七)年九月発行の『改造』に初出したものである。但し、本篇末尾には、『昭和二年八月五日』のクレジットがあるので、執筆自体は芥川の処決から十三日後に擱筆されたものと判る。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 残念ながら、この戦前に書かれた「芥川龍之介」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したものについては、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡にリンクさせあるので、そちらを見られたい。底本の傍点「﹅」は太字とした。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 以下、「芥川龍之介」本文(35(左)ページ)の前の前の左ページには、作者が描いた芥川龍之介の絵が配されてある。龍之介の傷心を癒すために恭が自身の故郷出雲に招いた折りに描いたものである(龍之介の松江到着は大正四(一九一五)年八月五日午後四時着で、二十一日に松江を発っている)。以下に絵の右下方外にあるキャプションを起こしておくが、この絵は、表現急行氏のブログ「表現急行2」の「古本日記 恒藤恭『旧友芥川龍之介』」の写真を見るにモノクロームのようである。この絵は私の『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 始動 / 「一」』でモノクロとカラーの画像(彼方の山体が薄い紫に着色されているのが印象的である)を掲げてあるので、そちらを参照されたい。絵の右下には「AUG. 12TH」のクレジット・サインがある。

 

 

 裸形の芥川龍之介

   大正四年八月出雲海岸にて著者ゑがく

 

 

    芥 川 龍 之 介

 

 

         

 

 七月二十八日の午前、遺族、親戚、若干の友人と共に私は日暮里の火葬場にゆき、芥川の遺骨を壺に拾つた。はじめ一同が焼香した後、係りの人たちが鉄扉を開いて竃の中から取り出した白骨を皆の眼の前に置いたとき、「きれいに燒けて居るな」と思つた。それは淸淨なるものの一と塊りであつた。

「この白骨を芥川に一と目見せてやりたいものだな」、次の瞬間にはそんな事を考へてゐた。そしたら「ああ身が軽くなつちやつた、うれしいぜ」と言ふだらうとおもつた。

「もうこれで此世に於ける君の存在は完全に終了した。安心して吳れたまへ。しかしね、残つた者はさびしくて堪らないぜ」。斯んなことを一言彼に告げたくも思つた。 

 八月二日の夜、私は東京を出発し、翌あさ下鴨の家に帰つた。暑さに中つて腸や頭やをいためた後に上京して、酷暑の中をあちこちしたので、心も身体も疲れた。何だか氣拔けのしたやうな感じがした。東京で買つて來たおもちやの BILDA や積み木を並べて子供たちとあそんだ。[やぶちゃん注:「BILDABetta Bilda(ベッタ・ビルダ)。イギリス製のレゴに似たプラスチック製の組み立てブロック玩具。英文サイトのこちらで確認した。]

 それから、戶棚の中から古い手紙を入れた箱を取り出して、芥川から來た書簡をえらび出した。大抵の手紙は保存して居ないけれど、芥川のよこした分は不思議と高等学校時代のから割合に完全に保存してゐる。順序もなく、封筒の中からなかみを出して讀み返した。過去はなつかしく記憶の中によみがへつて來た。ああそんな事もあつたつけと幾たびか独りでうなづいた。

 明治四十五年の七月、出雲の國松江に帰省して居た頃に吳れた手紙などが、一等古い部分に属し、封筒に入れた書簡が七十通ばかりと五、六枚のはがきとが残つてゐる。最後に來たのは今年の五月二日付の便りで、留守中に妻が狀差の中か何かから探し出して置いて吳れたのであつた。大部分は大正二年から七年頃までの日付になつてゐる。その頃から以後は、偶々東京又は京都で会へば、昨日別れたもののやうに話し合ふのであつたけれど、文通は稀れにしかしなくなつた。

[やぶちゃん注:「明治四十五年の七月、出雲の國松江に帰省して居た頃に吳れた手紙などが、一等古い部分に属し」恒藤の言う通りで、旧全集(私は新全集は一部しか所持しない。全文新字体というのが反吐が出るほど嫌いだからである)の書簡の中で最も古い井川(恒藤の結婚以前の姓)恭宛書簡は明治四五(一九一二)年一月一日附の自作の漢詩を記した年賀状である(当時、二人は一高第二学年であった。なお、当時の学制の新年度の始まりは九月)。私の「芥川龍之介書簡抄8 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(1) 八通」を見られたい。一通目の明治四五(一九一二)年一月一日・新宿発信(推定)・山本喜譽司宛(葉書)の注に、芥川が井川に送った年賀の漢詩を示してある(漢詩は私の「芥川龍之介漢詩全集始動 一」で訓読や注も示してある)。さらに、少し後に、同年六月二十八日附、及び、七月十六日附(これがここで恒藤が指摘している書簡である)の出雲に帰省中の井川恭に宛てた書簡が続き、井川恭との急速な親近度の高まりを見てとることが出来る。旧全集本巻収録の恒藤(井川)恭宛書簡は全部で九十四通で、画家小穴隆一と並んでダントツに多い。

「最後に來たのは今年の五月二日付の便り」「芥川龍之介書簡抄145 / 昭和二(一九二七)年五月(全) 十八通」の冒頭一通目で電子化注してある。]

 

 

        

 

 

 人の死んでしまつた後の狀態を死といふし、斯かる狀態としての死に人が到達する過程をも死といふ。前の意味における死は、生と対立するものであるが、後の意味における死は、生の最終の部分である。だから、或る人の一生について云爲するときに、この後の意味における死を其人が如何やうに経過したかといふことを不問に付してはなるまい。その人が自殺といふ経過をえらんだ場合において、一層然るであらう。しかしながら、人生の終りの部分としての死は、必ずしも藝術品の創作の過程における最後の仕上げのやうな意味をもつものではない。死が人の生涯の一構成分子として有する重要性は或る人の場合においては比較的に大であり、他の人の場合においては比較的に小である。自殺の場合といへども、例外を成すものではないと思ふ。或る人が自殺によつてその生涯を了へた場合に、彼の自殺を以て彼の生涯における最大の事件であるが如く思惟することは、多くの場合において彼の生涯の意義を正しく理解するの途ではない。しかも或る人の自殺が、彼を知つてゐた者に與へるところの心理的影響は、ややもすれば後者をして、死が前者の生涯において有する意義に関する錯覚に陷らしめる。[やぶちゃん注:「云爲」「うんゐ」。ある事柄を取り上げ、それについて、あれこれ言うこと。「云々(うんぬん)」に同じ。「然る」「しかる」そうあるべきであること。「途」「みち」。]

 芥川の場合において、彼の死が彼の生涯において如何なる意義を有するものであるか、を私は論じようとは思はない。唯、何にしても、自殺が彼の一生において有する重要性を過大視することは、私にとつては望ましくない。――根本において斯うは考へるものの、しかし、彼の自殺によつて惹起された心理的影響から免れることは不可能である。一つ一つ披いて讀んで行つた芥川の手紙の中で、次に全文を写すところの一通が最も强く私の心を撲つたのも、その爲である。それは大正四年三月九日の書信である。

[やぶちゃん注:以下書簡引用は最後の恒藤の註を含め、底本では全体が二字下げとなっているが、ブログ版では引き上げた。私の「芥川龍之介書簡抄36 / 大正四(一九一五)年書簡より(二) 失恋後の沈鬱書簡四通」で最初に電子化してある。恒藤が後注するように、元書簡では句読点はなく、表記・改行・字空けの一部も恒藤によって整序が加えられてある。署名の「龍」はもっと下にあるが、ブログのブラウザ上の不具合を考え、引き上げた。以下同じ。]

 

 イゴイズムをはなれた愛があるかどうか。イゴイズムのある愛には、人と人との間の障壁をわたる事は出來ない。人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出來ない。イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない。

 周圍は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。しかも人はそのまゝに生きる事を强ひられる。一切を神の仕業とすれば神の仕業は惡むべき嘲弄だ。

 僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑ふ。(僕自身にも)。僕は時々やりきれないと思ふ事がある。何故、こんなにして迄も生存をつづける必要があるのだらうと思ふ事がある。そして最後に神に対する復讐は、自己の生存を失ふ事だと思ふ事がある。僕はどうすればいいのだかわからない。

 君はおちついて画をかいてゐるかもしれない、そして僕の云ふ事を浅薄な誇張だと思ふかも知れない。(さう思はれても仕方がないが)。しかし僕にはこのまゝ回避せずにすすむべく强ひるものがある。そのものは僕に周圍と自己とのすべての醜さを見よと命ずる。僕は勿論亡びる事を恐れる。しかも僕は亡びると云ふ予感をもちながらも此ものの声に耳をかたむけずにはゐられない。

 每日不愉快な事が必ず起る。人と喧嘩しさうでいけない。当分は誰ともうつかり話せない。そのくせさびしくつて仕方がない。馬鹿々々しい程センチメンタルになる事がある。どこかへ旅行でもしようかと思ふ。何だか皆とあへなくなりさうな氣もする。大へんさびしい。

     三 月 九 日       龍

(註) 句読点は恒藤施す。以下同じ。

 

 右の書信の日付に先立つこと約十日の二月二十八日に書かれた書信の内容と照し合せると、右の書信の内容の意味が一層よく了解し得られるけれど、或る事情のために、唯その最後の部分だけを左に寫す。

[やぶちゃん注:同前で引用は二字下げ。やはり、恒藤は句読点以外にも手を加えている。「芥川龍之介書簡抄35 / 大正四(一九一五)年書簡より(一) 井川恭宛 龍之介の吉田彌生との失恋告白書簡」でカットされた前半部も電子化してある。「不性」は書簡のママ。「無精(ぶしやう)な」の慣用。「貰へば」は原書簡では正しく「貰へれば」となっている。]

 

 不性な日を重ねて今日になつた。返事を出さないでしまつた手紙が沢山たまつた。之はその事があつてから始めてかく手紙である。平俗な小說をよむやうな反感を持たずによんで貰へば幸福だと思ふ。

 東京ではすべての上に春がいきづいてゐる。平靜なる、しかも常に休止しない力が悠久なる空に雲雀の声を生まれさせるのも程ない事であらう。すべてが流れてゆく。そしてすべてが必ず止るべき所に止る。学校へも通ひはじめた。イヷンイリイッチもよみはじめた。

 唯、かぎりなくさびしい。

    二 月 廿八 日         龍

 

 右の二通をいづれも私は京都吉田の帝國大学寄宿舍で受け取つてよんだ。間もなく春休みとなつた。私は上京して、前の年の十月に建ち上つた田端の新居に芥川をおとづれ、休暇の間そこで起居を共にした。

[やぶちゃん注:「前の年の十月に建ち上つた田端の新居」芥川芥川龍之介の終の棲家となった新築の田端の家は、大正三(一九一四)年十月末に完成し(府下北豊島郡滝野川町字(あざ)田端四三五番地。現在の田端一丁目十九―一。グーグル・マップ・データ)、新宿の実父の持ち家から転居している。但し、この春休み(三月)に井川が「上京して」「田端の新居に芥川をおとづれ、休暇の間そこで起居を共にした」という事実は、現在のいかなる芥川龍之介年譜にも記載がない。但し、この大正四年三月の部分は、例えば、現在、最新の岩波新全集の宮坂覺氏の年譜でも記載が全くない(丸々ないのは同年表中では特異点である)から、或いは、そうした、井川が心配してやってきた事実があったとしてもおかしくはない。

 

 

         

 

 

 その時から約一ケ年前の芥川の心境を物語る手紙がある。

[やぶちゃん注:同前。「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」を参照されたい。私の語注も完備している。]

 

 僕の心には時々恋が生れる。あてのない夢のやうな恋だ。どこかに僕の思ふ通りな人がゐるやうな氣のする恋だ。けれども實際的には至つて安全である。何となれば、現實に之を求むべく、一に女性はあまりに自惚がつよいからである二に世間はあまりに類推を好むからである[やぶちゃん注:「自惚」「うぬぼれ」。]

 要するに、ひとりでゐるより外に仕方がないのだが、時々はまつたくさびしくつてやり切れなくなる。

 

 それでもどうかすると大へん愉快になる事がある。それは自分の心臟の音と一緖に風がふいたり、雲がうごいたりしてゐるやうな氣がする時だ。(笑ふかもしれないが)。勿論、妄想だらうけれど、ほんとにそんな氣がして少しこはくなる事がある。

 序にもう一つ妄想をかくと、何かが僕をまつてゐるやうな氣がする。何かが僕を導いてくれるやうな氣がする。小供の時はその何かにもつと可愛がられてゐたが、この頃は少し小言を云はれるやうな氣がする。平たく云ふと、幸福になるポッシビリティがかなりつよく自分に根ざしてゐるやうな氣がする。それも仕事によつて幸福になるやうな氣がするのだから可笑しい。

 幸福夢想家だと君は笑ふだらう。

 

 無智をゆるす勿れ。己の無智をゆるす爲に他人の無智をゆるすのは、最も卑怯な自己防禦だ。無智なるものを輕蔑せよ。(ある日大へん景氣がよかつた時)

 オックスフォードの何とか云ふ学者が「ラムをよんで感心しないものには英文の妙がわからない。ESSAY ON ELIA[やぶちゃん注:横書。以下同じ。この原書簡では縦書。]は文学的本能の試金石だ」と云つた有名な話があるさうだ。上田さんのラム推奬の理由の一として御しらせする。

 

 試驗が近いんだと思ふとがつかりする。試驗官は防疫官に似てゐる。何となれば、常に吐瀉物を檢査するからだ。眞に栄養物となつたものを測るべき医学者が來ない以上試驗は永久に愚劣に止るにちがひない。ノートをつみ上げてみると、ほんたうにがつかりする。

 

  キャラバンは何処に行ける

  みやれば唯平沙のみ見ゆ

  何処に行ける

 

  行きてかへらざるキャラバンあり

  スフィンクスも見ずに

  砂にうづもれにけむ

  われは光の淚を流さざる星ぞ

  地獄の箴言をかかざるブレークぞ

 

  わが前を多くの騎士はすぎゆくなり

  われも行かむと時に思へる

 

  メムノンはもだして立てり

  黎明は未來らず

  暗し――暗し

 

  何時の日か日の薔薇さく

  ほのぼのと

  何時の日かさくとささやく声あり

 

  象牙の塔をめぐりて

  たそがるるはうすあかり

  せんすべなさにまどろまんとする

 

                   龍

 

 この手紙には日付はないが、封筒に大正三年五月十九日のスタンブが捺してある。当時彼はなほ新宿の家に住んでゐた。

 

 

        

 

 

 順次に時の流れを遡つて行くやうだが――封筒の上のかすかなスタンプの文字により、大正三年一月二十一日に発信したものと認むべき手紙がある。後年に至るまで一貫して芥川が把持してゐた人生観なり藝術観なりが、かなり明瞭に且つ濃厚にその中にあらはれてゐるやうに思ふ。彼の手紙の多くはむしろ普通の書信の体裁を成してゐるのだが、この頃はよく感想錄めいたものを書いてよこした。

[やぶちゃん注:以下は書簡の引用だが、底本では字下げがない。以下は、「芥川龍之介書簡抄22 / 大正三(一九一四)年書簡より(一) 二通」の二通目で電子化注してある。かなり長い書簡である。やはり恒藤による整序がなされている。]

 

 自分には善と惡とが相反的にならず相関的になつてゐるやうな氣がす。性癖と敎育との爲なるべし。ロジカルに考へられない程腦力の弱き爲にてもあるべし。

 兎に角、矛盾せる二つのものが自分にとりて同じ誘惑力を有する也。善を愛せばこそ惡も愛し得るやうな氣がする也。ボードレールの散文詩をよんで最もなつかしきは、惡の讃美にあらず、彼の善に對する憧憬なり。遠慮なく云へば、善惡一如のものを自分は見てゐるやうな氣がする也(氣がすると云ふは謙遜[やぶちゃん注:原書簡では「謙辭」となっている。]なるやもしれず)。これが現前せば[やぶちゃん注:原書簡では「現前せずば」となっている。恒藤の脱字か、誤植であろう。]藝術を語る資格なき人のやうな氣がするなり。

 

 同じ故鄕より來りし二人の名を善惡と云ふなり。名づけしは其故鄕を知らざる人々なり。

[やぶちゃん注:ここで底本では改ページになっているが、版組上では、行空けをしていいない。原書簡は一行空けである。ここは特異的に一行空けておく。]

 

 何にてもよけれど、しかつめらしくロゴスと云はむ乎。宇宙にロゴスあり。万人にロゴスあり。大なるロゴスに從つて星辰は運行す。小なるロゴスに從つて各人は行動す。ロゴスに從はざるものは亡ぶ。ロゴスに從はざる行動のみ、もし名づくべくんば惡と名づくべし。

 ロゴスは情にあらず、知にあらず、意にあらず、强ひて云へば、大なる知なり。所謂善惡はロゴスに從ふ行動を浅薄なる功利的の立場より漠然と別ちたる曖昧なる槪念なり。

 

 自分は時に血管の中を血が星と共にめぐつてゐるやうな氣がする事あり。星占術を創めし[やぶちゃん注:「はじめし」。]人はこんな感じを更につよく有せしなるべし。

 

 このものにふれずんば駄目なり。かくもかかざるもこの物にふれずんば駄目也。

 

 藝術はこれに関係して始めて意義あり。

 

 今にして君の「 WESEN を感得せしむるアートは最高也」と云ひしを思ふ。君は三足も四足も僕に先んじたり。

 

 しひて神の信仰を求むる必要なし。信仰を窮屈なる神の形式にあてはむればこそ有無の論もおこれ。自分は「このもの」の信仰あり。こは「藝術」の信仰なり。この信仰の下に感ずる法悅が他の信仰の與ふる法悅に劣れりとも思はれず。

 すべてのものは信仰とならずんば駄目也。ひとり宗敎に於いてのみならず、ひとり藝術に於てのみならず、すべて信仰となりてはじめて命あらむ。

 

 藝術を実用新案を工夫する職人の如くとり扱ふものは幸福なり。

 

 自己を主張すと云ふ、しかも軽々しく主張すと云ふ。

 自分は引込思案のせいかしらねど、まづ主張せんとする自己を観たしと思ふ。

 顧みて空虛なる自己をみるは不快なり。自ら眼をおほひたき位いやなり。されどせん方なし。樽の空しきか否かを見し上ならでは、之に酒をみたす事は難かるべし。兎に角いやなり、苦しいものなり。

 

 みにくき自己を主張してやまざるものをみるときには、嫌惡と共に壓迫を感ず。少しなれど壓迫を感ず。

 

 自分はさびし。

 時々今から考へると一高にゐた時分に君はさぞさびしかつたらうと思ふ事あり。

 かく云へばとて君と今の僕と同じと云ふにはあらず、君の云つてる事が僕にわからなかつたからなり。何時でも[やぶちゃん注:「何時までも」の意か。]わからないのかもしれねど。

 

 自分は新思潮同人の一人となれり。發表したきものあるにあらず、發表する爲の準備をする爲也。表現と人とは一なりとは眞なりと思ふ。自分は絃きれたる胡弓をもつはいやなり。これより絃をつながむと思ふ。

 

 アナトオル・フランスの短篇を訳して、今更わが文のものにならざるにあきれたり。同人中最も文の下手なるは僕なり、甚しく不快なり。

 

 同人とは云へ皆步調は別なり、早晚分離せむか。[やぶちゃん注:この後には原書簡では一行空けがある。]

 この二、三ケ月、煮え切らざる日を送れり。胃の具合少し惡きに、いろいろな考に頭をつかひし爲なり。その爲に年賀狀の外どこへも手紙をかかず、君にも失礼した訳なり、堪忍したまへ。海苔は少し大袈裟なり。胃病で死んでも海苔を食ふはやめじと誓ひたり。

 

 忙しいだらうが時々手紙をくれたまへ。僕もせいぜい勉强してかく。

 今日の手紙は大抵日記よりのぬき書きなり。幼きを嗤はざらむ事をのぞむ。[やぶちゃん注:この後は原書簡では一行空けがある。底本は改ページであるが、版組上、一行空けはされていない。特異点で一行空けを施す。なお、以下の和歌は原書簡では三首ともに一行ベタである。原書簡では、第一首目の初句は「ともかく」で「も」はない。]

 

 歌も殆どつくらず、つくる暇もなし。唯三首。

 

 ともかくもむしやうに淋し

   夕空の一つ星のやうに

     むしやうに淋し

 

 こんなうれしき事はなし

   こんなうれしき事はなきに

     星をみてあれば淚ながるるかな

 

 木と草との中に

 われは生くるなり

 木と草との如くに

 

[やぶちゃん注:この最後の和歌はおかしい。原書簡では、「木と草との中にわれは生くるなり日を仰ぎてわれは生くるなり木と草との如くに」(ベタはママ。前の二首も同じ)であるから、改行表示するなら、

   *

 

 木と草との中に

 われは生くるなり

 日を仰ぎて

 われは生くるなり

 木と草との如くに

 

   *

となろうか。]

 

 書中偶々私の言について記してゐることなどは、聰明なる彼の謙遜の氣質に因るものであつて中らざること大である。[やぶちゃん注:「中らざる」「あたらざる」。]

 大正二年六月、私たちは一高を卒業した。芥川はかねての志望通りに東京大学の英文科に入学する考へであつた。私はその一年前くらゐから讀んでゐた哲学書の影響を受けて、英文学研究の志を絕ち、京都大学の法科に入学することに決心した。それについては、芥川は唯一の相談相手であつた。[やぶちゃん注:当時は既に東京大学も京都大学も孰れも「帝國大學」に改称されている。「私はその一年前くらゐから讀んでゐた哲学書の影響を受けて、英文学研究の志を絕ち、京都大学の法科に入学することに決心した」と述べているが、一つには、芥川龍之介の文才を見るにつけ、彼には叶わない、彼に叶わないのであれば、(英)文学での活路はないと、恒藤が思ったらしいことは、現行ではよく知られたことである。]

 その夏、私は松江に帰省したが、七月十七曰夜の日付で芥川の送つて吳れた手紙は、高等学校三年間二人の交はりを回顧して、つぶさ一に彼の感想をしるしたものであり、私にとつては最も思ひ出の深い長文の書信である。ただ私はその内容を公けにしようとは思はない。この手紙に対して私の送つた返答の手紙の文句が偶然残つてゐる。恐らく一度書いて、気に入らなくて書き直したものかと思ふが、事によつたらすつかり内容を書き改めて送つたのかも知れない。つまらないものではあるけれど。当私が彼に対してもつてゐた心持をそのまま現してゐると思はれるので、一部分をぬき書きする。[やぶちゃん注:「七月十七曰夜の日付で芥川の送つて吳れた手紙」は「芥川龍之介書簡抄41 / 大正四(一九一五)年書簡より(七) 井川恭宛」があるが、これは「高等学校三年間二人の交はりを回顧して、つぶさ一に彼の感想をしるしたものであり、私にとつては最も思ひ出の深い長文の書信である」とあるのとは一致しない。或いは、結局、この書簡を全集には拠出しなかったものと考えらえる(ちょっと残念。往復書簡を並べて読みたかった)。なお、以下は恒藤自身の下書きであるから、字下げや行空けはない(但し、手紙の開始は改ページとなっている。しかし、判組上の行空けは認められない)。下書きではあるが、往復書簡の一方として恒藤の手紙が読めるのは、私は非常に嬉しい。

 

 きみの手紙をよんだ。その文句は僕のこころにとつては强い響を持つてゐた。大ヘんうれしいと同時に、するどいメスのさきがかくれた傷口を抓いてゆくやうに痛苦しい氣持がした。僕には値ひしないほど君があつくそそいでくれた好意がこの二年間にどれだけつもつたか。今またそれのあらはれにふれたとき、きみの示してくれたやさしいこころは、なぜかメスのやうにするどくいたく感ぜられる。[やぶちゃん注:「抓いて」「抓」は「取る・摑む・握る」、「搔く・ひっ搔く」、「捕らえる」などの意があるが、ここは私はメスに応じて、「ひらいて」「ひきさいて」と読みたい。ああ! しかし! 井川(恒藤)が言う「するどいメスのさきがかくれた傷口を抓いてゆくやうに」文章を書く芥川龍之介とは、後に菊池寛が芥川龍之介の作品をカリカチャアして「人生を銀のピンセツトで弄(もてあそ)んでゐる」と言い放ったそれなんぞより、遙かに芥川龍之介の核心をつらまえているではないか!!!

 なんだか斯う書いて行くと、ぢきにあの本館が目にちらつく。それを斜めに見上げたさまが浮ぶかと思ふと、二階のまどから追分を見下した眺めがみえる。やつぱり君がそばに居て、ややもすると二あし三あし動きさうにするやうな氣がする。庭から見上げるときは、動いてゐる雲のあひだから日のひかりがこぼれて來さうだが、窓から見おろすときは、雨がねずみ色に空間をぬらしてゐる。もうあそこいらで低徊する機会はないかも知れないね。[やぶちゃん注:「追分」何処を指しているのか判然としないが、「今昔マップ」の戦前の第一高等学校附近の地図(右に現在の地図と併置されている)をリンクさせておく。]

 僕が君に対して言ひたいと思つてゐたことを、君の方から僕に向けてよつぽどすなほにうまく書いて貰つたやうな氣がする。君のまごころからのいろいろの賞讃のことばのどれか一つでもほんたうに受けるだけの理由が若しあつたならば、それを君から聽くことはどれだけの悅びであるかも知れない。しかし僕はうれしいよりも恥しい氣がする。恥しいよりも悲しい氣がする。僕はそれだけの理由を確実にもつてゐない。(略)

 君がわがままであつたと云へば僕はどれだけ我儘であつたであらう。正直なところ、もし比較の出來るものがあるならば、幾倍わがままであつたか知れない。

 君はいつも、そしてどのかどを手に当つて見ても、いつも手ざはりのよい珠玉のかたちをしたやうな人だと思つた。それで、手ざはりがわるいと感じたやうな時をあとで考へて見ると、いつもやつぱり自分の手の先の感覚が我儘な時であつたのだ。一体、君はしづかにして居るときは、大へんやさしい謙遜を主張するから、若し君にわがままがあつたにしろ、君は氣を置いてわがままをするのに、僕は自分がわが儘をするのが権利ででもあるやうに我儘を通さうとしてゐたやうな氣がしてすまなかつたと思ふ。(略)

 ぜんたい僕の方が年上なくせに、僕は君に対するといつでも、年長者に対するやうな氣がしてゐた。少くとも年少とは感ぜられなかつた。それだけ君は世間に対して、否自己に 対して落ち着きを持つてゐるのに違ひない。君ばかりでなく、一体に僕は大抵の周囲の同じ年輩の人々がみんなはるかに僕よりも老成してゐるやうな氣もちがしてならないが、誰でもそんなものかしら? まあ僕の交友の中では君ぐらゐが同じ年ごろに感ぜられる。ただみんなは、ざわざわと落ちつかうとしてゐるのに、君だけは羨ましいほど靜かに落ち着いてゐる。君はやはり君の自己を内からながめて、不安である、いつもさわいで居ると云ふかも知れないけれど、その不安も騷ぎもまことに靜かに落ちついて居るらしく見えてならない。(略)

 君にいろんな弱点や缺点があるとしたら、僕はそれに大てい平氣で接して居られるらしい。また好きな点もあるらしい。君の弱点に乘ずると云ふやうな考へからでは無い。数ヘ立てて來れば、君の長所や美点は沢山あつて、嘆賞する、また畏敬する心は折りにふれて湧いたが、何だか君を誰よりもなつかしくさせるものは、君のどちらかと云へば影のうすい SIDE であつたやうな氣もする。考へてみると、誰だつてほんたうに威張れる、誇れる長所や美点をどれだけも持つては居はすまい。お互ひの缺点か弱点がお互ひの氣に障らず、不快にも思へなかつたら、此世の中で其上の事はあるまい。世の中が寂しい。いろんなもののざわめきや入り乱れの中にも生といふものはさびしい。そのさびしい氣持が君とは共通なやうな氣がして、二人一緖にゐると、大分さびしさが薄らぐやうな氣がした。眞実、君から求められるものは其れだけであつたかも知れないし。またそれだけが何よりも有難かつたのであつた。[やぶちゃん注:「SIDE」性格の側面。一面。]

 氷の上に立つて一寸踏み出すと、あつしまつたと思ひながらも滑るやうになると書いたが、その踏み出す時の足の性根は実際に確かで、また能く自己を制する力をもつてゐるが、少しすべり出したかと思ふと、足の方が逆に自己を主張する。その滑り出した初めの自己がほんたうの自己か、それとも其制御を無視してほとんど本能的にすべるのがほんたうの自己か、実さい紛らはしい。君はよくつつしんで、わり合にその無制御的にすべる事をやらないやうに思ふ。それだけ君はよく自己を顧慮して生活を按排してゆく。(略)

 東京の町の中で君と一緖にあるいて來て、又は乘り合せて來て、新たに乘り別れたり、又乘り替へたりして電車で別れるときは、大へんさびしいと思つた。電車といふ奴は不可抗力をもつた動物のやうな氣のする時もあるね。(略)君に対しては不まじめに腹を立てたことも、まじめに腹を立てたことも殆どない。尤もいつか有樂座の外で侍ちぼうけてゐた時は、君と云ふもののカテゴリーの中からパンクチュアリティを除かねばならぬかと考へて少し腹が立つた。その外、何時か(君に氣にもとめなんだであらうし、僕もいつ頃かよく覚えぬが、とに角此学期の間である)学課を了へて帰るときに、一緖に三丁目まで(?)ゆかうと云ひ出したら、君は用事があるからといつて、さつさとどちらへか電車に乘るベくあの下駄棚のふたをあけて往つてしまつた事があつた。その時は、腹が立つたといふよりは、ばかに失望したやうなと云ふよりは、何だかつまらない氣がした。それで今でもその氣持はよくおぼえて居る。僕はいつでも僕の勝手に從つて行動してゐたくせに、その時は、『なぜ一寸氣をかへて一緖に行つて吳れないのだらう』とずゐ分我儘な事を考へながら、畢竟人間といふものの交はりはお互ひの「我」の接触で、それの触れ合はないところの時間と空間とは恐ろしく空虛なものと感じた。そして考へて見ると、自分も、いつも自分の我を通したがるが、若しも幾分まごころを以て自分に接して吳れる人があつたら、よつぽどその人にさびしい氣もちを與へるにちがひないだらうと考へた。(略)

[やぶちゃん注:「パンクチュアリティ」“punctuality”。人の時間を守る几帳面さ。時間を厳守する能力。

 それにしても! この恒藤の手紙はまるでラヴ・レターではないか!

 

 

        六

[やぶちゃん注:ママ。本当は「五」である。以下、そのまま、章番号は、ずれてしまっている。]

 

 

 大正三年十月、新宿から田端にひつこしたときには「銀杏落葉櫻落葉や居を移す」といふ小句を書きそへた印刷の通知狀をよこしたが、十二月一日付の音信には、その新居の樣子や田端の情景を叙述したあとに、次のやうな事をしたためてゐる。

[やぶちゃん注:冒頭のそれは「芥川龍之介書簡抄32 / 大正三(一九一四)年書簡より(十) 二通」の初めの大正三(一九一四)年十一月一日・田端発信・井川恭宛を見られたい。以下の引用は字下げはない。これは「芥川龍之介書簡抄33 / 大正三(一九一四)年書簡より(十一) 井川恭宛二通」の一通目だが、日付は大正三(一九一四)十一月三十日の誤りである。この手紙も、かなり長い。以下は途中からの抄録で、やはり恒藤によって表記に手が加えられてある。]

 

 此頃僕はだんだん人と遠くなるやうな氣がする。殆ど誰にもあはうと云ふ氣がおこらない。時々は随分さびしいが仕方がない。その代り今までの僕の傾向とは反対なものが興味をひき出した。僕は此頃ラッフでも力のあるものが面白くなつた。何故だか自分にもよくわからない。たださう云ふものをよんでゐると、さびしくない氣がする。さうして高等学校にゐた時よりも大分ピュリタンになつた。(略)

 兎に角僕は、少し風向きがかはつた。かはりたてだからまだ余裕がない。僕は僕の見解以外に立つ藝術は悉く邪道のやうな氣がする。そんな物を拵へる奴は大馬鹿のやうな氣がする。[やぶちゃん注:ここに省略がある。]大分鼻いきが荒いが、まじめなんだからひやかしてはいけない。それから天才の眞似をしてるんでもないから心配しなくつてもいい。余裕[やぶちゃん注:底本は印字が擦れているいるため、判読不能。原書簡で「裕」とした。]がないから切迫してゐる。切迫してゐるとすぐ喧嘩腰になりさうでいけない。一体僕は人の感情を害するやうな事をするのは大嫌なのだが此頃は反意志的に害しさうで困る。Y[やぶちゃん注:恒藤によって匿名にされたもので、原書簡では「山宮」(さんぐう)。]さんなんか大分氣をわるくしてゐるらしい。兎に角僕がよくないのだ。

 君が京都にゐる中に一ぺんゆきたい。鼻息のあらい時にゆくと、君があきれてしまふかもしれない。尤もいくらあらくつても自分のものがいいと思つてゐるわけではない。人のものがあんまり卑怯でのんきだから不愉快なのだ。同時に自分のものも其仲間入りをするか、もしくは其以下になりやすいのだから猶不愉快なのだ。でも少し位あらいのではあきれまいと思ふから、やつぱり行きたい。要するに君が京都へいつたのはよくない。あはうと思つても一寸あへないのはおそろしく不自由だ。手紙では埒があかないし、[やぶちゃん注:ここに省略がある。]ゆくには遠いし、甚だよくない。

 何だかする事が沢山あつて忙しい。体は大へんいい。胃病は全く癒つた。

 いつか寮で君が云つたやうに朝おきた時にミゼラブルな氣もちがする事だけは少しもかはらない。医科の男に何故だらうつてきいてみたら、血液が後頭部へどうとかする具合だらうつて云つた。その男もあまりよくわかつてゐないのだから、僕はなほさらわからない。

 新思潮はとうの昔廃刊した。それでもあれがあつたおかげで、皆かいたものがすぐ活字になる権利を得てゐる。(略)

 僕はこの頃今までよんだ本を皆よみかへしたいやうな氣がする。何もわからずによんでゐたやうな氣がして仕方がない。

 世の中にはいやな奴がうぢやうぢやゐる。そいつが皆自己を主張してるんだからたまらない。一体自己の表現と云ふ事には自己の價値は問題にならないものかしら。ゴーホも「己は何を持つてゐるか世間にみせてやる」とは云つたが「どんなに醜いものを持つてゐるかみせてやる」とは云はなかつた(略)[やぶちゃん注:ここで引用は終わり、改ページとなっている。版組を見るに、一行空けはないが、特異的に一行空ける。]

 

 大学の英文科に在籍した三年間の学課は芥川にとつて世にも退屈な時間つぶしであつた。それは当然至極な事柄である。彼はその事についてよく話しもしたし手紙にもかいた。一例をあげる。大正四年六月十三日付の書簡である。

[やぶちゃん注:字下げはない。この書簡はこのために、昨夜、「芥川龍之介書簡抄 追加 大正四(一九一五)年六月十二日 井川恭宛書簡」として電子化注しておいた。やはり恒藤によって一部表記が整序されている。]

 

 試驗は十日に始まつて十五日にすむ。日數は短いが一日に二つある日がある位で中々充實してゐるから厄介だ。殊にこの一年來興味のないものには努力する事が益々出來なくなつて來たので余計厄介だ そして專門の英文学の講義が僕には一番興味がないんだから愈愈厄介だ。最後にまだ一週二回づつ品川の医者へ通つてゐるんだから、その上に厄介至極だと云つていい。(略)

 差当り僕の頭は数字で一杯になつてゐる。ディッケンスの著作年表、ペトラルカのソンネットの数、十六世紀のソンネット作家の作品総数、沙翁のソンネットの番号、及シムベラインの幕数、景数――實際災だ。早く自分の事がしたくつてたまらないが、仕方がない。ノートのよみきれない科目は半創作的な答案を書いて間に合せてゐる。

 田端は若葉――あらゆる種類の若葉で埋つてゐる。その上に每日靜な雨がさあつとふつてゐる。僕が雨期を愛するのは、君もしつてゐるだらう。僕は少しでもエステティッシュな心のある人なら誰でも黴のはへる事位は度外視して雨期を愛すべきものだと思ふ。この頃の雨に飽きた木の枝ほどうつくしくしだれてゐるものは外にない。江城五月黃梅雨と云ふが、黃梅、黃麦、新綠及び灰色の空の美しい諧調は、西洋の詩に見られない美しさであらう。雨のはれまを散步すると、家々門巷掃桐花と云ふ句を思出す。槐影沈々雨勢來と云ふ句を思出す。一川薰徹野薔薇と云ふ句を思出す。僕は試驗後少くも半月は雨がふつてゐる事を祈つてゐる。(略)

 早く自由にいろんな事がしたい。僕にはする事、しなくてはならない事が沢山ある。僕の友だちに一人今三期の結核患者がゐるが、病氣が病氣なので、誰も見舞ひに行かない。姉さんと妹と三人ぐらしで、姉さんもまだ片づいてゐないのだから大へんだ。病院へ入れておくのも苦しいらしい。ああなつちやたまらないと思つた。しみじみさう思つた。その人が野心家でないのは、まだしもの幸かもしれない。[やぶちゃん注:以下は原書簡では改行している。]どこへゆくともまだきまつてゐないがどこかへゆく。

    十 二 日 夕           龍

 

 

        

 

 

 封筒を失つた爲に、発信の時を正確に知り得ない書簡が若干ある中に次のやうな文句のものがある。多分大正四年のあひだに書かれたものと思ふ。[やぶちゃん注:以下、字下げはない。これは「芥川龍之介書簡抄36 / 大正四(一九一五)年書簡より(二) 失恋後の沈鬱書簡四通」の三通目で、「大正四(一九一五)年三月九日・京都市吉田京都帝國大學寄宿會内 井川恭君 直披・三月十二日 東京田端四三五 芥川龍之介」として電子化注してある。恒藤はかなり手を入れている。]

 

 僕は愛の形をした HUNGER を恐れた。それから結婚と云ふ事に至るまでの間(可成長い、少くとも三年はある)の相互の精神的、肉体的の變化を恐れた。最後に最も卑しむべき射倖心、そして更に僕の愛を動かす事の多い物の來る事を恐れた。

 しかし時は僕にこの三つの杞憂を破つてくれた。僕は大体に於て常にジンリッヒなる何物をも含まない愛を抱く事が出來るやうになつた。僕はひとりで朝眼をさました時に、ノスタルジアのやうなかなしさを以て人を思つた事を忘れない。そして何人[やぶちゃん注:「なんぴと」。]にも知らるる事のない、何人にもよまるる事のない手紙をかいて、ひとりでよんで、ひとりでやぶつた事も忘れない。(略)

 僕は霧をひらいて新しいものを見たやうな氣がする。しかし不幸にしてその新しい國には醜い物ばかりであつた。[やぶちゃん注:原書簡ではここで改行していない。]

 僕はその醜い物を祝福する。その醜さの故に、僕は僕の持つてゐる、そして人の持つてゐる美しい物を更によく知る事が出來たからである。しかも又僕の持つてゐる、そして人の持つてゐる醜い物を更にまたよく知る事が出來たからである。

 僕はありのままに大きくなりたい。ありのままに强くなりたい。僕を苦しませるヴァニチーと性慾とイゴイズムとを、僕のヂャスチファイし得べきものに向上させたい。そして愛する事によつて、愛せらるる事なくとも、生存苦をなぐさめたい。

 この二、三日漸く CHAOS をはなれたやうな、しづかな、そのわりに心細い狀態が來た。僕はあらゆる愚にして滑稽な虛名を笑ひたい。しかし笑ふよりも先に同情したくなる。恐らくすべては泣き笑ひで見るべきものかもしれない。

 僕は僕を愛し僕を惜むすべての STRANGERS と共に大学を出て、飯を食ふ口をさがして、そして死んでしまふ。しかしそれはかなしくも、うれしくもない。しかし死ぬまでゆめをみてゐてはたまらない。そして又人間らしい火をもやす事がなくては猶たまらない。ただあく迄も HUMAN な大きさを持ちたい。

 

 かいた事は大へんきれぎれだ。此頃僕は僕自身の上に明かな変化を認める事が出來る。そして偏狹な心の一角が愈々 SHARP なつてゆくのを感じる。每日学校へゆくのも沙漠へゆくやうな氣がしてさびしい。さびしいけれど僕はまだ中々傲慢である。   龍

 

 高等学絞時代から大学時代へかけて芥川ががいて吳れた書信の中の若干をえらび、その全文もしくは一部分を寫しとることによつて、この時代における彼の生活――主として内的生活の片影をあらはすことが、以上において私の試みた所であつた。故人が私に宛てて送つた私的音信を公けにするのは、さし控ふべき事であらうかと考慮してみたが、直接に又は作品を通じて間接に故人を愛する人々が、彼をより好く知り、より深く愛するよすがに爲るであらうといふ考へから、その公表を敢てすることにした。

 

 

        

 

 

 人生の或る時点に個人が社会において占める地位は、そこばくの義務と責任とを伴ふ。それらの義務なり責任なりは、生存の肯定を前提することによつてのみ成り立つものであるから、原則としては、自殺はそれらの義務や責任やに調和するものではない。芥川の場合において、彼の自殺は社会の一員としての義務及び責任に反するものではないといふやうに、私は彼の所爲を辯護しようとは思はない。仮令かやうな辯護を試みたところで、それが彼にとつて何の意義に値ひするであらうぞ。さりとて、彼に向つて道德的責任を問はむとすることは、私の感情の肯ぜざる所である。むしろ私は、若しも彼の魂がなほ存在するものならば、「よくも君はあんなに深刻な苦しみに堪へて、その時までも生きて居られたね」と、さう云つて慰めたく思ふのである。

 七月二十四日夜、始めて悲報を耳にしたとき。「噫[やぶちゃん注:「ああ」。]、やつたな!」と思つた。この心持を說明するには多くの言を費さねばならぬから差控へる。ただ私は彼の自殺の事実を知つたとき、後で考へると自分でも不思議な位に、少しも駭かなかつた。そして彼の自殺を決意するに到つた心持に十分同感することが出來るやうに思つた。唯俄に人生が数倍の寂寞を加へた感に襲はれた。爾來この氣持は今に至るも持続して居る。

 彼の自殺に何等かの理由があるとすれば、それは全く彼の場合に特有な理由であると、私は信ずる。何等かの他の人又は人々の自殺の理由と同一のカテゴリイに帰せしめることによつて、彼の自殺の理由を理解し得たと考へるのは、單なる論理的満足たるに過ぎぬであらう。人間の行爲の動機はすべて之を理解し得るといふ前提其ものが、すでに甚だ疑はしいものではあるまいか。若しも强ひて普通の自殺の理由を以て彼の場合を理解せむと欲する人があれば、彼は理由無くして自殺したと答ふべきであらう。但、「彼の全生涯及び全性格の裡に彼の自殺の理由を求めよ。而して其中に彼の生きた社会的環境の全面をも考慮せよ」との答は、恐らく間然する所無き答であらう。私自身としては、「彼の自殺の理由はわからない。しかし自殺を決意するに至つた心持には同感出來る」と云ふ外はない。だが、彼の自殺の原因や動機が仮令完全に明かになつたところで、最早二度と彼に会つて話することが出來なくなつたといふ儼然たる事実に面して、何の得る所ぞと云ひ度い。

    ――昭和二年八月五日――

[やぶちゃん注:最後のクレジットは底本では最終行の下二字インデントであるが、改行して引き上げた。

 さて、私は、以上の恒藤恭の文章を、初めて、タイピングで電子化しながら読んだ(書簡は私の「芥川龍之介書簡抄」の電子データを用いて加工したので、思ったより早く打てた)が、私は読み終わって、世にある作家や研究者の有象無象の芥川龍之介論などでは、到底、ほとんど感ずることの出来ない、強い芥川龍之介への愛を感じた。しかも、論考部は、流石に法哲学者恒藤を感じさせる、名外科医の術式を見るような明晰さにも感動したことを言い添えておく。

 本電子化注を今年の私の読者への御歳暮とする。よいお年を!]

2022/12/30

芥川龍之介書簡抄149 追加 大正四(一九一五)年六月十二日 井川恭宛書簡

 

[やぶちゃん注:必要があって以下に電子化する。底本は岩波書店旧全集の「一六二」番書簡。年末に至って右糸切り歯の根本が痛むので(先週、歯科医が見落として、一月十三日に治療をすることになっているが、どうなるか、判らんね。チステかも知れん。もし、おかしくなったら、ブログも更新しないかも知れない)、注は、漢詩その他以外は、筑摩書房の全集類聚版及び岩波新全集人名解説索引等に主に拠った。]

 

大正四(一九一五)年六月十二日・京都市京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣」・「十二夕 田端 芥川龍之介」

 

試驗は十日に始まつて十五日にすむ 日數は短いが一日に二つある日がある位で中々充實してゐるから厄介だ 殊にこの一年來興味のないものには努力する事が益出來なくなつて來たので余計厄介だ そして專問の英文學の講義が僕には一番興味がないんだから愈厄介だ 最後にまだ一週二囘づゝ品川の醫者へ通つてゐるんだからその上に厄介至極だと云つていゝ

今日沙翁の試驗があつた プリントを送るから見てくれ給ヘ シエクスピアのソネツトはW・H・にさゝげてあるがそのW・H・は誰だと云ふ推側を十ばかり書いてそれを一々誰の說にして誰の反對說ありと云ふやうな調子で批評すると一題でも隨分長くなる おかげで一生役に立たないに相違ないとしか思はれない名前や事賞實をむやみに覺えさせられた 沙翁のソンネツトの初版は四つ切版で行數二千五百五十一行 その中誤植三十六 ヴイナス アンド アドニイスは同版で行數三千四十七行その中誤三十六と云ふのはその一つにすぎない

体はいゝとも惡いとも自分にはわからないがそんなに惡くはなささうだ

差當り僕の頭は數字で一杯になつてゐる デイツケンスの著作年表 ペトーラルカのソンネツトの數 十六世紀のソンネツト作家の作品總數 沙翁のソンネツトの番号 及シムベラインの幕數景數――實際災だ 早く自分の事がしたくつてたまらないが仕方がない ノートのよみきれない科目は半創作的な答案を書いて間に合せてゐる

田端は若葉――あらゆる種類の若葉で埋つてゐる その上に每日靜な雨がさあつとふつてゐる 僕が雨期を愛するのは君もしつてゐるだらう 僕は少しでもテテイツシユ[やぶちゃん注:底本では右にママ注記がある。]な心のある人なら誰で黴のはへる事位は度外視して雨期を愛すべきものだと思ふ この頃の雨に飽きた木の枝ほどうつくしくしだれてゐるものは外にない 江城五月黃梅雨と云ふが黃梅、黃麥、新綠及び灰色の空の美しい諧調は西洋の詩に見られない美しさであらう 雨のはれまを散步すると家々門巷掃桐花と云ふ句を思出す 槐影沈々雨勢來と云ふ句を思出す 一川薰徹野薔薇と云ふ句を思出す 僕は試驗後少くも半月は雨がふつてゐる事を祈つてゐる

蚊は存外ゐない

增野氏は氣の毒だ 同情した 心もちが可成よくわかつたから

しかしギタンヂヤリの譯はいけない 隨分大きな誤譯がある それも急ぐからかもしれない

帝劇で武者の「わしも知らない」をやる やるのは猿之助

早く自由にいろんな事がしたい 僕にはする事しなくてはならない事が澤山ある 僕の友だちに一人今三期の結核患者がゐるが病氣が病氣なので誰も見舞ひにゆかない 姊さんと妹と三人ぐらしで姊さんもまだ片づいてゐないのだから大へんだ 病院へ入れておくのも苦しいらしい あゝなつちやたまらないと思つた しみじみさう思つた その人が野心家でないのはまだしもの幸かもしれない

どこへゆくともまだきまつてゐないがどこかへゆく

    十二日夕           龍

   井 川 君

[やぶちゃん注:「W・H・」筑摩全集類聚の脚注に、『シェイクスピアのソネットSonnet(十四行詩)一五四篇中の一二〇数篇に歌われている美少年』とある。

「四つ切版」同前で、『quarto 本の大きさ。7✕8』½『または10✕13 インチ大』とある。

「ヴイナス アンド アドニイス」同前で、『一五九三年の作。Henry Wriothesley(ソネットの相手とも言われる)に捧げられている』とある。

「シムベライン」同前で、『Cymbeline(「シンベリン」(1609~10)。シェイクスピアの晩年の作』。古いケルト人ブリテン王に纏わる戯曲。

「テテイツシユ」筑摩版全集類聚本文では、『エステテイツシユ』と修正されてある。脚注に、『ästhetisch(独)。美的』とある。

「江城五月黃梅雨」これは李白の七絶「與史郞中欽聽黃鶴樓上吹笛」(史郞中欽と黃鶴樓上に吹笛(すいてき)を聽く)の結句「江城五月落梅花」の記憶の誤りと思われる。また、この詩句の「落梅花」は眼前の風景から連想した楽曲の名称であるので注意されたい。

「家々門巷掃桐花」宋の張澮川の七絶「寒食」の結句。「家家 門巷 桐の花を掃(は)き」。

「槐影沈々雨勢來」宋の司馬光の七絶「夏日西齋卽事」の承句。「槐(えんじゆ)の影は沈沈(しんしん)として 雨勢(うせい) 來たる」。

「一川薰徹野薔薇」出典不詳。「一川(いつせん) 薰徹(くんてつ)す 野薔薇(のばら)」と訓じておく。 

「增野氏」筑摩版は不詳とするが、岩波新全集人名解説索引(私は解説索引の部分のみをコピーで持っている)に、『増野三良(1889-1916)詩人。翻訳家。島根県生まれ. 早大英文科卒. 1914年詩誌「未来」を三木露風・服部嘉香・柳沢健らと創刊. 一方、タゴールに傾倒し, 『ギタンヂヤリ』『新月』『園丁』などの訳書を刊行. 肺を患い, 故郷の浜田で夭折した. 』とある。

『武者の「わしも知らない」』これは本書簡抄で二度既注している。武者小路実篤による戯曲「わしも知らない」のこと。釈迦と釈迦族滅亡を描いたもので、大正三(一九一四)年一月に『中央公論』に掲載され、翌年のこの年に帝国劇場で文芸座によって上演された。実篤の戯曲作品で初めての上演で、十三代目守田勘弥が釈迦、二代目市川猿之助が流離王を演じた。私は読んだことがない。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「僕の友だちに一人今三期の結核患者がゐる」筑摩版脚注に「三期」を注して、『現在の安静度一度に当る。結核で空洞ができた重い症状。中学の友人平塚のこと。』とある。府立第三中学校時代の芥川の同級生で友人であった平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)。読むたびに涙がこみあげて来る芥川龍之介の「彼」(私の詳細注附きサイト版)の主人公である。]

ブログ1,890,000アクセス突破記念 恒藤恭「旧友芥川龍之介」全電子化始動 / 序・目次・「友人芥川の追憶」(全)

 

[やぶちゃん注:本書は芥川龍之介が最も信頼した畏友であった恒藤恭(つねとう きょう 明治二一(一八八八)年~昭和四二(一九六七)年)の著になるもので、朝日新聞社から戦後の昭和二四(一九四九)年に刊行された。

 恒藤恭は旧姓井川(いがわ:婿養子により大正五(一九一六)年十一月に改姓)は島根県松江生まれ。法哲学者で法学博士。大阪市立大学学長及び名誉教授(昭和二一(一九四六)年)。戦前に於ける日本の代表的法哲学者として知られ、京都帝国大学法学部教授時代、思想弾圧事件として著名な「瀧川事件」で抗議の辞任をした教官の一人であった。芥川龍之介より四歳年上であるが、中学卒業後、体調を崩し(本文に出るように内臓性疾患)、三年間の療養生活を経て、恢復の後、文学を志して上京、『都新聞社』文芸部所属の記者見習をしながら、第一高等学校入学試験に合格、第一部乙類(英文科)に入学した。この時、芥川龍之介と同級となり、終生の親友となった。大正二(一九一三)年、一高第一部乙類を首席で卒業後、京都帝国大学法科大学政治学科に入学した(文科から法科への進路変更については別な文章で、芥川との交流によって自身の能力の限界を知ったからである、と述べておられる)。京都帝大進学後も龍之介との文通(新全集で現存三十八通に及ぶ)による交流が続き、芥川の勧めを受けて第三次『新思潮』第一巻第五号(大正三(一九一四)年六月一日発行)にジョン・ミリントン・シング(John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)の「海への騎者」(Riders to the Sea 一九〇四年作)を翻訳寄稿したりしている。また、芥川龍之介は大正四(一九一五)年八月三日から二十二日迄、彼の薦めで彼の実家のある松江に来遊している。これは芥川龍之介の人生の最初の大きな痛手となった吉田弥生への失恋の傷手を癒してやることが井川の目的であった。その際、山陰文壇の常連であつた井川は、かねてより、自分の作品発表の場としていた地方新聞『松江新報』に、芥川来遊前後を記した随筆「翡翠記」を連載(既に私のブログ・カテゴリ「芥川龍之介」にて二十六回分割で電子化注を終えている)、その中に「日記より」という見出しを附した芥川龍之介名義の文章が三つ、分けられて掲載された。後にこれらを抜き出して合わせ、「松江印象記」として、昭和四(一九二九)年二月岩波書店刊「芥川龍之介全集」別冊で公開されている(従って現在の「松江印象記」という題で知られるそれは芥川龍之介自身による命名では、実は、ない)。これは私が昔、既に『芥川龍之介「松江印象記」初出形』として電子化しているので参照されたい。個人的に私は恒藤恭の文学的才能を非常に高く評価している

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 但し、以下に示すように、「友人芥川の追憶」以外の章、「芥川龍之介」・「芥川龍之介のことなど」・「赤城山のつつじ」は、同画像を視認してタイピングすることとなるので、全部を電子化(私のオリジナル注を添える)するのには、相応の時間が掛かることと思う。そこで、まずは、分割してブログで公開し、最後に全部をPDF縦書版にしてサイトに公開する予定である。私は原書を所持していない。二十代の頃に入手しようと、神保町を木枯らしの吹く中を経巡ったが、遂に見つけることが出来なかったから、この書には拘りがあるからである。

 実は、以下の本書本文の最初に掲げられてある「友人芥川の追憶」は、サイト横書HTML版で筑摩書房類聚版「芥川龍之介全集 別巻」に所収するそれを、一度、「友人芥川の追憶  恒藤 恭」として電子化注はしている。そこでは、恣意的に漢字を概ね正字化して示した。それは、本「友人芥川の追憶」が、本文を見ても判る通り、龍之介の自死の直後に書かれたもので、芥川龍之介の書誌データによれば、昭和二(一九二七)年九月発行の『文藝春秋 芥川龍之介追悼號』に初出した同名記事であるからであった。しかも筑摩版のその末尾には『(昭和二年八月七日)』という丸括弧記載があり、これは実に、芥川龍之介の自死から僅か十四日後に書き上げられたものと判るからである。

 残念ながら、この戦前に書かれた「友人芥川の追憶」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。「友人芥川の追憶」パートは、既存の私の電子化を参考にしつつ、漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。注は私の旧電子化注を参考にしながら、ブラッシュ・アップした。ブログ版では傍点「﹅」は太字とする。

 なお、本「友人芥川の追憶」の「十二」章の十八条から成る龍之介を剔抉したアフォリズム風のそれは、恒藤版の「西方の人」(リンク先は私の芥川龍之介の正續完全版)とも言うべき、恐るべき分析であり、私は隅から隅まで完全に支持する素晴らしいものである。「十三」章に至っては法哲学者ならではの、非常に論理的に解析された龍之介論で、短い乍らも、大方の芥川龍之介研究者のだらだらと長く、それでいて彼の核をまるで摑んでいない有象無象の退屈極まりない龍之介論に比べて、公案への名答と言うべきもので、最早、孰れも注の必要を認めない名文である。

 なお、本テクスト始動を、2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、ついさっき、1,890,000アクセスを突破した記念として公開する。【2022123010:15 藪野直史】]

 

 

 恒 藤  恭

 

  旧友芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:外装カバーの表紙部分。底本は国立国会図書館で外装が変えられて補修されているため、表紙は見られないのだが、幸い、表現急行氏のブログ「表現急行2」の「古本日記 恒藤恭『旧友芥川龍之介』」に底本原本の外装カバー写真が載せられあったことから、その画像から起こした。以下もその同写真にあるカバーの背である。]

 

 旧友芥川龍之介  恒 藤 恭

 

 

 恒 藤  恭

 

  旧友芥川龍之介

 

       朝日新聞社

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の扉。]

 

 

    

 

 芥川龍之介は私の最も親しい友人の中の一人であつた。一高の学生時代にはじめて互ひに知り合つてから、私たちの親しい交はりは十六年ばかり続いた。昭和二年七月二十四日の芥川の自殺によつて此の交はりは終りを告げたとは云ふものの、彼のおもかげは絕えず折りにふれて私の意識のうちによみがへり、或時はあざやかに。或時はかすかに、私の心に呼びかけるのである。

 たぐひ稀れな、すぐれた資性と能力とをいだいたままに、三十六歳のみじかい生涯をもつて芥川か此の世を去つたことは、今でもなほ、遺憾の極みにおもふところである。彼の死後、私は二十年以上も生き延び、碌々として生活をいとなんでゐるのであるが、若しも彼が現存まで生存してゐたのであつたならば、作家として又は文学者として、どのやうにすばらしい成長を遂げたであつたらうかと、空しい想像をめぐらして見たい氣になる。

 この書に收めた諸篇は、学生時代に執筆したものと、芥川の自殺の直後に執筆したものと、一昨年から昨年にかけて執筆したものとの三つの種類にわかち得られる。「旧友芥川龍之介」といふ書名をえらんだけれど、芥川に関することだけを書きつらねたわけではなく、それ以外に、過去における私自身の生活についての敍述や、芥川に関係のある事柄から連想を馳せて、ほしいままに論述をこころみたものなどもまじつてゐる、さらに、岩波書店刊行の「芥川龍之介全集」第七巻の中に收錄されなかった故人の書簡四十二通を卷末にをさめて、故人を偲ぶよすがとした。

  昭和二十四年六月二十四日

                   恒 藤  恭

 

 

    目  次

 

 序

 友人芥川の追憶

 芥 川 龍 之 介

 芥川龍之介のことなど

 赤城山のつつじ

     ※

 芥川書簡集

 

[やぶちゃん注:目次。リーダとページ数は省略した。

 以下はその「目次」の裏の右ページ左下方に記されてある。]

 

 

            揷  絵

            

            樹下の我鬼先生

            裸形の芥川龍之介

            女

                ※

            芥川龍之介遺墨

 

[やぶちゃん注:この左ページには、「樹下の我鬼先生」と下方に活字で入れた芥川龍之介が恒藤宛に郵送した葉書の裏の、龍之介自身の手になる自身のカリカチュアと短い通信文の画像が載る。国立国会図書館デジタルコレクションの底本データ画像は全部がモノクロームであるので、カラー印刷かどうかは判らないのだが、先の表現急行氏のブログ「表現急行2」の「古本日記 恒藤恭『旧友芥川龍之介』」にある原本のカラー画像を見ると、原葉書の美麗なカラー画像であることが判った)これは、私の「芥川龍之介書簡抄88 / 大正七(一九一八)年(三) 五通」の内の四通目にある「大正七(一九一八)年九月十八日・京都市外下加茂村松原中ノ丁八田方裏 井川恭樣・消印十九日・十八日 龍(自筆絵葉書)」であり、そちらで原葉書の自筆絵葉書をカラーで示してあるので、参照されたい。以下にも活字化しておく。]

 

忙しかつたので返事が遲れた 土日兩日は大抵東京にゐる 秋來たら

 

[やぶちゃん注:ここまで絵の右端の余白にあり、以下は左端の余白に書かれてある。]

 

一度やつて來給へ 以上

 

[やぶちゃん注:以下は絵の中に書かれた自作漢詩句。]

 

   寸步却成千里隔

            我鬼題幷画龍

   紛々多在半途中

 

[やぶちゃん注:最後の「龍」は上の「画」の字の上に朱印として打たれてある。]

 

樹下の我鬼先生

     芥川龍之介ゑがく

 

[やぶちゃん注:以上は、葉書画像の画像外の右下に恒藤が記した活字である。]

 

 

   旧 友 芥 川 龍 之 介

 

 

[やぶちゃん注:本文前標題(左ページ)。]

 

 

    友 人 芥 川 の 追 憶

 

        

 

 数へて見ると、芥川との交はりは十八年の過去からつづいた。芥川は三十六歲で亡くなつたのだから、私達の交はりは丁度芥川の一生の後半にわたつて居た訳である。

 この永い年月のあひだ、彼は恒に私の最も親しい且つ最も敬愛する友人の一人であつた。性格や氣質において二人はいろいろ異なる所があつた。思想の上でも一致しない点が数々あつた。しかしながら不思議とお互ひに親しみを感じた。この心持は少しも渝ることなく十八年のあひだ持続した。[やぶちゃん注:「渝る」「かはる」。「變はる」に同じ。]

 この間に、高等学校時代の彼、大学時代の彼、機関学校の先生をして居た頃の專ら文筆に依つて衣食するやうになつた彼、と云つたやうに――彼の生活の境涯の変つて行くのを、近くから又遠くから私は眺めた。そして終りに彼の遺骸の荼毘に付せられるのを見守らねばならなかつた。

 お互ひに死といふものについて話したことは時折りあつた。お互ひに健康について絕えずいたはり合つた。

 何時のことであつたか、田端の家で、私の用ひてゐた白耳義製のカフスボタンをしきりにほめて、「君が死んだら形見にくれたまへ」と云ふから、「やるよ」と約束したことかあつた。欧羅巴へ向けて出発する前のこと、ひよつとしたら先方で何かの加減で死なぬとも限らぬと思つたから、その釦を芥川に贈つて置かうかとも考へたが、少し感傷的に過ぎるやうな氣がして差控へた。アメリカの暑熱で大分胃腸をいためたものの、兎に角、昨年の九月の半ばすぎに私は橫浜に上陸することが出來た。そして鵠沼の居に芥川をおとづれ、久し振りに話し合つた。それが永久の別れであつた。[やぶちゃん注:「白耳義」「ベルギー」。「欧羅巴へ向けて出発する」恒藤は大正一一(一九二二)年に京都帝国大学経済学部助教授となり、二年後の大正一三(一九二四)年三月から大正一五(一九二六)年九月まで 欧州へ留学している。]

 鵠沼の駅に向ふ車の中で、ふと、此れきりでもう会へないのぢやないかしら、と云ふやうな予感があたまの中に閃いた。瞬間ひじやうにさびしい氣がした。が私は直きに、そんなことはないと理性によつて打消した。けれども、やつぱり其予感が事実となつてしまつた。ほんたうに残念である。

[やぶちゃん注:後の「芥川龍之介のことなど」にもこの最後の邂逅は再話されるが、ここでは、私の「芥川龍之介書簡抄137 / 大正一五・昭和元(一九二六)年九月(全) 九通」の最後の私の太字注の引用で我慢されたい。]

 

        

 

 謂はゆる江戶つ子の出不精で、大学卒業のころ以前には、芥川はめつたに東京を離れなかつた。東京を離れてもあまり遠方へ出かけたことは無かつた。それを初めて遠方へ引張り出したのは私だつた。そして、私の勧めに應じて印象記を『松陽新報』といふ地方の新聞に載せたのが――後になつて知つた事であつたけれど――彼が作品を公けにした最初であつた。[やぶちゃん注:私の冒頭注で出した『芥川龍之介「松江印象記」初出形』を参照。この作品が「芥川龍之介」を作者名として使用した最初であり、パブリックに公開した最初の作でもある。]

 同じ筆法で、私は芥川を西洋にまで引張つて行かうと思つて努力した。西洋へ行きたい希望は彼自身一高時代から懐抱してゐたので、大分乗り氣になつて私の勧めに耳を傾けて吳れた。だか、中國へ行つて健康を害した以前の経驗は、彼の洋行に対する家庭の人々の憂惧の念を大ならしめた。それは全く無理のない事でもあつた。同行が出來ぬのは遺憾だが、後からやつて來たまへと言ひ残して、私は日本を去つた。巴里からまた、私は勧誘の手紙を出した。小穴氏などの言によると、私の誘惑は大分効果をあたへたらしい。しかし芥川は日本を離れることが出來なかつた。[やぶちゃん注:「小穴」芥川龍之介が晩年に強い親近感を持った友の画家小穴隆一。私の「芥川龍之介盟友 小穴隆一」等を参照。]

 それは二つの点において甚だ遺憾である。一つには、和漢の文学において甚だ造詣の深かつた芥川は、西洋の文学についても恐る可き読書力を発揮してゐた。また、すぐれたる彼の藝術的感覚は、東洋の絵画彫刻に対しても、西洋のそれに対しても、潑剌たる鑑賞能力となつて働いた。欧羅巴における見聞は、彼の創作的精神の上に深大なる影響を及ぼしたであらうと想像される。二つには――此方が主として遺憾なのであるが――あの頃に彼が西洋へ行つたとしたら、恐らく彼の気持は一轉したであらう、内的生活にも展開を來したであらうと考へられる。そして、多分あんなに早く死にはしなかつたであらうと思ふ。

 そんなやうな仮定的想像が当つてゐようが居まいが、彼に欧羅巴の土を一度踏ませてやりたかつた。たとへば、システィナ礼拝堂のミケランジェロの天井画及壁画の複製を見てあんなにも昂奮した彼が、原物を見たらどんなに歓喜したであらうか。あるひはルーヴル画廊のレムブラント筆「基督復活して弟子に現るる図」に直面して、如何ばかり彼はわが意を得たり! とうなづいたであらうか。

 しづかなイタリアの僧院、堂内のくらがりに瞑目のをんなの影うかぶフランスの加特力敎寺院などにも、彼はたましひと感覚との安らかな休息を見出したであらうものをと思ふ。

 どうせ、今となつてただ愚痴を言ふだけのことに過ぎぬとは知れてゐるけれど、しかし全く残念である。[やぶちゃん注:「加特力」「カトリック」。]

 

        

 

 私にとつてだけ興味のある事柄を書くことを恕して貰ふとして――芥川との交はりには、四つの時期ともいふべきものがあつた。高等学校時代、大学時代、その以後大正十二三年頃迄の時代、彼の晩年三四年の間といつたやうなくぎりがそれである。最後の時期には私は海外に在つたし、帰つてからも一度しか彼に会はず、唯彼の作品を通じてのみ彼の存在に接触したのであつた。[やぶちゃん注:「恕して」「ゆるして」。]

 右にあげた第一の時期、すなはち高等学校時代における芥川及び彼との交はりについて、心にうかぶままにそこばくの追憶を書きしるしたいと思ふ。それ以来、大分年月が経過したので、おぼえの悪い私の記憶には、多くの事柄が逸してしまつたし、その頃の日記の類なども破棄したやうに思ふ。そして丹念に思ひ出のいとぐちをほどいて行く時間の余裕もあたへられてゐないので、私の記述は甚だ不充分なものとなるであらう。

 芥川は会話においても「僕」といふ一人称の代名詞を用ひてゐた。文章においてもさうであつたと思ふ。彼と私との間においても、会話にも音信にも彼は「僕」といふ代名詞を用ひた。私もやはりさうであつた。但、芥川が家庭の内でも外でも「僕」を以て一貫してゐたのに反して、私は幼時から家庭では「私」といふ代名詞を用ひてゐた。かつて芥川が私の鄕里の家に來て泊つてゐたとき、『なるほど、君はうちでは「私」といふ語をつかつてるね。やさしい語だね』と妙に感心して云つたことがあつた。

 私にとつては「僕」といふ語は社交用、特に対友人用の代名詞であつた。をかしな事には、自分自身の家庭をつくつてからは、妻に向つても「僕」といふ代名詞を用ひるのであつた。しかも文章において自己を表はす爲には私は「私」といふ語を用ひ來つてゐる。芥川と私とは、複数の一人称としては「僕たち」といふ代名詞を用ひてゐた。そこで、私が文章の上に芥川と私とを一人称の複数において表はす場合には、一つのディレンマに会する。しかし私は以下において「私たち」といふ代名詞を用ひることにしたい。――言語の感覚の極めて銳敏であつた芥川の事について追想するとき、つい斯やうな餘計な事柄も書き添へたい気持になるのである。

 去る七月二十七日、芥川の遺骸が谷中の斎場から日暮里の火葬場に運ばれ、燒竃の中に移され、一同の燒香が了つたのち、ふと見ると、鉄扉のかたへにかけてある札の上の文字が「芥川龍之助」となつてゐた。その刹那に、若しも芥川がそれを見たら、「しやうがないな」と苦笑するだらうと思つた。すると世話役の谷口氏が「どなたか硯をもつて來て下さい、佛が氣にしますから字を改めます」といふやうなことを言つた。……「芥川龍之介」と改めて書かれた。何だか私も安心したやうな気がした。生前、芥川は「龍之助」と書かれたり、印刷されたりして居るのを見ると、参つたやうな、腹立たしいやうな、浅ましいやうな感じをもつたものだつた。それは、彼が「龍之介」といふ自分の名を甚だ愛し且つそれについて一種の誇りをもつて居たからでもあつた。第三者の眼から見ても、「龍之介」は「龍之助」よりもよほど感じがいいし、よりエステッシュでもある、しかし我の强い彼は特別强くこの點を意識してゐたに違ひない。それは子供らしい誇りであつた。しかしそんな所にわが芥川の愛すべき性格のあらはれがあつた。彼の作品を愛讀してゐるとか、彼を敬慕してゐるとか云つたやうな事を書いて寄こす人が、偶々「芥川龍之助樣」と宛名を書いて居るのを見て、「度し難い輩だ」と云ふ樣なことを呟いた例を一、二思ひ出す。[やぶちゃん注:「谷口」谷口喜作(明治三五(一九〇二)年~昭和二三(一九四八)年)。「うさぎや」の店名で知られ、現在も東京都台東区上野広小路に営業する大正二(一九一三)年創業の和菓子屋の主人。岩波新全集に人名索引によれば、東京生まれの当主は『俳人としても活躍し、多くの文化人と交流を持つとともに「海紅」「碧」などの俳句雑誌に句やエッセイを載せていた』とし、『甘いものが好きな芥川は、この店の「喜作もなか」が大好物であった』とある。『小穴隆一 「二つの繪」(17) 「手帖にあつたメモ」』の私の注の「うさぎや」を参照。「エステッシュ」は“Esthetic” であろう。「審美的な」の意。言わずもがなであるが、音写は「エステェティック」。この焼き場の一件については、別に小穴隆一の「二つの繪」の「橫尾龍之助」に(リンク先は私の電子化注)、『燒場の竃に寢棺が約められ、鍵がおろされてしまつて、門扉にかけた名札には芥川龍之助と書いてあつた。谷口喜作が燒場の者に注意をして芥川龍之介と書改めさせ、恒藤恭がよく注意してくれたと谷口に禮を言つてはゐたが、今日芥川の墓のある染井の慈眼寺に區で建てた立札はこれまた芥川龍之助の墓となつてゐる。龍之介は戸籍面ではどこまでも龍之助であつたのかも知れない』などとある。参照されたい。]

 

        

 

 芥川も私も一年のうちの季節の移りかはりを强く意識し、それからの影響を氣分の上にかなり深く受けるたちであつた。けれども、其点について共通な所もあれば、さうでない所もあつた。たとへば、秋は私たち二人の心を同じ仕方で促へた。ところが、夏については、芥川は梅雨の候を愛すること深く、濕潤の空氣にひたつてIN HIS ELEMENTに在るかの如く思はれたが、私はそれに先立つ新綠の季節を好もしとした。彼は盛夏のころの强烈な日光に対し一種の本能的な怕れを感じる慣ひであつたが、私はむしろ夏の太陽の下にかがやく物象のすがたをいさぎよく思つた。二人の間の性格や氣質やの相違の外に、東京で生れ東京でそだつた彼と、山陰道で生れ山陰道で育つた私との間に存したところの生活環境の上の相違が、夏季に対する――さうした二人の異なる意識を條件づけたのであるかも知れない。[やぶちゃん注:「IN HIS ELEMENT」「彼の本領発揮の内に在る」と言った意。]

 子供の時から中学時代までを通じて私たちの生活環境を形づくつたところの家庭や、社会的周囲や、鄕土やは、かなり趣を異にするものであつた。ただ一つの例をあげると、芥川から二、三度聞かせられた話にこんなのがある――「四つか五つの時だつた。母に連れられて歌舞伎へ行つたんだ。その時、團十郞が勧進帳をやつたんださうだが、團十郞があの大きい眼を剝いて花道から出て來たとき、僕が『うまいつ』と叫んださうだ。見物がみな息をこらしてゐる時なんだらう。母はどうしようと当惑したんださうだ。今でもよく其事を云つて母がわらふよ』 團十郞の噂をしか聞いたことのない私は、この話など、何だかひどくまばゆいやうな氣もちで聽いたものであつた。[やぶちゃん注:「わらふよ』」の後の字空けはママ。芥川龍之介は「文學好きの家庭から」(大正七(一九一八)年一月発行の『文章倶樂部』に「自傳の第一頁(どんな家庭から文士が生まれたか)」の大見出しで表記の題で掲載されたもの。リンク先は私の古い電子化注)の中に、このエピソードを書いており、『芝居や小說は隨小さい時から見ました。先の團十郞、菊五郞、秀調なぞも覺えてゐます。私が始めて芝居を見たのは、團十郞が齋藤内藏之助をやつた時ださうですが、これはよく覺えてゐません。何でもこの時は内藏之助が馬を曳いて花道へかゝると、棧敷の後で母におぶさつてゐた私が、嬉しがつて、大きな聲で「ああうまえん」と云つたさうです。二つか三つ位の時でせう』とある。]

 それで、高等学校で二人がお互ひを深く知りはじめたとき、二人はずゐ分と内容の違つた世界を所有しつつ接触して行つたのであつた。やがて、共通の世界が二人の間に生まれた。それは次第に廣くも深くもなつて行つたが、その以前から各自の所有してゐた世界の特性は、この新しく二人の間に展開し始めた世界の内容に対して影響を及ぼすことを止めなかつた。勿論依然として東京に住むことをつづけた彼と、新たに東京に住む境遇にたつた私とでは、右の関係において著しく事情を異にするものがあつた。とは云へ、一高における生活、とりわけ二年生である間彼の送つた寄宿寮の生活は、芥川にとつて全く新しい経驗であつた。一高及びその寄宿寮の生活は私にとつても亦新しい経驗であつた。斯うした種々の事情の錯綜のうちに、私たちの共通の世界はつくられた。

 私は一年生の時から寮にはいつてゐたが、芥川は二年生になつて初めて寮にはいつた。私たちはたしか北寮三番の室に起臥した。初め寮の生活は彼にとつて随分無氣味な、そして親しみにくいものであつたに相違ない。次第に彼は其れに馴れては行つたものの、六分どころしか其れに應化しなかつた。私も寮の生活には十分應化せずして終つた方だが、それでも芥川に比べれば、さうした生活に適應する能力をより多くもつてゐた。例へば、彼は初めは中々寮で入浴することを肯んじなかつた。やつと入浴するやうになつても、稀れにしか入浴しなかつた。しかし忘れて手拭をもたずに風呂にはひつたやうな逸話をのこした。銭湯にもあまり行つたことはないと云つてゐた。寮の食事は風呂のやうに忌避するわけにはゆかぬので每日喫べてはゐたが、いつも閉口してゐた。食堂でも、ある日の昼食後に、インキ瓶だと思つて醬油入をつかんで入口まで持つて行つたといふ逸話を作つた。さうした。ユーモアは、後年に至るまで、彼の行動の上にも、思想の上にも影を射してゐたやうに思ふ。

 

        

 

 当時、芥川の意識の中に二個の東京が存在してゐた。鄕土としての東京と、一高の所在地としての東京とがそれである。芥川にとつて、向が陵は鄕土としての東京の範囲外に在つた。土曜日の午後、新宿の家に向つて寮を去り行く彼の樣子は、さながら東京に遊学せる地方の青年が鄕里をさして帰省の途に就く姿に似たものがあつた。だから、薄暮、寮の窓に灯がつきそめ、白い霧が艸地に這ふのをながめながら、私が多少のノスタルジアにかかると芥川もひと事ならず其れに同感して吳れたものであつた。[やぶちゃん注:「向が陵」「むかふがをか(むこうがおか)」は旧制第一高等学校の別名。「向陵(こうりょう)」とも称した。東京都文京区向丘にあったことに由来し、「旧制第一高等学校寮歌」の第一番は「向が陵の自治の城、サタンの征矢はうがちえで、アデンの堅城ものならず、こもる千餘の大丈夫は、むかし武勇のほまれある、スパルタ武士の名を凌ぐ。」である。「今昔マップ」の昭和初期(最も古いものは画像が劣化していて、判読し難いので、こちらを選んだ)の地図で「一高」とあるのが、そこ。現在、東京都文京区弥生で東京大学弥生キャンパスであるが、その西北に向丘(むこうがおか)の地名が残っているのが確認出来る。

 尤も眞実のところは、私たちのノスタルジアの対象は、超現実的な或る世界であつたかも知れない。さう云ふ意味においては、白晝、校庭の樹木のかげなどで、私たちは屢々私たちのノスタルジアについて語り合つた。

 そんなとき、校庭の木立のもとの空間は、芥川の鄕土としての東京の一部分でもなければ、第一高等学校の構内の一部分でもなく、私たちだけの領する第三の世界に属するのであつた。

 後年、私たちは田端の家の二階の書斎において時に斯かる第三の世界を復活せしめたことがあつた。

 

        

 

 かの鄕愁に似て、しかも本質を異にするものに、私たちのエキゾチシズムがあつた。

 茲にも、ただ一つの例をあげると、工科大学の古城のやうな煉瓦造りの前の細かな石砂利を踏んで、ディッキンソンの銅像の下にいたり、滑かに光る花崗石の台石の上に踞けつつ、沈丁花のほのかなかをりに私たちはイスパニアの荒れた町の女の歌声を思ひうかべた。[やぶちゃん注:「玆」「ここ」。「ディッキンソンの銅像」芥川龍之介の「路上」(リンク先は「青空文庫」)の「二十二」にも登場する。筑摩書房全集類聚版脚注では『東大構内にあった外人教師の銅像であろうが実物も記録も現存しない』とするが、これは誤りで、現在の本郷キャンパス内に現存し、Cherles Dickinson West(チャールズ・ディキンソン・ウエスト 一八四七年~一九〇八年)で、アイルランド・ダブリン出身の御雇外国人で、明治一五(一八八二)年に招聘されて来日、機械工学と造船学を教授した。サイト「travel.jp」のこちらのtabi47氏の投稿記事で銅像の写真を見ることが出来る。「踞けつつ」「こしかけつつ」。

 だが、夏休みの近づく頃の或る夕がた、同じ銅像の下で、來らむとする夏のことを話し合つたとき、彼の語つたことを忘れ得ない。

「君、どこへ行く?」

 と私はたづねた。

「東北の方へ旅行して見たいと思ふけれど、夏は暑くてね。僕は暑さには辟易する。それに少しでも家(うち)に余計ゐたいよ」

 と彼は答へた。

「なぜ?」

 と重ねて問ふと、

「なぜつて、僕は少しでも父や母と一緖に居たいんだ。父や母も最早年をとつてゐるからね。父や母はただ僕一人を希望に生きてるんだ。それに何人にも何物にも侵されない家庭の城壁の中はほんたうに安らかなんだからな」

 といふやうなことを言つた。

 後年、彼の作品の中に、芥川はいともうつくしく広大なる彼自身のエキゾチシズムの世界をつくり上げた。私はそれを嘆賞する。

 おなじやうに、芥川がその創作力によつて展開を企てたものに、妖怪の世界がある。妖怪に関する古今東西の文獻を夙くからあさつた彼は、屢々私に彼の蘊蓄の一端をもらした。諸國の河童の話などは每々きかされた。しかし私は妖怪にはあまり趣味をもたなかつた。私の趣味は神話的存在者の彼方に及ばなかつた。[やぶちゃん注:「夙く」「はやく」。]

 私たちの読み、そしてそれについて語り合つた文学的作品などのことは、煩しいから記述しない。

 

        

 

 東京について私が芥川を通じて知り得た事柄は少くない。但、古今の東京について知る事極めて豊富なる彼が、江戶趣味を私に向つて鼓吹するやうなことを努めて避けてゐたやうに思はれるのは、かへりみてまことに心床しい。その点において、彼は大通に近きものがあつた。[やぶちゃん注:「大通」(だいつう)遊里・遊芸などの方面を中心とした庶民風俗の事情に非常によく通じている人物。粋人。]

 彼はむしろト當時流行してゐた浅薄な江戶趣味をあざ笑つてゐた。ゐなか者の私をゐなか者視するやうなこともかつて無かつた。但、ある日、大川端まで散步したとき、或る川べりで、

「あのあたりが『こまがた』だらう」

 とゆびさしたら、

「君、『こまがた』ぢやない。『こまかた』といふんだよ」

 と敎へられた。そばでをんなの人が聞いてゐた。その時は、自分の地方人たることを切実に意識した。でも、ある日、古本屋から、寺沢靜軒著「江戶繁昌記」を買つて來てよんでゐたところ、芥川がまだそれを読んでゐまいと知つて、いささか得意になつたやうなこともあつた。[やぶちゃん注:『寺沢靜軒著「江戶繁昌記」』江戸末期の漢学者で儒者であった寺門静軒(てらかどせいけん 寛政八(一七九六)年~慶応四(一八六八)年)の著わした江戸地誌。正編五冊・後編三冊で天保二(一八三一)年刊。爛熟期の江戸市中の繁盛の光景を「相撲」・「吉原」・「両国花火」など数十項に分けて、俗体の漢文で記述したもので、幕末期に流行した繁昌記ものの濫觴。今でこそ風俗史料として貴重であるが、天保十二年、内容の政道への風刺から「天保の改革」忌諱に触れ、風俗壊乱の指弾を受けて発禁となった。その結果、武家奉公御構(おかまい)(勤仕(ごんし)禁止)となって、以後、諸国を流浪した。]

 私たちは好んで上野の不忍の池のほとりを散步した。蓮は彼のこのむ植物の一つであつた。私もまた幼時から蓮がすきであつた。しかし敗荷のおもむきを解することにおいて、彼は私よりはるかに先んじてゐた。[やぶちゃん注:「敗荷」「やれはす」「やれはちす」。葉のやぶれた蓮。]

 時に郊外に足をのばしたこともあつた。野外で辨当をたべるやうなことは嫌ひな彼であつたけれど、くぬぎ林のかげなどで一緖に握飯の包をひらいたことも無いわけではなかつた。むさし野の林をわたるしぐれの音は、彼のこころから愛した所であつた。

 一般的には、彼は自然の美の観照において極めてするどい感覚をもつてゐたけれど、自然に対する彼の態度は、観照者のたたずむ界線の此方に執念深く留まつてゐた。それを踏みこえて、謂はば自然のふところに抱かれることを少年の時からねがうてゐた私にとつては、さうした彼の性向は、意地惡くも、はがゆくも惑じられた。

 かうした方角には、私たちに共通でないところの離ればなれの世界がひろがつてゐた。

 

        

 

 一緖に芝居を見に行つたこともあつた。幕合には大分議論をした。絵の展覽会にも折々一緒に行つた。上野の音樂学校の土曜演奏会にもかなり缺かさずに出かけた。音樂の鑑賞力においては、彼は大して私を凌駕してゐなかつた。

 彼のすきな、一高の寮歌が二つ三つあつた。彼はよく昂然としてそれを歌つた。

 こころもち猫背の氣味に、そしていささかへんな両手の振り方をして步む癖はあつたけれど、兵式体操は私なんかより余程うまかつた。それに、大して声はおほきくないけれど、小隊長になつたりなんかすると、敵愾心のこもつたやうな雄壯な声を吐き出して、例の昂然たる態度で号令をかけた。

 軍國主義はきらひだけれど、軍事趣味は解する所があつたらしい。後年彼の職を奉じた海軍機関学校と彼との配合は、出たらめのやうで、必ずしも出たらめではない。軍艦の中の生活のことなどを書いた彼の作品には、幾分軍事趣味が滲み出てゐるやうに思ふ。ことに軍人の生活ではなく、軍艦それ自身を描写した文句などには、軍艦それ自身が生きてゐると同時に、軍艦といふ存在物に対する一種の愛着心の如きものが漂つてゐる――甲虫などをみて私たちの意識する愛着心のやうなものが……。[やぶちゃん注:「軍艦それ自身を描写した文句などには、……」ここで恒藤が言っているのは、機関学校時代の軍艦「金剛」への教授嘱託としての航海見学で実際に乗船した折りのルポルタージュ「軍艦金剛航海記」(リンク先は「青空文庫」)を指すというよりも、私は寧ろ、自分自身や、発狂状態になって芥川らが入院させた親友宇野浩二をカリカチャライズした、自死直前の「三つの窓」(昭和二(一九二七)年七月一日発行『改造』初出。リンク先は私の古いサイト版)を指しているものと考えるべきである。但し、芥川が軍事趣味を持っていたことは、「金剛」乗船時の手帳記録を見れば、歴然とする。例えば、私の図入りの「芥川龍之介手帳 1―16」を参照されたい。]

 尤も、すべて勝負事はきらひであつた。

「圍碁の趣味がわからなくては、漢詩、ことに五言絕句の味はひはわからないだらう」

 といふやうなことを私がいふと、

「なあに、眞の藝術家は勝負事はきらひなんだよ」

 と、幾人もその実例をあげて、彼の主張の証明を試みた。何遍もその主張は聞かされた。だが、賭け事のあそびには興味をもち得たやうである。[やぶちゃん注:龍之介は晩年には花札を好んでやっている。]

 勝負事のきらひだつた彼の心理を解剖してみると、負かすこともあまり愉快ではないし、負けることは尙更愉快ではないといふ心持が、すぐ顏をのぞけるからであつたらう。

 

        

 

 彼は数学はすきだつたし、数学的能力ももつてゐたらしい。

 高等学校時代から彼は長い路筋をたどつて議論をすすめることは嫌ひであつた。

 感じや氣分の上では、矛盾が大きらひであつたが、諭理の上の矛盾は之を犯して平氣であつた。

 抽象的な槪念で言ひあらはすと、芥川は理智の人でなく、叡智の人であつた。

 

        

 

 彼は精神的に著しく早熟だつた。

 後年彼の諸々の作品に盛られた内容の根抵を成す人生観的思想は、高等学校時代の後半期及び大学時代の初期にすでに確立されてゐたことを想ふ。

 その後に成長し、円熟して行つたものは、大体から見て、彼の表現の力なり手腕なりではあるまいか。

 唯――これは単に作品を通じてのみ判断するのであるが――死を距ることあまり遠からぬ時期から、彼の人生観の一面としての宗敎的思想を深く掘り下げたやうに思ふ。もとより、以前からさうであつた如く、彼の芸術観によつてぴたりと裏打された宗敎的思想ではあつたけれど。

 

        十一

 

 私は中学校の四五年生の頃から胃腸を害し、卒業後三四年間、無爲にくらしてゐたことがあつた。一度は將に死にさうであつた。

 幸ひにして健康を回復した。爾來、私は健康を維持することにはかなり努力した。この点について、芥川は著しく私の影響をうけた。尤も、私は常に熱心に芥川におなじやうな努力をすすめた。これは彼にとつて少からず迷惑であつたに相違ない。しかし私の苦言の合理性は彼も十分みとめてゐた。そして相当私の言を用ひて、彼の日常の生活に採用してくれた。高等学校時代の後半から卒業ごろにかけて、彼の健康狀態はかなり良好であつた。私の執拗な干渉がその事に対して多少寄與する所があつたと信じても、拠り所のない推断とは云へぬであらう。

 後年、創作に専心するに至つて、芥川は身体の虐待を次第に甚しくした。その頃には、相会する機会はすくなかつたけれど、相見る每に、私は苦言をあたへた。何とか彼とか彼は弁解をしたが、反抗はしなかつた。[やぶちゃん注:「何とか彼とか」「なんとかかとか」「なんとかかんとか」。]

 身体の力の旺盛なために、肉体と精神との釣り合のとれてゐない人が沢山あるが、彼の場合には、精神の力が旺盛に過ぎて、肉体と精神との釣り合が危げに保たれてゐた。高等学校時代において既にその兆があらはれてゐた。後年、この現象は顕著となり、芥川は常にどれだけそれを氣にかけ、それに悩んだか知れない。

 彼の精神のはたらくところ、凡そ愚鈍と名狀す可きものの現はれを見出し難かつた。彼の肉体は彼の精神を荷ふにふさはしき品位にみちてゐたが、彼の精神のはたらきを支へるに足る力にあまりに欠けてゐたとも考へられるであらう。

 だが、彼みづから動物的なる力と呼んだ所のものの中に、彼のすぐれたる聰明の支配を拒むものがあつた。これらの二者の葛藤に乘じて、彼の精神の一隅に巢くふ或る病的なるものが勢ひを逞しくしたやうに感じられる。但、これは後年に至つての出來事である。

 

        十二

 

 はじめに、高等学校時代の芥川についての追憶を書きたいと記したが、その範囲を逸することをゆるされたい。

 芥川はモラリストを憎みつつも、彼自身あまりにモラリストであり過ぎた。

 波はメフィストフェレスを愛しつつも、あまりに烈しいメフィストフェレスをばにくんだ。

 

 藝術の道に精進せむとする彼の氣魄は、りんりんと鳴りを立てるかの如く思はれた。

 彼のあゆんで行く方向に、或る処では、人生の道と藝術の道と相合し、或る処では、二つの道が離ればなれに見える。

 後の場合に、彼は躊躇なく芸術の道をえらぶが如くして、必ずしもさうでない。

 

 彼は孤独を愛しながら、孤独に堪へることが出來なかつた。(都会人であり過ぎたせゐかも知れない)

 彼はかなり多量のセンチメンクリズムをもつてゐた。自分でもはつきりそれを意識してゐた。そして其れを露はにすることを怕れた。

 

 それは鍊を経たセンチメンタリズムであつた。このセンチメンタリズムの湧き出る泉源は、一塊の岩石をへだてて、彼の固有する詩的精神の泉源と相対した。

 詩は彼の孤独のくるしみを和げた。しかしながら、何人か詩に永住することが能きよう乎。[やぶちゃん注:「何人か」「なんぴとか」。「能きよう乎」「できようか」。]

 

 彼が天使を呼べば、天使は嬉々として來つて彼の手を取らむとするであらう。だが、彼はひらりと身をかはすであらう。

 彼が惡魔を呼べば、惡魔は欣々として來つて彼の手を取らむとするであらう。しかし、彼はひらりと身をかはすであらう。

 さりながら、つひに彼は氣根萎えて打ちたふれ、やさしい天使の介抱を受けるであらう。

 芥川のこころに宿る惡魔は、良心の瞳を片時も放さず瞠めてゐる惡魔であつた。彼がその惡魔を退ける工夫をしないのが、もどかしく思はれた。それは怕ろしい惡魔ではあるが、神々しい惡魔でもあつた。[やぶちゃん注:「瞠めて」「みつめて」。「神々しい」「かうがうしい」。]

 

 芥川において生活と芸術とは、ひじやうに高い程度に合致してゐた。但、その意味は、彼の残した芸術と彼の生きた生活とが寸分の𨻶なく合はさつて居るといふのではない。彼の生きた生活が彼の残した藝術よりも一層藝術的であつたといふにある。

 

 芥川の思想のあるものに、その作品を通じて接するとき、私は往々にして不満を感じた。しかし、同一の思想を芥川自身が口づから語るとき、私は何らの不満を感じなかつた。恐らく、芥川の精神から離れて客観化されたが故に、その思想に対して不満を感じたのかも知れない。但、往々にして彼の弄することを好んだ江戶つ子的詭辯にまどはされたわけでは断じてない。

 

 全体して見れば、芥川は强靭な意力をもつてゐた。けれども、その意力のはたらく方向にむらがあつた。

 

 彼の精神のはたらきの銳さは、多くの場合に、彼のうちに潜む処女のごとくやさしい心づかひと、はげしい情熱とを、他人の眼から全然隠し去つた。

 

 いつ見ても彼の眼は澄み切つてゐた、が、彼の感情は常にあたたかく搖いでゐた。

 彼の表現があまりに𨻶の無いやうにと工夫を凝らされてゐる爲に、彼の作品がつめたい感じを惹き起すことがある。日常の彼の行動には沢山の𨻶があつた。彼はそれを意としなかつた。だから彼から直接につめたい感じを受けたことはない。

 

 屢々彼はさかんに人を罵倒した。

 彼は時には(子供らしく)虛勢を張つた。

 しかし法螺は決して吹かなかつた。

 

 自然にむかつて彼は甚しく謙虛であつた。が、心の底に三分の敵意を藏して自然に対することが稀れでなかつた。

 

 彼は妖怪を愛した。しかし妖怪の存在を信じては居なかつた。

 

 彼のミラクルをよろこぶ心は、彼の峻嚴なるリアリズムといたましく矛盾した。

 

 彼は若い女のゐる前で昂奮した。しかし男のゐる前でも昂奮した。ただ親しい友人の前でのみ平静であつた。

 誰だつてさうなんだらう。

 ただ彼の聰明さに比べて少し不釣合だと思はれただけだ。

 

 彼にも初恋があつた。その委曲は記すまい。そのとき彼は一生懸命であつた。

 

        十三

 

 爭鬪があればこそ、勝利はあり得る。爭鬪を経ない勝利は無い。これは自明の理である。善と惡とは永久に爭鬪の運命を負はされてゐる。惡の征服において善が成り立ち、善に対する反抗において惡が成り立つ。

 惡がなければ善もない。これが此世の掟である。惡の征服の後に來る平和はうつくしい。けれども現実の世界は、爭鬪なくして平和に至る途を保證せぬ。

 この爭鬪は最も多樣な形態において行はれる。が、芥川はこの爭鬪をいとはしとした。だから、彼の眼には、善も亦暗い陰影を帶びて映り過ぎた。「しかも惡も、惡との爭鬪も、共に人生の必要に属する。しからば、すでに惡との爭鬪を善と名づけるとき、何故に惡そのものをも善とよびえないか。否、一方において惡を惡とよぶものが、何故に善をも惡とよばないか。」彼は斯る論理に飽くまでも執着した。どこ迄も、何処までも、それにこだはつた。

 

 善惡の相関的制約性は美醜の相関的制約性とその論理的構造を一にする。ただ美醜の差別は官能を通じて我等の意識にあたへられるのを特色とする。芥川の如く銳敏なる美的感覚をもつ人にとつて、美醜の鑑別はあまりにも明確なりと思惟されたであらう。

 その思想的生涯を一貫して彼の抱いたところの「道德に対する懐疑心」は、彼の感情と感覚とにかたく根ざすものであつた。しかも道德的本能は彼において人一倍力强かつた。

 この矛盾は、後半生を通じて、彼をいら立たせた。

 

        十四

 

 この稿を書き始めたとき書かうとも思はなかつた事を、勢ひに任せて書いた。あまり長くなつたから大抵にして稿を了したいと思ふ。

 

 大正二年に私たちは一高を卒業した。六月の試験のすんだあと、芥川、藤岡、長崎、私と四人の同級の者が、赤城、榛名の山々へ旅した。

 私たちは先づ赤城山を目ざした。

 足尾鉄道の一小駅上神梅(かみかんばい)で下車した私たちは、森林の茂みを縫ふ嶮しい山みちを登つて行つた。芥川はその年の春胃拡張を病み、不換金正氣散といふ漢方藥の二合分を一合に煎じ詰めたやつを根氣よく吞んで、それを癒したあとだつた。彼は大分登りなやんだ。「こんなに心臓が鼓動する」といふから、その胸に手を当てて見ると、なる程むやみと心臓が鼓動してゐた。「これでもつて好く登れるね」と私は感心した。

 大黑檜と地蔵が嶽との間の外輪山の凹みにたどりついたときは、もう日暮れに近かつた。黃ばなの梅鉢草やゆきわり草の花のうへに坐して暫く憩うた。うしろを振り向くと、今まで登つて來た方角の上州の平野の眺めが遙かな思ひをさそひ、ゆくての谷を見おろすと、みどりの牧場に数知れぬ牛や馬があそんで居た。牧場の盡きるところには湖の水が白く光つてゐた。草鞋の足かろく四人は夕餉のけむりの一すぢ立つ方へと降つて行つた。

 枝振りのやさしい山梨の木が一杯に梢を張り、純白な花をこぼれるやうに咲かしてゐた。

 あるいて行くうちにも、「ほんたうに佳いだらう。うつくしいだらう。だから僕は赤城が一等好きだつて云ふんだ。ねえ、何処よりもいいだらう」と、芥川は大へん得意だつた。ウイリアム・ブレークの版画などをみせて吳れたときのやうに得意だつた。前の年の春休みのころ、まだ湖畔は雪にうもれて居る折りに彼は來たことがあるのだつた。

 大沼(おほぬ)の岸に近い宿に泊つた。あくる朝、四時まへに目をさまし、三人を起して登山の途に就いた。私たちは大黑檜の峯にかかつた。

 林をはなれて草山の背にたどりつくと、風はさかさまに下から吹き上げ、見る見る雲霧が谷間をとざし、林を包み、ゆくての山をかくしてしまつた。

 櫻草や虫取すみれや、そのほか数々のうつくしい花になぐさめられつつ雲の中を登りにのぼつて、絕嶺についた。眺望はなかつた。

 寒いので、ながく留まることも出來ず、山の花をつみつみ下山した。宿の若者の剪つて吳れた白樺の杖をつきながら四人は湖水の岸づたひにあゆんで前橋に向つた。七里のみちを前橋に降り、電車で伊香保の溫泉に行つて泊つた。あくる日は榛名の山にのぼつた。そのまた翌る日は二組にわかれ、芥川と藤岡とは帰京し、私は長崎と妙義山から軽井沢の方へまはつた。

 それから三、四年後のこと、赤城の頂の山霧の中に径(みち)がかようて居る叙景を結末に取り入れた、「道」と題する長篇の小說を書きたいと思ふと、芥川は私に語つた事があつたが、その希望を現実にしなかつた。

[やぶちゃん注:「大正二年に私たちは一高を卒業した。六月の試験のすんだあと、芥川、藤岡、長崎、私と四人の同級の者が、赤城、榛名の山々へ旅した」この前の大正二(一九一三)年六月十二日から二十日が一高の卒業試験で、それが終わった二日後の六月二十二日から、芥川龍之介は同級生の井川(いかわ:後の恒藤)恭・長崎太郎・藤岡蔵六とともに赤城山方面へ旅行に出立し、二十三日には午前四時に起床、赤城山に登頂、下山して伊香保に宿泊、翌二十四日には榛名山に登頂、二十五日に伊香保に滞在、二十六日に藤岡とともに帰京している(井川と長崎は、二人と別れ、妙義山から軽井沢に向かっている)。この登山の途中、「赤城にて」とする少年期よりの親友山本喜譽司に宛てた絵葉書がある(大正二(一九一三)年六月二十三日・消印二十四日)。私の「芥川龍之介書簡抄14 / 大正二(一九一三)年書簡より(2) 三通」の二通目を参照。なお、この時の同行者については、長崎太郎(明治二五(一八九二)年~昭和四四(一九六九)年)は高知県安芸郡安芸町(現在の安芸市)出身。京都帝国大学法科大学を卒業後、日本郵船株式会社に入社し、米国に駐在し、趣味として古書や版画を収集、特に芥川龍之介も好きだったブレイクの関連書の収集に力を入れた。帰国後に武蔵高等学校教員となった。昭和四(一九二九)年、京都帝国大学学生主事に就任、昭和二〇(一九四五)年、山口高等学校の校長となって山口大学への昇格に当たった。昭和二十四年には京都市立美術専門学校校長となり、新制大学への昇格に当たり、翌年、京都市立美術大学の学長に就任している。藤岡蔵六(明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)年)は愛媛県出身で、後に哲学者となった。東京帝大哲学科を卒業し、ドイツ留学後、甲南高等学校教授となった。この旅行については後掲される紀行文「赤城山のつつじ」で、より細かに描かれている。

「前の年の春休みのころ、まだ湖畔は雪にうもれて居る折りに彼は來たことがあるのだつた」明治四四(一九一一)年四月一日から一週間の試験休暇中の六日に、府立三中・一高時代の親友であった西川栄次郎(明治二五(一八九二)年~昭和六三(一九八八)年:東京帝国大農学部卒で、同大助手となり、研究員として英国へ留学、後に鳥取高等農林学校教授となった)とともに、雪景色の赤城山に登頂している。

「大沼(おほぬ)」実はルビは誤りで、「おの」と読む。赤城山の北東にあるカルデラ湖「赤城大沼(あかぎおの)」(国土地理院図)。

「足尾鉄道の一小駅上神梅」現在の群馬県みどり市大間々町上神梅にある「わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線」の「上神梅駅」。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「不換金正氣散」(ふかんきんしょうきさん:現代仮名遣)は、サイト「漢方ライフ」のこちらによれば(生薬成分はそちらを見られたい)、主治は『瘴疫時気による湿困脾胃』・頭痛・発熱・嘔吐痰涎・腰背部のこわばり・突発性吐瀉・下痢とあり、『体力』が『中等度で、胃がもたれて食欲がなく、ときにはきけがあるものの次の諸症』とあって、急性及び慢性胃炎・胃腸虚弱・消化不良・食欲不振、及び、『消化器症状のある感冒』とある。

「大黑檜」も読みが難しく、現行では「おおくろび」と読む。赤城山系の最高峰(千八百二十七メートル)である「大沼」の北東に聳える「黒檜山(くろびやま)」(国土地理院図)のこと。]

 

        十五

 

「我は唯茫々とした人生の中に佇んでゐる。我々に平和を與へるものは眠りの外にある譯はない。あらゆる自然主義者は外科医のやうに残酷にこの事実を解剖してゐる。しかし聖霊(せいれい)の子供たちはいつもかう云ふ人生の上に何か美しいものを残して行つた。何か『永遠に超えようとするもの』を」

 「改造」所載、「西方の人」の第三十五、「復活」の末尾に、芥川はこんな文句を書いてゐる。

 今や彼は、その文句の中にしるされた真理を目のあたり見て居るであらう乎。

 書いてここに到つて、私は淚の落ちるのを止めえない。

[やぶちゃん注:冒頭に惹かれているのは、恒藤の述べるように、芥川龍之介の事実上の最後の遺筆となった「西方の人」(正編)の「35 復活」の最終段落である(リンク先は私の「西方の人」正續完全版)。]

 

2022/12/28

尾形龜之助詩集「障子のある家」原本(昭和二三(一九四八)年再版本)準拠正規表現版・藪野直史作製・注附き(PDF)公開

 

今年最後の大物電子化注、

尾形龜之助詩集「障子のある家」原本(昭和二三(一九四八)年再版本)準拠正規表現版・藪野直史作製・注附き(1.82MB)

をサイト「心朽窩新館」に公開した。私の電子化注の過程として、嘗つての、

尾形龜之助 第三詩集「障子のある家」〈恣意的正字化版(附 初出稿復元)横書版〉

は残すこととしたが、あくまで、今日のそれが、私の確定決定版である。

2022/12/27

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 駕籠舁互に殺さんと謀りし話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。]

 

     駕籠舁互に殺さんと謀りし話 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 

 寶永八年發行、自笑《じせう》の「傾城禁短氣《けいせいきんたんき》」四の四に、二人の駕籠舁(かごかき)、寒夜、京より大津行《ゆき》の嫖客《へうかく》を載せんとするに、其客、寒氣に中《あた》り、忽ち、死す。遺言により、其肌着より、小判千兩、取出《とりいだ》し、死骸を駕籠に乘せ還る途上、一人の駕籠舁、大地に坐し、泣き出す。今一人、その譯を聞くと、「實は、汝を打ち殺して、千兩、丸取りにせんと、數《しばし》ば、杖を、後より振り上げたが、目前、死人を見乍ら、『淺猿《あさま》しき心に成《なり》し。』と、身の零落を悲《かなし》む。」と答ふ。今一人、「われも、汝を殺し、この金、悉く取らんと謀り居たり。」と懺悔し、色々、來歷を語ると、此二人も、駕籠の中の死人も、異腹の兄弟だつたてふ譚が有る。

 それより廿三年前(元祿元年)出た西鶴の「新可笑記」五の四に、奧州女賊の娘、二人、剽掠(おいはぎ[やぶちゃん注:ママ。])に出《いづ》る道傍に、絹、十匹、落たるを拾ひ、五匹宛、分かち、持歸《もちかへ》る。心の中で、姉は妹を、妹は姊を、殺し、絹を、皆、自分の物にせんと、思ひ設けて急ぐ途上、火葬の火の殘り燃《もゆ》るを見て、各《おのおの》、無常を悟り、悔《くい》て、絹を同時に火に投込む。互に理由を尋ねて、齊《ひとし》く惡心を懺悔し、家に還《かへり》て、母を勸め、三人、發心して比丘尼と成《なつ》た、と出づ。

 治承の頃、平康賴の筆と傳ふる「寶物集《ほうぶつしふ》」一に、兄弟、父より、各、五百兩の金を得て、道にて、弟、其五百兩を投げ捨つるを、兄、怪《あやし》んで、譯を問ふと、弟、泣泣《なくなく》答へたは、「我、此金を持《もつ》た故に、汝が持つ金を奪《うばひ》て千兩に成《なし》て持《もと》うと、一念、起つた。金は、うたてしき物と思へば、捨《すつ》る。」と云ふ。兄、淚を流し、「我も、然《しか》思ふた。」とて、又、投捨た。是を「斷金の契り」とは申すとは、牽强《こじつけ》だが、この話は龍樹大士の「大智度論」に出づ。百卷と云ふ大部の物で、座右に有《あり》乍ら、搜すに時を費やす故、「法苑珠林」卷九四より、孫引きとせう。云く、有兄弟二人、各擔十斤金行、道中更無餘伴、兄先作是念、我何以(ユヱニ)欲殺ㇾ弟ㇾ取金、此曠路中人無知者、弟復生ㇾ念、欲殺ㇾ兄取一ㇾ金、兄弟各有惡心、語言視瞻皆異、兄弟卽自悟、還生悔心、我等非人、與禽獸何異、同產兄弟、而爲少金故、而生惡心、兄弟共至泉水邊、兄以ㇾ金投著水中、弟言、善哉善哉、弟復棄金水中、兄言、善哉善哉、兄弟更互相問、何 以故言善哉、各相答言、我以此金故、生不善心、欲相危害、今得ㇾ棄ㇾ之故言善哉、二辭各爾。〔兄弟、二人有り、各(おのおの)、十斤の金(かね)を擔(にな)ひて行く。道中、更に餘(ほか)の伴(つれ)、無し。兄、先づ、是の念(おも)ひを作(な)す。『我れ、何の以(ゆゑ)に弟を殺して金を取らざらん。此の曠路(かうろ)の中(うち)、人の知る者、無し。』と。弟、復(ま)た、念ひを生じ、『兄を殺して、金を取らん。』と欲す。兄弟、各(おのおの)、惡心有れば、語-言(ことば)と視瞻(めつき)と、皆、異(こと)なれり。兄弟、卽ち、自(みづか)ら悟り、還(ま)た、悔心(かいしん)を生(しやう)ず。『我等は、人に非ず。禽獸と何ぞ異ならん。同じ兄弟に產まれ、而(しか)も少しの金の爲めに、惡心を生ず。』と。兄弟、共に泉水の邊(ほと)りに至る。兄、金を以つて、水中に投(な)ぐ。弟、言はく、「善(よ)きかな、善きかな。」と。弟も、復た、金を水中に棄(す)つ。兄、言はく、「善きかな、善きかな。」と。兄弟、更に、互ひに相ひ問ふ、「何を以つての故に『善きかな』と言ふや。」と。各、相ひ答へて言はく、「我れは、此の金を以つての故に、不善の心を生じ、互ひに危害せんと欲す。今、之れを棄つるを得たり、故に『善きかな』と言へり。」と。二(ふた)りの辭(ことば)、各、爾(しか)り。〕。

[やぶちゃん注:「寶永八年」一七一一年。

『自笑の「傾城禁短氣」』「自笑」は八文字屋自笑(?~延享二(一七四五)年)で浮世草子作者・書肆・版元。京の人。本姓は安藤。通称は八左衛門であるが、本書は江島其磧(えじまきせき 寛文六(一六六六)年~享保二〇(一七三五)年)との連名の浮世草子。江島は浮世草子作者で京生まれ。本名は村瀬権之丞。通称は庄左衛門。西鶴の作風を真似た役者評判記「役者口三味線」を書肆八文字屋より刊行した後、浮世草子を「八文字屋自笑」の名で多数執筆・刊行したが、自笑と確執があり、書肆江島屋を起こして其磧名の作を出すしたが、後に和解し、自笑との連名で執筆刊行を続けた。「傾城禁短氣」は江島の代作で、宝永八 (一七一一)の序を持つ。当該篇は同書の「四之卷」の「㐧四 教(をしへ)の駕籠(かご)のりの道連(みちづれ)」である。かなり癖のある崩し字の版本で、ちょっと読み難いが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの同巻(一括PDF)の26コマ目から視認出来る。

「嫖客」「飄客」とも書き、花柳街で遊ぶ客を指す。

「廿三年前(元祿元年)」一六八八年。

『西鶴の「新可笑記」五の四』井原西鶴の浮世草子で、雑話物的傾向を持つ武家説話集。二十六話中、一話を除いては、武家説話で、奇談・珍談の色彩が濃い。この「の四」は前に引かれたものか、必要ない。標題は「腹からの女追剝 武士は其時かはる子どもの事」。国立国会図書館デジタルコレクションの「西鶴文粋」の下巻(春陽堂刊)のこちらから活字本で読める。なお、「可笑記」近世初期に成立した随筆風仮名草子で、作者は浪人の斎藤親盛であるが、その流行にあやかって名乗っただけで、関連性は全くない。

「治承」。一一七七年から一一八一年までであるが、源頼朝の関東政権は、この先の養和・寿永の元号を使わずに治承を引き続いて使用した。優勢となった源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、「平家都落ち」の直後、朝廷から寿永二年十月宣旨が与えられた寿永二(一一八三)年以降、鎌倉方でも京都と同じ元号が用いられるようになった。

『平康賴の筆と傳ふる「寶物集」』平安末から鎌倉初期の仏教説話集。後白河法皇の近習として北面に仕えた平康頼著。康頼が帰洛した治承三(一一七九)年以後、数年間で成立したものと思われる。嵯峨清涼寺における僧俗の談話という「大鏡」「無名草子」などのような座談・問答形式をとっている)。指示するのは、「金寶に非ぬ沙汰楊震四知斷金契(だんきんのちぎり)の事」で、ここの左ページ七行目以降がそれであるが、ここで熊楠が触れているのは、次のコマの右のページ最終行から左ページの五行目まで。

『龍樹大士の「大智度論」』は「大蔵経データベース」で校合した。今回は珍しく、熊楠の表示の方が正しい感じがする箇所が多かった。]

尾形龜之助第三詩集「障子のある家」再版本に基づく縦書PDF化作業始動

遅蒔き乍ら、遂に昨日、国立国会図書館の本登録を完了し、「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で、尾形龜之助の第三詩集「障子のある家」(限定版。但し、昭和二三(一九四八)年再版本。初版は昭和五(一九三〇)年九月発行の私家版で限定七十部の非売品)の画像を全篇見ることが出来るようになった。当初、私のサイト版の同詩集の「恣意的正字化版(附 初出稿復元)」を修正する形で始めようと思ったが、やはり正規表現版は縦書にしたいと思い、ワードで以上の原本画像を視認して凡て作り直し、後にPDF縦書版で公開することとした。

また、国立国会図書館デジタルコレクションの画像は申請しないと、使用できない上、モノクロームであるため、ちょっと悲しくなった。そこで、今朝、ネットを検索したところ、hkurukuru氏のブログ「●古本屋●掘り出しモノショップ くるくる 営業日記●」の「●障子のある家●尾形亀之助エッセイ●1930●即決の詳細写真」に、同原本の複数の画像を見つけたので、まずは、それを参考にして、表紙の中央にある特異なそれを(オレンジ色の折り紙の風車の中に「をがたかめのすけ」のひらがなが印字されたイラスト)、ソフトを用いて、独自に作ってみた。ソフトがしょぼいので、かなり苦労したが、御笑覧あれ。
Syoujinoaruie


また、私の「尾形龜之助全集」の書誌の見落としだったが、驚くべきことに、本詩集の添辞副題として知られる、
 

あるひは(つまづく石でもあれば私はそこでころびたい)

 
という詩句は、何んと! 奥付の! 詩集名の後に! 驚くべき小ささで、さりげなく記されているだけなのであった!!! 前掲のhkurukuru氏のブログの上から八枚目の画像を参照されたい。
龜ちゃん! やってくれちゃってるわッツ!!!

2022/12/26

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 忠を盡して殺された話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。]

 

      忠を盡して殺された話 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 

 六百九十五年前に成《なつ》た「續古事談」卷五に、齊信《ただのぶ》民部卿、別當の時、法住寺で文行《ふみゆき》と正輔と先祖の事を論じて、正輔、盃《さかづき》を文行に抛掛《なげかけ》た。文行、太刀を拔《ぬか》んとするを、大力の人に留められ、正輔の族《うから》三人、文行を捕《とらへ》んとし、文行、庭へ跳下《おどりおり》る。文行が郞等、「吾主人は醉うて居《を》る。」と云《いふ》て、矢を弓に番《つが》ふて向ふたので、正輔の方人《かたうど》、文行を捕へ得ず、其間に、文行は馬に騎《のり》て去《さつ》たが、拘留三日で免《ゆる》さる。文行、言《いひ》ける、「坂東の猛者《まうざ》なりせば、かくは致さざらまじ、京は口惜しき所也。」と云《いひ》て、東國に下りける。其時、此助けたりし郞等を殺して鳧《けり》。『彼《か》の日の事を、東國の人に聞せじ。』となるべし。此事を、世の人、善惡は未だ定めずとぞ、と見ゆ。「續史籍集覽」の「佐藤系圖」に、文行は左衞門大夫、相模守で秀鄕の曾孫たり。「佐野松田系圖」には、文行、左衞門尉、母は鎭守府將軍利仁の女《むすめ》と有るが、利仁は文行の曾祖父秀鄕より前の人だから、誤聞だらう。

 扨、文行が身の恥を蔽《おほ》はんとて、己を助け吳《くれ》た郞等を殺したのに似た話は、十六世紀に伊太利の「トラヘッタ」女公、兼「フンジ」女伯だった美姬「ジュリア・ゴンツァガ」、年若きに夫に死に別れた時、花戸《はなや》が「戀愛花」と呼ぶ「アマランツス」(希臘語で「不凋《しほれぬ》」の意)を紋に用ひ、初《はじめ》て相見し男との愛情が一生失せざる義を表した。然るに、土耳古帝「ソリマン」二世、其無雙の美人たるを聞き、驍將《けうしやう》「バビルサ」をして、海賊を率ひ[やぶちゃん注:ママ。]、「フォンジ」を夜襲し、「ジュリア」を奪はしめた。一士有り、之を知《しり》て告《つげ》たので、「ジュリア」、襦袢裸か、跣《はだし》で騎馬して、身を全うし、遁れたが、少し後に、刺客をして、其士を殺さしめた。全く裸體を見られたるを憾《うら》んで也と云ふ(一八一一年板、「ムーショー」編「艷史話彙(ジクシヨネール・ド・ラムール)」卷三、五三頁)。予、在英の間だ、介學の友たりし「ウヰルフレッド・マーク・ウェブ」氏の「衣裝之傳歷(ゼ・ヘリテイヂ・オヴ・ドレツス)」(昨年板、二一四頁)に、十一世紀に英國の貴女が、寒夜にすら、丸裸で臥《ふし》た、と有る。伊太利は英國より遙かに暖いから、件の女公抔も常に裸で寢たんだろ。

[やぶちゃん注:読みの一部は、「新日本古典文学大系」版(以下の注でも脚注を参考にした)の「續故事談」(鎌倉初期の説話集。編者不詳。現存する最終巻の巻六末に、建保七(一二一九)年の四月二十三日のクレジットを載せるが、この年は四月十二日に承久に改元している)その他を参考に附した。国立国会図書館デジタルコレクションの『国史叢書』第十一(大正三(一九一四)年国史研究会刊)所収の当該部をリンクさせておく。

「齊信民部卿」藤原斉信(康保四(九六七)年~長元八(一〇三五)は公卿・歌人。太政大臣藤原為光の次男。「別當の時」とは「検非違使別当」で彼が同職であったのは、長保三(一〇〇一)年十二月十日から寛弘三(一〇〇六)年 六月二十八日まで。

「法住寺」(ほうじゅうじ)は京都東山にあった真言宗の寺で、永延二(九八八)年に斉信の父で太政大臣であった為光が創建したが、長元五(一〇三二)年に火災の類焼によって焼失した。現在の法住寺(グーグル・マップ・データ)は後白河上皇によって同所に建立された後身である。

「文行」(生没年不詳)は貴族。藤原北家秀郷流の鎮守府将軍藤原文脩(ふみなが)の子。かの藤原秀郷の曽孫に当たり、母は芥川龍之介の「芋粥」で知られる藤原利仁の娘であったともされるが、熊楠の言う通り、時制的に信じ難い。当該ウィキによれば、検非違使であったが、ここにある通り、寛弘三(一〇〇六)年六月十六日に藤原時平の孫であった正輔(先祖は正輔の方が遙かに上であったと「新日本古典文学大系」版脚注にある)と争ったために結果的にこの事件で職を追われ(赦(ゆ)されたとあるのは「拘留」を、である)、『藤原道長を訪ねている』。二十二日に『罪名が奏上されたという』。他に『下野守』『を歴任した』ともある。

「方人」仲間。味方。

「猛者《まうざ》」「続古事談」原本の読みを振った。

『十六世紀に伊太利の「トラヘッタ」女公、兼「フヲンジ」女伯だった美姬「ジュリア・ゴンツァガ」』ジュリア・ゴンザーガ(Giulia Gonzaga 一五一三年~一五六六年)。イタリアの名家コロンナの一人であったヴェスパシアノ・コロンナ(Vespasiano Colonna 一四八五年~一五二八年)と一五二六年、十四歳の時に結婚したが、僅か二年後に夫は亡くなり、その後、再婚しなかった。英文の彼女ウィキによれば、一五三四年八月の夜、夫の旧領で彼女の支配地であったフォンディの町(Conte di Fond:本篇の「フォンジ」)をオスマン帝国海軍提督ハイレディン・バルバロッサ(Hayreddin Barbarossa)(本篇の「バビルサ」)が急襲、彼女を誘拐し、皇帝であったスレイマン大帝(Suleiman I:本篇の『「ソリマン」二世』だが、「二世」は不審)に引き渡そうとした。バルバロッサはオスマン帝国の大宰相イブラヒム・パシャから彼女を誘拐するよう命ぜられており、パシャの計画では、彼女をスルタンのハーレムに加え、スルタンの妻であるロクセラナに取って代わらせる目論見があった。しかし、彼女は逃亡、これに不満を抱いたバルバロッサは、フォンディと近くのスペルロンガの住民を虐殺したが、近くのイトリで撃退されている。彼女は、一人の騎士を連れて、夜に逃げたが、彼女は後、脱出中にほぼ裸であったのを見られただけの理由で、その騎士を殺した、と書かれてある。

「花戸《はなや》」「選集」のルビを採用した。

『「戀愛花」と呼ぶ「アマランツス」(希臘語で「不凋《しほれぬ》」の意)』ナデシコ目ヒユ科Amaranthoideae 亜科ヒユ(アマランス)属 Amaranthus は一年草の擬似穀類。属名で通称名アマランスは、ギリシャ語の「アマラントス」、「(花が)萎れることがない」が語源。

『ウヰルフレッド・マーク・ウェブ氏の「衣裝之傳歷(ゼ・ヘリテイヂ・オヴ・ドレツス)」(昨年板、二一四頁)」』『リンネ学会』会員で博物学者であったウィルフレッド・マーク・ウェッブ(Wilfred Mark Webb 一八六八年~一九五二年:熊楠より一つ下)の‘The Heritage of Dress’(「ドレスの伝統」一九一九刊)。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が視認出来る。彼は、「十二支考」の「鶏に関する伝説」や、南方熊楠の「平家蟹の話」(私のサイト版)にも登場する。]

畔田翠山「水族志」 イソダヒ (アカマンボウ(✕)→ゴマフエダイ(○))

 

(二四)

イソダヒ

大者二三尺形狀棘鬣ニ似テ濶厚鱗胭脂紅色ニ乄淡黃ヲ帶腹色淺シ尾鬣倶ニ紅色也㋑マン子ンダヒ【萬年鯛ノ義】一名イソダヒ【熊野九木浦】カナカブト【紀州若山】形狀棘鬣ニ似テ潤厚アブラ魚ニ似タリ背紅色黑ヲ帶腹色淺シ尾鬣黃褐色大者三四尺冬月出

○やぶちゃんの書き下し文

いそだひ

大なるは、二、三尺。形狀、棘鬣(たひ)に似て、濶(ひろ)く厚く、鱗、胭脂(えんじ)・紅色にして淡黃を帶ぶ。腹の色、淺し。尾鬣(おびれ)倶(とも)に紅色なり。

まんねんだひ【「萬年鯛」の義。】。一名「いそだひ」【熊野、九木浦。】・「かなかぶと」【紀州、若山。】。形狀、棘鬣(たひ)に似て、潤く厚く、「あぶら魚(うを)」に似たり。背、紅色、黑を帶び、腹色、淺し。尾鬣、黃褐色、大なるは、三、四尺、冬月、出づ。

[やぶちゃん注:底本のここ。この「イソダイ」という異名は現在、所謂、「マンボウ」型の(見た目が似ているだけで、分類学上はマンボウの仲間では全くない。マンボウは条鰭綱フグ目マンボウ科マンボウ属 Mola に属する。但し、食性はクラゲを食べているらしい点では似ている)、側扁して体高が高く円形に近く、鰭が鮮やかに赤く伸び(特に背鰭・腹鰭・胸鰭が長い)る(私の、驚異的な栗本丹洲自筆巻子本(国立国会図書館所蔵・第1軸)「魚譜」の「マンダイ (アカマンボウ)」の図群を、是非、参照されたい)、

顎口上綱硬骨魚綱綱条鰭亜綱アカマンボウ上目アカマンボウ目アカマンボウ科アカマンボウ属アカマンボウ Lampris megalopsis

の異名として、宇井縫蔵の「紀州魚譜」ではここ(「マンダイ」を筆頭標題和名としてある)に、まず、載り(但し、採取出典は本書である)、宇井氏はまた、別に、

棘鰭上目スズキ目ベラ亜目ブダイ科ブダイ属ブダイ Calotomus japonicus

の異名としても、こちらに載せている(採集地を和歌山県『湯淺』とする)。しかし、本文の記載とこの二種を比較するに、色彩は二種ともに似ているように見えるものの、ブダイは全体にブダイの♀は赤みが強いが、これは全体に及び、「腹の色」は「淺」くはない。個体変異があっても、こう記すほどの通性はない。さらに広義の「棘鬣(たひ)」=現行の我々が勝手に「~タイ」と呼んでいる、タイとは縁の遠い魚類も多数含むそれと同じ)に比べて、有意に「濶(ひろ)く厚く」というのはブダイに当たるかというと、私は、全く当たらないと思う。体幹の「厚さ」は「厚い」と言えるが、体高は寧ろ低く、それを「潤い」とは決して言わない。されば私は、今、畔田が目の前に置いて観察している前者「イソダヒ」は、絶対にブダイではなく、アカマンボウであると断言するものである。【二〇二三年四月十八日★重要追記★】本種について、その後に調べているうちに、以上の記載に誤りではないが、不備があることに気づいたので追記する。宇井縫蔵氏は「紀州魚譜」のここで、「方言」で本書のこの部分の記載を『水族志にはイソダヒ(九木浦)、カナカブト(和歌山)とある』(太字下線は底本では傍点「●」、太字は傍点「﹅」)と示されて、学名を Lampris regius に比定してある。これは現在の条鰭綱アカマンボウ目アカマンボウ科アカマンボウ属アカマンボウ Lampris megalopsis のことである。但し、シノニムではなく、別種である。これは、宇井氏の誤りではなく、ごく最近に種が改められた結果である。ウィキの「アカマンボウ」によれば、『従来』、『アカマンボウ科』Lampridae『にはアカマンボウ Lampris guttatus(宇井氏の示した学名は、この Lampris guttatus のsynonymである)『南半球に分布する全長』一メートル『程度の Lampris immaculatus(英名:southern opa)の』一属二種のみが『属するとされていた』が、二〇一八年に、『アカマンボウLampris guttatus』の方は、五『種に分類され、アカマンボウ科は』六『種と』変更された。『その結果』、『従来』、『アカマンボウとされていたLampris guttatusは北西太平洋のみに分布することが判明し』、本邦の和名種である『アカマンボウの学名はLampris megalopsisに変更された』のである。

「まんねんだひ」「萬年鯛」は現在、アカマンボウの他に、スズキ目スズキ亜目キントキダイ科クルマダイ属クルマダイ Pristigenys niphonia や、棘鰭上目キンメダイ目イットウダイ科アカマツカサ亜科アカマツカサ属アカマツカサ Myripristis berndti の異名でもある。二種ともに全体が有意な赤みを帯び、前者は側扁性がやや強く、側面から見ると、アカマツカサと異なり、有意に丸く見える。

「熊野、九木浦」現在の三重県尾鷲市九鬼町(くきちょう)であろう。

「かなかぶと」宇井氏と同じく、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアカマンボウのページでは、本記載をもとに同種の異名とする。

「あぶら魚(うを)」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の異名一覧の「アブラウオ」には、実に十三種が載るが、以上に掲げた種は含まれない。この内、強く側扁するもので、和歌山の異名とする(宇井氏の前掲書による)のは、スズキ目スズキ亜目チョウチョウウオ科チョウチョウウオ属シラコダイ Chaetodon nippon であるが、体色は大部分が黄色である。実は次の項が「アブラダヒ」であるので、そちらで考証する。【二〇二四年五月二十六日追記】四日前、Xの「DECO」氏より、以下の投稿を頂戴した。

   《引用開始》

突然の無礼申し訳ありません
魚の語源を調べる事を趣味としている者です
イソダヒ・アブラダヒについてですが、釣りではフエダイの事をシブダイとかシロテンとか言いますが、「アブラダイ」という人もいます
アブラダヒはフエダイではないでしょうか
またイソダヒはゴマフエダイだと推察してます

   《引用終了》

今、畔田の記載を虚心に読んでみると、一つの大きな違和感があることに気づいた。もし本種が確かにアカマンボウであるとすれば、畔田が通常のタイ類、或いは、体型が似ていて「~ダイ」の名を持つものと異なり、有意に体型が強い円形を示すことを、絶対に「厚」というレベルではなく、「圓」とするに違いないという確信であった。而して、「DECO」氏の指示されるゴマフエダイを「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの画像を見るに、アカマンボウより遙かに、こちらの方が候補足り得ると感じた。されば、同定を「ゴマフエダイ」に変更した。「DECO」氏に心から御礼申し上げるものである。

2022/12/25

畔田翠山「水族志」 コセウダヒ (コショウダイ)

 

(二三)

コセウダヒ【紀州若山】一名タノキヅラ【紀州湯淺浦】京ガレ【阿州海部郡日和佐浦】コセウゴロ【備前岡山】チシヤダヒ【筑前福間浦】クロクチ【備後四島】トモヽリ【土佐浦戶】ビンクシ【讚州八島】ビングシ【淡州都志備前兒島】テングウチハ【勢州阿曾浦】チヒロイヲ【紀州田邊】タモリ【備前兒島】エビウヲ【熊野三老津】淡州都志浦漁人云「ビンクシ」「タモリ」「コセウダヒ」同物也小ナルヲ「ビンクシ」ト云中ナルヲ「タモリ」ト云大ニナレバ「コゼウダヒ」ト云

形狀「コロダヒ」ニ似身扁口細シ唇邊微紅色ヲ帶背淡靑色ニ乄淡黃ヲ帶背ヨリ腹上ニ至リ淡黑條五六道アリ腹白色鱗細ニ乄極テ薄風乾スレハ起リテ薄キ紙屑ノ如シ背鬣刺巨ク陰陽刺アリ淡黑色ニ乄黃ヲ帶黑斑アリ背下鬣ハ本黃色ニ乄端黑色喉下翅淡黑ニ乄黃色ヲ帶黑斑アリ脇翅黃色腰下鬣本淡黑色黑斑アリテ尾ノ方ハ本黃色末黑尾劔狀ヲナシ本黃色端黑シ冬月味美也

○やぶちゃんの書き下し文

こせうだひ【紀州、若山。】 一名「たのきづら」【紀州、湯淺浦。】・「京(きやう)がれ」【阿州海部郡、日和佐浦(ひわさうら)。】・「こせうごろ」【備前、岡山。】・「ちしやだひ」【筑前、福間浦。】・「くろくち」【備後、四島。】・「ともゝり」【土佐、浦戶(うらど)。】・「びんくし」【讚州、八島。】・「びんぐし」【淡州、都志《つし》。備前、兒島。】・「てんぐうちは」【勢州、阿曾浦(あそうら)。】・「ちひろいを」【紀州、田邊。】・「たもり」【備前、兒島。】・「えびうを」【熊野、三老津(みらうづ)。】

淡州、都志浦の漁人、云はく、

『「びんくし」「たもり」「こせうだひ」、同じ物なり。小なるを、「びんくし」と云ひ、中なるを、「たもり」と云ふ。大になれば、「こぜうだひ」と云ふ。』

と。

形狀、「ころだひ」に似て、身、扁(ひらた)く、口、細し。唇の邊り、微紅色を帶ぶ。背、淡靑色にして、淡黃を帶ぶ。背より腹の上に至り、淡黑條、五、六道(だう)あり。腹、白色。鱗(うろこ)、細かにして、極めて薄く、風に乾すれば、起(おこ)りて、薄き紙屑のごとし。背鬣(せびれ)、刺、巨(おほ)きく、陰陽の刺あり。淡黑色にして、黃を帶ぶ。黑斑あり。背の下鬣は、本(もと)、黃色にして、端(はし)、黑色。喉(のど)の下翅(したびれ)、淡黑にして、黃色を帶ぶ。黑斑あり。脇翅(わきびれ)、黃色。腰の下鬣(したびれ)、本、淡黑色、黑斑ありて、尾の方(かた)は、本、黃色、末(すゑ)、黑。尾、劔狀(つるぎじやう)をなし、本、黃色、端、黑し。冬月、味、美(び)なり。

[やぶちゃん注:底本のここから。本種は特徴的な黒斑点の記述からも、また、現在も同名の標準和名を持つ、

スズキ亜目イサキ科コショウダイ属コショウダイ Plectorhinchus cinctus

である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページには、漢字表記の箇所で『胡椒鯛』・『小正だい』・『鰭白魚』・『古世宇(京俗)』を挙げられた後で、『由来・語源』の項で、昭和一三(一九三八)『年の魚類検索では、旧仮名遣いではコセウダヒ属コセウダヒだった』と前振りされた上で、これは、東京『に江戸時代からある呼び名を標準和名にしたもの』とされつつ、平成一二(二〇〇〇)『年前後までの水揚げから考えても』、『江戸時代に江戸湾(東京湾)に大型はほとんど生息していなかったと考えられる。むしろ』、『斑点や斜めに背から腹に横切る帯が目立つ若魚、幼魚が多かっただろう。この若い個体に対してつけた呼び名だと思う。とすると』、『黒く丸い斑紋からの「胡椒鯛」ではなく、小さい割りに目立つ柄をした「小姓鯛」だった可能性も捨てられない』と述べておられるのである。歴史的仮名遣では「胡椒」は「こせう」で、「小姓」は「こしやう」ではあるから、国語学的には「胡椒鯛」に分(ぶ)があり、胡椒は生薬として早く奈良時代に伝来し、平安時代には調味料としても利用されるようになり、江戸時代には饂飩(うどん)の薬味や「胡椒飯」として用いられていたりはする(ここはウィキの「コショウ」に拠った。そこには)『江戸期を通』して、実は『唐船を通じて平均』で『年間』五・七『トン』、『オランダ船を通じて』寛永一五(一六三八)『年の記録では』七十八『トン』『のコショウを輸入していた』とある)のであるが、どうも、私はこの「ぼうずコンニャク」氏の仮説を支持したい気が大いにするのである。既にして「小姓」は江戸の口語で「こしょう」と読まれていたに間違いなく、それを聴く江戸の庶民の大半は、ブラック・ペッパーの「胡椒」なんぞではなく、直ちに美少年の大名の「小姓」をこそ連想しただろうからである。

「紀州、若山」和歌山に同じ。

「たのきづら」私は「狸面」だろうと思っているが(コショウダイの白地に黒のポイントがタヌキらしく見えるように感ずるから)、不詳。★畔田は後の(三一)の「タルミ」の異名として「タキノヅラ」を『紀州田邊』採取として載せている。なお、この「タルミ」「タヌキノヅラ」は、宇井縫蔵の「紀州魚譜」では、スズキ亜目フエダイ科フエダイ属ヨコスジフエダイ Lutjanus ophuysenii (リンク先の学名「Lutjanus vitta」(斜体になっていないのはママ)はシノニム。標題の「キンセイフエダイ」は「キンセンフエダイ」の誤植かと思ったが、同書の「索引」でもそうなっていたので不審但し、同属の別種「キンセンフエダイ」Lutjanus kasmira に与えられてある)に比定されているが、同魚(「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見られたい)がタヌキに似ているとはさらさら思わない。さらに★宇井氏は同書で「タキヅラ」を、①硬骨魚綱条鰭亜綱ウナギ目ウツボ亜目ウミヘビ科Ophichthidae(和名科名では爬虫類のそれと同じになってしまうが、無論、真正の爬虫綱ウミヘビ科Hydrophiidaeとは全くの同名異名である)ウミヘビ属ホタテウミヘビ Ophichthus zophistius の異名、及び、②スズキ亜目イサキ科ヒゲダイ属ヒゲダイ Hopalogenys sennin の異名としてそれぞれ挙げている(後者については真っ黒に近い口の尖った異形でタヌキとの親和性はあるように思う。リンク先は孰れも「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の写真入りページ)。

「湯淺浦」和歌山県有田郡湯浅町の東に接する湾(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。

「京(きやう)がれ」不詳。

「阿州海部郡、日和佐浦」徳島県海部郡美波町(みなみちょう)日和佐浦

「こせうごろ」この「ごろ」は「小姓」との連語による濁音化で「ころ」→「ころだひ」で、既に注で出した、スズキ目スズキ亜目イサキ科コロダイ属コロダイ Diagramma picta であろう。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のコロダイのページを見て戴きたいが、その「由来・語源」の項に、「ころだい」という和名は「胡廬鯛」で、『「ころだい」は和歌山県での呼び名を標準和名にしたもの』とあり、『和歌山県では猪の子供を「ころ」と呼び、コロダイの稚魚にある斑紋が』『その猪の子供のものに似ているため』とあり、メインの写真の下に、幼魚の写真が二枚あるので確認されたい。コショウダイは瓜坊のそれと、それほどには似ていないけれども、目立つという点で親和性がある。「小姓コロ鯛」で私は腑に落ちる。

「ちしやだひ」チシャダイは現在もスズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシダイ Oplegnathus fasciatus の異名としてある。私は勝手に思っているのだが、この「チシヤダヒ」とは「稚者鯛」ではあるまいかと考えた。イシダイの横縞は老成するとぼやけてくる。だから、イシダイの比較的小さな個体をかく呼んだのではなかったか? それと同じように、ちんまい癖に派手な格好の「小姓鯛」と読み替えれば、よく肯けるのである。

「筑前、福間浦」福岡県福津市西福間の福間地区の沿岸

「くろくち」コショウダイは個体によっては、口唇部の直上部が黒い。

「備後、四島」当時の備後の国に属した四つの瀬戸内海の島という条件では、私は軽々に指示出来ない(例えば、知られる「大三島」は旧松山藩領であり、現在、愛媛県今治市町宮浦で、旧備後ではない)。

「ともゝり」最後まで、平家を事実上、指揮し。自ら最後に身を海底に没し去った名将平知盛。

「土佐、浦戶」高知県高知市浦戸

「びんくし」「びんぐし」「鬢櫛」。コショウダイの背鰭を喩えたものであろう。

「讚州、八島」「源平合戦」の著名な「屋島の戦い」の舞台となった、香川県高松市屋島東町に属する屋島。江戸時代までは陸から離れた島であったが、江戸時代に始まる塩田開発と干拓水田は、後の時代に埋め立てられ、陸続きとなった。但し、相引川を瀬戸内海に繋がる「水路」と見做した場合には、四国本島と切り離されているという見方も出来る。海上保安庁では屋島を「島」と定めているが、現在の法定区分では高松市を形成する四国本島の扱いである(後半説明は当該ウィキに拠った)。

「淡州、都志」兵庫県洲本市五色町(ごしきちょう)都志

「備前、兒島」岡山県岡山市中区の南の見る影もなく変貌してしまった児島湾沿岸

「てんぐうちは」背鰭がばっと立ったのと、ツー・トン・カラーに見える魚体は、確かに「天狗の団扇」とミミクリーである。

「勢州、阿曾浦」三重県度会郡南伊勢町(ちょう)阿曽浦

「ちひろいを」「千尋魚」であろうが、意味不詳。大きくもならないし、棲息するのも磯や近海の沿岸である。

「たもり」「田守」で、コショウダイの漁期の始まりが稲の稔りの秋から始まることに由来する農事異名であろう。

「えびうを」「海老魚」だろう。思うに、背鰭の棘鰭などを海老の外骨格のトゲトゲの感じに擬えたものであろう。

「熊野、三老津」和歌山県すさみ町(ちょう)見老津(みろづ)

「陰陽の刺」棘部が黒白の斑になっているからか、或いは、棘の先が白い箇所では、よく見えずにうっかり刺されて痛い目を受けるのを、「陰」に喩えているのかも知れない。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 狐貝 / ザルガイ或いはナガザル

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここ。画像はトリミングした。左丁に、『以上筑前産』と条立てし、後に『筑前隱士君ヨリ小澤弾正被送予乞之眞寫』(筑前の隠士君(いんしくん:匿名化してある)より小澤弾正え(へ)送らる。予、之れを乞ひて眞寫す。)と記す。十二個体(腹足類一種以外は斧足類)の見開き図。]

 

Kitunegai_20221225103801

 

「百貝圖」

   狐貝

 

[やぶちゃん注:実は、「狐貝」の名は、先行する「蛤蚌類 狐貝 / モシオガイ・ウスモシオ?」が挙がっているが、ご覧の通り、全くの別種であるので参考にならない。

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ザルガイ超科ザルガイ科ザルガイ亜科ザルガイ属ザルガイ Vasticardium burchardi

或いは、近縁種の、

ナガザルVasticardium enode

に比定してよいだろう。吉良図鑑によれば、前者が強い放射肋が四十三内外、後者が三十九内外とある。この向きだけでは、本個体の肋数は正確には数えられないが、目の詰まりがやや空いて見えるので後者の可能性があるかも知れない。和名は形状から笊貝である。

「百貝圖」何度も出てくるが、再掲しておくと、寛保元(一七四一)年の序を持つ「貝藻塩草」という本に、「百介図」というのが含まれており、介百品の着色図が載る。小倉百人一首の歌人に貝を当てたものという(磯野直秀先生の論文「日本博物学史覚え書」(『慶應義塾大学日吉紀要』(第三十号・二〇〇一年刊・「慶應義塾大学学術情報リポジトリ」のこちらからダウン・ロード可能)に拠った)。「狐貝」の異名は残っていないが、形状が狐の頭に似て、黄褐色の色彩から、腑には落ちる。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 蛤介 / ハマグリ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここ。画像はトリミングしてある。左丁に、『以上筑前産』と条立てし、後に『筑前隱士君ヨリ小澤弾正被送予乞之眞寫』(筑前の隠士君(いんしくん:匿名化してある)より小澤弾正え(へ)送らる。予、之れを乞ひて眞寫す。)と記す。十二個体(腹足類一種以外は斧足類)の見開き図。]

 

Hamaguri_20221225093901

 

蛤介

 

[やぶちゃん注:斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ Meretrix lusoriaとしておくが、図も小さく、真剣に考える気はしない。先行する正統なそれは、「蛤蚌類 蛤蜊(ハマグリ) / ハマグリ(四個体)・チョウセンハマグリ(三個体)」で、他に、「蛤蚌類 蛤(ハマクリ・竒品) / ハマグリ(広義或いは同定不能)の左殻の中央部を人為的に三角上に状にカットしたものか?」がある。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 サ〻ラ貝 / タマキガイ属

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここ。画像はトリミングしてある。左丁に、『以上筑前産』と条立てし、後に『筑前隱士君ヨリ小澤弾正被送予乞之眞寫』(筑前の隠士君(いんしくん:匿名化してある)より小澤弾正え(へ)送らる。予、之れを乞ひて眞寫す。)と記す。十二個体(腹足類一種以外は斧足類)の見開き図。]

 

Samiragai

 

さ〻ら貝

 

[やぶちゃん注:この「ササラガイ」という和名は「簓貝」で、辞書では、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科ワスレガイ亜科ワスレガイ属ワスレガイ Cyclosunetta menstrualis

の古名とする。これは放射肋を民俗芸能の打楽器の一つで、短冊型の薄い板を数十枚合わせて、その上端をひもでつづり合わせた「ささらこ」「びんざさら」「ささら木」を貝表面の放射肋に擬えたものと思われるが、本図の放射肋はワスレガイのそれよりも、遙かに明確に浮き出ていて、まさにくっきりとした「ささら」状であるから、ワスレガイではない。

 こうした綺麗な円形を成し、明瞭な放射肋と成長線を持ち、殻表が栗色を呈し、しかも、右の図のように、腹縁の内側が放射肋端に応じるように、強く内面の歯列がはっきりと見えるのは、

原鰓亜綱フネガイ目タマキガイ科タマキガイ属 Glycymeris

によく一致する。同属には見た目がよく似た複数の種があるが、タイプ種は、

タマキガイ Glycymeris aspersa

で、同種は歯列の数が多く、吉良図鑑では四十が刻まれるとある。本図は四十以上は描かれてあるので、それと同定は出来にくいが、似ている。また、色彩からは、本属では大型に属する(ということは、よく判らぬが、歯列数が多いかも知れない)、

ビロードタマキ Glycymeris pilsbryi

があり、また、殻表が茶褐色の強い個体もある、

ベニグリ Glycymeris rotunda

も候補となり得よう。孰れも筑前で採取されたとして、分布上の問題はない。]

2022/12/24

畔田翠山「水族志」 ヘダヒ (ヘダイ)

 

(二二)

ヘダヒ 一名シラダヒ マナジ【勢州慥柄浦】マキダヒ【熊野大島】

勢州阿曾浦漁人云、「マナジ」又「マキ」ト呼。長乄ハ「シラタヒ」ト稱ス形狀「チヌ」ニ似テ頭隆起シ口圓ク乄不ㇾ尖腹白色ニ乄淡黑條アリ背淡靑色淡黑條アリ眼ヨリ尾ニ至リ條ニ淡黃ヲ帶尾黃色淡黑ヲ帶脇翅淡黑色黃ヲ帶背鬣亦同色ニ乄端微黑色腰下翅黃色淡黑ヲ帶腹下翅黃色長乄ハ色淺クナル大者三尺許シマダヒ 形狀「ヘダヒ」ニ同乄背淡靑白色腹白色ニ乄背ヨリ腹上ニ至リ淡黑斑條ヲナス尾鬣淡黑黃色腹下翅黃色日東魚譜曰縞鯛似ㇾ鯛赤褐色身上有斜條故名即別種ノ「シマダヒ」也

○やぶちゃんの書き下し文

へだひ 一名「しらだひ」・「まなじ」【勢州、慥柄浦(たしからうら)。】・「まきだひ」【熊野、大島。】

勢州、阿曾浦(あそうら)の漁人、云はく、「まなじ」、又、「まき」と呼ぶ。長じては、「しらたひ」と稱す。形狀、「ちぬ」に似て、頭(かしら)、隆起し、口、圓(まる)くして、尖(とが)らず。腹、白色にして淡黑條あり。背、淡靑色、淡黑條あり。眼より尾に至り、條に淡黃を帶ぶ。尾、黃色、淡黑を帶ぶ。脇翅(わきびれ)、淡黑色、黃を帶ぶ。背鬣(せびれ)、亦、同色にして、端(はし)、微黑色。腰の下翅(したびれ)、黃色、淡黑を帶ぶ。腹の下翅、黃色。長じては、色、淺くなる。大は、三尺許り。

しまだひ 形狀、「へだひ」に同じくして、背、淡靑白色。腹、白色にして、背より腹上に至り、淡黑斑條をなす。尾鬣(をびれ)、淡黑、黃色。腹の下翅、黃色。「日東魚譜」に曰はく、『縞鯛、鯛に似て、赤褐色。身の上に斜條有り。故に名づく。』と。即ち、別種の「しまだひ」なり。

[やぶちゃん注:底本のここ。「ヘダヒ」をそのまま現在の標準和名に当てるなら、

条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目タイ科ヘダイ亜科ヘダイ属ヘダイ Rhabdosargus sarba

となる。頭部が隆起していて、口が丸く、尖らないという特徴はダイによく一致する。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの画像を見られたいが、畔田が細かく描写している体部各部の色(特に部分部分の僅かな黄色)も、だいたい似ていると私には思われる。ただ、大きい個体を「三尺」(九十一センチメートル弱)とするのは、ちょっとヘダイにしては大き過ぎる(ネットでは大きくてもせいぜい六十センチ超である)。但し、私は先行する『畔田翠山「水族志」 メチ(ヘダイ)』でヘダイを同定候補としている(しかし、「メチ」の畔田の記載は頗る貧しい)。そこでも注したが、畔田は必ずしも厳密な形での分類で本書を記載してはおらず、寧ろ、同種であっても色彩や模様の異なる個体変異を別に項立てしているので、重複はありである。

「しらだひ」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「地方名・市場名」の項に「シラタイ」とあり、『和歌山県田辺・周参見・太地・塩屋・白崎』とあり、また、「シロダイ」として『神奈川県小田原市など、静岡県焼津市・吉田町・御前崎町、鹿児島県種子島』ともある。

「勢州、慥柄浦」三重県度会郡南伊勢町慥柄浦(グーグル・マップ・データ。以下無表示は同じ)。

「まなじ」同前で「マナジ」があり、『三重県鳥羽市安楽島・志摩市和具町・尾鷲、和歌山県太地・三輪崎』とある。

「まきだひ」同前で「マキダイ」があり、ここでは参考資料に宇井縫蔵「紀州魚譜」とともに本「水族志」が挙がっている。国立国会図書館デジタルコレクションの宇井縫蔵「紀州魚譜」では、ここで、宇井氏も本記載をヘダイに同定していることが判る。なお、そこでは体長を『一尺内外』としており、それが一般的な成体の標準値である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページでも全長を三十五センチメートル前後としておられる。

「阿曾浦」三重県度会郡南伊勢町阿曽浦。慥柄浦の贄浦を隔てた対岸に当たる。

「日東魚譜」は江戸の町医神田玄泉(生没年・出身地不詳。玄仙とも。他の著作として「本草考」「霊枢経註」「痘疹口訣」などの医書がある)の全八巻から成る本邦(「日東」とは日本の別称)最古の魚譜とされるもので、魚介類の形状・方言・気味・良毒・主治・効能などを解説する。序文には「享保丙辰歳二月上旬」とある(享保二一(一七三六)年。この年に元文に改元)。但し、幾つかの版や写本があって内容も若干異なっており、最古は享保九(一七一九)年で、一般に知られる版は享保一六(一七三一)年に書かれたものである。私はカテゴリ『神田玄泉「日東魚譜」』を作ったものの、挿絵が今一つ私の趣味に合わないので、お恥ずかしながら、永く放置しっぱなしである。畔田の引用するそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの写本の「巻二」のここの「※間鯛」(しまたい:下図の右手端のキャプションの読みによる。「※」は「絲」の異体字の「グリフウィキ」のこれ)の頭の部分である。

「しまだひ」現行では「縞鯛」はスズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシダイ Oplegnathus fasciatus の幼魚の通称であるが、その『形狀』は『「へだひ」に同じくし』ないし、『背、淡靑白色。腹、白色にして、背より腹上に至り、淡黑斑條をなす。尾鬣(をびれ)、淡黑、黃色。腹の下翅、黃色』というのも、イシダイの様態とは一致しない。また、現行ではヘダイの異名に「シマダイ」はなく、「日東魚譜」のそれもヘダイではない。何故、ここに畔田がこの記載を入れ込んだのか、理解に苦しむ。「日東魚譜」の『縞鯛、鯛に似て、赤褐色。身の上に斜條有り。故に名づく』と言うのは、そこに載る図では「赤褐色」を入れておらず、不審である。「赤褐色」を成し、明瞭な「斜條」があるのは、スズキ亜目タカノハダイ科タカノハダイ属タカノハダイ Cheilodactylus zonatus が真っ先に浮ぶが、ヘダイとは取り違えようがない魚で、ますます不審である。]

明恵上人夢記 100

 

100

一、同廿九日、後夜(ごや)、坐禪す。禪中の好相(かうざう)に、佛光の時、右方に續松(ついまつ)の火の如き火聚(くわじゆ)あり。前に、玉(ぎよく)の如く、微妙(みみやう)の光聚(かうじゆ)あり。左方に、一尺、二尺の光明、充滿せり。音(こゑ)、有りて云はく、「此(こ)は『光明眞言(かうみやうしんごん)』也。」。心に思はく、『此の光明の躰(てい)を「光明眞言」と云ふ也。本文(ほんもん)と符合す。之を祕すべし。』。

[やぶちゃん注:既に注した通り、承久二(一二二〇)年説をとる。なお、河合隼雄「明惠 夢に生きる」(京都松柏社一九八七年刊)では、『承久二年七月二十九日、明恵は禅中に好相を得る。これは『夢記』にも記載されているが、『冥感伝』の冒頭に、より詳しく述べられている。そちらの方から引用してみよう』(二七六ページ)とあった。「冥感伝」(「華厳仏光三昧冥感伝」)は原文をネットで見ることは出来ないので、河合氏の引用部を概ね恣意的に正字化して以下に示す。一部に句読点・記号を追加。変更し、読みも補足した。

   *

問ふ、「何を以て、此光明眞言の、此の三昧に相應せる眞言なるを知るや。」。答ふ、「談ずること輯(たやす)からずと雖(いへど)も、冥(ひそか)に大聖の加被有り。予、承久二年夏の比(ころ)、百餘日、此の三昧を修するに、同しき七月二十九日の初夜、禪中に好相を得たり。すなはち、我が前に白き圓光有り、其の形、白玉の如し。徑(わたり)、一尺許(ばか)りなり。左方に、一尺、二尺、三尺許りの白色の光明有りて、充滿す。右方に、火聚の如き光明、有り。音(こゑ)有りて、告げて曰はく、『此は是れ、光明眞言なり。』と。出觀(しゆつくわん)の時、思惟(しゐ)すらく、甚だ深意あり、火聚の如き光明は、惡趣を照曜(せうえう)する光明なり。別本の儀軌に、いはゆる「火曜(くわえう)の光明有りて、惡趣を滅す。」とは、卽ち、此の義なり。」と云々。

   *

既に述べた通り、以下で河合氏は、『この禅中好相は、はっきりと承久二年と書かれているが、『夢記』のこの記録とのつながりで』(中略)、『他の一群の夢が承久二年のものと断定できるのである』(ここが承久二年のものとされる根拠である)。『ここに「此の三昧」と述べられているのが「仏光三昧観」であり、この好相を明恵は仏光三昧観の基礎づけのひとつと考えたのである。彼の見た「光明」は「悪趣を滅す」ものとされているが、このような光明はまた、まさに華厳の世界という感じを与える』(中略)。『明恵は「仏光三昧観」を修していて、このような素晴らしい光の世界に接したのである』。『このような「光」のヴィジョンは、最近とみに報告されるようになった臨死体験者の光の体験を想起させるものがある』と述べておられる。非常に首肯出来る見解である。

「同廿九日」「99」を受けて、七月のそれでとる。但し、以下の「後夜」という言い方から考えれば、実際には承久二年七月三十日(同月は大の月)未明である。

「後夜」六時の一つ。寅の刻(午前四時頃)。夜半過ぎから夜明け前の時間帯を指し、その暁の折りに行う勤行をも指す。

「續松」「つぎまつ」の音変化で、松明(たいまつ)のこと。

「光明眞言」「真言陀羅尼」の内でも最も有名なものの一つ。「不空羂索毘盧遮那仏大灌頂光真言経」に出ている。「オン阿謨伽尾盧左曩摩訶母捺ラ 麽ニ鉢納 麽入バラ鉢ラ韈タ野吽」 (おんあぼぎゃべいろしゃのうまかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたやうん) がそれである。この光明を誦すると、仏の光明を得て、諸々の罪報を免れるので、この名がある。また、この真言を誦し、土砂に加持して、死骸の上に散じると、その加持力によって諸々の罪障を除いて、死者を西方安楽国土に往生させることができるとされる。天台宗や真言宗で法要や施餓鬼などの儀式に用いる。光明真言を誦する儀式を光明供 (こうみょうく) という(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

 

□やぶちゃん現代語訳

 七月二十九日の後夜(ごや)、座禅した。その座禅の最中、こんな夢を見た――

 有難い映像の内に、仏の光が発し、右の方に松明の火の如き、火の塊りがある。

 その前に、玉(ぎょく)の如く、微妙(みみょう)の光の塊りがある。

 左の方には、一尺、二尺の光明が、充満していた。

 声があって言うことには、

「これは『光明真言』である。」

と。

 その時、即座に、心に思うた。

『この光明の体(てい)を『光明眞言」というのだ! 経典の本文(ほんもん)と確かに一致する! これは、秘すべきことだ!』

と。

 

明恵上人夢記 99

99

一、此の廿八日以前の夢に、板木に「彌勒經」の、二、三枚なるを、押し付けたり。經を印する時の如く、押し付けたり。『此(これ)を放ちて讀むべし。』と思ふ。覺めて後に、『「八名經(はちみやうきやう)」を讀むべきか。』と思ふ處、『後日に此の式を撰じたる以後、佛前に於いて祈請すべし。可なりや不(いな)や。』の由、之を思ふ處、案ずれば、此の夢は、卽ち、彌勒の之を印可(いんか)し給ふ夢想也。然りといへども、尙々、諸人にも志(こころざし)有るものには、之を授くべし。仍(よ)りて、大聖(たいしやう)之(の)御知見、御許し有るべき由一つを、同廿九日の朝、佛前に於いて所作之時、精誠に祈請す。其の時、所作の中(うち)に、少し、眠り入る心地す。幻の如くして、一つの大きなる門有るを見る。年來(としごろ)、人、通はず。一人の長(たけたか)き人、有り。「之(これ)に勅(ちよく)して、開くべき由。」を仰(おほ)す。一人【童子の心地す。】有りて、來りて、此の大きなる門を開く。『往昔(そのかみ)より、人、通はずして、久しく成りぬる門を、今、許可(こか)有りて、諸人、此(これ)より之(ここ)に出入すべし。』と思ふ。其の夕(ゆふべ)、道場に入る時、思ふに、此、卽ち、本尊之許可也。仍(よ)りて、一七日(ひとなぬか)許りと思ふに、此の相を得て、佛前に置く。式を取りて出で了(をは)んぬ【例時之(の)本尊に料理し奉り、釋迦・彌勒の御前にて祈請し奉る也。】。

[やぶちゃん注:これも日付から前にある「97」「98」との連続性は明らかである。既に述べた通り、承久二(一二二〇)年説をとる。さて、本記載は、やや複雑である。まず、

①以前に見た夢についての記載(時間が経って意識が論理的に整序してしまった感は強い)

②その直後に覚醒して考えた分析

③その後に修法を行ったが、その途中、睡眠に似た状態に入ったような感じになって見た夢

が語れるという構造を持つ。最初に記された夢はちょっと意味が判り難い。――「弥勒経」(未来仏である弥勒菩薩について述べた経典の総称で、特に竺法護訳「弥勒下生(げしょう)経」、鳩摩羅什訳「弥勒大成仏経」、沮渠京声(そきょけいせい)訳「弥勒上生経」を『弥勒三部経』と称する)の板木に印刷するために紙を押し付けた――というのではなく、何の板木であるかは判らないが、それにあたかも摺り版をするように、既に書かれてしまっている「弥勒経」の、二、三枚の経文を何故か押しつけた――というのである。しかも、そうしながら、夢の中の明恵は――『これを剥がして「弥勒経」を読むのがよい、正しい。』と確信を持っているというのである。これは思うに、弥勒菩薩の真の在り方が世上に理解されていないこと、そこで私が弥勒本来の教えを、まっさらの版木に押しつけて、真の完全唯一の「弥勒経」を作り上げ、衆生にそれを示すのがよいと明恵が思い至ったことを意味しているように私は考えた。

「八名經」底本の注に、『八名は神呪の徳真名。八名呪を受ける者は後代の威徳を得ると説く』とある。

「印可」師が、その道に熟達した弟子に与える許可のこと。「印定許可」「印信認可」などの略。所謂、「お墨付き」のことである。

「料理」物事を整え修(おさ)めること。十全に処理すること。]

 

□やぶちゃん現代語訳

99

 七月二十八日以前にこんな夢を見た――

 板木(はんぎ)に、「弥勒経」を記した、二、三枚の一部を、私は押しつけている。あたかも経を摺り版する時のように、経自体を押しつけているのである。

『これを剥がして読むのがよい。』

と夢の中の私は思っていた。

――さて、その夢から覚醒した後(のち)に、私は即座に、

『「八名経」を讀むべきか。』

と思ったのだが、

『後日に、この式法を正しく選んで以後、仏前に於いて、祈請こととしようか?……さて、しかし、それでよいか、否か?』

といった逡巡をし、しきりに思い迷ったのではあるが、よく考えてみると、この夢は、まさに弥勒菩薩御自身が、それを私に印可なされた夢想であったのだ!

 しかし……そうは思ったものの、

『……なおなお、諸々の人々にも、志しある者には、弥勒菩薩は、これを授かるるに違いない。いやいや、大いなる聖人の御(おん)知見は、それを当然のこととしてお許しになられるに違いない。』

という、もやもやした感覚を抱きつつも、翌日の同月二十九日の朝、佛前に於いて法事を修(しゅ)する時、精魂を傾けて祈請をした。その時、修法の途中に、少し、眠りに入った心地がし、こんな夢を見た――

 幻のように、一つの大きな門があるのを見た。そこは、見たところ、長い年月(としつき)の間、人が通っていない場所なのであった。

 一人の背の高い人が、そこにおられた。

「ここに勅(ちょく)して、この門を開(ひら)くべし。」

という由(よし)を仰せになる。

 そこに一人――童子姿であったように記憶する――があって、来たって、この大いなる門を開いた。

『遙かな昔より、人が通はずに、久しくなった、この門を、今、許可(こか)あって、諸々の人々が、これより以降、ここに出入りすることになるに違いない。』

と思った。

――さて、その夢から覚醒し、その日の夕べのことである。道場に入る際、ふと思った。

『これは! 則ち、本尊の許可(こか)であったのだ!』

と。

 それより、七日(なのか)ばかりの間、それを思念し続けたところ、この真正なる相であるという確信を得て、仏前に、その思いを心に念じ捧げた。式を終えて、道場を出で、私の惑いは、きれいさっぱり消え終わっていたのである。[明恵注:以上は、見た目は、何時もの通りの仕儀で行い、本尊に十全に洩れなく法事をし奉った上、釈迦如来と弥勒菩薩の御前(おんまえ)にて祈請し奉ったものであった。]

 

2022/12/23

明恵上人夢記 98

 

98

  同七月より、一向に佛光觀を修(しゆ)す。

一、廿八日、末法尓觀(まつぽふにくわん)の時、禪中、好相(かうさう)の中(うち)に、我が身、一院(いちゐん)の御子(みこ)と爲(な)る【如來の家に生るゝ也。】。

[やぶちゃん注:「97」の注で示した通り、承久二(一二二〇)年説をとる。特にこれは、明らかに前の「六月」で始まる「97」と連続するものと考えてよく、そこに有意に共通する心理が認められると考えてよい。

「好相」「相好(さうがう(そうごう))」に同じい。仏の身体に備わっている三十二の相と八十種の特徴の総称。但し、訳では有難い映像と意訳した。

「末法尓觀」よく判らないが、「尓」は「その・それ」の指示語、「然り・そうである」の意であるから、末法であることをまずは正面から仮に認めることから始める観想法なのであろう。

「一院」底本の注に、『後鳥羽院か』とある。]

 

□やぶちゃん現代語訳

98

 同年七月より、専心して仏光観を修(しゅ)した。

 その七月二十八日のこと、その時は末法尓観(まつぽうにかん)を修していたのであるが、その禅の最中(さなか)、非常に好ましい映像の中で、私の身が、とある高貴な一りの院(いん)の御子(みこ)として転生(てんしょう)したのであった。

 ――付け加えて言い換えるならば、既にして「如来の家」に生まれ変わったという意味なのである。

 

明恵上人夢記 97

 

97

一、六月、天より一つの棹(さを)、埀れ下(くだ)る。其の端一丈許りは繩也。予、之を取るに、其の末は、晴天に屬して、之に付く。五十二位(こじふにゐ)に分別すと云々。又、人、月性房(げつしやうばう)、有りて云はく、「東大寺の大佛、年來(としごろ)思へるに似ず、小さき佛也。又、片(かた)つ方(かた)に、金(あかがね)、薄くして、土の躰(てい)、現ぜり。『下を土にて造れるが、顯(あらは)る。』と覺ゆ。予、『諸人(しよにん)に勸進して、鑄(ゐ)奉らむ。』と欲す。直ちに、『諸人之(の)依用(えゆう)も不定(ふぢやう)に思ひて、結構せず』と云々【同夜の夢也。】。

[やぶちゃん注:かなり強い象徴的な同じ夜に見た別な夢二種である。「六月」とあるが、底本の記載順列に疑問があるため、時制推定は不能。「84」の私の冒頭注を参照されたい。但し、「95」の河合速雄氏説に従うなら、承久二(一二二〇)年となる。而して河合氏は「明恵 夢に生きる」の276ページで、この夢を取り上げ、明恵は彼の別な書「冥感伝」で、この夢の解釈を試みているとあった。この「冥感伝」とは、諸論文を参看するに、正しくは「華厳仏光三昧冥感伝」で明恵が承久三年十一月九日に完成させた「華厳仏光三昧観秘宝蔵」の一部であることが判っていることから、河合氏は『「夢記」とのつながりで』、この前後の『他の一群が承久二年のものと断定できるのである』と述べておられる。されば、ここ以降では承久二年説を既定値として示すこととする。

「一丈」三・〇三メートル。

「五十二位」菩薩が仏果に至るまでの修行の段階を五十二の位に分けたもの。「十信」・「十住」・「十行」・「十回向」・「十地」及び「等覚」・「妙覚」を合わせたもの。「十信」から「十回向」までは未だ凡夫であり、「十地」の「初地」以上から聖者の位へと移り、「等覚」で仏と等しい境地となるとされる(小学館「デジタル大辞泉」に拠った)。

「月性房」不詳。

「依用」「拠り所とする対象」を指す。]

 

□やぶちゃん現代語訳

97

 六月に、こんな二つの夢を見た――

 まず、その一。

 天から、一つの「棹(さお)」が垂れ下(くだ)ってくる。

 その端の一丈ばかりは、棹ではなく、縄となっている。

 私が、これを取ったところが、その棹の高い末の部分は、晴天に溶け合って、青空に属しており、私は、その蒼穹へと一気に就いた。

 それは確かに「五十二位」に分別されている階梯そのものを一気に昇った……

 また、その二。

 かの人――月性房である――が、在って、私に言うことに、

「東大寺の大仏というのは、年来(としごろ)思い続けてきたのに似ず、なんだか、小さい仏(ほとけ)なのだ! また、その仏像の片側は、赤銅(あかがね)が薄くて、土のような様態を現(げん)じているのだ! 俺は、

『この仏像、下の部分を、金属なんぞではなくって、土で造ってあることが、露見したぞッツ!』

と感じたのだ! そこで、我れは、

『諸人(しょにん)に勸進して、改めて、鑄(い)奉ろうぞ!』

と欲した。が、しかし! いや! すぐに思い直したんだ!

『諸人をよりどころにするというのも、これ、一定せず、頼りないぞッツ!』

と思いなおして、

『やはりよろしくないッツ!』と……」

 さても――そうさ、この二つは同じ夜に見た夢なのであったよ。

 

明恵上人夢記 96

 

96

一、此の觀法の式を撰(せん)ずる間、夜々、好(よ)き夢、有り。常に貴人之寵愛を蒙ると云々。其の中に未だ撰ぜざる以前なり。

[やぶちゃん注:底本の記載順列に疑問があるため、時制推定は不能。「84」の私の冒頭注を参照されたい。但し、「95」の河合速雄氏説に従うなら、承久二(一二二〇)年となる。

 ここでは、彼が、ある観想法を選んだ後よりも、それを『どれを今度(このたび)の観想法にしようか?』と悩んでいる時に限って、寧ろ、不思議に素敵な夢を見たよなぁ、と感慨しているような感じであろうか。]

 

□やぶちゃん現代語訳

96

 今、現在、私が行っている観想法をまだ「選ぼう」と思案している間に、毎夜、良き夢を見た。それは、どれも常に、優れたある高貴な方から寵愛を受けるといった夢で……

……いや……まだ、この観想法に決定(けつじょう)する以前の時期にこそ、私は、その良き夢を見ていたのであったなぁ。

明恵上人夢記 95

 

95

一、夜、夢に、五、六人の女房、來り、親近して予を尊重す。此(かく)の如き夢想、多々也。後日、記せるが故に、分明ならずと云々。

 前の夢を翻(ほん)せる也。

[やぶちゃん注:底本の記載順列に疑問があるため、時制推定は不能。「84」の私の冒頭注を参照されたい。但し、河合速雄氏は「明恵 夢を生きる」(204ページ)で、この夢を「89」(氏は「善妙の夢」として最重要の夢の一つとされ、詳細な分析をなさっている。それは「89」でも一部を引用してある)の『「善妙の夢」に続いて、同じく承久二』(一二二〇)『年七月頃に見たとする夢と推定される夢』として挙げておられ、さらにクレジットが推定できる「76」(樋口の女房が池に飛び込むも上がってくると一切濡れていないという夢)を直後に引用してある。

「翻(ほん)せる」これは「うつしかえる・うつしとる」の意であろう。]

 

□やぶちゃん現代語訳

95

 ある夜の夢に――

 五、六人の女房がやって来て、いかにも親しく近侍して、私を尊重すること頻り……

といったような同内容の夢想が、私には、実は、甚だ多くある。

 私はそれを後日に書き記しているため、実は、その夢の記憶は朧げになってしまっていて、

「分明ではない」と言ったような記載ばかりが残っている……

 これは、前の夢を私の心が、何遍も繰り返し映し撮って、再現していることに他ならないのである。

 

譚海 卷之五 下總印旛沼御埋立幷江戶千川上水の事

 

○同時、總州印馬沼[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]を埋て、新田にひらき、和州金嶺山を掘(ほり)て、金(きん)をとり、百姓方よりは、持高百石に付、銀二拾五匁づつ、五ケ年上納、江戶町家よりは、居宅壹間に付、銀三匁づつ、五ケ年上納事(じやうなふのこと)、仰付られけるが、浚明院公方樣薨去に付、此事、停止(ちやうじ)にせられたり。金峯山などは、よほど金掘の小屋、山中に出來(いでき)て、金掘にとり懸(かかり)たる程の事と、いへり。印馬沼は、三、四年以前より、已に埋立に及びて、官の金を費せしも、餘程なる事、といへり。當時、駒込の千川上水を、再び興(おこ)し、ひかれて、本鄕より下谷・淺草に到るまで、地中に竹樋(たけとひ)を通し、新(あらた)なる井戶を、其道路に拵へ、年々、水役銀、上納に及びけるが、是も事行れず、停止に及(および)たり。此上、水遠き所より來(きた)る故、水の到りかぬる所も儘有(ままあり)、徒(いたづら)に新井戶を、もふけたるばかりにて、水役《みづやく》上納せしかば、迷惑に及ぶ所、おほし、といへり。天明二年の頃より、興し行(おこなは)れたる事なりとぞ。

[やぶちゃん注:「同時」前話を指す。天明年間に老中田沼意次の時に干拓計画がなされ、工程の三分の二まで進捗したが、前話の主題である天明六(一七八六)年七月の大洪水と、田沼の失脚(同年八月)により、中断された。

「浚明院公方樣薨去」「浚明院(しゆんめいゐん)」は徳川家治の諡名。は天明六(一七八六)年八月二十五日に享年五十で亡くなった。死因は脚気衝心とされる。

「千川上水」「玉川上水」を水源とし、境橋(現在の東京都西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近。この中央辺り。グーグル・マップ・データ)から、江戸城の城北地域へ流れた総延長約二十二キロメートルに及んだ上水用水路「江戸の六上水」の一つであった。]

甲子夜話卷之七 8 信長の匾額

[やぶちゃん注:今回は特異的に鍵括弧を用いて読み易くし、句読点も変更・追加した。また、底本に『欄外原注。以下同』とある箇所は《 》で示した。読みも( )で歴史的仮名遣で補った。]

7-8

林氏の便房《べんばう》に揭(かかげ)たる匾額(へんがく)の畫(ぐわ)を、「何なりや。」と問しかば、「原本は織田右府【信長。】、安土城の居間に掛(かけ)おかれし額の寫(うつし)なるを、其圖を、尾州總見寺に寫傳(うつしつたへ)たりしなり。」と云(いふ)。總見寺住僧の記あり。

[やぶちゃん注:以下、漢文部分は、底本では全体が一字下げ。まず、返り点のみで示し、後で底本の訓点に従って訓読文を示す。]

此圖也者、總見寺殿贈一品大相國公近州安土之熟《「熟」、「塾」也。》、眎有ㇾ人快開胸襟、下捨片箆、傍設蚊帳、在《「在」、「左」之誤。》持直木、右擎簸箕者上也。是形我國之諺於繪事而以敎ㇾ人也。販夫知ㇾ之、牧豎識ㇾ之。不ㇾ用訓詁著矣。見者勿以ㇾ易ㇾ解忽一ㇾ諸也。儻施之於辭則曰、其爲丈夫者心體廣胖、氣宇高直、而内無諂曲外勵家業、則終能保ㇾ身也。繄相公之意、而從著至微之捷徑也。所ㇾ謂修身齊家治國平天下之道亦不ㇾ出平《「平」、「乎」之誤。》昰《「昰」、「是」古文。》矣。厥曾孫織田貞幹、臨寫附乎山謂曰、斯事逸乎家譜

惟𢖶ㇾ《「𢖶」、「恐」古文。》)失ㇾ旃。請作ㇾ記永貽將來奧書顚末

元祿元歲舍戌辰十二月穀日

      敕住法山當寺六世白翁々識

「元祿も、今を距(へだた)ること久(ひさし)ければ、姑(しばら)く其舊を存する爲に、此文を添(そへ)おくなり。然れども、惜(をしむ)らくは、假字文(かなじぶん)にて綴らば、能(よく)通(つう)すべきを、不解事(ふかいじ)の僧の、不成語(ふせいご)の眞文(まなぶん)にて記(しる)しぬれば、一向、分らぬことに成(なり)たり。」迚(とて)、林氏、笑ひけり。

■やぶちゃんの呟き

 まず、訓読を示す。読みは私の推定。欄外原注に従い、補正し、段落を成形した。中間部は元自体が、確かにトンデモ訓読文である。面倒なので、中に注も入れ込んだ。

   *

 此の圖は、「總見寺殿贈一品大相國公(さうけんじでんざういつぽんだいしやうこくこう)」[やぶちゃん注:織田信長の戒名。]の、近州、安土の塾(じゆく)、人、有り、胸襟を快開(かいかい)し、下(しも)に片箆(へんへい)を捨て、傍ら、蚊帳(かや)を設け、左に直木(ちよくぼく)を持ち、右に簸箕(ふき[やぶちゃん注:塵取り。])を擎(も)つ者を眎(しめ)すなり。

 是(これ)、我國の諺(ことわざ)を繪事(ゑごと)に形(な)して、而以(しかしてもつて)、人を敎ふなり。

 販夫(はんぷ[やぶちゃん注:商人(あきんど)。])も之を知り、牧豎(ぼくじゆ[やぶちゃん注:牧童。])も之を識(し)る。訓詁(くんこ)を用ひずして、著(し)れり。

 見る者、解(と)き易(やすき)を以(もつて)、諸(もろもろ)、忽(たちまち)にすこと、勿(なかれ)。

 儻(も)し、之を辭(ことば)に施さば、則ち曰(いは)ん[やぶちゃん注:ママ。]、

「其---夫(おとこ[やぶちゃん注:ママ。])は心---胖(むねをひろく)、氣---直(こゝろをぼうのやうにもち)、而----無(へらをつかず)、外---勵(かせげば)、則----保(みをあげる)なり。」。

 繄(こ)れ、相公の意(い)にして、從(したがつ)て、至微(しび)の捷徑(しやうけい)を著(あらは)すなり。

 謂所(いはゆる)、「修身・齊家・治國平天下」の道も、亦、是(ここ)に出(いで)ざる。

 厥(そ)の曾孫(そうそん)織田貞幹(をださだもと)、臨寫(りんしや)して「乎山(こざん)」に附して[やぶちゃん注:意味不明。]、謂ひて曰く、

「斯(かかる)事、『乎家譜(こかふ)』[やぶちゃん注:意味不明。]に逸(いつ)す。惟(ただ)、旃(せん[やぶちゃん注:「旗」。])を失ふを恐る。請ふ、記(き)を作(つくり)て、永く將來に胎(のこさ)ん。」

と。

 奧に顚末を書(しよ)す。

元祿元歲戌辰(ぼしん)の舍(すへ)十二月[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では既に一六八九年一月。]穀日(こくじつ[やぶちゃん注:良い日柄を言う語。])

      住法山(に)敕(せらる)當寺六世、白翁翁、識(しるす)。[やぶちゃん注:以上には返り点のみであるので、( )で送り仮名を含めて読みを当てた。]

   *

「林氏」お馴染みの静山の親友の林家第八代林述斎。

「便房」「便所」の意味もあるが、ここはプライベートな休息のための部屋の意であろう。

「尾州總見寺」愛知県名古屋市中区にある臨済宗妙心寺派の景陽山總見寺(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『初めは伊勢国大島村』(現在の三重県川越町)『に西明寺という講寺』としてあったが、であった。 元弘二/正慶元(一三三二)年、名僧『虎關師錬が景陽山神賛寺と改め後醍醐天皇の勅により官寺となり』(この僧の最後の「敕」はそれを指すのでああろう)、『後に伊勢国安國寺』『となった』。『天正の頃、廃寺になりかかっていたのを』、『織田信雄が父の菩提を弔うために清洲北市場(現在の清須市一場)に移し』、後、信長が生前中に建立した『安土摠見寺にならい』、『總見寺』『と改めた。忠嶽を開祖としたが、忠嶽は虎關を開山と仰ぎ』、『自分は』二『世となった』。慶長一六(一六一一)年の「清洲越し」(名古屋城の築城に伴う清洲から名古屋への都市移転)により、『名古屋南寺町』(現在の大須三丁目)『に移』ったとし、『信長公廟が存在する』とある。

「織田貞幹」(承応二(一六五三)年~享保六(一七二一)年)は尾張藩家老で茶人。当該ウィキによれば、『織田信次の子として誕生した。父・信次は織田信長の九男』『織田信貞の長男であったものの、病弱のため弟の貞置に家督を譲った。貞幹は叔父の旗本』『貞置の養子となり、貞置から有楽流を学んだ(尾州有楽流)』。『後に尾張藩』二『代藩主』『徳川光友に召し出されて、尾張藩士になった。始めは光友の嫡子・綱誠の小姓となり』、百『石を与えられた。次第に加増されて最終的には』四千『になった。元禄』九(一六九六)年七月、『国家老とな』った。享保三(一七一八)年七月に『隠居し、長男の長恒に家督を譲』り、『以後、巻有と号』した。『なお、山崎闇斎の弟子』『佐藤直方に朱子学を学ん』でいるとあり、墓は上記の景陽山總見寺にあるとある。

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 孕婦、厠の掃除

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。]

 

     孕婦、厠の掃除 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 

 「孕婦《はらみをんな》、厠《かはや》の掃除を、なるべく、屢《しばし》ばすると、美貌の子を生む。」と、紀州田邊邊《へん》の俗傳に云ふ。唐の沙門道世撰「諸經要集」卷八下に、「福田經」を引て曰く、『佛、自分の宿因を說《と》く、我前世於波羅奈國、近大道邊設圊厠、國中人衆得輕安者、莫ㇾ不ㇾ感ㇾ義、緣此功德、世世淸淨、累劫行道、穢染不ㇾ汚、金色晃昱、塵垢不ㇾ著、食自消化、無便利之患。〔我れ、前世、波羅奈國に於いて、大道の邊に近く、圊厠(せいし)を安設(あんせつ)す。國中の人衆(じんしゆ)にして輕安(きやうあん)を得(う)る者、義に感ぜざる無し。此の功德(くどく)により、世世、淸淨にして、累劫(るいごふ)、道を行(ぎやう)じ、穢染(ゑぜん)、汚(けが)さず、金色(こんじき)、「晃昱」(くわういく)として、塵・垢、著(つ)かず。食、自(おのづか)ら消化し、便利の患ひなし。」と。〕。是は、佛が、前世に、公衆の爲に、雪隱《せつちん》を立て、施した功德で、後身、世々、體が淸淨で、金色に光り、大小便せずに濟《すん》だ、と云ふので、「雪隱を、よく掃除すると、美貌の子を生む。」と云《いふ》のに緣が有る樣だ。

 又、田邊邊で、「妻が產の氣《け》ついた時、其夫が、氏神の社へ走り往き、手水鉢《てうづばち》を掃除し、淸水を入替《いれかへ》ると、安產す。」と云ふ。

[やぶちゃん注:「諸經要集」の本文は「大蔵経データベース」で校合した。誤字と思われる箇所や、以下の不審箇所があった。「晃昱」の部分は熊楠は「晃々」としている。実は「大蔵経データベース」の電子化での表記では「晃𦸸」なのだが(「𦸸」の字の意味は中文サイトで見ると「ヤマイモ」か)、そこを「大蔵経」活字本の画像を見ると、「晃昱」となっている。その場合、二字とも「明らか」の意であり、意味が躓かないので、特異的にそれで示した。なお、同書は、唐の律宗 (南山宗)の僧であった道世(?~六八三年)の著。全二十巻。仏教典籍の中から、特に善悪の行為と、それに対する報いについて抜き出し、三十部に分類し、整理したもの。道世には同じ範疇に属する書に、熊楠も引用している「法苑珠林」(全百巻)がある。

「福田經」は正しくは「佛說諸德福田經」。

「波羅奈國」サンスクリット語「ヴァラナシ」の漢音写。ガンジス川中流の聖都カーシ(現在のヴァーラーナシー)を中心とした古代インドの王国。その郊外に釈迦に纏わる「鹿野苑」(ろくやおん)がある。古くからの王国であったが、釈迦の時代にはコーサラ国と併合されている。

「圊厠」「圊」も厠の意(この漢字、思わず谷崎潤一郎の「厠のいろいろ」(リンク先は私のブログ正字正仮名版)を思い出した)。公衆便所。

「累劫」極めて長い時間のこと。

「穢染」煩悩に拠るけがれ。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 瓦工は不吉の營業

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここ。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。]

 

      瓦工は不吉の營業 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 

 「瓦工《ぐわこう》は不吉の營業だ。」という老人に、予、屢々、逢《おう》た。古傳に、「凡そ土程貴い物は無いに、土を一たび瓦に燒くと、瓦は、餘程、年數を經ても、復た土と成らぬ。故に、土を減《へら》すから、不吉の營業だ。」と言《いつ》た。

 熊楠按ずるに、東晉、沙門、竺曇無蘭《ぢくどんむらん》譯「佛說見正經」に、佛言、復譬如陶家埏ㇾ土爲一ㇾ器、以ㇾ火燒ㇾ之、則轉成ㇾ瓦、寧可ㇾ使瓦還作一ㇾ土乎。諸弟子皆言、實不可、土已燒煉、變ㇾ形成ㇾ瓦、不ㇾ可復使還作一ㇾ土也〔佛、言はく、「復(ま)た、譬へば、陶家の土を埏(こ)ねて器を爲(つく)るがごとし。火を以つて之れを燒けば、則ち、轉じて瓦(かはら)となる。寧(いづくん)ぞ、瓦をして、還(ふたた)び、土と作(な)さしむべけんや。」と。諸弟子、皆、言はく、「實(まこと)に不可なり。土は已に燒煉(しやうれん)し、形を變じて瓦と成れば、復た、還び、土と作さしむべからざるなり。」と。〕佛、人間の識神《たましひ》が、餓鬼や地獄に生れ替《かは》つて、替つた先を、人間へしらせに來ぬは、恰《あたか》も、瓦となった以上、土に復《もど》らぬ樣だと喩へたんぢや。

[やぶちゃん注:「佛說見正經」は「大蔵経データベース」で校合した。脱字が二ヶ所ほど認められた。「竺曇無蘭」は東晋(三一七年~四二〇年)の西域の僧。竺が姓で曇無蘭が名。多くの漢訳を成している。]

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「發句」

 

 [やぶちゃん注:底本のここ(本文冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。底本では本文は全体が二字下げになっているが、引き揚げた。また、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像は調べてみると、「少年發句集」の序の干支「丙寅」(ひのえとら)は大正一五(一九二六)年。後半の「魚眠洞」は犀星の別号。「少年發句集」の終り(286ページ)と「魚眠洞句集」の冒頭の(287ページ)が抜けているため(先ほど、脱落事実を国立国会図書館に通知し、了解・補訂作業に取り掛かる旨の返事も受け取り済み)、「ウェッジ文庫」を参考に恣意的に漢字を正字化して示した。]

 

 

    發句

 

 

 少年發句集

 

 ここに蒐《あつ》めたるは槪ね予が十六七歲のころより二十歲くらゐまでの詠草にして、そのころ投じたる加賀金澤の北國新聞より拾遺蒐集したるもののみ、その他多くあれど見るかげだになき句也、取すててうらみなし。

 

   丙寅正月八日

 

 

  新 年

 

  雜煮

何の菜のつぼみなるらん雜煮汁

 

 

  若菜

若菜籠ゆきしらじらと疊かな

 

  左義長

くろこげの餅見失ふどんどかな

 

  左義長

坂下の屋根明けてゆくどんどかな

 

  買初《かひぞめ》

買初めの紅鯛吊す炬燵かな

 

  鍬初《きははじめ》

鍬はじめ椿を折てかへりけり

 

  ゆずり葉

ゆずり葉の紅緖垂れし雪搔きにけり

[やぶちゃん注:「ゆずり葉」ユキノシタ目ユズリハ科ユズリハ属ユズリハ Daphniphyllum macropodum は、新しい葉が、古い葉と入れ替わるように出てくる性質から「親が子を育てて家が代々続いていく」ことを連想させる縁起の良い木とされ、正月の鏡餅飾りや、庭木に使われる。この場合は庭木のそれで、同種は葉の茎部分(若枝も)が赤みを帯びる。]

 

  若水《わかみづ》

若水やこぞの落葉の森閑と 

[やぶちゃん注:「若水」は、往古、立春の日に宮中の主水司(もいとりのつかさ)が天皇に奉じた神聖な水を指した。後、元日の朝、初めて井戸から水を汲んで、神棚に供えることを指すようになった。「はつみず」「あさみず」と呼ぶ地本もある。当該ウィキによれば、『若水は邪気を除くと信じられ、神棚に供えた後、その水で年神への供物や家族の食事を作ったり、口を漱いだり茶を立てたりした』。『元日の朝早く、まだ人に会わないうちに汲みに行き、もし人に会っても』、『口をきかない』きまり『であった。若水を汲むのは年男(正月の行事を取り仕切る家長の事を言い、干支の年男とは別)の役目とされたり、その家の女性が汲んだりした。若水を汲む時には「黄金の水を汲みます」など縁起の良い言葉を唱えた』。千葉県南部の『君津地方では』、『若水汲みは男性の役として女性にはまったく手を触れさせない。盆は女性、正月は男性の役といわれるように、元旦の若水汲みから』三『ヵ日、あるいは初卯の日までは』、『炊事は男性がやるべきものとし、女性には水に触れさせないようにする所が多かった』とある。]

 

    お降《さが》り

お降りやおもとの雪の消ゆるほど

[やぶちゃん注:「お降り」は、元日、又は、三が日の雪、又は、雨を言う。新年の季語。]

 

 

 

 

  行春

金魚賣出でゝ春ゆく都かな

[やぶちゃん注:前書は「ゆくはる」と訓じたい。]

 

  春の日

としよりの居眠りあさき春日かな

 

  菜の花

からし菜の花はすこしく哀しからん

[やぶちゃん注:アブラナ目アブラナ科アブラナ属セイヨウカラシナ変種カラシナ Brassica juncea var. cernua 。「芥子菜」「辛子菜」。日本への伝来は古く弥生時代ともされ、平安中期編纂になる「本草和名」や、源順の辞書「和名類聚鈔」に既に記載がある。]

 

  つゝじ

曲水の噴水となるつゝじかな

 

  春の霜

苗藁をほどく手荒れぬ別れ霜

  

  うららか

うららかな砂中のぼうふ摘みにけり

[やぶちゃん注:「ぼうふ」「防風」であるが、これは「濱防風」、則ち、セリ目セリ科ハマボウフウ属ハマボウフウ Glehnia littoralis のこと。海岸の砂地に植生し、浜風に耐えるために根茎は太く長い。葉は羽状の複葉で厚く、放射状に広がる。夏、茎の頂きに白色の小花を密集させる。香りのよい若葉は刺身の褄、根は本邦では民間薬として解熱・鎮痛に用いる。「伊勢防風」とも呼ぶ。なお、中医の正統な漢方生薬である「防風」(ボウフウ)は同じセリ科 Apiaceae ではあるが、全くの別属である、中国原産で本邦では産しないボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricata の根及び根茎由来(発汗・解熱・鎮痛・鎮痙作用を有する)であって全くの別物である。]

 

  涅槃會

おねはんの忘れ毬一つ日くれかな

 

  歸る雁

屋根石の苔土掃くや歸る雁

 

  さへずり

森をぬく枯れし一木《ひとき》や囀《さへづ》りす

[やぶちゃん注:前書の表記はママ。] 

 

  畑打

春蟬や畑打ねむき午さがり

[やぶちゃん注:「春蟬」セミ亜科ホソヒグラシ族ハルゼミ属ハルゼミ Terpnosia vacua『小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「一」』の『34 「ハルゼミ」、一名「ナワシロゼミ」とも呼ぶ。』以下の私の注を参照。]

 

  

凧のかげ夕方かけて讀書かな

[やぶちゃん注:「ウェッジ文庫」では、初句の頭が「風」になっている。致命的な誤り。]

 

  同じく

凧の尾の色紙川に吹かれけり

 

  つくし

瓦屑起せばほめく土筆かな

 

  たんぽぽ

たんぽゝの灰あびしまま咲きにけり

 

  同じく

行く春や蒲公英ひとり日に驕る

 

  蕗の薹

日だまりの茶の木のしげり蕗の薹

 

 

 

 

 

  ひるがほ

晝顏や海水浴びに土手づたひ

 

  芥子の花

しら芥子や施米の枡にほろと散る

 

  花柘榴

塗り立てのペンキの塀や花ざくろ

 

  

鮓の石雨だれの穴あきにけり

[やぶちゃん注:「鮓の石」「すしのいし」は夏の季語。所謂、関西風の押し鮓を作る時の重しにする道具石。「鮓」が既にして夏の季語である。]

 

  避暑

避暑の宿うら戶に𢌞る波白し

 

  螢

竹の葉の晝の螢を寂しめり

 

  同じく

螢くさき人の手をかぐ夕明り

[やぶちゃん注:私は嗅いだ記憶がないが、あるネット記事では「香ばしいきな粉を炒った様な」「豆類系の匂い」とあった。但し、「いい匂い」とする方は少なく、逆に「いい匂いではない」「臭い」という記載の方が多い。地方によっては、昔の言い伝えで「蛍を触ると手が腐る」という禁忌があったらしいが、これもその臭いのせいであろう。]

 

 

 

 

 

  秋の水

秋水や蛇籠にふるふえびのひげ

 

 

  冷か

ひやゝかや花屋掃く屑雨ざらし

 

  冬近

固くなる目白の糞や冬近し

 

  渡り鳥

茶どころの花つけにけり渡り鳥

 

  落し水

田から田の段々水を落しけり

 

  山茶花

庭石や山茶花こぼる冷《ひやや》かき

 

  鬼灯

ほゝづきや廓《くるわ》ちかき子の針子づれ

 

  つゆくさ

露くさのしほれて久し虫の籠

 

  

芝栗の芝もみいでて栗もなし

[やぶちゃん注:「芝栗」は「柴栗」とも書き、「山栗」とも呼び、品種改良されていない、自生原種のクリ(ブナ目ブナ科クリ属クリ Castanea crenata)で、毬(いが:葉が針状の変形したもの)のトゲトゲの初期の緑色のそれが、芝(柴)に似ているからだと私は勝手に思い込んでいる。しかも、原生種は毬も皮も剥きにくい上に、歩留まりが悪く、実部分は非常に小さい。この句はそこを洒落おとしたもの。]

 

  いなご

ちんば曳いて蝗は椽《えん》にのがれけり

 

 

 

 

 

  寒の水

寒の水寒餅ひたしたくはへぬ

[やぶちゃん注:西多寛明氏のブログ「美味しいお米を大切な貴方に! BLOG「HIRO’s Diary」2」のこちらに、古くは「大寒」の日の朝の水は一年間腐らないと言われ、容器などに入れ、納戸などに保管する家庭も多かったとあり、『そして、そのような事から昔から「寒にお餅を搗く」という風習がある』とされ、『「大寒」の水でもち米を浸漬し、そして翌日』一月二十一日『に搗く』『寒餅』を今も作っておられる。そして、それを『棒のし餅を作り』、『一年中で最も寒いこの頃に、寒風にさらして、固くなった頃、薄くお餅を切って、保存』するとある。板状にして、寒風に乾したそれはよく見かけたが、ここで犀星は「寒の水」に「寒餅」を「ひたし」て「たくはへぬ」(貯えた)とあるので、この西多氏のそれと、結果して同じことになるようには見える。ただ、私は幼少の頃、正月の余った餅(実は私は小さな頃から今も餅が嫌いである。多分、アマルガムを被せた歯がくっついて外れたのがトラウマになっているのだと思う)を、丁度、この頃、外の氷の張った水のバケツの中に沈めて、そのまま蓋をして保存していた母の姿を覚えている。私にはこの句は、あの日の母の寒そうなその仕儀を直ちに思い出させるものなのである。]

 

  

まんまるくなりたるまゝの氷なり

 

  あられ

しんとする芝居さい中あられかな

 

  あられ

水仙の芽の二三寸あられかな

 

  しぐれ

鷄頭のくろずみて立つしぐれかな

 

  

けぶり立つ雪ふり蟲や雪ならん

[やぶちゃん注:「雪ふり蟲」「雪虫」で、有翅亜綱半翅(カメムシ)目腹吻亜目アブラムシ上科 Aphidoidea に属するアブラムシ類の内、白腺物質を分泌する腺が存在するものの通称。私の『橋本多佳子句集「信濃」 昭和二十年 Ⅸ』の私の「綿虫」の注を参照されたい。降雪を知らす風物詩として知られるが、別なユキムシ(セッケイカワゲラ)もそちらで示してある。]

 

  冬の日

冬の日や餌にこぬ鯉の動かざる

 

  

あさ霜の柳むし賣呼びにけり

[やぶちゃん注:「柳むし」「柳蒸鰈(やなぎむしがれひ)」のこと。条鰭亜綱棘鰭上目カレイ目カレイ亜科カレイ科ヤナギムシガレイ属ヤナギムシガレイ Tanakius kitaharae 「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページによれば、『和名は東京、関東などでの呼び名から。柳の葉のようにほっっそりしており、蒸した身を思わせる上品な味をしたカレイという意味』とある。]

 

  霜枯れ

霜枯れや時なしぐさのさゝみどり

[やぶちゃん注:「時なしぐさ」特定の植物を指すわけではない、しかも、どうも、萩原朔太郎と室生犀星の二人が確信犯で共同造語したものであるようである。「原民喜 俳句 五句」の私の「時無草」の注を参照。犀星は大正七(一九一八)年感情詩社刊の詩集「抒情小曲集」の中間部のパート標題に「時無草」を設け、その頭に以下の詩篇を掲げている。国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該詩篇で起こす。

   *

 

 時 無 草

 

秋のひかりにみどりぐむ

ときなし草は摘みもたまふな

やさしく日南《ひなた》にのびてゆくみどり

そのゆめもつめたく

ひかりは水のほとりにしづみたり

 

ともよ ひそかにみどりぐむ

ときなし草はあはれ深ければ

そのしろき指もふれたまふな

 

   *

朔太郎の使用例は以下の二篇。

『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 濱邊』

『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 秋』

一般には犀星の造語とされているようであるが、犀星の「時無草」の初出が何時かが判らぬので何とも言えぬ。朔太郎の二篇は大正二(一九一三)年の作であるが、この年の四月頃に朔太郎は犀星と接触し、親しくなってはいる。律儀な犀星が簡単に朔太郎の造語を使うというのは、私には、ちょっと考え難い。逆に、新しいもの好きの朔太郎なら、やりかねないとは思う。]

 

  冬がまヘ

飛驒に向ふ檜みな深し冬がまヘ

 

  水涕《みづばな》

水涕や佛具をみがくたなごころ

 

  爐をひらく

柚のいろや日南《ひなた》いろづき爐をひらく

[やぶちゃん注:「時無草」に無言で読みを入れたが、ここで注する。私がこれを「ひなた」と読む根拠は、「飯田蛇笏 靈芝 明治四十年(十句)」の私の注を参照されたい。]

 

  北窓閉《とざ》す

豆柿の熟れる北窓とざしけり

[やぶちゃん注:双子葉植物綱カキノキ目カキノキ科カキノキ属マメガキ Diospyros lotus 。東北アジア原産。実は霜が降りる頃に渋が抜けることから、一部では食用にもされるが、本来は、専ら、柿渋の採取に用いられた。品種の一つに信濃柿がある。]

 

  榾《ほだ》

そのなかに芽を吹く榾のまじりけり

 

  燒芋

燒芋の固きをつゝく火箸かな

 

  さむさ

魚さげし女づれ見し寒さかな

 

  干菜

足袋と干菜とうつる障子かな

[やぶちゃん注:初句字足らずではあるが、句の狙った映像はなかなかいい。]

 

  落葉

坂下の屋根みな低き落葉かな

 

  冬木

目白籠吊せばしなる冬木かな

 

  冬すみれ

石垣のあひまに冬のすみれかな

 

  寒菊

消炭に寒菊すこし枯れにけり

 

 

 

 魚眠洞句集

 

  輕井澤九月

靑すゝき穗をぬく松のはやてかな

 

 

  同じく

きりぎりすゆさまし冷えて枕もと

 

  同じく

きりぎりす己が脛喰ふ夜寒かな

 

 

  大宮

しくるゝや飴の匂へる宮の内

 

  動坂

疊屋の薄刄をとげる夜寒かな

[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。]

 

塀きはに萠黃のしるき小春かな

 

 

  輕井澤

山ぜみの消えゆくところ幹白し

 

  草房

しの竹の夜さむに冴えて雨戶越し

 

  草房十二月

障子張るやつや吹きいでし梅の枝

 

  金澤

莖漬《くきづけ》や手もとくらがる土の塀

 

 

しくるゝや煤のよごれも竹の幹

 

  暮鳥忌三回

朝日さす忌日の硯すりにけり

[やぶちゃん注:詩人でキリスト教日本聖公会の伝道師であった山村暮鳥は大正二(一九一三)年七月、室生犀星・萩原朔太郎と三人で詩・宗教・音楽の研究を目的とするとした『人魚詩社』を設立、翌年にはその機関誌『卓上噴水』を創刊している一方、同じ大正二年の十二月には、教会の信者や知人達を中心に『新詩研究会』を結成、その機関誌『風景』には朔太郎・犀星の他、三木露風らが参加した。しかし、大正一三(一九二四)年十二月八日、宿痾であった肺結核に腸結核を併発、茨城県東茨城郡大洗町の借家「鬼坊裏(おにぼううら)別荘」(「鬼坊」は網元の屋号)で満四十歳で天に召された。私はブログ・カテゴリ「山村暮鳥全詩」で全詩篇の電子化を終っている。]

 

菊焚いて鵞鳥おどろく時雨かな

 

 

  昭和三年

元旦や山明けかゝる雪の中

 

 

お降りや新藁葺ける北の棟

 

 

世を佗ぶる屋根はトタンかお降りす

 

 

  新小梅町堀辰雄の家

梅の束もたらせてある茶棚かな

[やぶちゃん注:現在の墨田区向島一丁目・二丁目の旧町名。堀辰雄が震災後に建てて、養父と住んだ家は現在の一丁目にあった。]

 

  西新井村平木二六の家

かげろふや手欄こぼれし橋ばかり

[やぶちゃん注:「西新井村」現在の足立区西新井地区

「平木二六」(ひらきじろう(名はペン・ネーム。本名はそのまま「にろく」) 明治三六(一九〇三)年~昭和五九(一九八四)年)は詩人。東京府立三中卒。十四年上の犀星と出逢ってより、詩作を始め、大正一五(一九二六)年、数え二十四歲の時、犀星の序文・芥川龍之介の跋文を持った詩集「若冠」(じゃっかん)を発表した。同年、中野重治・堀辰雄らと詩誌『驢馬(ろば)』を創刊した。戦後は『日本未来派』同人。]

 

  白鳥省吾を訪れて

靑梅やとなりの松葉もさし交す

[やぶちゃん注:「白鳥省吾」(明治二三(一八九〇)年~昭和四八(一九七三)年)は民衆派詩人。ホイットマンの訳詩もよく知られる(私も中学時代にその訳からホイットマンにどっぷりとつかったのを思い出す)。]

 

  金澤四月盡

おそ春の雀のあたま焦げにけり

 

 

靑梅や古下駄させる垣の枝

 

  洞底別離

竹の子の皮むく我もしまらくぞ

[やぶちゃん注:前書の読み・意味ともに不明。識者の御教授を乞う。「しまらく」は「しばらく」の万葉時代の古語。]

 

          (二年七月至三年七月)

2022/12/22

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「和歌」

 

 [やぶちゃん注:底本のここ(和歌本文冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )。底本では本文は全体が二字下げになっているが、引き揚げた。]

 

 

    和 歌

 

 

 夜半の埃

 

  童

眼を病みてひねもす臥(こや)る我なれば自(みづか)らにして眼閉ぢけり

 

  夜半の埃

市中(まちなか)の夜半のほこりにうつしみの我はくらげを食ひにけるかも

 

 

  湯鯉

伊豆のくに伊東の港にじんならと言(いい)へる魚ゐて熱き溫泉(ゆ)に住む

[やぶちゃん注:「じんなら」顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区棘鰭上目スズキ系スズキ目スズキ亜目シマイサキ科コトヒキ属コトヒキ Terapon jarbua の静岡県伊東の地方名(「ぢんなら」とも表記する)こと。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見られたいが、「地方名・市場名」にこの異名が載る。海産魚で温泉水に棲息しているわけではないが、本種はリンク先にある通り、『沿岸の浅場、河川の汽水域』に棲むことから、温泉水の流れ入るそれらの附近になら、魚影を見てもおかしくはないと思ったのだが、調べたところ、ウィキに「浄ノ池特有魚類生息地」があり、そこに静岡県伊東市和田一丁目に嘗つて存在した、「国天然記念物」に指定されていた小さな池があったとし、『水面面積わずか』十五『坪のこの池は、池底より』、『温泉が常に湧出していた』『ため、水温が年間を通じ摂氏約』二十六度から二十八度の『微温湯に保たれており、淡水であるにもかかわらず』、『複数種の南方系海水魚・汽水魚が生息していたことから、特有の魚類生息地として』大正一一(一九二二)年に「国天然記念物」に『指定された』。『しかし』昭和三三(一九五八)年の『狩野川台風の影響および温泉湧出の停止等、生息域環境の変化により』、『特有の魚類は見られなくな』ったことから、昭和五七(一八六二)年に「天然記念物」『指定が解除された』とあった。さらに、『浄ノ池』『は指定解除後に埋め立てられ』、『池自体が消滅しており』二〇二〇『年現在、跡地には民間病院が建てられ』(現在はグーグル・マップ・データを見る限り、この「横山医院」のことを指しているようである。近くにストリートビューで見ると、水路が確認出来る)、『往時を偲ぶものは残されていない。しかし、かつて』浄ノ池は『家屋の密集する市街地に位置する交通の便の良い珍しい天然記念物であったことから、温泉都市伊東温泉における代表的な名所として大正期から昭和中期にかけ多くの観光客が訪れる場所であった』。『人々は池に閉じ込められた南海産の珍奇な魚類を眺め、天然のビオトープとも言える小さな水中の不思議な生物相に想いを巡らせた』とあった。されば、犀星が詠じたのは、この「浄ノ池」でのことだったと考えてよい。「今昔マップ」の一九七二年から一九八二年の「国土地理院図」内のこちらに「浄ノ池特有魚類棲息地」」表示されてあるのを見出せた。これはポイント位置から見て海岸に近いものの、内陸で、沿岸や入り江ではない。しかし、海水魚がいるということから、ここからの小流れがあって、そこを海水魚が満潮時などに遡上していたものであろう。而して、そのウィキには、そこに棲息していたとして、コトヒキを挙げているが、当時の『報告書に記載された学名、和名ともに今日とは異なる名称であるが、これが当時の』コトヒキの『シノニムであったのかを含め』、『詳しい経緯は不明である』としつつも、コトヒキを解説し、『主に本州南岸の太平洋沿岸海域で普遍的に見られることから、各地での方言名も多数ある魚であり、当地伊東では迅奈良(じんなら)と呼ばれていた。沿岸域から汽水域までを生息地とする魚であり、黒田も伊豆地方沿岸および駿河湾沿岸一帯に普通に生息する種であると報告している。大きさは通常』約十五センチメートル『以下だが』、浄ノ池には約二十一センチメートル『ほどある大型の個体が』十『尾ほど生息し、唐人川』(通りの名称などから、この伊東大川に南方から合流する小流れ(いかにも旧浄ノ池に繋がっていた雰囲気がある)がその川であると推定される)『にも小型の個体が生息しているのが確認されている。背びれのトゲを使って他の魚を刺殺すると言われ、捕獲して陸上に上げると』、『一種異様な鳴き声を発すると聞いた』報告者は、『当池で実際に試して鳴き声を確認している』。『コトヒキを含むシマイサキ科』:Terapontidae『の魚類は浮き袋に独特な発音筋を持っており』、『漁獲されたときに「グーグー」と大きな音を出す。これが標準和名「琴弾」の由来である』とある。ところが、その前に、ここに棲息していたとして、まさに文字通りの真正の「湯鯉」=スズキ目ユゴイ科ユゴイ属ユゴイ Kuhlia marginata が挙げられてあるのである。このユゴイは生活史の殆んどを河川の河口から中流域で過ごす汽水・淡水魚であるが、産卵は海で行い、稚魚・幼魚の間は海で過ごす降河回遊を行うから、名も生息地もいかにもピッタリくるのである。ウィキでは、『当地』伊東での『呼び名は他の』四『種と違い』、『標準和名と同じ湯鯉である。鱗は銀色ないし白銀色で、水中では特に明るく見えると報告書には記載されている。体長は大きいもので』、体長は約三十六センチメートル、体高は約十五~十八センチメートルで、『群遊する魚であり』『調査』された『時点で浄の池には』十五~十六『尾ほどが群れをなして泳いでいたという。また』、『唐人川にも多数遊泳していたことが確認されている』。『ユゴイはオオウナギと並ぶ』浄ノ池の『熱帯性魚類の代表的なものとして知られており、小学館発行の』「日本大百科全書」の「ユゴイ」の『項目、同じく小学館発行の』「大辞泉」、『三省堂が発行する』「大辞林」の「湯鯉」の『項目で、静岡県伊東市の浄の池が有名な生息地、生息の北限地であった等の解説がされている』とあるのである。この歌の「じんなら」はコトヒキかも知れぬが、前書は「ユゴイ」のニュアンスも感じさせる。犀星が見た魚体が判れば、幸いなのだが、贅沢は言うまい。なお、「ウェッジ文庫」は「伊東」を『伊藤』と致命的に誤っている。もう、直してあるかなぁ。]

 

 故葉(ふるかしは)

 

夕餉前しまし讀まなむ文ありて机によれば落着きにけり

 

乾干びし胡瓜の蔓に風立ちて裏山(やま)の明るみ目にしるきかな

 

葱畑の畦に溜りて降りやまぬ長雨(あめ)の光ぞ寒くなりけり

 

山家なる軒にうごかぬ白雲をまさしくは見る碓氷ねの上

 

雜草(あらくさ)の中の胡瓜のこぼれだね蔓引きければ胡瓜さがれり

 

荒松の音(と)にづる聽けば山中の道の途絕えつ歸り來にけり

 

古家の夜半の襖にかすかなる羽根搔きてゐるいなごを見たり

 

豆畑の豆の莢をばゆりゐしにつやつやし豆のまろび出にけり

 

 

 

さ庭べにむら立つ竹のさむざむと光るを見れば月はありけり

 

 屋根瓦

 

風落ちてしづくもあるか夕ばえの屋根の瓦にしまし殘れり

 

どうだんの針なす枝を交しつる寒き庭面のみづたまり見ゆ

 

しぬ竹の庭べに坐り日のうつり冬めくとのみ我はおもはむ

 

ひもすがら文かく我は心尖り叫ばむとする憂ひなるらむ

 

吾が家の煤の垂れたる軒端には寒き風吹き止まざりにけり

 

微かなる夜半の遠啼く鷄(くだかけ)に耳かたむくる我とおもへや

[やぶちゃん注:「鷄(くだかけ)」「くたかけ」とも漢字では「腐鶏」。中世以降の古語か。「ばか鶏(どり)!」で、後朝(きぬぎぬ)の別れを告げる鶏(にわとり)を罵って行った語。後にはフラットに「鶏」を指すようになった。]

 

玻璃戶越し黑き枝見ゆ斑ら葉となりつつ尖る枝見つ我は

 

  眞冬

うつしみの我のこもらふ北窓の氷はとけずかがよひにけり

 

 

  銀座

埃立つ市のくらみにひとところ氷ひかりて更けにけるかも

 

  立春

春されば丹の頰たたへつ古妻のその丹の頰はもにごりて居りけり

 

室生犀星 随筆「天馬の脚」 正規表現版 「映畫時評」

 

[やぶちゃん注:底本のここ(「一 エミール・ヤニングスの藝風」冒頭をリンクさせた)から。今まで通り、原本のルビは( )で、私が老婆心で附したものは《 》である。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、私は映画好きであること、人後に落ちぬが(因みに私のベストは、アンドレイ・タルコフスキイ全作品(サイトの「Андрей Тарковский 断章」参照)・本多猪四郎監督「ゴジラ」(サイトの「メタファーとしてのゴジラ」参照)・グレゴーリー・チュフライ監督「誓いの休暇」(カテゴリ「ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ【完】」参照)・ルイ・マル監督「鬼火」(私のサイト・ブログの名はこれによる。放置が永いが、『Alain Leroy ou le nihiliste couronné d'épine アラン・ルロワ または 茨冠せるニヒリスト~ロシェル/マルによる「鬼火」論考(未定稿)~』がある)・スチュアート・クーパー監督「兵士トーマス」(見たことがない方が多いであろう。YouTube のこちらで全篇を見ることが出来る)・マイケル・ラドフォード監督マッシモ・トロイージ主演「イル・ポスティーノ」(私のタルコフスキイ体験以後に感動した唯一の作品)である)、犀星の好みとは、殆んど全く共通するところがない(室生がここの前半で挙げるものはサイレント映画で、私はあまり無声映画時代のものは見ていないことにもよる)。にしても、犀星の映画分析はすこぶる現代的で鋭く、同時代の詩人・小説家の中では、その評は群を抜いて素晴らしい。一読の価値大いにあり!

 

 

      映畫時評

 

 

 一 エミール・ヤニングスの藝風

 

 最近の映畫界で特に私の記憶に新しい感銘となつて殘つてゐるものは、エミール・ヤニングスの「最後の人」「ヴアリヱテ」「肉體の道」及び最近封切になつた「タルチユフ」等の諸作品である。これらの諸作品はヤニングス物の特異な効果ある諸演技を物語るものである。

 今假にロナルド・コールマンやアドルフ・マンヂュウ等の流行俳優と彼とを、その藝風の幅や大きさや深さの點で比較することは、コールマンやマンヂュウの小ささを證據立てる以外に、殆どヤニングスの敵國は全世界に一人として存在してゐないと云つてよい位である。殆ど古今獨步の大味であり映畫界切つての怪物であることは、恐らくその演技や藝風の重厚なる新鮮と近代風なグロテスクの絕頂を極めてゐる點で、彼こそは或は映畫記錄中の最大の俳優として後代に其聲名と演技の跡を殘すであらう。とは云へ徒らに私はヤニングスを過賞するものではないが、當然非難さるべき彼の演技上の「癖」や其他の欠陷はあるにしても、兎も角も彼の足跡の大きさと押の强さでは、私をして如實の言葉を爲さしむるだけのものを持つてゐる。何故と云へば彼の如き「面《つら》」と「技」とを同時に享有することは、稀有に近いことかも知れないからである。かういふ面と技との共有者は十年に一人の割合でさへ現れないやうである。卑しいロン・チヱニイの面は啻に彼の面としてのみの變化も變貌をも表情されてゐない。ヤニングスの面の變化は東洋風の百面相に近いものをもつてゐるからである。それらの面の持つリアリズムは同時にヤニングス物の奈何なる演技の困難をも剌し貫いてゐる。そして又ヤニングスはヤニングス風なリアリズムの徹底に彼だけの世界を持つてゐる點で、少しのセンチメンタリズムの破綻をも表してゐない。此の一點だけでも恐らく後人は問はず今までに無かつた人物である。

 彼は多くの場合何時も演技の絕頂時に於て、硬直した立體的藝風の型を取つてゐる。そして些しの餘裕をも持たないのは彼が演技に於ける情熱の病癖であり、其故に人氣ある今日の彼を爲さしめたものである。又それらの硬さはともすると彼の中にある烈しい通俗的効果を知らず識らずの内に危險な亞米利加風の落し穴に誘惑されるかも知れぬ。然乍ら猶私には此怪物的出現が今暫く好奇心を惹くに充分であり、多くの甘たるい亞米利加式新派悲劇の涎《よだれ》を拭く暇を與ヘて吳れるだけで滿足するものである。

[やぶちゃん注:「エミール・ヤニングス」(Emil Jannings 一八八四~一九五〇年)はドイツの俳優。一九二七年、アメリカのパラマウント映画と契約を結び、ハリウッドに移った。

「最後の人」‘Der Letzte Mann’。一九二四年公開のドイツ映画。監督は私の好きな吸血鬼映画の名作「吸血鬼ノスフェラトゥ」(Nosferatu, eine Symphonie des Grauens:「ノスフェラトゥ、恐怖のシンフォニー」・一九二二年)を作ったドイツ表現主義映画を代表する監督フリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ(Friedrich Wilhelm Murnau 一八八八年~一九三一年)。「最後の人」は私は未見。

「ヴアリヱテ」‘Varieté’は、一九二五年公開のドイツのサイレント映画。フェリックス・ホレンダー(Felix Hollaender 一八六七年~一九三一年)の小説‘Der Eid des Stephan Huller’(「ステファン・フュラアの誓い」)をドイツ映画のパイオニアの一として知られるエワルド・アンドリュー・デュポン(Ewald André Dupont 一八九一年~一九五六年)監督で映画化したもの。公開時の邦題は「曲藝團(ヷリエテ)」であった。シノプシスは当該ウィキを参照されたい。私は未見。調べたところ、撮影は、かの画期的SF映画の名作「メトロポリス」(Metropolis:一九二七年)のカール・フロイント(Karl Freund 一八九〇年~一九六九年)であった。私は未見。

「肉體の道」‘The Way of All Flesh’。アメリカのヴィクター・フレミング(Victor Fleming 一八八九年~一九四九年)監督になる一九二七年のサイレント映画。これで彼は第一回アカデミー賞男優賞受賞している。

「タルチユフ」ウィーン生まれのハリウッドで活躍したジョセフ・フォン・スタンバーグ(Josef von Sternberg 一八九四年~一九六九年)の監督になる「タルテュッフ」(‘Tartüff’:音写は「タートゥフ」が近い。これはモリエールが造語したもので、「信心深さを利益のために乱用する信仰者」を意味する)。私は未見。

「ロナルド・コールマン」(Ronald Colman 一八九一年~一九五八年)はイギリスの名優。私は何より、記憶喪失絡みの純愛映画「心の旅路」(Random Harvest:マーヴィン・ルロイ(Mervyn LeRoy)監督。共演はイギリスの名女優グリア・ガースン(Greer Garson 一九〇四年~一九九六年))が一押し!

「アドルフ・マンヂュウ」アドルフ・マンジュー(Adolphe Jean Menjou 一八九〇年~一九六三年)はアメリカの名優。「モロッコ」(Morocco:一九三〇年)・「スタア誕生」(A Star Is Born:一九三七年)・「オーケストラの少女」(One Hundred Men and a Girl:一九三七年)で知られる。私はマレーネ・ディートリヒとゲイリー・クーパーが共演したスタンバーグ監督になる「モロッコ」と、ドイツ出身のアメリカの監督ヘンリー・コスター(Henry Koster 一九〇五年~一九八八年)の手になる一九三七年公開の「オーケストラの少女」が好きである。]

 

 二 「最後の人」「ヴアリヱテ」「肉體の道」「タルチユフ」

 

 渡米前の作「最後の人」の老門番としてのヤニングスは、文字通り宮殿の如き大ホテルの玄關に立つ金モール嚴しき老門番であつた。彼はその無邪氣な金モールの制服を脫がねばならぬ時に遭り合ひ、彼が人としての最後の人生への未練を殘すところは、ヤニングスの藝風の心理的素直さ、辿辿《たどたど》しささへ私に感ぜしめた。大ホテルの玄關前に盜んだ金ぴかの制服を着た老門番が、背伸びをしながら人生への涓滴的《けんてきてき》悅樂に醉ふ有樣には、充分なヤニングスの明るい或一面の持味で表現されてゐた。

[やぶちゃん注:「涓滴的」僅かな。少しばかりの。]

 自分は半歲の後「ヴアリヱテ」を見て、不思議な美と魅了をもつリア・デ・プテイを發見し、デユポンの手法を見、それにも拘らずヤニングスの曲藝團の「親方」には多少の失望を感じた。此畫面ではヤニングスの硬直した力は生活の向側へ勢ひ餘つて投げ出され、膠《にかは》のやうにからからに乾燥してゐた。「睨み」のシインの如きは一枚の寫眞である外の何者でもなかつた。表情の科學化ともいふべき無意味さが繰り返されヤニングスの「病癖」が惡いチーズのやうに執拗に入念に固められてゐた。自分は當時一映畫雜誌に「ヴアリヱテ」が失敗の作であることを指摘し今さらに自分の溫かき「救ひを求むる人人」に接した幸福な日を思ひ返したくらゐであつた。一つはデユポンの監督の手法の手堅さがヤニングスに押され氣味であり餘りに固くなり過ぎた爲であらう。吾が敬愛する無名の集團であつた「救ひを求むる人人」の人人は、私をして映畫的人生が實人生と同程度までへ接近するの可能を、決して映畫が映畫としての「昨日」の物でない、「今日」の彼を暗示してゐたこと等を囘顧する時、私は殘念乍ら大ヤニングスの中に失はれてゐる素面(しらふ)の人生を思はずに居られぬ。若し素面の人生を「肉體の道」に求めるとすれば、稍それに近い好場面が無いでもないやうである。謹直平凡な一銀行員の平和な家庭生活が、その出張先に於て一淫婦の美貌に魅了される筋であるが、「面」の變化をもつヤニングスは茲《ここ》では一銀行員としての實直な心理解剖を試みてゐる。列車中の魅了されるシインや、淫婦の歡心を得ん爲にその永年の間に蓄へた美事な髭をさへ理髮店で剃るところに、寧ろ銳い皮肉が畫面のみでなく看客の中へもその唾を飛ばしてゐる。ヴイクター・フレーミングの手法の極北であると云つてよい。此場面の嫌厭すべき効果は不愉快な感情を伴ふに拘らず、何か私共の心を打ち挫く力强いものを持つて肉迫してゐる。ヤニングスの好好爺たる溫かい善良なる性質の表現も、看客に委ねられた殘酷な心理的解剖の下によいシインを顯してゐる。

[やぶちゃん注:「リア・デ・プテイ」「ヴァリエテ」のヤニングス演じる主人公ボスの恋人でヴァンプ(vamp:悪女)役のベルタ・マリーを演じたハンガリーの女優リア・デ・プッティ(Lya De Putti 一八九七年~一九三一年)。終りの方でその面容への執着を犀星は一章を設けて述べているので、ここでグーグル画像検索「Lya De Putti」をリンクさせておく。]

 矢繼早に自分はまた、「タルチユフ」を見たが、これはヤニングスの脂と癖との夥しく沁み出たものだつた。自分は惡魔の如きタルチユフの型の中に既に使ひ古された型を見出しヤニングス物として拙いものであり邪道と通俗に近い妥協性さへ發見した。自分のヤニングスに最も懸念を感じることは、彼は何時も藝術ではあるが大なる通俗味を多分に抱擁してゐることである。彼の人氣のある所以は誰が見ても面白く解ることであり、その面白さは大なる通俗の上にあることである。彼の危なさの中に平然と行くところは彼の大きさの爲であらうが、「時」は彼をして逆さま落しに通俗の凡化たらしめはしないか、と自分は「タルチユフ」を見乍ら懸念と憂慮とを倂せて感じてゐた。併も惡僧「タルチユフ」は彼のお手の内のものだつた。最後に一僞善者としてのタルチユフの化の皮を自ら剝いだ時の、酒を飮み乍ら嗤笑《しせう》する彼の醜い下卑た色好きな笑ひ顏は、やはり誰の中にもある同樣の卑しい笑ひ顏であつた。それから鷄の足をしやぶる口が左から右へ大歪みに曲り込むところも、彼の面目の中の著しい藝風の特徵的丹能であらう。リル・ダゴフアの奧方には彫刻的美はあるが動く美はない。手ざはりも冷たい感じをもつてゐるけれど、カール・フロイントの撮影はその自由な表現を縱橫に試みてゐることを特記して置く。

[やぶちゃん注:「嗤笑」冷笑。嘲って笑うこと。

「リル・ダゴフア」「タルテュッフ」でミセス・エルマイア役を演じたドイツの女優リル・ダゴファー(Lil Dagover 一八八七年~一九八〇年)。

「カール・フロイント」「の撮影を担当した名カメラマンであったカール・フロイント(Karl Freund 一八九〇 年~一九六九年)。名作「巨人ゴーレム」(一九二〇年)・「メトロポリス」(一九二七年)等のカメラマンとして知られる。]

 

 三 ヤニングスと谷崎氏

 

 私はエミール・ヤニングスを思ふたびに、何かしら谷崎潤一郞氏を想起するのは自分でも不思議とするところである。(これは谷崎君には迷惑かも知れない。)さういふ關連された氣持は私だけに止まるものかも知れぬが、大きさは似てゐるやうな氣がする。谷崎潤一郞氏は大谷崎《おほたにざき》である點、殆ど漠然たる直覺的思惟の下に此「大」を感ぜしめる點に於て、ヤニングス論を書く私に想起されるのは谷崎氏自身がその大きさを持つてゐるからであらう。これに深い穿鑿の必要はないのだ。今の文壇にこの「大」の字の附く人物は奈何なる作家に較べても先づ見つからない故もある。

[やぶちゃん注:寧ろ、ヤニングスに対して失礼である、と私は思う。]

 

 四 フアンの感傷主義

 

 自分は大正六七年代に既に映畫批評の流行前に「映畫雜感」を書いて、西洋女優が奈何に美しい肉顏《にくがん》をもつてゐるか、その肉顏は吾吾の生活に何故に必要であるか、又彼女等の新派悲劇的要素の中に吾吾の悲哀が何故にその相談對手を求めるのか、我我は映畫見物に行くそもそもの動機は何であるか、セネツトガールの白い美しい足並揃へた惡巫山戲《わるふざけ》や舞踊は、何故に我我に取つて馬鹿馬鹿しい餘計事では無かつたか?――あらゆる美と感傷の「壺」であるクローズアツプの肉顏に、我我は何故に驚嘆の溜息をつかなければならなかつたか?――我我が映畫見物の後、貧弱な家庭に於て何故に屢屢滑稽なる不機嫌を敢て經驗しなければならなかつたか、さういふ諸《もろもろ》の下卑た感傷主義はその十年の間に次第に滅び、それらの種種の問題を卒業した僕等は漸く一人前の今目のフアンとして立つことができたのである。そして我我がフアンとしての立場には、斯くて無用な末期的感傷主義の虜であることを拒絕することに據つて眞實の評價を爲し得るものであらう。

[やぶちゃん注:「肉顏」はママ。「ウェッジ文庫」では前が『肉体』で、後者二つが『肉顔』となっている。初出を見られないので、底本のままにしておく。「ウェッジ文庫」の修正は確信犯的な感じがし、確かにその方が、遙かに躓かずに読める気はする。

「セネツトガール」チャールズ・チャップリン(Charles Chaplin 一八八九年~一九七七年:因みに彼はイギリス出身である)を初めて映画に出したプロデューサーであり、「喜劇王」として知られるアメリカの映画プロデューサー・監督・脚本家・俳優であったマック・セネット(Mack Sennett  一八八〇年~一九六〇年)が組織したキャンペーン・ガール及び短編映画の出演女優集団を指す。芦屋則氏のブログ「サイクロス」の「マック・セネット・ガールズ」を参照されたい。]

 併乍ら自分の如きは猶夥しいセンチメンタリズムの塵埃棄場《じんあいすてば》を、人生には無用な自分に取つては可能な戀愛の吸收力を、日常親灸《しんしや》し乍ら自身にも覺つかない生活の諸諸の面《めん》や相《さう》を、極言すれば到底人力を以て濟度することのできない多くの嫌厭すべき新派悲劇的の涎や泪《なみだ》を、曾て吾吾の中から追ひ出した感傷主義の餘儀ない邂逅を經驗することに依つて、我我フアンのどうにもならない立場があるのだ。我我フアンの立場に既にかういふ現世的欲求のあることは、同時に吾吾の映畫がかういふ空氣外の存在であつてはならぬことを條件とせねばならぬ。吾吾の現世的な枯槁《こかう》された慘めな心神的ボロを、吾吾の親切な映畫的人生がつつましやかにかがつてくれれば、吾吾のボロはもう少し溫かく身に着くことになるであらう。

[やぶちゃん注:「枯槁された」ここは「すっかり萎み枯れ果てされた」ことの意。]

 

 五 「暗黑街」とスタンバーグ

 

「暗黑街」を見た自分は期待的な壓迫も又窒息的な鼓動をも感ぜずに、スタンバーグの靜かな緊密な、殆ど類ひ稀な簡潔な手法と、秩序ある明快な一個の腦髓の閃めきとを感じた。「暗黑街」の人生を通じたスタンバーグは、「サルベエシヨン・ハンターズ」のテンポを一層引き締め、殆ど別人のやうな銳利な速度を全卷の上に試乘した。微塵も無駄のない、空いてゐる一コマとてもない、緊張以上の緊張を全卷に醱酵させ、それでゐて息苦しいものを與へずに、最下級の壓迫をしごかずに、それらの瞬間と咄嗟とを靜かにきめ細かく織り込み受け渡し、且つ磨き上げてゐる。

 或は「暗黑街」を見た人人は評的の標準のない、餘りに漠然とした平凡な或想念に辿り着くであらうし、もつと面白くあるべきものを期待してゐたことに心附くであらう。今までの映畫に敎養されたフアンはその絕頂的興趣の無いところの、さういふ映畫的屑やボロを全然振ひ落したところの「暗黑街」には鳥渡《ちよつと》その批評の標的を失うたであらう。併し何氣なく或チクチクしたメスのやうな痛みと、妙に光つたものと同時に感じ、そこにジョセフ・フオン・スタンバーグが映畫的埃をあびてゐない淸らかな眼をもつて立つてゐることに氣づいたであらう。彼はストロハイムやチヤツプリンのカツトを既にその頭腦の中で試みてゐる。「救ひを求むる人人」以來二度までも其製作的失敗の苦い經驗をもつ彼は、殆ど出來得るだけのものをさらけ出したと言つてよいであらう。名監督であるよりも刻苦の人スタンバーグ、ちらちらする名監督的な冴えを隨所にもつてゐながら、それらを完全に近いまでに出し切つた精進の人スタンバーグ、何處までも處女性の臆臆しさと、銳どさと冴えと新鮮とを持つてゐるスタンバーグ、ジョーヂ・バンクロフトをあれまでに引き上げ、彼を指揮するに寸刻の隙も弛みをも見せず、あれ程までの鮮烈、新味ある圓熟、壓力ある把握、大きさへまでに押出し、凡ゆる現實性の確證を表現させ得た素晴しい親切なメガホンと熱情あるタクト――曾てサルベーション・ハンターズを叙情詩的な憧れへ呼びかけた彼は、最早一足飛びの本格映畫の骨髓に切迫し、これを如實に健やかに表現した。彼とバンクロフトとによる連彈的な一臺のピアノは、その最高音からピアニシモに至る魅惑の殆ど完全な渾一を、吾吾の手の痛くなるまでに拍手させたことは、スタンバーグとバンクロフトの一體的交響樂を意味するものに外ならないであらう。

[やぶちゃん注:「サルベーシヨン・ハンターズ」既に「天上の梯子」の「一本の映畫」で注し、「月光的文献」の「活動寫眞の月」でも言及されているが、再掲すると、一九二五年(本邦での公開は同年(大正十四年)十月)のアメリカ映画“The Salvation Hunters ”。邦訳題は「救ひを求むる人々」。ジョセフ・フォン・スタンバーグ(Josef von Sternberg 一八九四年~一九六九年)の監督デビュー作。詳細は邦文サイト「MOVIE WALKER PRESS」のこちらを参照されたい。

「ストロハイム」エリッヒ・フォン・シュトロハイム(Erich von Stroheim 一八八五年~一九五七年)はオーストリア生まれでハリウッドで活躍した映画監督にして俳優。当該ウィキによれば、『映画史上特筆すべき異才であり、怪物的な芸術家であった。徹底したリアリズムで知られ、完全主義者・浪費家・暴君などと呼ばれた。また、DW・グリフィス、セシル・B・デミルとともに「サイレント映画の三大巨匠」と呼ばれることもある』とある。

「臆臆しさ」「おくおくしさ」であるが、一般的な語彙ではない。気後れする感じ、或いは、遠慮がちな奥ゆかしさの意か。]

「暗黑街」の全卷に流れてゐる流れの量は、殆ど合一され、ヤマとクライマツクスを抹殺してゐる。彼は最後にブル・ウイードが逮捕されるところがさうだとすればさうかも知れぬが全卷の上に殆ど平面的なクライマツクスの小出的調和を試みてゐることは見遁《みのがしてはならない。

[やぶちゃん注:「ブル・ウイード」史上初のギャング映画として名高いサイレント映画「暗黒街」(‘Underworld’。私は未見)の主人公ブル・ウィード。ジョージ・バンクロフト(George Bancroft 一八八二 年 ~ 一九五六 年)。]

 

 六 スタンバーダと志賀氏

 

 自分は「暗黑街」を見ながら、スタンバーグの手法に何故か志賀直哉氏と共通のものを感じた。底光りと健實と少しの危氣のないスタンバーグは、志賀氏のこつくりした新味のある文章に通じてゐる「頭のよさ」を見出した。寶石商店にブル・ウイードが首飾を盜んだ後に、步道を馳け合ふ警官隊のヅボンが、飾り棚の鏡や硝子の小さいものまでに映り出されてゐる、その銳い睨んだスタンバーグの手法は、或心理描寫の上でさういふ銳角さを取りあつかふ志賀氏の、布置の中の結構や用意や落着に髣髴してゐた。

 ブルツクのロールス・ロイス、ブレントのフヱザースとの或氣持の受け渡し、そこに立つスタンバーグの克明な心理描寫、就中、たるみのない全篇へ流動してゐる氣根は、志賀氏の何物かを自分に想起させた。その何物かは言ふまでもない志賀直哉氏の何物かである。同時にスタンバーグの刻苦はそれを描寫的手法の上のものとして考へ見ることができれば、志賀氏を想起するのは强ち自分一人に限られてゐないのであらう。志賀氏がくろうとの作者であるやうに、スタンバーグも亦くろうと筋の彼でなければならないからである。

[やぶちゃん注:「ブルツクのロールス・ロイス」“Rolls Royce” は「暗黒街」の主人公の一人で、アル中の紳士ブル・ウィード(本名はウェンツェル(Wensel))の綽名。イギリスの映画俳優クライヴ・ブルック(Clifford Hardman CliveBrook 一八八七年~一九七四年)が演じた。彼はシャーロック・ホームズを三度、また、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の「上海特急」(‘Shanghai Express’)でマレーネ・ディートリヒとともに主演したことで知られる。

「ブレントのフヱザース」同映画でウィードの親友となるシカゴの暗黒街に跳梁する稀代のギャングの親玉格であった「ブル」(次章注参照)の好きな娘で、ウィードが恋してしまうフェザース (“Feathers”。本名はマッコイ(McCoy))。アメリカの女優イヴリン・ブレント(Evelyn Brent 一八九五年~一九七五年)が演じた。後でまた彼女ために一章が組まれるので、グーグル画像検索「Evelyn Brent」をリンクさせておく。以上は、前に述べた通り、私は未見の映画なので、主に複数の英文ウィキの記載及び日本のサイト「KINENOTE」の当該映画のシノプシスを参考にして注した。次の章も同じ。]

 

 七 「暗黑街」のバンクロフト

 

「戰艦くろがね號」のジョージ・バンクロフトは、彼自身の强力な心臟の上に更にスタンバーグのタクトの振動を熟視してゐた。彼の全力的な、鈍重な圖太い線、加之《しか》もそれは軟かい沁み込みと罅《ひび》とを人の心に影響してゆくところの、得も云はれぬリアリズムヘの微妙なそして確實な浸透、そしてかういふ彼の特質の上に靜かな熱情あるスタンバーグのタクトが、正確な振子のやうに動いてゐる。

 ブル・ウイードは猛猛しい豹のやうな野性と、豹のやうな優しい愛情と、時に人間的な哄笑とを持つて生れた、野卑を超越した惡漢である。彼が人生について解釋するところは少しの後悔を有《も》たない「惡漢」意識を飽迄《あくまで》も强大に生活することによつて、その魂を磨く下層人的な或原始性を有つてゐる。加之もバンクロフトとブル・ウイードとの間に一枚の紙背すらない、ブル・ウイードを生活し經驗しながら、ブル・ウイードの血液、肉體を有ち、その凡ゆる行爲に何等の考察や反省すら有ち得ない野性にまで、一個の巨漢バンクロフトは行き着いてゐる。彼が酒場の階段を下りながら右の手を輕く振つて挨拶がはりにする時又街路へ出ながらの同樣な身振り、舞踊會の夜にも又繰り返す同樣な擧止、それらの野卑な挨拶の中にブル・ウイードの生活面が細かに描寫され物語られてゐる。

 自分はクライヴ・ブルツクの「靜かさ」を大《だい》ぶ前から睨んでゐた。「フラ」の中のクライヴ・ブルツクはもう何時までも「フラ」の中の彼ではなかつた。バンクロフトの對手段として靜かな位置を保留することになり、彼自身は磨かるべき泥の着いた珠玉であつた。入念な視線による一動作への連結、少し氣取り過ぎてゐる所はないでもないが、酒場のブルツクの沈着なタイムある動作は、自分に充分な彼の未來への感銘を與へた。

 それにしても猶自分の眼底を去らないバンクロフトの哄笑、あらゆる人生への榴彈であり彼自身への後悔なき惡の意識化であり、同時に何とも云へない子供らしい無邪氣な、罪のない誰も從《つ》かざるを得ない哄笑。――

[やぶちゃん注:「戰艦くろがね號」原題は‘Old Ironsides’。十九世紀初頭を舞台にした地中海の海賊掃討を題材とした歴史戦争映画。パラマウント社が一九二六年に特別作品として制作したもので、ジェームズ・クルーズ(James Cruze)が監督した。以下のバンクロフトは重要な脇役を演じた。私は未見。

「ジョージ・バンクロフト」(George Bancroft 一八八二年~一九五六年)はアメリカの映画俳優。「暗黒街」では、最も重要な主人公の一人ブル・ウィード(“BullWeed)役を演じた。]

 

 八 映畫批評の立場

 

 映畫に就ては自分のごときは何處までも素人であり、汚れたベンチに腰かける三等看客の一人に過ぎない。その素人であるための映畫を理解しようとする熱烈さの中に、大衆的な血潮さへ流れてゐる。よき映畫を見ることは其時代を經驗する喜びであり、よき映畫に接觸することによつて直接自分の生活の更新的な分子さへ攝《と》り入れねばならぬ。一口にいへば何事もその「心持」風な生活の上で、映畫の中のよい心持、よい場面、よき人生の素直さがどれだけ溶解され、心持風な讀物になつたか知れぬ。自分の性質が一個の性質として人生面への交涉を敢てする時に、映畫人生の指導によつてどれだけ多くの複雜性ある準備を加へられたか分らぬ。そのため映畫が娛樂的な視聽のみの効果ではなく、小說に於ける人間學的再經驗と同樣な有益さを與へられてゐる。それ故自分が映畫的人生への最も高い意味のリアリズムの唱道を敢てしてゐるのも、此意味の外ではない。自分等の知り學ばうとするところは自分の心理的な經驗外にある經驗を敢てすることによつて、自分を增益しなければならぬからである。

 自分は映畫の機械的方面に就て何も知らない。併し自分もそれを知ることは近い中にあるだらう。自分は撮影と監督の位置は知つてゐる。しかもその撮影と監督の位置に立つたことはない。また映畫の歷史的な現象を諳《そら》んじてゐる譯ではない。唯、何處までも素人としての熱烈さを有ち、素人としてもどれほど彼が映畫を理解してゐるか、その理解は一文藝家の批評ばかりではなく、他の凡ゆる同じい素人階級の理解であるといふ點に力を置きたいのである。凡ゆる素人こそ其批評的なものの正確さを持たねばならぬのだ。

 

 九 文藝映畫の製作

 

 文藝映畫は一般に面白く無いとされてゐる。その作品が古今に通じた大作品であるといふことですら、既に自分には感銘の稀薄な映畫を直覺し、求めて見る氣になれない。假令《たとひ》それを見るにしても到底原作的な手厚い感じを受ける事は滅多にない。最近に於ける「フアウスト」の上映ですら、原作の重厚、壯麗なる憂欝、歷史的な詩情を欠いてゐる以外、カメラの美しさ巧緻さが持つ機械的な効果を學び得たのみであり、到底「フアウスト」の大詩情を映畫化したものではなかつた。元より自分は初めからゲーテを見ることよりも、監督とカメラを見に行つたのであるから失望はしなかつたが、今更文藝作品を踏襲する映畫がその目的に於て、又自らその出發點に於て文藝作品と全然別途にあるものであることを知つた。文藝作品の神經的なリリシズムを追從することは映畫の進出を障害させるばかりでなく、監督の感情的自由を硬化させ約束的な拘泥と佶屈《きつくつ》を與へるのみだつた。さういふ事實は映畫の本格的な精神に害があつても益されるところは無い。

[やぶちゃん注:「佶屈」「詰屈」に同じ。堅苦しいこと。特に、芸術作品が堅苦しく、判り難いことを言う。]

「罪と罰」「カラマーソフの兄弟」「レ・ミゼラブル」「復活」「ポンペイ最後の日」等の映畫化は、その最も高い映畫目的の外のものであり、第二義的作品だつたことは云ふまでもない。吾吾の感銘さへも原作を卒讀した呼吸づまる靈魂と心理上の經驗を、これらの映畫の上に見ることのできなかつたのは、一つは「讀んで知つてゐた」ことであり「見て面白くなかつた」事實であつた。讀んだ時よりも見た時の方が、逈《はるか》に感銘の深かつたといふ經驗は、文藝映畫の場合に殆ど數へる位しかない。

 最近に上映された文藝風な接續をもつて相應の成績を上げたものは、「ウインダミヤ夫人の扇」「我若し王者なりせば」「椿姬」「カルメン」「ドン・フアン」「女優ナナ」等であらう。「ウインダミヤ夫人の扇」の成功の外は自分には感銘が淺かつた。しかも昨年度に於ける數十本の映畫の中の、文藝作品で上映されたものは是等の代表的なものの外、今度の「フアウスト」の上映くらゐであらう。奈何に文藝映畫の製作が其大衆的な產業方針と興行成績への危險性のあるものだかが、その製作數の少ない點に於ても明瞭に分ることである。作品の本筋と作者への藝術的良心への追從《ついしやう》は、その監督の手腕を鈍らせるばかりでなく、放射線風な映畫の大なる目的をも鈍らせるのだ。映畫はシナリオによらなければならぬといふよりも、映畫の人生を持つための天與の「速度」に據らねばならぬ。

 映畫的人生の沁みこみと、文藝による沁みこみとの比較は、映畫の沁みこみの脈搏的であるところの速度と同樣にそれ自身に直接性を持つてゐる。文藝の沁みこみは寧ろ時間的な落着きをもつて讀まれるのであるから、その速度の非機械的であることに於て既に反對してゐる。昨年中に我我に感銘を深くしたものの中で、一本の文藝映畫すら無かつたが、「陽氣な巴里子」「ヴアリヱテ」「帝國ホテル」「カルメン」「人罠」「ボー・ゼスト」「最後の人」「不良老年」「女心を誰か知る」等は映畫脚本として書き下ろされたものであり、根本から映畫の組織によつて書かれたものであつた。「暗黑街」もまたこれらの映畫であるべき約束のものだつた。それらには何等の文藝的な接觸もなく、その現實性は映畫の中にある人生からの現實性だつた。若し文藝作品が映畫に全部働きかけたら、映畫は少しも進むことができないであらう。その意味に於ける文藝映畫の製作は、一つに呪ふべき澁滯であらねばならない。あらゆる文藝映畫を超越してこそまことの「映畫」が存在し得るのである。

[やぶちゃん注:「ウインダミヤ夫人の扇」オスカー・ワイルドによって書かれた四幕の喜劇(現代は‘Lady Windermere's Fan, A Play About a Good Woman’)。一八九二年にロンドンのセント・ジェームズ劇場にて初演されたが、それを一九一六年にイギリスでフレッド・ポール(Fred Paul)が監督したサイレント映画。私は未見。

「陽氣な巴里子」「巴里子」は現代仮名遣「パリっこ」。現題は‘So This Is Paris’ で、アメリカ映画のサイレント・コメディ。一九二六年公開。監督はドイツ生まれで後にアメリカに移ったエルンスト・ルビッチ(Ernst Lubitsch)。英文ウィキのこちらで全篇を視認出来る。私は未見。

「帝國ホテル」‘Hotel Imperial’。アメリカ映画。一九二六年公開。監督はフィンランド生まれのモーリッツ・スティルレル(Mauritz Stiller)。私は未見。

「人罠」‘Mantrap’。ヴィクター・フレミング監督作品。一九二六年公開。私は未見。

「不良老年」‘The Ace of Cads’。一九二六年のアメリカ映画。監督は第一作となったルーサー・ロイド(Luther Reed)。私は未見。

「女心を誰か知る」‘You Never Know Women’。アメリカ映画。一九二六年公開。監督はウィリアム・A・ウェルマン。私は未見。]

 

 十 ドロレス・デル・リオの足

 

「カルメン」に於けるラオル・ウオルシユは、徹底的にドロレス・デル・リオを適役に配演させた。彼女の中にある肉體的なものの隅隅、性的な表現に基づく凡ての建築的な應用を、ラオル・ウオルシユの腕の限りに示したといふより、より以上にデル・リオはその眞白な肩と腕とに就て、就中《なかんづく》足を以て美事に演技してゐた。足は伸べられ歪められ馴らされ、折りまげられ、媚をつくり嬌態(しな)をうつし、うすい糊のやうな光をふくんで絕えず行動し、流れてちからない時は柔かい餅のやうになつて橫《よこたは》つてゐた。そこに凡ゆる足が表現され且つ演技されてゐた。宿屋の食卓の上、街をゆく甃石《しきいし》の上、大雪のごとき大寢臺の上、馬車の上、そして折折大膽な大腿の露はれる肉體の瞬間的な行動、自分はラケル・メレエよりもエロテイシズムを、或はラケル・メレエ以上のカルメンを見た。ジエラルデン・フアラーの膨張した足、ポーラ・ネグリの大建築的な直角な足、そして彼女らが演技したカルメンよりも、デル・リオのその眼付の中にあるモナ・リザ風な神祕めいた感情的な一つの古典的表情が「カルメン」に助成し成功してゐることを感じた。

 凡ゆるカルメンが近代の神經と性格描寫に基づくより外に、もうカルメンの存在はなかつた。カルメンの中にある劣等な美と熱情とは、凡ゆる新しい解釋によつて爲されなければならない。又凡ゆるカルメンはオペラのカルメンでなく、凡ゆる街巷《がいかう》のカルメンでなければならない。野卑と淫賣との凡ゆる近代的な多情の要素をもつカルメン、自分はそこまでカルメンを見ることの當然さを感じてゐる。そしてデル・リオのカルメン風なカルメンに妙技を終始し得たのは、何處までも惜氣もない感情を搾り出したことにあつた。

 ヴイクター・マクラグレンの鬪牛士ルカも、その豪邁な頑固な性格がカルメンの媚態に據つて綻《ほぐ》れて行く經過を素直にあらはしてゐた。宿屋の場面に於て就中成功してゐた。ドン・アルヴアラードのドン・ホセの弱い線の中に、情熱的な屈辱は見ることはできるが、到底ドン・ホセの適役ではなかつた。情熱の鬪士としての展開はかういふ弱い韻律によつて爲されるものではない。――ともあれデル・リオのカルメンはその故意とらしくない藝風によつて扮し得たことは特筆すべきことであらう。

[やぶちゃん注:「カルメン」これは一九二七年公開のラオール・ウォルシュ(Raoul Walsh)監督の‘The Loves of Carmen’。

「ドロレス・デル・リオ」(Dolores del Río 一九〇四年~一九八三年)メキシコ出身の女優。

「ラケル・メレエ」ブリュッセル生まれでフランスに帰化した私の好きな監督ジャック・フェデー(Jacques Feyder 一八八五年~一九四八年)が一九二六年に撮った‘Carmen’でカルメンを演じた、スペインの歌手で女優のラケル・メラー(Raquel Meller 一八八八年~一九六二年)。

「ポーラ・ネグリ」(Pola Negri 一八九七年~一九八七年)は前章に出たエルンスト・ルビッチが一九一八年に撮った‘Carmen’でカルメンを演じた女優。サイレント映画時代には妖艶なヴァンプ役として大スターとなった。ポーランド生まれでアメリカやドイツで活躍し、アメリカの市民権を取得し、テキサスで亡くなった。

「ヴイクター・マクラグレンの鬪牛士ルカ」(Victor McLaglen 一八八六年~一九五九年)は、ウォルシュ版「カルメンの愛」で仇役エスカミーロ(Escamillo:エスカミーリョ)を演じた。彼は元イギリスのボクサーからハリウッド俳優に転身した人物である。「ルカ」と言うのは、原作(ビゼーのオペラが種本としたフランスの作家プロスペル・メリメ(Prosper Mérimée 一八〇三年~一八七〇年)のそれ)では「リュカス」(Lucas)という名であることによる。

「ドン・アルヴアラードのドン・ホセ」「カルメン」のヒーローであるドン・ホセ(Don José)をウォルシュ版で演じたアメリカの俳優ドン・アルバラード(Don Alvarado 一九〇四年~一九六七年)。]

 

 十一 クララ・ボウ論

 

 餅肌クララ・ボウ、

 野卑の美、

 白い蛙、

 蛙の紋章、

 肉體的ソプラノ、

 クリイム・チーズの容積、

 既に要求的な滿喫、

 裸の腕のマツス、

 計算と性格、惡巫山戲とコケツト、

 そして怜悧と惡こすい眼付、

 ジョージ・バンクロフトを與へよ、

 その巨大なる抱擁を抱へよ、

 餅肌クララ・ボウ、

 際物的なクララ・ボウ、

 甃石の上をゆくペングイン鳥、

 お腹はもう胎んでゐる、

 世界ぢう搜しても分らない父親、

 餅肌クララ・ボウ、

 益益肥えるクララ・ボウ、

 益益美しくなるクララ・ボウ、

 蹶飛《けと》ばしたくなるクララ・ボウ、

 文身《いれずみ》をしたくなるクララ・ボウ、

 餅肌クララ・ボウ、

 蹶飛ばしたくなるクララ・ボウ、

 間もなく剝製になるだらうクララ・ボウ。

[やぶちゃん注:「クララ・ボウ」(Clara Gordon Bow 一九〇五年~一九六五年)はアメリカのトーキー時代の人気女優。実際の前半生はかなり過酷であった。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「マツス」mass。塊り。ボリュームのある感じを指す。

「コケツト」coquette(コォケェット)。あだっぽい女・男たらし。

「ジョージ・バンクロフト」「五」で既注。]

 

 十二 ブレノンとH・B・ワーナー

 

「ボー・ジエスト」の物語風なハーバート・ブレノンは、「ソレルと其の子」に極めて平凡な手法を試乘した。フアストシインに戰爭の一シインを點出したのは第一の失敗だつた。あれはロンドンの電車から降りるあたりから展開さるべきだ。妻の出發とソレルの歸宅との同じい時刻、ロンドンの骨董屋の主人の死と彼の就職到着との同時刻、子供らを二人まで負傷させた手法の繰り返し、それらの運命的なるものの自然との交換が突然であり手法の冴えを感ぜしめない。全篇小說風な平かな筋と味ひを引き締めるちからが足りないのだ。本味で行くむら氣と映畫臭を拔けようとする努力はわかるが、さういふ素晴しい本味はもつと新しいスタンバーグ以上の監督が出現しなければ行き着けないところである。ブレノンでは行けない。彼ができ得る限りの靜かな迫らない監督振りは目に見えるやうであるが、自分はその努力に注目はするけれど他の批評家のやうに斷じて取らない。

 この種の父性愛を取り扱つた通俗的なセンチメンタリズムを拔け切らうとしたところにブレノンの意識的な集中は窺へるが、そのため弛んだ間の拔けた平均性のない場面的の出來と不出來とに終つてしまつた。ソレルがトランクを負うて階段を上るところも古い。唯、唯、後に妻のドラが息子を誘うて料理店にゐる場面は、今までに見なかつたよいシインだつた。これはブレノンが川岸で息子と散步をしながら馬に乘らせるシインとともに、よい小說風な効果をもたらしてゐる。

 H・B・ワーナーのステイーヴン・ソレルはよく演技してゐた。久しく見なかつた快い澁好みの「面」をもつH・B・ワーナー、「面」そのものが既に哀愁をもつ彼にソレルが似合はないことは絕對になかつた。物靜かな監督への理解、「面」が運ぶ本筋的な流暢な彼に、父親としてのゆつたりした本格的な相貌をもち、飮み込みの早い彼の藝風に失敗のあらう筈はなかつた。感激のために後向きになつて壁に對《むか》うて泣くところもよかつた。ブレノンの描寫が持つ目立たない急所だつた。

「ソレルと其の子」は原作も失敗の作である。寧ろ壯烈な落着いたよい名譽ある失敗である。かういふ名譽を負うて立つところの、彼ハーバート・ブレノンを見ることは自分には寧ろ溫かい笑ひを漏らすことに近かつた。

[やぶちゃん注:「ボー・ジエスト」「ボー・ジェスト」(Beau Geste:一九二六年公開)は、イギリスの作家パーシヴァル・クリストファー・レン(Percival Christopher Wren 一八七五年~一九四一年)によって一九二四年に発表された冒険小説を元にしたアメリカのモノクロ・サイレントの戦争映画。監督はハーバート・ブレノン(Herbert Brenon)。ロナルド・チャールス・コールマン(Ronald Charles Colman 一八九一年~一九五八年:イギリス生まれのハリウッド男優。名優として人気が高かった)が主人公ボー・ジェストを演じた。私はこれは未見だが、後の二度目の映画化(一九三九年・アメリカ)映画ウィリアム・A・ウェルマン監督で、ゲイリー・クーパー主演のそれは好きな一本である。

「ソレルと其の子」(Sorrell and Son)は、一九二七年のアメリカ合衆国のサイレント映画。当該ウィキによれば、『フィルムは長年にわたって消失したものとみなされていたが』、二〇〇四年と二〇〇六年にハリウッドにある(同英文ウィキで補正した)『アカデミー・フィルム・アーカイヴ』(Academy Film Archive)『によって修復版のプリントが上映された』とある。私は未見。主人ソレルはイギリスの俳優ヘンリー・バイロン・ワーナー(Henry Byron)が演じた。

「妻ドラ」ソレルの妻(Dora Sorrell)はスウェーデン生まれのアメリカ人女優でサイレント時代に人気を博したアンナ・クイレンティア・ニルソン(Anna Quirentia Nilsson 一八八八年~一九七四年)が演じた。彼女は英文ウィキによれば、一九〇七年に「アメリカで最も美しい女性」に選ばれている。]

 

 十三 スタンバーグの「陽炎の夢」に就て

 

 スタンバーグの「陽炎の夢」を見て、「救ひを求むる人人」「暗黑街」の同一作者と思はれない程、平凡な作だと思うたが、その手法上の辿辿しさに「救ひを求むる人人」の初初《ういうい》しさがあり、何か知ら「救ひを求むる人人」の素直さを髣髴させる優秀さがあつた。一つはスタンバーグに好意と眞卒さを感じてゐる自分は、彼の署名が無かつたら或は見落すかも知れなかつた程、何の變化の無いざらにある映畫のやうであつた。「救ひを求むる人人」が本格的な人生詩の肺俯を衝いたものとしたら、「陽炎の夢」は單なる草花詩のたはいない一篇であるかも知れなかつた。しかも此草花詩人風なスタンバーグに愛情をもつ自分は、當然辛辣であるべき批評的な眼目に於てすら、なほ一つの草花詩として「救ひを求むる人人」「暗黑街」の名監督的な冴えの陰に、微かに囁く抒情的な詩情を感ぜずに居られなかつた。「陽炎の夢」は彼として全きまでの失敗の作だつた。原作のアルデン・ブルツクスの「逃亡」を彼自身映畫化したことも、失敗の第一だつた。コンラツド・ネゲルもルネ・アドレも平常のやうに冱えた演技を窺せてゐなかつた。そしてスタンバーグ自身の緊張的な硬化性が自分に影響してゐた。「救ひを求むる人人」の古今に絕する作の完成後の彼として、又さういふ名篇と聲望とを贏《か》ち得た彼として固くなることも否めなかつた。彼の此一篇を以て問はうとした眞實な人生への欲求は、やはり彼の踏む人生以外のものではないが、どの役者も何かいぢけ何かおどおどしてゐた。スタンバーグの呼吸づかひは不幸にも彼自身の昂奮だけに停まり、彼ら俳優に感電的なリズムを刺し貫かなかつた。

 併し自分は此映畫に對する感情には初めから「信賴」と「好意」が優しく感じられてゐた。葬ひの場面の送葬者の列、人形と椅子、狂人扱ひにされたプラツドが少時《しばらく》動かないでゐた非映畫なポーズ、ジプシイの馬車の毀れた板の隙間から、女の圓い大腿が見える着換へを暗示させる一場面、ジプシイ女とプラツドとが草原の上で語り合ふ時の平凡な常態、――ラストの二人が肩を組んでうしろを見せる場面で、自分は映畫的センチメンタリズムの刺戟と作用によつて、何とも言はれぬ「救ひを求むる人人」の最後の光景を呼び起すのだつた。僅かな一例ではあるが送葬の穴掘りの男が、長い弔辭朗讀に苛苛してゐる樣子が何等の動作や表情なしに、唯立つてゐるだけで表現されてゐた。さういふ失敗の中にある美事な部分的な冴えと完成とは、解體して見たら他の映畫と較べものにならない程効果的なことは勿論である。

[やぶちゃん注:「陽炎の夢」「陽炎」は「かげろふ」と訓じておく。サイレント映画。原題は‘The Exquisite Sinner’(「絶妙の罪人」)で一九二六年公開。主役ドミニク・プラッド(Dominique Prad)役はアメリカの俳優コンラッド・ネーゲル(Conrad Nagel)が演じた。私は未見。

『アルデン・ブルツクスの「逃亡」』アメリカの作家アルデン・ブルックス(Alden Brooks 一八八二年~一九六四年)の‘Escape’。一九二四年作。

「ルネ・アドレ」ジプシー(ロマ)のメイドのシルダ役はフランス出身のハリウッド女優ルネ・アドレー(Renée Adorée 一八九八 年~一九三三年)が演じた。]

 

 十四 一場面の「聖畫」

 

「マザー・マクリー」は曾て同樣の母性愛を說いた「オーバー・ゼ・ヒル」の如き効果を擧げてゐない。寧ろ通俗的悲劇愚に近い作品であらう。併し自分はそのベル・ベネツトの母親が或富豪の床の上を拭いてゐて、不圖赤兒の泣聲を聽いてそのドアの中へ這入り、床に坐り乍ら赤兒を宥《なだ》め賺《すか》す場面を見て、忽ちにしてマンテニア風な、大《おほい》なるクラシツクを感じた。床拭きとして頰冠《ほほかむり》のやうな頭巾をかむつたベル・ベネツトはもはや自分には單なる現世の一女優としてのベル・ベネツトではなかつた。優しいマンテニアの畫面に漲る恍惚、からだの白い柔《やさ》しい聖畫的な母性の接觸、翼の生えた大なるクラシツクの母親だつた。

 ジヨン・フオードの手法も寧ろ弛《たる》んだものだつたが、床拭きの一場面だけは奈何なる映畫の中にもなかつた生新な好場面であつた。自分はかういふ聖畫風な或は天上から辷《すべ》り落ちた一頁、ジョン・フオードも豫期しないであらう同時に生新で古風な一枚の生きてゐる繪畫が、自分の胸を閉《とざ》し頭にあるマンテニアを生《いか》してくれたことは喜ばしい限りだつた。ベル・ベネツトの靜かで豐かな稍間伸びのした演技も、手堅さの窺はれるフオードの手法と共に渾一した氣持を自分に與へた。そして自分は凡ゆる映畫を見ないで輕蔑してはならぬ事、かういふ一場面の「聖畫」の現世に於て見られ得ることは、映畫それのもつ世界の微妙な作用でなければならなかつた。漫然と見過すことのできない一場面の、その驚くべき効果は或意味に於て不易の「古代」を形づくるに充分だつたからである。

[やぶちゃん注:「マザー・マクリー」(Mother Machree)は名匠ジョン・フォード(John Ford 一八九四年~一九七三年)の一九二八年公開のサイレント映画。なお、ウィキの「ジョン・フォード」によれば、『ジョン・ウェインがノンクレジットの脇役でしたが、フォードの作品に出演した初の作品』であり、なんと、『ウェインはこの映画で小道具係も』務めたとある。

「マンテニア」壮大な着想と厳格な写実で、北イタリア・ルネサンスを代表する画家アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna 一四三一年~一五〇六年)。凄絶な構図で描かれた代表作「死せるキリスト」(Cristo morto)でよく知られる。イタリア語の彼のウィキその画像をリンクさせておく。

「ベル・ベネツト」女主人公マザー・マクリー(本名はEllen McHugh(エレン・マクヒュー))を演じたアメリカの女優ベル・ベネット(Belle Bennett 一八九一年~一九三二年)。]

 

 十五 ポーラ・ネグリ

 

 ポーラ・ネグリは幅と大きさに於てエミイル・ヤニングス風なものを、その演技や風貌の中に持つてゐる。何よりも大寫しに効果のある肉體の量積、カメラに大膽な瞬きをしない瞳孔、冷たい風刺的な浮びやすい嘲笑、次第に蒼白になる表情の運動的なタイム、頰骨、割れてゐる巨大な眞白な背中、それらの中に粗大な美しい建築的な堂堂たる容姿は鳥渡《ちよつと》類のない「典型的」な、エミイル・ヤニングス風なものの多くを持つてゐる。

 グロリア・スワンソンの厭味のある誇張はネグリには洗はれてゐる。スワンソンの癖や垢は彼女を益益あくどくしてゐるが、ネグリにはさういふあくどさが無い。唯その肉體的容積が彼女を偶偶《たまたま》グロテスクな感じにはさせてゐるが、その諷刺ある冷笑をあれ程辛辣に現はし得る女優は當今少ないと言つていいであらう。その背中に至つは曾てのバムパイア女優ニタ・ナルデイを遙かに超えてゐる。しかもポーリン・フレデリツクのやうなヒステリツクの銳角な線は未だ貫いてゐない、その點彼女はまだ「中年女」になり切つてゐないと云つてよい。

 ネグリ物はネグリの演技的存在と同時に、どういふ主役にも餘り失敗してゐない、ヤニングス物が度外れな失敗をしてゐないと同樣な、濃厚な落着と危氣《あぶなげ》のない藝風によつて固められ表現されてゐるからである。「帝國ホテル」のネグリの厚みや、「鐵條網」の彼女、そして「罪に立つ女」のネグリの位置は、モーリス・ステイラーの靜かな常識的なまで正確なリアルな手腕で、彼女をおさへ、彼女の癖を消し試《た》めさうとし、その生地の中のヤサシイものを、母の愛情へ呼び出す努力によつて表現されてゐる。病人の額へまで夫の目前で接吻させるステイラーは、監督的な位置をそれが當然であるところの手法を潔く試みてゐる。殺しの場もよい、それらのネグリは殆ど完全なままで在來の藝風の集中され、秀れた極地の表現であつた。彼女をここまで纏め(よい意味で)上げたものは、やはり彼女の力倆ではあるが、モーリス・ステイラーの中のものが彼女に働きかけたことは、云ふまでもないことである。凡ゆる監督の光輝ある位置も亦此最大を約束してゐるのだ。監督の握り方の厚みによつて爲されるものそれ、役者に冴えて出る演技それでもあるのだ。

[やぶちゃん注:「ポーラ・ネグリ」(Pola Negri 一八九七年~一九八七年)はポーランド出身の女優。サイレント映画時代に活動し、妖艶なヴァンプ役で大スターとなった。当該ウィキによれば、『第一次世界大戦の終わり頃までには、ワルシャワで人気舞台女優となって』おり、一九二二『年にはハリウッドに招かれ』たとある。グーグル画像検索「Pola Negri」をリンクさせておく。

「グロリア・スワンソン」(Gloria Swanson 一八九九年~一九八三年)はシカゴ生まれのアメリカの女優。サイレント時代に活躍したが、一九五〇年のビリー・ワイルダー監督のヒット作「サンセット大通り」(‘Sunset Boulevard’)で、自身の影のような、サイレント時代の栄光を忘れられない往年の大女優を演じたのが忘れられない。

「バムパイア女優ニタ・ナルデイ」ニタ・ナルディ(Nita Naldi 一八九四年~一九六一年)はニューヨーク生まれの女優。サイレント期に最も成功したヴァンプ女優の一人。

「ポーリン・フレデリツク」ポーリン・フレデリツク(Pauline Frederick 一八八三年~一九三八年)はボストン生まれの舞台及び映画女優。

「鐵條網」‘Barbed Wire’ は一九二七年公開のモーリッツ・スティルレル(犀星の「モーリス・ステイラー」は同人物)の監督作品。サイレントの戦争絡みのラヴ・ロマンス映画。ヒロインのモナ・モロー(Mona Moreau)役をネグリが演じた。

「罪に立つ女」‘The Woman on Trial’は一九二七年公開の同じくスティルレルの監督作品。ネグリは主役のジュリー(Julie)を演じた。]

 

 十六 コンラット・ファイト

 

 自分は「或男の過去」のジヨージ・メルフオードに危氣は感じなかつたが、定石的な監督の布置には不滿足だつた。餘りに樂樂とこなしもし、餘りに作り物の感じだつた。

 コンラット・ファイトの立體的なポーズには、熱情も苦心も窺へなかつたけれど、フアイト特有の妙に演技的であり乍ら決して左うでない自然性、自然性の演技的同化ともいふべきものが何時も乍ら感じられた。彼は棒のやうに突つ立ち乍ら、澁い軟味を流暢に曳いてゐた。それは永い間スクリイン生活をした人でなければ、持ち合はせない自然な軟味《やはらかみ》であつた。「カリガリ」以來、「プラーグの大學生」まで彼は依然として棒のやうに突つ立ち、すこし俯向きがちの背後姿を見せた人である。肩、背中、首すぢの歷史的な吾吾の記憶を辿るとしても、彼は依然たる「うしろ向き」のフアイトであり、首を少し垂れた疲れを見せてゐるコンラツトであつた。澁い藝風が彼の持味となったのも當然であるかも知れない。

 ヤニングスの豪邁はまだ澁さには達してゐないが、フアイトの一應「憂欝」なそれ自身から出發してゐる藝風は特に「巧まう」とせず、演技的に執拗ではなく、又「熱」を見せてゐないところの餘りに沈着な、餘りに有りのままな普段着の動作を生活するフアイトであつた。「我若し王者なりせば」の慘忍な王に扮した時の物凄い彼の形相の中にも、依然として彼らしい沈着が、その焦燥の王者の中にあつた。しかもその時は彼は彼の立體的なポーズから離說してゐた。

 自分はフアイトの「うまさ」を見ようとしてゐたが、どういふ點でフアイトであり得るかに就て、自分は彼を刺し貫く眼光をもたねばならぬ努力を敢てしてゐた。併乍ら吾コンラツト・フアイトはゆつくりと大膽に、しかも妙に子供らしい憶憶しさのある步調でスクリインの中を步いてゐた。彼は決して監督を輕蔑も壓倒もしなかつた。ゲルマン風な眞面目な努力で押し通し、自分だけのものを自分らしく消化することによつて、すこし疲れた軟かい立體的なポーズを繰り返し、吾吾の歷史的な記憶の首すぢを少し垂れたフアイトであつた。自分はもう彼のうしろ向きの姿以外に、彼を見る必要はなかつた。「プラーグの大學生」の中の彼、生活をしないスクリインの幽靈だつた彼は、すくなくとも「或男の過去」の中ではともあれ生活的なものを生活することに存在してゐた。それはどう云ふ意味にもコンラツト・フアイトの顏さへ見れば、彼の溫和《おとな》しい象徵詩の分子を含む立體的な背後姿さへ見れば、我我は特に何事も言ひたくない妥協的な、彼への好意を支拂ふことに據つて批評の筆を擱《お》くであらう。それほど彼はスクリインの中の人、スクリインの中で衰ヘと老と疲れとを感じ併せてゐる人、もはや彼を烈しく鞭打つ必要のない人、そのフアイト風な顏さへ見せれば相應の効果を擧げることによつて、決して失敗を繰り返すことのない人であつた。彼自身古典的な演技記錄の上の或標準であり、生きてゐる立體的なポーズの骨董品であつた。

[やぶちゃん注:文中の「コンラット・ファイト」「コンラツト・フアイト」の混雑はママ。ここに出る映画作品は、初めて、殆んどが私の好きなものばかりである。

「コンラット・ファイト」コンラート・ファイト(Conrad Veidt 一八九三年~一九四三年)はドイツ出身の俳優であったが、ナチスを嫌悪し、一九四〇年代にハリウッドへ移住した。誰もが知っている作品では、名作「カサブランカ」(ハンガリー出身でハリウッドで活躍したマイケル・カーティス(Michael Curtiz)監督作品。一九四二年公開)で現地司令官であるドイツ空軍の悪玉シュトラッサー少佐(Major Heinrich Strasser)を演じた。

「或男の過去」‘A Man's Past’。以下のジョージ・メルフォードの監督になるサイレント映画。一九二七年。私は未見。

「ジヨージ・メルフオード」(George Melford 一八七七年~一九六一年)はアメリカの俳優・監督・プロデューサー。

「カリガリ」私の偏愛する革新的なドイツのサイレント映画「カリガリ博士」(Das Cabinet des Doktor Caligari:「カリガリ博士の箱」)。制作は一九一九年で、翌一九二〇年に公開された。監督は現在はポーランドのヴロツワフ生まれのロベルト・ヴィーネ(Robert Wiene 一八七三年~一九三八年)。当該ウィキによれば、本作は『一連のドイツ表現主義映画の中でも最も古く、最も影響力があり、なおかつ、芸術的に評価の高い作品である』とある。シュールレアリスム映画の濫觴と言ってもよいと私は感じている。

「プラーグの大學生」‘Der Student von Prag’。オーストリア生まれのヘンリック・ガレーン(Henrik Galeen 一八八一 年~一九四九年)の監督になる一九二六年のドイツのサイレント映画。私は大学時代に見、映画館から帰る足で本屋に行ってシナリオの訳本を買ったほどに、好きな作品である。主人公の学生バルドゥイン(Balduin)をファイトが演じた。「ファウスト」伝説を下敷きにしているが、実は一九一三年の同名のドイツ映画(監督はデンマーク生まれのステラン・ライ(Stellan Rye 一八八〇年~一九一四年))のリメイクである。

「憶憶しさ」ママ。この「憶」は「臆」の代用字であろう。気遅れがちな様子の意ととる。]

 

 十七 スタンバーグとチヤツプリン

 

 「サーカス」が上映されても些しの刺戟を感じなかつた自分は、第一週の公開の日には何故か見に行く氣になれなかつた。自分には解り切る位解つてゐたからである。彼の縁起の常套と情勢、後へも先へも出られない行詰りで呼吸を窒《つ》めてゐる彼、自分の殼を生涯低迷することしか知らない彼、中途で藝術的な自覺と天才的煽動の綱渡りをして、マンマと彼の喜劇的生活を生活したまでの、演技的舊時代の英雄。――

[やぶちゃん注:「サーカス」(The Circus)は、一九二八年に公開されたアメリカのサイレント映画。チャールズ・チャップリンが監督・脚本・演出・音楽・主演総てを務めた。公私ともに最も困難な時期の一作であるが、私はあのラストに限りない悲しみを感じた。但し、彼の諸作の中では、それほど高く評価はしない。]

 自分は「サーカス」を見て思はず笑はされ、他の看客も同じく雷の如く笑殺されてゐた。その間にチヤアリイ・チヤツプリンは二卷物時代の再描寫を臆面もなく繰り返してゐた。彼獨特のポーズヘの興味は自分を倦怠させ、嫌厭の欠呻《あくび》となり、寧ろ十年に近い今日迄最初の演技を打通《うちとほ》した彼の自信に今更ながら驚き、それをそのまま受け容れてゐるお人善しな我我に不愉快を感じた。我我は笑へない生活をしてゐる者ではない。唯我我は笑ふ時を、笑ふやうな事情を、笑はなければ居られぬものを時時感じることは事實である。心から笑つて見たい願望は疲勞した神經がこれを要求してゐる。我我はチヤアリイを見て笑ひ、「我」を離れて久振りで笑ひ、さうしてチヤアリイに別れて館を出たあとに、笑ひの滓《かす》の如きものすら頭に殘らなかつた。「サーカス」の中の人生をかかる强い絃《げん》が、一本も頭に餘韻をつたへなかつた。凡そチヤアリイほどの頭に殘らないものの甚しいものはなかつた。映畫的な新聞紙を演技する彼ではない。併しながら自分の頭の中には「ソレルと其の子」の如き失敗の作の中にあつたものすら感銘しなかつた。

「ゴールド・ラツシユ」や「キツド」の悌《おもかげ》よりも一層古色蒼然たる「綟子の戾り」かけた彼、手法の困憊《こんぱい》と疲勞、疲勞以上の絕望的な衰退期、――喝采と拍手との中に、彼の運命をも暗示する拍手が交つてゐることは、聰明であるべき彼の特に心付いてゐることであらう。

[やぶちゃん注:「綟子《もぢ》の戾り」「綟子(もぢ(もじ))は麻糸で織った目の粗い布を指す。夏衣・蚊帳などに用いるものだが、どうもそれでは意味が通らない。「ウエッジ文庫」もそのままでルビもないが、どう考えてもおかしい。思うに、これは「戾り」という表現から「捩子」の誤字ではあるまいか? 「螺子」、「捩じる・捻じる」から「捩子・捻子」とも書く、「ねじ」である。

「ゴールド・ラツシユ」通常、本邦では「黄金狂時代」(The Gold Rush)と邦題する。一九二五年製作で、チャップリンが監督・脚本・主演を務めた喜劇映画。文句なしの彼の傑作の一つ。

「キツド」(The Kid)は一九二一年公開のサイレント映画。彼が監督・脚本・主演(サウンド版では音楽も担当)を務めた。やはり名作である。]

 只彼の中に知りたいものは彼が在來の作品から、どれだけ身をかはしたかといふ事、どれだけの速度で轉換期的な演技上の新鮮を表現し得たかといふ事である。チヤアリイ・チヤツプリンは昔のままの彼であり、昔のままの氣の好い子供對手のチヤツプリンであり、遂に今日の吾吾の「失笑」を盛り返すだけのものは、どういふ意味にも彼は最早持合さなかつた。凡ゆる天才の常軌的な行動は彼の上にもその勢ひを揮ひ、今日の我我に通用する映畫的なレツテルは最早我我には興味がなかつた。彼は「時代」をその演技の獨特な世界に於て嚥《の》み下してゐた。併し彼の嚥み込んだ「時代」の年號は正しく千九百二十年前後だつた。併乍ら此天才の莫大なる信憑に據れば千九百二十年の年代と、千九百二十七年の年代との間に、何等の急速度な精神的な時代の變貌がなかつた。變貌ばかりではない、此時代に特に欠くことのできない「心理」すら彼が幾度とない再描寫的の繰り返しに過ぎなかつた。これは他の俳優ならば兎も角、彼の場合見逃すことのできない僞瞞[やぶちゃん注:ママ。「欺瞞」の慣用誤字。]に近い狹い藝風であつた。

 自分は曾て名俳優であるよりも、寧ろ名監督であることを何等かの機會を得て述べて置いたが、實際彼の俳優として演技の絕頂時である「ゴールド・ラツシユ」と「サーカス」と較べて見て、彼は再び新しく立つの彼でないことを手痛く感じた。比較的輕快とされた道化の行動さへも、今は到底莫迦莫迦しくて見るべくもない。それは持味とするには餘りに常套的な持味である。假に文藝作品に於て彼が踏襲するところの再描寫が繰り返されるとしたら、殆ど再讀するに堪へない惡趣味を强制するであらう。

 自分は「サーカス」を見た後に、何となく「巴里の女性」を想起した。彼が監督の位置のみでなく自ら演技しなければ居れぬ氣持は解るが、何故俳優の位置を放棄することに依つて彼の手腕の中にある「監督」的な、鮮明な腦髓を思ふさま振はないであらうか。それは永い間俳優としての彼の最も思ひ切りの惡い困難な放棄に違ひない。併し今日の「サーカス」一篇が「巴里の女性」への人生的な効果と表現美を擧げてゐないことは、誰しも氣の付くことである。「喜劇」が彼の中に丸め込まれてゐる間、世界の喜劇が成長しないといふ譯ではないが、その澁滯した停止線を彼が持つてゐることは事實である。同時に凡ゆる喜劇は不用意な運命と機會との命令によつて生じ、最初からそれに目的されたものに誠の喜劇的條件は有り得ても、その喜劇の爛熟は有り得ないと同樣である。自分は俳優としての彼に何等の將來を感じない。尠《すくな》くとも永い間踏襲したあれらの惡趣味な娛樂の媚に甘えた彼から「飛出さない」限り、自分は遂に何等の期待をも感じ得ない。

[やぶちゃん注:「巴里の女性」(A Woman of Paris)はチャップリンが監督・脚本・製作を務めた、一九二三年公開の長編サイレント映画。私はこの一篇は見ていない。当該ウィキによれば、特異的にチャップリン自身は『駅の場面で荷運び人として一瞬カメオ出演しているのみである。この出演はあまりにも目立たないものであるため、クレジットすらされていない。この映画を見たほとんどの人は、それがチャップリンだと気付かなかったが、それこそチャップリンが実際に意図したことだった』。そうして、『また、もう一つの他のチャップリン映画との大きな違いは、本作が喜劇ではなく、シリアスなドラマである点である』とある。シノプシスはそちらを見られたい。]

 自分はチヤアリイ・チヤツプリンとスタンバーグとの距離、時代、睨み、速度、構へ等に就て當然比較さるべきものを感じた。「救ひを求むる人人」一卷を携へて彼を訪ねたスタンバーグは、もはや無名の何處へ行つても買手の無かつた時代のスタンバーグではなかつた。チヤアリイは無名の彼を認め彼に力を盡した。彼の「救ひを求むる人人」を世に紹介したのもチヤアリイだつた。スタンバーグの手腕に驚嘆と讃同と激勵とを與へたものもチヤアリイだつた。或はチヤアリイが居なかつたらスタンバーグの世に出ることは、今少し位は遲れてゐたであらう。スタンバーグに取つて大家であるチヤアリイの懇切さは、絕大な喜びであつたに違ひない。

 併乍らスタンバーグは昨日のスタンバーグではなかつた。「暗黑街」を持つて立つた彼の周圍には敵手のないまでに鮮かな出現の地位を贏《か》ち得てゐた。彼の目的されたものの精神には妥協の過程を踏むことはなかつた。決して顧みることなき人生派の詩人の踏み出しを敢行し明日と其明後日へ働きかけてゐることは「暗黑街」を評價した折に述べたところであるが、チヤアリイは此間に造花に似た本物に近い一本のばらの花を、伺時までも振り廻してゐるとしか思はれなかつた。回想と昨日の眞實に跼蹐《きよくせき》してゐる彼の身悶えは、結局チヤアリイを疲勞させ澁滯させ、出口のないところに趁《お》ひ詰めてゐた。彼が「サーカス」の鏡の間に追ひ込まれたのは、何と皮肉な彼への、出口のない昏惑と行詰りを意味し運命と自然との何と快い折檻であることか、――全く彼は鏡の間に於ける八方に映る彼を見きはめ、その幻影的な囘想的な抒情詩への拒絕を以て立たなければならないのだ。

[やぶちゃん注:「彼は鏡の間に於ける八方に映る彼を見きはめ」映画「サーカス」で、チャーリー演ずる主人公が警察に追われ、見世物小屋に逃げ込み、ミラー・ハウスに入ってしまって迷うシークエンスを皮肉に使った謂い。当該ウィキに、その画像がある。]

 チヤアリイの神經は間伸びがしてゐる。スタンバーグは今の時代にピツタリと身を寄せ、身を寄せることに依つて全神經の銳どさ新しさに立脚してゐる。併し何とチヤアリイは時代から離れた胡散《うさん》な顏付をしてゐることだらう。彼は彼をさヘ胡魔化してでもゐるやうな古色蒼然たる「サーカス」の中に、ハロルド・ロイドの調子を繰り返してゐる、自分は綱渡りの中にも彼の姿を見たに過ぎない。

[やぶちゃん注:「ハロルド・ロイド」(Harold Lloyd 一八九三年~一九七一年)はアメリカのコメディアン。一九二〇年代のバスター・キートン(Buster Keaton 一八九五年~一九六六年)とチャールズ・チャップリンとともに活躍したサイレント映画の喜劇王の一人。]

 ともあれ一代のチヤアリイ・チヤツプリンと雖も、もう時代遲れであることは疑へない。これ以上彼と步調尾《を》を揃へる「時代」は世界中に滅びてもゐるし、彼の演技に於て既に亡びかかつてゐる。彼に望《のぞみ》をかけることは最早監督としての彼の外の物ではない。「サーカス」の場面への檢討と嚴格な批評では、到底彼の未來を暗示し物語るものはない。自分は彼の「サーカス」を二年間の沈默の後の作品などといふ、いい加減な胡魔化しと曖昧な常套的な手法でマヤかされることは、彼の爲にもしないつもりである。

 ハロルド・ロイドやダグラスやデニーの喜劇的な世界に於て、チヤアリイが唯一の「蒼白さ」を持つてゐたことは曾て自分の說いたところである。彼が人生の中の「蒼白さ」を喜劇の中にこもらした事、決して喜劇が喜劇で停《とど》まらないところの、彼らしい悲喜劇的な人生構圖も自分は認めるものである。過去に於る凡ゆる喜劇俳優の中に最も意識的な彼であり、最も徹底した喜劇が悲劇に代辯すべき程度にまでの高揚を敢て演技したものも彼である。併乍ら彼を說くことは何よりも未來を釋明することでなく、過去を計算するところの最早記錄的な「數字」でしか無いのである。

[やぶちゃん注:犀星のチャップリンへのこの時点での以上のそれは、超辛口の批判である。戦後まで生きた犀星(昭和三七(一九六二)年三月二十六日:肺癌・満七十二)に、その後のチャップリンの映画について感想を聴き、この嘗つてのチャップリンへの引退勧告のような記事をどうするか、聴いてみたいものである。

 

 十八 コールマンとマンジウ

 

 アドルフ・マンジウは何時も短篇と小品の中に、彼一流の演技をこなしてゐる。新しくも古くもない、氣の利いた持味で充分に行動してゐる。「セレナーデ」の彼は最近にない好技の潤ひを出してゐた。

 ハリー・ダラストの鮮かな韻律は、マンジウを隨所に引締めてゐた。最初の貸間を見に行くところ、グレツチエンが夜の石段に腰かけてゐたところ、その以前の植木に水を遣つてゐるところもよかつた。――マンジウのフランツが夜遊びから更けて歸つて來て、臂《ひぢ》をタオルで拭いて女の口紅がタオルに殘るところも、强い韻律的な表現であつた。ともあれ妙に小品風な、或型を起すことに秀《ひいで》てゐる彼は、行くところに小さい締つた成功をしてゐた。ダラストの手際も纏つた冴えを見せてゐる。「婦人に給仕」程の冒險は無いが、文字通りの「セレナーデ」風な、纏つた作品である。

 ロナルド・コールマンとマンジウとは好一對のスタイルを持ち、どちらも些かアメリカ臭を脫してゐる點が、自分に好ましさを與へてゐる。コールマンには妙な憂愁味があり、藝風は地味な行方をし、マンジウは派手で「派手の澁味」を出さうとしてゐる。彼等の孰方《いづかた》も澁味へ落着く俳優にちがひない、あれらの演技的極北は到底澁味以外に落着くところがないからである。彼はねらふこと無くして自然に澁味に辿り着くであらう。演技といふものは結局幅の問題ではなく、奧行の問題に過ぎない。マンジウの時には喜劇的なポーズの中には、西洋人のハイカラがあり贅澤があり、それらに向く「面」を持つてゐる。コールマンのハイカラと妙な高踏風なポーズには、弱い憂愁的な抒情詩が窺へないでもない。彼らは殆ど好みに合はないアメリカ物の俳優の中、僅《わづか》に自分の好きな俳優である。

[やぶちゃん注:「セレナーデ」‘Serenade’。一九二七年制作。監督はアルゼンチンのブエノスアイレス生まれでハリウッドに移住したハリー・ダバディ・ダラスト(Harry d'Abbadie d'Arrast 一八九七 年~一九六八年)。主役のフランツ・ロッシ(Franz Rossi)をマンジューが演じた。但し、このフィルムは現存していない。]

 

 十九 大河内傳次郞氏の形相

 

 或晚劍劇を看て初めて大河内傳次郞の物凄い形相を見て、靜かな陋居《ろうきよ》にかへつた後にも、彼の形相が記憶力の減退と空想の衰弱した頭に百年の夢魔の如くに絡《まと》はり殘つて安らかな夢さへ結べなかつた。しかも劇中牢舍の中で一武士が退屈の餘りから考へついて、自分の肢體の陰影を操り乍ら犬や狐や狼の形をあらはしてゐる凄慘な光景が永い間自分を惱ました。

 犬河内物は其後二度ばかり見て、彼も阪東妻三郞の如く世に出るだけのものは、どういふ意味に於いても持つてゐることに感心した。惡どい峰のやうな形相も摸倣や熟練によつて表現されるものではない。彼もまた何百年かの祖先から約束され壓《お》し出され、その昔から殘つてゐた形相《ぎやうさう》を偶然に持ち合してゐるからである。歌舞伎劇なぞのやうな生優しいものではなく、いつも形相の銳どさが把握する力だけを手賴る劍劇では、僕等に於けるペンを把《と》る右の手よりも大切であらう。此意味に於てロン・チエニイよりもその形相に於ては夥しい創造をもつてゐることを疑へぬ。阪東氏は餘裕を置いてゐるが彼は絕えず一杯に當つてゐるやうである。尠くとも一杯の力で當る程度に見せるといふことが、それ自身形相から來る感じや幅が左う見せる爲かも知れない。自分は餘り舊劇以外のものは見てゐないが、舊劇による背景の築地《ついぢ》や橋梁や往還や土手や白壁や寺院には、ふしぎに百年以上の或光景ををさめ得てゐることは、不思議とすれば稀有のことである。「時代の摸倣」はその劇中人物よりも舊劇に取つては、就中肝要なことはその背景の重要なる表出であり、そのものによる時代の古色蒼然を髣髴することに於て、渾然たる成功を得るであらう。

[やぶちゃん注:「大河内傳次郞」(明治三一(一八九八)年~昭和三七(一九六二)年:福岡生まれ)は後の阪妻とともに数少ない私の好きな日本の俳優である。一番好きなのは、黒澤明の「虎の尾を踏む男達」(一九五二年)の弁慶である。「姿三四郎」(一九四三年)の矢野正五郎も忘れ難い。私は日本映画はあまり好まないので、ここで犀星が見た作品が何であるかは判らない。

「阪東妻三郞」(明治三四(一九〇一)年~昭和二八(一九五三)年)は東京府神田区橋本町(現在の東京都千代田区東神田)の生まれ。歌舞伎修行から大正八(一九一九)年に国際活映のエキストラに出演したのが、映画界入りの最初。何と言っても! 何をおいても! 「無法松の一生」が一番! 昭和一八(一九四三)年十月公開。大映の製作で、監督は稲垣浩、脚本は伊丹万作。しかし、戦時の内務省の検閲で松五郎が、親しくしていた陸軍大尉の故吉岡小太郎の未亡人よし子に密かな愛情を告白する部分、それに纏わる回想シークエンスなどが検閲で削除され、戦後になってからもGHQによって軍国主義的と誤解され、一部が削除されるという二重の裁断を余儀なくされた不幸な作品である。また、「よし子」を演じた園井恵子(大正二(一九一三)年~昭和二〇(一九四五)年八月二十一日)は岩手県出身で宝塚音楽歌劇学校卒。しかし、所属していた移動劇団「櫻隊(さくらたい)」が、当時、活動の拠点としていた広島市で、八月六日の原子爆弾投下に遭い、半月後の同月二十一日、原爆症により、三十二歳で亡くなっている。特に「黒澤組」の宮川一夫の撮影が素敵で、特に終盤近くの小倉祇園太鼓の「乱れ打ち」に乗って沸き立つ雲をカット・バックするシークエンスは凄いぞ!

 

 二十 伊藤大輔氏の「高田の馬場」

 

 伊藤大輔氏の「高田の馬場」は大河内傳次郞氏を生かしてゐる。神經的な銳どさ尖りを持つ大河内氏の安兵衞は、最後の井戸水を浴びるところ、手紙を繙讀《はんどく》するところ、飯を食ふところ、江戸市中を彷徨するところ等に最も適當な効果を擧げてゐた。伊藤氏の手法もかつちりと鍔鳴りを感じさせる程度の手堅さがあつた。

 浪宅に於《おけ》る同じい朝と夕方のシインの再描寫に、或効果を豫想してゐる伊藤氏は此點寧ろ愛すべき稺氣《ちき》があつた。ああいふ場面の繰り返し、(多少ポーズとデテエルの變化は見たが、)は危險な失敗を見ることが多い。それを遣つて退《の》けたのはいいが、失敗は立派な失敗だつた。もう一つお勘婆さんの馬場へ馳けつける大向《おほむかう》を豫期した手法も、むしろ無駄な插話的な失敗だつた。安兵衞の長長しい驅つこも、効果の少ない徒勞に近いものだつた。興行的方面の喝采からも、かういふ陳套《ちんたう》な幾度か繰り返された場面は省略すべきであつた。浪士の江戶市中を彷徨するあたりに目立たない場面の變化を試みたところに、地味な鮮かさが印影されてゐた。それらのリズムの一見變化の無いやうに見える「變化」は、殊に矢場や矢場のある附近の光景に多かつた。伊藤氏の試乘的なものに絕えず努力の跡の窺はれるのは、何よりも自分を快適にした。

 大河内傳次郞氏には度たび論及したが、何時かの「彌次喜多」何何いふ天下の愚を集めた映畫の中に彼を見た時ほど、腹立しいことはなかつた。何故ああいふ映畫に妥協するのか、自分は大河内氏の大成を信じなければならない、それ故ああいふ愚昧主義の安價な妥協に攻勢を取らなければならない、――いい加減な映畫にいい加減な演技を揮ふことは、それだけの場面的な惡い馴致《じゆんち》が恐ろしい、未來の演技的な高さへまで影響もし、又その妥協への卑俗性がダニのやうに憑《つ》き纏ふのだ。凡ゆる俳優の陷穽《かんせい》的惰勢は何時もここから呪はれて行くのである。大河内氏よ、伊藤氏とよりよく取組め。そして第一流から辷り落るな、決して妥協するなかれ、これは貴君を愛する一人の看客の聲であることを忘れるな、貴君を愛することに於て熱情をもつものの聲を、絕えず貴君は背後に感じ演技し行動しなければならない。

[やぶちゃん注:『伊藤大輔氏の「高田の馬場」』「血煙高田の馬場」(昭和二(一九二八)年・日活)の中山安兵衛役を大河内が演じた。監督伊藤大輔(明治三一(一八九八)年~ 昭和五六(一九八一)年)は時代劇映画の基礎を作った名監督の一人で、「時代劇の父」とも呼ばれる。部分的にネット上の動画を見たが、私は多分、見ていない。

『何時かの「彌次喜多」何何』は日活のコメディ時代劇シリーズ「弥次㐂多」の三作で喜多役を演じた。「弥次喜多 尊王の巻」(昭和二(一九二七)年)・「弥次喜多 韋駄天の巻」(昭和三(一九二八)年)・「弥次喜多 伏見鳥羽の巻」(前と同年)である。]

 

 廿一 詩情と映畫

 

 映畫に詩情のないものは稀である。だが映畫に誠の詩情を見ることも極めて稀である。監督の詩情的な試乘は却《かへつ》て映畫をだれたものにし、甘いものとする以外、餘り成功した例しがないようである。

 最近に自分は「最後の命令」「暗黑街」「シヨウ・ダウン」等の諸作にその演技を揮うてゐるエヴリン・ブレントに、並並ならぬ牽引を感じ、人生詩の薀奧《うんおう》を味ひ感じた。リリアン・ギツシユやメイ・マレーに墮落した美の常踏者であつた自分は、メイ・マツカーボーイの餘韻ある美に心惹れた。それは品と雅とを兼ねた溫和な美しさであつた。美の中にある詩情は勿論常識的ではあつたが、皮膚に音樂的な恍惚と滑かさとが現れてゐた。彼女に最も豐なものは「そよかぜ」の頰を過ぎる優しいタツチの美である。刺戟を含まず、自分等の心に柔らかくなよなよして來る感じであつた。決してリア・デ・プテイの如き銳い肢體を摩擦される如き感覺ではない、リア・デ・プテイの特徴は彼女の中にはないが、彼女の呼吸づかひは文字通りの「花」を感ぜしめるやうである。

 エヴリン・ブレントの美はマツカヴオイやリア・デ・プテイの如き表面的なものではない。彼女の美は直接自分らの心理的接觸を敢てして來る、性格美であり個的な、類型のない冷かな美しさである。稀にはその美の中に酷《むご》たらしい冷却された失笑が苦汁のやうに滴つてゐる。「最後の命令」の中のスパイに扮した彼女が窓際から街路を見下すところがある。冷かな動かない表情が窓枠を其儘額緣に塡《は》め込み、一枚の生きてゐる「寫眞」のやうに見せてゐた。自分は蒼白に近い彼女の冷酷な表情の中に、刺し貫いてゐる烈しい人生詩の美を感じた。それは自分等の心に疼いて來る美であり、蜂のやうに刺してくる美の針のやうなものである。「暗黑街」のブレントは辿辿《たどたど》しい初初しさがあり、「最後の命令」の中の女ほどコナれてゐなかつた。しかしスパイとしてのブレントは最早長足に進步もし、突き込む氣力を演技の端端に表してゐた。自分は何となくリア・デ・プテイを想起し、その白痴的な美を囘顧しながら、ブレントの中にある氷のやうな美を手摑みにしながら、自分の飢ゑをしのいでゐたのである、全く自分は永い間ブレントのやうな美に飢ゑ餓ゑてゐた。ああいふ美は自分を烈しい矢のやうな銳角さで影響して來るのであつた。

 凡ゆる女優の美の中で最も恐るべきものは、派手な甘い常套的な美であつた。過去に於るアメリカ型の美は寧ろ低級な、性欲に擦《さす》りを與へる單なる標準美であるに過ぎなかつた。これらの美は映畫の本質に融和すべきものではあつたが、何等の藝術的な一流の本質美を築き上げるものではなかつた。女優に於る美が映畫を通俗と藝術との間に低迷させることは事實である。エヴリン・ブレントの通俗化はどういふ意味にも行はれることではない。冷嚴の中に謎を含んだ人生詩の内容は、ブレントの表情の中に橫溢してゐるばかりでなく、それらを統《す》べてゐる寂莫《じやくまく》の情は限りなく美しい。寂莫の情を圍繞《ゐねう》するものはブレントの冷たいキビシサである。自分の心に疼《うす》いて來る美も、又かういふ美の外のものではない。スタンバーグが生かした詩的精神は決して失敗してゐない。立派な搖がない焦點に効果を上げてゐる。或意味に於て最近に詩情ある映畫詩は、エヴリン・ブレントの中に僅かにあると言つてよい、恐らく今後に於るブレントの演技と藝風及びその性格的な把握は、益益銳どい人生詩の眞の姿や其接觸を示すであらう、決して彼女ごときは輩出する女優の中に求められない「珍しい」女優であるに違ひない。

 映畫の巾にある詩及び詩情は、寧ろ監督の意識的表現であるよりも、何よりも我我高級な達者な達眼者のみ看客が發見する「詩」でなければならない。我我が映畫の中に見る詩は決していい加減な監督や女優の意圖ではなく、吾吾の中にある詩や詩情が彼らの中のものを發見し、呼應もするのである。第一流の看客は同時に又監督級の立場、精神、考究、把握の諸式を持ち、そこに行ふ批判も自らその竣烈《しゆんれつ》であるべき、當然の權利を持つ者をいふのであらう。

[やぶちゃん注:「最後の命令」‘The Last Command’ (一九二八年)はスターンバーグが監督したサイレント映画。エミール・ジャニングス主演。彼は翌一九二九年、この映画と前に出たフレミング監督の「肉体の道」での演技でアカデミー主演男優賞を受賞している。neco-chats氏のブログ「監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ「最後の命令」1928年」で全篇の動画を見ることができ、「映画の中の映画」という入れ子になった興味深いストーリーのシノプシスもよく説明されてある。必見。エヴリン・ブレントはナタリー・ダブロワ(Natalie "Natacha" Dabrova)役を演じている。犀星が言うシーンは3135以降にある。

「シヨウ・ダウン」‘The Showdown’(一九二八年)はアメリカの作曲家で映画監督でもあったヴィクター・シャーツィンガー(Victor Schertzinger 一八八八年~一九四一年)監督作品で、ヒロイン役のシビル・シェルトン(Sibyl Shelton)役をイヴリンが演じた。

「リリアン・ギツシユ」アメリカの女優リリアン・ギッシュ(Lillian Gish 一八九三年~一九九三年)は、サイレント時代を代表する映画スターで、「国民の創生」(‘The Birth of a Nation’)・「イントレランス」(‘Intolerance’)などで知られるデヴィッド・ウォーク・グリフィス(David Wark Griffith 一八七五年~一九四八年)監督の作品で、清純可憐な役柄を演じたことで知られ、「アメリカ映画のファーストレディ(The first Lady of American cinema)」と呼ばれた。

「メイ・マレー」(Mae Murray 一八八五年~一九六五年)アメリカのサイレント映画の女優。ニューヨーク出身。ダンスの名手として人気を誇った。

「メイ・マツカーボーイ」メイ・マカヴォイ(May McAvoy 一八九九年~一九八四年)はアメリカのサイレント映画の女優。知れれた作品では、「ジャズ・シンガー」(‘The Jazz Singer’:一九二七年)のヒロインのメアリー・デール(Mary Dale)役がある。最終章で、彼女について犀星は語っているので、ここでグーグル画像検索「May McAvoy」をリンクさせておく。

 エヴリン・ブレントの美はマツカヴオイやリア・デ・プテイの如き表面的なものではない。彼女の美は直接自分らの心理的接觸を敢てして來る、性格美であり個的な、類型のない冷かな美しさである。稀にはその美の中に酷《むご》たらしい冷却された失笑が苦汁のやうに滴つてゐる。「最後の命令」の中のスパイに扮した彼女が窓際から街路を見下すところがある。冷かな動かない表情が窓枠を其儘額緣に塡《は》め込み、一枚の生きてゐる「寫眞」のやうに見せてゐた。自分は蒼白に近い彼女の冷酷な表情の中に、刺し貫いてゐる烈しい人生詩の美を感じた。それは自分等の心に疼いて來る美であり、蜂のやうに刺してくる美の針のやうなものである。「暗黑街」のブレントは辿辿《たどたど》しい初初しさがあり、「最後の命令」の中の女ほどコナれてゐなかつた。しかしスパイとしてのブレントは最早長足に進步もし、突き込む氣力を演技の端端に表してゐた。自分は何となくリア・デ・プテイを想起し、その白痴的な美を囘顧しながら、ブレントの中にある氷のやうな美を手摑みにしながら、自分の飢ゑをしのいでゐたのである、全く自分は永い間ブレントのやうな美に飢ゑ餓ゑてゐた。ああいふ美は自分を烈しい矢のやうな銳角さで影響して來るのであつた。

 凡ゆる女優の美の中で最も恐るべきものは、派手な甘い常套的な美であつた。過去に於るアメリカ型の美は寧ろ低級な、性欲に擦《さす》りを與へる單なる標準美であるに過ぎなかつた。これらの美は映畫の本質に融和すべきものではあつたが、何等の藝術的な一流の本質美を築き上げるものではなかつた。女優に於る美が映畫を通俗と藝術との間に低迷させることは事實である。エヴリン・ブレントの通俗化はどういふ意味にも行はれることではない。冷嚴の中に謎を含んだ人生詩の内容は、ブレントの表情の中に橫溢してゐるばかりでなく、それらを統《す》べてゐる寂莫《じやくまく》の情は限りなく美しい。寂莫の情を圍繞《ゐねう》するものはブレントの冷たいキビシサである。自分の心に疼《うす》いて來る美も、又かういふ美の外のものではない。スタンバーグが生かした詩的精神は決して失敗してゐない。立派な搖がない焦點に効果を上げてゐる。或意味に於て最近に詩情ある映畫詩は、エヴリン・ブレントの中に僅かにあると言つてよい、恐らく今後に於るブレントの演技と藝風及びその

「峻烈」非常に厳しいこと。]

 

 廿二 「十字路」

 

 自分は武藏野館に「在りし日」を見る爲例によつて時間を聞き合せて出掛けたが、「十字路」は既に映寫を終つたところであつた。自分に「十字路」を見る氣持は些しも動いてゐなかつた。「十字路」ばかりではない。自分の信じることのできない作品は一切見ないことにしてゐたからである。

 自分の近くの動坂松竹館に「十字路」が上映され、自分は散步しながら何か「十字路」に氣持が動いてゐた。客の少數《すくな》い晝間の上映時間を聞き合せ、その翌日自分は「十字路」を見たのである。自分は眩しい午後三時過ぎの外光の中を自宅へ歸りながら、稀《めづら》しく昂奮を感じ、その昂奮の中に自分が「十字路」を武藏野で見なかつた頑固さと後悔を感じた。自分は日本の映畫にもつと打込んだ素直さを持つべきであることを染染《しみじみ》感じた。さういふ自分に「十字路」は徹頭徹尾苦しい作品であつた。衣笠貞之助氏の作に苦しむ氣持が影響し、その影響はこれ程まで苦吟してゐる男がゐたかといふ、その良心が自分を感動させた。かういふ良心的な力一杯の作は自分には稀に見る感激であつた。

 自分は衣笠貞之助氏の中にあるエロテシズムの不徹底も、リアリズムの非感情的であることも、演劇的であることによる非寫實的な統一も感じてゐたが、彼の「心臟」は尠くとも全卷的に自分へも鼓動してゐた。此鼓動は到底日本で得られるものではない。伊藤大輔氏の或種の表現にはそれがあつたが、自分の見た衣笠氏の中のものは日本で初めてであつた。尠くとも彼の鼓動は自分につたはり自分はよき編輯者がよき作家を發見した時に感じる、その喜びさへ感じた。自分はストロハイムやスタンバーグをも、「十字路」に見ないことはなかつた。殊に「救ひを求むる人人」の影響も感じないではなかつた。併乍らそれは批評を目標とする自分の病癖だとしても、「十字路」は明瞭に凡ゆる現代の映畫的なるものの上の第一流を勇敢に押切つてゐた。かういふ良心、苦吟狀態を續けてゐるものは賤商の徒の夢にも知らぬところであつたらう。

 誇張に過ぎた時代的な大味は兎もすると、厭味を交へてゐたが、千早晶子氏の姉と、矢場の女に扮する小川雪子氏との對照、十手を拾つた男の相馬一平氏の性格描寫の中には、衣笠氏の試乘的な成功は疑ひなかつた。殊に千早晶子氏は自分は初めて見る人であるが、危ない初初しい、齒ぎれのよくない演技の中に「姉」を感じさせるものが充分にあつた。一場面に賣られた女が一人坐つてゐるところがあり、すぐカツトしてあつたが印象はよかつた。矢場の光景はくどくどしく、失明昏倒の描寫的な種種な手法ももつと簡潔を肝要とすべきであらう。矢場女の小川雪子氏のそれらしい嗤笑《しせう》も、充分な呼應を監督との間に共鳴してゐた。

 テムポは甚しく不統一ではあつたが、これ程に仕上の利いたことは、夜の撮影ではあり苦衷は充分に外面ににじみ出てゐる。ともすると暗きに過ぎることは何か演劇的な構圖へ吾吾の神經を誘はないでもなかつたが、苦しい作品として自分を感動させたことは稀しいことである。かういふ作の上で苦しむ人も今のところ日本に數ある譯ではない。

[やぶちゃん注:昭和三(一九二八)年に公開された悲劇的時代劇映画でサイレント。監督・脚本は衣笠貞之助(明治二九(一八九六)年~昭和五七(一九八二)年)。衣笠映画聨盟制作。私は大学一年になった昭和七五(一九七五)年に、岩波ホールでエキプ・ド・シネマ主催によって同監督の「狂つた一頁」(大正一五(一九二六)年に公開された日本初の本格的なアヴァンギャルド映画。サイレント。主演は井上正夫。衣笠が横光利一や川端康成などの新感覚派の文学者と結成した新感覚派映画聯盟の第一回作品)とともに、このサウンド版の特別上映を観た。後者には激しい衝撃を受け、「十字路」も近代の悲惨小説を思わせるそれが、デフォルメと不思議に強烈なリアリズムとともに、古さを感じさせないもので、私の乏しい日本映画の数少ない中で、孰れもベスト作品であり続けている名品である。

「千早晶子」(明治四一(一九〇八)年~?)は大阪生まれの女優。昭和一一(一九三六)年に出演作品の多くを監督した衣笠貞之助と結婚している。

「小川雪子」詳細事績不詳。

「相馬一平」後に芸名を高勢實乘(たかせみのる 明治三〇(一八九七)年~昭和二二(一九四七)年)と変えた時代劇俳優。北海道函館生まれ。後に喜劇役者としても知られるようになった。]

 

 廿三 エキストラガールの魅惑

 

 名もないエキストラガールは一秒間乃至五秒間位で、その畫面から消えてしまふ。消えたが最後自分達が生涯の間に再び見る機會のない最早「過去」の娘達である。女給仕、女中、或群衆の中の一人、步道の通行人としての凡ゆるエキストラガールの新鮮な美しさは、自分が既往に見た混沌たる映畫的人生の中に、今も鮮かな驚く程の美しさを殘してゐる。恰《あたか》も自分等が電車や散步の途中などで行き會うた美しい女人の感銘が、何時の間にか記憶の中に滅びてゐるに拘らず、或日の或感覺的想念の中に生生《いきいき》と考へ浮んでくるのと同樣の感じである。

 エキストラガールは布面の三秒間のために一週間もスタジオに通ふことは人人の知るところであるが、その三秒間のために彼女等の演技や藝術がないとは云へない。尠くとも自分のこれ迄に見た多くのエキストラガールは、全くその顏や動作には甚しい辿辿しい幼稺《えうち》なところはあつたが、しかもその選拔された美しさは映畫の上の「作つた」美しさではなく、全くの美人の生地をそのままに顯した美しさであつた。

[やぶちゃん注:「布面」スクリーンのことだが、読みが判らぬ。「ふめん」か「ぬのめん」か。]

 街路を步む彼女は通行人の消えやすい魅惑を持つてゐた。その「新鮮」さは却つてスターのそれには見難いが、女給仕や女中としての彼女等の一秒間の名もない演技に顯れてゐた。ドアから廊下へ消えて行く彼女のすがすがしい容姿は、それだけで私の覺えのアートペエパーの中に「魅惑」の一女性として殘つてゐるのである。

 エキストラガールは一の映畫を刺繡する以外にも、効果を擧げてゐることを忘れてはならぬ。エキストラガールの選拔は最も重要な急所であり、その插話的感銘は常に新しいフアンの心臟にほくろのやうに殘つてゐる。四五年前に或競賣臺の上で女奴隷を賣る場面を見たことがあつたが、その折の女奴隷に扮したエキストラガールは悉く乳房を露出し、有繫《さすが》に顏は見えぬやうに寫されてゐた。自分は其時は何か知ら切なげな彼女等に同情した。人魚の眞似をする場面には同情できないが、エキストラガールとしての最も苦痛以上な乳房の露出は、自分の最高級の德にも影響をたらしたことは事實であつた。

[やぶちゃん注:この当時、映画のエキストラの女性に一章を割いた犀星に対し、大いに賞賛を揚げるものである。]

 

 廿四 リア・デ・プテイ

 

 自分はキヤメラの中にひた押しに進む氣持を感じる。あらゆる銳角な、寸刻も惑はないキヤメラの中に犇犇《ひしひし》と挾り立てて行く氣持の烈しさを感じる。自分はリア・デ・プテイの肉顏の中に白痴のやうな美しさを見た。彼女がアメリカ人でなかつた故かも知れない。「曲藝團」の親方に射竦《いすく》められた時の肉顏の驚きの表情には、彼女もデユ・ポンも知らないでゐた「白痴」の美しさがあつた。處女の驚きは同時に「白痴」の驚きに外ならないものである。

 キヤメラマンの呼吸《いき》づかひ、速度以上の速度、すぐ消える音樂以上に迅《はや》い表情、捕捉しがたい夢、自分は自分の中にあるものと戰ひながら、「彼女」等を見、又經驗するたびに殊にリア・デ・プテイの中にある「白痴」に喝采し拍手した。惡魔のごとく自分は喝采した。自分はカラマーゾフのミーチアの心理を一應經驗した位だつた。

 自分はあらゆる映畫の好シーン、好き觸覺に身を委ねるごとに、餓鬼のごとく正直に戰慄をし、又餓鬼のごとく貪り啖《くら》ふのが常であつた。同時にあらゆるフアンの中にある「餓鬼の相」をも兼ねてゐた。リア・デ・プテイの表情にある「白痴」、それに相對《あひむか》ふ私の性情にある「白痴」、あらゆる女の所有(も)[やぶちゃん注:二字への一字ルビ。]つものであり同時にあらゆる女の中に抹殺されようとしてゐる「白痴」、又あらゆるクララ・ボウ式女性の中にある「白痴的近代」、女が白痴の心性に陷沒乃至その傾向をもつ時の魅惑、聰明と相隣り合ふ白痴の美しさ惑《まど》はしさは、不思議にリア・デ・プテイに對ふ私に快よき苦痛を與へたのである。

 

 廿五 メイ・マツカヴオイの脂肪に就て

 

 脂肪ある女の肉顏は大槪の場合その色は白い。脂肪それが皮膚に潤澤を與へ、顏の厚みと深みを組み立てるに力があるからである。勿論脂肪があつても色の黑い女はあるが、それは稀有のことで脂肪ある肉顏には快い微かな張のあるつやを持つてゐて、鼻なぞは寧ろなまなましい美しさに疼いてゐる。メイ・マツカヴオイの美はそれらの脂肪が適度に調和されてゐた。ウヰンダミヤ夫人としての彼女の容姿は、取りも直さず脂肪の音樂的交響を暗示するものであつた。ウヰンダミヤ夫人としての「脂肪」に品もあり或銳い男を撥くものも同時に共有してゐた。ヴイルマ・バンキーの「脂肪」は彼女のそれよりも若いが、その「鼻」に働きかけてゐる微妙な美しい些細な脂肪の練り方は、その型のアメリカ風であるに拘らず、寧ろ英國風なスタイルに近い現代アメリカ型の絕頂を裝ひ盡したものであり、メイ・マツカヴオイと双壁の「鼻」の美を所有してゐる。これらの比較ではペテイ・ブロンソンの子供らしい併し脂肪なき、かすかな貧弱な絕望的な「鼻」を思ひ併せる時、やはりウヰンダミヤ夫人として彼女は適當な配役的構圖中の人物であらう。

[やぶちゃん注:メイ・マカヴォイは既注。そちらで挙げてあるが、再度、グーグル画像検索「May McAvoy」をリンクさせておく。

「ヴイルマ・バンキー」ヴィルマ・バンキー(Vilma Bánky 一九〇一年~一九九一年)はハンガリー系アメリカ人の無声映画女優。彼女の英文ウィキはこちら。また、グーグル画像検索「Vilma Bánky」をリンクさせておく。]

 映畫中の女優の美は本來の肉顏の美に加へられた映畫的人生の諸相からも、それからの境涯的美の變遷からも本物より以上に美しく吾吾の視神經を刺戟するのである。吾吾の萎《しな》びた紙屑的ロマンスが甦生《そせい》するのも亦さういふ時である。畫面に一肉顏としてのみ寫るマツカヴオイの皮膚には、白粉《おしろい》をしのぐ脂肪のつやを自分等に感知せしめる。又彼女等の鼻のかげが頰の上にうつる或咄嗟の美しさは、その鼻を如實に寫すところの脂肪それ自身の潤澤が左うさせることを見遁してはならない。我我が凡ゆる畫面に立つ彼女等の二重美に刺戟されるのは、小說的女性美が人生の濾過的條件の下に說明される美であるやうに、映畫的人生が溶解し又加へるところの彼女らの「二重美」であらう。エルンスト・ルビツチが彼女の中に高雅な脂肪を見遁さなかつたのは同時に彼の中にあるウヰンダミヤ夫人の空想を攝取したものに違ひなからう。ノーマ・タルマツヂは白い兎の圖のやうな年增脂肪をもつてゐる。自分はポーリン・フレデリツクに較べ年增《としま》の强烈さと反對の「靜かな」脂肪を感じるのであるが、此二人の女性はアメリカの末期的脂肪を代表したものに外ならない。野卑と粗雜、チーズとベエコンの混血兒であるクララ・ボウの肉顏には、脂肪の野蠻性、それの活勤や混亂、血液的モダンの初潮、同時に彼女の脂肪は月經と同樣の働きを營むところのものであらう。彼女の脂肪がどういふ意味にもマツカヴオイのそれと同時代のものであることは考へられない。或はそこにクララ・ボウの立場があるとしなければならないが、ベエコン式脂肪はそれ破裂するか、若くは墮落するかの二つであらう。脂肪はそれの靜寂を營むことにより漸く「その人」をつくり上げてゆくからである。メイ・マツカヴオイの品と高雅、その輪廓正しく美しい鼻、それらに過度に行き亘つてゐるところの脂肪の微妙さは、同時に脂肪それ自身が營むところの美しさであらう。彼女やヴイルマ・バンキーの肉顏の輝く所以のものは、自分の說く「脂肪」が第一義的女性美を輪廓づけ、肉づけることにより彼女らの美を釋《と》く自說と一致するのである。

[やぶちゃん注:「エルンスト・ルビツチが彼女の中に高雅な脂肪を見遁さなかつた」よく判らないが、データを調べるに、ルビッチの一九二四年公開の「三人の女性」(‘Three Women’)で、主役級のジーニー ウィルトン(Jeanne Wilton)役に当てたことを指すか。

「ノーマ・タルマツヂ」ノーマ・タルマッジ(Norma Talmadge 一八九四年~一九五七年)はニュージャージー州生まれの映画女優。]

2022/12/20

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 葛籠介・簾介 / 左個体=ケマンガイ/右個体(不詳)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここ。左丁に、『以上筑前産』と条立てし、後に『筑前隱士君ヨリ小澤弾正被送予乞之眞寫』(筑前の隠士君(いんしくん:匿名化してある)より小澤弾正え(へ)送らる。予、之れを乞ひて眞寫す。)と記す。十二個体(腹足類一種以外は斧足類)の見開き図。]

 

Tuduragai

 

葛籠介

簾介

 丸出の者。

 

[やぶちゃん注:推定で読みを示すと、

葛籠介(つづらがひ)

簾介(すだれがひ)

である。孰れも紋様に基づく和名であるが、この和名では同形の貝は認められらかった。「葛籠」はツヅラフジの蔓 で編んだ衣服などを入れる箱形のかごで、その組み模様が山型を成すこととのミミクリーであろう。

「丸出の者」筑前(概ね現在の福岡県相当)の地名には「丸」を附した地名は多いが、幾つかの現行のそれを見るに、シンプルに「丸町」、また、「丸山」などの地名を確認したものの、近代以前も考慮したが、それらは海浜に面していない。しかし、「今昔マップ」を調べてみると、この現在の福岡市若松区の旧海域(旧遠賀郡。現在は広範囲に干拓がされてしまっている)の浅瀬の名称に「丸瀨」を発見した。一つ、ここを候補として、「丸」瀬を見渡す海岸から「出」た(=採取した)「者」(物:貝殻)という読みが可能かとも思われる。

 さて、形状と名称及び分布から最初に想起した種は、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科リュウキュウアサリ亜科スダレガイ属アケガイPaphia vernicosa

であった。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアケガイのページを見られたいが、本種は貝殻の色彩と模様の変異が一致はする。「アケガイの生物写真一覧」の左から一番目及び三番目の写真が右個体にかなり近似し、三番目の写真が左個体に似ては見える。しかし、アケガイは全体が貝殻の前後が長く楕円に近く、前背縁が有意に鋭角に下がっている点で、本図の全体に丸みを帯びた形と一致しないので違う

 次に、以前に一度出た、『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 忘貝(ワスレカイ) / ワスレガイ』

マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科ワスレガイ亜科ワスレガイ属ワスレガイCyclosunetta menstrualis

を考えた。これは、地味な左側の個体に近似性を感じはするものの、この図のような有意な山型紋は見られず、右側の個体のような赤い華やかな笹の葉状の紋の個体も、学名でネット検索して見ても、見当たらないので、これも違う

 と、ここで、仕切り直して、この二個体、よく見てみると、殻頂部の形が有意に異なることに気づく。則ち、

左個体では、模様のためにはっきりしないが、どうも殻頂が前方に有意に捩じれて突き出ている

ように見え、それに反し、

右個体では、全くそれが見られず、殻の背縁は綺麗な放物線を描いている

ことが判る。ということは、この

二個体は別種

と、とるべきである。

 まず、左個体であるが、吉良図鑑を見るに、一見、

マルスダレガイ目マルスダレガイ科マルオミナエシ属サラサガイ Lioconcha fastigita

に似ているように思われた。しかし、学名のグーグル画像検索を見られたいが、吉良図鑑に、『殻は中位の蛤形で、よく膨らみ殻頂は秀で』、『殻表には成長脈のみで平滑で鈍い光沢がある。白色または帯黄白色の地に黒色の山形状更紗模様がある』とあって、同心円脈のみで、この図のような放射肋は見られないので、これも違う

 而して、この左の図の条件を総て満たすのは、私は、

軟体動物門二枚貝マルスダレガイ目マルスダレガイ超マルスダレガイ科シラオガイ亜科ホソスジイナミガイ属ケマンガイ Gafrarium divaricatum

であろうと踏んだ。Artur Buczkowski & Slawomir Boron Ph.D.の作成になる‘ViaNet Conchology’の同種の画像を見られたい。そこの下方の二個体四つのそれが、死後の経年変化によってくすんだそれを、梅園が放射肋を強調して描いたとすれば、よく合致するように思う。和名は「華鬘貝」で、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページの「由来・語源」によれば、『『介志』より。『華鬘(けまん)』は寺などの仏像の後背などに飾るもの』とあった。

 次に、右個体であるが、当初、色彩と模様が極めて特徴的であることから、容易に同定出来ようと思ったのが間違いだった。一見した最初は、

マルスダレガイ目ザルガイ科ワダチザル亜科トリガイ属トリガイ Fulvia mutica

かと思ったものの、全体の色が橙色に有意に傾き、しかも、このような小笹を立てたような強い赤色の極めて固有の紋様を成すことはない。強調したとしても、梅園がここまでトリガイをデフォルメすることは考え難い。トリガイの仲間で調べてみると、全体に赤色偏移していて、より模様がはっきりとしていて、複雑な種に、

トリガイ属マダラチゴトリガイ Fulvia undatopicta

がいる。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを見られたいが、光沢を持ち、非常に魅力的な紋様を持つ貝ではあるが、そこのある三個体のどれかを描いたとしても、このような図には、なりようがないと感ずる。されば、これは不詳とする。]

2022/12/19

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 小蝶介 / 不詳(アオサギガイ?)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここ。画像はトリミングしてある。左丁に、『以上筑前産』と条立てし、後に『筑前隱士君ヨリ小澤弾正被送予乞之眞寫』(筑前の隠士君(いんしくん:匿名化してある)より小澤弾正え(へ)送らる。予、之れを乞ひて眞寫す。)と記す。十二個体(腹足類一種以外は斧足類)の見開き図。]

 

Sei

 

小蝶介

 

[やぶちゃん注:「こてふがひ」と読んでおく。いくら睨めっこしても、図が小さく、しかもぼやけて見えることから、ピンとくるものがなかった。他の電子化注作業にかまけて、ペンディングが長くなり過ぎたので、「不詳」で出したが、私が一番それらしく思えたのは、色と形状と分布域から、

斧足綱ザルガイ目ニッコウガイ科サマコマ属アオサギガイPsammacoma gubernaculum

ではあった。当該種は殻長約四・五センチメートルで、殻は長い卵形を成し、膨らみは弱く、扁平。殻は、やや薄く、白色で殻頂部は、やや青みを帯びる。後背縁は短く直線的である(「愛知県れっど・データブック2020」の当該種のPDFの木村昭一氏の記載に拠った)。別の人物による国立国会図書館デジタルコレクションの明度の高い写本では、頭頂部の青みがはっきりと認識出来る。

 より確度の高い候補種があれば、御教授下さると、恩幸、これに過ぎたるはない。]

只野真葛 むかしばなし (57)

 

一、羽倉東倉(はくらとうざう)といひし人、大嶋織部樣といひし旗本の物見を借(かり)て居《をり》たりし【富十郞、來りし時、「藥取。」と云しは此大嶋なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。哥よみのお民が弟、眞淵が師の子なり。半左衞門とおなじ並び、尾張樣をむかふに見ている所なりし。坂東三津五郞、細物見世を出し、はじめて色摺(いろずり)の「のしつゝみ」紙を工夫して出せしに、

「何ぞ似つかはしき名を付(つけ)くれ。」

と、此東倉に賴しに、「さくら形御のしつゝみ」と書(かき)て遣(つかは)しとぞ。其頃は、世に古事《ふるごと》のひらけぬ時で、ヲランダばかり、はやる故、

『さらさ形の書(かき)そこない[やぶちゃん注:ママ。]。』

と誰(たれ)も思(おもひ)て有(あり)し。お民も、上の間(ま)にすみて居しが、ワ、子分の時分、「古今」のよみくせを、直してもらいに行(ゆき)て有(あり)し。

[やぶちゃん注:「羽倉東倉」「日本庶民生活史料集成」では、『羽倉東藏』とあり、中山英子氏の注に、『荷田東満の子、御風と号す』とある。荷田東満(かだのあずままろ)は知られた国学者荷田春満(寛文九(一六六九)年~元文元(一七三六)年)の名の別自称表記。息子荷田御風(かだののりかぜ 享保一三(一七二八)年~天明四(一七八四)年)は京都生まれだが、家学の国学を江戸で教えた。講談社「デジタル版日本人名大辞典+」によれば、禄をうけることを欲せず、豊後岡藩から賓客として迎えられるに留まった。初名は冬満で、東蔵は通称。

「物見」物見櫓。

「哥よみのお民」「日本庶民生活史料集成」の注に、『東満の妹蒼生子のこと。才女で』、『和歌をよみ、紀州侯の女公子に仕え、後』、『諸侯の婦人女公子等に歌を教えた』とある。

『富十郞、來りし時、「藥取。」と云し』「只野真葛 むかしばなし (50)」参照。]

 

 今は、誰(たれ)も、書をよみ、古事も知る世と成(なり)しを、其世に、人の書を讀(よま)ぬ故は、田沼とのもの守と申(まをす)人は、一向、學文なき人にて有し。今の人は惡人のやうに思(おもへ)ど、文盲なばかり、わるい人では無(なか)りしが、其身、文盲より、書のよめる人は、氣味がわるく思われ[やぶちゃん注:ママ。]しかば、其時の公方樣をも、書に眼の明(あか)ぬ樣にそだて、上、御身ちかくへ、少しにても、學文せし人は、寄られざりし故、出世のぞみ有(ある)人は、書を見る事を、いみ嫌い[やぶちゃん注:ママ。]し故なり。世に有(ある)人は殘らず文盲故、うたてうたてしき事、おほかりしなり。父樣には、てうど、其時分、用(もちひ)るによいほど、學文被ㇾ成し故、

「別段なる御了簡。」

と、人、おもゑ[やぶちゃん注:ママ。]しなり。

[やぶちゃん注:「田沼とのもの守」田沼意次のこと。彼は側用人に異動して従四位下に昇叙の二年後に老中格に異動して侍従を兼任する以前は、従五位下主殿頭(とのものかみ)であった。彼は仙台藩医であった真葛の父工藤平助と強い接点がある。ウィキの「田沼意次」によれば、『迫りくる北方の大国ロシアの脅威に備えるため』、『「赤蝦夷風説考」を天明』三(一七八三)年に、『当時の幕府老中』であった『田沼意次に献上し』ており、『これが田沼の蝦夷地開発の原点になったといわれ』ている、とある。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 錢孔に油を通す

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。]

 

       錢孔に油を通す (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 

 誰が書《かい》たか知らぬが、「長秋夜話」と云ふ三册本の卷上に、飛鳥井《あすかゐ》大納言雅世《まさよ》卿、蹴鞠に分けて譽れ有り。或時、貴賤、群集して觀る所で、鞠筥《まりばこ》の底脫《そこぬけ》たのを、腰に結ひ付け、其筥を通して鞠を蹴る事、幾度しても外さず。然るに、見物中に、油賣商《あぶらうり》有《あつ》て、「何の此曲が其樣に珍らしいか、人々の感歎、心得難い。」と云ふ。側に居たる者、「この秘曲は、彼《かの》卿のお家にのみ傳ふる所なるを、輕評するは、淺ましい。」と罵り惡《にく》む。鞠、濟《すん》で、邸外で、彼油賣、前刻《ぜんこく》、側に居たる輩に向ひ、「吾、所存有《あつ》て、斯《か》く言《ふう》た。これを見よ。」とて、荷桶より、一升升《いつしやうます》を取出し、十分に油を盛り、右の手に、錢一文、持て、油を容るる器に當て、油を器へ注ぐに、油、其錢穴の眞中を通りて、少しも錢を汚《よご》さず、一升の油器へ移り了《をは》る。衆《もろもろ》の見る者、手を打《うつ》て驚歎す。油賣、言ふ、「此曲を習ふて能くするに非ず。每日の經驗で、不覺《おぼえず》、熟練した。飛鳥井卿は、蹴鞠が家業故、幼年より、自然《おのづ》と精通したのぢや。」と、やりこめられて、一同、閉口した、と有る。

 此樣な話は支那にも有て、「淵鑑類函」三二四に、金坡遺事曰、陳堯咨善射、亦以自矜、嘗射於家圃、有油翁、釋ㇾ擔而睨ㇾ之、久不ㇾ去、見其發ㇾ弓十中八九、但微頷ㇾ之、問曰、汝亦知ㇾ射乎、吾射不亦精乎、翁曰、無ㇾ他但手熟耳、陳忿然曰、爾安敢輕吾射、翁曰、以二我酌一ㇾ油知ㇾ之、乃取一葫蘆、置於地、以ㇾ錢覆其口、徐以ㇾ杓酌ㇾ油、瀝瀝自錢孔入、而錢不ㇾ濕、因曰、我亦無ㇾ他、唯手熟爾、陳笑而遣ㇾ之〔「金坡遺事」に曰く、『陳堯恣《ちんぎやうし》、射《しや》を善くし、亦、以つて自(みづか)ら矜(ほこ)る。嘗つて、家圃(かほ)にて射る。賣油(ばいゆ)の翁(わう)あり、擔(に)を釋(お)きて、之れを睨(み)て、久しく去らず。其の弓を發すること、十にして、八、九、中(あ)つるを見、但(ただ)、微(わづ)かに之れに頷(うなづ)くのみ。問ひて祝曰はく、「汝、亦、射を知るか。吾が射、亦、精(たくみ)ならざるか。」と。翁曰はく、「他(ほか)に無し。但(ただ)手の熟するのみ。」と。陳、忿然(ふんぜん)として曰はく、「爾(なんぢ)、安(いづくん)ぞ敢へて吾が射を輕んずるや。」と。翁曰はく、「我れの油を酌むを以つて、之れを知れ。」と。乃(すなは)ち、一つの葫蘆(ふくべ)を取りて、地に置き、錢を以つて、其の口を覆ふ。徐(おもむ)ろに杓(しやく)を以つて油を酌(く)み、瀝々(れきれき)として錢の孔(あな)より入るるも、錢、濕(ぬ)れず。因りて曰はく、「我れ、亦、他、無し。唯(ただ)、手の熟するのみ。」と。陳、笑ひて、之れを遣(や)る。』と。〕。「今昔物語」十、「長安市汲ㇾ粥施ㇾ人嫗語第卅七」〔長安の市(いち)に粥(かゆ)を汲みて人に施(せ)せし嫗(おうな)の語(こと第三十七)〕も似て居《を》る。

[やぶちゃん注:「長秋夜話」不詳。近似する書名のものを調べてみたが、それらしい部分を発見出来なかった。

「飛鳥井大納言雅世」(元中七/明徳元(一三九〇年)年~宝徳四(一四五二)年)は室町前期の歌人。初名は雅清。正二位権中納言。雅縁(まさより)の子で、飛鳥井家第七代当主。和歌と蹴鞠を師範とする堂上家(とうしょうけ)の人として育ち、早くから第三代将軍足利義満に仕え、義満五男で第六代将軍となった足利義教まで長く信任された。多くの歌集の編纂に携わり、蹴鞠に関する「蹴鞠条々大概」がある。

「結ひ付け」底本は「張り付け」であるが、公卿の仕様としてはおかしいと思い、「選集」を採用した。

「此曲が其樣に珍らしいか」「このきよくがそのやうに」。「選集」では『この曲がそんなに珍らしいか』とする。意味は、「そんな技(わざ:曲芸)がどうしてそんなに珍しいのか?」の意。

「淵鑑類函」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍である。「漢籍リポジトリ」の当該巻の「射三」の当該部([329-20b])の影印本画像と校合した(底本には誤字有り)。

「葫蘆」瓢簞のこと。無論、中を抜いて物を入れるように加工した容器としてのそれである。

『「今昔物語」十、「長安市汲ㇾ粥施ㇾ人嫗語第卅七」』以下の示す。テクストは「やたがらすナビ」のものを加工データとして使用し、正字表記は芳賀矢一編「攷証今昔物語集 中」の当該話で確認した。所持する「新日本古典文学大系」三十四巻も参考にした。読み易さを考えて段落を成形した。

   *

   長安の市に粥を汲みて人に施せし嫗の語第三十七

 今は昔、震旦(しんだん)の長安の市に、粥を、多く煮て、市の人に食はしむる嫗、有りけり。

 此の市に行き違(か)ふ人の、員(かず)知らず、日の出づる時より、日の入るる時に至るまで、市の門(もん)を出入りするに、市の門の前に、粥を多く煮(に)、儲(まうけ)て、百千の器(うつはもの)を並べ置きて、其の粥を、其の器に盛りて、人に食はしむる功德(くどく)を造りけり。

 而るに、始めは、其の粥を𣏐(ひさこ)に汲みて、慥(たし)かに器に入れけるに、漸(しばら)く年月積もるに隨ひて、功(く)、入りにければ、一、二丈を去りて、杓に粥を汲みて擲(な)げ入るるが、塵許(ちりばか)りも泛(こぼ)さざりけり。

 猶、年月を經て、久しく積もるに隨ひて、四、五丈を去りて、杓に粥を汲みて擲げ入るるが、露許(つゆばか)りも泛さざりけるを、見る人の云ふ樣(やう)、

「然(しか)らば、何事なりと云ふとも、年來(としごろ)の功(く)、入らば、此(か)くの如く有るべきなりけり。」

となむ、云ひ合ひけるとなむ、語り傳へたるとや。

   *

「儲(まうけ)て」設置して。「人に食はしむる功德を造りけり」というところから明らかなように、この老女は粥を売って鬻いでいるのではなく、人へ無料で食を布施することで、自らの来世の功徳を得ている慈善事業として無料で配布している点に注意せねばならない。但し、この遠投して椀に入れる曲芸は、それなりの投げ銭のおこぼれは受けられたと考えるべきではある。

「𣏐(ひさこ)」「杓(しやく)」に同じ。「ひさこ」は「瓢」(ひさご)で、昔は瓢簞を乾燥させて四分したそれに柄をつけて柄杓としたことによる和訓である。

「一、二丈」本邦の一丈は中世以降、現行と同じ三・〇三メートルであり、読者もそれで換算するしかないが、以下の離れた距離は異様に長過ぎる感じがするかも知れない(五丈は約十五・一五メートル)。而してこの話柄(出典未詳)は大陸伝来のものであるが、実は中国の一丈も唐代には三・一一メートルであり、それ以前でも二メートル超ではある。最も短い周から前漢の頃でも二・二五メートルであるから、五丈は十一・二五メートルとなるので、まあ、技の凄さを誇張するための、中国お得意の誇張表現と押さえておけば、よいであろう。]

大和怪異記 卷之七 第十九 怨㚑蛙となりてあだをかへす事 / 大和怪異記~全電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 本篇を以って「大和怪異記」は終わっている。]

 

 第十九 怨㚑(をん《りやう》)蛙(かはづ)となりてあだをかへす事

 ある侍、若黨をつかひにつかはしかへりけるとき、

「又、下女をもつて、いづれの所に、ゆくべし。」

といふに、若黨、

「遠方にゆき、やうやう、今、かへりしに、をし[やぶちゃん注:ママ。]かへして、つかはさるゝ事よ。」

と、つぶやきしを、かの下女、すぐに、をく[やぶちゃん注:ママ。]に入(いり)、

「かやうに申《まをし》て、へんじだに、いたさず。」

と、主人につげければ、

「にくき事かな。」

とて、かの若黨を、手うちにす。

 翌年、その日にあたりけるに、若黨を、さゝへて、ころさせし下女、主人のいとけなき子につきて、にはを、めぐるとて、蛙をつえにて、うちしかば、かはづ、いばりを、下女がくちに、しかけける。

 そのあぢはひ、はなはだ、にがければ、したをあらい[やぶちゃん注:ママ。]、こそげしかども、にがきあぢはひ、うせず。

 ひたもの、こそげしかば、した、やぶれ、ち、いで、みるうちに、大《おほい》に、はれ、つゐに、三、四日、わづらひて、死しけるぞ、ふしぎなれ。

 そのころの人、

「くだんのかはづは、わかとうが、ばけてきたれるものなるべし。」

と沙汰しける。「異事記」

   都合百六箇條

 

 

    洛陽書林柳枝軒板行

 

 

  七册

[やぶちゃん注:原拠とする「異事記」は不詳。「近世民間異聞怪談集成」の解題で土屋氏も、本書を『該当する資料名が不明なもの』の一つに入れておられる。最後の奥付の内、最後の「七册」という冊数表記は、原本を後の蔵本者が和装で外装を張り直した際の、最終丁を剥がした裏側にある(底本のこの画像)。但し、これは、字の向きと(印刷では逆さまということになりおかしい)、墨色から、旧蔵者が自筆で記したものと思われる。印字ではないが、底本画像がそこを見せるために別撮りしているので、特異的に加えた。

「いばり」「溲・尿」。小便。ここで言っている「かはづ」が「ヒキガエル」(脊索動物門脊椎動物亜門両生綱無尾目アマガエル上科ヒキガエル科 Bufonidae に属するヒキガエル類。本邦固有種は三種棲息する。「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」の私の注を参照)であったとすれば、それは小便ではない。彼を刺激すると、後頭部にある大きな耳腺から強力な毒液を出し、また、皮膚、特に背面にある多くの疣(イボ)からも、牛乳のような白い有毒の粘液を分泌する。この主成分であるブフォトキシン(bufotoxin)は激しい薬理作用を持つ強心配糖体の一種で、主として心筋(その収縮)や、迷走神経中枢に作用する。ヒトの場合に亡くなったケースは聴かないが、眼に入れば、失明の危険もある強毒であり、猫や犬の場合は噛みついたりして、死亡した例がある。特にこの下女の場合、舌にこびりついたそれを、箆でこそいだ際に舌を傷つけ、血液中にそれが侵入したと考えると、重症化の虞れが考えられ、もともと心臓に基礎疾患があったり、強いアレルギー体質であったとすれば、死に至ったとしても、強ち、おかしくはないように思われる。]

大和怪異記 卷之七 第十八 怨㚑主人の子をころす事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十八 怨㚑(をん《りやう》)主人の子をころす事

 大坂の「はりい」が物がたりに、ある町人の子、いたくなやみにし、夜ふくるまで、そのもとに有《あり》て、さじきに出(いで)、にはのかたを見やり侍るとき、女の、さかさまになれるが、たちしかば、おどろきて、

「いかなるものぞ。」

と、とへば、

「われは、此家(いへ)の下女にて侍る。あるじの妻、非儀(ひぎ)なるねたみにて、これなる古井(ふる《ゐ》)の中(なか)に、さかさまに、おとされし、そのうらみ、やるかたなし。今、煩(わつら)ふ子は、わが所爲(しよ《ゐ》)にて、ころすなり。これには、かぎるべからず、たゝりを、なすぞ。はやく、かへられよ。」

と、いひすて、をくに、とをると[やぶちゃん注:二箇所ともママ。]、ひとしく、かの子、死して、おのおの、

「あつ。」

と、なき侍りし。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。「新著聞集」には載らないようである。冒頭を除き、最後まで聞き書きそのままの転写(丁寧語がそれを示す)で、本篇では、比較的珍しいタイプで、体験者の直談であるから、いかにもリアリティのある怪談である。

「はりい」「針醫」か。]

大和怪異記 卷之七 第十七 にはとりのたまごくらふむくゐ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 標題「むくゐ」はママ。]

 

 第十七 にはとりのたまごくらふむくゐ事

 みのゝ國御嶽村《おんたけむら》のもの、ひごろ、にはとりのたまごを、くらひけるが、かしら、ことごとく、はげて、のち、にはとりのうぶけ、かしらに、

「ひし」

と、をひたり。

 寬文年中の事なり。

[やぶちゃん注:原拠「犬著聞集」であるが、「新著聞集」に所収されていた。「第十四 殃禍篇」(「あうか」(現代仮名遣「おうか」:「アウ(オウ)」は呉音)「殃」も「わざわい」の意)にある「鷄(にはとり)の毛(け)頭(かしら)に生(せふ)ず」(歴史的仮名遣の誤りはママ)である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。同合巻「五」PDF)の60コマ目から。そちらでは、人物の姓名が『土屋善右衞門』と明記する。

「寬文年中」一六六一年から一六七三年まで。

大和怪異記 卷之七 第十六 猿をころすむくゐの事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 標題「むくゐ」はママ。]

 

 第十六 猿をころすむくゐの事

 讃岐国小豆嶋《しやうどしま》に、あるものの、その[やぶちゃん注:園。]ゝ熟柹(じゆくし)を、流《ながれ》ものゝしはざにや、一夜(や)の間に、さんざんに、くひちらしけるを、

「にくき事也。又、きたりなば、射(い)ころさん。」

と待(まち)けるに、あんのごとく、夜(よ)ふけて、柹をむしるをと[やぶちゃん注:ママ。「音」。]、しげるを、

「のがすまじ。」

と、矢、さしはげ、うかゞひみれば、大《おほき》なる猿(さる)、はらを、おしえ、鳴けるを、

「なんでう、たすけん。」

とて、いころすに、はらみ猿にてありし。其のち、子をまうけしに、おもては、さるにて、胴は人なり。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。「新著聞集」には載らないようである。

「はらを、おしえ、」不審。しきりに、「腹を押さへ」、或いは、「腹を」(指でさして)「敎(をし)へ」を考えたが、確定出来ない。孰れにせよ、シークエンスを圧縮し過ぎていて、この部分、リズムが甚だ悪い。]

大和怪異記 卷之七 第十五 妻が幽㚑凶をつぐる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ(右丁挿絵はずっと前の無関係なもの)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十五 妻(さい)が幽㚑(《いう》れい)凶《きよう》をつぐる事

 信州すはの町人、妻(つま)にをくれ、後妻(こう《さい》)をむかへり。

 前妻の子を、江戸に出《いだ》し、奉公させける。

 あるとき、男、用、有(あり)て、他所にいでけるに、先(さき)の妻(つま)に行《ゆき》あひし。

 妻がいはく、

「今の女《にやう》ばうを、はやく、りべつすべし。御身のために、あしきものなり。我、まつたく、ねたみて、いふには、あらず。かれが來て、このかた、ものごと、心のまゝに有《ある》べからず。これにて、おもひしり給へ。又、せがれも、江戸にて、かぎりに煩(わつらひ[やぶちゃん注:ママ。])侍る。やがて、死(しぬ)べし。」

と、いふて、わかれける。

 おとこ[やぶちゃん注:ママ。]、それより、江戶に人をつかはしければ、いひしにたがはず、子、わづらひて、ほどなく、むなしくなれり。

 これに、おどろきて、いまの妻を、りべつしける。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。「新著聞集」には載らないようである。注すべき必要を感じない。]

大和怪異記 卷之七 第十四 いかづちにつかまれてそせいする事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十四 いかづちにつかまれてそせいする事

 寬文二年に下總国毛見川《けみがは》の者、

「宇名屋《うなや》にて、草を、かる。」

とて、二人、行《ゆき》けるに、かみなり、おちかゝり、一人は、二、三町わきに、つかみおとし、引《ひき》さき、すて、今一人をば、一里半へだゝりし、「そむ㙒《の》」といふところに、おとしをきし[やぶちゃん注:ママ。]を、やうやう、たづねもとめて、かへるに、

「いまだ、はだへ、あたゝかなる。」

とて、かんびやうしければ、そせいして、いまにありといふ。

[やぶちゃん注:原拠は「犬著聞集」。「新著聞集」には載らないようである。

「寬文二年」一六六二年。

「下總国毛見川」旧千葉県千葉郡検見川町(けみがわまち)で、現在の千葉県千葉市花見川区検見川町(けみがわちょう:グーグル・マップ・データ、以下無指示は同じ)。当時は海浜にあったが、干拓されて完全に内陸化している。

「宇名屋」江戸時代には旧印旛(いんば)郡宇那谷(うなや)村があった。近代になって、ここは千葉県の旧千葉郡犢橋村(こてはしむら)に吸収されたが、「今昔マップ」のこちらで「犢橋(コテハシ)村」の「宇那谷(ウナヤ)」の地名が確認出来る。現在のこの中央附近で、左下方にある検見川町とは直線で五キロ圏内である。現行では千葉県千葉市花見川区宇那谷町として、かなり変形した地区が残る。

「二、三町」二百十八~三百二十七メートル。

『一里半へだゝりし、「そむ㙒《の》」』宇那谷から最長で八キロメートル圏内の南西位置に千葉県千葉市稲毛区園生町そんのうちょう)がある。しかも、ここを「今昔マップ」で見ると、「園生」に「ソンノ」とルビが振られている。これは、ここの「そむの」と強い一致を見るといってよい。ここで間違いなかろう。]

大和怪異記 卷之七 第十三 牛をころしてむくふ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十三 牛(うし)をころしてむくふ事

 江戸をはり町一丁目の扇《あふぎ》や、さいくの上手(じやうず)にて、牛の子《こ》を、もとめ出《いだ》し、おもてより、四足(よつあし)まで、「虎の皮」にて、ぬいまはし、

「とら、なり。」

とて、境町《さかひちやう》のしばゐに出《いだ》し、大《だい》ぶんのあたえ[やぶちゃん注:ママ。「價(あたひ)」。]を、とる。

 されども、

「なかせじ。」

とて、くちを、ぬいこめしゆへ、食物をたちて、五、六日ありては、死(しに)けるを、とりかへ、とりかへ、五、六ひきに及《および》しとき、ていしゆ、けしき、あしくなり、のちには、一向に、うしのほゆるまねして、身まかりし。

 一生、わづかのいのちをつがむとて、なさけなきふるまひし、むくゐ[やぶちゃん注:ママ。]たちまちに來れるは、おそろしき事ならずや。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第四 報仇篇」にある「虎皮(とらのかは)牛にまとひ牛の鳴(なき)をなして死す」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。合巻のここの16コマ目から。有意な異同はない。

「江戸をはり町一丁目」尾張町一丁目は、この中央附近(グーグル・マップ・データ)。現在の東京都中央区銀座六丁目。

「境町」現在の中央区日本橋人形町三丁目(グーグル・マップ・データ)。人形芝居小屋・歌舞伎中村座及びそれらの茶屋や市店があり、江戸の歓楽街として知られた。]

大和怪異記 卷之七 第十二 人をころすむくゐの事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 標題中の「むくゐ」はママ。]

 

 第十二 人をころすむくゐの事

 相州本目《ほんもく》の浦に、大工八兵衞といふものが甥《をひ》に、あた人《びと》ありて、もてあつかひしを、からめ、うみに、しづむ。延宝七年夏の比《ころ》なり。

 翌年のおなじ比、八兵衞が妻、子をうみしを、とりあげみれば、ひたゐ[やぶちゃん注:ママ。]に角(つの)、をひ[やぶちゃん注:ママ。「生(お)ひ」。]、上下《うへした》のは、くひちがい[やぶちゃん注:ママ。]、其かたちは、をゐ[やぶちゃん注:ママ。「甥」。]に、にたり。

 やがて、大工道具箱を、うへに置《おき》、をしころすに[やぶちゃん注:ママ。「押し殺す」。]、しばしは、

「むくむく」

と、もちあげしとかや。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。「新著聞集」には載らないようである。

「相州本目《ほんもく》の浦」神奈川県横浜市中区本牧(ほんもく)。当該ウィキによれば、最初の記載は嘉吉二(一四四二)年に『「横浜」とともに初めて記録に見え、「本目」と書かれたこともあるが、語源は不詳。戦国時代には、芝浦・羽田と並んで北条水軍の拠点が置かれていた。「本目」と書かれたこともあるが、語源は不詳。戦国時代には、芝浦・羽田と並んで北条水軍の拠点が置かれていた』とある。『戦後、埋め立て計画が持ち上がった際、地元の漁協は反対運動を行ったが』昭和三四(一九五九)『年に街の発展と将来のために埋め立てに同意』し、『現在は海岸』は総てが『埋め立てられて工場』・『埠頭などになって』おり、旧本牧地区は完全に内陸化されてしまっている。この本篇の言っている「浦」や「うみ」(海)に相当する場所は陸地となってしまっていると考えてよい。「今昔マップ」で戦前と現在の決定的な違いが判る。カーソルでなぞってみれば判る通り、国道三五七線よりも有意に内側に旧海岸線はあったからである。因みに、この本牧山頂附近にある横浜緑ケ丘高等学校に私は九年勤務したが、教師生活の中で一番楽しかったのは、ここだった。

「あた人」「仇人」。敵対する人。敵(かたき)。「あだびと」の古形。]

2022/12/18

大和怪異記 卷之七 第十一 祖母まごをくらふ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十一 祖母まごをくらふ事

 上州厩橋《まへばし》邊、大胡村《おほごむら》の名主が母、七十余歲になりしが、孫(まご)、三歲になるを、いだき愛せしに、ある夜(よ)、かのまごをくらひ、手ばかり殘して、子に見せければ、ぜひなく、ろうに、をしこめおきしと云《いふ》。

[やぶちゃん注:「ろう」及び「をしこめ」はママ。「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十 奇怪篇」にある「祖母孫を噉(くら)ふ」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。同合巻4コマ目から。そちらでは、冒頭に、『上州厩橋(まへばし)より二里ばかり隔てし大胡村(をうごむら)』(歴史的仮名遣の誤りはママ)とあって、実測で以下の地図でも合致する。名主は『大塚七之助』と出ること(句読点・記号を追加した)、『ある夜、「われ、孫を噉(くひ)たり。手ばかり、殘りたる。」とて、見せければ、』と直接話法にになっている点が大きく異なる。

「上州厩橋邊、大胡村」「上州厩橋」は前橋の旧称。江戸時代に前橋となった。ここはその旧広域地名で、中世までは「厩橋」と書き、「まやばし」と読まれてきた。「大胡村」は群馬県前橋市大胡町(おおごまち:グーグル・マップ・データ)である。]

大和怪異記 卷之七 第十 虵をころしたゝりにあふて死る事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十 虵《へび》をころしたゝりにあふて死《しぬ》る事

 出羽国、龍門寺、鎭守(ちんじゆ)の石がき、くづれしを、人、あまた、あつまり、いしを、つみかゆる所に、石の間《あひだ》より、六、七寸ばかりの虵、出《いで》しを、追《おひ》まはし、うちころしけるに、其もの共゙、たちまち、まなこ、くらみて、死ぬ。

 追たるものは、五十日、六十日、わづらはざるは、なし。

 その蛇は、四足ありて、顏は、繪にかける蛇形《じやけい》のごとし。其蛇、いまに傳て、江戶、慶養寺にありになむ。「犬著聞」

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第九 崇厲篇」(「すうれい」と読む。「あがむべき貴い対象を疎かにした結果として起こる災い」の意)にある「蛇(じや)を殺して忽ち死す」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。同合巻55コマ目から。そちらでは、冒頭に、『出羽の国最上源五郎殿の菩提所、竜門寺(りうもんじ)の鎮守は龍にて侍るよし、古(いにしへ)より云つたへし』とあって、この蛇が龍の使いであることを匂わせるようにしてある。本篇より親切にして、重要な言い添えである。

「出羽国、龍門寺」他にヒントとなる情報がないので、「最上家 龍門寺」で検索した結果、一番多いのは山形県山形市北山形にある曹洞宗登鱗山龍門寺であった(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。最上家六代当主で羽州探題を担ったとされる最上義秋が、兄最上義春(五代当主)の菩提を弔うために建立したとされている。但し、この二人の兄弟についても、詳細によく判らないところがある。

「四足ありて」じゃあ、蛇じゃなくて、蜥蜴でしょ?

「慶養寺」台東区今戸にある曹洞宗霊亀山慶養寺。いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫の足あと」の同寺の記載に、『出羽国山形登鱗山竜門寺末』とあり、寛永二(一六二五)年、其頃は『浅草蔵前ニ在リ、何之頃カ当地ヘ引。開山良寮和尚、龍門寺』十二『代也』とあって承応二(一六五三)年、『寂ス。本堂本尊三尊釈迦弥陀弥勒、宮通弁財天』とある。]

大和怪異記 卷之七 第九 疱瘡にて子をうしなひ狂氣せし事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第九 疱瘡(はうさう)にて子をうしなひ狂氣せし事

 筑後瀨高町《せたかまち》に、彥七といふ町人、あり。妻(つま)は、さきに身まかりて、六歲になる男子(なんし)一人有《あり》。

 其年、西國、疱瘡、はやりて、かの彥七が子、熱氣、つよく、疱瘡に、きはまりける。

 其所、大かた、淨土眞宗にて、弥陀より外の、神・ほとけ、尊敬(そんけう[やぶちゃん注:ママ。])せざれども、子のかはゆさに、「疱瘡神のたな」と名づけ、枕の上に、つり、あたらしき衣服上下(かみしも)を着(き)、いろいろ、供物(くもつ)をそなへ、日に、いく度も、垢離(こり)をとり、

「せがれ、疱瘡、たやすくしまゐ[やぶちゃん注:ママ。]候やうに、ひたすら、たのみ奉る。」

と、身を地になげ、數珠(じゆず)の緖も、きるゝばかりに、をしもみ[やぶちゃん注:ママ。]、丹誠をぬきんで、いのりける。

 しかれ共゙、疱瘡、ことのほか、おほく出《いで》、あまつさへ、

「出來もの、あしき。」

など、いふ者あれ共゙、

「いやいや、まことに疱瘡の神といふ事あらば、わが一心に、たのみ奉るを、いかで、納受《なうじゆ》、なからん。」

と、一すぢに思ひさだめ、まもり居《ゐ》けるに、

「一面(《いち》めん)に出《いで》たる疱瘡、にはかに、色、かはりたり。」

と、うば、もだへ、さけべば、彥七、寒中に、水、一をけを、かしらよりかゝり、かのたなに、むかひ、

「此子をたすけたまはずは、神ありとは、いつはりならん。たすけ給へ、まもらせ給へ、」

と、かしらも、もたげず、いのる所に、いだきて居《ゐ》たるうば、

「あらかなしや、此《この》御子《おこ》は、死しましぬ。」

と、なき出《いだし》ければ、家内、

「どつ」

と、なきさけぶとき、彥七、かしらを、もたげ、一目、見て、そばなるわきざし、

「すは。」

と、ぬき、ひざ、をしたて[やぶちゃん注:ママ。「推し立て」。「膝を前へ押し起こして中腰に立って」の意であろう。]、

「まことに『ほうさうの神』といふものあらば、たとへ、定業《ぢやうがふ》かぎりあり共、わが信心のまことを、あはれみ、疱瘡の一《ひと》とをりは[やぶちゃん注:ママ。]、事ゆへなく、しまはせて給《たまふ》べきに、物をしらぬやつに、いて[やぶちゃん注:ママ。感動詞「いで」。]、手なみを見せむ。」

と、いひて、立《たち》あがり、棚も、しめ[やぶちゃん注:「注連繩(しめなは)」。]も、さんざんに、切《きり》おとし、そなへたる、あしうち・かはらけ・供物、ふみくだき、大声《おほごゑ》あげて、くるひ、まはり、きぬ、打《うち》かふり、ふしたりける。

 其みぎり、むかふの家に居《をり》ける女、こたつに、よりかゝり、外を見出《みいだ》し居けるに、彥七が家内、なく声、おびたゞしければ、

『かの疱瘡をやめる子、仕《し》そんじけるか。』

と、むね、うちさはぐ所に、六十有余(《いう》よ)のうば、白髮頭(はくはつかしら)を、さんざんに切(きら)れ、血に染(そみ)ながら、となりの家に、はしりこむ、と、見へければ、此女、物に心得たるにや、をつとにも、いはず、そばにふしたる子を、かきいだき、かちはだしにて、其道、二里ばかりある在鄕(ざい《がう》)に、おば、居《をり》けるに、にげ行(ゆき)、大《おほ》いき、つぎ、

「かうかう。」

と、かたりければ、おばも、

「よくこそにげきたれ。のがるゝ事も、あり。」

と、かくしをきけり[やぶちゃん注:ママ。]。

 かくて、其晚より、きられたるうば、はしりこみし家内の子ども、二人、疱瘡に、やみつき、たゝえより前に、死しぬ。

 其町中、七、八人、疱瘡をやみて、ことごとく、死にけり。

 かのにげたる女が子は、おばが方にて、疱瘡をやみけれども、惣身(そうみ)に、十(とを[やぶちゃん注:ママ。])ばかり、出來《いでき》、あそびあそび、仕廻(しまひ)けると、なん。「異事記」

[やぶちゃん注:「異事記」は不詳。「近世民間異聞怪談集成」の解題で土屋氏も、本書を『該当する資料名が不明なもの』の一つに入れておられる。これは、本書の中でも、すこぶる事実性の高い奇談実話と採ってよいと思われる。

「筑後瀨高町」現在の福岡県みやま市の、西中部から北部地区に相当する。旧瀬高町(せたかまち)。この附近に相当する(グーグル・マップ・データ)。

「あしうち」「足打ち折敷(あしうちをしき)」供物などを載せる折敷に足を取り付けたもの。

「たゝえより前に、死しぬ」この「たたえ」が判らぬ。色々考えて、「たたへ」の誤記で、「湛へ」ではないかと推理した。疱瘡は感染から二、三日後に発疹が現われ、その盛り上がった丘疹の上部に水疱が形成が出現するが、彼らは、それ以前に高熱、及び、肺の内部に発生した病変によって呼吸器不全を起こして亡くなったのではないか。則ち、丘状の発疹が生じたが、そこに「水が湛えられるように出現するはずの水疱」が出る前に彼らは亡くなった、と言っているのではないか? という読みである。大方の御叱正を俟つものである。

「あそびあそび、仕廻(しまひ)ける」なんとなく、軽い症状を繰り返しながらも、平癒した、という意であろう。]

大和怪異記 卷之七 第八 四子をうむ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第八 四子をうむ事

 備後国神石郡神邊町、油や久兵衞が妻、四子を、うむ。三子は男、一子は女なり。

 四人目にうみしは、髮、ながく、齒、ことごとく、はえ[やぶちゃん注:ママ。]、ひたゐ[やぶちゃん注:ママ。]に、二つの角(つの)、生《おひ》たり。藥砕堀といふ所にすつ。一声《こゑ》も、なかず。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十 奇怪篇」にある「四子(しこ)を同產(どうさん)す」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。同合巻「四」のここ。そちらでは、最後に『かく四子をうめる事は和漢ともにたぐひある事とかや』と結んでいる。本篇と同じく、四人目が、男児だったのか、女児だったのかは、記されていない。

「備後国神石郡神邊町」備後国の「神石郡」(現行では「じんせきぐん」。古くは「神石」を「かめし」とは発音したと当該ウィキにはある)には「神邊町」はない。また、「新著聞集」には『神石郡』(『かみいしこほり』と振る)『袖辺町(そてべまち)』(「て」はママ)とするが、「袖辺町」というのも、ない。調べると、現在の広島県福山市神辺町(かんなべちょう:グーグル・マップ・データ)があるので、ここであろう。

「藥砕堀」「藥硏堀」の誤記か。「新著聞集」は捨てた場所を明記しない。現在の福山市神辺町にそのような地名は見えない(因みに、全く離れるが、広島市内にならば、中区に地名として「薬研堀」があった。参考までに)。]

大和怪異記 卷之七 第七 無尽の金をかすめとりむくゐの事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 標題の「むくゐ」はママ。]

 

 第七 無尽(むぢん)の金(かね)をかすめとりむくゐの事

 江戸尾張町一丁目、さかいや何がし、明暦三年のくれ、黃金(わうごん)七十兩の「むじん」を取(とり)て、跡を、かけず。

 それを、もとにして、かせぎ、千兩あまり、まうけたり。

 延宝八年八月一日のあさ、礼に出《いで》て、かへり、けしき、つねにかはり見へしが、二階にあがり、わきざしを、ぬき、

「われ、以前に、人の金をかすめし殲悔(さんげ)、慚愧(《ざん》ぎ)。」

と、いひて、みづから、左の背を、二刀《ふたかたな》、右の背を、一刀、切《きり》たりしを、やうやうに、わきざしを、うばひとり、外科(げくわ)に、れうぢ[やぶちゃん注:ママ。]せしめしに、同九日の夜(よる)、雷(いかづち)、大《おほき》に鳴(なり)しにおどろき、疵より、血、はしりて、死しぬ。

 天罸のほど、いとをそろし[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。「新著聞集」には載らないようである。

「無尽(むじん)」「無盡講」のこと。「賴母講」(たのもしこう)とも呼ぶ。相互に金銭を融通し合う目的で組織された講で、世話人の募集に応じて、講の成員となった者が、一定の掛金を持ち寄って、定期的に集会を催し、籤(くじ)や入札(いれふだ)などの方法によって、順番に各回の掛金の給付を受ける庶民金融の組織。貧困者の互助救済を目的としたため、当初は無利子・無担保であったが、掛金を怠る者があったりした結果、次第に利息や担保を取るようになった。江戸時代に最も盛んで、明治以後でも近代的な金融機関を利用し得ない庶民の間で普通に行なわれ続けた。

「江戸尾張町一丁目」この中央附近(グーグル・マップ・データ)。現在の東京都中央区銀座六丁目。

「明暦三年のくれ」明暦三年十二月一日は、既にグレゴリオ暦一六五八年一月四日。徳川家綱の治世。

「七十兩」換算法の基準によって異なるが、七百万~千四百万円ほどになる。この莫大な金を受け取っておいて、無尽講を抜け、「跡を、かけず」というのは、明かに背信行為である。

「千兩」一億から二億円相当。

「延宝八年八月一日」グレゴリオ暦一六八〇年八月二十四日。この年の五月八日に家綱は死去し、綱吉に代わった。しかし、二十二年も経ってからというのは、凡そ、天罰と考えるより、旧無尽講の仲間内に対する本人の自責の念が、老いも加わって、積もりに積もって、自死に及んだとして、それで、おかしくはない。無論、同情もしないが。]

大和怪異記 卷之七 第六 むすめを龍宮にをくりし事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分もリンクを張っておく(この図は本文のずっと後にある)。

 なお、標題及び本文中の「をくり」はママ。]

 

 第六 むすめを龍宮にをくりし事

 江州柳川に、新介といふもの、あり。

 此所は湖(みづうみ)のはたにて、江裏(《え》り)といふものをつけて、魚を、とる。

 あるとき、新介、さけにゑひ、江裏のはたに行《ゆき》、たはふれに、

「我《わが》江裏は、龍宮につらぬきたり、といふ。もし、誠ならば、おほく、魚をいれて、たべ。他所(たしよ)の「ゑり[やぶちゃん注:ママ。]」と同じやうに有べき事かは。我《わが》ねがひ、かなへ給はゞ、足下(そこ)の用もあらんとき、わがちからの及ぶたけ[やぶちゃん注:ママ。]は、聞《きく》べし。」

といふ。

 詞(ことば)の下(した)より、天、にはかに、かきくもり、雨、ふり出《いだ》しかば、ほうほう、にげかへるに、洪水、出《いで》て、柳川中《ぢゆう》の家々に、水、入《いり》ぬ。

 かゝれば、やうやう、雨もやみ、水も引《ひき》しに、新介がやどには、あらゆるうろくづ、いく千萬といふ、かずをしらず、入《いり》たり。

 かく、思ひの外に、德、つきて、皆人、大きにうらやみける。ふしぎといふも、あまりあり。

 それより、少し、ほどへて、新介、二人ありしむすめをちかづけ、なくなく、

「汝等がしるごとく、かりそめのたはふれ事より、魚、入《いり》しを、うれしくおもへるに、此比《このごろ》、夜ごとに、人、來り、

『汝がねがひの魚は、入《いり》つ。しかれば、むすめ、一人、得さすべし。これぞ、ねがひなり。』

といふ。さまざま、のがるれ共゙、かなひがたし。

『一向に、なるまじき。』

と、いはゞ、

『一家、ことごとく、湖水に引入(ひき《いれ》)なむ。』

と云《いふ》。いかゞ、おもふ。」

と、淚を、ながす。

 姊は、

「あら、おそろし。おもひよらざる事に侍る。」

とて、取《とり》あへず。

 妹、つくづくとうち聞(きゝ)、

「親のため、兄弟のためなれば、菟(と)も角(かく)も、はかり給へ。」

と云しかば、をやも、よろこび、やがて其用意をするに、彼(かの)むすめが、すがた、いつしか、かはりて、髮、

「ちりちり」

と、ちゞみ、まなこざし、光ありて、いと、すさまじくなれり。

 

Biwkoryugu

 

[やぶちゃん注:挿絵は時間差のコーダの龍昇天の図が描かれている。]

 

 すでに約束の日限(にちげん)にもなりしかば、一家は、いふに及ばず、村中、あつまり、をくり行《ゆき》て、のりものを、浪の上にをき[やぶちゃん注:ママ。]、おのおの、いとまごひするに、しばらく、のりもの、なみのうへにて「巴《ともゑ》」の字をなし、たちまち、海底に、しづみけり。

 それより、くだんの江裏に、魚の入《いる》事、おびたゞしかりしに、七年、經て、月忌(ぐわつき)にあたりし日、

「かの江裏より、龍の、あがる。」

とて、村中、こぞりて、見たりし。

 其翌日より、又、むかしのごとくに、江裏に、魚も、いらず。

「さては、かのむすめ、龍になり、天上しけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]にや。」

と、人、いひき。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。「新著聞集」には載らないようである。典型的な昔話の異類婚姻譚で、妹(通常は三人娘の末娘)が運命を引き受けるそれである。琵琶湖が龍宮へ通じているという伝承も瀬田の橋姫などで、古くからある話柄である(『小泉八雲 鮫人(さめびと)の感謝 (田部隆次訳) 附・原拠 曲亭馬琴「鮫人(かうじん)」」の本文及び私の注を参照)。しかし、本話はそれらを元に、かなり安直な形で継ぎ接ぎした感じで、私はあまり面白いとは感じない。但し、龍宮へ行くことを受諾するや、彼女の姿が、次第にメタモルフォーゼし、髪がチリチリとアフロ・ヘアーのように変じ、眼が、らんらんと光り出して、凄まじい姿になってゆく(一見、龍となるためのプレの基礎変化のように見えるが、或いは、自ら運命を変えざるを得ななかった彼女の怨念ととる方がよいだおう)というシークエンスは作者の独創として、上手いとは思う。

「江州柳川」滋賀県大津市柳川(グーグル・マップ・データ)。

「江裏(《え》り)」底本では「ゑり」と振る。本邦では。まさに琵琶湖の定置網で知られる「魞」で、琵琶湖の「魞漁」(えりりょう)として有名である。網地の代わりに、竹や木材などで造られた垣網(かきあみ)や簀(す)を水中に張り立て、水産生物の通路を遮断し、囲網(かこいあみ)へ誘導する定置漁具の古くからの古称である。琵琶湖に限らず、この漁具は風波に対して弱いことから、湖沼や河川に設置される場合が多いが、海面でも、風波の穏やかな内湾の浅所ならば、設置することが出来るし、現在でも穏やかな内湾などでよく見られる。垣網の長さ二~三メートルの小規模のものから、一キロメートルに及ぶ大規模なものもある。淡水域に仕掛けた場合は、簀の目が三ミリメートル以下のものは、小型・中型の鰕や小鮎などを漁獲し、十五ミリメートル以上のものは鯉・鮒・鰻などを漁獲する。本邦の内湾では、鯵・鰯・鯖・中・大型の蝦などを捕獲するが、フィリピンやタイなど、東南アジアの海浜沿岸では、同じ漁法が盛んで、鮪・鰹・鯛類などの大型魚類も対象としている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。なお、「魞」は国字である。

「取あへず」ママだが、これはおかしい。「とりあへず」(取り敢へず)には、適合する意味はない。「取り合はず」とあるべきところである。

「月忌(ぐわつき)にあたりし日」異類に嫁した以上(これは実際には水神に対する生贄として捧げられた人身御供がその原形であろう)の彼女は、この世の人間であることをやめさせられたのであるから、それは忌日となる。「月忌」は祥月命日ではなく、「月命日」で、亡くなった命日とは別な月の同日を指す。]

大和怪異記 卷之七 第五 狐つきに友ぎつね佗言して狐のく事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第五 狐つきに友(とも)ぎつね佗言(わびごと)して狐のく事

 丹後国峯山《みねやま》に、角兵衞といひし者、あるとき、晝ねしてゐけるかたはらに、狐、子、つれ出《いで》、あそびしを、追《おひ》ちらし、子狐一疋、にげかねたりしを、半死半生にうちて、すて置(おき)、やどに歸りしより、狐、つきて、さまざまの事、くちばしりける間、祈(いのり)・加持(かぢ)すれ共゙、しるしも、なし。

「いかゞせん。」

といふ所に、かの狐つき、にはかに、ひざをかゞめ、人と、あいさつするていに見えて、いふやう、

「御子《おんこ》を打たりしをいきどをり給ふ事、至極の道理にて候へども、此、七、八か年以前、某(それがし)が子ども、つれ出《いで》て、あそびし所に、犬、來(きたり)て、すでにくひころしぬべかりしを、此人、犬を追のけられしゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、からきいのち、たすかりし。其恩、いまに、わすれがたし。今度の事は、まげて御ゆるし候へ。たのみ參らする。」

と、いひしが、かうべをさげ、

「忝《かたじけな》》し。」

とて、一禮し、

「わびこと、かなふたるぞや。跡は、少し、わづらふべけれど、さはりは、あらじ。」

と、いひて、打(うち)ふし、思ふやうに、ねて、ゆめのさめたるやうに、物つきは、おちたり。

 天和二年十月の事なり。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。なかなか多層構成の面白い趣向の狐憑き譚であるが、「新著聞集」には所収しないようである。

「丹後国峯山」現在の京丹後市の峰山地区(旧広域地名。グーグル・マップ・データ)。

「晝ね」野外で昼寝していたようである。

「天和二年十月」一六八二年。一日を除き、グレゴリオ暦では十一月。よほど小春日和だったか。]

大和怪異記 卷之七 第四 女死して蛇になる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第四 女《をんな》死して蛇(へび)になる事

 江戸芝田町八丁目、紙屋が妻、をつとを、うらむ事、つもり、煩(わづらひ)て身まかりしを、寺に、をくり[やぶちゃん注:ママ。]、死人がよぎ・ふとん、とりのけければ、六、七尺ばかりの黑蛇、死してあり。

 「くまで」にかけて、背戶の海へ、すてさせければ、蛇、たちまち、いきかへり、すてにしものより、さきに、家《いへ》に人《いり》しを、跡より、行《ゆき》て、みるに、家の内にては、そのかたちも、見えず。

 かくて、四十九日すぐるとひとしく、後妻(こうさい)を、むかへし。

 婚姻の翌朝、やがて、妻女、にげかへりしは、何さま、おそろしき事、有《あり》けるにや。

[やぶちゃん注:原拠「犬著聞集」で、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十二 冤魂篇」(「冤魂」はこの場合は「恨みの残っている魂」の意)にある「恨婦(こんふ)蛇(へび)となる潜妾(かくしをんな)家(いへ)を去」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。合巻となっているPDF一括版52コマ目から。そちらでは、紙屋主人の名が『太兵衞』と出ており、寺を『むかひの成覚寺(しやうがくじ)』と出す。蛇の長さを『六七尺ばかり』とし、妾について、頭に『異方におもひて』(「別なところにこっそり置いて馴染んでいた」の意か)と添えてある。

「江戸芝田町八丁目」「江戸マップβ版」の「尾張屋版 芝三田 日本榎 髙輪邉繪圖」の「位置合わせ地図」によって、現在の東京都港区高輪一丁目内の、この中央附近(グーグル・マップ・データ)であることが判る。「新著聞集」にある成覚寺は、現在はないが、「繪圖」によって、まさにこの江戸芝田町八丁目に隣りしてあることが判り、この東は現在は埋め立てられているが、当時はすぐ海浜であったことも判る。]

大和怪異記 卷之七 第三 猿をころし發心する事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分もリンクを張っておく。]

 

 第三 猿をころし發心する事

 信州下伊奈郡《しもいなのこほり》、入㙒谷村の者、冬の日、獵(れう)に出《いで》、仕合(し《あはせ》)あしく、かへる道の大木に、猿(さる)居《ゐ》たるを、うつて、夜に入《いり》、やどに、かへり、

「あす、皮を、はがむ。こほりては、はぎがたし。」

とて、いろりのうへに、つり置《おき》ぬ。

 

Kozaruoyazaru

 

 夜ふけて、男、目をさましみれば、いけ置《おき》し、いろりの火《ほ》かげ、見えつ、かくれつするを、ふしんに思ひ、よくよく、うかゞひみれば、子猿、をやざるがわきの下に、とりつきゐけるが、一疋づゝ、かはりがはり、をりて、火にて、手をあぶり、おや猿が鐵砲きずを、あたゝめしを見るより、かぎりなく、あはれに思ひ、

「我、いかなれば、身ひとつを、すぎん。」

とて、

「かゝる、なさけなきいとなみをする事ぞや。」

と、先非(せんひ)を悔(くい)、あくる朝(あさ)、妻に、いとまをとらせ、頭(かしら)をそり、世をのがれ、一心不亂の念佛者になり、諸國修行に出しとかや。

[やぶちゃん注:原拠表示がないが、前後の話の末尾原拠が『同』とあることから、「犬著聞集」であることが判り、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第二 慈愛篇」にある「猿子(えんし)親(をや)を療(りやう)して人心を感發(かんはつ)す」(歴史的仮名遣の誤りはママ)である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。一巻から三巻の合巻となっているPDF一括版56コマ目から。

「信州下伊奈郡《しもいなのこほり》、入㙒谷村」「三峰川総合開発工事事務所」公式サイト内の「三峰川資料館」の「孝行猿物語」に驚くべき民俗学的な詳細の記載があり(必見!)、この主人公とされる勘助なる人物の子孫が今も家を守っておられるとある。また、この話は明治期の「脩身口授用書」、文部省大正七(一九一八)年発行の「尋常小學修身書 卷一」、昭和一一(一九三六)年に修正印刷された「尋常小學修身書 卷一」にも載っているとあり、全国的にも非常に知られた昔話であることも判った(私は不学にして知らなかった)。話柄自体の原ロケーションは、その記載に従って調べると、長野県伊那市長谷市野瀬附近(グーグル・マップ・データ)であり、また、その御子孫高坂家の一部が「孝行猿資料館」として入野谷地区にある。この地には「孝行猿の碑」(サイト『観光情報「観るなび」』。地図有り)があり、また、サイト「伊那谷ねっと」のこちらによれば、二〇一〇年四月には、『伊那市長谷の南アルプス生涯学習センター「入野谷」内に完成した』ともある。

「いけ置し」「いけ」が不審。この叙述では吊るされている状態では、まだ、親猿は生きていたということだろうか? 先の「三峰川総合開発工事事務所」の解説では、『「長谷村誌」などによる』として、子猿たちが介抱にくるシークエンスを、『囲炉裏の周りに子猿が三匹います。一匹が囲炉裏の火で手をあぶっては、四つん這いになった二匹を踏み台に、吊るされた猿の傷口に手を当て温めていまし た。勘助が撃(う)ち殺した猿の子供たちが、親猿を何とか生き返らせようとして、囲炉裏と親猿の間をしきりに行き来していたのでした』。『「ああ!昨日帰りに鳴いた猿は、この子猿たちだったのか!」どうにかして親猿を生き返らせたいと、夜中に一生懸命に手当している子猿たちを見ていると健気(けなげ)に思えてなりませんでした。「私は、生計を立てようとして、何故(なぜ)こんな情けないことをしてしまったのか」と先非を悔いました。子猿た ちは、夜明けとともに山へ去っていきました』。『親子の愛情に深く心を打たれた勘助は、夜が明けると、親猿を背負って裏山に登り、大きな一本松の木の根元に葬(ほうむ)って手厚く母猿の霊を慰(なぐ さ)めました。また、祠(ほこら)を建ててせめてもの心尽くしとしました。勘助は、猟師として生き物を殺してきた過去の非を後悔して、猟師を廃業しまし た。そして、頭を剃(そ)って一心不乱の念仏者になり、諸国行脚(あんぎゃ)の旅に出たといいいます』と、より詳しく、優れた臨場感(後代の伝承の膨らみが見てとれる)が語られてある。私はたいそう心打たれた。なお、サイト「南アルプス山麓探訪」の澤崎文仁氏の記事(写真有り)「孝行猿」も参照されたい。]

大和怪異記 卷之七 第二 本妻妾が子をころす事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第二 本妻(《ほん》さい)妾《せふ》が子をころす事

 尾州のもの、わきに、忍ぶ女、ありて、男子(なんし)を、まうけ侍り。

 その子、三歲になれるとき、本妻がいはく、

「われ、いまだ、子、なし。ねがはくは、われに、はごくませ給へ。左もあらば、子も出來(いでく)るものとこそ、世にも申せ。」

と、おとなしやかにいひしかば、日比《ひごろ》は、ねたみ、いきどをりしに[やぶちゃん注:ママ。]、思ひの外の事に思ひ、おつと[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]も、うれしげにうちゑみ、

「老さきたのむたよりにも、なりなんものぞ。いとをしく[やぶちゃん注:ママ。]思ひより給へり。我も、ふかく、かくしぬれど、是程に、をし[やぶちゃん注:ママ。]あてていはるゝうへは、つゝむべきにもあらず。」

と、よろこび、女がおやにも、

「かゝる事あり。しのぶのうらのみるめもさわり[やぶちゃん注:ママ。]はゞかりしかど、一向に女も云《いへ》る。」

と告《つげ》侍しに、

「それは。さいわゐ[やぶちゃん注:ママ。]の事にこそ。いかにもして、世つぎのあらまほしきことに思ひしに、是程のことやは有べき。今まで、しらざりし、おろかさよ。はやくよびむかへられよ。」

と、餘儀もなく、いひしかば、

「かたがたの心ざしも、うらなく、めでたし。」

とて、やがて、むかえ[やぶちゃん注:ママ。]とりぬ。

 女がてうあい[やぶちゃん注:ママ。]、斜(なゝめ)ならず、おつとも、『うれしき事』に、おもひ、四日、五日へて、女が親がもとに行《ゆき》て、呼《よび》とれるよしを、かたりしに、

「よき事かな、我も、はやく見まほしきに。」

とて、ゆき、酒などのみて、歸りける。

 女房も、つねよりは、いときよらに、くつろひ、心よげに、うちゑみ、

「よきさかな、まうけしに、さけひとつ、きこしめし候へ。」

と、すゝめしかば、夫《をつと》、

「我も、ゑひぬれど、めづらかに聞え給へば、いで、たべなん。」

と、いひし時、

「さらば、さかなとりて參らん。」

と奧に入《いり》、かの子を、竹の串(くし)にさしつらぬき、あぶりて、持出《もちいだ》し、そのかたち、眼(まなこ)ざしより、髮(かみ)のかゝりまで、けしき、かはりしを、夫、一目見て、きえ入る心地して、下々《しもじも》に、めくばせし、やがて、女をくみふせ、からめ、一間なる所に、をしこみ[やぶちゃん注:ママ。]、女がをやがもとに、

「かく。」

と、つげ知せしかば、大《おほき》に驚き、はしり來り、

「口をしきことなり。何條(なん《でう》)、いけてや、をくべき[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、納戸(なんど)にかけ入《いり》、みるに、見えず。

 かしこの天井、やぶれて、その主(ぬし)は、行かたしらず。

 其時も、雨風(あめ《かぜ》)、おびたゝしく[やぶちゃん注:ママ。]、雷(いかづち)、なり、電(いなづま)、かゞやき、おそろしき事、かぎりなし。

 いつのころといふ事も、其人の名も、聞(きゝ)しかど、わすれ侍る。

[やぶちゃん注:原拠「犬著聞集」。「新著聞集」には載らないようである。

「をしあてていはるゝうへは」「推(お)し當てて言はるる上は」。

「しのぶのうらのみるめもさわり」「忍ぶの浦の海松布(みるめ)」が「見る目」を掛詞として導いている序詞となると同時に、さらに裏に「忍ぶに堪えられぬ激烈な嫉妬の恨み」の掛詞でもある。「海松布(みるめ)」は緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile「大和本草卷之八 草之四 水松(ミル)」参照。「しのぶのうら」は陸奥の歌枕である内陸の「信夫の里」から行きもしない貴族らが勝手に海浜と錯覚したトンデモ仮想の歌枕と言える。「さわり」は「障(さは)り」で本妻の嫉妬に基づく「悪しき動機」「凶兆をきざすもの」「よくない状態を齎す事実」の意の一種の忌み言葉として用いている。

「とて、ゆき」の「ゆき」は中世の説話などに多く見られる会話文前後で生じたダブり。

「いときよらに」古語に於ける「美しい」の比較級中の最上の表現。

「めづらかに聞え給へば」前の正妻の「よきさかな」という凶悪の言挙げを、夫は禁断にして致命的に最悪の形で、それに応じてしまったのである。最悪の事実怪異の起動部分であり、コーダの正妻の失踪などに比べれば、遙かに凄い部分である。されば、直後の、「さらば、さかなとりて參らん。」「と奧に入《いり》、かの子を、竹の串(くし)にさしつらぬき、……」の「入」を「いる。」とするか「いり、」とするか、かなり悩んだ。結果して映像的に考えて、カットを入れずに、長回しで撮るべき部分と考え、読点とした。]

2022/12/17

大和怪異記 卷之七 目録・第一 久右衞門といふもの天狗にあふ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 目録部は総ての読みをそのまま振った。歴史的仮名遣の誤りはママである。条番号の「十一」以降のそれは底本では半角である。]

 

やまと怪異記七

一 久右衞門といふもの天狗(てんぐ)にあふ事

二 本妻(ほんさい)妾(めかけ)が子(こ)をころす事

三 猿(さる)をころし発心(ほつしん)する事

四 女(おんな)死(し)して蛇(ぢや)になる事

五 狐(きつね)つきに友(とも)ぎつねいひ事゙して狐(きつね)のく事

六 むすめを龍宮(りうぐう)にをくりし事

七 無盡(むじん)のかねをかすめとるむくゐ事

八 四子(よつご)をうむ事

九 疱瘡(ほうさう)に子(こ)をうしなひ狂氣(きやうき)せし事

十 蛇(へび)をころし祟(たゝ)りにあひて死(し)する事

十一 祖母(ばゝ)まごをくらふ事

十二 人(ひと)をころすむくゐの事

十三 牛(うし)をころしてむくふ事

十四 雷(いかづち)につかまれてそせいする事

十五 妻(さい)が幽㚑(ゆうれい)凶(けう)をつぐる事

十六 さるをころすむくゐの事

十七 にはとりのたまごくらふむくゐの事

十八 怨㚑(おんれう)主人(しゆじん)の子(こ)をころす事

十九 をんれうかはづとなつてあだをかへす事

 

やまと怪異記七

 第一 久右衞門といふもの天狗にあふ事

 丹波福智山領の内、多和村の久右衞門は、强勢(《がう》せい)なるものにて、つねに、好《このむ》で弓(ゆみ)をゐる。

 あるとき、鹿(しか)をねらひ、深更(しんこう)に及びしに、「天狗だをし[やぶちゃん注:ママ。]」、おびたゞしかりけるを、久右衞門、少しもさはがず、手をたゝき、わらひしかば、忽(たちまち)に、とゞまりて、そらにちかく、白布(しろぬの)を引《ひき》はへたり。

「あやしきかな。」

とて、弓のほこを、さしのべて、たたきしに、

「ほとほと」

と、なる。

 かゝる所に、弓手《ゆんで》のかた、はるかの空より、なにとはしらず、物のおちかゝるを、

「心得たり。」

とて、やがて、矢を、うちつがひ、

「ひよう」

ど、ゐるに、手ごたへして、かたはらなる沼に、

「どう」

ど、おつるを、はしりよつて、引《ひき》をこし、さしのぞき見れば、黑井村の六兵衞といふものなり。

 ふしんにおもひながら、矢をぬきて、やどにかへり、やがて、黑井村に、人をつかはし、とはせければ、過《すぎ》し夜《よ》、身まかりしを、

「火車(《くわ》しや)に、とられし。」

と、いひこしけるに、わが射たりし所に、人をつかはし、みするに、死がいはなくて、おちたりし「あと」は、有《あり》ける。「犬著聞」

[やぶちゃん注:原拠「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、所持する同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようである。

「丹波福智山領の内、多和村」京都府福知山市田和(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)であろう。

「天狗だをし」「天狗倒(てんぐだふ)し」。オーソドックスな深山の怪。突然、大木を伐り倒す、すさまじい大音が響くので、行ってみると、なんの形跡もないそれを言う。夜間に起こることもある。天狗が人を驚かすためにする悪戯ととることが多いことからの命名。

「引はへたり」「引き映えたり」或いは「引き張りたり」でないとおかしいように思う。所謂、夜空の山林に、団幕よろしく、白い布を横に張っているかのように感じられる大気上の見かけ上の光学的異常現象である。単に「張りたり」が一番無理がないが、それが、例えば、月の光に「白く映えて見える」というのもありかと思うのである。

「弓のほこ」「ほこ」は弓の幹の部分を指す。

「ほとほと」錯覚ではなく、明らかに物理的な何かがそこに存在して音がしているのである。この怪異は、なかなか、いい。

「弓手のかた、はるかの空より」久右衛門が対峙して向かっている空の、左手の遙か上空の方から。

「黑井村」「ひなたGPS」の戦前の地図で「田和」周辺で近似する地名を探したが、見当たらない。但し、一つ、気がついたのは、現在の兵庫県丹波市春日町黒井がある。現行では県を跨るが、ここは必ずしも田和から異様に離れた位置とは言い難い。直線で十八キロメートルで、山岳地帯を挟む南側であるが、福知山盆地を経由して実測してみるに、三十キロメートル弱で着く距離であり、例えば、狩猟好きの久右衛門なら、この南北の間の山林をフィールドとしていて全くおかしくないと私は思うのである。

「過し夜」昨夜。まさに久右衛門が怪奇を体験したその夜。

『「火車(《くわ》しや)に、とられし。」と、いひこしける』シークエンスの表現法としては、上手くないが、私は、前夜、六兵衛が、魘されるように、「火車に、捕られたぁッッツ!」と断末魔の声を挙げて亡くなったものととる。本篇は、久右衛門の体験した事実と「火車」(妖怪としての「火車」(かしゃ)は私の怪奇談集に枚挙に遑がないが(「狗張子卷之六 杉田彥左衞門天狗に殺さる」の私の最後の注及びその中の私の記事リンクを参照されたい)、これは、「大和怪異記 卷之六 第十七 火車にのる事」と同じで、地獄の迎え車ととれ、それらとは異なる。これも何らかの脳症の末期の幻覚である)がすんなりとつながらないところが、一見、ジョイントが悪く、概ね誰もが躓くのであるが、真の怪異性とは、その内部で全部の対象の総ての連関が繋がって、閉じられた系の中で論理が成立してしまっては、実は怖くないのである。見かけ上の論理性のどこかが、不条理に致命的に欠損していてこそ、話を受ける我々の側にはブラッキーなもやもやが残り、それがまた、同時に怪異感を高めるとも言えるのではなかろうか? いや、正直に告白すると、寧ろ私は、この後の展開を読みたくなるのである。すると、「犬著聞集」の原作者椋梨一雪はまさに、これを続けて、久右衛門の臨終の怪異というコーダを書こうと考えていたのではなかったか? そうして、そこで、この我々をやや不満足にさせる、論理的欠損部が、補われて、因果の悲劇が幕を閉じるという趣向だったのかも、知れない、などと妄想もするのである。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「夜分(やぶん)、古墓石を磨く怪」「石塔みがき後記」 / 曲亭馬琴「兎園小説」本篇・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」・「兎園小説拾遺」全篇電子化注完遂 兎園小説全集大団円也!

 

[やぶちゃん注:「兎園小説拾遺」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ下段五行目)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。最後なので、読み易く段落を成形した。「□」は原本の脱字を示す。但し、思うに、この場合は、人物(馬琴の姻族)を特定されるのを憚るための意識的欠字と推定される。

 以下、最後の二条は、続き物であるので、ここで一行空けてカップリングして示す。

 さても、昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、これを以って、遂に、以上の「兎園小説」集の全篇(「兎園小説」(本集)・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説拾遺」)を凡そ一年と五ヶ月で終わることが出来た。現行、これらを総て活字化し注を附したものは、出版物でもネットでもないはずである。これに付き合って下さった数少ない私の読者の方々に心より御礼申し上げるものである。

 

   ○夜分磨古墓石

 文政十三年庚寅秋九月下旬より、江戶なる寺院の古き石塔を、一夜のうちに磨《みが》くもの、あり。何の所爲《しよゐ》といふ事をしらず。

「此事、初秋の頃、甲斐の國にて、處々にありしを、やうやく、江戶に移り來つ。」

と、いへり。

 とかくする程に十月に至りて、此事、いよいよ、甚しく風聞せり。

 そが中に、四谷天龍寺に、戶田因幡守家臣何某の墓、有《あり》、是も、みがゝれし由、寺より施主某《なにがし》へ、報(ほう)、來れり。

 只、石塔の正面を磨くのみ。中には、戒名へ、すみをさし、朱をさして、漆《うるし》せしも、あり。

「戶田家が墓石は、只、磨たるのみなれど、文字の内まで、よく、さらひたり。」

と、いふ【同家中、渥見覺□話也。覺□は、わが女婿なり。】。

 又、我《わが》媳婦《せきふ》の祖父の墓は、伊皿子臺の寺に有《あり》、

「是、磨かれたり。」

と、いふ。

 此頃、輪池翁の出《いだ》されしとて、其寫しを見たる一友人より傳聞《つたへきく》に、

「古き繪卷物に『石塔磨《せきたふみがき》』といふ虫、有《あり》。かたち、泥龜に類して、赤み有《あり》。是成《これなる》べし。」

と、いはれし由なれど、蟲などのわざとは、思はれず。

 又、小日向《こびなた》邊なる某の寺の本堂の前の日向《ひなた》に、近所の子守女、兩三人、主《あるじ》の小兒を脊負ひて、あそばせ居《をり》たるに、不ㇾ計《はからずも》、墓所の方を見れば、獨《ひとり》の法師、石塔を磨居《みがきをり》たり。一人の子守、是を見て、

「坊さま、何をし給ふぞ。」

と問ひしに、件《くだん》の法師、物をも、いはず、

「き」

と、にらみたる面つきの、いとおそろしかりければ、子守等、皆、

「ワ。」

と、さけびて、各《おのおの》、主の家に迯《にげ》かへり、

「只今、かゝる事の侍りし。」

とて告《つぐ》るに、なほ、白齒なる[やぶちゃん注:鉄漿(おはぐろ)をしていない女、則ち、未婚の若い女性を指す。]下女共の、

「おはぐろをつけたるごとく、いづれも齒のくろくなりたり。」

と、いふ。

 後に思ふに、是等の怪談は、皆、そらごと也。

 石塔をみがゝれしことは、相違なし。

「其《その》磨《みがき》ざま、石工のなせしとは異にして、スベラカ也。」

とぞ。

 みがきたる墓のほとりに、朱のこぼれてありしも有。

 逆朱をさす時に、こぼせしなるべし。

 是等、傳聞ながら正說也。

 此地、處々の寺々にて、磨れたる石塔、枚擧に遑《いとま》あらず。一夜の中《うち》に、十も、十五も、磨こと、あり。

 然れ共、皆、とびとびにて、並《ならび》よく、みがくことは、なし。

 寺院よりは、施主へ告げ、寺社奉行へ訴へ、町方にては、其施主たる者、町奉行所へ訴る者、日々に絕えず、とぞ。

 依ㇾ之、佐竹候は、其菩提所、橋場なる總泉寺の墓所へ、假番屋を建て、晝夜、番人を付置《つけおく》といふ。

 かゝる諸候、なほ、有べし。

「いぬる日、今戶なる何某《なにがし》、稻荷の社の屋根なる眞鍮の狐二つの内、一つの狐も磨れたり。」

と聞《きき》ぬ。

 又、いぬる夜、淺草なる西福寺の門をたゝく者、有《あり》、門番人、

「誰《たれ》ぞ。」

と問へば、

「云々の處より來れり。本堂へ、とほる。」

と、いふにより、門をひらきて入れたるに、其人、三人也。

 本堂の方へはゆかで、墓所のかたへゆくにより、門番人、あとより追《おひ》かけ出《いで》て、

「本堂は、そなたにあらず、こなたこそ。」

と呼留《よびとむ》るとき、襟元、

「ぞつ」

と、せしに、驚きて、『見かへらん』とせしに、頭髻(たぶさ)を切《きり》おとされけり。

 是にぞ、いよいよ、驚き怕《おそ》れて、

「あ。」

と、叫《さけび》て、倒れしかば、門番の妻、この聲を聞《きき》て走り出《いで》つゝ、良人を、いたはり、寺よりも、法師等《ら》、出て、彼《かの》三人を尋ねしに、ゆくへもしらずなりし、とぞ。

 かゝれば、

「狐の所爲なるべし。」

といふ者、有。

 かゝる事には、虛談も多かれば、一向には信じかたけれど、墓石を磨れし事は、人々、目擊する所也。

 此節に至りて、

「彼《かの》墓を磨れたる者は、子孫、斷絕する。」

などゝ風聞す。

 是《これ》にて、思ひ合《あは》すれば、狐を使ふ者の所行《しよぎやう》にて、墓を磨《みがか》せ、その怪を攘《はら》ふ守札《まもりふだ》なんどを賣らん爲《ため》かも、知るべからず。

 明和中、「髮きり」の流行せしも、「ゑせ山伏」のわざにて、狐に、人々の髮をきらせ、狐よけの守札を出せしより、其事、あらはれて、彼《かの》惡山伏は、捕《とらは》れて、罪、せられにき。

 かゝる事もあれば、こたびの墓みがきも、狐を使ふ者のわざにはあらずやと、己《おのれ》も、おもへり。

 もし、然らんには、遠からずして、その事、あらはるべし。

 庚寅冬十月八日記

[やぶちゃん注:「文政十三年」一八三〇年。

「四谷天龍寺」東京都新宿区新宿四丁目にある曹洞宗護本山(ごほんざん)天龍寺(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。

「渥見覺□」「覺□は、わが女婿なり」馬琴の三女鍬(くわ)は文政一〇(一八二七)年に宇都宮藩藩士で優れた絵師でもあった絵師渥美覚重(赫州)と結婚している。彼は天保五(一八三四)年に完成した馬琴の鳥類図鑑の優れた博物画をものしていることで知られる。

「我媳婦の祖父」「媳婦」は息子の嫁。馬琴の長男興継の妻土岐村路(ときむら みち)の祖父の謂い。路の父は紀州藩家老三浦長門守の医師土岐村元立(げんりゅう)で次女であるから、その父ということであろう。

「伊皿子臺」「伊皿子」は芝伊皿子(現在の港区伊皿子地区。泉岳寺の東北直近)。「寺」と言われても複数あるので特定出来ない。

「輪池翁」親友で「兎園会」・「耽奇会」でお馴染みの幕臣の文人屋代弘賢。

の出《いだ》されしとて、其寫しを見たる一友人より傳聞《つたへきく》に、

「古き繪卷物に『石塔磨』といふ虫」典拠不詳。この名の虫も知らない。「かたち、泥龜に類して、赤み有」という叙述から、ふと、思い出したのは、半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目トコジラミ下目サシガメ上科サシガメ科モンシロサシガメ亜科アカサシガメ属アカサシガメ Cydnocoris russatus であった。刺すし、消毒液を分泌するが、しかし、それで石塔が磨かれるとは、ちょっと思われない。

「小日向」現行の東京都文京区小日向はここ。旧小日向はもっと広域と思われる。この地域だけでも寺は複数あり、同定不能。

「スベラカ」「滑(すべ)らか」。

「佐竹候」佐竹壱岐守家。この当時は第六代当主にして出羽国岩崎藩第六代藩主佐竹義純(よしずみ)。

「橋場なる總泉寺」この寺は江戸三刹の一つとされる曹洞宗妙亀山泉寺。この頃は、現在の台東区橋場にあったが、関東大震災に罹災し、現在は東京都板橋区小豆沢に移っている(ここ)。佐竹家の江戸に於ける菩提寺である。

「今戶」現在の台東区今戸

「稻荷の社」恐らく何某の屋敷内の稲荷社であろう。

「淺草なる西福寺」若干、浅草の南だが、台東区蔵前にある浄土宗江戸四ヶ寺の一つである東光山松平良雲院西福寺のことと思われる。

「頭髻(たぶさ)」「髻(もとどり)」に同じ。所謂、「丁髷(ちょんまげ)」(但し、この俗称は明治初期以降の表現である)。

「明和」一七六四年から一七七二年まで。

『「髮きり」の流行せし』明和のそれは、ちょっとないが、私の作成すた怪奇談で公開の古い順に示すと、

「耳囊 卷之四 女の髮を喰ふ狐の事」

「諸國里人談卷之二 髮切」(そこでは、冒頭「元祿のはじめ」とする。元禄は一六八八年から一七〇四年まで)

『西原未達「新御伽婢子」 髮切虫』

を参照されたい。]

 

   ○石塔みがき後記

 「此石塔をみがきしは、癩人《らいじん》の所爲也。」

と、いふ。

 その故を尋《たづぬ》るに、本所立川《たてかは》邊に、ひとりの道心者あり。此者、壯年の頃まで、惡黨なりしに、故ありて、發心し、剃髮して、道心者となれり。常に慈善の行ひを旨として、浮尸體《うきしたい》などあるを見れば、竊《ひそか》に引《ひき》あげて葬りし事も、幾度にか及べり。

 又、立川邊に、ひとりの癩病人あり。年來《としごろ》、療治に手をつくせしかども、驗《しるし》なし。

 あるとき、右の道心者、癩病人に敎《をしへ》て、いふやう、

「古き石塔を、人にしらさぬやうに、一千、みがくときは、その功德《くどく》によりて、難症、平癒、うたがひ、なし。しかれども、人にしられては、しるし、なし。」

と、いひけり。

 依ㇾ之、右の癩病人、はじめは、甲州街道に至りて、田舍寺の石塔を磨きしが、田舍のみにてははかどらぬ故、次第に江戶中の墓を、みがきし、とぞ。

 この事、十一月中旬、露顯に及び、右の願人《ぐわんいん》、寺社奉行脇坂候へ召捕《めしとら》れ、その口狀によりて、敎たる道心者も搦捕《からめと》られて、今、牢中にあり、と聞えたり。

「慾心の爲にせし事にもあらねど、御府内《みふない》をさわがせし、罪、あり。獄斷《ごくだん》、いかに定《さだめ》らるゝや、死刑に及ぶ、まじきか。」

と、此頃の世說《せせつ》也。

 この事、實說なるべし。

 十一月下旬より、「石塔磨」の噂、フツと、やみけり。

 庚寅十二月上旬追識。

[やぶちゃん注:以下、最後まで、底本では全体が一字下げ。]

 再《ふたたび》按ずるに、右後記にしるしたる癩人に、石塔磨の事を誨《をしへ》し道心者は、杉島生の「棹子顱圓記」に見えたる、御馬屋河岸《おんまやがし》の船人《ふなびと》にて、後に祝髮《しゆくはつ》、念佛者となりて、中の鄕なる福巖寺に寓居したる顱圓なるべし。所云《いふところの》「顱圓記」は、文政十三年庚寅仲冬の作、「載《のせ》て聞《きく》まゝの記」に、あり。合せ見るべし【天保三年の秋、追記。著作堂。】。

 

 

兎園小說拾遺第二

[やぶちゃん注:「癩人」ハンセン病患者。この「癩」は歴史的に強い差別の歴史を背負った差別語であるから、現代では使用すべきではない。詳しくは、『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「三 起請文の罰の事」』の『「白癩黑癩(びやくらいこくらい)」の文(もん)を書入れたり』の私の注を参照されたい。

「本所立川」本所堅川が正しい。現在の東京都墨田区及び江東区を流れる人工河川。江戸城に向かって縦に流れることからかく名がついた。

「浮尸體」「うきしたい」の読みは確定ではない。「うきかばね」「うきしかばね」かも知れぬ。水死体。

「寺社奉行脇坂候」播磨国龍野藩八代藩主の脇坂安董(わきさかやすただ)。彼は二度、寺社奉行を任ぜられているが、その二度目の任期中。

「庚寅十二月上旬」文政十三年の最後の十日となる。陰暦十二月十日(グレゴリオ暦では既に一八三一年一月二十三日)に天保に改元されている。

『杉島生の「棹子顱圓記」』不詳。今まで「杉島」という人物は「兎園小説」には出てきていない。「たう(或いは「たく」)しろゑんき」と読んでおく。以下の叙述から、「棹子」は元「棹(さを)さす男(をのこ)」で、「顱圓」は恐らく自前の法号で「顱」は「かしら」或いは「頭の上部」を指すから、「つるんと頭のまあるい坊主」という謂いであろう。

「御馬屋河岸」「御厩河岸」。現在の厩橋の上流に「厩の渡し」があった、その附近

「祝髮」「剃髮」に同じ。

「中の鄕なる福巖寺」墨田区東駒形にある曹洞宗牛嶋山福厳寺。ここは旧中之鄕原庭町に当たる。「今昔マップ」のこちらで戦前の地図を見られたい。

「載て聞まゝの記」不詳。

「天保三年」一八三二年。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「山形番士騷動聞書幷狂詩」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説拾遺」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ下段中央やや左から)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 本記事は文政一三(一八三〇)年八月十四日未明に西丸大手門(現在のここ。グーグル・マップ・データ)で発生した刃傷事件(死者三人。手負いの者多数)の記録である。]

 

   ○山形番士騷動聞書幷《ならびに》狂詩

間瀨市右衞門亂心始末聞書。

            西丸大手御門番

             秋元但馬守家來

 物頭《ものがしら》亂心  間 瀨   市右衞門

 同即死          齋 田   源  七  郞

 鍵番卽死         戶 部   彥左衞門

 徒目付《かちめつけ》即死 宇田川   萬  造

    【手負 給人】      長谷川  又 十 郞

    【同  同 】     大瀨源五右衞門

                   外給人二人

    【同 下座見足輕】 本 間 源 次  郞

    手負        中 間 嘉 助

    番頭無疵      大沼 角右衞門

文政十三年庚寅秋八月十三日夜丑中刻[やぶちゃん注:恐らくは翌日陰暦十四日未明であるから、グレゴリオ暦では一八三〇年九月三十日相当の午前二時頃。]、右、間瀨市右衞門、亂心、同役齋田源七郞、幷に、番頭《ばんがしら》大沼角右衞門等に遣恨有候哉《や》、夜中、竊《ひそか》に起出《おきいで》、支度をいたし【上着に黑き小袖を着し、襷をかけ、袴を着し、股立《ももだち》をかけ、馬上挑燈をもちし、といふ。】、御番所勝手の方、間每《まごと》の燈火を打けし、睡り臥たる番士の蚊屋の釣緖《つりを》を切落《きりおと》し、初太刀《しよだち》に齋田源七郞を切殺《きりころ》し、又、宇田川萬造を切殺せり。鍵番戶部彥左衞門は逃《にげ》て、番頭大沼角右衞門の部屋にゆきしに、帶もせず、無刀なりしを、角右衞門、叱りたりければ、脇差を取らんとて、元の處へ立戾りしを、市右衞門、一刀に切殺せしとぞ。番士、蚊屋の釣緖を切落され、且、闇《くら》ければ、狼狽して、手を負《おは》せられし者、四人に及べり。此時、下座見足輕、源次郞、走り來《きたり》て、「何事ぞ。」とて挑燈をさし出《いだ》す處を、手の指を切《きり》おとされし、といふ。依ㇾ之、いたく騷動して、市右衞門を捕へんとする者なく、只、御門の前後を守《まもり》て、「走出させじ。」と、せしのみ也。其時、番頭角右衞門、吳服橋屋敷へ人を走らして、非番なりける小林猪野五郞を招きければ、猪野五郞、來れり。時に天明に及びて、市右衞門は桝形の内なる、水溜桶を盾にして、刄を靑眼に構へて有しを、猪野五郞、もぢりをもつて、ねらひより、市右衞門の胸へ突かけしを、切拂《はらは》んとして、猪野五郞も、右の手を、些《すこ》し傷《き》らる。然共、直《ぢき》に踏込《ふみこみ》て組留《くみとめ》し時、足輕小頭某、六尺棒をもて、市右衞門の足を拂ひ倒し、大勢、打かさなりて、繩をかけしといふ【この時、猪野五郞も、足を拂て、共に倒れし故、足をも痛めしとぞ。】。此間に、天は明《あけ》はなれしかば、暫く御門下の往來、留《とどま》りしとぞ【桝形の内、手負《ておひ》の逃出《にげいで》たるものゝ血を引《ひき》たりしと云ふ。】。事、私《わたくし》に濟《すむ》べくもあらねば、則《すなはち》、御目付へ屆らる。依ㇾ之、檢使、來《きたり》て、諸士の口書《くちがき》をとらる【十四日夜五時《よるいつつどき》[やぶちゃん注:午後九時前後。]に、檢使の儀、やゝ、をはりしと云。】。十四日、相番《あひばん》と交代の定日《ぢやうじつ》なれども、この故に、交代、ならず。是より、なほ數日《すじつ》、秋元、勤《つとめ》らる。市右衞門は、町奉行所へ引渡され、當番の諸士、みな、町奉行所へ呼寄《よびよ》せられて、尋ねの旨あり【淺手の者は駕籠にて奉行所へまゐれり。】。市右衞門は揚《あが》り屋え、遣《つかは》さる。秋元殿は差控《さしびかへ》を伺《うかがは》れしに、「先づ、其儀に不ㇾ及」旨に付、元のごとく勤められしと云。此後の事未ㇾ聞ㇾ之。猶、追々、識《しる》すべし。

[やぶちゃん注:「山形藩」当時の出羽山形藩藩主は秋元久朝。

「下座見」江戸城の諸門・番所の下座台にいて、三家・三卿・老中・側用人・若年寄などの登城・下城・通行の際、下座についての注意を与えた下級職。

「給人」江戸時代、武家で扶持米を与えて、抱えて置いた平侍(ひらざむらい)。

「股立をかけ」袴の左右両脇の開きの縫止めの部分を摘まんで腰紐や帯に挾み、袴の裾をたくし上げること。普通は「股立ちとる」と言う。

「鍵番戶部彥左衞門は逃て、番頭大沼角右衞門の部屋にゆきしに、帶もせず、無刀なりしを、角右衞門、叱りたりければ、脇差を取らんとて、元の處へ立戾りしを、市右衞門、一刀に切殺せしとぞ」角右衛門の叱責がなければ、彼が命を落とすことはなかった点に着目せねばならない!

「桝形」城郭の虎口(こぐち)に設けられた施設で方形の空間を石垣で囲み、二つの門をつけたもの。この場合は西大手門の内側のそれ。

「もぢり」「錑(もぢり)」。 罪人を捕える道具で、長柄の先に、多くの鉄叉を上下に向けてつけたもの。「袖搦(そでがらみ)」とも呼ぶ。私の『「和漢三才圖會」卷第二十一「兵器 征伐」の内の「長脚鑚」』に掲げられたの左端のものがそれ。

「揚り屋」江戸小伝馬町の牢屋敷にあった御目見以下の武士及び僧侶・医師・山伏などの未決囚を収容した牢屋。]

當時、榊原殿は、御本丸大手の御門番にて、當番なりしに、八月十三日夜の子時計《ねのときばかり》に、西丸の方に當りて、物のさわぐ音せしを、いまだ睡らざりける番士等、あやしみて、「彼《か》は何なるべき。」と、耳を側立《そばだち》つゝ聞《きき》しに、「群烏《むれがらす》の森をはなれて鳴《なく》なりけり。」。「常には、あらず。鳥の何におどろきて、木をはなれて、さはぐや。」など、いひつゝ、皆、ねぶりしに、天明に及びて、件《くだん》の騷動の聞えしかば、「夜中の鳥は、それが表兆《ひやうてう》になりけん。」と、思ひ合せしとぞ【八月十七日に、彼《かの》藩中の士の來訪して、話次《はなしついで》の話なり。】。按ずるに、是は彼切害せらるべき人々の魂《たましひ》の、先だちて出《いで》たるを、烏の見て、驚きさわぎたるなるべし。必《かならず》、死人の生前に、其魂の、ぬけ出《いづ》る事、あり。疑らくは、この故なるべし。

此頃、或人の見せたりし狂詩あり。何人の作なるを知らず。

[やぶちゃん注:この怪奇実談のサイド・ストーリーは馬琴のサーヴィスであろう。

 以下、四段組みで、句の後に句点があるが、除去し、一段とした。]

 西城山形番士中

 亂心遺恨譯朦朧

 堪憐卽死三朋輩

 可恥無疵一老翁

 白刄閃時燈影闇

 金屛倒處血眼紅

 主人外聞妻怨嘆

 迷惑差留手負躬

  右檢使書面、幷に、手負人、口書、寫。

[やぶちゃん注:狂詩の訓読を試みる。

   *

西城せいじやう) 山形 番士の中(うち)

亂心 遺恨 譯(わけ) 朦朧(もうろう)

憐れみ堪へず 卽死の三朋輩(さんはうばい)

恥づべし 無疵の一老翁

白刄(はくじん) 閃時(せんじ) 燈影の闇(やみ)

金屛 倒ふる處 血眼(ちなまこ) 紅(くれなゐ)

主人 外聞 妻 怨嘆(ゑんたん)

迷惑 差し留め 手負ひの躬(からだ)

   *

第二句目でも示されているが、この刃傷事件、一貫して、間瀬市右衛門(数え三十五歳)の乱心扱いとなっている。しかし、彼が襲ったのは同僚及び直接の実務上の上役格である。後の方で、検使による間瀬本人への訊問シーンでは、「犯行の動機その他当時の樣子を訊問したところが、何か言っていることが、前後しており、正直、それを意味ある言説として聴き取ることが出来かねたため、『乱心』(発狂)によるものと判断し、彼の『口上書』は聴取しませんでした。」と記している。また、無能の上司番頭(ばんがしら)大沼の供述では、「間瀬本人の言っていることがよく判らない状態にあったと他の者から訴えがあった」ようなことが述べられてあるが、その謂いには、既に事件が起きてしまった折りにそれが告げられたようになっている。ここは何か不自然で、作為が感じられる。しかも、この一件、その後の処分が伝わっていない(通常ならば、磔、軽くて斬罪だろう)。事実、間瀬の被虐性の強い妄想型の精神疾患による乱心であったのなら、その様子を医師を立ち逢わせ(真の統合失調症等の強い関係妄想の場合は素人でもすぐ判る)、訊問の中で明らかにして報告すべきであるが、そこも丸々抜けてしまっている。少なくとも、評議の中で、何か重大な問題――組織的な間瀬へのイジメ行為――があって、藩がそれを隠すために暗躍したとしか私には思われない。この狂詩のそこここにも、そうした民衆の黒い霧部分への憤懣が隠れているようにも読める。

「恥づべし 無疵の一老翁」は現場の実務総責任者であった番頭で無傷だった大沼角右衛門のこと。「主人 外聞 妻 怨嘆」の一句も、専ら、彼に向けられた批判のように思われる。]

  文政十三寅年八月十四日

  西丸大手御門當番秋元但馬守

  家來亂心一件

西丸大手御門當番、秋元但馬守、家來、齋田源七郞外二人死骸、大瀨源五右衞門外三人え、手疵爲ㇾ負候。間瀨市右衞門、見分書。

   覺

秋元但馬守家來、御番所勝手にて、間瀨市右衞門に被切殺候、物頭齋田源七郞死骸、見分仕候處、年三十一歲に罷成候由。頰より、鼻の下へ掛《かけ》、五寸程、深さ二寸程、切下げ、頭中《かしらなか》切疵、三ケ所、有ㇾ之、耳、切落し、右之肩より、二の腕へかけ、長二尺五寸程、左の足、股の下、五寸程、右之股に、二寸程、左足向脛《むかづね》より、足の甲へ掛け、少々宛《づつ》、疵、三ケ所、都合、疵所二十一ケ所。淺黃小倉帶、仕《しまはし》、懷中物無御座候。

一、同人家來、鍵番、戶部彥左衞門、死體見分仕候處、年四十一歲に罷成候由。左のちゝの上より、脊《せ》迄、突抜疵《つきぬけきず》一ケ所、口、三、四寸程有ㇾ之候。衣類、白がすり單物《ひとへもの》、着《き》、淺黃琥珀帶《あさぎこはくおび》、仕、懷中物無御座候。

一、同人家來、徒目付宇田川萬造、死骸見分仕候處、年五拾八歲に相成候由。左の橫腹、一尺程、深疵、左の肩に八寸程、深さ二寸程、左の肩に四ケ處、切疵、有ㇾ之、木綿紺竪島袷《こんたてじまあはせ》着、同艾嶋《よもぎじま》單物、着、花色太織帶。仕、懷中物無御座候。

一、同人家來、長谷川又十郞、見分仕候處、年二十一歲に相成候由。腰に六寸程。切疵一ケ所。衣類、木綿藍返し小紋單物、着、淺黃琥珀帶、仕、懷中物無御座候。樣子、相尋《あひたづね》、別紙口上書《かうじやうがき》、取ㇾ之、差上申候。

一、同人家來、大瀨源五右衞門、見分仕候處、年二十九歲に相成候由。百會《ひやくゑ》より襟へ掛、八寸程、深さ一寸程、脊より眉え掛、五寸程、深さ一寸程、肩より脊へ掛、四寸程、深さ□□[やぶちゃん注:底本に『原本脱字』とある。]程、脊より尻へ掛、そぎ疵、長六寸程、右の小指に切疵少々、衣類、木綿中形《ちゆうがた》單物、着、藍島糸織帶、仕、懷中物無御座候。樣子相尋、別紙に口上書、取ㇾ之、差上申候。

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「百會」本来は鍼灸の「ツボ」の名。頭頂部のど真ん中。両耳の一番高い場所を結んだ線と、鼻から後頭部中央(正中線)を結んだ線の交差する箇所。「中形」中ぐらいの大きさの型紙を使った染め模様。]

一、同人家來、下座見、足輕本間源次郞、見分仕候處、歲三十一歲に相成候由。右の耳の下より、襟へ掛、六寸程、深さ一寸程、左之二の腕、六寸程、脊より腰へ掛、六寸程、深さ三寸程、右の手指、四本、切落し、大指計殘居《おほゆびばかり のこりをり》、左の指、少々、都合七ケ所、有ㇾ之候。衣類、藍竪島《あひのたてじま》單物、着、黑なゝこ帶、仕、懷中物無御座候。樣子相尋、別紙口上書取ㇾ之、差上申候。

[やぶちゃん注:「黑なゝこ」平織の織り方の一種。経緯(たてよこ)に七本の撚糸を使ったことから出た名で「七子織」とも書く。また、布面が魚卵のように見えるので「魚子織」、糸が並んで組み織られてあるので「並子織」と書いて「ななこおり」と読んだりする。]

一、同人家來、中間、嘉助、見分仕候處、年三十八歲に相成候由。右の脇下、一尺餘、深さ六寸、腰の脇、八寸程、突疵、都合二ケ所有ㇾ之候。衣類、木綿法皮、着、懷中物無御座候。樣子相尋、別紙差出し申候。

[やぶちゃん注:「法皮」不詳。「法被」で「はつぴ(はっぴ)」のことか。]

一、右、齋田源七郞・戶部彥左衞門・宇田川萬造・大瀨源五右衞門・長谷川又十郞・本間源次郞・嘉助、七人に爲ㇾ負手疵候、物頭、間瀨市右衞門、見分仕候處、年三十五歲に相成候由。頭中《かしらなか》、打疵、少々宛、三ケ所有ㇾ之、衣類、太織黑小袖、木綿藍小紋、單物、花色琥珀帶、仕、懷中物無御座候。及刄傷《にんじやう》候拔身の刀、長さ二尺五寸[やぶちゃん注:七十五・七センチメートル。]程に、無名、血、付、刄《は》こぼれ、有ㇾ之、緣《ふち》・頭《かしら》共、赤銅《しやうくどう》なゝこ梅色繪。目貫、赤銅、尾長鳥。鮫白柄《さめしろづか》、糸、黑。鍔《つば》、鐵丸《てつぐわん》にて、三違菱《みつちがひ》の透《すかし》、切羽《せつぱ》、金着《きんき》せ。鎺《はばき》、二枚重ね金銀着せ。鞘、蠟色、鵐目《しとどめ》、金。下ゲ緖、黑。脇差、身《み》、長一尺七寸程[やぶちゃん注:五十一・五センチメートル。]、銘「金直《かねなほ》」と有ㇾ之、頭角《かしらかど》、卷掛。緣、赤銅、なゝこ「こふもり[やぶちゃん注:ママ。]」彫《ほり》、目貫、赤銅、ゆづの色繪。鮫白柄、糸、黑。鍔、鐵丸。切羽・鎺共、金、着せ。鞘、蠟色、鵐目、金。下げ緖、黑、小柄《こづか》無ㇾ之。樣子相尋候處、言語《げんご》、前後、仕《つかまつり》、相分り兼《かね》、亂心の儀に付、口上書取不ㇾ申候。

[やぶちゃん注:「二尺五寸」七十五・八センチメートル弱。

「緣・頭」柄(つか)の鍔(つば)と接する側に付けられる金具が「金」(ふちがね)、その反対側の先端部に付ける金具を「柄」(つかがしら)と言い、この二つは刀剣を腰から提げた際に一番目立つ位置に当たることから、刀剣を所有する人物の威厳を示す重要な部分とされる。サイト「刀剣ワールド」の「縁頭(ふちがしら)とは」に拠った。

「切羽」説明するより、サイト「刀剣ワールド」の「切羽とは」の画像を見る方が手っ取り早い。

「鎺」同前で、ここ

「鵐目」前者のここに、『日本刀の「頭」(かしら:柄)『を補強するために、その先端部に装着される金具)や「栗形」(くりがた:下緒『)を通すために、日本刀の差表側の鞘口』(『さやぐち:刀身を入れるための口』)『付近に付けられた穴のある突起物)にある、緒紐を通すための穴。その形状が鳥の「鵐」(しとど:ホオジロやアオジ、ノジコなどの総称の古名)の目に似ていることから、この名称が付けられている』とある。

「金直」不詳。近代の関の刀工だが、石原兼直がいる。

「頭角」柄の先端の角部分を補強するために装着される金具のことか。]

一、出合候、相番人、檜家《ひのきや》作兵衞・田中爲吉・大津小三郞・葉山彌太郞へも相尋、別紙口上書取ㇾ之差上申候。

一、手醫師本道菊崎玄敬、外科安藤文忠に、樣子、相尋候處、今《こん》曉七半時《あかつきななんつはんどき》頃[やぶちゃん注:午前五時頃。]、御番所に手負人有ㇾ之候趣、申來候に付、早速、罷出、樣子見候處、齋田源七郞・戶部彥左衞門・宇田川萬造、右三人、深手に御座候間、藥用手當仕候内、不相屆相果申候。大瀨源五右衞門・長谷川又十郞・本間源次郞、幷に嘉助儀、疵口、縫《ぬひ》、膏藥、打《うち》、布にて卷《まき》、藥用手當仕候得《つかまつりそうらえ》ば、少々、快方に御座候へ共、變症の儀は難ㇾ計《はかりがたき》旨、申候。右四人、疵口、爲ㇾ解《とかせて》見分《けんぶん》仕候ては、療治に障り候旨、醫師共申聞候間、見分不ㇾ仕候。

[やぶちゃん注:「手醫師」「手」は「手前」で「幕医」のことであろう。

「本道」通常は内科を指す。即死遺体を含めると、切創が内臓まで達しているものがあったからであろう。

「變症」予後、或いは、症状の主に悪い方への急変。]

一、右番頭大沼角右衞門え、樣子承り候處、今晚七ツ半時頃[やぶちゃん注:不定時法で六時半頃か]、御番所勝手の方、物騷敷《ものさはがしく》御座候に付、早速、罷出候處、物頭間瀨市右衞門、亂心の樣子にて、物頭齋田源七郞・給人戶部彥左衞門・徒目付宇田川萬造儀は、深手にて、藥用手當仕候得共、今十四日八時《やつごどき》頃[やぶちゃん注:不定時法の暁八つとすれば、午前一時頃。]、相果申候。給人長谷川又十郞・大瀨源五右衞門・下座見足輕本間源次郞、中間嘉助に爲ㇾ負手疵候に付、詰合《つめあひ》の者、組の者共一同、罷出、捕押《とりおさへ》、念入《ねんいりに》、番人付置《つけおき》、疵人《きずびと》儀は手醫師、呼寄せ、藥用手當仕置《つかまつりおき》、早速、但馬守屋敷へ申遣し、勤番人數の儀は、御定《ごぢやう》の通《とほり》相揃置申候旨、申聞候。

右の外、相替儀《あひかはれるぎ》無御座候。以上。

  寅八月十四日   御徒目付

              黑川伴左衞門

              笠原新左衞門

右齋田源七郞・戶部彥左衞門・宇田川萬造、死骸、手負、長谷川又十郞・大瀨源五右衞門・本間源次郞・嘉助、相手、間瀨市右衞門、幷に及刄傷候大小共、追《おつ》て御差圖有ㇾ之候迄、但馬守屋敷へ、念入《ねんいりに》、番人、附置可ㇾ申旨、但馬守家來、本田惣右衞門へ申渡候。

 一同口上書

      口上覺

今曉《あけ》七ツ半時頃[やぶちゃん注:不定時法で午前二時頃。]、私儀、不ㇾ寢仕罷在候處、物騷敷《ものさはがしく》御座候間、早速、罷出候處、物頭間瀨市右衞門、不揃《ふぞろひ》の事申聞候迚《とて》、怪我仕候者共有ㇾ之候間、組の者へ差圖仕《さしづつかまつり》、爲捕押置《とりおさへなしおき》、一間に押込置《おしこめおき》、番人、念入付置申候。右手疵の者共七人え、手醫師、呼寄、療治差加へ候得共、齋田源七郞・戶部彥左衞門・宇田川萬造儀は、深手にて相果《あひはて》、長谷川又十郞・大瀨源五右衞門・下座見足輕本間源次郞・中間嘉助儀は、淺疵にて御座候得共、變症の儀は難ㇾ計候旨、今、醫師菊崎玄敬、外科安藤文忠申聞候。最《もつとも》、當番人數《にんず》は但馬守屋敷へ申遣し、御定の通、人數相揃申置申候。

 寅八月十四日   秋元但馬守家來

           番頭  大沼角右衞門

[やぶちゃん注:「不揃の事」わけの分からないことを言うこと。ここが私が先に「間瀬本人の言っていることがよく判らない状態にあったと他の者から訴えがあった」ようなことが述べられてあるが、その謂いには、既に事件が起きてしまった折りにそれが告げられたようになっている。ここは何か不自然で、作為が感じられると指摘した箇所である(以下の取り押さえた連中の供述でも、全く同じ「物頭間瀨市右衞門不揃の事申聞候間」という表現になっているのも、私には甚だ奇妙な感じがする(検使が面倒になって同じ文面にしたと言われれば、そうかも知れぬが)。この供述は、明かに「私はこの事件に何らの関与もしておりません。事件発生直後より、洩れなく、対応を致しました。」とのたもうている臭いが、プンプンするのである。

      口上覺

今曉七半時頃、西丸大手御門、秋元但馬守當番中にて、御番所に不ㇾ寢仕罷在候處、物頭間瀨市右衞門不揃の事申聞候間、一同罷出取押申候處、齋田源七郞・戶部彥左衞門・宇田川萬造儀は深手、長谷川又十郞・大瀨源五右衞門・下座見本間源次郞・中間嘉助儀は、淺手に御座候へ共、手疵受申候。常々、實體成《じつていなる》者にて、一同心易《こころやすく》仕候者に御座候處、如何之譯《いかなるのわけ》にて右及始末候哉《や》、全《まつたく》亂心仕候故と奉ㇾ存候。疵人は、銘々、手醫師本道外科、呼寄、療治相加へ申候。當人儀も、番頭指圖にて、一間に押込置き、念入、番人付置申候。此外に申上候儀、無二御座一候。以上。

 寅八月十四日  秋元但馬守家來

          面番給人    若山彌太郞

                 田中 爲吉

    捕押候者         大津小三郞

                 檜家作兵衞

    口上覺

今曉七半時頃、私共、當番にて、西丸大手御番所に不ㇾ寢仕罷在候處、物頭間瀨市右衞門、亂心の樣子にて、及騷動候に付、檜家作兵衞・大津小三郞・田中爲吉・若山彌太郞、幷《ならびに》組の者一同、罷出、捕押可ㇾ申と存罷出候處、私共兩人、數ケ所、手疵負候へ共、漸《やうやう》捕押申候。最《もつとも》、平日、意趣遺恨等、受候覺無御座候。心障《こころざはり》の儀も無ㇾ之、如何の儀にて右及始末候哉、曾て不ㇾ奉ㇾ存候。此外、可申上儀無御座候。

 寅八月十四日 秋元但馬守家來

          面番給人 長谷川 又十郞

                大瀨源五右衞門

    口上覺

今曉七半時頃、西丸大手御門秋元但馬守當番中にて、物騷敷御座候間、早速捕押可ㇾ申と存罷在候處、何人共相分不ㇾ申《なんぴとともあひわかりまをさず》、手疵、請《うけ》、深手にて、前後も相辨《あひわきまへ》不ㇾ申候。最、平日、意趣遺恨等、請候覺無御座候。此外可申上儀無御座候。

 寅八月十四日

           下座見足輕 

                   本間 源 次 郞

            中 間   嘉      助

    口上書、同斷に付略ㇾ之。

           本道外科

            本道   菊 崎 玄 敬

            外科   安 藤 文 忠

    口上書賂ㇾ之。

           秋元但馬守家來

     當人     物頭   間瀨 市右衞門

              

            物頭  ⎧齋田 源  七  郞

     即死     鍵番    戶部 彥左衞門

            徒目付  宇田川 萬 造

[やぶちゃん注:以上三名の姓名の上部は底本では大きな「」記号。]

                 ⎧  大瀨源五右衞門

                   ⎰  坂本 鐵  五  郞

     手負     給人   ⎱   長谷川 又十郞

                  ⎩  安藤 金  之  助

[やぶちゃん注:以上四名の姓名の上部は底本では大きな「」記号。]

     手負市右衞門を 鍵番     小林 亥  五  郞

     捕押候者是也。

           下座見足輕 ⎰本間 源  次  郞

     手負     下番       ⎱   嘉  助

[やぶちゃん注:以上二名の姓名・名の上部は底では大きな「」記号。]

私《わたくし》に云《いふ》、公設御門御番所にて、かゝる騷動は前代未聞也。昔年、何がしの守御門番の時、番士に亂心者ありて、朋輩、三、四人、手疵負《おは》せ候事ありしが、いづれも淺手なりしかば、ふかく祕して、屋敷え、遣し、内分にて事濟しといふ。此度の騷動に、祕すべくもあらずなりし、となん。此後の事、いまだ聞えず、深手の者は存亡、覺束なしとぞ。

[やぶちゃん注:なお、先行する馬琴の別な記事では、江戸城内での刃傷沙汰の記録として「兎園小説余禄」の「西丸御書院番衆騷動略記」がある。西丸御書院番松平外記が同僚のイジメを遺恨として、引き起こした殿中での刃傷事件「松平外記刃傷」で、死者四名(一名は深手により翌日死亡)・外傷一名)、外記本人もその場で切腹している。]

2022/12/16

大和怪異記 卷之六 第二十 毒草の事 / 卷之六~了

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第二十 毒草の事

 寬文七年二月廿八日に、信濃国、「すわ[やぶちゃん注:ママ。]」のもの、㙒(の)に出《いで》て、草をつみ、あえ物にして、くらひけるより、うかうかとなり、たはごとをいひ、ものゝけのやうにて、十日ばかりの後、もとのごとくになりぬ。

 又、あるもの、いひしは、

「八年以前に、同所の『芹(ぜり)が澤《さは》』にて、『雪わり』といふ草をくひて、さけにゑいし[やぶちゃん注:ママ。]がごとくなりとぞ。

[やぶちゃん注:「近世民間異聞怪談集成」では「雪わり」を『雷わり』と判読しているが、これはどうみても、「雪」の崩しで、「雷」ではない。「かみなりわり」という植物も私は聴いたことがないし、何より、以下に示す「新著聞集」で「雪わり」とあるから、間違いない。

「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十八 雜事編」にある「毒艸(どくさう)人を酔(えは)す」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここ。御覧の通り、月を『三月すへ[やぶちゃん注:ママ。]の八日』としていること、『物(もの)つきの樣にて』及び『芹(せり)が沢(さは)』とあり、さらに、以上の通り、後の毒草も「雪わり」である。吉川弘文館随筆大成版でも『雪わり』と印刷されているぜ。

「寬文七年二月廿八日」グレゴリオ暦一六六七年三月二十二日。徳川家綱の治世。

『信濃国、「すわ」』長野の諏訪。

「うかうかとなり」ぼんやりした感じ。「新著聞集」では『譫語(せんご)』とする。譫言(うわごと:ここでの「たはごと」はそれに同じ)のこと。明らかに脳神経を冒されて、恐らくは幻覚に伴う譫妄状態に陥っているのである。ここでは、具体な、毒草と思われるものの形状その他が全く示されていないので、特定は出来ないが、早春に新芽を出し、「春の七草」などと一緒に摘まんでしましそうな種で、幻覚や譫妄を惹起させる毒草というと、ナス目ナス科ハシリドコロ属ハシリドコロ Scopolia japonica が最も怪しい気がする。当該ウィキによれば、漢字表記は「走野老」が一般的で、『別名、キチガイイモ、キチガイナスビ』とあり、『本州から四国・九州にかけて分布する多年草』で、『山間の日陰などの湿った木陰に群生する。早春に』、『葉に包まれた新芽を出し、全長は』四十~五十センチメートル『程度に成長する。花期は』四月から五月で、『釣鐘状の暗紫紅色の花を咲かせる』(私の好きな花の一つである)。『夏先には休眠状態に入るため枯れる。夏から冬までは見ることができない典型的な春植物である』。『和名は、食べると錯乱して走り回ること、また、根茎がトコロ(野老)』(単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscoreaの蔓性多年草の一群。食用のヤマノイモ Dioscorea japonica などと同属だが、根は食用に適さない。但し、灰汁抜きをすれば食べられる)『に似ていることから命名された』。『アルカロイド』(alkaloid)『類のトロパンアルカロイド』(Tropane alkaloid)『を主な毒成分とする有毒植物で、全草に毒があり』、『根茎と根が特に毒性が強い。中毒症状は、嘔吐、下痢、血便、瞳孔散大、めまい、幻覚、異常興奮などを起こし、最悪の場合には死に至る。これは、同じナス科のベラドンナ』(ナス科オオカミナスビ属オオカミナスビ Atropa bella-donna :種小名はイタリア語で「美しい女性」を意味する“bella donna” の読みそのままで、古くには女性が瞳孔を拡大させるための散瞳剤として、この実の抽出物を使用したことに由来する。本邦には自生しない。中世の毒薬としてかなり有名である)『などと同様の症状である。また、ハシリドコロに触った手で目をこすると』、『瞳孔が開き、眩しく感じられる』。『ハシリドコロのトロパンアルカロイドの成分』の幾つかは、『副交感神経を麻痺させるため、先述のような症状がおこる』。『日本では、江戸時代にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが薬効に気付いたのが契機となり、以降』、『ベラドンナの代用品として用いられている』。以下、『間違えやすい山菜』の項(太字は私がしたもの)。『早春に』、『土から顔を出す新芽は』、『ハンゴンソウ』(キク目キク科キオン属ハンゴンソウ Senecio cannabifolius )・『フキノトウ』(キク科キク亜科フキ属フキ Petasites japonicus:「フキノトウ」は本種の春の新しい花茎を言ったもので、同一物である)・『オオバギボウシ』(単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科リュウゼツラン亜科ギボウシ属オオバギボウシHosta sieboldiana『と間違える事があり』、『葉は青々として食べられそうに見えるため』、『誤食されやすい』とあるのである。

「八年以前」寛文の前は万治(四年まで)。

「同所の『芹(ぜり)が澤《さは》』」長野県茅野市北山芹ケ沢(グーグル・マップ・データ)。御覧の通り、諏訪の東方の比較的近い位置にある。

「『雪わり』といふ草」「雪割草」は、複数の別種の異名としてあるのだが、比較的知られたものとしては、キンポウゲ目キンポウゲ科ミスミソウ属ミスミソウ Hepatica nobilis であるが、薬草ではあるが、強毒性はない。ところが、注の瓢簞から駒で、実は前に注した強毒性のあるハシリドコロの異名に「ユキワリソウ」があるのである。どこに書いてあるかって? まさに、ズバり! 「長野市」公式サイト内の「間違えやすい有毒植物 ハシリドコロ」だぜ!

大和怪異記 卷之六 第十九 洪水に大蛇のされかうべ出る事 (附・真名本「江嶋緣起」全電子化!)

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十九 洪水に大蛇(だいじや)のされかうべ出《いづ》る事

 延宝三年、相州かまくら、深沢(ふかざ《は》)に、洪水、いで、山くづれて、わたり三尺ばかりのかしら、あらはる。

 歯(は)は、一寸、八、九分也。

 若宮小路の者ども、その、は、一枚、うちかきて、とり、又、もとのごとく、うづみける。

 江嶋(ゑのしま)の緣起に、『深沢に、むかし、大蛇、すみ侍りし。』とあれば、此かしらは、大蛇なるべし。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十八 雜事編」にある「深沢(ふかさは)の髑髏(どくろ)」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここ。御覧の通り、歯の大きさを『一寸八分あまり』とし、打ち欠いた人物を『渡辺小右衞門」と出す。以外に有意な違いはない。

「延宝三年」一六七五年。徳川家綱の治世。

「相州かまくら、深沢(ふかざ《は》)」現在の、概ね鎌倉市の、この附近の広域を指す(グーグル・マップ・データ。以下無表記は同じ)。古くは柏尾川が両岸に浸潤した広大な湿地であった。鎌倉幕府最後の激戦地として知られる。私の家は北の丘陵を越えたところにある。

「わたり三尺ばかりのかしら」首の直径が約九十一センチメートル。

「歯は、一寸、八、九分」恐らくは歯の縦の長さが五・四五~五・七五センチメートル。ここは縄文海進の時には大船まで大きな入り江であったし、所謂、恐竜時代の巨大化石が出土する条件にはないから、恐らくは、巨大ザメの頭部化石であろう。

「若宮小路」現在の若宮大路の別称。

「江嶋(ゑのしま)の緣起に、『深沢に、むかし、大蛇、すみ侍りし。』とあれば、此かしらは、大蛇なるべし」「江島緣起」は全一巻。真名文と仮名文があるが、前者が古い。真名文の著作は元亨三(一三二三)年の奥書を持つ金沢文庫本が最も古く、完本は江島神社所蔵本で、室町時代の享禄四(一五三一)年に、肥後の住人で廻国の沙門乗海が書写したものである。その原本は永承二(一〇四七)年に比叡山の皇慶という僧が撰述した縁起であって、それを写し継いだと記されてはあるものの、現行の完成形の縁起の成立自体は鎌倉期と考えられている。江島弁才天の根本縁起に当たる。江島神社真名本を底本とした電子化(新字)がサイト「龍鱗」の「江島縁起・五頭竜と弁才天」で読める(但し、これは真名本の冒頭から三分の二で、まだ続きがある。但し、本篇の内容とは関係がないので、これで足りるとは言える。全文を見られたい方は服部清道氏の論文「『江島縁起』考」(『横浜商大論集』第十巻・昭和五二(一九七七)年二月発行。「横浜商科大学機関リポジトリ」のこちらPDFでダウン・ロード出来る)で翻刻(ほぼ正字)されてある)。「江の島」は立地条件の微妙さと、本縁起の完本成立が近世から見て異様に新しいことが知られていたからか、私の「新編鎌倉志卷之六」の「江島」では、『【江の島の緣起】 五卷 詞書作者不知(知れず)。畫は土佐なり。』とあるのみで、「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」でも「新編鎌倉志卷之六」の丸写しに『【江の島緣起】といふは、延暦寺の皇慶といふ僧が書たる由。』と孰れも冷淡な扱いである。『大日本地誌大系』第四十巻の「卷之百六 鎌倉郡卷之三十八江島」(国立国会図書館デジタルコレクション)でも、全文の記載はない。なお、サイト「江の島マニアック」のこちらに「江の島縁起について」という解説があり、「江の島縁起絵巻」第一巻に始まり、第五巻までの画像(当地の岩本楼(岩本院)に伝わる絵が加わった仮名本が底本と思われる。但し、非常に小さく、判読は難しい)及び現代語訳が載る。私は故あって、江ノ島は人生のエポック・メーキングな場所(父母の初デートに始まる)であり、あまりにこの縁起のネット上の扱いが哀れであるとともに、地名伝承の面白さなどもあることから、服部氏の江ノ島神社本の翻刻を、一部を恣意的に正字化して(巻首のみ画像があるので、それも参考にした)、以下に示しておく。推定で句読点を追加・変更し、記号も打った。その際、一部で上記のサイト「龍鱗」の訓読文も参考した。割注は上下配置で示した。本篇に関わる部分の終りで改行した。後半部では、諸偈や文及びシークエンスの替わる部分を推定で改行した。

   *

  江嶋緣起

大日本國東海道相摸國江嶋者、天龍八部之所造辨才天女之㚑體也。謹撿[やぶちゃん注:「かんがふれば」。]㚑嶋先起者、房・藏・摸三箇國之境、鎌倉與海月郡[やぶちゃん注:「くらきのこほり」。久良岐郡。現在の横浜市南部の旧郡。]之閒、有四十里之湖水、号「淙洋」。其湖水爲體、水滔々、四山逆影、雲霧鎭[やぶちゃん注:「とこしなへに」。]埋谿、犲狼滿岡[やぶちゃん注:「犲狼」「さいらう」は野犬とニホンオオカミ。]。若人到時者、黑風拂梢、白浪咽岸、而閒、人跡更絕、湖漫。爰有猛惡之龍、卽五頭一身之龍王也。屢卜湖水爲栖[やぶちゃん注:「しばし、湖水を卜(ぼく)し、栖(すみか)と爲す。」か。「卜」は「定める」の意であろう。]。自神武天皇御宇、至于人王十一代垂仁天皇之御宇[やぶちゃん注:後者は実在したとすれば三世紀後半から四世紀前半頃の王。]、七百余年之閒、彼惡龍、伴風伯[やぶちゃん注:風神。]鬼魅山神等、逕[やぶちゃん注:「ただちに」或いは「へめぐりて」か。]國土爲災害。所謂、崩山、出洪水、損物、成病痾亂逆。第十二代景行天皇治六十年之閒[やぶちゃん注:実在したとすれば四世紀前・中期の王。]、惡龍於東國常降大雨。依之、國民以石窟爲人屋。二十一代安康天皇御宇[やぶちゃん注:在位は五世紀後半。]、龍鬼詫圓大臣令成惡事[やぶちゃん注:「託」は「つきて」で「憑」に同じ。「圓大臣」は「つぶらのおほおみ」で国政に参与した豪族の一人。生年不詳で安康天皇三(四五六)年没。]。事廿六代武烈天皇之御宇[やぶちゃん注:在位は五世紀末から六世紀初め頃。]、龍氣託金村大臣令成亂逆[やぶちゃん注:「金村大臣」(かなむらのおとど)は大伴金村。「亂逆」は仁賢天皇一一(四九八)年の仁賢天皇崩御後に大臣平群真鳥(へぐりのまとり)・鮪(しび)父子を征討したことを指すか。]。此時、五頭龍、初出現湖水之南山之谷津村水門[やぶちゃん注:「つむらのみなと」。「津村」は鎌倉市の旧地名。この附近。]、初瞰食人兒。仍、時人、此所名「初噉澤」[やぶちゃん注:「はつくひざは」。]、西嶽号「江野」。此澤者、湖水之水門、南海之入江也。谷前有女長者、生十六人之子、爲毒龍彼噉食乎。於玆、長者、咽愁苦之思、辭舊宅遷住西里、名「長者塚」。惡龍漸遍村里吞食人兒之閒、邑里之人民、怖畏捨離住所、移越他所、世人此所云「子死越」[やぶちゃん注:現在の腰越。]。龍瞰人既及八箇國、被吞親者子悲、被吞子者親悲、村南村北哭聲不絕、兒別母、夫別妻。爰八箇國之貴賤衆人相儀、以兒周備毒龍之贄。凡貴賤男女啼哭之聲不斷絕。於玆、人王三十代欽明天皇第十三年四月十二日戌尅[やぶちゃん注:機械換算五五二年。午後八時前後。]、至同廿三日辰剋[やぶちゃん注:午前八時前後。]、當「江野」之南海湖水之水門、雲霞暗蔽海上、日夜大地振動、天女雲上顯現、童子左右侍立、諸天・龍神・水火雷電・山神・鬼魅・夜叉・羅刹、從雲上降盤石、自海底擧沙石、電光耀天、火焰交雜臼浪。同廿三日及、辰剋、雲去、霞散、見海上、顯出嶋山、蒼波之閒、神現、山新也。十二鵜降、居嶋上、依之、思云「鵜來嶋」[やぶちゃん注:現在の「鵜島」「新編鎌倉志卷之六」の最後の方に小さくて悪いが、私の写した写真を掲げてある。]。嶋上、天女降。形貌殊耀麗質於金窟。是卽辨才天女之應作。魚熱池[やぶちゃん注:「無熱池」の誤記であろう。]龍王第三之娘也。於玆、五頭龍、見是天女之麗質、爲通志於天女、凌波渡嶋、到天女所卜欲念。天女答云、「我有本誓、愍念有情、汝、無慚愧、橫害於生命。形與心共我不相似。更不可通。」。龍言、「我隨敎命、自今以後永停凶害、心禁斷殺生。願垂哀愍、令我得遂宿念。」。于時天女肯[やぶちゃん注:「うけがふ」。]。爰龍隨順天女敎誡、發誓、向南、成山。世人、是名「龍口山」[やぶちゃん注:現在の龍口寺の後背の山。]。又、号「子死方明神」。辨才天以方便之力爲降伏繩之猛惡、救護衆生故、所化[やぶちゃん注:「しよけして」。教化(きょうけ)して。]作嶋也。垂權迹天女也。是号「江嶋明神」。

一役優婆塞[やぶちゃん注:「えんのうばそく」。役の行者のこと。]、俗姓賀茂氏、大和國葛城郡茅原村人也。聖德六年正月一日誕生[やぶちゃん注:元号不審。一説に舒明天皇六(六三四)年とされる。]。生已最初唱云、

「我本立誓願 欲令一切衆 如我等無異 如我昔所願 今者爲滿足 化一切衆生 皆令入佛道」

又、行者三歲之時、父母閒兒云、

「先生誰乎。」

答云、

「見我身者發菩提心、聞我名者斷惑修善、聽我說者得大智惠。知我心者卽心成佛。自七歲不問人讀誦『心經』。依經力隨順國土之鬼神。又智深悟廣而崇三賓有求。法志、住葛城山三十余年、居石室之中、着藤衣、食松葉、顯精進浴淨水洗心垢、誦『孔雀明王咒』、顯得露驗、或垂紫雲、通仙室或召仕諸鬼神、汲水拾薪魚不隨者。」

又、召集諸神鬼云、

「葛城與金峯山之閒、石橋作者、爲通道。」

責仰諸鬼神、運大石作調渡始。一言主明神言、

「畫形醜、夜度云夜右作調。」

行者召取、

「一言主明神之有何恥可隱形云何不作渡乎。」

卽以神咒縛一言主神、擲置幽谷底。爰一言主、文武天皇讒言、

「優婆塞成謀爲傾國家。」

帝、驚遣勅使令召取、飛空行者畢。然閒、令召取行者母爲替。行者自出來。

卽文武天皇三年五月[やぶちゃん注:六九九年。]、彼流伊豆大嶋。海上踏如陸飛空如鳥。雖然盡恐怖違勅之罪、居嶋夜往詣富士峰、祈淺閒大菩薩。言所願者、只嶋許於天遲被赦莞罪

同四年四月、行者在嶋、遙望北海空中紫雲浮。便尋雲所起之處、蒼海北岸江嶋之西山金窟上也。因此行者窟中所止、致勇猛精神勤憶念請冥感。發願言、

「我承冥應來至。於此願聖尊現眞身利益世閒。」

如是致請七日、專念誦「不動明王咒」。而及、第七日、後夜[やぶちゃん注:「ごや」。仏教で僧が勤行する明け方を指す。]時分、窟中香雲自然周遍光明照耀、應時忽然天女現前化現。現質八臂之尊體也[やぶちゃん注:「八臂弁財天」(はっぴべんざいてん)。「江島神社」公式サイトの「ご宝物」をリンクさせておく。そこに載る秘部を彫ってあることで著名な「妙音弁財天」とともに毀損が著しく、戦後に整復されるまでは、二体とも酷い姿であった。]。容儀白淨祥潔猶秋月。發妙音言說、

「從無量劫來成就善方便、普濟苦衆生多所大饒益。」

於玆行者歡喜合掌、重請求加被。天女言、

「我收化於鷲峰垂蹟於此嶋。當知擁護國王及人民爲除裏患會得安穩也。汝爲利益長夜故鼠求、我化現、實是大悲者、爰行者見天女身、察承神敎、稽首敬禮、爲鎭護國土。」

以、一尺八寸之利劍、安置舍窟之第二重之内院。是辨才天顯現之最初也。

元正天皇養老七年春三月[やぶちゃん注:七二三年。]、泰澄大師[やぶちゃん注:泰澄(たいちょう 天武天皇一一(六八二)年~神護景雲元(七六七)年)は奈良時代の修験道の僧。加賀国白山の開山と伝えられ、「越(こし)の大徳(だいとこ)」と称された。]住江嶋。讀誦「大乘經」、念誦陀羅尼、專一心精進、幷、每日、乘船詣龍口山施與法樂、祈離業證果。而於龍口山之閒、有二池、大師、每日爲法樂。一池、書寫光明眞言人池底。是名「光明眞言池」。一池、書「阿彌陀佛」六字名号[やぶちゃん注:「南無」を入れて六字。]入池中。是号「阿彌陀池」。如是施與法樂經、日月之閒、明神謁對大師言、

「我受菩薩之法施、洗除三熟之惱垢、獲得宿明智、既智哲德之先處也。豈生惡心乎。雖然國土逆人出來者、斬頸懸我前。是非昔日之凶執、屢靜海内之凶賊、爲除逆人於萬里。」

又、重說、偈日、

「我是大光普照尊 爲度邪見衆生政 普門之中示逆跡 今於此所現龍口 泰澄承神之靈託 不錯神言令披露」

自爾以降逆人出來、時者截頸懸山前、始自此也[やぶちゃん注:「龍の口の法難」でご存知の通り、鎌倉時代はここは「龍の口刑場」であった。]。其後、泰澄住嶋、專行妙法一心不亂、發願云、

「唯願、妙辨才顯示神威利益濁世。」

於此、同秋九月十五日夜半、窟中自然彩雲起、光明普照、忽然天女、化現、更不知從來處。泰澄、拜見天女生身、圓滿心願、出嶋。至于天平六年[やぶちゃん注:七三四年。]相摸國餘綾郡[やぶちゃん注:「よろぎのこほり」或いは「ゆるぎのこほり」で現在の神奈川県中郡大磯町・中郡二宮町の全域と平塚市の一部に相当する。この辺り。]之人、道智法師[やぶちゃん注:諸データでも不詳とされる。]、居嶋、讀誦「法華」、更不問時節、久近漸歷年序差盡數部之閒、爲聽法故、每日、天女來至、備飯味。於此、道智、爲怪異、爲知由來故、取藤皮作縷、付針差着天女之裳裙。然後、曳縷尋行到龍窟、見縷着龍尾。龍窟之中有甚傷音。又有忿怒聲云、

「龍女、汝心、供養供法師、遇此傷苦。」

道智、聞音、戰慄、欲避走。爭堪怖畏乎。而龍言未訖。

   *]

2022/12/15

大和怪異記 卷之六 第十八 臨終に猫來る事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十八 臨終に猫來《きた》る事

 寬文七年五月、江戶、中橋(なかばし)まき町のものの下女、いたく、わづらひけるに、いづくともしらず、ふるきねこ、來り、まくらによりゐるを、主(しゆ)・朋輩(ほうばい)ともに、うて共゙、はなれやらず。

 かの女、死してのちは、行《ゆき》かたしらず、うせけり。

[やぶちゃん注:原拠がないが、後の本巻の二話が孰れも『同』となっているから、「犬著聞集」であろう。「新著聞集」には載らないようである。

「寬文七年」一六六七年。徳川家綱の治世。

「中橋まき町」「中橋槇町(なかばしまきちやう)」。現在の中央区日本橋三丁目(グーグル・マップ・データ)。]

大和怪異記 卷之六 第十七 火車にのる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十七 火車(ひのくるま)にのる事

 西京《にしぎやう》のもの、ながく、わづらひ、死(しす)べき七日まへより、

「靑き、あかき、鬼形(きぎやう)のもの、來れるは、おそろし、」

など、いひて、泣(なき)さけぶ事、晝夜(ちうや)に、ひま、なし。

 七日にあたる日、

「あら、くるしや、おそろしや、『其《それ》、火車に、のれ。』とや。ゆるして、たべ、」

と、手をあはせ、あしずりをしけるが、

「とかく、參らでは、なるまじき事にや、是非なき事や、」

とて、久しく腰たゝざりし病人、ふと、立(たち)て、はしり出《いで》、門口(かどぐち)の、しきゐに、つまづき、たふれて、むなしくなれり。「犬著聞」

[やぶちゃん注:底本は最後の「ゆるして、たべ。」以下、「なれり」の前まで、損壊のため、「近世民間異聞怪談集成」の翻刻に添って正字化した。「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十 奇怪篇」にある「靣(をもて)火車(くわしや)を見(み)る」(歴史的仮名遣はママ)である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここの合巻「の25 コマ目から。冒頭に「一雪、親の下女に」とある「一雪」は、原著「犬著聞集」(別名「古今犬著聞集」)の作者俳諧師椋梨一雪のことであり、これが実は「犬著聞集」の編集版に過ぎないことが、バレてしまっている特異点の一つである。

「火車」妖怪としての「火車(くわしや)」は私の怪奇談集に枚挙に遑がないが(「狗張子卷之六 杉田彥左衞門天狗に殺さる」の私の最後の注及びその中の私の記事リンクを参照されたい)、これは、地獄の迎え車ととれ、それらとは異なる。これも何らかの脳症の末期の幻覚である。]

大和怪異記 卷之六 第十六 うかひ死期に惡相をあらはす事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十六 うかひ死期(しご)に惡相(あくさう)をあらはす事

 ひぜんの国に、九郞右衞門といふものあり。鵜(う)をつかふをもつて所作(しよさ)とす。夜は、あみ、うち、ひるは、う、つかひ、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]、水を、せきて、魚をとり、又は、

「此鵜を、かはむ。」

とて、龜をとり、石にあてて、うちころし、甲(かう)を、はなち、引《ひき》さきて、「ゑ」とす。

 つかの間も、せつしやうせずといふこと、なし。

 あるとき、熱病にくるしみ、

「あら、あつや、たへがたや、」

と、をめき、さけび、身は、ほのほのごとくなれば、あつさに、妻子も、よりつかず。

 たゞ、なす事とては、

「がは」

と、をきては[やぶちゃん注:ママ。]、鵜の鳥の、かづける魚を、うつすとき、目をうヘに見つけ、くるしむていを、なし、龜の、水にうかべるていを、なし、石にて、うちころす時のていを、まなび、もんぜつ、びやくぢして、三日といふに、むなしくなれりとかや。國人物語

[やぶちゃん注:原拠は書名と採らず、「肥前の国の国人の物語り」と採る。

「熱病」ここに描かれるのは、平清盛の末期と同じで、熱性マラリアの典型的症状であり、最後のそれは、高熱によって脳が溶ける、その末期の発狂様態を、よく示している。

「をめき」「喚(をめ)く」で、元は「を」は擬声語、「めく」は接尾語で、その連語が動詞化したもの。「叫び声を上げる・わめく」である。

「かづける」「潛ける」(「潛く」は「被(かづ)く」と同語源)で、「水中にもぐる」或いは「水にもぐって、魚や貝などを捕る」の意。ここは後者。

「上に見つけ」上を恨めしそうに見つめて。

「まなび」「眞似(まね)び」に同じ。そっくりな動作をし。

「もんぜつびやくぢ」「悶絕躃地」。苦しみ悶えて転げ回ること。]

大和怪異記 卷之六 第十五 夢想を得て富る事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十五 夢想を得て富(とめ)る事

 鍛冶(かぢ)の三太夫といふものは、京より、江戶にくだり、たゞひとり、釘細工(くぎざいく)して有《あり》しころ、

〽重箱の内にもたまるほこりかな

といふ、むさうをかうふり、

「重ばこのうちに、ほこりたまるは、不吉なり」

と、人にかたりしかば、

「それは、めでたき夢想なり。『〽重箱のなかのほこるはよきにあらずや』。」

と、あはせしを、うれしく思ひ、湯嶋(ゆしま)の天神の別當を賴み、百韻の連哥(《れん》が)して祝(いは)ひしに、やがて、ある國のつかさより、かぎを、あつらへ來りしを、うちて參らせしかば、

「ことのほかに、よろしき。」

とて、よろこばる。やがて、

「かの家(いへ)に作事(さくじ)ありけるとき、入札《いれふだ》をせよ。」

といひ來りけるを、つもりて、札をおとし、「したうり」して、金(かね)をとり、それより、能(よき)事のみ、つゞきて、後《のち》は、十餘万兩の分限(ぶんげん)になりしといふ。

[やぶちゃん注:本文の『やがて、「かの家(いへ)に」以下、末尾の「は十餘万兩の分限(ぶんげん)になりしといふ。」の初めまでの間の大方の一部は、底本は損壊しているため、「近世民間異聞怪談集成」の翻刻に添って正字化した。「犬著聞集」だが、「新著聞集」には載らないようである。

「〽重箱のなかのほこるはよきにあらずや」この庵点は「あはせし」という後文から、私が附した。「重箱を並べた中で誇るというのは、よいことではあるまいかのう」の意の付句か。

「したうり」知れる下請けの業者の頼むことか。]

大和怪異記 卷之六 第十四 鴈風呂の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十四 鴈風呂(がんぶろ)の事

 つがるざかひに、「鳫ぶろ」といふ事、あり。

 これは、每年の秋、鴈、わたるとき、くはえ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]來《きた》る木を、奧刕外濱(そとのはま)に、をとしをき[やぶちゃん注:「を」は孰れもママ。]、來春、その木を、くはえて、かへる。

 其木の殘りたるを、あつめ、法樂(はうらく)に、ふろを、たく。

 これは、人のためにとられし鳫(がん)のとふらひとぞ。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第六 勝蹟篇」にある「奥州外濱鴈風呂由(おふしうそとがはまがんふろゆ)」(歴史的仮名遣はママ)である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここの合巻「二」71コマ目から。そこでは、大きな違いがあり、本篇の「法樂」(仏の教えを修めて自ら楽しむこと、又は、供養をして神仏を楽しませること)が「法藥」(仏法を衆生の苦患を救う妙薬に喩えていう語。「教え」という「薬」)となっている。入湯を亡くなった雁の供養の施餓鬼に擬え、それが身を精進するという意でとれる「法藥」の方が、断然、いい。

「雁風呂」当該ウィキを引く。『青森県津軽地方に伝わるとされた風習の一つ。また、それにまつわる伝説。雁供養ともいう』。『青森県には「雁風呂」「雁供養」という伝説が伝わるとされていた』。『月の夜、雁は木の枝を口に咥えて北国から渡ってきて、飛び疲れると波間に枝を浮かべ、その上に停まって羽根を休める。そうやって津軽の浜までたどり着くと、要らなくなった枝を浜辺に落とす。日本で冬を過ごした雁は早春の頃、浜の枝を拾って北国に戻って行く。雁が去ったあとの浜辺には、生きて帰れなかった雁の数だけ枝が残っている。浜の人たちは、その枝を集めて風呂を焚き、不運な雁たちの供養をしたという』。『木片を落とす場所は、函館の一つ松付近という説と』、『津軽の海岸という説が見受けられる。該当する地方に雁風呂の風習がいつ頃からあったのか、そもそもそういった風習が存在したのかという疑問の声もある』。二〇一二『年、青森県立図書館の調査により、上記の伝説は』、一九七四『年の』「サントリー」の『テレビCMで広まったものであり、青森県内で伝承されたものではないと判明した』。『また、伝説の基となった物語は四時堂其諺』(しじどう きげん 寛文六(一六六六)年~元文元(一七三六)年:僧で俳人。京都安養寺正阿弥の住職。俳諧は宮川松堅の門人で「貞徳三世」を称した。享保頃に京都俳壇で重きをなした)の「滑稽雑談」(こっけいぞうだん:正徳三(一七一三)年成立)の巻十六に『収められているが、日本ではなく』、『他国の島での話として収められた物語と判明した』とある。私も高校時代、このCMに心打たれた一人である。――しかし、本当にそうだろうか? 本「大和怪異記」は宝永五 (一七〇八)年の序を持ち、明かにここに示された「滑稽雑談」よりも前であり、しかも原拠は遡る「犬著聞集」(貞享元(一六八四)年成稿・元禄九(一六九六)年板行)である。このウィキの、というか、青森県立図書館の調査に対し、激しく物申すものである!!!

「奧刕外濱」現行では「そとがはま」の読みが普通。平凡社「世界大百科事典」によれば、『青森県東津軽郡と青森市にかけての汎称』で「詩経」の「小雅」の『率土浜(そつとのひん)』(辺境の意)より『つけられた地名という。西行法師』の「陸奥の奥ゆかしくぞ思ほゆる壺の碑(いしぶみ)そとの濱風」(「山家集」)は『その意である。外ヶ浜には善知鳥(うとう)という鳥が住むという。外ヶ浜に流謫されて没した烏頭中納言安方の化身で』、『親が〈うとう〉と呼ぶと』、『子が〈やすかた〉と答えるとされる。謡曲』「善知鳥」は『この伝説に材を採る』とある。この広域附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。なお、現在の地名としては、津軽半島に青森県東津軽郡外ヶ浜町(そとがはままち)がある。]

大和怪異記 卷之六 第十三 鼡をたすけて金をうる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十三 鼡(ねずみ)をたすけて金(かね)をうる事

 寬文六年、江戶、新兩替町(しんりやうがいてう[やぶちゃん注:ママ。])四丁目、香具(かうぐ)や九郞左衞門やどに、鼡、あれけるを、「ますをとし」にて、とり、家來に、

「ころせ。」

と、いひしを、ふびんに思ひ、たすけし其夜のゆめに、ちご、一人、來り、

「よひには、いのち御たすけ有《あり》がたふ候。さけを、もち參れり。ひとつ、參れ。」

と、すゝめ、金魚(きんぎよ)を、さかなに出《いだ》しけるを、食する、と、思ひ、ゆめ、さめて、何やらん、くちに、ものゝありしを、はき出《いだ》しみれば、金一步《きんいちぶ》なり。きゐ[やぶちゃん注:ママ。]の思ひをなして、それより、

「九郞左衞門が家には、鼡をころさず。」

といふ。

[やぶちゃん注:原拠「犬著聞集」。「新著聞集」には載らないようである。鼠は大黒天の使者とされるから腑に落ちる話柄ではある。大黒天は、元はインドの「マハーカーラ」(漢音写「摩訶迦羅」など)は、ヒンドゥー教の「シヴァ神」の異名であり、時間や闇黒を司る神であったが、中国に仏教が伝来すると、仏法の守護神や厨房の神となり、本邦に入ると、さらに「大国主命」と習合して福神となり、近世以降になると、福徳・豊穣及び財宝を人々に付与してくれる福神として「七福神」に数えられるように、甚だ信仰が増した。「大黒」の「黒」は陰陽五行説で北を意味し、北は十二支では「子(ね)」に相当することから、大黒天の神使は鼠とされ、また、日本神話では大国主命が「根の国」から無事に帰還する説話の中で鼠に救われいることにも由来する。

「寬文六年」一六六六年。徳川家綱の治世。

「江戶、新兩替町」現在の中央区銀座の古名。中央区銀座四丁目はここ(グーグル・マップ・データ)。

「香具や」香具(聞き香で用いる道具。但し、古くは薬売りを本業とした)を売ることを生業とする者。参考までに、小学館「日本国語大辞典」には、『香具を売るかたわら、ひそかに男色を売るものもあった』ともある。

「あれける」「荒れける」。

「ますをとし」「枡(升)落とし」。鼠捕りの仕掛け。伏せた枡の一画を棒で支え、下に餌を置き、餌を狙った鼠が触れると、枡が落ちて閉じ込められるようにしたもの。

『「ころせ。」と、いひしを、ふびんに思ひ、たすけし』ここは、主人は一度は「殺せ」と下男に命じたものの、即座に思い返して(大黒の使者であることを念頭においたのであろう)、助けたのである。

「さけ」酒。

「金魚」条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科フナ属キンギョ Carassius auratus は、御覧の通り、食用にするフナ類の突然変異種(約千七百年前に中国で発見された)であるヒブナ(緋鮒)を改良したものであるから、食用になる。実際、江戸時代には金魚料理があったようである。こちらの水産学者で金魚研究の第一人者である松井佳一氏の「日本の金魚」の紹介記事に、『日本に来たのは』ヒブナで、一五〇二『年(室町末期)』頃、『今の大阪堺へ明人によって持ち込まれたらしい。ワキン』(和金:ヒブナの変異固定種)『の大型のものは食用種として飼育され、美味であったとか』とある。但し、ここは「金魚」で金(かね)に繋がるように設定されたもので、金魚は江戸時代には金魚の哀願が爆発的流行を起こし、驚くべき高値で売買されたから、一般に金魚が盛んに食われたというわけではあるまい。

「さかな」「肴」。]

2022/12/14

大和怪異記 卷之六 第十二 きつねばけそんじてころさるゝ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ(ここにある右丁の挿絵は以前の話柄のそれで関係がない)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十二 きつねばけそんじてころさるゝ事

 筑前福岡の城下より一里ばかりに、岡崎村(をかさきむら)といふ所、有《あり》。

 此所《ここ》に、何がしといふもの、住居(すまひ)せしが、ある日、薄暮(はくぼ)に及《およん》で、

「城下に用事あり。」

とて、出(いで)ゆきしに、夜に入《いり》て、ほどなく、たちかへり、

「先(さき)かたより、『來(く)るまじき』よし、とめに來《きた》る使(つかひ)に途中にて行《ゆき》あひ、かへりぬ。くたびれたれば、いぬるぞ。妻も、はやはや、ねよ。」

と、いひて、ねやに入《いり》、ふしたり。

 其家の下女、これをみて、妻女を、かたはらによびて、

「あるじは、右の目しゐ給ひたるに、いまの人は、左の目しゐたり。不審なり。」[やぶちゃん注:「しゐ」はママ。後注参照。]

といふ。

 妻女、おどろき、

「さらば、すかし出《いだ》してみむ。」

とて、

「にはかに、下女、はらをいたむあいだ、くすりをあたへ給へ。」

と、いひければ、

「くたびれたるに、むつかし。」

と、つぶやきながら出《いで》て、くすりをとり出《いだ》すをみるに、下女が、いふごとく、ひだりのまなこ、しゐたり。

『さては。うたがひなき、ばけものよ。』

と思ひ、

「はや、はらのいたみも、よし。やすみ給へ。」

とて、ねさせ、家内の戸、

「ひしひし」

と、たてこめ、妻女と下女と、前後より、たゝみかけて、うちころしみれば、さも、大《おほき》なるきつねなりしぞ。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十七 俗談篇」冒頭にある「鈍狐(どんこ)害(かい(がい))をかふむる」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここと、ここ。そこでは、「下女」が「年おひたる婆」で、狐を殺すシークエンスがより、リアルである。そこだけ電子化して示す。読点と記号を打った。歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

ねやの戶をしめ、四方のかこみを厳しくたてこめ、脇指(わきざし)を卧(ふし)たる上より咽(のんど)にあて、姥(うば)は後(うしろ)より、たゝみかけ打たれば、「こんこん、くわいくわい、」と鳴(なき)し所をつき殺しける。又、家來(けらい)の者共は、供(とも)の狐を、たゝき殺しけり。未熟の狐にや。妖損(ばけそん)し[やぶちゃん注:「じ」。]けるこそ、おかしかりし。

   *

原拠は本篇に近いものだろうが、これは「新著聞集」の勝利と言えよう。

「岡崎村」「筑前福岡の城下より一里ばかり」では見当たらない。

「目しゐ」「盲(めし)ふ」の連用形「めしひ」の誤りであろう。「目が見えない」の意で、この場合、下女(「新著聞集」では老婆)が、ちょっと見て判ったことから、瞳の色が正常な左目と異なっていたか、瞼を塞いであったか、眼帯をしていたものかと思われる。

「妻も、はやはや、ねよ。」「近世民間異聞怪談集成」では『妻もはやくねよ』と起こしているが、この部分(左丁の後ろから三行目の二字目以降)、崩しで「はや」と書いた後、続けることなく、「や」の最終』画の末の右手上から、改めて筆を起こして、「〱」となっている。「はやく」と書いたり、彫ったりする場合は、底本の他の箇所を見ても、「や」の最終画を下方に伸ばして繋げていることが多い。ここで一度、離して、徐ろに打っているのは、これがひらがなの「く」ではなく、私の嫌いな踊り字「〱」であることを示唆している。しかも、ここは、何故か「はやはや」とせかしている方が、話柄として仄かな妖しい言動としても生きてくるのである。

「すかし出してみむ」「騙(だま)して臥所から出させてみましょう!」。

「妻女と下女と、前後より、たゝみかけて」この場合は、敷布団を掛布団ごと、急に枕上とその反対から中央に体重を掛けて折り潰したことを言っていよう。]

大和怪異記 卷之六 第十一 金に執心をのこす僧が事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十一 金に執心をのこす僧が事

 いつの比《ころ》にか、豊前小倉に「ばけ物屋敷」とて、あき屋しき、ありしを、新參の人、態(わざ)と、のぞみて、うつりしに、三日のくれに、廣間の、いろりのはしに、法師、來りて居《ゐ》たり。

 ていしゆ、

『すはや、きゝ及ぶ「ばけ物」なり。』

と思ひ、かれがむかふに、をしなをり[やぶちゃん注:孰れの「を」もママ。]、

「はた」

と、にらんで、ひかへければ、法師、

「あゝ、足下(そこ)は、たぐゐなき大剛(だいがう)の人なり。われは、まつたく、人にあだするものに、あらず。むかし、此所《このところ》、寺にて有《あり》しときの、住持なり。金子を、おほく、たくわえ[やぶちゃん注:ママ。]置《おき》しゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、壷に入(いれ)て、かしこの地の、そこに、ふかく、うづみをきぬ[やぶちゃん注:ママ。]。これに、執心、のこりて、かく、あらはれいで、此事を、かたらんとすれば、おそれて、にげさるによつて、いふべき、たより、なし。ねがはくは、此かねをほり出《いだ》し、いづれの寺に、をくりて[やぶちゃん注:ママ。]、わが跡、とふらひて、たべ。」

と望(のぞみ)しかば、かのさふらひ、

「やすきことなり。」

と、こたへしかば、かきけして、うせにけり。

 やがて、此をもむき[やぶちゃん注:ママ。]を主人にうつたえ[やぶちゃん注:ママ。]、検使(けんし)をうけ、かねを、ほり出し、法師があとを、とふらはせければ、ふたゝび「ばけもの」、出《いで》ずとかや。「犬著聞」

[やぶちゃん注:お馴染み原拠。再再編集版にも載らない。そもそもが、この導入の設定は怪奇談集に腐るほどあるのだが、出現した亡者のそれは、僧形のままで、これといって誰もが忌避するおぞましい「化け物」の姿ではなく、後の展開も意外性が全くなく、ショボいの一言に尽きる。]

大和怪異記 卷之六 第十 蛇の執心うづらをころす事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十 蛇(へび)の執心うづらをころす事

 ある人、うづらを、かふ事を、このみ、かご、きれゐに[やぶちゃん注:ママ。]こしらへ、砂・水、あびせ、蟲、かひ、あさは、よこ雲ひくころに、かならず、まどにかけて、をきけり[やぶちゃん注:ママ。]。

 あるとき、此うづらをかけたるまどの上より、一尺あまりの小蛇(こへび)、かしらをさげて、此うづらを見居(みゐ)しかば、あるじ、見付《みつけ》て、へびを、うちころして捨(すて)たり。

 それより、半時(はんじ)ばかり有《あり》て、此鶉(うづら)、羽をひろげ、あしをちゞめ、筋(すぢ)ひきて、死したり。

 あるじ、ふしぎに思ひ、よくよく見れば、二寸ばかりの小蛇、うづらのくびに、まきつき、しめて、あり。

「『さては。さきほどころせしへびの執心、つゐに、うづらを、ころしぬ。』と、おどろきけり。」

といふ。ある人の物語

[やぶちゃん注:初めてのネタ元を直話談とするものと採る。しかし、この二寸の小蛇を殺した先の蛇の執心、その場合、死んだ蛇が変じて出てきた亡霊となるが、その小蛇はどうしたのか、どうなったのか、について言及していない点で怪奇談としては、いかにも細工が杜撰で、そこを直ちに突かなかった、聴いていた作者もまた、これ、迂闊である。

「うづら」「鶉」キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)」を参照。

「半時」現在の一時間相当。

「筋(すぢ)ひきて」頭部や羽や脚部を痙攣させて。]

大和怪異記 卷之六 第九 紀州幡川山禪林寺由來の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第九 紀州幡川山《はたかはさん》禅林寺由來の事

 紀州名草郡(なぐさごほり)幡川山禅林寺は、三上庄《みかみのしやう》幡川村の中(うち)にあり。人皇四十五代聖武天皇の御願(ご《ぐわん》)、爲光《ゐくわう》上人開基の地なり。

 相傳(《あひ》つた)ふ。そのかみ、聖武天皇、御腦(ご《なう》)のとき、五方(ごはう)の博士(はかせ)、御占(《おん》うら)を奏していはく、

「王城の坤(ひつじさる)に伽藍を御建立あつて、藥師佛を安置あらば、御惱、平癒ましまさん。」

と、なり。

 これによつて、勅使、此所《このところ》に下向し、在所の名を尋(たづね)ければ、いづくより來《きた》る共《とも》しらず、老翁、來《きたり》て申《まをし》けるは、

「むかし、此所に、虛空より、幡(はた)、一《ひと》ながれ、ふりくだり、鏡岩《かかみいは》の森のこずゑに、とどまりしが、諸人(しよにん)の目には、『「ひかり物」と見えし。』となり。をりふし、大雨・大風して、此谷川に、水、出《いで》けるとき、かの『ひかり物』、川にとび入《いり》、ながれしを、取《とり》とめみれば、『はた』なり。それより、此所を『幡川』と、なづく。その『はた』のすゑ、少し、きれて、うみに入、阿波の地によりけるを、里人、ひろい[やぶちゃん注:ママ。]上(あげ)たる所を、『切幡村《きりはたむら》』といふ。」

と、かたる。

 則《すなはち》、此幡川に、禪林寺を御建立なりと、「緣起」に見えたり。「紀州志」

[やぶちゃん注:「紀州志」「南紀名勝志」或いは「紀州名勝志」・「南紀名勝略志」という名で伝わる紀州藩地誌の写本の中の一冊であろう。底本と同じ「新日本古典籍総合データベース」の「南紀名勝志」を参看したところ、同書の「那賀郡」のここからあった。本篇の内容と同様のものがあって、本篇が引くのは、その最後の部分だけであることが判明した。但し、カットされた後は後の寺歴の記載であるので、特に電子化はしない。非常に綺麗な写本なのでその必要もない。

「紀州名草郡幡川山禅林寺は、三上庄幡川村の中にあり」和歌山県海南市幡川(はたがわ:現行では少なくとも地名は濁る。本文は原拠に拠って清音で表記した)にある高野山真言宗幡川山禅林寺(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。本尊は薬師如来。サイト「メイスンキタニ」の同寺の解説がなかなか詳しいので参照されたい。

「人皇四十五代聖武天皇」在位は神亀元(七二四)年から天平勝宝元(七四九)年。

「爲光上人」彼は紀三井寺の開基でもあり、日本人ではなく、唐僧である。

「五方の博士」「五方」は中央・東・西・南・北の五つの方角を言う。ここはその陰陽五行説に則る陰陽(おんみょう)寮の陰陽博士であろう。

「坤」南西。禅林寺は平城宮から正確に同方向に当たる。

「阿波」「切幡村」かなりの内陸であるが、現在の徳島県に阿波市市場町(いちばちやう)切幡(きりはた)はある。ここには同じ高野山真言宗得度山(とくどざん)灌頂院(かんじょういん)切幡寺がある。本尊は千手観世音菩薩。ウィキの「切幡寺」によると、『寺伝によれば、修行中の空海(弘法大師)が、着物がほころびた僧衣を繕うため』、『機織の娘に継ぎ布を求めたところ、娘は織りかけの布を惜しげもなく切りさいて差し出した。これに感激した空海が娘の願いを聞くと、父母の供養のため千手観音を彫ってほしいとのことであった。そこで、その場で千手観世音菩薩像を刻んで娘を得度させ、灌頂を授けたところ、娘は』、忽ち、『七色の光を放ち』、『即身成仏して千手観音の姿になったという』。『空海はこのことを嵯峨天皇に伝えたところ、勅願によって堂宇を建立、空海の彫った千手観音を南向きに、娘が即身成仏した千手観音を北向きに安置し』、『本尊として開基したという。山号や寺号は機織娘の故事にちなんでいる』。『伝統行事の一つとして、毎年春分の日と秋分の日に、先祖の戒名などを経木に書き』、『清水をかけて流して供養する経木流しを行なっている』とあり、禅林寺との関係性は見出せなかったものの、そこはかとなく、親和性を私は感じはした。]

大和怪異記 卷之六 第八 鳳來寺鬼の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第八 鳳來寺(はうらいじ)鬼《おに》の事

 三河設樂郡《したらのこほり》煙巖山(《えん》がんざん)鳳來寺勝嶽院(《しよう》がく《ゐん》)の開山を利修仙人(りしゆせんにん)といひ、つねに、鬼を、つかふ。

 仙人いはく、

「汝等、かくてあらんには、人、おそるべし。それがしにさきだつて、成仏せよ。」

と、すゝめて、鬼のくびを切(きり)て、はうふり[やぶちゃん注:ママ。]しと、いひつたふ。

 元和《げんな》元年の囬祿(くわいろく)に及びしを、慶安二年、再興のとき、堂の地をならしけるに、ひとつのはこを、ほり出《いだ》し、あやしみて、ひらきみれば、よのつねの「ぬり桶(をけ)」ほどの、されかうべ、あり。

 いにしへの、「鬼のかしら」にて有(ある)べし。

 則(すなはち)、もとのごとく、埋みぬ。

 「此時、見たり。」

と、寶珠院代官庄田何がし、かたりし。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十八 雜叓篇」(「叓」は「事」の異体字)冒頭にある「鳳耒寺堺夜叉髑髏(ほうらいじさかひやしやどくろ)」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。同合巻「六」PDF)の56コマ目からであるが、内容がもっと詳しい記載になっているので、以下に電子化して示す。読みは一部に留めた(表記と歴史的仮名遣の誤りはママ)。所持する吉川弘文館随筆大成版を参考にしつつ、読点・記号を打った。

   *

   ○鳳耒寺堺夜叉髑髏

三州設樂郡(しだらこをり)、煙嚴山(えんかんざん)鳳耒寺の開山(かいさん)を、利修(りしゆ)仙人と申しき。常に、鬼神(きしん)を、めし仕へるとかや。ある時、仙人、鬼(き)に告(つけ)たまはく、「我、徃(ゆき)て後(のち)、汝、かくてあらんには、人々、おそれて、此山の詣(まふて)も、おのづから、やみなん。疾(と)く、我に先だちて、成佛(しやうふつ)せよ。」と、懇(ねんごろ)にすゝめさせ、則(すなはち)、手づから、鬼(をに)の首(くび)を切(きり)て、葬(ほふむ)りたまひしと也。されば、むかしの伽藍は、元和六年に回祿せしを、假堂(かありだう)にて、年、經(へ)たりし。慶安二年に、武江(ぶこう)より、御建立(このりう)ありし。惣奉行には、太田備中守殿、副司には江原与右衞門どの、甲斐庄(かひのせう)喜右衞門との、おのおの、越(こし)たまひて、扨(さて)、伽藍の地形(ちぎやう)を、つき、いとなみけるに、ゆゝしき石の凾(はこ)を、ほり出したり。披(ひらき)て見れば、さしわたし、一尺ばかりの髑髏にて、ありし。皆人(みなひと)、おどろき、あやしみけるに、寺僧のいはく、「これなん、緣起にしるす處の『鬼の首』にておはしき。」と、くはしく語りしかば、本(もと)のごとくに埋みをきし。

   *

「三河設樂郡煙巖山鳳來寺勝嶽院」現在の愛知県新城市の鳳来寺山(ほうらいじさん)の山頂(標高六百九十五メートル。但し、厳密には鳳来寺山の山頂標識から北に位置する瑠璃山と呼ばれる岩峰の標高)付近にある真言宗五智教団の煙巌山鳳来寺。本尊は開山の利修作とされる薬師如来である。寺の創建は大宝二(七〇二)年とされる。利修仙「勝嶽院」及び原本堂以外のそれより上の蓬莱寺の堂宇は近代の回禄(火災)で焼失しており、現在は勝嶽院の跡地には「勝岳不動堂」が建立されてある。「新城市産業・立地部観光課」作成になるパンフレット「プチ 仙人入門! 鳳来寺山コース」に、地図と高度表が載っており、五百三十メートル位置に「勝岳不動堂」があり、写真も添えてあって、そこには、『自分の寿命を悟った利修仙人は、お供の三匹の鬼に「共に死んで鳳来寺の守り神になる」ことを約束させました。仙人は鬼の首を本堂の下に埋めた後、ここ勝岳不動で元慶』二(八七八)年『に入寂』『されたと伝えられています』とある。

「利修仙人」やまざき にんふぇあ氏のブログ「鳳来寺を開山した謎の超人、利修仙人とは?」によれば、欽明天皇三一(五七〇)年に『山城国(京都南部)で生まれ』、『愛知県の鳳来寺山の木の祠に住み、鳳凰や龍と親しくしながら』、『修行をしていた』が、斉明天皇元(六五五)年(生年が正しいとすれば八十五歳相当)『にして百済に渡って学んだあと』、『日本へもどり、悪さをしていた』三『匹の鬼をこらしめ、従えて暮らしていた』。弘文天皇元・天武天皇元(六七二)年『には病にかかった文武天皇』(ママ。文武天皇の生年は天武天皇一二(六八三)年生まれ。天武天皇の誤りであろう。次も同じ)『から何度も祈祷依頼があったため断れず、鳳凰に乗って訪れ、祈祷によって文武天皇の病を治した。その褒美として、鳳来寺が建てられる』。『さらに』大宝三(七〇三)年『には聖武天皇の病を祈祷で治し、褒美として光明皇后から直筆の額を受け取る』(引用先にそれを掲げた仁王門の写真がある)。『この時点で』、彼は実に一三三『歳に達している』。彼は元慶二(八七八)年(清和上皇・陽成天皇の治世)に、三〇八『歳で亡くなったと伝えられている』とある、まさに「仙人」に相応しい名怪僧である。

「元和元年」一六一五年。徳川秀忠の治世。

「慶安二年」一六四九年。徳川家光の治世。「再興」は徳川家康の生母「於大の方」が当山に参籠して家康を授けられたという伝説があり、それを知った家光の家康神格化の大号令の一環。

『よのつねの「ぬり桶(をけ)」』グーグル画像検索「塗り桶」をリンクさせておく。洗面器様のものではなく、口がやや大きい縦長の桶が想起されていよう。

「寶珠院代官庄田何がし」不詳。「寶珠院」という寺は愛知県内に複数ある。蓬莱寺に最も近いのは、愛知県新城市にある宝珠院(グーグル・マップ・データ)であるが、ここは現在は臨済宗である。そもそも「寶珠院代官」という言い方自体がちょっと判らない。]

ブログ1,880,000アクセス突破記念 梅崎春生 文芸時評 昭和二十二年六月分

 

[やぶちゃん注:本評論は掲載紙・発表年月日ともに未詳。

 標題は「昭和二十二年六月」となっているが、これは底本全集編者によって仮に附されたものと推定し、本文冒頭では掲げないこととした。

 私は梅崎春生と同時代の、ここに挙げられる作家の作品は、あまり読んだことがない。私は近現代の作家については、死んでいない人物に対しては冷淡で、共時的に読むことはなかった(現在でも特定の作家を除き、概ね同じである)、従って、注は語句や、特に私がよく知らない作家については、高校の「現代文」(ちょっと以前は「現代国語」と称した)の私の嫌悪する注のような、生年月日の毛の生えた程度の注をするしかなく、それは嫌なので、私の知っている作家の場合は、没年を示す必要があると考えた場合を除いては、概ね、特に注しない。悪しからず。

 既に述べているが、梅崎春生の短編小説は、最早、上記底本全集のものは、「青空文庫」(ここ)で私よりも先行電子化された分の以下の私の底本全集中の十一篇(「日の果て」「風宴」「蜆」「黄色い日日」「Sの背中」「ボロ家の春秋」「庭の眺め」「魚の餌」「凡人凡語」「記憶」「狂い凧」。以上は順列を私の底本全集の並びに変えてある)を除き、これで、総て電子化を終えている(全リストは私のサイトのこちらの「■梅崎春生」、及び、ブログ・カテゴリ「梅崎春生」及びブログ版梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】梅崎春生日記【完】を参照)。残るのは、長編「つむじ風」のみである。彼の著作権満了の翌日である二〇一六年一月一日から始めた、私のマニアックに五月蠅い注附きの梅崎春生の電子化も、七年目にして、もう遂に終わりに近づいた。

 底本は昭和六〇(一九八五)年四月発行の沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本日、朝風呂に入っている途中、1,880,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二二年十二月十四日 藪野直史】]

 

 雑誌を開くとざらざらした変な紙がある。仙花(せんか)という紙だそうだ。インクがうまく乗っていないので、誠に読みづらい。

 紙なら仙花、酒で言えばカストリ、煙草の場合はノゾミや手巻き、これらはそれぞれ紙や酒やたばこには違いない。偽物という訳にはゆかぬが、本物であるかと言えばほんものでは絶対にない。この現象は現今の品物にのみあるのではなく、文化の面にも現われていて、今手許にあつまった諸雑誌を通読して見ると、おおむねこの仙花的傾向があるようだ。

 一例をあげれば、伊藤整氏の近頃の作品、「鳴海仙吉の知識階級論」(文芸四月号)以下「文壇」五月号、「近代文学」所載の仙吉ものを読むと、一応は興味深い。が私たちがほんとに求めているものを充たしてくれるかとなると、そうだとは言い難い。なるほど理解のよさや姿勢の面白さはそこにある。しかしそれだけだ。かつて得能五郎氏が、戦時中知識人的小市民として、生活並びにその思索にあざやかな具象性をもっていたのに、鳴海仙吉氏は生れたての蚕(かいこ)のように誠にたよりない。何故たよりないのか。仙吉氏が五郎氏と身振りを同じくするのにも拘らず、影がうすいと言うのも、彼等を囲(めぐ)る現実が大いに変ったからだ。

 思うに作家の気質やスタイルで持つ小説、私小説もこの部類に入るが、それが処理し得る範囲はおおむね平和時の市民生活で、現今のように衣食住ともに困窮し、その困窮がいちいち大きなものと結びついている場合になると、スタイルや身振りでは処理し切れなくなるのではないか。それを頭で強引にねじふせようとするから無理が出て、自然仙吉氏は大きな身振りでふざけざるを得ない。

 不思議なことだが、私は近頃の伊藤整氏の小説を読むたびに、この小説の愛読者の風貌が何ともやり切れない感じのものとして思い浮べられて来る。伊藤整氏に対してはある種の共感と親愛の情が浮んで来るにも拘らず、その愛読者を考えるとどうにも反撥を押え切れぬ。その感じは、ずっと少なくなるが、石川淳氏にも太宰治氏にもある。織田作之助氏にはない。

 話をもとに戻すが、私たちが求めているのを充たしてくれるものは何だろう。上林暁氏の「夜半の寝覚」(文芸五月号)のような形でもないし、豊島与志雄氏の「未亡人」(諷剌文学)のような形でもない。漠然と私が考えていることは、それは小説本来の性格であるべき「物語る精神」であるような気がする。この平凡な精神を何故人々は捨ててかえりみないのか。

 

「近代文学」に連載中の「死霊」という埴谷雄高氏の小説を読む度に、私は何時も奇異な感じにとらえられる。私は人間というと直ぐ向う三軒両隣に生活している人間、あるいはそれと血族的な人間を思い浮べるが、この小説に出て来る人物達は皆そんな手合いではなくて、マネキン人形よりもっと生気がない。たとえばドストエフスキイの人物は、どんなに異常でもちゃんと血と肉を具えているが、埴谷氏のにはそれがない。これは埴谷氏の描写力が不足だからではない。

 小説というものは現実の人間を描くものであり、現実の人間を追求することで、ある観念なり思想に到達するものだ。言わば思想の形成を現実の肉体で手探りする過程が小説なので、作家の生理からすれば思想が作中人物を割りふりするなどはあり得ない。

 ところが「死霊」における発想の具合は、その生理を逆行しているように思われる。「死霊」の作中人物は、埴谷氏の頭の中に住んでいるだけで、この世の空気を吸っていないように思われるのも、作品を造型する手順に誤りがあるのではないか。これと同じ感じを私は佐々木基一氏にもやや感じるし、極くちょっとではあるが椎名麟三氏にも感じる。私はこの「死霊」という作品を、理解するとしてもそれは頭だけで、肉体をもって共感出来ない。

 伊藤整氏の愛読者を思うとやり切れない気がすると私は書いたが、いま埴谷雄高氏の愛読者を想像すると私は少しこわくなる。

 今手許に集まった諸雑誌は皆見るかげもなく薄っぺらになっていて、どの雑誌もほとんど類型的だ。特徴を喪った雑誌の中で、私が今読者として守り育てて行きたいと思う雑誌に、「日本小説」「ヨーロッパ」「諷刺文学」の三誌がある。

「日本小説」は本当のロマンを生み出そうとする点において、「ヨーロッパ」は現代外国文学に接する唯一の窓であるという点において、「諷刺文学」は正しい諷刺精神を日本に植えようとする点において、私はそれぞれ正しい形の発展を望むや切である。

 なお、今日読んだものの中で私の興昧を引いたものは、野間宏氏の「華やかな色どり」(近代文学六月号)と杉浦明平氏の「三つの太陽」(諷刺文学第一号)がある。前者は長篇の発端らしいが、大きな展開の予感を蔵している点で、後者は才気あるレトリックの点で、それぞれ印象が深かった。

[やぶちゃん注:「仙花(せんか)という紙」小学館「日本国語大辞典」によれば、『①天正年間(一五七三―九二)、伊予国(愛媛県)の兵頭太郎左衛門(法名、泉貨または仙貨)が創製した楮(こうぞ)を原料とした厚紙。きわめて強く、帳簿、袋紙、合羽(かっぱ)、傘などの地紙などに用いられた。仙花。せんかがみ。』とし、『②第二次世界大戦の戦中、戦後に製造された洋紙。ざら紙以下の低級品が多かった。』と続けた後に、『③印刷用紙の一つ。下級品にランクされ、雑印刷に用いられている。』とある、③である。所謂、自動「漉き返し」をした粗末な洋紙のことである。

「カストリ」梅崎春生の「悪酒の時代――酒友列伝――」の本文及び私の『「メチル」「カストリ」』の注を参照されたい。

「ノゾミや手巻き」並列しているが、「ノゾミ」は「のぞみ」で、手巻き用の紙に自分で巻いて作った配給用葉煙草(刻み煙草を紙で梱包したもの)を指す。pierre_shiozawa氏のブログ「Pierre smokes every day 2」の「タバコ配給時代のR.Y.O」という記事に包装刻み煙草「のぞみ」と「手巻用卷紙」とあるそれを写真入りで紹介されており、解説に、『この巻紙が登場したのはいつか』? 『実は第二次大戦中、タバコが配給となったのは』昭和一九(一九四四)年『から終戦直後までだ』。『当初は』一『日』五『本のシガレットが配給されていたが、途中から手巻きとなり、終戦後はまた』一『日』三『本の配給となった』。『つまり、この巻紙が流通していたのは』一九四四『年から』一『年程度である、ということがわかった』とあった。

「得能五郎氏」伊藤整が昭和一五(一九四〇)年に発表した小説の主人公の名で、明かに伊藤整の分身である。同小說は、『戦時下において私小説の手法を逆用して自己韜晦によって社会を風刺』(ここの引用はウィキの「伊藤整」に拠った)小市民的な幸福にしがみつく戦時下の一知識人の姿を戯画的に描いている。昭和一六(一九四一)年刊行。題名は、十八世紀のイギリスの牧師で小説家のローレンス・スターン(Laurence Sterne 一七一三年~一七六八年)の未完の長編小説「紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見」(The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman:全九巻。一七五九年末から一七六七年にかけて、五回に分けて出版された。内容はウィキの「トリストラム・シャンディ」を参照)を踏まえたもの(主文は小学館「デジタル大辞泉」に拠った)。

「太宰治」彼はこの総クレジットの翌昭和二三年六月十三日に玉川上水で愛人山崎富栄(満二十八)と入水した。満三十八。遺体の発見が遅れ、発見された日は太宰の三十九の誕生日であった。

「織田作之助」彼はこの昭和二十二年一月十日に結核によって既に死去している。満三十三の若さであった。

『豊島与志雄氏の「未亡人」』「青空文庫」のこちらで読める(新字新仮名)。

「杉浦明平」私は彼の作品を短い評論以外、一篇もよんだことがないので、当該ウィキをリンクさせておく。]

2022/12/13

大和怪異記 卷之六 第第七 殺生のむくゐにて目鼻なき病をうくる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 標題中及び本文中の「むくゐ」はママ。]

 

 第七 殺生のむくゐにて目鼻なき病(やまひ)をうくる事

 上總国、廳南《ちやうなん》、妙覺寺(めうかくじ)門前の百姓が父、わかきとき、鳥さしにて、あらぬ殺生をせしが、そのむくゐにや、にはかに煩ひ、目も、はなも、口・耳もなく、へうたんのごとくになれり。其子共゙、

「おやに物をくはするには、かゆなどを、かしらにそゝぎかくれば、鳥のつばさ、いくら共《とも》なく出て、『ちゝ。』となきて、くらひし。」

となり。

[やぶちゃん注:「同」はお馴染みの「犬著聞集」であるが、これは、かなり前振りに手を加えて、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収されているのを発見した。「第十四 殃禍篇」(「あうか」(現代仮名遣「おうか」:「アウ(オウ)」は呉音)「殃」も「わざわい」の意)にある「殺生(せつせう)の現業(げんごう)無根(むこん)の形(かたち)となる」(歴史的仮名遣の誤りはママ)である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。同合巻「五」PDF)の61コマ目からであるが、改作となっているので、以下に電子化して示す。読みは一部に留めた(表記と歴史的仮名遣の誤りはママ)。所持する吉川弘文館随筆大成版を参考にしつつ、読点・記号を打った。

   *

   殺生の現業無根の形となる事

上總國、廳南(てうなん)、妙覚寺(みやうがくじ)門前に、人數(にんしゆ)、あらたむ事ありしに、或百姓、「『十六人』となり共、『十七人』となり共、書(かき)たまへ。」といふ。奉行久保田平右衞門との云く、「心得ざる事、言ふ者かな。」と其故を問(とひ)たまへば、「さらは、先(まづ)、見せまいらせて定むへき。」とて、別に作りし小屋に倡(いさなひ)ゆき、戶をひらけば、耳・目・鼻・口、ともになくて、形(かた)ち、瓢簞(ひやうたん)のことくなるもの、黙然として居(いけ)る。「これは、某(それかし)が父にてありし。若き時に、鳥をさし、網をはり、あらゆる殺生をせしゆへ、報(むくい)にや、俄に煩(わづら)ひ、かく成り候。物喰(ものくらふ)を、みせん。」とて、粥を頭(かしら)にそゝぎかくれば、鳥の觜(くちばし)、いくらも出て、少し啼(なく)こゑして、喰ひし、となり。

   *

この改変版の方が、現実の映像として描かれていて、いかにもエグく、しかもリアルで凄い。

「上總国、廳南」嘗つて上総国の政庁が置かれていたところの南(にある)。旧国府は現在の市原市に推定されている。

「妙覺寺」千葉県勝浦市にある日蓮最初の開基寺院である広栄山妙覚寺。実はここより北に二つの同名の寺院があるが、竹原市から見て、最も「南」と言って問題がなく、しかも、旧上総国の域内である点、門前町として栄え、寺跡として著名な歴史を持つのは、ここと判断した。

「目も、はなも、口・耳もなく、へうたんのごとくになれり」二つの疾患が考えられる。一つはハンセン病の病態の一つで、今一つは梅毒の第三期のゴム腫の発生後、それらが悉く脱落した状態(又はそこから進行した終末期第四期)の病態である。後者の可能性が強いように思われる。]

大和怪異記 卷之六 第六 幽㚑來りて妻をいざなふ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第六 幽㚑(《いう》れい)來りて妻(さい)をいざなふ事

 同国同郡に六兵衞といふ者あり。

 死期(しご)におよんで、ゆいごんに、

「わが死骸をうらのやぶに葬れ。」

と、いひしかば、其ことばを、たがえず、はうふりぬ。

 七日にあたりし夜(よ)より、妻がかたに、來《きた》る。

 はじめこそ、おそろしかりけれ、後には、としごろのごとく、むつまじくちぎりて、一年計(ひととせばかり)をへたり。

 あるとき、又、幽靈、來《きたつ》て、

「いまよりのちは、來るまじきぞ。いざ、我(わが)かたに、來(こ)よ。」

といふに、

「いや、子どもも、いまだ、おさなければ[やぶちゃん注:ママ。]、今ゆきては、跡のため、よろしからじ。」

と。

 たがゐに[やぶちゃん注:ママ。]、手と手を引合《ひきあひ》しが、

「よしや、來りがたくは、心にまかせよ。」

と、いひて、幽靈は、かへりぬ。

 それよりのち、妻が手、幽靈がとらえし所より、いたみ、出《いで》て、さまざま、醫療をつくしけれ共゙、くさり、たゞれて、死しけるとかや。

[やぶちゃん注:「同國同郡」前話(同じ「犬著聞集」典拠)と同じで「越前国大野郡(おほのごほり)」。但し、江戸時代の「大野郡」は、現在の大野市の全域の他、勝山市の全域・福井市の一部・岐阜県郡上市の一部が含まれる広域であったから(越前国で最も面積の大きい郡であった。ウィキの旧「大野郡(福井県)」の地図を参照)、これではロケーションは特定出来ない。]

大和怪異記 卷之六 第五 狼人にばけて子をもちし事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分もリンクを張っておく。]

 

 第五 狼《おほかみ》人(ひと)にばけて子(こ)をもちし事

 

Ohokamihitonibakeru

 

 越前国大㙒郡(おほのごほり)菖蒲池《しやうぶいけ》のあたりに、「むらがり狼」出(いで)て、日くるれば、人をなやます事ありしに、ある僧、菖蒲池の孫左衞門といふもののかたに、心ざして、ゆきしに、思ひの外、狼、早く出《いで》て、通りがたかりしかば、大《おほき》なる木、ありしに、

「よしや、爰にても、一夜(いちや)を、あかせ。」

とて、枝にのぼり居(ゐ)るに、狼、木のもとに、むらがりあつまり、うへをまもり居(ゐ)けるに、ひとつの狼が、いひしは、

「菖蒲池の孫左衞門がかゝを、よびて、來《きた》らん。」

とて、ゆきしが、程なく、大なる狼、來り、つくづくと見ゐて、

「我を、肩車に、あげよ。」

といふ程こそあれ、我も我もと、「うしろもゝ」に、くびをさしいれ、次第にあげゝるほどに、すでに、僧の、をり所《どころ》ちかく、さし上(あげ)たり。

 僧も、すべきやうなくて、「まもりわきざし」を引《ひき》ぬき、狼がかしらを、

「はた」

と、つきければ、くづれをち[やぶちゃん注:ママ。]、手負(て《おひ》)をたすけ、おのが、さまざま、かへりける。

 夜明(よあけ)て、かの僧、孫左衞門がかたに行《ゆき》みれば、

「妻女、其夜、にはかに、死しける。」

とて、さわぎあへるによつて、死骸をみるに、大なる狼にて侍りしと、なん。

[やぶちゃん注:原拠は前話と同じで「犬著聞集」。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもないが、所持する同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十 奇怪篇」の「古狼(ふるをゝかみ)婦(ふ)となりて子孫(こまご)毛(け)を被(かふむる)る」(歴史的仮名遣の誤り他はママ)である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここと、ここ(単独画像)。しかし、本書の作者は、今回は、原拠の大切な後半をうっかり省いてしまい、「標題に偽りあり!」の形にしてしまったのが致命傷となってしまっている。「子をもちし事」のコーダの衝撃が、まるまる抜けてしまっているのだ! また、ここに幸いにして、同一原話を典拠としたと思われる、本篇よりも、より見事に膨らました後代の、章花堂なる不明の著者の手になる元禄一七(一七〇四)年板行の浮世草子怪談集に「金玉ねぢぶくさ卷之八 菖蒲池の狼の事」があり、二年前に電子化注してある。以下では、一部を除いて、そちらで注した内容は繰り返さないので、まずは、そちらを読まれたい。

「越前の國大野郡菖蒲池」古くからの福井から郡上八幡に抜ける美濃街道(鯖街道の一つ)が通る現在の福井県大野市菖蒲池(しょうぶいけ)(グーグル・マップ・データ)。実は「金玉ねぢぶくさ」の原本では、「菖蒲池」「かまふち」と読んでいるのだが、本篇の場合、作者(編者)は読みを全く振っていないからには、一般常識から「しやうぶ」(しょうぶ)か、「あやめ」としか読めないわけで、現地名で読むのが筋であろう。江戸時代に「かまふち」「がまふち」(がもうち)と読んだとする文書が私には見つからなかった。ここは今も現在の九頭竜湖へ向かう山岳地帯(グーグル・マップ・データ航空写真)のとば口であり、いかにも群狼(ぐんろう)が棲息していたという感じがする。]

大和怪異記 卷之六 第四 幽㚑子をはごくむ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第四 幽㚑(《いう》れい)子(こ)をはごくむ事

 紀州にある人の妻、懷姙し、程なく、死ぬ。其夜より、幽靈、來り、かの子に乳をふくめ、朝は、かへる。

 其子、三歲になりて後、又も、來らず。

 盛人(せいじん)の後に「彥四郞」と、いひし。

 恩愛のみちほど、あはれなることは、あらじ。

[やぶちゃん注:原拠は前話と同じで「犬著聞集」。「犬著聞集」自体は所持せず、ネット上にもない。また、所持する同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようである。これも本邦で定番の亡き母の子育て怪談だが、これほどシンプル纏めたものは、まず、他では見られない。先行する類話「卷之四 第十一 孕女死して子を產育する事」の私の附した注以外にはつけようがない。「紀州」とあるが、恐らく南方熊楠も言及していないはずである。]

大和怪異記 卷之六 第三 病中にたましゐ寺に參る事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 標題及び本文中の「たましゐ」はママ。]

 

 第三 病中にたましゐ寺に參る事

 むさしの国熊谷邊《へん》、上吉見村、龍海院の旦那、喜兵衞といふもの、永々(ながなが)、わづらひしかば、寺より、折々、見まひに、人をつかはしけるに、ある日、雨、ふりしとき、笠、うちきて、寺に來り、佛前を拜してかへるを、住持、みつけて、よびかへし、

「そこには、氣色(きしよく)よくて、めでたし。ちやを、のみて、歸られよ。」

といふに、三ぶくまで、のみて、かへれり。

 跡より、住持、其よろこびに使(つかひ)をつかはしければ、

「喜兵衞は、かぎりになり、時《とき》を、まち侍る。」

と、いひこしける。

「さては。たましゐの、さき立(だち)て來れる成(なる)べし。」

と、あはれに思ひし、つぎの日、死しけるとなり。「犬著聞」

[やぶちゃん注:典拠「犬著聞集」は既に先行するこちらで注済み。本書の最大のネタ元。「犬著聞集」原拠だが、これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十三 往生篇」にある「生䰟(せいこん)寺に詣づ」(「䰟」は「魂」の異体字)である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。そちらでは「喜兵衞」は「坂田」姓であり、茶は全く飲んでいない。「犬著聞集」の原形が本篇と思われる。なお、この手の話は、本邦では全国的に古くからよく知られるところの、終命近き時に至り、檀那寺に生霊となって御礼参りに来たとする定番にしてしみじみとした怪奇談の典型である。私の電子化注『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「臨死の病人の魂寺に行く話」』(以上はブログ横書版。他に同一内容のサイトの読み易いPDF縦書ルビ版もある)を参照されたい。熊楠は、『臨死人の魂が寺に往く話は西洋にも多』く見られるとするが、私はキリスト教会の神父や牧師に暇乞いをしに来る生霊の話というのは、不学にして、聴いたことがない。いや、本邦では、寺の住職へではなく、親しい知人の元に暇乞いに現われるケースも古くより甚だ多い。近代の実話怪談の一つに、中には、老人の生霊が、夕刻、あくがれ出でて、外出・彷徨し、とある他家の垣根に立小便をし、それを知人が見つけ、しかし、場合が場合だから、声をかけずに黙って通り過ぎたが、「外に出られるほどになったのか。」と喜び、後日、その知人が快気祝いに訪ねると、寝たままで起きることは出来ないありさまであったため、「以前に私が見たのは見間違いでした。」と述べるや、「いやいや、お恥ずかしいところ見られたわい。」と恐縮して笑ったという、上手く出来たヴァリエーションもあるのである。西洋の生霊には、こうした大らかさは認められるケースは、まず、ないように思われる。今の外国の心霊映像なるもの(私はYouTube の複数のサイトのそれらを定期的に物理的科学的に検証するのが趣味なのだが)の半数以上が、実は、やらせ臭さ満載の「ポルターガイスト」であるのだが、それを「賑やかでいい」などという輩は一人もいないし、そもそも生霊という概念は、個人的には、キリスト教には頗る馴染まないもののように思われ、そうした生体からの幽体離脱というのは、寧ろ、実はキリスト教とは、全然、次元を異にした、中世以降の心霊学上の現象の中で盛んに言上げされ、所謂、怪しげな心霊写真でも、本邦で『専門家によると、性質(たち)の悪い生霊』などと脅しをかけるのと同じような、糞まがまがしいものとして扱われる傾向があるように思うのである。私は日本のこの「しみじみとしたお礼参りする生霊」をこそ、日本の文化的な怪談のオリジナリティとして大事にしたいと思うのである。

「上吉見村」「吉見百穴」で知られる現在の埼玉県比企郡吉見町(よしみまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)の北部分か。戦前の地図を「今昔マップ」で見ると、現在の吉身町の北部分に「北吉見村」があり、その北部分の荒川右岸の「上砂(かみづな)」がある。現在もここに同地名が残る。この附近と同定してよいだろう。]

大和怪異記 卷之六 第二 いなりのみきをぬすむ老人が事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入する。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本(カラー。但し、挿絵は単色)の挿絵部分もリンクを張っておく(但し、本篇本文よりも前に置かれてある)。]

 

 第二 いなりのみきをぬすむ老人が事

 

Inarinomikiwonusumuraujin

 

 いつの比にや、山城国稻荷社(いなりのやしろ)にそなヘをく[やぶちゃん注:ママ。]神酒(みき)、よなよな、一滴(いつてき)[やぶちゃん注:これまで数字にはルビを振らないのが普通であったので、特異点。]も、のこらずなること、數日(すじつ)に及べり。

 社人(しやにん)ども、ふしぎに思ひ、四、五人、いひあはせ、うかゞふに、夜半ばかりに、白はつの老翁一人、つえにすがり來りけるが、

「ゑい。」

と、いひて、はいでんにあがり、こしにつけたるはかまを着(き)、手水(《てう》づ)つかひ、神前にむかひ、手をつき、

「今宵も御とぎに參候。いつものごとく、神酒、きこしめし候へ。」

と、いひて、神前のかはらけを、ひとつは、

「神盃。」

とて、すへをき[やぶちゃん注:「へ」「を」二箇所ともママ。以下同じ。]、ひとつは、おのれが前にをき、

「まづ、御前に、きこしめし候へ。」

とて、御かはらけに、つぎ、

「さらば、御さかな申さん。」

と、しはがれたる声にて、うたひをうたひ、老人が、

「此さかなにては、今ひとつ、聞召《きこしめさ》れ候へ。」

とて、又、つぎて、うたひ、三献(こん)、參らせ、

「もはや、老人が、たまはらん。」

とて、二、三ばい、のみ、其後は、立《たち》あがり、まひ、かなで、きやうげんし、神酒の有《ある》かぎり打(うち)のみ、かしらを、たゝきながら、

「あら、有がたや、明神の御かげにて、此世も、たすかりぬ。猶、來世(らいせ)をたのみ奉る。又、明晚も御とぎに參らん。」

と、神前を拜し歸る所を、かくれ居(ゐ)たる者共゙、出合(いで《あひ》)、

「盜人(ぬすびと)、のがさじ。」

と、手とり、足とり、なはをかけ、かたはらに、をしこめをきたり[やぶちゃん注:二箇所ともママ。]。

 其夜より、からめたる者共゙、大熱、狂亂し、ちばしりて、いはく、

「『我に。』とて、そなへたる神酒・供物、いかやうに成《ある》とても、をのれ等が、かまふべき事かは。此おきな、余念なく、我を、たのみ、夜ごとに來り、神酒、すゝめ、神慮をなぐさむるれば、をそく[やぶちゃん注:ママ。]來るをだに待(まち)かねしに、かく、かなしき目(め)を見せけるぞや。いそぎ、なはを、とき、いたはるべし。左(さ)なくは、一人も、安隱(あん《おん》)なるべからず。」

と、なみだを、ながして、おどりくるへば、社人共゙、大《おほき》におどろき、いそぎ、縄を、とき、

「かくばかり神慮にかなひしをきな[やぶちゃん注:ママ。]、あしくは、いかゞ。」

と、祠官中(しんくわんぢう)より、ふちしをき[やぶちゃん注:ママ。「扶持(ふち)し置(お)き」。]、老人は、いよいよ、前(まへ)のごとく、明神にもふで[やぶちゃん注:ママ。]、つかへけると、いひ傳ふ。

[やぶちゃん注:原拠は前話と「同」じで、「異事記」。但し、不詳。「近世民間異聞怪談集成」の解題で土屋氏も、本書を『該当する資料名が不明なもの』の一つに入れておられる。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「麻布大番町奇談」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説拾遺」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上段後ろから四行目)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は江戸の巷説で頻りに語られた当時のアップ・トゥ・デイトな都市伝説(urban legend)であるので(前回の怪しげな野馬台詩に「雲峰婆々古狸喰」(雲峰の婆々 古狸に喰(く)はる)と出る)、段落を成形した。]

 

   ○麻布大番町奇談

 文政十一年三月中比《なかごろ》、雲峰《うんぱう》の家に、久しく仕《つかへ》し老女、有《あり》。名を「やち」と、いへり。年七十餘りに成《なり》ぬれば、名をよぶ人もなく、只、

「婆々《ばば》。」

とぞ、いひける。

[やぶちゃん注:「文政十一年」一八二八年。「雲峰」旗本で文人画家でもあった大岡雲峰(明和二(一七六五)年~ 嘉永元(一八四八)年)。当該ウィキによれば、『名は成寛、通称次兵衛。字は公栗。雲峰と号す。江戸の生まれで』、『筑後柳河藩士牛田』(「うしだ」か)『忠光の子として生まれる。のちに旗本大岡助誥』(「すけつぐ」か)『の養子となり』、天明八(一七八八)年二十四歳で『家督を継ぐ』。寛政三(一七九一)年には『表右筆に任じられ』た。『絵では鈴木芙蓉の高弟で、のちに』、二つ『年上の谷文晁の門人となった。山水画・花鳥画を得意とし、二宮尊徳とその娘の画の師にもなった。四谷大番町に住み、画風を南蘋派に転じると』、「四谷南蘋」と『加称され』、『文化年間には文晁や酒井抱一などと並称された』。『本草学にも興味を持ち、増田繁亭編』「草木奇品家雅見」(そうもくきひんかがみ 文政七(一八二四)年刊)や、旗本で園芸家でもあった水野忠暁の「草木錦葉集」(文政一二(一八二九)年刊)『などに弟子の関根雲停、石川碩峰とともに挿絵を描いている』。天保七(一八三六)年六月二十一日に『雲峰主催の』「尚歯会」(江戸後期に蘭学者・儒学者などの幅広い分野の学者・技術者・官僚などが集まって発足した会の名称。主宰は遠藤泰通(遠藤勝助))が『大窪詩仏の』「詩聖堂」で『開催され、村井東洋』(当時八十二歳。以下同じ)・谷文晁(七十五歳)、春木南湖(七十八歳)・大窪詩仏(七十歳)など十一『人が参加した。雲峰は』この時、七十三歳で、『江戸画檀の長老として敬われた。享年』八十四、とある著名人であった。噂話・都市伝説としては、実在する有名な人物が関わっていることから、怪奇実話として喧伝されていたことが判る。彼の「漢画石譜」(名乗りは『雲峯泰化寉』(うんぱうたいくわかく)『著』とある。出版は後代の明治一三(一八八〇)年東京府の玉林堂刊)が早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで視認出来る。]

 婆々が親族、皆、たえて、引取《ひきとり》養ふ者なく、掛るべき便《たより》なければ、

「千秋を主人の家に過《すぐ》せよ。」

とて、憐《あはれ》み、おきけり。

 かゝりし程に、この年の三月中頃より、何の病《やまひ》もなきに、俄《にはか》に氣絕して、暫く、息、かよはざりしに、一時計《いつときばかり》ありて、やゝ、人心地付《つき》にき。

 さばれ、身體、自由ならずして、只、日にまして、食餌《しよくじ》、すゝみて、常に十倍し、且、其間に餠菓子を求めければ、渠《かれ》がまにまに與へけり。[やぶちゃん注:「渠がまにまに」かの者がかく言うがままに。]

 かゝれば、みたびの食の外、しばしも物たうべぬいとま、なかりき。

 死に近き者の、かく健啖なるを、『あやし。』と、おもはざる者、なし。

 渠、手足こそ自由ならね、夜每に、いとおもしろげに、歌、うたひ、或は、

「友、來れり。」

とて、高らかに獨《ひとり》ごとなど、す。

 或は又、はやしたてゝて、拍子とる音なども。聞えし事、有。

 或は、いたく、酒にゑひたる如くにして、熟睡し、日の登るまで、さめざることも有けり。

 主人、いぶかりて、松本良輔てふ、くすしに、脈、うかゞはせしに、

「脈は、絕《たえ》て、なし。少しはあるが如くなれ共、脈にあらず。奇なる病ひなるかな。藥方、つかず。全く老耄《らうもう》の致《いたる》所、心氣を失ひて、脈絡、通ぜず。只、補ふの外、なし。」

とて、時々、來診してけり。

[やぶちゃん注:「松本良輔」幕府医官。サイト「福岡市薬剤会の歴史」の「夜明け前 西洋医学の導入」にフル・ネームで出る。

「附かず」は薬の附方(=処方)が出来ないの意。「補ふ外、なし」通常の食事を摂らせて補う以外にはない。]

 かくて、月日をふるまゝに、婆々が半身《はんしん》、自然と減じて、後《のち》には、骨、出《いで》て、穴を、なし、

「その穴の内より、毛の生《おひ》たるやうの者、見ゆる。」

とて、看病せし物、おどろき、のゝしりけり。

 兎角する程に、春【文政十二年。】に成ければ、息氣《そくき》あるにより、腰湯を、あみせ、敷物など、日々に敷替《しきかへ》て、いたはらせけるに、婆々、よろこびて、しばらく謝すること、限りなし。

 良餌《りやうじ》など、養ひの爲に、主人、沙汰して、小女《こをんな》を付置《つけおき》つ。

 とかうする程に、又、冬になりければ、きるもの、皆、脫《ぬがせ》、かへさせたるに、脫《ぬが》したるきる物に、狸にや、毛物の毛、多く、つきて、あり。

 又、その臭氣、高く、鼻をうがつ計成《ばかりなる》に、人々、いよいよ、あやしみけり。

 是よりして後、

「をりをり、狸の、婆々が枕邊を徘徊し、或は婆々が裳(もすそ)の間より、尾《を》抔《など》出《いだ》すことあり。」

とて、彼《かの》小女、いたくおそれて、寄も得[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞「え」に漢字を当て字したもの。]つかざりしを、主人のねんごろに諭《さと》しなどするに、後には馴《なれ》て、おそれずなりぬ。

 されば、夜每に婆々が唄ふ歌などを聞覺《ききおぼえ》て、

「こよひは、又、何をうたひやする。」

とて、待《まち》がほなるも、いとおかしかりき。

 後々に至りては、婆々のふしどに、狸、多く、つどひたるにや、つづみ笛・太鼓・三味せんにて、はやすが如き音、聞え、婆々は聲、高やかに、歌、うたひけり。

 又、一夜、はやしに合《あは》して、をどる足音の聞えし事も、ありけり。

 又、ある朝、婆々が枕邊に、柿を、多く、つみおきしこと有よしを、婆々に問へば、

「こは、昨夜の客が、『わが身を、よくいたはらせ給はするよろこびに。』とて、まゐらせし也。」

といふ。

 さばれ、皆、いぶかりて、くらふものも、なし。

 こゝろみに、さきて見るに、誠の柿なり。

 看病せる小女に、皆、とらしつ。

 又、一日《いちじつ》、切《きり》もちひを、多く枕邊におかれしこと、あり。是も狸のおくりものなるべし。

「主《あるじ》の、淺からずあはれめるを、友狸《ともだぬき》の感じて、かゝる事をしつるにや。禽獸も亦、感ずるよしありて、仁に報《むくい》る心にや。」

と、人みな、いひけり。

 又、一夕《いつせき》、火の玉、手まりのごとく、婆々の枕邊を飛《とび》めぐりたり。

 彼《かの》小女、おそるおそる、これを見しに、

「赤きまりの、光り有《ある》物にて、手にも、とられず、忽《たちまち》消《きえ》うせて、なかりし。」

といふ。

 つぎの日、婆々に是を問《とひ》しに、

「此夜は女客《をんなきやく》ありて、まりを、つきたり。」

と答ふ。

 又、一夜、火の玉、桔槹《きつかう》せしこと、あり。[やぶちゃん注:「桔槹」(現代仮名遣「きっこう」。「けっこう」とも読む)は「跳ね釣瓶(つるべ)」のこと。ここは跳ね釣瓶が上がったり下がったりするように、火の玉が動いたことを指す。]

 これを婆々に問へば、

「羽子《はご》を、つきたるなり。」

と答ふ。

 又、一日、婆々、

「歌を、よみし。」

とて、紙筆を乞ひつゝ書つくるを見るに、

 朝顏の朝は色よく咲《さき》ぬれど

      夕《ゆふべ》は盡《つく》るものとこそしれ

婆々は、無筆にて、歌など、よむべき者にあらず。

 こも、又、狸のわざなるべし。

 又、一日、婆々が畫《ゑ》をかきて、彼小女に、あたへしを見るに、蝙蝠《かうもり》に旭《あさひ》をゑがきて、賛、あり。その賛に、

 日にも身をひそめつゝしむかはほりの

      よをつゝがなくとびかよふなり

と有。

 婆々、畫を書《かく》者にあらず。是も亦、古狸のわざなり。

 かくて、ますます、ものおほく、たうべること、三たび每に、八、九椀、その間には、芳野團子《よしのだんご》、五、六本、ほどもなく、金鍔・燒餠、二、三十など、かくのごとく、日々、健啖なれども、病ひは聊《いささか》も、おきる氣色、なし。

 かくて、一夕、婆々がふしどに、光明、赫奕《かくやく》として、紫雲、起《おこ》り、三尊の彌陀、あらはれて、婆々の手を引くがごとく、將《ゐ》てゆき給ふと、見えげれば、例の小女、おどろき、おそれ、あはて、まどひ、走り來りて、あるじ夫婦に

「しかじか。」

と告《つげ》しかば、あるじ雲峰、その妻と共に走りて、其《その》ふし戶にゆき見れば、婆々は、うまいして、目に、さえぎる者、なし。

[やぶちゃん注:「うまい」「熟寢」。熟睡していること。]

 さる程に、このとし【文政十二。】、十一月二日の朝、雲峰の妻、良人に告《つぐ》るやう、

「昨夜、ふりたる狸の、婆々のふし戶より出《いで》て、座中をめぐり、戶節の透《すき》より、出でゆきにき。」

といふ。

[やぶちゃん注:「文政十二」年「十一月二日」はグレゴリオ暦で一八二九年十一月二十七日。]

 婆々は、其儘、いき、絕《たえ》けり。

 思ふに、始め、婆々が頓死せし時、其なきがらに、老狸《らうり》のつきて、ありしなり。こは、雲峰の話せられしを、そがまゝに書《かき》しるすになん【「實は、雲峰のしるせしなり。」と、ある人、いひける。さもあらんか。】

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げ。]

 原本、この下に、『彼小女の夢に、古狸《ふるだぬき》の見えて、金牌《きんぱい》を與へし。』抔といふことあれど、そは、うけられぬ事なれば、こゝには省きたり。こゝにしるすごとくにはあらねど、「此狸の怪、ありし事は、そら言《ごと》ならず。」と、ある人、いひけり。原文の、くだくしきを謄寫《とうしや》の折《をり》、筆に任《まか》して、文を易《かへ》たる所、あり。さばれ、その事は、一つも、もらさで、元のまゝにも、のせしなり。奇を好む者の爲には、是も話柄の一つなるべし。

 庚寅秋九月、燈下、借謄了《かりうつしをはんぬ》。

[やぶちゃん注:「庚寅」文政十三年。この文政十三年は十二月十日(一八三一年一月二十三日)に天保に改元している。

 細部の描写が、妖しくも細かく、江戸後期の事実怪談として、よく出来ている。所謂、「憑き物」で、妄想性が強度で、しかもそれ自体が閉じられた大系を持った重い精神疾患の老女であったと思われ、また、悪いことに、細菌感染によって身体に大きな壊疽が生じている辺りの描写は、なかなかにエグいものの、逆にリアルさがある。

 なお、私の「Facebook」の友達が運営しておられる素敵なサイト「DEEP AZABU」の、こちらの「麻布大番町奇談」(二〇一五年九月六日公開)に全文の現代語訳が載り、大岡雲峰の旧自邸位置も示されてあるので、是非、読まれたい。私も「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「 千駄ヶ谷 鮫橋 四ッ谷繪圖」(嘉永三(一八五〇)年版)で確認したところ、中央やや下方の「森川紀伊守」屋敷の左下方(この地図は左上方が北)角に食い込むようにある「大岡金之助」がそこであり、グーグル・マップ・データでは、現在のここの中央附近(「文学座」の西方外、慶応大学キャンパス北方外。東京都新宿区大京町(だいきょうちょう))に当たるものと推定される。]

2022/12/12

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「文政十三年雜說幷狂詩二編」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説拾遺」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上段二行目)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 以下は、所謂、「シーボルト事件」ドイツ人医師フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold 一七九六年~一八六六年:標準ドイツ語での発音を転写する「ズィーボルト」「ジーボルト」。彼は自らオランダ人と偽って入国している)の国外追放事件を扱っている。小学館「日本大百科全書」によれば、文政一一(一八二八)年九月、オランダ商館付医官シーボルトが任期を終えて帰国しようとした際に、たまたま起こった暴風雨のために乗船が難破し、積み荷が調べられた。そのオランダへ持ち帰る荷物のうちに、伊能忠敬作成の日本地図など、多くの禁制品のあることが発覚し、事件が起こった。取調べは江戸と長崎で行われ、長引き、シーボルトは凡そ一年間、出島に拘禁され、翌年九月二十五日(グレゴリオ暦十月二十二日)、「日本御構(おかまへ)」(追放)の判決を受け、同年十二月、日本より追放された。この事件に連座した日本人は、江戸では書物奉行兼天文方高橋作左衛門景保(入牢となって吟味中に病死)、奥医師土生玄碩(はぶげんせき:家禄及び屋敷没収)、長崎屋源右衛門など。長崎では門人の二宮敬作、高良斎(こうりょうさい)、出島絵師川原登与助(とよすけ:川原慶賀(けいが))を始め、通詞(つうじ)の馬場為八郎・吉雄(よしお)忠次郎・稲部市五郎・堀儀左衛門・末永甚左衛門・岩瀬弥右衛門・同弥七郎から、召使いに至るまで、実に五十数人の多数に上った、とある。本書では、サイド・ストーリーとして、先行する京都大地震に関わる記事「風怪狀」で、高橋景保の本件での処罰がちらりと出たところで注している。ウィキの「シーボルト事件」が、より詳しい。また、大船住人(おおふなすみと)氏のサイト「大船庵」の「シーボルト事件関係者判決文(文政13年)」(原文は内閣文庫の「文政雑記」からの翻刻で、右に現代語訳が載る)が載り、読解の大いなる助けになる。]

 

   ○文政十三年雜說、幷《ならびに》、狂詩二編

申渡之覺。

        御書物奉行天文方兼帶

              高橋作左衞門

地誌・蘭書、和解等の御用相勤罷在候に付、御用立候書籍取出差上候はゞ、御爲筋《おんためのすぢ》にも可相成と、兼て心掛の由に申立候得共、去る戌年[やぶちゃん注:二年前の文政十一年。]、江戶參府の阿蘭陀人、外科シーボルト儀、魯西亞人著述の書籍、阿蘭陀屬國の新圖、所持いたし候趣、通詞吉雄忠次郞より承り及、右書類、手に入、和解致、差上度《さしあげたき》一圖に存込《ぞんじこみ》、懇望致し候得ども、容易に不手放候間、忍び候て、度々、旅宿に罷越、懇意を結び候上、右書籍、交易の儀、申談候處、シーボルト儀、「日本、幷、蝦夷地の宜《よろし》き圖、有ㇾ之候はゞ、取替可ㇾ申。」旨、申聞、右地圖、異國へ相渡候儀は、御制禁に可ㇾ有ㇾ之哉《や》とは存候得共、右に拘《かかは》り、珍書、取失ひ候も殘念に存、下河邊林右衞門《しもかはべ りんゑもん》に申付、先年、御用仕立候、測量の日本、幷、蝦夷地圖地名等、差圖いたし、新規に仕立《したて》させ、度々、差送り、右書籍、貰請《もらひうけ》、幷、「東韃紀行」、「北夷紀行」、九州小倉・下の關邊《あたり》の測量切繪圖等、貸遣《かしつかは》し、其後、シーボルトより、「日本圖、蝦夷、幷、カラフト、クナシリより、ヱトロフ、ウルツプ邊迄、引續《ひきつづき》候縮圖、仕立吳《したてくれ》候。」樣、申越候に付、指贈候心得《さしおくりさふらふこころえ》にて、是又、林右衞門に申付、仕立出來《しゆつらい》致し候得ども、『望《のぞみ》の書類、手に入候上は、最早、差遣候に不ㇾ及儀。』と、追《おつ》て心付《こころづき》、右繪圖は不差贈候處、右の次第、及露顯、御詮議の上、シーボルト、歸國不ㇾ致内、地圖其他共、取上候得共、右體《みぎてい》不容易品《やういならざるしな》、阿蘭陀へ相渡、重き御國禁を冒《おかし》候段、不屆の至《いたり》、剩《あまつさへ》、平日、役所御入用筋の儀、假令《たとひ》、私慾は無ㇾ之共《これ、なけれども》、勝手向入用《かつてむき、いりよう》に打込《うちこみ》、遣拂《つかひはらひ》、紛敷取計《まぎらはしきとりはからひ》、其上、身持不愼《みもちふしん》の儀も有ㇾ之、旁以《かたはらもつて》、御旗本の身分に有ㇾ之間敷《これ、あるまじき》儀、重々不屆の至に付、存命に候得ば、死罪被仰付者也。

  三月

[やぶちゃん注:「魯西亞人著述の書籍」冒頭注で紹介した大船氏の注に、『ロシアの提督クルーゼンシュテルンの世界周航地誌』とある。

「吉雄忠次郎」(天明七(一七八七)年~天保四(一八三三)年)は、まめ@よねざわ氏のブログ「米沢の歴史を見える化」の「長崎のオランダ通詞 吉雄忠次郎」の『米沢市史編集資料―米沢人国記』第十号から引用された松野良寅氏の記事によれば、『名は永慮』とある。但し、講談社「デジタル版 日本人名大辞典」では永宣。『高橋景保とシーボルトの仲介役を果たした吉雄忠次郎も捕えられ、天保元年(一八三〇)閏三月二十五日に審判が終るとともに江戸町奉行に引渡され、四月六日長崎をたった。五月二十五日江戸に着いた忠次郎は、永禁を申し渡され、米沢新田上杉佐渡守勝義にお預けとなり、流人の取扱いを受けた』。『米沢に流された忠次郎は、代官小島次左衛門の蔵役人渋谷安太郎(鉄砲屋町)の座敷牢に入れられ、次いで福田町の上村家に、さらに山上通町の石坂家に移され、天保四年二月二十九日、この石坂広次宅で死亡した』とあり、以下には、流人としての扱いの厳しい掟(特に自殺防止のそれが凄い)も記されてある。一読されたい。

「旅宿」同じく大船氏の注に、『江戸の長崎屋』のことで、『オランダ商館長が四年毎に参府した時の定宿』とあり、別な注の『長崎屋源右衛門』には、『高橋景保が内密にシーボルトと会っている事や、シーボルトの治療を受けるため』、『多くの人々が宿に来ることを放置した廉で』、『五十日の手鎖(手を合わせて瓢型の鉄製手錠をかける)を言渡された』とある。

「東韃紀行」(とうだつきかう)は「東韃地方紀行」で間宮林蔵の旅行記。全三巻。文化五(一八〇八)年から翌年に亙る樺太(サハリン)・黒竜江(アムール川)下流デレンに至る踏査を、師の村上島之丞の養子村上貞助に口述を筆記させたもの。文化七(一八一〇)年に完成した。シーボルトは後、その著「日本」(‘Nippon’)にこれを訳述してヨーロッパに紹介している。

「北夷紀行」は「北夷分界餘話」で同じく間宮林蔵が「東韃地方紀行」とともに仕上げた旅行記。樺太探検についてパートを口述したもの。

「下河邊林右衞門」作左衛門の部下であった暦作測量御用手伝出役。大船氏の記事に彼の処分申渡書によれば、『中追放(ちゆうついはう)』の処罰を受けている。江戸時代の追放刑の一つで、重追放と軽追放の中間のもの。罪人の田畑・家屋敷を没収し、犯罪地・住居地及び武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曽路筋・下野・甲斐・駿河に入ることを禁じ、又は、江戸十里四方外に追放された。

「身持不愼の儀」大船氏の注に、『次の下川辺判決文にあるように部下の娘を妾同様に使った事か?』とある。当該部は(一部の漢字を正字化した)、『殊ニ娘迄作左衞門義妾同樣召仕候義者乍察、彼是申候ハハ勤向差障ニ可相成と存候迚、不存分ニ致置』いたことらしい。

「旁以」如何なる見地からみても。

「存命に候得ば、死罪被仰付者也」この申し渡しは文政十三年三月のものであるが、高橋景保は文政十二年二月十六日(一八二九年三月二〇日)に伝馬町牢屋敷で獄死している。国禁を冒して極秘文書を漏洩したのであるが、高橋が幕閣の中でも実務上、相応の実績を成していた人物であったことと、連座する者が異様に膨れ上がっていたことから、申し渡しが遅れたものかと思われる。高橋の遺体の扱われ方の酸鼻を越えるそれは、後にも出るが、「風怪狀」で既に注した。]

申渡之覺。

              高 橋 小 太 郞

其方儀、父作左衞門、去る戊年、江戶參府の阿蘭陀人、異國の珍書、繪圖等、所持いたし候趣及ㇾ承、右書類、手に入、和解いたし差上候はゞ、御用に可ㇾ立所と存込《ぞんじこみ》、懇望の餘り、彼之者、望に從ひ、御制禁の儀と乍心付、日本、幷、蝦夷地測量の圖、其他、品々、相贈、右書類、貰請候段、重き御國禁を冒し、不屆の至、剩、役所御入用筋の儀、假令、私慾無ㇾ之共、勝手向入用と打込、遣拂候段、紛敷取計、殊に身持不愼の儀ども有ㇾ之、其方儀は「何事も不ㇾ存。」旨申立候得共、作左衞門、右體、不屆之始末にも不心付、殊に身持等の儀は、父の儀に候共、心付、異見をも可ㇾ申處、無其儀、畢竟、等閑《なほざり》の心得方、不埒の至に付、作左衞門、存命に候得ば、死罪被仰付ものに付、其方儀、遠島被仰付もの也。

  三月

[やぶちゃん注:「高橋小太郞」景保の長男。先の引用の松野良寅氏の記事では『景僕』とある(読み不詳)。年齢不詳。父の種々の行為を「全く知らなかった」と述べており、さらに父の不行跡一般に対して異見をしなかったことを咎められているからには、既に成年であったのであろう。]

          高橋作左衞門二男

              高 橋 作 次 郞

父作左衞門、不屆の所行有ㇾ之に付、存命に候得ば、死罪被仰付ものに付、其方儀、遠島被申付者也。

  三月

[やぶちゃん注:同じく先の引用の松野氏の記事では『景福』とある(読み不詳。「かげよし」「かげとみ」か)。年齢不詳。]

私曰《わたくしにいふ》、高橋作左衞門、文政十一年子十月十日に被召出御詮議の上、あがり屋え、被ㇾ遣候處、御詮議中、去丑年、牢死いたし候間、死骸は鹽詰に、いたしおかれ、當寅三月、右一件、落着。文政十三庚寅年三月也。

長崎通辯吉雄忠次郞、何がし爲八、外一人【姓名、忘却。】、右三人は、一人づゝ、大名え、御預け、遠島同樣の心得にて、嚴敷押籠置《きぎしくおしこめおき》候樣被仰付候由。

奧御醫師土生玄碩は、右におなじ筋の御咎ながら、高橋一件には、あらず。是は、以前に落着、改易になりし由也。吉雄忠次郞以下の被仰渡《おほせわたさる》の寫し、未ㇾ見ㇾ之。傳聞のまゝ、識ㇾ之《これをしるす》。阿蘭陀人シーボルト儀は、高橋作左衞門、幷に、土生玄碩より、交易の地圖、幷、御時服等、御取上げ、御詮議中、於長崎入牢、其後、赦免、歸國。

[やぶちゃん注:「何がし爲八、外一人」孰れも不詳。大船氏の下川辺林右衛門の申し渡しの下方の注の『その他の関連処分者』に『馬場為三郎、吉雄忠次郎、堀義左衛門、稲部市五郎はオランダ通詞で高橋―シーボルトの仲介をした旨で年番通詞へ預け』とはあった。

「土生玄碩」(宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年)は眼科医。安芸国高田郡吉田(現在の広島県吉田町)の医家土生義辰の長男。土生家は、代々、この地で眼科を開業していた。名は義寿。初めは医名を玄道と称し、後に玄碩と改名した。安永七(一七七八)年、大坂の「楢林塾」に入り、さらに京都の和田東郭に学んで、帰郷。家伝の漢方眼科に飽き足らず、再び大坂に出て、三井元孺・高充国などに就いて、新知識を受け、特に眼科手術を修得し、帰郷・開業した。享和三(一八〇三)年には広島藩藩医となり、江戸にあった藩主の六女教姫の眼病を治療して名声を挙げ、そのまま江戸にとどまり、眼科の名医を以って世に知られた。文化七(一八一〇)年、江戸幕府奥医師、同十三年、法眼(ほうげん)に叙せられる。光学的虹彩切除術の前駆とみられる仮瞳孔術を考案し、蘭館医シーボルトから散瞳薬の伝授を受けてもいるが、その謝礼として、当時、国禁の品であった将軍家紋服を贈与したことが発覚(シーボルト事件連座)、改易・財産没収、終身禁固刑となったが、天保八(一八三七)年には禁固を解かれて、江戸深川に隠居した。遺著に門弟が師説を集録した「迎翠堂漫録」・「師談録」などがある(以上は朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

一、己丑[やぶちゃん注:文政十二年。]の春、新板、十遍舍一九作の草雙紙、「神風和國の功し《じんぷうやまとのいさをし》」、二册物、蒙古入寇の事を作るといへども、高橋作左衞門を諷《ふう》して、素襖《すあを》着たる武者の畫に、劍かたばみを七曜の劍にしたれば、「いかゞ敷《しき》」由にて、同年の春二月中、草紙類、改《あらためて》、名主より、相達《あひたつ》して、絕板せられ畢《をはんぬ》。此板元は、地本問屋岩戶屋喜三郞也。但し、板元作者等、御咎、なし。

[やぶちゃん注:加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「筆禍『神風倭国功』(ひっか じんぷうやまとのいさおし)」に、以上の記載が引かれ、本合巻物は『それを踏まえたものとされたのであろう。剣片喰(ケンカタバミ)は高橋景時の家紋、七曜は北斗七星だから、これで天文方の高橋景時を擬えたものと、改名主たちは判断したのであろうか』とあった。元合巻が読めないので、これ以上は注のしようがない。

 以上の戯詩は、底本では、ベタで各句末に読点を打って続いているが、一段で、かく示した。]

   一、今般一件無題    疎 漏 仙

萬蕪繫獄鳴牙齕(はかみ)

家探尋出隱密文

出役殺置掠手當

女房辭退陷瑕瑾

妻妾同伴鯨音閣

時賄珊瑚本國裙

誘引歷々不知數

就中軍扇與輿紋

此事無是非只矣

大金齎取酒日醮

全盛奢侈人犢鼻

貞女蕩馴奇茱薰

吉利志丹婆天連

欝々朦々意遂曛

可有宗門嚴法度

茫然次第成暗雲

紀行爲囮占逸物

萬里歸帆驕功勳

飛脚書狀次第走

縮圖風說隔年間

元是淺心楚忽至

不思罪科謀反筋

縱使當人醢骨肉

先刻銅鏤奈配分

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

右戊子[やぶちゃん注:文政十一年。]冬日、或人に借抄す。萬蕪は高作の別號。鯨音閣は本町長崎屋の堂號也といふ。按ずるに、右の長篇脫句あり。別に寫し置たるを失ひたれば、異日、尋出たらんとき、補ふべし。 

[やぶちゃん注: 「牙齕」へのルビ「はかみ」以外の読みはない。訓読を自然流で試みるが、これ、意味の分からないところは多過ぎる。読みは胡麻化しているので、判って読んでいるわけではなく、スーダラ無責任似非訓読と心得られたい。どなたか、適切な訓読を御教授あれかし。因みに、馬琴オ附記の「高作」は高橋作左衛門の号というのだが、辞書では彼の号は「蛮蕪(ばんぶ)」または「観巣(かんそう)」とある。或いは原本活字本の「蠻」の字の誤読かも知れぬし、巧妙にズラシを入れたものか。

「疎漏仙」不詳。

   *

萬蕪(ばんぶ) 獄に繫がれ 牙齕(はがみ)を鳴らす

家 探尋(たんじん)すれば 隱密(おんみつ)の文(ふみ) 出づ

出役(しゆつやく) 殺し置かれ 手當を掠(うば)はる

女房 辭退して 瑕瑾(かきん)に陷(おちい)り

妻妾(さいしやう) 同伴して 鯨音閣(げいおんかく)

時に 珊瑚を賄ふ 本國の裙(もすそ:をんな)に

誘引 歷々として 數知れず

就中(なかんづく) 軍扇 輿(こし)の紋を與へり

此の事 是非無きのみ

大金 齎されて 酒を取る日は 醮(しやう)たり

全盛の奢侈(しやし)は 人の犢鼻(とくび:ふんどし)

貞女 蕩馴(たうじゆん)して 奇(く)しき茱(ぐみ) 薰る

吉利志丹(きりしたん) 婆天連(ばてれん)

欝々 朦々 意 遂に曛(たそがれ)

宗門に有るべきは 嚴しき法度(はつと)なるも

茫然とっして 次第に暗雲と成れり

紀行 囮(おとり)と爲(な)して 逸物(いつぶつ)を占(しめ)んとし

萬里 歸帆 功勳に驕り

飛脚 書狀 次第に走る

縮圖 風說 年を隔つる間(あひだ)

元 是れ 淺心にして 楚(すはえ) 忽ちに至る

思はざる罪科 謀反(ばうはん)の筋(すぢ)

縱(たと)ひ 當人をして 醢(ひしほ)の骨肉(こつにく)とせしむも

先刻の銅鏤(どうる) 奈(なん)ぞ配分せんや

   *

「醮」中国古代の天神に対する祭祀や饗食のことか。ウィキの「醮」によれば、それらの神は多く星辰を、その居所とすると考えられたため、醮は必然的に星辰を祀り、これに酒肴を供えた。本来の醮は、婚儀や加冠に際して行われた儀礼で、祖廟に於いて、酒と脯・を用いて行われたとあるから、塩漬にされた高橋のそれに引っ掛けたものかと私は思った。よう判りません。

 以下の判じ物式の戯詩の図示は、当初、底本(改頁で分離してしまっている)を参考に、全くの活字のタイピングで、そのまま電子化しようとしたのだが、横軸罫線や「初」「終」の縮小文字を入れると、どうしてもブラウザ上のズレが生じてしまい、到底、綺麗に全体を示すことが不可能であるあることが判った。しかし、本画像は、『インターネット公開(裁定)著作権法第67条第1項により文化庁長官裁定を受けて公開』となっており、その部分をトリミングして合成し、字や罫線の一部のスレやズレをソフトで加工して、一応、作成しては見たものの、調べてみると、文化庁裁定の活字化された一部の場合は、著作権法上の抵触する可能性があるため、それはやめて(著作権の問題とは別に、原本がやや古いため、総てのスレやズレの補正が完全には出来なかったことが最大の不満であった)、仕切り直し、★底本の文字と罫線を、ワードで適切な大きさの罫線も特に選び、タイピングして電子化し、それを縦書に変更したものを、スクリー・ショットで画像として取り入れ、さらにそれを画像ソフトで細かく加工処理するという、かなり迂遠な作業を行って、以下に掲げた。個人的には、著作権に全く触れることなく、しかも見栄えも原画像より遙かによく、正直、『かなり左右に長めかな? って思いはするが(Wordでいろいろ試みたが、行間を見かけ上で狭めることが何故か出来なかった)、かなり、いい線、いってるぜ!』と自負している。にしても、こうした言葉遊びの場合、指示線を無視して普通に右から読んでも、意味がとれてこそ、真の戯詩と言えるのだが、どうもそこまで凝って作ってはいないらしい。

 


Kaibousitategaki

 

 右、流行野馬臺詩。

 小川町評判、土浦侯、馬に蹴られし事也。雲峰婆婆、古狸に喰る、右記事一篇有錄下

右庚寅秋八月、ある人に借抄す。

右、讀則《どくそくす》。

[やぶちゃん注:「野馬臺詩」(やばたいし/やまたいし)は平安から室町に掛けて流行した予言めいた怪しげな詩の総称。梁の予言者宝誌和尚の作とされるが、偽書の可能性が高い。日本で作られたものとされるが、中国が元とする説もある(当該ウィキを参照した)。これはそれを真似たパロディ漢詩。

 以下は三段組みで、各句に読点が打たれてあるが、読点を除去し、一段で示した。この「讀則」とは、その記号の規「則」に従って「讀」み直した、という意であろう。以下、漢詩の前後を一行空けた。]

 

通人小紋薄羽織

薩布太布藤組笠

貂皮再來亦責寺

此節和尙必至愼

當年御祭存外好

牧狩水滸松木踊

四人生捕大力士

馬蹄小川町評判

逃出被叱寄合咄

本所狼煙々裏苦

高松六尺成三尺

亡目高利爲闇打

惡口別當殺玄關

小婦悞倉千兩箱

雲峰婆々古狸喰

雨止殘暑世上穩

日日日暮御咄之聲

 

[やぶちゃん注:同前の仕儀で訓読を試みる。やはり、全くヒントがないので訳和布(わけわかめ)である。「雲峰婆婆、古狸に喰る、右記事一篇有錄下」のみは、次の条「麻布大番町奇談」で語られるので、そちらを電子化するまでお待ちあれ。

   *

通人の小紋 薄羽織(うすばおり)

薩布(さつふ) 太布(たふ) 藤組笠(ふぢくみがさ)

貂(てん)の皮 再び來つて 亦 寺を責む

此の節 和尙 必ず 至つて愼み

當年 御祭 存外 好(よろ)し

牧狩り 水滸 松木踊り

四人 生け捕り 大力士

馬蹄 小川町 評判たり

逃げ出でて 叱られ 寄合咄(よりあひばなし)

本所の狼煙(のろし)の煙の裏 苦しく

高松 六尺 三尺と成る

亡目(めくら)の高利 闇打(やみうち)に爲(な)し

惡口(あつこう) 別當 玄關に殺さる

小婦 倉(くら)を悞(たが)へて 千兩箱

雲峰の婆々 古狸に喰(く)はる

雨 止みて 殘暑 世上 穩かなり

日日(ひび) 日暮(ひぐれ) 御咄(おはなし)の聲

   *

「薩布」「宮古上布」や「八重山上布」を江戸以前は、かく呼称した。薩政時代まで、宮古諸島と八重山諸島は実際には薩摩の支配下にあり、琉球の織物は、総て、薩摩を経由したことによる。苧麻(ちょま:イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ(苧)Boehmeria nivea var. nipononivea のこと。しつこい雑草として嫌われるが、茎の皮からは衣類・紙・漁網にまで利用できる丈夫な靭皮繊維が取れることから、古くから利用されてきた身近な植物であった。「紵(お)」「苧(ちょ)」「青苧(あおそ)」「山紵(やまお)」「真麻(まお)」など、異名が多い。ここはウィキの「カラムシ」に拠った)。)を手紡ぎにして、細密に織り上げた上質の麻布である(以上は「創美苑」公式サイト内の「きもの用語大全」の「薩摩上布」に拠った)。

「太布」徳島県南西部の山間部に位置する那賀町(旧木頭村(きとうそん)。現在の徳島県那賀郡那賀町木頭。グーグル・マップ・データ)に伝承されてきた、コウゾ(楮:クワ科コウゾ属コウゾ雑種コウゾ Broussonetia kazinoki × Broussonetia papyrifera 。ヒメコウゾ(学名前者)とカジノキ(同後者)の雑種)の樹皮から繊維を採って製した目の粗い布で、「阿波の太布」と呼ばれたそれであろう。太布は古代から織られた堅牢な布で、徳島県では、剱山麓の祖谷地方や旧木頭村が主な産地で、以上の名で古くから知られてきた。その用途は、仕事着を始め、穀物や弁当などを入れる袋・畳の縁などで、丈夫で長期の使用に耐え得る実用衣料として使用されてきた(以上の本文部はサイト「文化遺産オンライン」の「阿波の太布製造技術」に拠った)。

「藤組笠」藤(フジ)のつるを編んで作った笠。単に「藤笠」とも呼ぶ。元文(一七三六年~一七四一年)頃に流行し、若年の武士・医師・僧侶などが多く用いられたという。

「貂の皮 再び來つて 亦 寺を責む」意味不明。

「牧狩り」「水滸」源頼朝の富士の牧狩(曾我兄弟仇討ち)や「水滸伝」を入れ込んだ祭りの出し物か。

「松木踊り」大館市松木(グーグル・マップ・データ)に伝わる享保二〇(一七三五)年に始まったされる「大関東流唐獅子踊(だいかんとうりゅうからじしおど)り」の流れを組む獅子舞いのそれか。「秋田民俗芸能アーカイブズ」こちらで動画も見られる。解説に『この獅子踊りは佐竹藩主の前でも披露できる格式の高いものであったともいわれた』とある。

「四人 生け捕り 大力士」これが「シーボルト事件」のチャチャか? 大船氏の記事の下川辺林右衛門の判決に注があり、『川口源次外四人:吉川克蔵、門谷清次郎、永井甚左衛門、岡田東輔。何れも景保配下地図作成チームで同心クラス。シーボルトに渡すべき地図を製作した廉で川口、吉川、門谷の三人は江戸十里四方追放(日本橋から四方五里以内の居住を禁じられる)、永井は江戸払(品川、板橋、千住、本所、深川、四谷大木戸以内の居住を禁じられる)、岡田は自殺』とあることからの思いつきに過ぎない。

「馬蹄 小川町 評判たり」馬琴が「小川町評判、土浦侯、馬に蹴られし事也」と書いている一件だが、不詳。文政十三年当時の藩主は土屋彦直である。

「逃げ出でて 叱られ 寄合咄」これは、加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「筆禍『神風倭国功』」の方の話のチャチャか。

「本所の狼煙の煙の裏 苦しく」「高松 六尺 三尺と成る」「亡目(めくら)の高利 闇打(やみうち)に爲(な)し」「惡口(あつこう) 別當 玄關に殺さる」「小婦 倉(くら)を悞(たが)へて 千兩箱」総て不詳。何かの奇聞・巷説・事件をもとにしたものとは思われるが、私には判らない。というより、この詩全体が、古今東西の似非占い師の朧な意味深にして阿呆臭いそれと酷似しており、コジツケれば、何でも関係があるかのように読めるだけの話かも知れぬ。何かピッタリくるものがあるとなら、識者の御教授を乞うものである。]

2022/12/11

『明治大正文學全集 萩原朔太郞篇』萩原朔太郞自註

 

[やぶちゃん注:本篇は春陽堂が昭和六(一九三一)年十二月に刊行した、シリーズ『明治大正文學全集』の一冊『萩原朔太郞篇』に萩原朔太郎自身が、自作詩篇を掲げながら、註したものである。朔太郎が、このように纏まってかなり詳しい自註をしているのは、比較的珍しいものと思われる。但し、私は、以前に述べたが、萩原朔太郎は自身の旧作を、後の新しい詩集やアンソロジー採用の際に、盛んに手を入れて、改変してしまっている。而して、私はそれらは、長生きした志賀直哉が後に同じように改変してしまったのと同じように――老害的改悪傾向――が強いと感じている。但し、冒頭の前書で言っているように、以下の朔太郎が挙げる詩篇は、朔太郎が最も自身作とするもので、されば、大きな改変はないようではある(実際には、ミスか、確信犯か、判らない改変があるのだが、校訂本文では、その辺りが綿密に校訂・整序されてある)。一応、掲げた詩の初出形や決定稿・草稿等をリンクさせておく。

 底本は、筑摩書房版初版「萩原朔太郞全集」第十四卷(昭和五三(一九七八)年刊)の「詩論・講座」パートに載るそれを用いた。但し、詩篇提示の箇所では、全体が二字下げになっているものの、これだと、ブログ・ブラウザでは不都合が生じるので、全部、行頭に引き揚げてある。実は、この校訂本文は初出のものを驚くべき数の校訂が行われている。誤字・脱字その他、その中には引用詩篇の表記や読みにも及んでおり、当初は、初出に復元して示そうと思ったが、あまりに多過ぎ、それをいちいち注していると、痙攣的なエンドレスの注になりそうなので、今回は初出形(纏まって示されてはおらず、校異のリストが当該巻の後方に延々と続く形で纏められてある)ではなく、上記の校訂本文を採用した。この場合だけは、彼の改悪を批判する私には、底本全集の強制消毒に文句を言ってきた私としては、例外的に許される校訂本文ということになった(しかし、やはり「々」の正字化という校訂絶対規定は、日本語としては、却って違和感がある)。

 

 

      前書

 

 前に新潮社で編輯した「現代詩人全集」及び改造牡の「日本文學全集」中の詩人號に於て、私は過去の作品中から、比較的自信のある者だけを自選した。ところが私の自選は、友人間に甚だ不評であり、或る人からは惡詩惡選だとさへ非難された。しかし私としては、自分の藝術的批判に訴へ、今尙斷乎として自選の正しさを疑はない。それ故春陽堂編纂のこの書に於ても、同じくまた過去の作品から、槪ね前出の者を再選する外にないのである。しかしながら私としては、この機會に自選詩の自註を試み、過去の作品に於て内密に用意してゐた、自分の藝術的方法と構成と、倂せて主題の意識的に意圖した者とを、すべて種明しにして公表したいと思ふのである。もとよりさうした自註によつて、讀者が私を理解する者とは思つて居ないし、且つまたそんな事實も有り得はしない。ただ私自身として、自ら步いて來た藝術里程を、自註の形式で告白することに盡るのである。

 

 

    沼澤地方

 

蛙どものむらがつてゐる

さびしい沼澤地方をめぐり步いた。

日は空に寒く

どこでもぬかるみがじめじめした道につづいた。

わたしは獸(けだもの)のやうに靴をひきずり

あるいは悲しげなる部落をたづねて

だらしもなく 懶惰(らんだ)のおそろしい夢におぼれた。

 

ああ 浦!

もうぼくたちの別れをつげよう

あひびきの日の木小屋のほとりで

おまへは恐れにちぢまり 猫の子のやうにふるへてゐた。

あの灰色の空の下で

いつでも時計のやうに鳴つてゐる

浦!

ふしぎなさびしい心臟よ。

浦! ふたたび去りてまた逢ふ時もないのに。

 

[やぶちゃん注:「懶惰」の「懶」は(つくり)が「頼」の字になった異体字(「グリフウィキ」のこれ)であるが、表示出来ないので「懶」とした。]

 

 

    猫の死骸

 

海綿のやうな景色のなかで

しつとりと水氣にふくらんでゐる。

どこにも人畜のすがたは見えず

へんにかなしげなる水車が泣いてゐるやうす。

さうして朦朧とした柳のかげから

やさしい待びとのすがたが見えるよ。

うすい肩かけにからだをつつみ

びれいな瓦斯體の衣裳をひきずり

しづかに心靈のやうにさまよつてゐる。

ああ浦 さびしい女!

「あなた いつも遲いのね」

ぼくらは過去もない未來もない

さうして現實のものから消えてしまつた。……

浦!

このへんてこに見える景色のなかヘ

泥猫の死骸を埋めておやりよ。

 

[やぶちゃん注:以上の太字下線は、底本では、傍点「●」である。以下の自註の太字は傍点「﹅」である。]

 

(自註)

「猫の死骸」及び「沼澤地方」は、共に一種の象微的戀愛詩である。二篇を通じて、同じ一人の女Ula(浦)が出てくる。このUla(浦)は現實の女性でなく、戀愛詩のイメーヂの中で呼吸をして居る、瓦斯體の衣裳をきた幽靈の女、鮮血の情緖に塗られた戀しく惱ましい女である。そのなつかしい女性は、いつも私にとつて音樂のやうに感じられる。さうして、悲しくやるせなく、過去と現實と未來につらなる、時間の永遠の曆の中で、惱ましく呼吸してゐる音樂である。

 それ故に詩のモチーフは、主としてUlaといふ言葉の音韻にこめられてある。讀者にして、もしUlaの音樂的情緖を、その發韻から感受することが出來るならば、詩の主想をはつきりと摑むことが出來るだらうし、もしその惑受が及ばなかつたら、私の詩の現はす意味が、全體として解らないことになるでせう。つまり言ヘば私のUlaは、作詩の構成に於ける樣式上の手法として、ポオの「大鴉」に於けるNevermorae や、あのれおなあどやと同じ事になつてるのです。ポオの詩では、さうした言葉の反覆から來る、或る物侘しい墓場から吹いてくる風のやうなのすたるぢやの音樂的心像が、一篇のモチーフとなつて居るのです。

[やぶちゃん注:最終段落で常体が途中から敬体に変じてしまっているのは、ママである。

「沼澤地方」初出は大正一四(一九二五)年二月発行の『改造』。詩集の最初の決定稿は『第一書房版「萩原朔太郞詩集」(初収録詩篇二十一篇分その他)正規表現版 「靑猫(以後)」 沼澤地方』。私の電子化した草稿へのリンクも張ってある。

「猫の死骸」初出は大正一三(一九二四)年八月号『女性改造』。詩集の最初の決定稿は『第一書房版「萩原朔太郞詩集」(初収録詩篇二十一篇分その他)正規表現版 「靑猫(以後)」 猫の死骸』。同前(以下もほぼ同じなので、この注は附さない)。

『ポオの「大鴉」に於けるNevermorae』アメリカの詩人・小説家エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe 一八〇九年~一八四九年)が一八四五年に発表した特にポーの詩篇の中では最も優れた傑作である物語詩篇。‘The Raven’(大鴉(歴史的仮名遣:おほがらす))。主人公の青年は恋人レノーアを失い、嘆き悲しんでいるが、大鴉はパラス(PallasAthena(アテーナー))の胸像の上にとまって、「Nevermore」(「二度と無い」)という言葉を繰り返して、彼を絶望の果てへと導く。英文サイトのこちらで原詩が読める。また、国立国会図書館デジタルコレクションの佐藤一英訳「ポオ全詩集」(大正一二(一九二三)年聚英閣刊)のここから、訳詩が読める。

れおなあど」レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ(Leonardo di ser Piero da Vinci 一四五二年~一五一九年)の作品であるが、何を指しているのか、不明。私は個人的には、直ちに想起したのは、‘La Scapigliata(「ほつれ髪の女」)であった(英文の彼のウィキの当該作品の画像)。次に想起したのは、偏愛するアンドレイ・タルコフスキイ(Андре́й Арсе́ньевич Тарко́вский 一九三二年~一九八六年)の「鏡」(Зеркало:一九七五年)に使用されたGinevra de' Benci(「ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像」)であった。]

 

 

    沿海地方

 

馬や駱駝のあちこちする

光線のわびしい沿海地方にまぎれてきた。

交易をする市場はないし

どこで毛布(けつと)を賣りつけることもできはしない。

店舖もなく

さびしい天幕(てんまく)が砂地の上にならんでゐる。

どうしてこんな時刻を通行しよう

土人のおそろしい兇器のやうに

いろいろな呪文がそこらいつぱいにかかつてしまつた。

景色はもうろうとして暗くなるし

へんてこなる砂風(すなかぜ)がぐるぐるとうづをまいてる。

どこにぶらさげた招牌(かんばん)があるではなし

交易をしてどうなるといふあてもありはしない。

いつそぐだらくにつかれきつて

白砂の上にながながとあふむきに倒れてゐよう。

さうして色の黑い娘たちと

あてもない情熱の戀でもさがしに行かう。

 

 

    荒寥地方

 

散步者のうろうろと步いてゐる

十八世紀頃の物さびしい裏街の通りがあるではないか

靑や綠や赤やの旗がびらびらして

むかしの出窓に鐵葉(ぶりき)が飾つてある。

どうしてこんな情感の深い市街があるのだらう

日時計の時刻はとまり

どこに買物をする店や市場もありはしない。

古い砲彈の碎片などが掘り出されて

それが要塞區域の砂の中でまつくろに錆びついてゐたではないか

どうすれば好いのか知らない

かうして人間どもの生活する 荒寥の地方ばかりを步いてゐよう。

年をとつた婦人のすがたは

家鴨(あひる)や鷄(にはとり)によく似てゐて

網膜の映るところに眞紅(しんく)の布(きれ)がひらひらする。

なんたるかなしげな黃昏だらう

象のやうなものが群がつてゐて

郵便局の前をあちこちと彷徨してゐる。

「ああどこに 私の音づれの手紙を書かう!」

 

(自註)

「沿海地方」「荒寥地方」共に同じやうな想の主題を取り扱つて居る。それはパノラマ館の中で見る、油畫の物佗しい風景と、あの妙にうら悲しく寂しい靑空を目に浮べて、私の或る鄕愁をさそふところの、心の哀切な抒情詩を書いたのである。

 此等の詩を通じて、私が書かうとしたものは「音樂」だつた。あのオルゴールの音色に漂ふ、音樂のやるせない情愁の心像だつた。この一つの目的からして、私は言葉を出來るだけ柔らかく、抒情的に、丁度音樂時計のゼンマイが、自然にとけてくるやうな工合に用ゐた。例に就いて種を明かせば、[やぶちゃん注:以下の三行の二字下げは再現した。太字は底本では傍点「﹅」。]

  交易をする市場はないし

  どこで毛布を賣りつけることもできはしない

  店舖もなく

の如く、「ないし」「できはしない」「なく」等で同韻の反覆重律をして居る。單に反覆重韻をするばかりでなく、此等の日本語の語韻に於ける、或る重苦しい、自墮落で退屈さうな調子を、特に意識的に强調した。その目的は、詩それ自體の主想となつてる、一種の人生的倦怠と物憂さとを、言葉の音韻上に於て正しく寫象しようとしたからである。

 口語に於ける「行かう」「しよう」「ゐよう」等の語調の中には、妙に投げ出したやうなアンニユイの感があるので、私は特に好んでそれを用ゐた。「無いし」「居るし」「暗くなるし」等の言葉も、輕いリリカルの好い味があるので私の詩の常用語に使用した。またSōshite(さうして)Yōni(やうに)Aru-dewa-naika(あるではないか)等の言葉には、日本語としての特殊な柔らかな響があり、耳に訴へて美くしくリリカルに感じられるので、これらもまた私の詩語に常用し、意識的に抒情的效果を强調した。

 此等の言語は、單に以上の詩に限らず、以下選出する私の詩の殆んど全體に使用され、私の詩の特殊なスタイルを風貌づけてる。讀者にして、もしかうした言葉のリリカルな風情を理解し、私の詩語に於ける特殊な音樂を感受し得れば、その人々にとつて私の詩は、一つの「音樂」として心像されることが出來るでせう。反對にもし、それが音樂として心像されない櫛合に於て、私の詩篇全體は、多分つまらぬ無意味な者にしか過ぎないでせう。

[やぶちゃん注:最終段落内の常体が敬体に変じているのはママ。

「沿海地方」初出は大正一二(一〇二三)年六月号『新潮』。『第一書房版「萩原朔太郞詩集」(初収録詩篇二十一篇分その他) 正規表現版 「靑猫(以後)」 沿海地方』を参照されたい。

「荒寥地方」初出は大正一二(一九二三)年一月号『極光』。ここでは、最悪の老害改変のそれを『萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 荒寥地方』で見られるがよい。]

 

 

    綠色の笛

 

この黃昏の野原のなかを

耳のながい象たちがぞろりぞろりと步いて居る。

黃色い夕月が風にゆらいで

あちこちに帽子のやうな草つぱがひらひらする。

さびしいですか お孃さん!

ここに小さな笛があつて その音色は澄んだ綠です。

やさしく歌口(うたぐち)をお吹きなさい

とうめいなる空にふるへて

あなたの蜃氣樓をよびよせなさい

思慕のはるかな海の方から

ひとつの幻像がしだいにちかづいてくるやうだ。

それはくびのない猫のやうで 墓場の草影にふらふらする

いつそこんな悲しい暮景の中で 私は死んでしまひたいのです。お孃さん!

 

 

    貝殼の内壁から

 

どこにこの情慾は口をひらいたら好いだらう

大海龜(うみがめ)は山のやうに眠つてゐるし

古生代の海に近く

厚さ千貫目ほどもある硨磲(しやこ)の貝殼が眺望してゐる。

なんといふ鈍暗な日ざしだらう

しぶきにけむれる岬岬の島かげから

ふしぎな病院船のかたちが現はれ

それが沈沒した錨の纜(ともづな)をずるずると曳いてゐるではないか。

ねえ! お孃さん

いつまで僕等は此處に坐り 此處の悲しい岩に竝んで居るのでせう

太陽は無限に遠く

光線のさしてくるところにぼうぼうといふほら貝が鳴る。

お孃さん!

かうして寂しくぺんぎん島のやうにならんでゐると

愛も 肝臟も つららになつてしまふやうだ。

やさしいお孃さん!

もう僕には希望(のぞみ)もなく 平和な生活(らいふ)の慰めもないのだよ

あらゆることが僕をきちがひじみた憂鬱にかりたてる

へんに季節は轉轉して

もう春も李(すもも)もめちやくちやな妄想の網にこんがらかつた。

どうすれば好いのだらう お孃さん!

ぼくらはおそろしい孤獨の海邊で 大きな貝肉のやうにふるへてゐる。

そのうへ情慾の言ひやうもありはしないし

これほどにもせつない心がわからないの? お孃さん!

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。以下の自註も同じ。]

 

(自註)

 以上二篇の詩で、私はOjōsan(お孃さん)といふ語をモチーフの主語に用ゐた。現代日本の日常口語には、戀人を呼びかける好い言葉がない。「あなた」は無内容で空々しく、少しも親愛の情がない言葉であるし、「お前」は對手を賤しめて輕蔑して居る。昔の古い文章語には、「君」とか、「妹」といふ優しく情愛のこもつた言葉があつたが、今の猥雜な日本語には、さうした美しい言葉が全く無い。活動寫眞のラヴシーンを見ても、戀人同士の話の中で、辯士が「お前」「あなた」など言ふ語を使ふと幻滅で、戀の美しく甘い情緖がすつかり破壞されてしまふ。どうも現代の日本語は猥雜であり、單にこの一事だけでも、詩のやうな藝術的表現に使用し得べく、あまりに過渡期的未完成の粗雜語であることが了解される。かうした未完成の非藝術語を使用して多少でも藝術的な詩らしい者を書かうとするところに、僕等の時代の詩人たちに共通してゐる、悲壯な冒險と犧牲とがあることを、讀者に了察してもらはねば困るのである。

 さて私としては、Ojōsanといふ言語の響に、音韻の特殊な美しさを感じて居る。その音韻には、何かしら浪漫的で、遠くから聽える音樂の縹渺たる情趣が感じられる。そしてまたこの音樂が、私の詩の内容と一致してゐるので特にそれを主語として用ゐたのである。

 「貝殼の内壁から」は、原題「ある風景の内殼から」の改題である。この詩は貝殼の内部に於ける、一種の錯迷した不思議な空間――その中にはぐにやぐにやした、軟體動物の惱ましい肉が悶えてゐる。――と、さうした貝殼の海に於ける或る鄕愁とを、純粹抒情詩の音樂心像で象徵した。

「ねえ! お孃さん」

「どうすれば好いのだらう」

「これほどにもせつない心がわからないの? お孃さん!」

の三行を、一篇の首腦として强調した。これらの日常口語の中に、私として特殊の美しい音樂的調律を感じて居るからです。

[やぶちゃん注:末尾「です」はママ。

「綠色の笛」初出は大正一一(一九二二)年五月号『詩聖』。「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 綠色の笛」と、『萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 綠色の笛』を比較されたい。後者の最終行「いつそこんな悲しい景色の中で 私は死んでしまひたいのよう! お孃さん!」を見た瞬間、私は、吐き気を感じた。

『「貝殼の内壁から」は、原題「ある風景の内殼から」の改題である。』大正一二(一九三七)年二月号『日本詩人』初出。『萩原朔太郎 ある風景の内壁から (「ある風景の内殼から」初期形)』、及び、『第一書房版「萩原朔太郞詩集」(初収録詩篇二十一篇分その他)正規表現版 「靑猫(以後)」 ある風景の内殼から』を参照されたいが、実は「貝殼の内壁から」という詩篇は、初版「第十五卷」、及び、後に出た「補卷」の両索引にも出てこない。あるのは、「ある風景の内殼から」ばかりであるから、ここは思うに、

「ある風景の内殼から」は、原題「貝殼の内壁から」の改題である。

とあるべきところで、前掲詩篇の標題も、

「貝殼の内壁から」はではなく、「ある風景の内殼から」とあるべき

ところではないか? だが、投げ込みなどを見ても、この第十五卷のここの訂正は、どこにも、ない。

 しかし、調べたところ、菅邦男氏の論考「第三章 萩原朔太郎の詩的表現」(原本不詳・ネット上でその部分だけをPDFで見つけた)の中の「95」ページの、二行目からの箇所で、この部分を引用しておられるのだが(注記(5)に『筑摩書房版萩原朔太郎全集第一四巻 九五ページ』とはっきり書かれてある)、それが、まさに、私が示した『「ある風景の内殼から」は、原題「貝殼の内壁から」の改題である。』となっているのである。私が不審に思った通り、筑摩版初版のここは、本自註内の詩篇標題が転倒しており、及び、引用の詩篇の標題も萩原朔太郎の勘違いと考えられる。くどいが、

「貝殼の内壁から」という草稿は現存していない

のである。因みに、本篇の『生活(らいふ)』というルビは、しばしば、好んで朔太郎が用い、既存の詩篇に盛んに後からのこのルビを振ったりしているが、これは、彼のルビの中で唯一、嘔吐を催す気持ちの悪くなるルビであることを言っておく。

 

 

    佛陀

 

赭土の多い丘陵地方の

さびしい洞窟の中に眠つてゐる人よ

君は貝でもない 骨でもない 物でもない。

さうして磯草の枯れた砂地に

ふるく錆びついた時計のやうでもないではないか。

ああ 君は「眞理」の影か 幽靈か

いくとせもいくとせもそこに坐つてゐる

ふしぎの魚のやうに生きてゐる木乃伊(みいら)よ。

このたへがたく寂しい荒野の涯で

海はかうかうと空に鳴り

大海嘯(おほつなみ)の遠く押しよせてくるひびきがきこえる。

君の耳はそれを聽くか?

久遠(くをん)のひと 佛陀よ!

 

 

    蒼ざめた馬

 

冬の曇天の 凍りついた天氣の下で

そんなに憂鬱な自然の中で

だまつて道ばたの草を食つてる

みじめな しよんぼりした 宿命の 因果の蒼ざめた馬の影です

わたしは影の方へうごいて行き

馬の影はわたしを眺めてゐるやうす。

 

ああはやく動いてそこを去れ

わたしの生涯(らいふ)の映畫幕(すくりーん)から

すぐに すぐに外(ず)り去つてこんな幻像を消してしまヘ

私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!

因果の 宿命の 定法の みじめなる

絕望の凍りついた風景の乾板から

蒼ざめた影を逃走しろ。

 

 

    輪𢌞と樹木

 

輪𢌞の曆をかぞへてみれば

わたしの過去は魚でもない 猫でもない 花でもない

さうして草木(さうもく)の祭祀に捧げる器物(うつは)や瓦の類でもない。

金(かね)でもなく 畠でもなく 隕石でもなく 鹿でもない

ああ ただひろびろとしてゐる無限の「時」の哀傷よ。

わたしのはてない生涯(らいふ)を追うて

どこにこの因果の車を𢌞して行かう

とりとめもない意志の惱みが あとからあとからとやつてくるではないか。

なんたるあいせつの笛の音(ね)だらう

鬼のやうなものがゐて木の間で吹いてる。

まるでしかたのない夕暮れになつてしまつた

燈火(ともしび)をともして窓からみれば

靑草むらの中にべらべらと燃える提灯がある

風もなく

星宿のめぐりもしづかに美しい夜(よる)ではないか。

ひつそりと魂の祕密をみれば

わたしの轉生はみじめな乞食で

星でもなく 犀でもなく 毛衣(けごろも)をきた聖人の類でもありはしない。

宇宙はくるくるとまはつてゐて

永世輪𢌞のわびしい時刻がうかんでゐる。

さうしてべにがらいろにぬられた恐怖の谷では

獸(けもの)のやうな榛(はん)の木が腕を突き出し

あるいはぞの根にいろいろな祭壇が乾(ひ)からびてる。

どういふ人間どもの妄想だらう。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」。以下も同じ。]

 

 

    野鼠

 

どこに私らの幸福があるのだらう

泥土(でいど)の砂を掘れば掘るほど

悲しみはいよいよふかく湧いてくるではないか。

春は幔幕の影にゆらゆらとして

遠く俥にゆすられながら行つてしまつた。

どこに私らの戀人があるのだらう

ばうばうとした野原に立つて口笛を吹いてみても

もう永遠に空想の娘らは來やしない。

なみだによごれためるとんのづぼんをはいて

私は日傭人(ひようとり)のやうに步いてゐる

ああもう希望もない 名譽もない 未來もない。

さうしてとりかへしのつかない悔恨ばかりが

野鼠のやうに走つて行つた。

 

 

    艷めかしい墓場

 

風は柳を吹いてゐます

どこにこんな薄暗い墓地の景色があるのだらう。

なめくぢは垣根を這ひあがり

みはらしの方から生(なま)あつたかい潮みづがにほつてくる。

どうして貴女(あなた)はここに來たの

やさしい 靑ざめた 草のやうにふしぎな影よ

貴女は貝でもない 雉でもない 猫でもない

さうしてさびしげなる亡靈よ

貴女のさまよふからだの影から

まづしい漁村の裏通りで 魚(さかな)のくさつた臭ひがする

その腸(はらわた)は日にとけてどろどろと生臭く

かなしく せつなく ほんとにたへがたい哀傷のにほひである。

 

ああ この春夜のやうになまぬるく

べにいろのあでやかな着物をきてさまよふひとよ

妹のやうにやさしいひとよ

それは墓場の月でもない 燐でもない 影でもない 眞理でもない

さうしてただなんといふ悲しさだらう。

かうして私の生命(いのち)や肉體(からだ)はくさつてゆき

「虛無」のおぼろげな景色のかげで

艶めかしくも ねばねばとしなだれて居るのですよ。

 

 

    月夜

 

重たいおほきな羽をばたばたして

ああ なんといふ弱弱しい心臟の所有者だ。

花瓦斯のやうな明るい月夜に

白くながれて行く生物の群をみよ

そのしづかな方角をみよ

この生物のもつひとつのせつなる情緖を見よ

あかるい花瓦斯のやうな月夜に

ああ なんといふ悲しげな いぢらしい蝶類の騷擾だ。

 

(自註)

 以上、數篇の詩を通じて、私は自分の哲學する宿命論を、特殊の抒情的モチーフにこめて歌つた。私はかつてシヨーペンハウエルに惑溺し、抒情詩の主題にその思想的影響を可成受けた。シヨーペンハウエルの異常な魅力はその論理的な方面よりも、むしろその詩人的性格の中に本質して居た。それは東洋的虛無思想を多分に持つてる、一種の惱ましい意志否定の哲學であり、人間的なあらゆる情慾の惱みから出發し、血だらけの艶かしい衣裳を着て、春の夜の墓地にさ迷ふ厭世主義の哲學である。げにシヨーペンハウエルの哲學ほどにも、憂鬱で、厭世的で、しかも惱ましく艶かしいものがどこにあらうか。それはあの熱帶の情慾に惱まされた印度人が、菩提樹の花の下で幻想したところの、原始的佛敎の禁慾主義や涅槃の思想を聯想させる。私の第二詩集「靑猫」は、主としてこの種の主題――春の夜に龍く橫笛の昔――の惱みから書かれて居た。

[やぶちゃん注:「佛陀」初出は大正一二(一九二三)年二月号『日本詩人』だが、添え題があって『或は「世界の謎」』である。『第一書房版「萩原朔太郞詩集」(初収録詩篇二十一篇分その他)正規表現版 「靑猫(以後)」 佛陀 或は「世界の謎」』を参照されたい。

「蒼ざめた馬」大正一〇(一九二一)年十月号『日本詩人』(創刊号)初出。「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 蒼ざめた馬」と、『萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 蒼ざめた馬』を比較されたい。

「輪𢌞と樹木」初出は大正一二(一九二三)年二月号『日本詩人』。『第一書房版「萩原朔太郞詩集」(初収録詩篇二十一篇分その他)正規表現版 「靑猫(以後)」 輪廻と樹木』を参照。

「野鼠」大正一二(一九二三)年五月刊『日本詩集』初出。『萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 野鼠』及びリンク先の私の別電子化物も参照されたい。

「艶めかしい墓場」大正一一(一九二二)年六月号『詩聖』初出。「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 艶めかしい墓場」参照。

「月夜」大正六(一九一七)年四月号『詩歌』初出だが、初出時の標題は「深酷なる悲哀」であった。「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 月夜」を参照。]

 

 

    

 

しののめきたるまヘ

家家の戶の外で鳴いてるのは鷄(にはとり)です

聲をばながくふるはして

さむしい田舍の自然からよびあげる母の聲です

とをてくう、とをるもう、とをるもう。

 

朝のつめたい臥床(ふしど)の中で

私のたましひは羽ばたきをする

この雨戶の隙間からみれば

よもの景色はあかるくかがやいてゐるやうです

 

されどもののめきたるまヘ

私の臥床にしのびこむひとつの憂愁

けぶれる木木の梢をこえ

遠い田舍の自然からよびあげる鷄(とり)のこゑです

とをてくう、とをるもう、とをるもう。

 

戀びとよ

戀びとよ

有明のつめたい障子のかげに

私はかぐ ほのかなる菊のにほひを

病みたる心靈のにほひのやうに

かすかにくされゆく白菊のはなのにほひを

戀びとよ

戀びとよ。

 

しののめきたるまヘ

私の心は墓場のかげをさまよひあるく

ああ なにものか私をよぶ苦しきひとつの焦燥

このうすい紅(べに)いろの空氣にはたへられない

戀びとよ

母上よ

早く來てともしびの光を消してよ

私はきく 遠い地角のはてを吹く大風(たいふう)のひびきを

とをてくう、とをるもう、とをるもう。

 

 

(自註)

 黎明の時、臥床の中から遠く聽える鷄の朝鳴を、私はtoo-ru-mor, too-te-kurといふ音表によつて書き、且つそれを詩の主想語として用ゐた。元來、動物の鳴聲、機械の𢌞轉する物音などは、純粹の聽覺的音響であつて、言語の如く、それ自身の意義を說明する槪念がないのであるから、聽く人の主觀によつて、何とでも勝手に音表することが出來るわけである。したがつて音樂的效果を主とする詩の表現では、かうしたものが、最も自由性の利く好取材となる。私もまたその理由から、好んでこの種の音響的主題を用ゐた。例へば「猫」と題する詩で、私は戀猫の鳴聲を

 ――おわああ! おぎやあ!

として音表した。また「軍隊」と題する他の詩で、武裝した兵士等の行軍する靴音を

 ――づしり、ばたり。どたり、ばたり

とし、また「時計」と題する詩では、柱時計のゼンマイがとけて時刻を報ずる音を

 ――じぼあん・じやん! じぼあん・じやん!

として音象した。また「遺傳」と題する詩で、夜鳴きをする犬の氣味惡い遠吠を

 ――のをあある やわあ!

といふ音表で書いた。

[やぶちゃん注:「鷄」大正七(一九一八)年一月号『文章世界』初出。『萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 鷄』参照。

「猫」『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 猫』参照。但し、「おわああ! おぎやあ!」のセット文字列では出現しない。「!」なしの「おわああ」と「おぎやあ」で出る。

「軍隊」『萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 軍隊』参照。但し、「づしり、ばたり。どたり、ばたり」のセット文字列では出現しない。

「時計」『時計 萩原朔太郎 (初出形及び決定稿「定本靑猫」版)』参照。私は萩原朔太郎のオノマトペイアでは、この「じぼあん・じやん! じぼあん・じやん!」が特異点で好きである。

「遺傳」「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 遺傳」参照。但し、「のをあある やわあ!」のセット文字列では出現しない。]

 

萩原朔太郞 憂愁の森 (筑摩版「萩原朔太郞全集」補卷所収)

 

[やぶちゃん注:筑摩版初版「萩原朔太郞全集」の昭和六三(一九八八)年五月(最終巻「第十五卷」のクレジットの)の後、「補卷」として一九八九年二月に発刊されたものを底本とする。その巻頭に置かれた詩篇であるが、これは、明治四五(一九一二)年六月三日附の従兄萩原榮次宛書簡内に示された詩篇である(同「補卷」に書簡も載る)。なお、詩の「補遺」としては、この一篇のみが載る。

 萩原榮次(明治一一(一八七八)年~昭和一一(一九三六)年:朔太郎より八つ年上)は朔太郎の父密藏の兄で医家を継いだ玄碩の長男で、医師(萩原家医家十二代目)。萩原朔太郎が非常に慕った親族である。ネット上の記事では、山田兼士氏の論文「大阪八尾と萩原朔太郎」(『詩界』二百六十号・日本詩人クラブ)が詳しい。

 本来なら、書簡も一緒に電子化するべきであろうが、実はこの書簡、異様に長いので、諦めた。「J-STAGE」の阿毛久芳氏の論文『萩原朔太郎・「憂愁の森」を読む』(『日本文学』第三十四 巻第七号・一九八五年発行。PDFでダウン・ロード出来る)によれば、『ノート三十二頁の表裏にびっしりと書き込まれ、四百字詰原稿用紙で八十二枚分にもなる』とある。以下の「憂愁の森」は、その書簡の末尾に『詩(近作)』として記されてある。同論文では、書簡内に吐露された朔太郎の心象との関連性が述べられてある。

 電子化に際しては、底本の冒頭の下に示された書簡底本のそのままの表記と、後に載る書簡の部分のそれをも、参考にした。

 なお、本篇はネット上では電子化されていない模様である。

 太字は底本では傍点「﹅」。

 本篇を以って、今まで漏れていた萩原朔太郎の詩篇の電子化は概ね終わったと考えている。

 

 

 憂愁の森

 

途は矢の如く直(なほ)きにはすれ共

心は悲嘆の雲に閉されて述路の方にと思ひ煩ふ。

太陽は木立の影にひそみて笑み輝けども

我が戀は闇くして北極圈の夜の如し。

小鳥は木々に歌ひ、河流は涼しき葉影に朝の讚美歌をかなづれども

我はうなだれて暗き地上のまぼろしを追ふなり、

 

いつまでかさ述ひて、いづこにか我は行くらん、

憂愁の森には人の杳音(くつおと)なく、我が胸には來りて巢くヘる鳥もなし。

思ひ出の戶は風なきに開きかあてんは微かにそよげとも、

眼に入るもの、すべて荒廢の埃(ホコリ)にすぎす

 

空想はあてなき空のかなたに漂ひ

寄望は地獄の底にすゝり泣く

 

既にして我は飢えたり、勞れはてたり、

夕まぐれ、路傍に伏して叫へども

憂愁の森は深くして今は天日も及びがたし。

苦痛は針の如く腦みは銀鎚の如く下りて責むれ共

此處は人間の來り住むべき森にあらず。

 

されぱ我こそは一人なり、げに只一人……

犬の如く、のたれ死ぬとも

我が悲愁は人より人に傳ふる由もなし、

 

見よ、かしこに海のかゞやく

憂愁の森のつくるところ……我が生命のつくるところ……

途は矢の如く直きにはせて導けり、

 

[やぶちゃん注:底本編者によって補正された校訂本文を示す。題名を外した本文で連と行を示す。但し、校訂本文の踊り字の正字化は指摘しない。

第一連二行目「心は悲嘆の雲に閉されて述路の方にと思ひ煩ふ。」の「述路」はママ。校訂本文は『迷路』の誤記とする。

第一連五行目「小鳥は木々に歌ひ、河流は涼しき葉影に朝の讚美歌をかなづれども」校訂本文は「葉影」を『葉陰』とする。

第一連六行目「我はうなだれて暗き地上のまぼろしを追ふなり、」の最後の読点を校訂本文は除去する。

第二連一行目「いつまでかさ述ひて、いづこにか我は行くらん、」校訂本文は「述」は前と同じく、『迷』に補正。

題二連二行目「憂愁の森には人の杳音(くつおと)なく、我が胸には來りて巢くヘる鳥もなし。」の「杳音」はママ。明らかに「沓」の誤字。無論、校訂本文は『沓音(くつおと)』に補正されてある。

第二連三行目「思ひ出の戶は風なきに開きかあてんは微かにそよげとも、」の「とも」はママ。校訂本文は『ども』に補正されてある。

第二連四行目「眼に入るもの、すべて荒廢の埃(ホコリ)にすぎす」の末尾の「す」はママ。校訂本文は「すぎず。」と、字を補正した上、末尾に句点を打ってある。

題三連二行目「寄望は地獄の底にすゝり泣く」の「寄望」はママ。校訂本文は『希望』と補正された上、末尾に句点が打たれてある。

第四連一行目「既にして我は飢えたり、勞れはてたり、」の「飢え」はママ。校訂本文は『餓ゑ』に補正されてある。

第四連二行目「夕まぐれ、路傍に伏して叫へども」の「叫へども」はママ。校訂本文は『叫べども』に補正されてある。

第四連四行目「苦痛は針の如く腦みは銀鎚の如く下りて責むれ共」の「腦み」はママ。校訂本文は『惱み』に補正されてある。

第五連三行目「我が悲愁は人より人に傳ふる由もなし、」の読点は校訂本文では、句点に変えられてある。

第六連終行「途は矢の如く直きにはせて導けり、」の末尾読点は句点に変えられてある。]

2022/12/10

萩原朔太郎 卷頭言(神を見るものは幼兒より外にない。神とは『詩』である。……) (筑摩書房版「萩原朔太郞全集」第十四卷「補遺」所収)

 

[やぶちゃん注:所持する底本としている昭和五三(一九七八)年二月筑摩書房刊の初版「萩原朔太郞全集」第十四卷(全第十五卷の内)の冒頭「補遺」の二番前に置かれている。

 これは大正三(一九一四)年十二月号『文會』第四巻第四号に掲載されたものである。

 個人的には、これは明白なアフォリズムであり、詩篇ではないと判断されるが、同巻は同全集が刊行途中、洩れたものを「補遺」として追加したものであり、私自身が、この一文は未読であったことから、萩原朔太郎の、この当時の詩想の在り方を知るものとして、参考として掲げることとした。

 太字は底本では傍点「﹅」である。]

 

 

卷頭言

 

      ○

神を見るものは幼兒より外にない。神とは『詩』である。

 

      ○

 

韻律の道は道德である。

 

      ○

 

愛とは美である。

 

萩原朔太郎 幼兒と基督 (筑摩書房版「萩原朔太郞全集」第十四卷「補遺」所収)

 

[やぶちゃん注:所持する底本としている昭和五三(一九七八)年二月筑摩書房刊の初版「萩原朔太郞全集」第十四卷(全第十五卷の内)の冒頭「補遺」の最初に置かれている。

 これは大正三(一九一四)年九月号『異端』創刊号に掲載されたものである。末尾にある「人魚詩社」というのは、同年六月に室生犀星・山村暮鳥・萩原朔太郎の三人で設立した詩人結社で、詩・宗教・音楽の研究を目的としていたとされる。

 個人的には、これは明白なアフォリズムであり、詩篇ではないと判断されるが、同巻は同全集が刊行途中、洩れたものを「補遺」として追加したものであり、私自身が、この一文は未読であったことから、萩原朔太郎の、この当時の詩想の在り方を知るものとして、参考として掲げることとした。

 太字は底本では傍点「﹅」である。]

 

 

  幼兒と基督

 

         ×

自分はいつもセンチメンタルでありたい、キリストのやうに、十字架上のキリストのやうに、センチメンタルでありたい。

         ×

をさな兒の至純の心と、白熱したセンチメンタルが私の生命の全部である、同時に、私の生活の全部である、同時に、私の詩の全部である。

         ×

私の所有する、或は所有せんとする、感傷の極致は、ラジウムと螢光線の放射である。いぢらしい幼兒の靈魂は、往々にして異樣な幽靈と交歡する、成人は幽靈を知らない。

         ×

至純な心と、透純なセンチメンタルとを持たない人には、決して何物の幽靈も見えない。

         ×

キリストは、よく幽靈を見た、

キリストは、よく奇蹟をおこなつた、

あらゆる地上の奇蹟は、「センチメンタルのみによつて行はれる

         ×

人間の所有する、最上の『權威』はセンチメンタルである。

         ×

不純な、凡俗の、感傷の淚は、外にながれる、

白熱した、聖者の、感傷の淚は内部にながれる、

流れてやまない、感傷の淚が、地上に晶結したときに、耶蘇の第一の奇蹟が行はれる。自分の、第一の詩が生れる。

         ×

白熱した、センチメンタルが、電光のやうに、かがやく時、自分の四肢は、玻璃のやうに透純となる、其の刹那、あらゆる槪念の蛇は、その醜惡な姿を、沒却する。

         ×

自分のセンチメンタルが、每日、晶玉の塔を築いて居る、塔の第一階で、私は靑白い生靈と、妖怪のやうな肉體が、めすをすの蛇のやうに、もつれあつて、つるみあつて、白晝に、遊戲をする。

         ×

をさな兒の、いぢらしい心は、なにものにも、おそれをののく、をさな兒の、至純な成長は、すなはち、神になる意志である。をさな兒と、成人のまじはりは傷ましい。

         ×

センチメンタルが、私の邪宗門の、涅槃である。

をさな兒の、私の手が、見て居ると、ラジウムになる。

奇蹟と光が、私を成長させるのである。

         ×

詩は、地上の奇蹟である。

            ――人魚詩社宣言其一――

 

萩原朔太郎 貝 (筑摩書房版「萩原朔太郞全集」第十四卷「補遺」所収・附 原雑誌初出形)

 

[やぶちゃん注:所持する底本としている昭和五三(一九七八)年二月筑摩書房刊の初版「萩原朔太郞全集」第十四卷(全第十五卷の内)の「補遺」の中に置かれている。

 これは昭和一六(一九四一)年九月号『コクミン二年生』に掲載されたもの。本雑誌は小学館発行の少年少女向けの雑誌である。

 この詩篇は私の知る限りでは、筑摩版全集の詩篇パートには見当たらないので、ここに萩原朔太郎の詩篇の追加として電子化する。]

 

 

  貝

 

雨のふる日のつれづれに

海でひろつた櫻貝

つの貝靑貝ほたて貝

大貝小貝のいろいろを

まどにならべて遊びませう。

 

一つ一つの貝がらに

海のにほひがのこつてる。

耳をあてればかうかうと

なみのとどろくもの音が、

ほのかにとほくきこえます。

 

雨はしとしとまどのそと、

おもひはとほい海の空。

いつしよに遊んだともだちの

こひしいかたみもとりまぜて、

いそのにほひのなつかしく、

大貝小貝櫻貝。

 

[やぶちゃん注:ネット検索をかけた結果、「古書 古群洞」のこちらに、原雑誌のカラー画像があったが、表記に違いがあったので、それを以下に電子化する。

   *

 

  貝

         萩原朔太郞(はぎはらさくたらう)

 

雨の ふる日の つれづれに

海でひろった櫻貝

つの貝 靑貝 ほたて貝

大貝 小貝の いろいろを

まどに ならべて 遊びませう。

 

一つ一つの 貝がらに

海の にほひが のこってる。

耳を あてれば かうかうと

なみの とどろく もの音が、

ほのかに とほく きこえます。

 

雨は しとしと まど のそと、

おもひは とほい 海の 空。

いっしよに 遊んだ ともだちの

こひしい かたみも とりまぜて、

   いその にほひの

      なつかしく、

        大貝 小貝 櫻貝。

 

   *

左上に『初山(はつやま) 滋(しげる)・ゑ』とある。初山滋(明治三〇(一八九七)年~昭和三八(一九七三)年)は童画画家。本名は繁蔵。当該ウィキによれば、『生涯にわたってひとつの画風に留まることのない自由奔放ぶりで知られ』、『版画作品は二十数年に』亙って、『小学校の国語教科書の表紙に使われた』とある。最終連の最後の三行は、絵の貝の関係上、編集者が字下げを行ったものと見做されるが、筑摩版全集のものより、遙かに、韻律を示す空欄が効果的であり、促音も以上の通りで示されており、最後のパートも抒情的効果を上げていて、よい。

「櫻貝」数種あるが、タイプ種のマルスダレガイ目ニッコウガイ科サクラガイ属サクラガイ Nitidotellina hokkaidoensis としていいだろう。私の『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類  櫻貝・サクラガイ / サクラガイ』を参照されたい。

「つの貝」複数の種があるが、タイプ種は軟体動物門掘足綱ツノガイ目ゾウゲツノガイ科ツノガイAntalis weinkauffi 。房総半島から九州まで分布し、水深三十~百メートルの砂泥底に棲息する。殻長十センチメートル、殻口径八ミリメートルに達し、殻は背方へ弓形に湾曲し、黄橙(こうとう)色の個体と白色の個体がある。殻頂部には九本の縦肋があり、その間に細い肋もあるが、殻口に向かって弱くなり、遂には消失する。以上とは異なる種の博物画と思われるが、私の『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 角貝(ツノカイ) / ツノガイ(ヤカドツノガイとムカドツノガイか)』を参照されたい。

「靑貝」「あをがひ」。通常は、螺鈿の材料に用いるヤコウガイ・オウムガイ・アワビなどを指すが、ここは子どもがビーチ・コーミングする対象を挙げていることから、潮間帯の岩礁域で普通に見られる笠貝の一種で、北海道から九州南部及び朝鮮半島・中国に分布する、腹足綱前鰓亜綱カサガイ目ユキノカサガイ科アオガイ属アオガイ Nipponacmea schrenckii に比定する。殻は楕円形の笠形を成し、殻径は約三センチメートル。表面は暗緑色、内面は光沢のある青緑色を呈する。参照した「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のこちらを見られたい。

「ほたて貝」「帆立貝」は種名としては斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ科 Mizuhopecten 属ホタテガイ Mizuhopecten yessoensis であるが、同種の本邦での南限は、日本海側で能登半島、太平洋側が千葉県とされている北方種であり、本州の以上の地域より南で我々が通常にビーチ・コーミングすることは、まず、ない。されば、これは広義の帆立型(扇形状)の貝殻を指しており、容易に見つけることが可能なそれは、イタヤガイ科イタヤガイ属イタヤガイ Pecten albicans がまずは挙げられる。驚くべき多数の色彩を持つことから、蒐集家には好まれる一種である。私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 海扇」及び『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 錦貝(ニシキガイ)・イタヤ貝 / イタヤガイ・ヒオウギ』『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 酌子貝(シヤクシガイ)・イタラ貝 / イタヤガイ(四度目)』等で他種も挙げてある。]

萩原朔太郎 槪念敍情詩 六篇 (筑摩書房版「萩原朔太郞全集」第十四卷「補遺」所収)

 

[やぶちゃん注:所持する底本としている昭和五三(一九七八)年二月筑摩書房刊の初版「萩原朔太郞全集」第十四卷(全第十五卷の内)の冒頭「補遺」の中に置かれている。

 これは大正一〇(一九二一)年十月号『内在』第六輯に掲載されたもの。

 詩論であるが、文末に萩原朔太郎の「槪念敍情詩」なるものが、標題と異なるが、五篇置かれてあり(或いは、冒頭の解説自体を「槪念敍情詩」の散文詩の一種と認識しているのかも知れない)、この五篇は私の知る限りでは、筑摩版全集の詩篇パートには見当たらないので、ここに萩原朔太郎の詩篇の追加として電子化する。太字は底本では傍点「●」である。]

 

  槪念敍情詩 六篇

 

 槪念敍情詩について  槪念敍情詩(又は觀念敍情詩)とは調子を落して書いた敍情詩である。この「調子を落す」といふ謂は、つまり詩の發想に於ける VISIONを稀薄させることであつて、言はば「より散文的な氣分」でかかれた一種の詩である。[やぶちゃん注:欧文は横書。以下同じ。]

 普通の敍情詩にあつては、思想それ自らが、一つの完全なVISIONであり、趣味であり、情感でなければならぬ。卽ち純粹の敍情詩としては、所謂「思想」――通俗に言ふ意味での――といふものはない。何故ならば、直感の一元的叡智に於ては「思想卽感情」「感情卽思想」であつて、この境地に於ける心意は、畢竟「趣味」に外ならないからである。然り、すべての藝術は趣味である。美である。しかもこの一つの一元的境地を反省し、之れを批判的に分析するならば、そこで一方には思想が割り出され、一方からは感情が發見される。

 この一つの事實は、すべての藝術――音樂、繪畫、彫刻、小說、演劇等――に通じて平等の眞理である。しかしながら、就中、音樂、繪畫、敍情詩等にて一層明白である。諸君はどういふ仕方で美術を觀照するか。繪畫から直接に受取るものは、ただ一つの單純な心意「美」にすぎない。しかしてこの「美」を感得するものは諸君の「趣味性」に外ならない。しかしながら、一度もし諸君が必要に迫られて、或は自己を反省する目的から、そこに何等かの說明――趣味そのものには說明がない――を求めようと欲するならば、諸君は退いて、その單一な感動である「美」を分析し、その美感のよつて來る由所を反省せねばならぬ。ここに於てか卽ち純一の趣味は分析されて、一方では作品の内容を語る思想の發見となり、一方ではその意味されたる感情が理解される。この方法は、繪畫と音樂の觀照批評家が常に經驗してゐる所であるが、敍情詩に於ても、全く同樣である。何となれば、眞の純粹の敍情詩は、本質上、繪畫や音樂と同質であつて、絕對に「說明」や「槪念」を含まないからである。

 敍情詩とは、先づかういつた性質の者である。しかしながら、その表現の中には、調子の强さに於て、種々の程度がある。我々は、その比較的「調子の弱い」ものを稱して、普通に「散文詩」――所謂「自由詩」とは別の意味で――と言つてゐる。この所謂「散文詩」は、本質上からみて調子が低いのみならず、形式の上での韻律も低くて、むしろ散文に近いのが普通である。そこで此所に若し、形式上の韻律は、さほどにまで弱められなくつて、しかも本質上に於て甚だしく調子を弱めたるもの――卽ち一層槪念的であり、說明的であるもの――があつたとすれば、何と名づくべきであらうか、之れが卽ちここで問題とする「槪念敍情詩」である。

 槪念敍情詩の標本的なものは、ニイチエの論集『悅ばしき智識』の卷頭にかかげられた十數篇の短詩であらう。それらの詩は、すべて立派な押韻を踏み、詩の規則正しき格調を守つた者であるにかかはらず、世評は之れを純粹の敍情詩と眺めてゐない。何故といふに、それは純粹の趣味といふには餘りに智識的、觀念的でありすぎる。純粹の趣味――卽ち一元的の直感――は、決してそんなに固くるしい議論めいたものではない。たとへそこにどんな深玄な哲學が暗示されてあるにもせよ、趣味としての顯現は、その周圍に一種の言ふべからざる情緖、感情の濃やかな色合ひを帶びるのである。その理由は、前に述べた如く、直感の境地に於ては「思想卽感情」「感情卽思想」であつて、兩者一如の眞如を現出するから、若しそこで明らかに、之れは思想、之れは感情、として觀念される者があつたとすれば、何よりもそれが純一の直感でない證據、不純の槪念物たる證據である。

 とはいへ、若し少しく觀照者の側での調子を弱めていふならば、既に純粹の槪念といふべきものはないのだから、從つて、どんな調子の弱い詩でも、之れを敍情詩の圈内に繰りあげて差支へないとも考へられる。しかし私は、敍情詩人としての私の良心から判斷して、自分自身に恥かしいもの、卽ち純粹の直感的、人格的の趣味になりきらないもの、未だ多少なりとも槪念や智識のカスを濁した思想は、純粹の敍情詩として發表する勇氣をもたない。すべての思想は、それが完全に人格となりきつた時、全くその思想らしさを失つてむしろ溫かい感情となり、また趣味となつて發顯される。故に趣味で書かれない藝術はすべて虛僞の――若しくは調子を弱めたる――藝術である。以下發表する六篇の詩は、勿論私にとつて虛僞の詩ではない。それは實際の經驗であり、僞らざる告白である。しかし乍ら、純粹の敍情詩といふべく、あまりに調子を弱めすぎてゐる。卽ちあまりに說明的でありすぎる。所で所謂、それが「槪念敍情詩」なのである。

 

   古くなつた思想

 

古くなつた思想は

丁度 靴のやうなものである。

足の方で成長しないのなら

だれにだつて

慣れた靴ははきいい。

 

   自由詩人の迷信

 

汽車は軌道をはしつて行く

あんなにも心持よげに

まるで軌道の リズムの上をすべつて行くやうだ。

だがもし軌道がないならば

汽車はもつと早く

そしてもつと自由に飛ぶだらう。

おお立派な推理!

そこで汽車が顚覆したといふわけ

見られる通り。

 

   美學者と藝術家

 

君たち 流行おくれの婦人よ

君の新しい衣裝は

いつでも流行の趣味に遲れてゐる。

君の今日知つてゐる美

僕らが昨日感じた美

君らは永遠に追ひつかない。

 

   實用的でない議論

 

「かれが水に這入るまへから

子供は溺れるにきまつてゐた」

と決定論者が主張した。

「否(いや)。子供は選擇をあやまつた

さうでなく 淺い方へ泳いだならば

子供は此所に立つてゐた」

と反對者が、自由意志の論者がわめいた

「いづれにせよ」

あはれな犧牲の父親が怒り出した

「いづれにせよ子供は死んだ

いづれにせよ この議論は實用的でない」

 

   厭世思想家の趣味

 

日あたりのいい庭では

どんな菌(きのこ)も發育しない。

だから菌は

どんな天氣にも 日向(ひなた)をすかない。

これは自然に適つた趣味だ。

 

[やぶちゃん注:底本には編者注があり、『同時發表の「有神論のヂレンマ」は「全集第四卷(『新しき欲情』)」に收錄』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの同原本のここ。電子化しておく。

 

   *

 

  212

 

有神論のヂレンマ 神がもし人間であるならば! と無神論者が言つた。愛したり、憎んだり、罰したり、怒つたりする人間であるならば、おお、私は神を輕蔑する、神がもし人間でないならば、自然のやうな、宇宙のやうな、實在のやうな、無限のやうな創造者のやうな、雲をつかむやうなものであるならば、神の存在に就いて、私にまで何の關係があらうぞ。

 

   *

「ニイチエの論集『悅ばしき智識』」「悦ばしき知識」(Die fröhliche Wissenschaft)は一八八二年刊。ウィキの「ニーチェ」によれば、『ニーチェの中期の著作の中では最も大部かつ包括的なものであり、引き続き』、『アフォリズム形式をとりながら、他の諸作よりも多くの思索を含んでいる。中心となるテーマは、「悦ばしい生の肯定」と「生から美的な歓喜を引き出す気楽な学識への没頭」である(タイトルはトルバドゥールの作詩法を表すプロヴァンス語からつけられたもの)』。『たとえば、ニーチェは、有名な永劫回帰説を本書で提示する。これは、世界とその中で生きる人間の生は一回限りのものではなく、いま生きているのと同じ生、いま過ぎて行くのと同じ瞬間が未来永劫繰り返されるという世界観である。これは、来世での報酬のために現世での幸福を犠牲にすることを強いるキリスト教的世界観と真っ向から対立するものである』。『永劫回帰説もさることながら、『悦ばしき知識』を最も有名にしたのは、伝統的宗教からの自然主義的・美学的離別を決定づける「神は死んだ」という主張である』とある。私は邦訳全集を所持するが、ドイツ語は読めない。原文が読める方は、こちらに電子化されてある。]

2022/12/09

大和怪異記 卷之六 目録・第一 瀨川主水かたきうちの事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから(挿絵が途中に入るが、これは本話のものではない)。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 但し、目録では総ての読みをそのままに示した。歴史的仮名遣の誤りは総てママである。標題の頭の「十一」以下の数字は底本では半角。]

 

やまと怪異記六

一 瀨川主水(せははもんど)かたきうちの事

二 稻荷(いなり)の神酒(みき)をぬすむ老人(らうじん)が事

三 病中(びやうちう)にたましゐ寺(てら)にまいる事

四 幽㚑(ゆうれい)子(こ)をはごくむ事

五 狼(おほかみ)人(ひと)にばけて子(こ)をもちし事

六 幽㚑(ゆうれい)來(きた)りて妻(さい)をいざなふ事

七 殺生(せるしやう)のむくゐにて目鼻(めはな)なき病(やまひ)をうくる事

八 鳳來寺(ほうらいじ)の鬼(をに)の事

九 紀州幡川山(きしうはたかはやま)禪林寺(ぜんりんじ)由來(ゆらい)の事

十 へびのしうしんうづらをころす事

十一 かねにしうしんのこす僧が事

十二 きつねばけ損(そん)じてころさるゝ事

十三 ねづみをたすけて金(かね)を得(う)る事

十四 鳫風呂(がんぶろ)の事

十五 むさうを得(ゑ)て富(とめ)る事

十六 うかひ死期(しご)に惡相(あくさう)をあらはす事

十七 火車(ひのくるま)にのる事

十八 臨終(りんじう)にねこ來(きた)る事

十九 洪水(こうずい)に大(だい)じやのされかうべ出る事

二十 毒草(どくさう)の事

 

 やまと怪異記六

 第一 瀨川主水(せがはもんど)かたきうちの事

 慶長年中、藝州に、瀨川左近といふ侍あり。

 其子に、主水とて、廿歲(はたち)になる男子(なんし)あり。

 同国の住人、山田新左衞門といふものゝむすめ、十五歲になれるを、

「よめにせん。」

ことを約しながら、いまだ、むかえざりし内に、かの左近、朋輩(ほうばい)の木崎(きざき)弥五郞といふ者と、不圖(ふと)、口論を仕出《しいいだ》す。

 弥五郞、左近を討(うち)て、その座をたちのき、かげを、かくせり。

 これによつて、主水、かたきの行衞(ゆくゑ[やぶちゃん注:ママ。] )をたづねて、

「父があたを、むくゐん[やぶちゃん注:ママ。]。」

ことを思ひ、弥五郞がたちのきたるかたをはかりて、たびたび、折ふし、父がよめに約せし山田が女子(によし)、乳母(うは[やぶちゃん注:ママ。])一人を具(ぐ)して、主水がもとに來り、對面し、女ながらも、ともなひ行《ゆき》て、

『しうとの、かたきをうたん。』

ことを、再三、こひ、のぞみしかども、主水、其心ざしは、うれしけれ共゙、かへつて、さまたげとなるなれば、

「そのまゝ、国もとに、のこりゐて、わがかへりを、まちてたべ。」

と、いさめつゝ、山田が宅に、をくり[やぶちゃん注:ママ。]とゞけ、その身は、すぐに、たびだちけるとぞ、聞えし。

 かくて、翌年(よくねん)四月十四日、するがの国にて、弥五郞が住所(《ぢゆう》しよ)を聞出《ききだし》し、

「明日、をもむかん[やぶちゃん注:ママ。]。」

とする夜のゆめに、藝州にのこせる妻(さい)、來り、すけ太刀(だち)うつて、敵(かたき)の首(くび)を得たり、と、みて、翌朝(よくてう)、かたきのかくれがに、たづね行《ゆき》、なのりかけて、思ひのまゝにうちおほせ、本国にぞ、歸りける。

 しかるに、藝州に有《あり》ける妻、四月十四日の夜(よ)、をつとと共に、かたきをうつ、と、ゆめ、み、翌朝(よくてう)、をきて[やぶちゃん注:ママ、]、父母(ちゝはゝ)にかたり、

「うれしや。主水どの、けふこそ、かたきをうちて、本望(ほん《まう》)をとげ給ひたれ。」

と、いひしかば、父母をはじめ、をのをの[やぶちゃん注:ママ。]、

「世のことわざにも、『おもひねのゆめ』といふ事あり。いと、はかなし。」

と、わらひけるに、其後《そののち》、主水、藝州にかへり、かたきうちの次㐧(しだい)、旅宿(りよしゆく)にてのゆめを、かたるに、妻がゆめみし刻限と、少《すこし》も、たがはざるぞ、ふしぎなれ。

 主水は父が跡式(あとしき)に、弥五郞が知行まで、くだし給《たまは》り、山田が女子を妻(さい)とし、子孫まで、繁昌しけるとかや。「異事記」

[やぶちゃん注:「異事記」は不詳。「近世民間異聞怪談集成」の解題で土屋氏も、本書を『該当する資料名が不明なもの』の一つに入れておられる。

「慶長」一五九六年から一六一五年まで。江戸幕府開府の前後。

「瀨川左近」不詳。]

2022/12/08

大和怪異記 卷之五 第十二 小西何某怪異のものを切事 / 卷之五~了

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十二 小西何某(こにしなにがし)怪異のものを切(きる)事

 但馬国に小西何がしといふ侍あり。勇氣、他(た)にこへ、武藝の奧旨(《おう》し)をも、きはめたる聞えあり。

 しかるに、ある年、主君より、屋敷をたまはり、地形をならさせけるに、此地、むかしは墓所にてやありけん、山伏の死骸を、ほり出《いだ》す。

 面形(めんぎやう)・衣服まで、あらたに葬れるものゝごとし。

 早朝の事なりしに、朝日、さしわたるとひとしく、かのかばね、雪霜(ゆきしも)のとくるごとく、消《きえ》うせける。

 かゝりし後(のち)、小西氏、熱病をうけて、東西をわきまへず、針・灸・湯藥(《たう》やく)のちからにも及びがたく、はや、すでに時刻を待(まつ)ばかりに成(なり)にける。妻子・親族、こぞりあつまりて、なくより外の事もなき。

 しかる所に、外(ほかの)人の耳には、いらず、小西ばかり、聞《きき》けるは、昼の山伏なり。

「水、ひとつ、くれよ。」

と、外より呼(よばゝ)りければ、さしも、死を待《まつ》ほどなる小西、

「心得たり。」

と、いひて、

「むく」

と、をき[やぶちゃん注:ママ。]、かたはらなるわきざしを取《とり》て、立出《たちいづ》るを、妻子・親族、引《ひき》とゞめ、

「こは、いかに。熱におかされけるか。心をしづめよ。」

と、いひければ、小西、

「いや。左《さ》には、あらず。われに、まかせよ。」

と、ふりきつて、ひさく[やぶちゃん注:「柄杓(ひしやく)」に同じ。]に、水を、くみ、

「外の戸を、ひらけ。」

といふ。

 下人、不審ながら、戸をひらけば、小西、左手(ひだりのて)にて、ひさくを出《いだ》して、

「山伏、これを吞(のめ)。」

といふ聲と共に、拔(ぬき)うちに切《きり》けるに、

「はつし」

と、手ごたえして、むかふなる芽(ち)がきに、

「とう」

ど、あたり、たをれしをとし[やぶちゃん注:ママ。]ければ、家内(けない)、不殘《のこらず》、火をとぼし、出《いで》てみれども、妖恠(《えう》くわい)は、かきけちて、見へず[やぶちゃん注:ママ。]。

 小西、笑《わらひ》て、

「左あるべし。某をなやまさん事は、思ひもよらず。」

と、いひて、内に入《いる》とひとしく、熱病、たちまちにさめ、つねのごとくになりしとかや。但馬土人物語

 

 

やまと怪異記巻五終

[やぶちゃん注:今まで通り、この「但馬土人物語」は書名ではなく、「但馬の土人の物語り」の意でとる。

「但馬国」現在の兵庫県北部に当たる。

「小西何某」不詳。

「たをれしをとしければ」「たふれしおとしければ」が正しい。この「たふれ」の後の「し」は古代からある副助詞で、体言・活用語の連用形或いは連体形・副詞・助詞などに付き、強意を示す。係助詞或いは間投助詞とする説もある。中古以降は「しも」「しぞ」「しか」「しこそ」など係助詞を伴った形で用いられることが多くなる。但し、「必ずしも一般的でないだろう」と違和感を持つ読者も多いだろうが、あなたも、果てしない時間が過ぎた、今しも、まさに、――「ただ」「必ずも」「果てない」――など、慣用語の中で現に用いられているのである。]

大和怪異記 卷之五 第十一 猿身をなぐる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここと(ここにある挿絵は紛らわしいが、先行する「第五 猿人の子をかりてをのれが子の敵をとる事」のものなので本篇のものではないので注意)、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第十一 猿(さる)身をなぐる事

 豐前国小倉に、茂右衞門とて、「さるまはし」あり。母ざる・子猿を、かひける。

 つねに、子ざるを、ふところにいれ、所々にて、いだし、乳(ち)をのましめけり。されども、此子ざるに、心ひかれてや、おもふやうに、まはず。

 茂右衞門、はらをたて、あるとき、子猿を、やどにをき[やぶちゃん注:ママ。]、母さるをつれ、あなたこなた、まはし、ありく。

 ひる程にもなれば、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]が乳のはりたるに、子猿を思ひ出し、うつぶして、物をあんじたるていにて、いかにうて共゙、まはず。

 茂右衞門も、さすがに不便(《ふ》びん)に思ひ、家ぢにかへるとて、一、二町前より、つなを、ゆるしければ、いそぎ、家にかへりける。

 茂右衞門も、ほどなくかへりみれば、此子さる、火(ひ)に入(いり)て、やけ死(し)したり。

 母猿、ふるきわたを、ひねり、子ざるのほぞにをき[やぶちゃん注:ママ。]、火を、三門、すへて、もはや、よみがへらぬ事を思ふにや、もだえ、こがれ、なきさけびしが、死《しに》たる子ざるをかゝヘて、裏口(うらぐち)にいで、

『いかにするぞや。』

と思ひ、行《ゆき》てみれば、此子をいだきながら、井《ゐ》にとび入《いり》て、死しぬ。

 茂右衞門、これをみて、

「かゝる畜類といへ共゙、恩愛の情(なさけ)、人に、かはらず。我も又、年月、かれにやしなはれ、其恩も有《あり》。」

とて、是を、ぼだいのたねとして、かみをそり、念佛まうし、一生を過(すぐ)しけるとぞ。

[やぶちゃん注:「同」は前話と同じ不詳の「怪事考」。

「一、二町」約百九~二百十八メートル。

「ほぞ」臍。

「三門」「門」は助数詞。一般には火砲の数を数えるのに用いるが、ここは灸のそれ。なお、灸では、臍の位置の真後ろの背骨の位置に「命門(めいもん)」という、生命の働き全般に関わるツボがあるから、見よう見真似でそれを臍に据えたものか。プレに涙を誘うシークエンスである。]

大和怪異記 卷之五 第九 かゐる蛇をふせぐ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 標題の「かゐる」はママで、本文でも同じ。「蛙」の読みの「かへる」の音変化に「かいる」があるが、「ゐ」は誤りである。]

 

 第十 かゐる蛇(へび)をふせぐ事

 若狹(わかさの)侍、かたりていはく、

「わかきじぶん、三月もすえになり、いとあつき比《ころ》、にはに、水、うたせ、草木(くさ《き》》も、つゆ、おもげに見え、すゞしき風に、あふぎも、わすれ、ゑん[やぶちゃん注:ママ。「緣(えん)」。以下同じ。]に、こしをかけ、いねふりがちなるをりふし、むかふのうゑごみのうちより、二尺ばかりのへび出《いで》、こなたに、むかひ來《きた》るとき、ゑんの下より、かゐる、いでしを、蛇、見つけ、のまむ、と、より來《きた》るに、此かゐる、前あしを、あげ、あひ、まつ。へびも、又、とゞまる。しばらく有て、へびよりて、のまむ、と、すれば、まへあしをあげ、蛇のかしらを、うつ。うたれて、しりぞく。又、よれば、かしらを、うつ。かくする事、三度に及び、蛇は、もとの所に、にげかへる。あまりにふしぎに思ひ、此かゐるをとりてみるに、釘の、をれ、二分(にぶん)ばかりにて、なるほどするどきを、手のうちに、にぎり、これにて、蛇のよりくるとき、かしらをつくゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、いたみて、のみ得ずと見えたり。かやうの蟲までも、をのれ[やぶちゃん注:ママ。]にかたき有(ある)ことを、かねて、しり、これにて、ふせぎけるにや。あまりふしぎなる事ゆへ、あたりの人をあつめ、見せたり。」

と、かたりき。「怪事考」

[やぶちゃん注:典拠「怪事考」は不詳。「近世民間異聞怪談集成」の解題で土屋氏自身が、本書を『該当する資料名が不明なもの』の一つに入れておられる。

「釘の、をれ」釘の折れたもの。

「二尺」六十一センチメートル弱。

「二分(にぶん)」読みはママ。二分(にぶ)は六ミリメートル。]

2022/12/07

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「宿河原村靈松道しるべ」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説拾遺」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上段二行目)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 特に最後の筆者(馬琴ではない)の現地での体験が、いかにも、のどかで、失われた多摩川の往時の景色が目に見るようなので、そこの部分のみ、改行を行った。まるで芭蕉の「奥の細道」の黒羽(私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅5 黒羽 秣負ふ人を枝折の夏野哉 芭蕉 / 「奥の細道」黒羽の少女「かさね」について』を参照されたい)の武蔵国版を読むようで、思わず、うるうるしてしまったことを告白しておく。失われた美しき日本の原風景が髣髴した。

 なお、標題の割注は前に「宿河原村靈松」の記事があって、その追録という意味ではなく、前の文政十三年庚寅春閏三月廿日、伊勢内宮御山荒祭宮以下炎上の節、傳奏方雜掌達書」の記事に余白があったので追錄した、という意味。

 

   ○宿河原村靈松道しるべ【この一條は追錄也。】

武藏州《むさしのくに》橘樹郡《たちなばのこほり》宿河原村【字《あざ》綱下ケ《つなさげ》と云。】の山の上に古松あり。三年以前、庚申の秋の頃より、枝葉、衰へて、自然《おのづ》と枯るゝ色、見えて、去《いんぬる》冬の頃は、葉をふるひ、千とせといへる限りにや。終《つひ》に、はかなく枯《かれ》たりけるを、惜み居《をり》たりけるが、當年春の頃、二月に至りて、近傍の若もの、「かの松の枝をとりて、薪《たきぎ》にせん。」とて、手々《てんで》に伐《きり》とりて、家々に攜《たづさへ》たれば、各《おのおの》、發熱、頻《しきり》にして、惱亂《なうらん》、甚しかりければ、皆、恐怖して、其枝を、とり集め、枯樹の所へ揃置《そろへおき》、拜謝して收めければ、追々、快く成《なり》て、何《いづ》れも恙なかりけり。この事を聞傳て、壬辰三月のはじめより、近村近鄕の人々、老若男女に限らず、來り拜する事、神の如し。又、靈ある事も、神のごとしとて、四月なかばより、遠方の人まで參詣群集すること、日々に市《いち》をなせり。是が爲に、新亭を造り、酒・肴・茶菓等を設《まうけ》なして、客を待《まつ》事、夥《おびただ》し。松の南の方に、鳥居をたて、小宮《こみや》を置、餅【おそなへ五文どりを、十二文にひさぐ。】をそなへ、或は、鳥居の小なるものを備《そなふ》るも、ありけり。

一、松は赤松にて、蟠幹《ばんかん》、屈曲、高さ丈餘、圍み、二人合抱《あひだき》ともいふべし。遠望すれば、盆玩《ぼんぐわん》[やぶちゃん注:盆栽。]の者に髣髴たり。北方に、穴、ありて、其中に、白蛇、住《すめ》りといふ。時ありて、形を顯せり。「押揚の松」に、ひとし。又、傳へ云、萬壽年間のもの、とぞ。いづくの記錄に見ゆるにや、詳《つまびらか》ならず。萬壽は今を距《へだつ》ること、八百有餘年也。八百年を經たらんとも思はれず。予が園中の松は、予が少年の比、實生《じつせい》を植《うゑ》たるが、今は、はや、根元にては、二尺餘り周《めぐ》るベし。併《しかし》、土地にもより、松の性《しやう》にも、よるべし。

一、見にゆく人あらば、太子堂より世田谷かたにゆかずして、「二子《ふたご》の渡《わたし》」に出で、二子の驛に不ㇾ出して、堤の上を右にゆき、田ばたの道をゆけば、十七、八町にして、松の側に到る。驛に出ると、十町餘りも遠かるべし。

 

Komatudouhyou1

 

Komatudouhyou2

 

[やぶちゃん注:ここに底本では道標の図が縦に二図ある。しかし底本は印刷文字である上に、画像がボケているので、不満足であったため、私の画像アプリではちょっと面倒だったが(正字体の「戶」が当該アプリのテキスト挿入システムでは使用できなかったため、画像で「グリフウィキ」のものを入れ込んだ)、だいたい印象が同じようになるように、独自に作成したものを掲げた。枠内の文字は、上が、

 

宿 河 原 古 松

二 子 へ 二 里

二子より一町

 

で、その下方に、以下の、

太子堂標

キャプションが、右から左に書かれてある。「たいしだうしるべ」であろう。一方、下が、

 

圓座松へ十二

町、北北澤、

牡丹江戶道

 

だが、読点を右下に打つことが出来なかったので、空欄とした。実際の道標でも、私は「、」はなかったものと思ったからでもある。その下図の下方に、キャプションが、

 

宇那根の標

 

とある。「宇那根」は「うなね」と読む。現在の東京都世田谷区西南部、及び、多摩川を挟んだ対岸の神奈川県川崎市高津区西北部にある地名であり、ここには嘗つて「宇奈根の渡し」があった。グーグル・マップ・データでここ(以下、無指示は同じ)である。さて、さらに二図の下方に以下の総合キャプションがある。

 

宇那根村の標を見

れば、常に圓座松

と稱せしならん。

荏原郡世田ケ谷へ

出てはよほど遠し。

 

とある。]

 

一、牛門より太子堂へ、二里にして、近し。太子堂より一里半、都《すべ》て、三里半もあるべし。宿河原村の邊は、都て、御代官中村八太夫が支配なり。

一、宇那根村は、柿樹《かきのき》、多し。北見の伊右衞門が家に到りて、蛇の守を受く。

一、「地理をわきまへたる者、河原村の大吉といふものあり。」と聞《きき》て、その家に不在なれば、空しく去りぬ。

○近きみちを傳へたるは、漁童にぞ、有ける。

 三軒屋、南方《みなみかた》、新町といふ所にて、十二、三才の童、竹の棒を肩にして、ゆく、あり。

 これに余は、

「いづこへ、ゆくにや。」

と問ふに、

「白金臺まで、鮎を送りて、はや、歸路也。」

と答ふ。

「扨、鮎は、いかにして、とるぞ。」

と問へば、

「蚊針《かばり》にて、釣《つり》得《え》、籠に三十尾《び》を收め、六つ、かさねて、棒にくゝり付《つけ》、二子の近村より、目黑の白金臺まで、二里半餘りの路程を、日々、通ふ。」

といふ。

「とるには、朝と夕也。風あるときは、晝も釣るべし。」

とぞ。

「家業なれば。」

とて、つとめたるもの也。

「予と一所に、あゆみ給《たまは》ゞ、尺近き路を傳へ申べし。」

とて、先に立《たち》て行《ゆく》。

 「ふたご」を渡りて、堤をゆきて、一村に出《いで》たり。

 農業を兼《かね》たる漁人の家也。

「是《ここ》こそ、予が家也。こゝより、この幅のひろき路をさへゆけば、違《たが》ふことなし。」

と云捨《いひすて》て、漁童は、家に入にけり。

 をしへのごとく、ゆきしに、少しも、たがはず、松に到りぬ。

 「三つ子に聞《きき》て淺瀨をわたる」たぐひならずや。

  天保三年辰四月盡    牛門の茜坡居士識

 是書、借謄輪池翁藏弆、原本畢有地圖一焉。以是卷餘紙無一レ之。故臨寫別本雜記中、時、壬辰夏六月上浣。  著作堂主人追錄

[やぶちゃん注:「武藏州橘樹郡宿河原村【字《あざ》綱下ケと云。】」現在の神奈川県川崎市多摩区宿河原はここ。図の解説で示した「宇奈根」の上流に接する。而して、その南東の端に「下綱の地蔵菩薩像」があり、「下綱(さげつな)」バス停もある。而して、その南東の丘陵の麓に「松壽弁財天」(今も宿川原地区)を発見、グーグル・マップ・データ航空写真を見るに、この弁財天社は明らかな丘陵地内にあることも判る。そのサイド・パネルの解説碑(視認可能)で、ここが本文に書かれる社で間違いないことが判った。但し、「今昔マップ」の戦前の地図をみても「下綱」ではあるが、読みが「ゲツナ」とある。

「三年以前、庚申」最後のクレジットが「天保三年」壬「辰」(一八三二年)であるから、「三年」「前」は、文政一三・天保元(一八三〇)年であるが、この年は庚寅であるから、これは誤りかと思われる。

「おそなへ五文どりを、十二文にひさぐ」「お供え物」と称して「五文」相当のものを、ぼって「十二文」で売っている。縁起物だから、皆、文句を言わないのである。

「蟠幹」激しく幹が曲がりくねった樹形で、根元付近では、太く複雑に蜷局(とぐろ)を巻いたような幹を指す。

「押揚の松」不詳。

「萬壽年間」平安後期の一〇二四年から一〇二八年まで。

「丈餘」三メートル超。

「圍み、二人合抱《あひだき》ともいふべし」木の幹の円周が大人二人が両手を広げたほどの意であろう。所謂、「尋」(ひろ)であるが、明治になって一尋は六尺で約一・八一八メートルと規定されたが、私は江戸時代の成人男子の平均身長から見ると、別説である一尋を五尺(約一・五一五メートル)とするのを支持するので、三・〇三メートルとなる。

『太子堂より世田谷かたにゆかずして、「二子《ふたご》の渡《わたし》」に出で、二子の驛に不ㇾ出して、堤の上を右にゆき、田ばたの道をゆけば』「太子堂」は東京都世田谷区太子堂。西に進むと、世田谷だが、そちらに向かわずに、南西方向に多摩川へ向かい、 「二子の渡し」に出て、その渡しを渡る。但し、対岸(多摩川右岸)直近の「二子宿」のあった現在の神奈川県川崎市高津区二子の方には行かずに、「右手」(西南西)に多摩川を右岸に添って堤の上を遡上すると。

「十七、八町」一・八五五~一・九六三メートル。ちょっとドンブリに過ぎる。最短で実測しても、「二子の渡し」の右岸からは、三キロ強は確実にある。

「驛」二子宿。

「十町」一キロ強。確かに一キロ以上は迂回する形になる。

「宿河原古松 二子へ二里 二子より一町」という「太子堂標」のそれはちょっと意味が判らない。「太子堂」から「二子へ二里」は概ねいい(実測で七キロ弱は確かにある)が、「宿河原古松」というのは、下方の図を見るに、弁天社の松のことではないようだ。「二子より一町」(約一・〇一一メートル)は短過ぎるからで、或いは、多摩川の宿河原方向にあった古い松か。にしても、古い地図を見ても、たった一町では絶対に宿河原の東端には到達は出来ない。不審。

「圓座松へ十二町」この数字は起点が上流に移るから、正しい。一・三〇九メートルで、現行で実測しても、一・五キロメートルほどだからである。

「北北澤」この「宇奈根の渡し」から北東に向かうと、世田谷区北沢があるが、そこか。

「牡丹江戶道」不詳。このルートの江戸への街道のお洒落なネーミングということか。或いは、街道脇に牡丹を栽培する農家が多くあったものか。ただ、「荏原郡世田ケ谷へ出てはよほど遠し」は納得。適当に人道実測をしても、宇奈根の対岸からでも、十キロは超える。

「宇那根村の標を見れば、常に圓座松と稱せしならん」腑に落ちる。

「牛門」江戸城牛込見附門のことであろう。「太子堂へ、二里にして、近し」と言えるかどうかは、ちょっと疑問。太子堂からそこは直線でも九キロほどあるからである。

「北見の伊右衞門が家に到りて、蛇の守を受く」古くから知られた蛇除けのお守り札を出す家であったらしい。「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(7:野猪)」に出、そこで私は「北澤村」に注して、『以下で「多摩郡喜多見村」とあるから、これは東京都世田谷区北沢と南西に五キロメートル弱離れた世田谷区砧(域内の一部の旧村名は喜多見である)(或いはこの二つを含む広域)が候補地と考えてよかろう。されば、「北見」は地名に基づく呼称で、古い氏姓ではないようである。』とした。

「三軒屋、南方、新町」これは、東京都世田谷区新町ではなかろうか? 南西に多摩川、東北に三軒茶屋がある。また、多摩川の宇奈根の玉川左岸だが、「今昔マップ」で「五軒屋」という村落名は見つけた。

「白金臺」東京都港区白金台

「蚊針」羽毛などで、蚊の形に作られた、釣りに用いる擬餌針。毛針。水面に飛んでくる虫類を捕える習性のあるアユ及びハヤ類の仕掛けに用いる。

「尺近き路」距離の最も短い近道。

「天保三年辰四月盡」天保三年壬辰の「四月盡」(しぎわつじん)=陰暦三月の最終日が終わること。この年の三月は大の月で三月三十日。グレゴリオ暦では一八三二年四月三十日。

「茜坡居士」「せんはこじ」と読んでおく。人物不詳。

「是書」「このしよ」。

「借謄」「しやうとう」「借りて写す」の意。

「輪池翁」親友で「兎園会」・「耽奇会」でお馴染みの幕臣の文人屋代弘賢。

「藏弆」「ざうきよ」。整理せずに投げ捨てたように蔵書する。これは自己の蔵書の謙遜語ではなく、一種、蔵書家のそれを言う語のようである。馬琴は好んで使う語である。

「原本畢有地圖一焉」「原本が畢(をはり)に地圖有り。」。但し、本篇では地図はない。それを転写するまでの紙数はなかったというのである。

「故臨寫別本雜記中」「ゆゑにべつに本(ほん)雜記中に臨寫(りんしや)せり。」。

「上浣」(じやうくわん(じょうかん)は月の初めの十日間。上旬。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「文政十三年庚寅春閏三月廿日、伊勢内宮御山荒祭宮以下炎上の節、傳奏方雜掌達書」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説拾遺」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段五行目)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。一ヶ所、不審な箇所を小文字にした。

 ひとつ前の「文政十三寅の閏三月十九日伊勢御境内出火」の追記記事。]

 

   ○文政十三年庚寅春閏三月廿日、

    伊勢内宮御山荒祭宮以下、

    炎上の節、傳奏方雜掌達書

去る廿日、内宮別宮荒祭宮以下、炎上の由、依ㇾ之、從今廿六日來《きたる》朔日、五日の間、廢朝、被ㇾ止。

帝奏、警蹕、候。仙洞樣、五ケ日、被ㇾ止物音候。此段、爲御心得申入日、兩傳奏え、申付候。以上。

 閏三月廿六日       兩 傳 奏 雜 掌

按ずるに、内宮炎上、萬治元年十二月廿九日、末社、囘祿、畢《をはんぬ》。明年、遷宮。天和元年十二月十三日、自内宮寶殿出火炎上。文政十三年閏三月十九日、内宮御山、炎上。荒祭宮・古宮、及、八十末社、囘祿、畢。新御宮、無異。

              著 作 堂 追 記

 是より下《くだり》、集《あつめ》る所、世に

 はゞかるべき事も、まじれり。みだりに人に

 貸《かし》て見することを、ゆるさず。予が

 いとまなき身の、かく迄にあつめたる者なれ

 ば、折々、枕の友となすのみ。子供・初孫等、

 此心もて、帳中の祕となすべきもの也。

[やぶちゃん注:「文政十三年」一八三〇年。

「萬治元年十二月廿九日」既に一六五九年一月。

「天和元年十二月十三日」既に一六八二年一月。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「大阪寺院御咎聞書」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ下段最終部)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。一ヶ所、不審な箇所を小文字にした。]

 

   ○大坂寺院御咎聞書

文政十三庚寅年四月聞書、大坂にて、

          上寺町

                蓮 生 寺

                宗 心 寺

          淨土宗  竹 林 寺

                一 心 寺

          下寺町

                金 臺 寺

                心 光 寺

          日蓮宗千日

                自 安 寺

          北の村

                圓 頓 寺

          眞言生玉社僧

                曼 荼 羅 院

右之寺々、身持、不如法に付、被召捕候由。

 大黑と云人は、一に檀家をふみ付《つけ》て、

 二に肉食ならぬ身で、三に肴のかくしぐひ、

 四つ、よそから見る時は、五つ、いつでもお

 針にて、六つ、むしように酒をのみ、七つ、

 何から何迄も、八つ、やたらに世話をやき、

 九つ、公儀の御厄介、十で、とうとう、しば

 ら れた、よいきみの大黑舞。

 禪宗も法華もまじるその中に

      何とて淨土すくなかるらん

 女房、悅べ、門徒は、おやくに、たゝぬは、

 やい。

[やぶちゃん注:落首から、破戒僧の集団摘発処分らしい。寺の現存検証は、今に現存すれば、覚えのないことと、反論されそうだから、注はやめとくわ。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「文政十三寅の閏三月十九日伊勢御境内出火」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上段最終行)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。一ヶ所、不審な箇所を小文字にした。]

 

   ○文政十三寅の閏三月十九日伊勢御境内出火

一、當十九日、夜丑二刻[やぶちゃん注:午前二時頃。]、宇治畑町、岩崎太夫より出火、折節、西北風、强、今在家町《いまざいけちやう》へ飛火、夫より、館町《たてちやう》へ飛火、暫時の間に、火、一面に相成、畑町・中の切町・今在家町・館町通り筋《すぢ》、裏町共、不ㇾ殘、燒失仕候。夫より、御馬屋、御燒失、最《もつとも》、御神馬無別條、新御殿、少々も、別條、無ㇾ之。

一、八十末社、不ㇾ殘、燒申候。

一、宮中の大木、凡、廿本計《ばかり》燒申候。其外、燒木、數、不ㇾ知。

一、御借殿、酒垣殿、御押供料御殿、御子良殿、風呂、此邊、末社、別條無ㇾ之候。

一、宇治大橋、前後、鳥居共、燒落申候。

一、卯刻、漸々《やうやう》、下火に相成候得共、矢張、風、强、山々に、火、移り、廿一日午刻迄、火、見え申候。

一、東は杉坂と申所迄、燒申候。内宮より、凡、一里半計、有。最、瀧ケ峠近邊迄、燒申候。凡、貳里計、有。

一、廿一日、晝後より、大雨、降出し、不ㇾ殘、火鎭り申候。

右の通、伊勢より申來候。

 寅閏三月

禁裏、三日、廢朝《はいてう》、帝奏、警蹕《けいひつ》、止《やむ》。

[やぶちゃん注:先に複数の記事で知られる通り、この「文政十三」(一八三〇年)「寅の閏三月」は、所謂、「お蔭参り」の本格的流行の月始めであった。まだ、とば口であったから、よかった。爆発的なその最中にあったら、参詣人が大混乱を起こし、有意な騒擾が発生したことであろう。幸いであった。前の「お蔭参り」記事で注した通り、私は伊勢神宮内には冥いし、興味が全くないので、以上の施設には注をしない。宇治山田を中心とする町名も同断。悪しからず。

「瀧ケ峠」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「廢朝」天皇が服喪・病気・天変・回禄(火災)などのために政務に臨まないこと。諸官司の政務は平常、通り行なわれた。「輟朝」(てっちょう)とも言う。

「帝奏」勅使、或いは、それに代わる朝廷から伊勢神宮常置の礼拝担当官僚。

「警蹕」神殿の扉を開ける際に神職が出す「おお」という神霊への礼の声。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「一月寺開帳御咎遠慮聞書」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ下段半ば)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。一ヶ所、不審な箇所を小文字にした。]

 

   ○一月寺開帳御咎遠慮聞書

文政十三庚寅年春、淺草觀音境内にて、下總國小金村一月寺、本尊開帳の節、

 似《え》せ虛無僧にて、被召捕候人々の由、

 衣服・改名・住所等、尋《たづね》、差返置候者。

               筧 傳五郞 靜山

               日野古十郞 秋山

           新見十兵衞二男之由

               名不ㇾ知     貞學

          小普請組

           小笠原勝三郞支配

              中田鍬五郞  晉隣

 召連候者、

           民部卿殿徒士頭

            小島藤右衞門組

              三浦雄五郞  陰樹

           淺草新堀東町組屋敷

            大御番與力當時浪人

              渡邊勝之助  巳道

           從弟

            佐野半十郞住所長冨町

             兄加藤常五郞

              上野御殿勤厄介人

              加藤半五郞  晉風

           下谷坂本入谷村

            御掃除頭柳田求右衞門組

             西丸表御膳所出役

              福原小三郞  貞友

           本所御掃除町組屋敷

            聖天下舟宿竹屋養子

              磯部勝次郞  竹壽

一月寺は、遠慮・逼塞、開帳場淺草念佛堂、戶、しめ、御目見以下のものは、右、つれられて、それぞれへ、あづけらるゝ。九月中旬にいたりても、なほ、落着の事、聞えず、と云。當時の落首、「小金より大金まうけに來たれども一日ぎりであとは御無用」。

似せ虛無僧の錦繪、三番、出る。馬喰町森屋治兵衞板元也。草紙、改《あらためて》、名主より、賣留《うりどめ》申付、絕板。

[やぶちゃん注:「遠慮」処罰の一種。形式は「逼塞」と同内容であるが、それよりも事実上は自由度の高い軽謹慎刑で、例えば、夜間に潜り戸からの目立たない出入りは黙認された。

「文政十三庚寅」グレゴリオ暦一八三〇年だが、この文政十三年は十二月十日(一八三一年一月二十三日)に天保に改元している。

「下總國小金村一月寺」(いちげつでら)は現在の千葉県松戸市小金にあった虚無僧寺として有名な普化宗(ふけしゅう)の関東総本山であった。普化宗が江戸幕府との繋がり強かったことから、明治政府により解体されたが、寺院としては後に日蓮正宗に宗旨替えをし、寺名も「いちがつじ」に改め、金龍山一月寺と再興されてある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「小金より大金まうけに來たれども一日ぎりであとは御無用」普化宗の用いる「普化尺八」とは、異なるが、尺八の一種を「一節切(ひとよぎり)」と呼ぶ。これは、古く室町時代に伝えられたとされ、竹の節を一つ含むように作られていることから「一節切尺八」と呼ばれる。この落首は尺八全般を「一節切」とみなし、それに洒落めかしたものである。

「九月中旬にいたりても、なほ、落着の事、聞えず」贋普化僧の中に複数の幕府の現役番士らは含まれていたからであろう。現在の閣僚ドミノ解任と同じだ。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「豆腐屋一五郞孤女たか奇談」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ上段九行目)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○豆腐屋一五郞孤女《こぢよ》たか奇談

文政十三寅年四月、

          芝土器町瑠璃光寺檀家

            元京橋善助子分

              豆腐屋

 先年死去、          市 五 郞

 文政九戊六月六日死

 去、法名「味艷禪門」。           同 人 妻

             同人娘 た   か【寅十三歲】

兩親、引續《ひきづつき》、右之不仕合《ふしあはせ》故、無餘儀、何者の世話にや、深川、賣女屋《ばいたや》え、九才より、廿七才迄の約束にて、金四兩二分に賣遣《うりつかはし》候處、當春より、座敷へも差出候。其頃より、右亡母、每夜、娘を撫《なで》さすり、頻りに不便《ふびん》に存《ぞんず》る體《てい》、其主人を始《はじめ》、見受候て、當人は勿論、主人も甚《はなはだ》不審に存《ぞんじ》、氣味わるく相成《あひなり》、證文を相渡《あひわたし》、暇《いとま》遣候由にて、右、瑠璃光寺へ參り、最《もつとも》、男二人、女二人、附添《つきそへ》、段々之次第《だんだんのしだい》、申述《まをしのべ》、囘向《ゑかう》相賴《あひたのみ》候に付、不便に存、折節《をりふし》、江湖《がうこ》にて、出家、多く集り居候故、格別の經文、讀誦、四月四日、法事、執行致し、右の證文は、亡母《なきはは》墓所へ納め候。其後は出現不ㇾ致由、和尙、直話《ぢきわ》也。

 但《ただし》、賣女屋の家名、隱し吳《くれ》候樣

 賴候由にて、和尙、咄し不ㇾ申由、實說に御座候。

[やぶちゃん注:「文政十三寅年」グレゴリオ暦一八三〇年だが、この文政十三年は十二月十日(一八三一年一月二十三日)に天保に改元している。

「芝土器町」「しばかはらけまち」。現在の港区麻布台二丁目の一部、及び、東麻布一丁目・二丁目の北部辺り。現在の東京タワーのやや東の一帯(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「瑠璃光寺」「るりかうじ(るりこうじ)」。曹洞宗金龍山瑠璃光寺。現在の港区東麻布のここに現存。

「先年」文政十二年。父の逝去年。

「文政九……」母の逝去を指す。

「當春より、座敷へも差出候」既に十三だと、遊女としては見習いに当たる「新造」であるが、年齢的にみて、幸いにして、まだ客はとっていなかったのではないかと思われる。

「最」これは「ちゃんと」の意。遊女屋の主人の心遣いが感じられ、それ故に、私はまだ客をとってはいなかったと思うのである。

「江湖」「江湖會」(がうこゑ(ごうこえ))。禅宗、特に曹洞宗に於いて、四方の僧侶を集めて行なう夏安居(げあんご)を指す。「夏安居」仏教の本元であったインドで、天候の悪い雨季の時期の、相応の配慮をしたその期間の修行を指した。本邦では、暑さを考えたものとして行われた夏季の一所に留まった修行を指す。多くの仏教国では陰暦の四月十五日から七月十五日までの九十日を「一夏九旬」「夏安居」と称し、各教団や大寺院で、種々の安居行事(修行)がある。安居の開始は「結夏(けつげ)」と称し、終了は「解夏(げげ)」と呼び、解夏の日は多くの供養行事があるため、僧侶は満腹するまで食べるのが許された。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「奥州東磯江村百姓治右衞門娘とめ孝行記事」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上段後方)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

   ○奥州東磯江村百姓治右衞門娘とめ孝行記事

           奧州多羅郡東磯江村

  御代官池田仙九郞支配所  百姓 治右衞門

                  と  め【寅十歲】

右治右衞門儀、先達《せんだつ》て、傷寒相煩《あひわづらひ》候處、娘とめ、湯殿山え、立願《りふぐわん》いたし、「父、大病、平癒候はゞ、銅燈籠一臺、奉納可ㇾ致」旨にて、懸祈誓候處、無ㇾ程、及全快候間、「燈籠奉納致吳候」樣、とめ儀、頻《しきり》に治右衞門え、申聞《まをしきき》候得共、銅燈籠、細工人へ承合《うけあひ》候へば、「金九兩、相懸り候」由にて、貧窮の儀故、致猶豫居候處、とめ儀、「身を賣《うり》候ても、達《たつ》て、燈籠奉納致度《いたしたく》」、治右衞門へ相《あひ》歎き候間、所持の田地、半分、賣拂、漸《やうやう》、金四兩二分に相成候故、近邊の豪家へ參り、娘を年季奉公に入《いれ》、九兩致調達、燈籠をこしらへ、湯殿山へ致奉納候。扨《さて》、其後、とめ儀、豪家へ奉公に遣候處、子守爲ㇾ致候。或日、空より、木葉《このは》に交《まぢ》り、錢《ぜに》、降り候。とめ儀、右、錢を拾ひ候。餘人は正敷《まさしく》見候得共、手に入不ㇾ申候。右錢は、主人方え、拾ひ歸り、預け置候。又候《またぞろ》、兩三日《りやうさんにち》、相立《あひたち》候と、如先日、錢、降り、夫《それ》より、度々、降申候。餘人は拾ひ不ㇾ申候。其中にも降《ふり》候錢、とめ、孝心を天にて感じ、とめえ、與《あた》ヘ被ㇾ下候故、餘人拾候ては、冥罰《みやうばつ》恐敷《おそろしく》、乍ㇾ去《さりながら》、手傳《てつだひ》、拾《ひろひ》候て、とめえ、遣し可ㇾ申との存念の者は、拾ひ候へば、入手致候由。右錢、主人方へ預け、追《おつ》て、致算用候へば、金子にて、九兩二分に相成申候。扨、又、暫過《しばらくすぎ》候て、湯殿山より、使憎一人、治右衞門方へ罷越《まかりこし》、「娘とめ儀、甚《はなはだ》の孝子故、隨分勞《いたは》り、遣《つかはし》候樣、神勅、有ㇾ之。」旨、申述《まをしのべ》、菓子抔、持參にて、とめへ與《あた》へ、歸り候由。

一、湯殿山にては、日々、夥敷有ㇾ之候散錢、一切無ㇾ之候間、不審に致居候處、「東磯江村え、錢降候。」と申故、承候處、孝子燈籠奉納の趣迄、相知れ候間、「神勅」と號し、使僧遣候由。此段、御代官より御屆有ㇾ之候由。

右は珍事にて、例の妄說にも可ㇾ有哉《や》、難ㇾ計候へ共、勸善の一助にも相成候故、認《したため》入貴覽候。

 文政十三年庚寅月日【此記、六月三日、借抄。今玆、春中の事歟。】

[やぶちゃん注:「奥州」「多羅郡」「東磯江村」いろいろなフレーズで調べたが、奥州に旧多羅郡なる郡名は見当たらず、磯江という地名も発見出来なかった。湯殿山から特に山形県を詳細に調べたが、不詳。識者の御教授を乞う。

「傷寒」漢方で「体外の環境変化により経絡が冒された状態」を指し、高熱を発する腸チフスの類を指す。

「湯殿山」山形県鶴岡市及び同県西村山郡西川町にある、標高千五百メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。近くの月山・羽黒山とともに「出羽三山」の一つとして、修験道の霊場として知られる。

「兩三日」二、三日中。

「とめえ、與ヘ被ㇾ下候」主語は奉公先の主人。

「致算用候へば」とめより与かった主人が主語で、「最初から降ってきた銭を総計してみたところ」の意。

「文政十三年庚寅」グレゴリオ暦一八三〇年だが、この文政十三年は十二月十日(一八三一年一月二十三日)に天保に改元している。]

2022/12/06

大和怪異記 卷之五 第九 大石※明の事《おほあはびのこと》

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 標題の「※」は「近世民間異聞怪談集成」では、『斐』としているが、恐らくは、「決」の異体字「𦐍」の左右が上下になった「グリフウィキ」のこれの崩しである。則ち、「大石※明」は「おほあはび」である。読みは「石※明」にのみ「あわび」とある。]

 

 第九 大石※明の事

 安房国龜崎《かめさき》といふ所の海、にはかに、ひかりかゝやくゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、あまのしわざも、とゞまりしかば、

「いかゞすべき。」

と、いひあへる所に、六十歲ばかりなるあまが、いはく、

「われ、たしかに、いかなる物ぞ、見とゞけん。」

とて、其所より、二町ばかり前《さき》の海底に入(いり)、ひそかに、かのほとりを、うかゞひみれば、七、八間(けん)四方(しはう)の、あわびなり。

 すゞしき事、はかりなし。

「あたりちかくは、よりがたし。」

とて、かへりぬ。

 そのゝち、ゆくかたなくなりし、となん。

 寬文五年の事也。「犬著聞」

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十八 雜叓篇」(「叓」は「事」の異体字)にある「大蚫(をゝあはび)光(ひかり)をはなつ」(振り仮名はママ)である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここ。御覧の通り、「あま」は「海士」であり、彼の最初の台詞は、「若き輩(ともから)はせん方しるまし(じ)。いで、某(それがし)、見とゞけん。」である。

「安房国龜崎」「国立国会図書館」の「レファレンス協同データベース」のこちらに、「日本猟奇史 江戸時代篇一」(国書刊行会二〇〇八年刊)に『房州の大鮑の話が掲載されている。房州平群郡の亀崎とあるがそれは今のどのあたりか知りたい。』という質問に対しての回答の中に、村上健司編著「妖怪事典」(毎日新聞社二〇〇〇年刊)の『「アワビノカイ」の項目中、「『新著聞集』には房州平群郡亀崎(安房郡鋸南町の亀ケ崎か)の海中で、七、八間」(約十二~十四メートル)『もの大鮑が光を発して付近の漁師たちを恐れさせたという話がある。」と記載されてい』たとあり、『また、鋸南町ということから町史を調べたところ』「鋸南町史(改訂)通史編」(鋸南町史編さん委員会編・鋸南町教育委員会一九九五年刊)に、『民話の「亀が崎の大あわび」の項目があり』、寛政年間(一七八九年から一八〇一年まで)の記事を纏めた「梅翁随筆」の寛文五(一六六五)年『五月安房国亀が崎の海上に、毎夜不思議な光物があったので、海士がもぐってみると大あわびがいたという。」が紹介されてい』るとあった(これは所持する吉川弘文館随筆大成版の同書で確認した)。以下、図書館員の方は、地図上のそれを捜され、結果として、『地形図で「亀ケ崎」を調べると』、二万五千分の一の地形図「保田」(国土地理院二〇一三年)(平成二四(二〇一一)年度更新)の『鋸南町の海岸の近くに小さな島があり』、『「亀ヶ崎」とかかれて』あり、同じ縮尺の陸地測量部参謀本部一九三七年作成・昭和一〇(一九三五)年測図の『「保田」に同箇所は「亀ヶ崎」と書かれてい』とあった。国土地理院図のここで決まりである。

「六十歲ばかりなるあま」「新著聞集」では年齢は書かれていない。

「二町」二百十八メートル。

「七、八間(けん)四方(しはう)の、あわび」十ニ・七~十四・五四メートル。こんなデカいアワビは存在しないが、本邦には古くから諸所で、化け物大の鰒(あわび)の話が多くあり、光りを放っていたというのも、御約束としてある、かなりメジャーな伝承である。因みに、現在までに知られている「巨大アワビ」の実例としては、アメリカ・カリフォルニア州沿岸に棲息するアワビ属アカネアワビHaliotis rufescens(英名:Red Abalone。既に本邦では輸入アワビの代表格となっている)の、一九九三年九月に採取された三十一センチメートル三十四ミリメートルという個体が現在までの世界最大記録とされている。『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (一一)』の私の「九つ孔の開いた鮑貝――その背後のものを、すべて隱すほどに大きな――」の注を参照されたい。そこのリンク先で同種の「巨大アワビ」の殻が写真で見られる。

「すゞしき事」この場合は「清らかに澄んでいて、曇りがないこと」を言う。一種、神聖なものを、皆々、深く感じたということであろう。

「寬文五年」一六六五年。徳川家綱の治世。]

大和怪異記 卷之五 第八 蓮入雷にうたるゝ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第八 蓮入(れん《にふ》)雷(いかづち)にうたるゝ事

 豊後国日田《ひた》に蓮入といふもの、あり。わかきときは辻切强盜(つじぎりがうどう)をしけるが、いかゞ思ひけん、六十五才にて、かしらをそり、黑衣(こく《え》)をきたれども、心は、むかしにかはらず。子、一人、孫、二人あり。

 ある時、八歲になる孫をつれて、ちかき村にゆきけるに、折ふし、六月中旬の事なり。

 にはかに、くろ雲、たちをほひ[やぶちゃん注:ママ。]、いなびかり、しきりにして、雷(いかづち)、天地もくづるゝばかりなり。

 蓮入、大きにをそれ[やぶちゃん注:ママ。]、いづくをさすともしれず、にげかへる道は、上は、はたけ、下は田中筋《たなかすぢ》、十町ばかりの、ほそみちなり。

 つゐに[やぶちゃん注:ママ。]、いかづち、此《この》なはて道(みち)に、をち[やぶちゃん注:ママ。]、車のごとくなる火、蓮入があとより、追《おつ》かくる。蓮入は、かさをさし、八歲になる孫を、ひだりのわきにつれ、そでを、かほにおほひゆく所に、此火、蓮入がうへをこすよ、と思へば、

「ひた」

と、ふして、うごかず。

 しばしありて、そら、はれ、あめ、やみければ、其邊(ほとり)にゐけるもの共゙、蓮入が死骸に立《たち》より、見れば、やけくろみて、すみのごとし。

 ひだりのわきに、うごく物あれば、ふしぎに思ひ、引《ひき》のけ、みれば、八歲になる孫、目、うちたゝき、あきれたる躰(てい)なり。

 よくみるに、つゆほどのきずも、なし。

 あくぎやくの蓮入は、ばつせられ、此子は、とがなければ、なにのつゝがもなし、と見えたり。「叢談」

[やぶちゃん注:原拠とする「叢談」は不詳。

「豊後国日田」現在の大分県日田市(グーグル・マップ・データ)。

「蓮入」不詳。

「十町」約一キロ九十一メートル。]

大和怪異記 卷之五 第七 ゆめに山伏來りて病人をつれ行事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第七 ゆめに山伏來りて病人をつれ行(ゆく)事

 同国高遠のもの、子ども、あまた有《あり》しが、子ども、わづらひて、死《しぬ》べき時にいたりて、おやがゆめに、山ぶし、來り、わづらふ子を引《ひき》たてゆくを、

「やらじ。」

と引合(ひきあひ)、

『山ぶしに引とらるゝ。』

と思ひ、ゆめさめぬるに、翌日は、かならず、その子、死《しに》けり。

 かゝる事、あまた度《たび》に及び、今、ひとり、殘りし子も、かぎりに、わづらひしに、例の山ぶし、うつゝに見えて、つれゆかんとするを、

「さり共、此たびは、やるまじ。」

と、身のかぎりのちからを出《いだ》して引《ひき》とめしに、山ぶし、まけて、かへりし、と、思ひて、おどろきし。

 つぎの日より、その子、心よくなり、其後は、わづらふ事もなかりしとかや。「犬著聞」

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十 奇怪篇」にある「山伏(やまぶし)夢(ゆめ)に入り子(こ)死(し)す」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここ。御覧の通り、主人公の父親は、そこでは、「山辺八郞兵衞」と名記されてある。

「高遠」長野県伊那市高遠(グーグル・マップ・データ。但し、指示されたそこは高遠町西高遠)附近。桜の名所として知られる。

「うつゝに見えて」この時には、「うつつ」、則ち、「現」で、実際に見えた、と語り出し、しかし最後に「おどろきし」、「驚きし」、則ち、「目が覚めた」と言っている。怪奇談としては、上手い記述法である。]

大和怪異記 卷之五 第六 ばけものたましゐをぬく事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 なお、標題の「たましゐ」はママ。]

 

 第六 ばけものたましゐをぬく事

 信州飯田にて、ある人の妻《さい》、痘瘡(とうさう)をわづらひ、平愈して、一番湯をかけ、心も、いとかろし。

 され共゙、ていしゆ、家人(けにん)等(とう)、よとぎして居けるに、病人とのあいだ[やぶちゃん注:ママ。]にたてし屏風(びやうぶう)のかげより、大《だい》の法し、出《いで》て、屏風のうへより、うちを、のぞく。

 ていしゆ、大きにおどろき、かたなを取《とり》て、たちしに、法師、屏風をとびこして、かの妻(さい)をかきいだき、はしりゆくを、

「のがさじ。」

と、追《おひ》かくれば、てうとり[やぶちゃん注:ママ。「てふとり」で「蝶・鳥」であろう。]のごとくに、たかへいを、こへ[やぶちゃん注:ママ。]たりしに、下女、あとより、はしり來り、

「おくがたは、こなたに、まします。」

と、いひしかば、やがて、たちかへりみれば、ねいりたるやうなりしを、ゆすりおどろかし、

「心は、いかに。」

と、とふに、はや、いきたえし、となり。

 其主人の名、いつのころといふ事も、きゝしかど、わすれ侍り。

[やぶちゃん注:典拠の明記はない。しかし、次の「第七 ゆめに山伏來りて病人をつれ行事」の出典が「犬著聞」とあって、その話の頭が、「同国高遠のもの、子ども、あまた有しが、」と始まり(「高遠」は当時、信濃国である)、怪異の型が類似(但し、そちらはハッピー・エンド)していることから、これも恐らくは「犬著聞集」のものではなかろうかと思われなくもない。

「痘瘡」疱瘡。天然痘。

「一番湯をかけ」亭主が気を利かして、先に湯浴みをさせたのである。]

大和怪異記 卷之五 第五 猿人の子をかりてをのれが子の敵をとる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。

 挿絵があるが、これは「近世民間異聞怪談集成」にあるものが、状態が非常によいので、読み取ってトリミング補正し、適切と思われる箇所に挿入した。因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である。底本ではずっと後のここにある。

 標題の「をのれ」(己)はママ。]

 

 第五 猿(さる)人の子をかりてをのれが子の敵(かたき)をとる事

 

Sarukataki

 

 富士、根かた、村井鄕《むらいがう》木切山《ききりやま》の土民ふうふ、当歲(《たう》ざい)の子をもちけるが、田の畔(くろ)にすへて、おとこ[やぶちゃん注:ママ。]も女も、畑をうちける所に、大猿《おほざる》、ふたつ、來り、かの子をつれてゆき、大木《たいぼく》のこずへに[やぶちゃん注:ママ。]のぼり、子をなかせける所に、「わし」、みねのかたより、おとしかけ、うへにて、舞《まひ》けるとき、子を、木の「うつぼ」にすへ、二ひきの猿、大ゑだを、ひきたはめ、其かげに、かくれしを、「わし」、ちかぢかと來りて、とらんとするを、たはめしゑだを、はねけるに、「わし」の、まんなかにあたり、

「はた」

と、をつ[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。「落つ」。]。

 さる、木より、をりて[やぶちゃん注:ママ。]、子をいだき、壱疋は、をちたる「わし」を、ひき來り、其子がかたはらに、をき[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、みねに、かへれり。

 されば、其比《そのころ》、かのさる、をのが子[やぶちゃん注:ママ。]を、わしにとられ、さけびしが、かく、はかりて、子のかたきを、とり、「わし」を子のかたはらにをきたるは、子をかりし、「へんれい」とおぼえたり。

[やぶちゃん注:原拠はお馴染みの「犬著聞集」。所持せず、ネット上にもない。また、同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようである。

「富土、根かた、村井鄕、木切山」近似した地名に、現在の静岡県富士宮市村山木伐山(むらやまききりやま)がある。「NAVITIME」でここグーグル・マップ・データ航空写真で、この中央附近。まさに富士山の南西の「根方」に当たり、今でも、猿が出そうな感じだ。

「当歲」その年に生まれた乳児。

「田の畔(くろ)」「田の畦(あぜ)」に同じ。

「大猿」特に大きいというのではなくて、子猿に対する「大人の猿」の意。言わずもがな、本邦固有種の脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱霊長目真猿型下目直鼻猿亜目狭鼻小目オナガザル上科オナガザル科オナガザル亜科マカク属ニホンザル Macaca fuscata 。因みに我々は狭鼻小目ヒト上科ヒト科ヒト亜科ヒト族ヒト亜族ヒト属ヒト Homo sapiensだな。狭鼻小目 Catarrhiniにはオナガザル上科 Cercopithecoideaとヒト上科 Hominoideaしか、あらしまへんのやで。

「なかせける」「泣かせける」。

「わし」「鷲」。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵰(わし) (鷲(ワシ)類)」を見られたいが、タカ目タカ亜目タカ上科タカ科 Accipitridae に属する鳥の内で、オオワシ(タカ科オジロワシ属オオワシ Haliaeetus pelagicus)・オジロワシ(タカ科オジロワシ属オジロワシ Haliaeetus albicilla)・イヌワシ(タカ科イヌワシ属イヌワシ Aquila chrysaetos)・ハクトウワシ(タカ科ウミワシ属ハクトウワシ Haliaeetus leucocephalus:北アメリカ大陸の沿岸部に広範囲に分布するが、本邦では迷鳥として国後島や北海道で見つかることはある)等のように、比較的大きめの種群を漠然と指す通俗通称である。一般に分類上のタカ科 Accipitridae の種群の中で比較的大きいものを「ワシ」(鷲)、小さめのものを「タカ」(鷹)と呼ぶ傾向はあるものの、無論、明確な鳥類学上の分類学的区別があるわけではなく、本邦に於いては(恐らく中国でも)古来からの慣習に従って便宜上、呼び分けているに過ぎない。この本文では種同定は出来ないが、挿絵を見ると、全身が黒く、少なくとも絵のそれは、尾羽を除いて全身が褐色を呈するが、見た目、全体に黒っぽく見えるオジロワシっぽい感じで描かれてある(オオワシは頭頂から頸部を被う羽毛に羽軸に沿って白い斑紋(軸斑)が入り、尾羽も白く、見た目は有意にオジロワシより遙かに白い部分が目に入る)。

「みねのかた」「峰の方」。

「おとしかけ」「落とし驅け」。急降下して来て。

「うつぼ」「空・洞」と漢字表記し、大木などに生じた幹の空洞。洞(うろ)。挿絵参照。嬰児が、そこに、ちんまりと座っている。ちょっと当歳には見えないが。

「ひきたはめ」「引き撓め」。

「かりし」「借りし」。

「へんれい」「返禮」。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 病兒と靑い紐 / 一九一三、九 習作集第九卷~電子化注~了 / 筑摩版「萩原朔太郞全集」初版第一卷・第二卷・第三卷所収詩篇(正規表現版)電子化注~ほぼ完遂

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「狼殺し」の後は、以下で電子化注済み。

「顏」→『顏 萩原朔太郎』の本文、及び、『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 顏』の私の注

「(かくしも我が身のおとろへ來り……)」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 蝕金光路 / 附・別稿その他(幻しの「東京遊行詩篇」について)』の私の注の二番目に詩篇

「病氣の探偵」→『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 病氣の探偵 / 筑摩版全集所収の「病氣の探偵」の草稿原稿と同一と推定』の私の注の最初の詩篇

 なお、この「病兒と靑い紐」の後は、以下の、

「九月の外光」→「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 九月の外光」の私の注

「土地を堀る人」(「堀」はママ)→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 土地を掘るひと』の私の注

「つみびと」→『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 卵』の私の注の最後の詩篇

で電子化注済みで、この「つみびと」を以って、「一九一三、九 習作集第九卷」は終わっている。

 これを以って、筑摩版「萩原朔太郞全集」初版の第一卷・第二卷・第三卷に所収する詩篇の殆んどの電子化注を終えたと考えている。暫らくしたら、漏れがないか検証する。

 なお、私が「ほぼ完遂」と言っているのは、萩原朔太郎が先行する詩集で発表したものの、後の詩集の中でチョイスして再録した際に、手を加えているものが有意にあるのだが、それは、以前に述べた通り、表現の〈改悪〉を伴うものが甚だ多く、そうした若き日の詩想の霊感の消失の失望させる改悪作品まで、私は再現する気は、もともと、さらさら、ないからである。全集では、それらの多くは、初出の校異で示すに留めてある。私は後発の再録を多く含む詩集の正規表現版でも、そうした理由から、再録作品を原則として電子化していないし、向後も、まさに、そうした〈老害の醜悪なる改変詩篇〉までわざわざ示すことは、ない、であろうからである。

 

 

 病兒と靑い紐

 

窓からさがった紐

靑い紐

はてしもなく廊下がつゞき

厚い壁のうしろに

ラセン梯子の光る光る施囘

登る二階

三階

四階

五階

その床は月光にぬれ

月光の中にBEDがある

いつも眠るところの

遠い哀しい寢臺がある

行けども行けども

はてしもない病院の廊下の

ひとつひとつの高い窓から

靑い絹糸の紐がさがつて居るよ、

 

[やぶちゃん注:「施囘」はママ。「旋囘」の誤記。「BED」は縦書。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 狼殺し

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「(いはん方なきさびしさに……)」の後は、以下で電子化注済み。

「おもいで」→「おもいで 萩原朔太郎」本文

「寫眞」→『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 編者前書・「靜夜」』の私の注の一番最後の詩篇

「もみぢ」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 もみぢ』の私の注及び『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 もみじ』の私の注

「冬をまつひと」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(こほれる利根のみなかみに) 「冬を待つひと」の草稿の一つ』の私の注の中の二番目の詩篇]

 

 

 狼殺し

 

疾患背隨の心棒より光を發し

その反映をもて殺さんとするの狼だ

ゆうべとなれば

素つ裸となして殺戮するの狼だ

狼を血みどろにし

われの心棒をば血みどろにし

そこに菊をうえ

そこに松をうえ

そこに電針をうえ

その怖るべき疾行をとめ

狼をやぶり殺さんとして

われの心棒にも砥石をぬり

しづかにこらへきたらんとするの日暮をまてば

井戶の底にもその水のすべてを涸れつくしぬ、

 

[やぶちゃん注:「疾患背隨」「背隨」はママで、「脊髓」の誤記。「ゆうべ」もママ。「菊をうえ」以下の三箇所の「うえ」もママ。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 (いはん方なきさびしさに……)

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「春子に」の後は、以下で電子化注済み。

「遍路道心」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 遍路道心 / 現在知られた「習作集第九卷(愛憐詩篇ノート)」の「遍路道心」とは別原稿と推定される』の私の注

「水尾」→『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 小曲十篇』の中の「水尾」の私の注

「こゝろ」→『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 小曲十篇』の中の「心」の私の注

「銀」→『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 小曲十篇』の中の「銀」の私の注

「釣」→『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 小曲十篇』の中の「釣」の私の注

「命」→『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 小曲十篇』の中の「心」の私の注

「雀」→『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 小曲十篇』の中の「雀」の私の注]

 

 

 ×

 

いはん方なきさびしさに

てんねん自然とたくらみし

さんぎやく非道の親殺し

淚が流れてとまり申さず

 

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 春子に

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「九月の市街」の後は、以下で電子化注済み。

「遊泳」→『萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 遊泳』の私の注の最後の詩篇

「おもいで」(歴史的仮名遣の誤りはママ。編者注に『全篇が斜線で抹消されている。』とある)→「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 小曲十篇」の本文中の一篇「おもひで」とほぼ同じ(私の解説で「一九一三、九 習作集第九卷」のそれと異同・全抹消を言及)]

 

 

 春子に

 

きららに鮎をはしらせむ

ひとりしあれば悲しきものを

ひねもす利根を岸そびに

凍れる鮎をはしらせむ

ゆきの水上光る日に

まだ見ぬきみがいたいけの

素足のうへをはしらせむ

 

[やぶちゃん注:「春子」この女性は萩原朔太郎の恋愛対象者ではなく、当時、金沢にいた室生犀星が恋した女性である。石川敏夫氏のブログ「詩のある暮らし Blog」の「室生犀星 3」の「第3話  女ひと」に、『犀星が激しい愛の言葉をぶつけた石尾春子とは、犀星が金沢の登記所に勤めていた頃に知り合い、当時犀星』二十『歳、春子は』十三『歳でした。登記所の所長の家でかるたを取ったことのある仲で』、六『年振りに巡り会った犀星と春子は、以前から知り合いであったことから急速に親密となり、愛が芽生えました。しかし、この恋は、春子の母の反対にあって実らずに終わりました。定収入のない詩人の求婚に反対するのは、人の子の親として当時は当然の理由でした。』とある女性で、室生犀星が彼女に捧げた「愛人野菊に贈る詩」は大正三(一九一四)年『詩歌』に発表されたとある。この詩は長詩で、そちらでは抜粋で載るが、yukiko seike氏のブログ「月吠ノート」の『作品紹介「ワイルド時代の犀星詩」』に『定本室生犀星全詩集』(全三巻・冬樹社一九七八年刊)を底本とした全篇が電子化されてある。なお、石川氏もseike氏も大正三年発表とされてあるのだが、本文は見られないものの、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの雑誌『詩歌』のサイド・パネルの詳細版の「書誌情報」を見ると、大正三年九月発行の同誌に掲載されていることが判った。また、渡辺和靖氏の論文『萩原朔太郎 ―「愛憐詩篇」から「浄罪詩篇」へ』(『愛知教育大学研究報告・人文科学』第三十九輯所収。「愛知教育大学学術情報リポジトリ AUE Repository」のこちらからダウン・ロード出来る)によれば、我々が感じる萩原朔太郎のエレナ(妹ワカの友だちであった馬場ナカ。明治四二(一九〇九)年に高崎の医師佐藤清と結婚して当時は佐藤ナカ。)詩篇に対する異様なまでに昇華された聖女化や、書簡や日記(論文に引用有り)に見られる、夫佐藤には自分は知られていない「祕密」の存在であったとか、『「エレナ」にかんする主観的な朔太郎の記述』は、『朔太郎の側の一方的な思い込みであった可能性がつよくなる』とあり、この犀星の石尾春子を詠じた本篇についても、『朔太郎が白秋に報告している』、十一月七日附の『の夜の〈破局〉は』十一月五日『付白秋宛「書簡」に記された』、『室生犀星が』『好意をよせていた石尾春子』『という女性に結婚を申し出てことわられ』、『「春子」を「暗殺」すると公言した事件』(『萩原朔太郞全集」第十三巻・六十六頁)『などに剌激されて』、『自ら演出したドラマにすぎないと考えられる。』とされておられる。以上の渡辺氏の指示される二通の書簡と、後者の次の書簡もやや萩原朔太郎の想いに関連があるので全集から以下に電子化しておく。順に底本書簡番号「五八」、「六一」、「六二」で、孰れも『東京都麻布區坂下町十三 北原白秋樣』宛。

   *

 

大正三年十一月五日・前橋消印・葉書・『至急 まへばし SAKUTARO』

 

 まさかと思つたことがいよいよ事實になるらしい、大變な事件です、

 室生が春子を殺すのです、拒絕したんで兇惡少年の部下をシソオ[やぶちゃん注:使嗾。]して暗殺する計畫なんです、勿論しはしば[やぶちゃん注:ママ。]僕は忠告しましたが今夜「汝の忠告何するものぞ余は必らず遂行すべし云々」といふ急報が來なんで[やぶちゃん注:ママ。]すつかり氣を失つてしまつた、彼をして殺人罪より救ふために全力を盡して御援助願ひます、大至急ねがひます、たのむ、

[やぶちゃん注:編者注があり、『春子 室生犀星が金洋で好意を寄せていた女性。』とある。なお、次の同じ十一月五日附白秋宛葉書の一節には、『室生君はことによると本月中に前橋へ脱走してくるかも知れません、』とある。]

   *

 

大正三年十一月七日・前橋消印・葉書・『高崎にて SAKUTARO』

 

 今夜高崎ヘ[やぶちゃん注:ママ。]ヱレナに逢つた、口笛を吹いたけれども出て來ない、二時間あまりも家の前で樣子をうかがつたけれども要領を得ないので引きあげました、いま高崎柳川町、菊のバア(原名喜笑亭)で飲んで居ます、癪にさわつて[やぶちゃん注:ママ。]たまらない、ヱレナとも絕交だ、

 あなたは男四人に惣[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]れられて憔悴の由、僕もその一人です、僕は倂し浮氣ものではありません、一たん惣れたら生命がけです、室生とあなたに朔太郎の身命をささぐ、

   七日夜、

 

   *

 

大正三年十一月八日・前橋消印・葉書・(発信者名なし)

 

 ゆうべあれから大へんなことをしてしまひました、また未練にもヱレナに逢ひに行つたのが失敗のもとです、今朝あたりはヱレナの家で大騷ぎをして居るにちがひない、惡くすると私はもう鄕里に居ることが出來なくなるかも知れない、ああもう考へると苦しくなる、死にたい、ピストルで一發ずどんとやりたい、私はヱレナのハズ[やぶちゃん注:ハズバンド。]に本名を知らした、長い間祕密にして居た二人の歡もこれておしまひだ、酔つぱらつたとは言ひながら何といふ馬鹿なことをしたものだ、死にたい、死にたい、

 

   *

朔太郎(満二十八)も犀星(満二十四)も『何だかな~』って感じは拭えない。]

2022/12/05

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 九月の市街

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「遠き風景」の後は、以下で電子化注済み。

「自畫像」→『自畫像 萩原朔太郎』本文]

 

 

 九月の市街

 

步道は白と綠の決鬪

ふんすゐと

ちつぽけな太陽

幻影は微風にながれ

遠くの軌道で

金と銀との吹奏二部合奏(ブラスジユエツト)

 

[やぶちゃん注:「吹奏二部合奏(ブラスジユエツト)」は言わずもがな、六字全体へのルビである。brass duet。ブラス・デュエット。金管二重奏。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 遠き背景

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 本篇は未電子化。]

 

 遠き背景

 

夜天の空にまつかの太陽

建築がばらでうづまり

戀人が裸になる

 

[やぶちゃん注:当時、流行り始めのダダイズムっぽいが、なかなか、朔太郎、敏感。映像的にも面白い。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 幼魚

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 本篇は未電子化。]

 

 

 幼魚

 

くろくかなしき魚の子ども

なやましき金魚の幼蟲

尾ひれすでに生れんとし

もつれつゝむらがりつゝ

日蝕のくらきみ空をのぞむ

けふもあしたも

みなそこにくろくさびしき幼魚のこころ

 

[やぶちゃん注:直近では、日本での日蝕観測が出来たのは、この二年前の明治四四(一九一一)年十月二十二日である。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 詠嘆餘情

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「くちづけ」の後は、以下で電子化注済み。

「立秋」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 九月 /「立秋」の別稿か? 附・萩原朔太郎「大沼竹太郞氏を送る言葉」(全文)』の私の注の中間部に電子化した詩篇]

 

 

 詠嘆餘情

 

さびしきまゝにあらしめよ

ながるゝごとくこゝろはうつたへ

ああ河鹿は月にけぶる

月にけぶるあづまや

ほのぼのとなでしこ咲きて

あたゝかに湯氣はながるる、

            ――四萬溫泉ニテ――

 

     ×

ほのぼのと月待橋のおぼしまに

あがたては白百合のはな、

あがつま川のよるの瀨なみに

風邪しろくいさなぞはしる。

     ×

しんじつなればいかにせむ

なみだぞわれのいのちなる、

 

[やぶちゃん注:「おぼしま」はママ。「欄干」で「おばしま」。「あがたては」はママ。校訂本文では、『あがたてば』となっている。

「河鹿」表現、ロケーション、季節から、魚のそれではなく、河鹿蛙、無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri に比定する。博物学的には私の「大和本草卷十四 陸蟲 山蝦蟆(やまかへる) (カジカガエル)」を、また、江戸時代その鳴き声(ね)を賞玩するために盛んに贈答された物産としてのそれは、私の「日本山海名産図会 第四巻 河鹿」を見られたい。川魚としたい方は、同じく「日本山海名産図会 第四巻 諸國に河鹿といふ魚」を見られたい。魚のカジカじゃ、詩になりませんぜ、旦那! 「月にけぶる」のはカジカガエルの美しい鳴き声(ね)に決まってるでがショウ?!

「四萬溫和泉」群馬県吾妻郡中之条町にある四万(しま)温泉周辺のこと。年譜によれば、この大正二(一九一三)年の八月上旬に朔太郎は定宿であった四万温泉の積善館(グーグル・マップ・データ)に滞在していた。『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 濱邊』参照。

「月待橋」四万温泉にある橋の名として月見橋なら現認出来るが(グーグルストリート。場所はここ)、不詳。

「いさな」「小魚(いさな)」。

「しんじつなればいかにせむ」/「なみだぞわれのいのちなる、」これは記憶にあった。「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 小曲十篇」で電子化した中にこれと全く同じ二行のフレーズ(二行目末の読点はない)があったのだ! 筑摩版全集第三卷「未發表詩篇」の259ページに載るそれだ!

   *

 

  淚

 

しんじつなればいかにせむ

なみだぞわれのいのちなる

 

   *

ところが、筑摩版の編集者は、そこに附した注で、おかしなことを言っているのに気づいたのだ! 『「秋日行語」の總題のもとに、同じ原稿用紙に「銀」「心」』(漢字表記はママ)『「淚」「命」の順に記されており、他の三篇はいずれも「習作集第九卷」に收錄されているが、「淚」だけは收錄されていない。』とある。「淚」の標題はないが、詩篇本文は、「習作集第九卷」のここに、あるぞッツ!!!

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 くちづけ

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「みちゆき後篇」の後は、以下で電子化注済み。

「斷章」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(ふところに入れたる手よ) / 筑摩書房版全集不載の一篇』の私の注

「綠蔭俱樂部」→『萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 綠蔭俱樂部』の私の注

「花鳥」→『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 花鳥』の私の注の最後の詩篇]

 

 

 くちづけ

 

つちふかきくさのなかより芽はめざめ

芽はめざめなみだをながす、

 

*あたゝく//かしまだち*きみが手すへば

手はうすくみどりして淚瀧なす、

 

ああ、きみはきみ

草木のへのみならで

ひとの身のわれにも伸ぶる

やんごとなき君が手なれば

*みちゆき//くちづけ*のいかで忘れむ

            ――一九一四、七、――

 

[やぶちゃん注:*//*の部分は並置残存を示すために私が附したもの。

「かしまだち」「鹿島立ち」。旅行に出発すること。旅立ち。門出。本邦の神話で、鹿島と香取の二神が国土を平定した故事からとも、また、防人や武士が旅立つ際、道中の無事を鹿島神宮に祈願したところからともされる。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 みちゆき後扁(前篇とのカップリング復元附き)

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「殺生」の後は、以下で電子化注済み。

「春愁」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 春日』の私の注の最後の詩篇

「五月上旬」(「初夏景物」とも)→「初夏景物 萩原朔太郎 (「初夏の印象」初出形)」の私の注

「光る齲齒」→『萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 空に光る』の私の注の最後の詩篇

「地上」→『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 地上』の私の注の最後の詩篇]

 

 

 みちゆき後扁

       (詠嘆調)

 

うすらあかりのさしそへる川べりづたひ

利根川の川なみ白きほとりより

われはや哀しき聲をあぐ

けふしも土筆つむとにはあらねども

この夕風くらき河原にあるは我ひとり

ひとり石桓の堤の下に倒れ伏し

長く背脚をふるはてゝしのび泣く

あゝいかなればこそ、われら

いかなればこそ

きのふに變る身の上とはなりもはてしぞ

くめどもつきせぬ哀傷の淚の瀧川

げに、あきらめられず

あきらめられずこのことばかり

あゝこの故鄕に光りいで

さくらばなかくも咲きづるころほひに

もつとも裂くるが如くなり

よべともせんなききのふの生活も

あまりなるに

はやはや君をかへさしめよと。

   ――みちゆき前記は「朱蠻」終卷號にあり――

 

[やぶちゃん注:末尾の太字は底本では傍点「﹅」。標題の「扁」はママ。応じる末尾の「みちゆき前記」も「記」はママ。校訂本文では二箇所ともに『篇』に変えられてある。「石桓」はママ(校訂本文は『石垣』)、「ふるはてゝ」はママ(同前で『ふるはせて』)、「よべとも」もママ(校訂本文は『よべども』)。末尾注の「朱蠻」はママ。北原白秋の編集になる文芸雑誌『朱欒』(読みは「ざんぼあ」)の誤字。明治四四(一九一一)年十一月から大正二(一九一三)年五月まで全十九冊を発行した。「後期浪漫派」の活躍の場となった。後の大正七年一月再刊した改題誌『ザムボア』は同年九月で廃刊している。ここで言っている「みちゆき前記」なる対象詩篇は、後の萩原朔太郎詩集「純情小曲集」の詩篇本文の巻頭を飾る「夜汽車」の初期形である「みちゆき」である。『萩原朔太郎詩集 純情小曲集 正規表現版 始動 / 「珍らしいものをかくしてゐる人への序文」(室生犀星の序)・自序・「出版に際して」(萩原朔太郎)・目次・愛憐詩篇「夜汽車」』の注で、草稿・初出を総て電子化してある。この際だから、まず、研究者や好事家以外はセットで読むことはなかろうから、『朱欒』決定稿の一部おかしな部分を校訂本文を参考に変え、本篇「みちゆき後扁」の抹消部と違和感のある表記を校訂本文を参考に外したり、変えたりした二つをカップリングして以下に示しておくことにする(最後の注記は除去した)。

   *

 

 みちゆき

 

ありあけのうすらあかりは

硝子戶に指のあとつめたく

ほの白みゆく山の端は

みづがねのごとくにしめやかなれども

まだ旅人のねむりさめやらねば

つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや

あまたるきニスのにほひも

そこはかとなきはまきたばこの煙さへ

夜汽車にてあれたる舌には佗しきを

いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ

まだ山科(やましな)は過ぎずや

空氣まくらの口金(くちがね)をゆるめて

そつと息をぬいてみる女ごゝろ

ふと二人悲しさに身をすりよせ

しのゝめちかき汽車の窓より外を眺むれば

ところもしらぬ山里に

さも白く咲きてゐたるをだまきの花

 

 

 みちゆき後篇

       (詠嘆調)

 

うすらあかりのさしそへる川べりづたひ

利根川の川なみ白きほとりより

われはや哀しき聲をあぐ

けふしも土筆つむとにはあらねども

この夕風くらき河原にあるは我ひとり

ひとり石垣の堤の下に倒れ伏し

長く背脚をふるはせてしのび泣く

あゝいかなればこそ、われら

きのふに變る身の上とはなりもはてしぞ

くめどもつきせぬ哀傷の淚の瀧川

げに、あきらめられず

あきらめられずこのことばかり

あゝ故鄕に光りいで

さくらばなかくも咲きづるころほひに

もつとも裂くるが如くなり

よべどもせんなききのふの生活も

あまりなるに

はやはや君をかへさしめよと。

 

   *]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 殺生

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「夢みるひと」の後は、以下で電子化注済み。

「器物」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 器物 / 現在の習作草稿「器物」の失われた初稿或いは別稿』の私の注

「上京當日」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 (無題)(わがよろこびは身うちより) /「上京當日」の幻の別稿か?』の同前

「街道」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 街道 / 幻の「街道」の初期形か?』の同前]

 

 

 殺生

 

いたみてやまぬ銀の針

身うちをめぐる銀の針

木かげに銃(つゝ)をさしあてゝ

息ひきつめてねらふとき

指にするどく銀針の

穗先つらぬきはしりいづ

銳ぎたる幹をそめぬれてにしたゝりて

地上に鳥の落つるとき

身うちを出づる金屬は

光にむかひさけびいづ。

 

[やぶちゃん注:「銳ぎ」「とぎたる」としか読めないが、やや意味がうまく機能していないように私は感じる。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 夢みるひと

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「くもり日」の後は、以下で電子化注済み。

「月光と海月」→『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 月光と海月』の私の注の最後の詩篇]

 

 

 夢みるひと

 

このひと日蔭に座り居しに

ときやうやくにうつり居て

絹のごとき水その裾を流れいづ

つめたく吹きいで

木々の葉の夕風にそよぐころほひ

あれにもあらで心にとへば

心はおどろき失ひし杖をもとむと叫ぶなり

されどひとゝきすぎ行きて

しめれる衣(ころも)もかはきなば

ほとほととまたうまひに落ちて

海潮の響きこゆとすゞしくもさけぶなれ。

 

あれみよ この人のひとつの手に

えんえんともゆる果實あり

その額に根をはる樹木

樹木の葉のしげれるにより

あまりにかなしく育ちしも

なにひとかその靑ざめし瞳の奥をうかゞはむ。

 

夜しだいにしらみて

あかつき旅びとの群すぎ行けども

母のきてまた一念に嘆くども

あはれ夢みるひとの夢ばかり

とこしへに

かなしくゆきてさめざるものはあらざらむ。

 

[やぶちゃん注:因みに、標題「夢みるひと」は、初期の萩原朔太郎のペン・ネームでもあった。「うまひ」はママ。「熟寢」(ぐっすり眠ること・熟睡)であろうから、「うまい」が正しい。第三連三行目の「母のきてまた一念に嘆くども」もママ。「母のきてまた一念に嘆くとも」「母のきてまた一念に嘆けども」の孰れかであろう。校訂本文は前者を採っている。寝入っている状況を現実に未来仮定しているとするならば、私は後者であるように思う。

「ほとほと」「殆・幾」で副詞。「困り果てた、また、うんざりした気持ちを表す語。まったく。つくづく。」、或いは即物的に「ほとんど」、また、「すんでのことで。あやうく。」の意。私は前振りの心情から、第一義でとる。

 なお、本篇は底本初版では、校訂本文で、第一連六行目の「あれにもあらで心にとへば」は、校訂本文でそのままにあるのだが、後の全正誤表では、これを、

 

我(あ)れにもあらで心にとへば

 

と訂正している。「あれ」は「吾(あ)れ」で少しも躓かない。何故、こんな無体なことを編集者はしてしまったのか、全く私には分からんチンである。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 くもり日

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「初冬」の後は、以下で電子化注済み。

「遠望」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 遠望』の私の注の詩篇の最後

「浮名」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 浮名』の私の注の詩篇の最後

「春日」→『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 洋銀の皿』の私の注の詩篇の最後

「利根川の岸邊より」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 利根川の岸邊より』

「冬日哀語」→『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 晩冬哀詩/ 筑摩版全集未収録詩篇(但し、「冬日哀語」の表題で表記・表現違いで酷似する一篇は有り)』の私の注]

 

 

 くもり日

       三月十二日朝ふと元吉氏の歌

       によりて記せる幻想、

 

くもり日のくもりてはれぬなやましさよな、

庭にあぢさいの花咲けるあり

竹桓のくされし際に

つちくれをこねて子供あそべり

見もしらぬよそのこどもなれども

いつもこのところに來てあそぶなりけり。

また近き栗の木の下に

まづしげなるよその小むすめ、

たんぜんとおまんこを出して居たるなりけり。

くもり日のけふもくもりて

かきくもれる空のかなしさよな。

 

[やぶちゃん注:私は永らく、「おちんちん」は抵触せず、「おまんこ」は放送コードで厳禁であり続けている現況は、まさに結果して相対的差別言語の精神的痙攣状況にあると、大真面目に思っている人間である。

「元吉氏」高橋元吉(たかはしもときち 明治二六(一八九三)年~昭和三〇(一九六五)年)は詩人で書店「煥乎堂」社長。群馬県前橋市生まれ。前橋中学校(現在の群馬県立前橋高等学校)卒業後に上京、『偶成の詩人』と称され、朔太郎の他、武者小路実篤・柳宗悦らと交友があった。書店経営をする傍ら、大正一三(一九二四)年に高田博厚・尾崎喜八らと雑誌『大街道』を創刊、昭和一〇(一九三五)年『歴程』同人。昭和三八(一九六三)年には「高橋元吉詩集」で高村光太郎賞を受賞している。没後に『高橋元吉文化賞』が制定されている。朔太郎より七つ年下(以上はウィキの「高橋元吉」及び講談社「日本人名大辞典」を参考にした)。私の、

「萩原朔太郎 歌 七首 (「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」より)」

『筑摩書房「萩原朔太郞全集」(初版)「散文詩・詩的散文」初出形 正規表現版 握つた手の感覺』

『萩原朔太郎「握つた手の感覺」に現われた擬似的神秘体験(或いは擬似的秘蹟体験)に関わる大正五(一九一六)年四月の萩原朔太郎書簡四通』

等を参照されたい。]

2022/12/04

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「駒込追分家主長右衞門奇特御褒美錄」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(右ページ上段後方)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。]

 

 ○駒込追分家主長右衞門奇特御褒美錄

文政十三年庚寅年[やぶちゃん注:一八三〇年。]閏三月十四日、於北御番所仰渡

         駒込追分町家主

   江戶一と銘有ㇾ之酒賣出

   し、家號「高崎屋」と云。     長 右 衞 門

其方儀、當二月廿二日曉、町内に、兩度、火付、有ㇾ之、家根《やね》上へ燃拔《もえぬき》候處、右長屋の者、其外、町内の者共、早《はや》、連出合《つれいであひ》打消《うちけし》候に付、右爲褒美《はうびとして》消留候者共三人え、金二朱宛、燃立《もえたち》候長屋、隣地面の者共え、一長屋《ひとながや》に金二朱、酒三升づゝ、四ケ所へ差出《さしいだ》し、同町の儀は、輕き御家人拜領、町屋敷にて、住所に町人共、身元相應の者、無ㇾ之、此度《このたび》、出火の儀に付、町觸《まちぶれ》も有ㇾ之候に付、働《はたらき》候者共え、手當可ㇾ遣程の身分の者、無ㇾ之處、其方一人にて、手當致し遣し、殊に、四ケ年前、亥年[やぶちゃん注:文政十年丁亥。]二月、祖父、年回[やぶちゃん注:還暦か。]に付、町内、幷、隣町、其日稼《そのひかせぎ》の者共、二百六十軒へ、米五升づゝ、家主共五人へ、醤油一樽づゝ配り遣し、在方より出候荷付馬、千疋程に、豆一升づゝ飼料《しれう》與へ、平日[やぶちゃん注:普段。]、宅へ出入候三十人程に、金二朱宛、差遣し、物貰ひ・非人、二千人程へ、鳥目十二銅、差遣し、常々、町・隣町困窮の者にて煩《わづらひ》候者へ、名・住所不ㇾ知承候《しれずうけたまはりさふらふ》て、罷越、施行、乞《こひ》候者には、其人體《じんてい》に寄り、金二朱、鳥目二百文位、遣候趣相聞《おもむきあひきき》、奇特成《きどくなる》儀に付、爲御褒美銀三枚被ㇾ下候間、難ㇾ有可ㇾ奉ㇾ存。

         右長右衞門父

               午   長

其方儀、年來困窮の者共へは、少々づゝ手當致遣し、八ケ年以前、未年《みどし》[やぶちゃん注:文政六年癸未。]、町内、出火、有ㇾ之、自分宅臺所向、類燒致候處、近邊類燒致候者共、大勢へ、手宛致し遣し、奇特の儀に付、筒井伊賀守御番所にて、御褒美被ㇾ下候處、又候《またぞろ》、翌年、町内、出火、有ㇾ之、居宅、不ㇾ殘、類燒致候得共、右未年よりは、却《かへつ》て餘計に手當差遣し、且、次男淸太郞儀、小網町三町目兵左衞門店に、酒醬油商賣致し罷在候處、病氣にて、在方親類方へ、爲保養罷越候處、留守中致留守居候處、去年三月廿一日、大火の節、淸太郞居宅も類燒致候得共、存寄《ぞんじより》を以、同町、幷に、隣町類燒の者、其日稼《そのひかせぎ》の者、二百八十三軒へ、都合、金四十二兩餘、施し、奇特至極の儀、忰《せがれ》長右衞門も善事《よきこと》を致候儀、畢竟、敎宜敷《をしへよろしき》故の儀に付、爲御褒美銀二枚被ㇾ下候間、難ㇾ有可ㇾ奉ㇾ存。右之通被仰渡候。

[やぶちゃん注:「駒込追分」町名。現在の文京区向丘一・二丁目附近(グーグル・マップ・データ)。

「午長」子の名から「ごちやう」と読んでおく。隠居名か。午年生まれであったか。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 初冬

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「(しだいたかぶり……)」の後は、以下で電子化注済み。

「春(はる)の來(く)る頃」(署名「夢みるひと」)→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 早春 附・酷似する詩篇「春の來る頃」原稿推定復元版』の注を参照(本習作集の中では、この誌篇は自筆稿ではない特異点であることに注意しなくてはならない。則ち、編者によって『この詩は印刷されたものをこの頁に貼付。『上毛新聞』大正三年三月十四日付に發表。』とあるからである。則ち、新聞に掲載された自身の詩を切り抜いてそのページに貼付したのである。その初出版がリンク先に電子化してあり、さらに別に原稿があったため、それで「拾遺篇」の筑摩版全集本文が作られているという、極めて複雑な構造を持つ。私は筑摩の強制消毒校訂本文を信頼していないので、その辺りに注意しながら、推定で私が復元したものが最後に示してあるのである)]

 

 

 初冬

 

さ靑になづむわがたましひの寂しさに

この頃小唄をうたふこと

「ひとつや、ふたつ、なぜう都にかへらざる」

あゝはや日暮れて窓により

少女子どもの唄ふをきけば

今日はよくよく淚ぐましや

ちりともなき葵の花の

それもはや冬の日ざしに枯れんとす

ふとしも家を出でしが

行くべき方にそむきて

あはれまた、廣瀨川河畔を步むなり。

 

[やぶちゃん注:「少女子ども」「をとめごども」と訓じておく。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 (しだいたかぶり……)

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 本篇は過去に電子化注していない。]

 

 

 ○

 

しだいたかぶり

おしろいの光る小鼻より

きみはちかづく

 

[やぶちゃん注:「しだいたかぶり」校訂本文は「に」の脱字として『しだいにたかぶり』となっている。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 雪解けの朝

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「靑空」の後は、以下で電子化注済みである。

「晩秋哀語」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 晩秋哀語』の私の注の最後の詩篇

「からたちの桓根」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 からたちの垣根』の私の注

「偶成」→『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 街道』の私の注の最後の詩篇

「晩秋」(短歌十二首)→「晩秋 萩原朔太郎(短歌十二首)』本文]

 

 

 雪解けの朝

 

安らけくあれよ

搖籠の中に育ちつゝ

よはひもはや年ごろとなりにけり

このよき日の朝あけに

さやさやと臥床の中に林檎はむ

わがものこごろ知りておぼへしは

處女まりやに祀るうた

それもあながちにはあらねども

かくも哀しく

いとほしきわが身のうへは

しんとして絕えず流るゝ

雪どけの朝のこゝろなり

安らけくあれよ、わが身。

 

[やぶちゃん注:「ものこごろ」はママ。「ものごころ」の誤記。「おぼへし」はママ。

「搖籠」「ゆりかご」。揺籃。

「祀る」これは校訂本文でも同じであるが、どうも「まつる」ではしっくりこない。萩原朔太郎の「祈」という字には崩しの異様な癖があったのではないかと思われ(先の短歌のケースの全集の投込の誤り判読の正誤表から窺われる事実である)、私はここもしっくりとくる「祈る」なのではないか? と深く思う。【2022年12月10日追記】同全集の後の投げ込みの訂正版でやはり誤りであることが判った。校訂本文は「祈る」とされ、以上の「祀る」は萩原朔太郎の誤字と断じられていた。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 中秋雜詠

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「靑空」の後は、以下で電子化注済みである。

「秋日行語」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 秋日行語』の私の注の最後の詩篇]

 

 

ゆびさきに吸ひつく魚のこゝろより

つめたく秋は流れそめたり

 

材木うへに腰かけしみじみと

疲れし心が欠呻せるなり

[やぶちゃん注:「欠呻」はママ。「欠伸」(あくび/おくび)の誤字であろう。校訂本文もそう訂している。]

 

かみてすつる萄葡の核のやるせなく

椽端の土(つち)にしみこめる秋

[やぶちゃん注:「萄葡」はママ。「葡萄」(ぶだう(ぶどう))が正しい。]

 

いぢらしく東京淺草の仲見世に

秋が來りて遊ぶわびしさ

 

石工(いしく)の眼赤きを見れば胸いたむ

櫟林の秋の落日

[やぶちゃん注:「櫟林」「くぬぎばやし」。]

 

透間(すきま)よりのぞきし秋はいや遠き

牧場屋並のうへを渡るなりけり

 

摘めばすいすいあとより延(の)びる芝の芽か

秋は身うちに泳ぎ來れり

 

樹の幹に指をふるゝもなにがなし

淚流れてやまぬ秋なり

 

ド、レ、ミ、ハ、ソ、ラ、シ、ド、嬉しさに

階子段をば馳け降るなり

[やぶちゃん注:「階子段」「はしごだん」。階段。]

 

かの遠き風見の上にかゞやける暖秋の日

うらゝかなるかな

[やぶちゃん注:以上の削除と改行は、底本全集の最後の投込の全正誤表により、底本を修正したもの。]

 

うらゝかに菊も咲き出で故鄕の

少女子どもが遊ぶなりけり

[やぶちゃん注:「少女子」「をとめご」と訓じておく。]

 

こゝろなく秋もおはりとなりしかば

門邊に出でゝながくさけべり

[やぶちゃん注:「おはり」はママ。]

 

暖秋の目白に行きてしたゝめし

晝餉(ひるげ)の後の友の諧謔

 

みなそこに浮べる雲のよしえやし

わが故鄕はいかに遠きかも

[やぶちゃん注:「よしえやし」はママ。「よしゑやし」が正しく、これは、副詞「よし」 (原義は「縱(よ)し」と「許可する」の意)+嘆息を表わす間投助詞「ゑ」+語調を整えて感嘆の意を添える間投助詞「や」+強意の副助詞「し」の連語で、 「ままよ!」 「ええぃ! どうでもよいわ!」といった感動詞的性質を持つ副詞( 「たとい」 「仮に」という仮定を示す場合もある)。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 靑空

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「秋思」の後は、以下で電子化注済みである。

「ドン・キホーテ」→『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 (無題)(悲しや 侘しや)』の私の注の最後の詩篇

「郊外」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 郊外』

 

 

 靑空

 

靑空(せいくう)のもとを步み行かばや

ひとりあたりを顧み

うたはんとして瞳淚にしめりたり

あゝ十月中旬(なかば)の空高く遠く

透靑高きに浮び出づ

かしこに林で出で

行人の秋を問ふにあへば

しきりに果樹の枝にしたゝり

愁のしたゝり落つるによりて

つめたく路上に座れるなり。

あゝわが友の呼ばへる聲もいとはるか

みづうみのほとりに鳴きつれ

連山の麓に消え去り行く小島。

かくもわが身はやさしみにみちたれど

何とてこゝろ晴明になごみえざるか

窓を開けよ、窓を開けよ

我はさびしき人なれば

今こそ野路に泣きぬれ、ひとも我れも、

きはみなき靑空の下(もと)を步み行かばや→くなりかばや、

 

[やぶちゃん注:編者注があり、『題名の下にT.Jと書かれている』とある。「T.J」は不詳。

「透靑」冒頭で「靑空(せいくう)」(当然、標題も「あほぞら」ではなく、「せいくう」であろう)と音読みしていることから、「とうせい」と読んでいよう。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 秋思

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 但し、「神に捧ぐる歌」で注した通り、本篇は未電子化である。]

 

 

 秋思

 

岩間の水の

深きに手をさしやれば

つめたく泳ぎいで

光はゆびのあひだを流れたり

たましひも靑くひたりて

透き通るせとものゝ肌へに

つきあたりくすぐる魚くづ。

みなそこに浮べる雲の

はてしならずきはみなき心に思へば

いづれはふるさと

遠き風見のうへにひろごる秋なり

行くもかへるも

じつと岩間にたゝづむ

わがひろき額に散りくる光より

秋はさびしくほろびゆき

旅びとの

ひとの身のうれひは永くみちもせに止まれり

                (九、一四)

 

[やぶちゃん注:「たゝづむ」はママ。

「みちもせに」「道も狹(せ)に」古語。「道も狭くなるほど、道いっぱいに。」の意。

「止まれり」詩想と音数律からも「とどまれり」と読みたい。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 秋晴

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 但し、「神に捧ぐる歌」で注した通り、本篇は未電子化である。]

 

 

 秋晴

 

にほひのなじみたる

きみが黑髮をとくときに

秋はさびしく流れ出で

眸にかげなき空うつる

ひるすぎごろ

遠きみづうみのこゝろにひたりて

あたゝくもたれてありしに

かすかなる窓のすきまより

雲白く浮びいでゝ

友だちのうたひつゝ行けるを見たり。

 

[やぶちゃん注:「あたゝく」はママ。校訂本文は『あたたかく』と補訂する(校訂では踊り字はテツテ的に正字化されている)。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 秋

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 但し、「神に捧ぐる歌」で注した通り、本篇は未電子化である。]

 

 

 秋

 

わが怒はうちに燃え

嘆きはそとにあふれたり

この身を野末に投げかけて

もえいづる草をぬきすつる

かくもけふの晴れたる日の下に

しなへる指をふるはせて

たかぶる心のいぢらしさよ

 

かくても望みはとげざるか

求むるものは逃れさり

日々に空しく消えゆく

消え去り行く生命

いつまでかこのまゝにてあるべしや

若きに心もえたち

淚をもつて祀りしかど

我が性の弱きにより

すべてよきものをうしなへり

 

あゝいまもあしたも

たましひは嘆きつゝ日影に座るなり

 

[やぶちゃん注:「祀り」はママで、校訂本文もそのままである。しかし、ここは流れから言うと、「まつり」と読むと、どうもしっくりこない。これは「祈り」の誤字か御判読のように思われる。【2022年12月10日追記】後の投げ込みで、この校訂本文は誤りで、やはり「祈り」と訂正が入っている。則ち、初出の「祀り」は萩原朔太郎の誤字であることが判明した。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 少年

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 但し、「神に捧ぐる歌」で注した通り、本篇は未電子化である。]

 

 

 少年

 

校舍の庭をあゆむとき

ふしぎに白き花を見て

胸のわびしくなりしこと

身うちをめぐる春光の

息苦しさにたえられで

幾何の時間を休みたる

わがはじめてのものごゝろ

 

 

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 偶成

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 但し、「神に捧ぐる歌」で注した通り、本篇は未電子化である。]

 

 

 偶成

 

くちびるにも

つめさきにもまなじりにも

やさしくべにをさしたる少女子

あつくつめたきおしろひの

ともしびのもとにうつむける襟脚はかなし

その透きとほる指をそろへて

つゞみうつありさまをみてあれば

やさしみのこゝろなごみいで

なにとはなしに淚こぼるゝ

 

[やぶちゃん注:「おしろひ」はママ。「少女子」は「をとめご」と訓じておく。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 少女よ

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 但し、「神に捧ぐる歌」で注した通り、本篇は未電子化である。]

 

 

 少女よ

 

色の色なるくれなひ

れいしの核なるくれなひ

ひとのひとなるむすめ

たましひのみやなる少女よ

 

[やぶちゃん注:エレナ詩篇と思われる。

二箇所の「くれなひ」はママ。

「れいし」「茘枝」。中国の嶺南地方原産の双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科レイシ属レイシ Litchi chinensis の果実は表面は皮革で、赤い鱗状の棘を持つ(新鮮な物ほど、棘が鋭い)。レイシの実は夏に熟し、その果皮を剝くと、白色半透明の多汁果肉(正しくは仮種皮(種子の表面を覆っている付属物)であって、狭義の意味での「果肉」ではない)があって高級な果物とする。

「核」「たね」と訓じておく。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 工人の群

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 但し、「神に捧ぐる歌」で注した通り、本篇は未電子化である。]

 

 

 工人の群

 

あつきこゝろを抱くとき

わが身はさいはひに充みたれど

かしこの日中に汗ばむひとびと

わがさくら咲く窓を指さし

なにとてのゝしりさわぐなるらむ

 

君はもとより知りまさね

われとても罪あるところにあるまじや

ひるひなか

にほひよき歌こそうたヘ

むざんなる生活(なりはひ)にあへぐこと

わがちゝはゝの掟にはなきものを。

 

[やぶちゃん注:「充みたれど」はママ。校訂本文は『充ちたれど』とする。しかし、「充(みちみ)ちたれど」でないという断定は出来ない。]

萩原朔太郞 一九一三、九 習作集第九卷 始動 神に捧ぐる歌

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。これより、「一九一三、九 習作集第九卷」の未電子化のものに入る。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 既電子化注の詩篇は、以下の通り、電子化注済みである。

「うすやみ」(本「習作集第九卷」巻頭詩篇)→『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 うすやみ』の私の注

「あきらめ」→『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 「愛憐詩篇」拾遺 あきらめ』の同前

「小曲集」(六篇から成る)→『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 秋日行語』の同前

「神に捧ぐる歌」→『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 神に捧ぐる歌 爪』の私の注

 以下、本「九月上旬の午後」から「秋思」までの八篇は未電子化である。]

 

 

 九月上旬の午後

 

そとには光烈しく

舖石も白くなやましければ

しばし窓によりかゝり

つゝましく果ものゝ汁をすゝらむ

 

あゝ友よ、人生よ、

我が野に行けば野は靑く

わが蹈むところすべて綠にふるへたり

靑草原はいきものゝしとね

見よや、生れしものそのすみずみに悅べり

 

友よ、おん身の手をもつて

この扉(とびら)をばあけたまヘ

いま少し日かげとなりしに

いざ二人かたく手を組みて

我等深空のもとを步みゆかばや

            (一九一三、九、一〇)

 

[やぶちゃん注:「舖石」「ほせき」或いは「しきいし」。校訂本文は『鋪石』と変えてあるが、従えない。誤字でも変字でもない、正式に道路に敷き詰めた敷石の意味で辞書に載るからである。いや、例えば、小学館「日本国語大辞典」では、漢字表記を『舗石・鋪石』と、本表記を最初に出しているのである。こういう校訂は萩原朔太郎に対する侮辱以外の何物でもない。呆れ果てた。]

萩原朔太郞 一九一三、四 習作集第八卷 我をいとほしむ歌 / 一九一三、四 習作集第八卷~了

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「目無し魚」の後の、本篇より前の詩篇は、以下の通り、電子化注済みである。

「歌」(短歌七首)→「歌   萩原朔太郎   (短歌七首)」本文

「戀魚夜曲」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 歡魚夜曲』の私の注の最後の詩篇

「白昼夢」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 ものごころ』の私の注の最後の詩篇

 なお、本篇を以って「一九一三、四 習作集第八卷」は終わっている。]

 

 

△我をいとほしむ歌

 

わが身のかくもうれひに沈めるは

われをはぐゝむものゝなければなり

 

われはもとよはきひとにてはなかりしが

あまりに性のうるほひにみちたれば

導くもの我をあざむきてかの暗き淵に入れたり

 

われは惡しきひとにはあらざれど

瞳あかるきに慣れければ

イエスのふみを見ておどろかざりき

かくて導くもの

我をたわかりて硫記黃の地獄に落したり

 

われは常闇の地獄の底より

硫黃の炎にむせびつゝうち嘆く

日々の祈禱もいまは空しく

たゞ固くわが手にわが身を抱くのみ

いとほしきもの わが身の外にはあらぢかし

 

が身のうれひにしづめるは

われをはぐゝむものゝなければなり

あゝ光よ、よみぢをてらせ

             (一九一三、九、七)

 

[やぶちゃん注:標題の頭の「△」は編者注によって補った。当初、無題としていたが、後に「我をいとほしむ歌」と確定したものか。二連一行目「よはき」、第三連最終行「わかりて」はママ。校訂本文は『たばかりて』とする。まずは、穏当であろう。第四連最終行の「あらぢかし」はママ。また、第四連三行目の「祈禱」は底本全集(初版)では、「祀禱」となっているが、同全集の最後に投げ込みで入れられた全正誤表に従い、訂した。]

萩原朔太郞 一九一三、四 習作集第八卷 目無し魚

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「題しらず」の後の、本篇より前の詩篇は、以下の通り、電子化注済みである。

「ものごゝろ」→『「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 ものごころ』の私の注の最後の詩篇

「稚子」(別に「△」(無題の詩)二篇を含むセット作品)→『昭和二三(一九四八)年小學館刊 「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」 電子化注始動 / 表紙・背・裏表紙・扉・「遺稿詩集に就て」(編者前書) / 「第一(「愛憐詩篇」時代)」 鳥』の私の注で三篇一括して電子化

「濱邊」→『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 濱邊』の私の注の最後の詩篇

「秋」→『萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 秋』の注の最後の詩篇]

 

 

 目無し魚

 

底ひなき井戶の中にも住みなれて

わが目無し魚はよろこべり

時しらぬ暗闇の家にはあれど

凍えたる碧水のそよぐことなければ

今日も時はいちゞくの乳としたゝり

明日もまたかくて遠き方より步み過ぐらむ

底しらぬ水の中にも

うごめける鱗ひかりて

肌靑く嘆く侘しさ

もとより魚は靈感の世界を放れ

ひとり にぶく つめたく

いきものゝ吐息もかゞで住みければ

かつはこゝらへて死せる心の哀傷を

それともたれか知るべしやは

たまたまこの身を果敢なみて

底なき底をうかゞへば

わが目無し魚の (ひれ)もりんりんと

かの不思議なる靑き歡喜も

たちまちに、我がよろこびとぞ成りにける。

 

[やぶちゃん注:後ろから三行目の字空けはママ。漢字を忘れたので後に書き足すための意識的欠字であるが、それを忘れたもの。校訂本文では『鰭』を当ててある。「いちゞく」もママ。

「放れ」萩原朔太郎はしばしば「離れ」を、かく表記はする。ここもそれであろうとは思う。しかし、朔太郎が「離」ではなく「放」の字を好んだこと、さらには「はなたれ」でなかったと断言できない以上、校訂本文のように、安易に『離れ』と消毒するのは、私は拒否するものである。]

萩原朔太郞 一九一三、四 習作集第八卷 題しらず

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。但し、本篇は過去に電子化していない。]

 

 

 題しらず

 

おほいなるその顏の

あやしくも白きを思ひ

その息のくさきをしのび

あさましきわがふるまひを嘆きつゝ

かの家をのがれ出でしは

いつの日のことかと思ひしに

ふしぎにも今朝にでありけり

それがあまりならずや

夜半頃

角海老の臥床の中に泣き出せり、

 

[やぶちゃん注:これは、萩原朔太郎の衝動的な「小さな家出」のそれか。であるならば、冒頭の「おほいなるその顏の/あやしくも白き」「その息のくさき」というのは、父密蔵のことか。

「角海老」その朝に前橋を出奔したとなら、行き先はこの時期の彼の行動様態から、まずは東京を第一候補とすることが穏当で、宿泊出来る「角海老」を調べると、吉原遊廓の老舗「角海老楼」があり、江戸時代から現在(但し、場所は移動している)まで残っている「角えび本店」がある(グーグル・マップ・データ)。丹治俊樹氏のブログ「知の冒険」の『日本最大の遊廓街であった「吉原遊廓」の歴史を掘り下げたVol.3~吉原神社・樋口一葉記念館・角海老』の『日本最大数のソープ店「角えび」に迫る』を見ると、『吉原遊廓の中にも老舗があ』り、『今現在に最大のソープ店舗数を誇るのが「角えび」で』あり、『横浜、川崎、千葉などなど日本全国に』三十二『店舗を出しているグループで、ソープ街に行くと』、『大抵』、『「角えび」か「三浦屋」の看板を見かける』『が、それらは同じ系列』とある。浅草は朔太郎の好んだ場所であり、ここをこの候補の一つとして挙げて問題はあるまい。

「臥床」「ふしど」。]

2022/12/03

大和怪異記 卷之五 第四 女病中に鬼につかまるゝ事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

     第四 女《をんな》病中(びやう《ちゆう》)に鬼(おに)につかまるゝ事

 寬文四年、みのゝ国麻生(あさふ)にて、ある者の妻、わづらひしに、病人のかたはら、何とやらん、おそろしくなり、女・わらんべは、ひるも、あたりには、來《きた》らず。

 やうやう、をつと、わきざしを、よこたへ、かんびやうするよりほかには、よりつく人も、なし。

 しだいに、わづらひ、おもくなり、をそろしさ[やぶちゃん注:ママ。]、いやまさりになりしとき、ある夜、病人、

「あつ。」

と、さけびしかば、をつと、はしりよりて、みれば、左の手を、引《ひき》ぬき、其手は、みえず。

 折ふし、後園(かうゑん)の大竹、十四本、さゝらのごとく、われ、ひしげけるは、いかなるゆへにか、ありけん。

[やぶちゃん注:原拠「犬著聞集」は所持せず、ネット上にもない。また、同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようである。

「寬文四年」一六六四年。徳川家綱の治世。

「みのゝ国麻生」現在の岐阜県揖斐(いび)郡大野町(おおのちょう)麻生(グーグル・マップ・データ)。]

大和怪異記 卷之五 第三 へび人の恩をしる事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第三 へび人の恩をしる事

 いづみ国槇尾山、ちかき在所の僧、ちいさき蛇を「乙《おと》」と名つげ[やぶちゃん注:ママ。]、年久しくかひけるが、後には、甚だ、大《おほき》になりて、旦那も、おそれしかば、かの僧、「乙」にむかひて、

「汝を、人々、おそるゝに、いまより、爰《ここ》には、かなひがたし。」

とて、あたりの池につれ行《ゆき》、

「この池ぬしと、なれ。」

と云(いひ)て、はなちける。

 あるとき、里人、

「水、あみる。」

とて、「乙」にとられ、死しぬ。

 これによつて、その一ぞく共゙、

「これは、もと、いはれぬものを、はなてるゆへにこそ、かゝること、仕出(しいた[やぶちゃん注:ママ。])しつれ。坊主は、われわれが、「かたき」なり。いざ、うちころさん。」

など、のゝしるを、坊主、つたえ聞(きゝ)、かなしく思ひ、池にゆきて、

「『乙』や、ある。」

と、よび出《いだ》し、

「をのれが[やぶちゃん注:ママ。]、里人を、とりしゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、『われは、ころさるべき。』と沙汰す。なさけなきこと、したるものかな。」

と、かき口說(くどき)しに、大蛇、つくづく聞居《ききをり》しが、かたはらなる岩に、かしらを、うちつけて、終《つひ》に死しける。

 里人、

『きどくの事。』

に思ひ、堂をこんりうし、「乙《おと》が堂(だう)」と、なづく。

 蛇の長さ、十三間《げん》ありしを、かたとり、十三、石(いし)をすへ、經文字(きやうもんじ)をきり付《つけ》、今にあり。

[やぶちゃん注:原拠「犬著聞集」は所持せず、ネット上にもない。また、同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようである。

「いづみ国槇尾山」槇尾山(まきおさん)は大阪府和泉市にある標高六百メートルの山で、参拝登山者の多い霊峰である。ここ(グーグル・マップ・データ)。和泉市槇尾山町にある。標高五百メートルほどの位置に行基・空海所縁の古刹の天台宗槇尾山施福寺(まきおさんせふくじ)があるが、かく言っている感じでは、その寺の僧ではないような感じはする。「和泉市立和泉図書館」公式サイト内の「和泉のむかしばなし」にも、『乙が堂の場所がどこだったのか、いまでは、はっきりとはわかりません。ただ、むかしばなしだけが伝えられ、残っています』とある。

「いはれぬもの」「言はれぬ」は連語で「道理が通らない」或いは「必要な・無用の」の意。後者でよかろう。

「十三間」二十三・六四メートル。異様に長い。上記のリンク先では『十三丈』とあり、これだと、三十九・三九メートルで、それ以上に長い。

「かたとり」「象(かたど)り」。菩提を弔う象徴として。]

大和怪異記 卷之五 第二 盲目觀音をいのりて眼ひらく事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第二 盲目(《まう》もく)觀音(くわん《おん》)をいのりて眼(まなこ)ひらく事

 伊勢國橫竹の觀音は、㚑驗《れいげん》あらたなりしに、ある座頭、二七日《ふたなぬか》、こもりて、

「一たび、目をあけて、たべ。」

と祈りしかど、何のしるしもなかりしかば、

 竹とてもすぐなる竹か橫竹の堂も仏(ほとけ)も同じ木のきれ

と、よみて、下向《げかう》しけるに、あとより、よびかへす人、あり。

「たそ。」

とふりかへれば、眼(まなこ)、忽(たちまち)に、ひらきし、となり。「犬著聞」

[やぶちゃん注:原拠「犬著聞集」は所持せず、ネット上にもない。また、同書の後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」にも採られていないようである。

「伊勢國橫竹の觀音」不詳。識者の御教授を乞う。

「二七日」十四日間。]

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「風怪狀」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上段十行目)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回はやや長いが、そのままとした。

 本篇は「京都地震」関連記事の第七弾にして掉尾。第一篇以降で注した内容は、原則、繰り返さないので、必ず、そちらを先に読まれたい。

 なお、この標題「風怪狀」とは、冒頭からブッ飛びの地震押さえの神として知られた鹿島神宮に対する処罰(「差控」(さしひかへ):江戸時代に武士や公家に科せられた制裁。勤仕(ごんし)より離れ、自家に引き籠って謹慎させる処罰。但し、重い「閉門」とは異なり、門を閉ざすものの、潜門(くぐりもん)から目立たぬように出入りすることは黙認され、比較的軽い刑罰乃至は懲戒処分として、職務上の失策を咎めたり、親族・家臣の犯罪に縁坐・連坐させる場合などに於いて執行された。自発的にも行われ、親族中、一定範囲の者や家臣が処罰を受けると、その刑種によっては、「差控伺(うかがい)」を自分から上司に提出し、慎んで指示を待ったりもした)を記すことで判る通り、重要機密書類を指す「封廻状」に引っ掛けた、自然災害である大地震の被災による当時の社会状況を皮肉ったり、茶化したりして、洒落のめしたパロディ系号外の極めて悪趣味な「瓦版」の一連のそれを指す。幕末の「安政の大地震」(安政年間(一八五五年から一八六〇年まで)に日本の各地で連続的に発生した大地震群)の直後の「鯰絵(なまずえ)」がよく知られる。]

 

 ○風怪狀

         鹿島常陸神

  名代 香取下總神

其方義、往古より地震押《おさへ》のため、鎭座被仰付候處、一昨年、越後國牧野備前守領分、大地震、有ㇾ之、老中の領分勘辨無ㇾ之、所々、猥《みだり》に震崩《ゆりくづれ》候間、人馬、數多《あまた》致死亡、既に公儀より、備前守拜領金、被仰付候程の儀、乍ㇾ去、代々、勳功被思召、其儘に被指置候處、此度《このたび》、洛中、大地震にて、奉ㇾ驚帝都、二條御城、令破損候段、御場所柄共《ども》不ㇾ辨致方《わきまへざるいたしかた》、其方《そのはう》、あらん限り、右樣の儀、有ㇾ之間敷筈《あるまじきはず》之處、畢竟、手ゆるく候故の儀、不束《ふつつか》の恨《うらみ》に付、依ㇾ之、差控被仰付候。

右者、於伊勢神宅に、出雲神、出座、伊勢神、申渡之、御目付、西宮惠比須三郞、相越《あひこし》候。

       石野要人

         名代 奈須野伊四郞

其方義、鹿島常陸神、爲配下《はいかを爲(し)て》地震橫行《わうかう》の儀、爲ㇾ致間敷筈《いたし爲(な)すまじきはずの》の處、中世以來、數多《あまた》の地震、有ㇾ之、其方え、申付置候甲斐、無ㇾ之候迚《とて》、先年、水戶中納言殿、掘捨可ㇾ被ㇾ申處《ほりすてまをせらるべきところ》、格別の用捨を以、被差置候處、右之儀共、致忘却、剩《あまつさへ》、鯰《なまづ》を差《さし》ゆるし置《おき》、越後國、幷、洛中、兩度、大地震、相企《あひくはだて》候段、畢竟、其方、常々、押《おさへ》、聞不ㇾ申候《ききまをさずさふらふ》よりの儀、瓢たん同樣の心得方《こころえかた》、重々、不埒の儀に付、野見源之介を以、「こつぱ」にも可ㇾ爲ㇾ致處、常陸神より申立候筋も有ㇾ之に付、此度も不ㇾ及沙汰、土中へ押込申候。

[やぶちゃん注:「石野要人」以下の「名代」の「奈須野伊四郞」の名と、「中世以來」の犯罪行為というところからは、那須野の「玉藻の前」「九尾狐」の変じた「殺生石」を指しているように私には読めた。

「押、聞不ㇾ申候」の「きき」の「聞」は、「言うことを聞かない」の意よりも、当て字であって、「効(き)き」で、「全然、鯰に対する抑えが効いていなかった。」という意で私はとった。

「瓢たん同樣の心得方」「瓢簞鯰」(ひょうたんなまず)のこと。禅画や「大津絵」で知られる「瓢簞で鯰を押さえて捕える」という凡そ不可能な場違いな行為から、「捉え所のない様子・要領を得ないさま」及び「そのような人」を指す。]

                赤井星四郞

其方儀、近來《ちかごろ》、每夜、徘徊致候に付、諸人、怪《あやし》み、種々《しゆじゆ》の惡說、申觸《まをしふれ》候。上方筋の地震も、都《すべ》て世上には、右、前表《ぜんぴやう》の趣《おもむき》に申候。畢竟、奢侈《しやし》に長《ちやう》じ、目立候光り方、明星をも如ㇾ致ㇾ蔑《さげすみいたすがごとく》に相聞《あひきこえ》へ、紛敷《まぎらはしき》不行跡《ふぎやうせき》、天文方《てんもんかた》へ申渡し、糾明可ㇾ被仰付處、高橋作左衞門、牢死後、何《いづれ》も、星學、不案内の趣に付、不ㇾ及其沙汰、依ㇾ之、「急度《きつと》光り」申付候。

右於評判所所々夫々へ申渡、此節、地震番所において寫ㇾ之者也。

[やぶちゃん注:これは火星を処罰したもの。処罰が洒落ている。「急度叱(きつとしかり:江戸時代、庶民に科せられた刑罰の一種で、一番軽い「叱(しかり)」の重いもので、厳重に叱責するだけで、放免する軽刑。「叱」と同様に犯罪者本人だけでなく、連座した者にもしばしば科せられた)を「急度光り」としたのである。

「高橋作左衞門」幕府天文方として間重富(はざましげとみ)とともに「寛政暦」を完成させ、伊能忠敬の師でもあった天文家高橋至時(よしとき 明和元(一七六四)年~享和四(一八〇四)年)の長男高橋景保(かげやす 天明五(一七八五)年~文政一二(一八二九)年)。至時の死後に後継として文化一一(一八一四)年天文方筆頭(書物奉行を兼任)に任命された。当該ウィキによれば、ヴァシーリイ・ゴローウニンの「日本幽囚記」(一八一六年)が『ロシアで出版された際には、その誤った記述を正すため』、「ゴローヴニン事件」で『ともに逮捕したムール少尉の「獄中上表」をオランダ語訳し、ヨーロッパで出版する計画を推進したが』、「シーボルト事件」により『果たせなかった』。文政一一(一八二八)年の「シーボルト事件」に関与して、同年十月十日(グレゴリオ暦十一月十六日)に『伝馬町牢屋敷に投獄され、翌』文政十二年二月十六日(一八二九年三月二十日)に『獄死している。享年』四十五であった。『獄死後、遺体は塩漬けにされて保存され、翌文政十三年三月二十六日、『改めて引き出され』、『罪状申し渡しの上』、『斬首刑に処せられている。このため、公式記録では死因は斬罪という形になっている』とある。この部分は、そうした死者に鞭打つ幕府の処分に対する批判の示唆も含まれているように感じられる。]

          川住父大奈滿壽事

             地    震

其方儀、往古《わうこ》、於大海橫行候に付、蒲燒にも可ㇾ被仰付筈の處、御れんみんを以、鹿島常陸神配下に申付、地震、蟄居可罷在處、其後、古歌の定《さだめ》をも不相守、刻限の無差別も種々の病等、爲ㇾ致流行、諸人、難儀に付、先年、水戶家より、要人え、糺《ただし》之上、格別之譯を以、其儘に相成置候得共、尙又、相鎭可罷在處、近頃、相亂れ、越後國、幷、洛中等、及二亂暴に一、地中より、泥砂等、吹出し候儀、全く彌勒出世之年限をも不相待、泥海に可ㇾ致心底に相聞、旁《かたがた》不埒の至《いたり》に候。依ㇾ之、鹿島常陸神へ、改《あらため》て、御預け、奈落へ蟄居被仰付候。

 右、何人《なんびと》の戲作なるを、しらず。庚寅九月廿一日、ある人よりに借《かり》、謄了《うつしをはんぬ》。

[やぶちゃん注:「川住父大奈滿壽事」「かはずみ ちち おほなまづ」。

「れんみん」「憐愍」「憐憫」。

「古歌の定」平凡社「世界大百科事典」の「地震」の中の宮田登先生(先生は、たしか、私が教師時代に勤務した横浜翠嵐高等学校の卒業生である)による『【民俗】』に(コンマは読点に代えた)、『大地震が起こると、関西地方では〈世直り世直り〉、関東地方では〈万歳楽万歳楽〉などと唱えたという伝承がある。いずれもこの世が変わるという潜在意識の表現であり、民衆の地震観をよく示している。世界を支えている動物がおり、その動物が動くと大地震が起こるという信仰が人類文化に共通して存在している。東南アジアや東アジアには、世界魚または世界蛇が多い。履城県鹿島地方の鹿島神宮には要石(かなめいし)があって、鹿島明神が世界魚である鯰(なまず)の頭と尾を押さえつけているという俗信がある。要石が鯰を押さえている釘(くぎ)で、これがゆるくなると』、『鯰が動き』、『地震が起こるというのである』。

 搖(ゆら)ぐともよもや拔けじの要石

        鹿島の神のあらん限りは

『という和歌が地震除けのまじないとして伝承されている。鯰以前は大蛇であったという。島国日本を大蛇がぐるりととり巻いている絵が』、建久九(一一九八)年に『作られた暦の表紙に描かれている。この大蛇が』、『鯰に変化したのは』、『江戸時代中期だったらしい。日本の昔話には〈物言う魚〉のモティーフがあり、これは魚王が人間に対して自然界の災厄を予知するという信仰を基底に成り立っている。この場合、鰻(うなぎ)、鯰、岩魚(いわな)などが多い』安政二(一八五五)年十月に『起こった大地震は』、『江戸市中を破壊したが、その直後に流布した瓦版として』「鯰絵」『がある』。「鯰絵」の『図柄は鹿島明神と要石と鯰が題材となっており、一般に知られているのは』、『鹿島明神が要石で』、『鯰を押さえ込む構図である。地震を〈地新〉と表記し、世界が新しくなるという理解のあったことがわかる。これは世直りの観念と揆(き)を一にしている。一方、大鯰が鯰男の姿となり、海の彼方から出現してきて』、『金持ちの悪徳商人たちを』、『たたきのめしている図もあり、これは〈世直し鯰〉として包括されている。〈世直り〉とか〈世直し〉という日本語は、江戸時代の初期にはすでに存在していたらしい』とあった。]

萩原朔太郞 一九一三、四 習作集第八卷 ひとり身

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「慕鄕黃昏曲(ノスタルジヤセレナアド)」の後の、本篇より前の詩篇は、以下の通り、電子化注済みである。

「林檎の核」(短歌十七首)→林檎の核 歌十七首』本文

「五月の歌」(短歌三首)→『五月の歌 萩原朔太郎(短歌三首)』本文

「月見草」→『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 月見草』の私の注

「一群の鳥」(短歌十九首)→「萩原朔太郎 短歌十三首  附習作二十首 大正二(一九一三)年八月」後半の本文

「麥」→「麥 萩原朔太郎 (初出形+習作草稿)」の注に入れた後者

「ふゞき」→『萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 ふぶき』の私の注の最後]

 

 

 ひとり身

 

「泣くなよ娘

わが少女子が泣くときに、我も哀しく淚ぐむ泣かまほし」

われはひとり身

われとわが身をもてあまし

この妹のもて遊ぶ

人形をみてさしぐまる

われはひとり身日かげもの

昨宵(ゆうべ)の酒がきゝすぎて

かゝる仕末となりにけり

せんすべもなや

 

[やぶちゃん注:削除部分の「仕末」はママ。編者注記があり、『卷末の目次では「獨り身」との題名を附している』とある。

「少女子」「をとめご」と訓じておく。

「さしぐまる」「さしぐむ」の自発形。「思わず、涙ぐんでしまう。」の意。「る」は自発の助動詞。]

萩原朔太郞 一九一三、四 習作集第八卷 慕鄕黃昏曲(ノスタルジヤセレナアド)

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。本篇は今まで電子化していない。]

 

 

 慕鄕黃昏曲(ノスタルジヤセレナアド)

 

しめやかなるのすたるぢやのもよほしに

やさしくもさしぐみきたる淚

もとより海近きえにしだの木影ならずば

なにしかはこの薄ら明りをば思ひなやまむ

ところ定めぬぢぷしいの群にはあらで

影の過ぎゆくものはうら哀しく

おとなひ來(きた)るものはなにくれと寂しかり、

たちよりて我が白き指にすかしみる

すかし見る草の葉のうらおもてに

せんすべもなく落日はそがひ泣き

何時までか黃昏(たはかれ)はひとつところを步み居るらむ、

はるばると瞳をあげて遠きを望み

海山こえて燕雀の落つる ところ→姿ちゆく方を思ひみば

我れにはあらで如何なる人が住みにけむ

こゝらへて見知らぬ國の戀ひしさに

やさしくもさしぐみ來る淚はとゞめあへずも。

 

[やぶちゃん注:標題のルビは「ノスタルヂヤ」は英語のそれに近く、「セレナアド」はフランス語の発音に近いから(英語は“serenade”であるが、音写は「セレネイド」に近い)、異言語のままに組み合わせるなら、 “Nostalgia sérénade” (懐郷小夜(さよ)曲)となろう。フランス語ならば、“Nostalgie sérénade”(ノスタルジー・セレナード)である。編者注があり、『題名の下にSBと記されている』とある。「SB」の意味は不詳。

「えにしだ」マメ目マメ科エニシダ属 Cytisus 。タイプ種はエニシダCytisus scoparius 。全草にアルカロイドを含む有毒種である。広義のエニシダは二十五属約二百種でエニシダ節 Genisteae を作る大所帯である。

「ぢぷしい」「ジプシー」。“gipsy”、或いは、“gypsy”とも綴る。但し、「ジプシー」は差別的意味合いが強いので、現在は使用すべきではない。小学館「日本国語大辞典」によれば、バルカン諸国を中心に、アジア西部からヨーロッパ各地・アフリカ・南北アメリカ・オーストラリアなどに広く分布する民族。十世紀頃、故郷であるインド北西部から西に向かって移動を開始し、十五世紀にはヨーロッパ全域に達した。皮膚の色は黄褐色かオリーブ色で、目と髪は黒。馬の売買・鋳掛け・占い・音楽などで生計を営んでいたが、近年は定住するものも多い。その固有の音楽や舞踏は、ハンガリーやスペインの民族文化に影響を与えた。自称は「人間」の意の「ロマ」である、とある。但し、古く呼ばれていた卑称的「ジプシー」にはロマ族でない人々も含まれているため、「私たちはロマではない」と抗議するケースもあると聴いた。

「そがひ泣き」「背(そがひ)泣き」で、「背を向けて」或いは「後ろを向いて」、「泣き」の意であろう。

「黃昏(たはかれ)」底本本文はルビを『かはたれ』に不当にも強制変更している。先行する『萩原朔太郞 一九一三、四 習作集第八卷 寫真に添へて 歌集「空いろの花」の序に』の「たはかれ」の私の注を参照されたい。]

萩原朔太郞 一九一三、四 習作集第八卷 公園の夏

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「成長」の後の、本篇より前の詩篇は、以下の通り、電子化注済みである。

「ゆく春のうたありや」(太字は底本では傍点「﹅」)→『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 暮春詠嘆調』の私の注

「ふるさと」→「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 偶成」の私の注

「題しらず」→「題しらず 萩原朔太郎」本文

「いろはがるた」→「いろはがるた 萩原朔太郎」本文

「題しらず」(前掲詩篇とは同名異篇)→「題しらず 萩原朔太郎」本文

「雨の降る日(兄のうたへるうた)」→「雨の降る日 萩原朔太郎」の私の注

「一宮川旅情の歌」→「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 一宮川旅情の歌」の私の注(なお、親和性の強い詩篇『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 濱邊』も参照されたい)

「綠蔭」→『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 綠蔭』の私の注]

 

 

 公園の夏

 

パンを喰べしに

パンの味つめたく

水を飮みしに

水の味かなしかりき

袂より銀貨を出して

てえぶるの上に置きしとき

銀貨は跳ね返りて床の上にころげ落ち

床の上に落ちて跳ね返りて白く光れり

こゝをいでゝまた何處へ行かむ

遠きバラソルは眼に痛く

けふも泉水にほとりに鳩は眠れり

立ちて見る。

            (二十四、五、一九一三)

 

[やぶちゃん注:「バラソル」「泉水に」はママ。校訂本文は『パラソル』『泉水の』とする。]

萩原朔太郞 一九一三、四 習作集第八卷 成長

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。但し、この前の詩篇は既電子化はない。]

 

 

 成長

 

しめやかに木の芽は成長す

めぐみは夏の日の綠陰のごとし

飢えたるものにのみくひはゆるされたり

しんしんとして水の流れゆくときに

われはこゝろを傾むけて

ありとあらゆるものゝ吐息をかぐ

みよ靑きものは空とつちとにあり

しかうしてわが身とこしなへに若ければ

いつもかくやさしくげにきよらげにてあれや

いまねこやなぎの木の芽生のごとく

われは人とひかりにはぐゝまれてしめやかに生長す。

            (一九一三、五、十九)

 

[やぶちゃん注:「餓え」はママ。全体には、ほぼ歴史的仮名遣であるから、「餓ゑ」が正しい。「くひ」もママで「くい」(悔い)の誤記。なお、編者注があり、『題名の下にはS.K.と記されている。また巻末の目次では「生長」との題名を附している』とある。この「S.K.」は底本解題によれば、雑誌『詩歌』の略号であるとあり、『發表を予定して附けられたものと思われる』とある。]

萩原朔太郞 一九一三、四 習作集第八卷 別れ路

萩原朔太郞 一九一三、四 習作集第八卷 別れ路

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。但し、この前後の詩篇は既電子化はない。]

 

 

 別れ路

       (大川端にて)

 

橋の袂に別れ行く

別れ行く人の影靑しや

二十六夜の月も傾むき

さらばさらばと川浪の岸を洗ふや

あひないの名殘もしんとせり

いとゞしく

あすがはまきのふけふとは思はねど

あひゞきのたびかさなりて

さはいへど、いへばへの君が思ひも

「かし舟」の提灯(かんばん)くらき露路のかど

今宵ばかりは輕々しや

あゝ如何なれば遠き都のみぢか夜に

こゝかしこ泣きぬれて步む二人とはなりにけむ

やゝしばし夜や更けぬらむ

たちわかれ河岸をまがれば

貸席の岡田の燈灯(あかり)ほの白く

物や思ふと素足の指につまづけり

わが爪さまにひえひえと

濡れて光れる銀の平打

別れゆく。

               (13.5.1913

 

[やぶちゃん注:異様に、一読、意味の判らなかったり、普通でない表記のフレーズが多過ぎる。これは、思うに、朔太郎の確信犯的隠蔽の言葉遊びのように思われてならない。恐らくはエレナ詩篇の一つと思われる。

「あひない」不詳。「たあいない」(他愛ない)の脱字か。

「あすがはまきのふけふ」意味不明。「あす」は「明日」、「きのふけふ」は「昨日今日」としても、意味が通らない。誤字か、判読の誤りが疑われる。或いは「あすがはま」は朔太郎が造語した「明日が濱」という枕詞か?

「いへばへ」「いへばえに」(言へば得に)の名詞化の誤記であろう(底本校訂本文も「いえばえ」と校訂している)。「言へば得に」は、中古以来の古語の連語で「言おうとすると言うことができなくて」の意。動詞「言ふ」の已然形に、接続助詞「ば」と、動詞「得(う)」の未然形と、打消の助動詞「ず」の古い連用形「に」が接続したもの。

「提灯(かんばん)」は当て訓。

「燈灯(あかり)」底本の校訂本文では誤字として「燈火」と消毒されてある。

「爪さま」意味不明。底本の校訂本文では誤字として「爪さき」となっている。これは穏当である。

「ひえひえ」後半は底本では踊り字「〱」。底本の校訂本文では濁点の脱落として「ひえびえ」とある。これも穏当。

「平打」「ひらうち」。所持する小学館「日本国語大辞典」に「ひらうち」の中にある、『簪(かんざし)の一種。銀などで平たくうち、定紋や花鳥を彫りこんだもの』とあるのが、それであろう。ネットの「精選版 日本国語大辞典」のこちらに図がある。]

萩原朔太郞 一九一三、四 習作集第八卷 (繪をかくも……)

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「(手にて髮の毛をかきむしり……)」の後の、本篇より前の詩篇は、以下の通り、電子化注済みである。

「淚」→『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 淚』の私の注]

 

 

 △

 

繪をかくも

歌をつくるも

ヰオロンを奏なづることも

そのこゝろはひとつ

そのひとつを求めんとて

我はかくもやるせなき日を送るなり。

 

[やぶちゃん注:編者注があり、『巻末の目次では「そのひとつ」との題名を附している』とある。]

萩原朔太郞 一九一三、四 習作集第八卷 (手にて髮の毛をかきむしり……)

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 前の「五月」の後の、本篇より前の詩篇は、以下の通り、電子化注済みである。

「歌」(短歌七首)→『萩原朔太郎 歌 七首 (「習作集第八卷(哀憐詩篇ノート)」より)』本文

「△」(無題)→『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 利根川のほとり』の私の注

「△」(無題:上記とは別詩篇)→『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 小曲集』の同前

「ありじごく」→『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 蟻地獄』の同前]

 

 

 △

 

手にて髮の毛をかきむしり

眼はひとゝこをみつめたり

薄闇の部室に座るは我ひとり

我たゞ一人……

 

2022/12/02

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「【地震奇談】平安萬歲樂」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上段八行目から。普通附されてある頭の「○」印がない)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回はやや長いが、そのままとした。

 本篇は「京都地震」関連記事の第六弾。第一篇以降で注した内容は、原則、繰り返さないので、必ず、そちらを先に読まれたい。

 なお、この標題は、後に記されてあるように、一月後に出回った一種の瓦版の長めのもので、災害に乗じて関連記事で儲けようとしたものらしい。なお、標題の「平安萬歲樂」は、表現上は、震災被害を乗り越えて平穏ならんことを言祝ぐといった感じに見えるが、江戸後期当時、「萬歲樂」という語は、感動詞として頻りに用いられたもので、「危険な折りや、驚いた時などに唱える「厄除け」の言葉で多くは、「万歳楽、万歳楽」重ねて用い、所謂「くわばら、くわばら」と同義でもあったので、それをきかせた、洒落にならない洒落ででもあろう。試みに調べてみたところ、「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」のこちらに、宮内庁書陵部蔵の「平安万歳楽」(見開き扉の表記のママ)が視認出来、見ると、「みやこまんざいらく」と読みが振ってあった。しかも、ここでは、以下に続く「下」のパートも視認出来る(私は、こうしたものを書いて、金を儲けた筆者が生理的にイヤな感じなので、読みたくもないので、電子化するつもりもない)。所蔵元の「宮内省書陵部」公式サイト内の当該書の書誌を見ると、全一巻で文政十三年刊、『一名』を『大地震録』とし、版は、『京都』の『美濃屋平兵衛』とあった。また、本文末を見ると、署名は「東鹿齋」ではなく、「東祿斎」である。

 

   【地震奇談】平安萬歲樂

比《ころ》は文政十三庚寅年、七月二日晝七ツ時、京都大地震にて、始め、「どろどろ」と、ゆり出し、其跡、引續《ひきつづき》て、大地震となり、やゝしばらく、家居、倒るゝ計《ばかり》にて、只、おもひがけなく、皆、地に伏《ふし》、疊に伏、柱を、いだき、垣を杖にするも、みな、其身の全き事のみ祈る中に、老人の出《いで》て、「大道《だいだう》へ、出《で》よ。」と罵るを聞傳へ、銘々、板を並べ、疊を敷《しき》て、皆、大道へ出《いで》けり。扨、古家、古土藏は、皆、倒れ、其外、神社佛閣・石鳥居・石燈籠、或は、築地・高塀の倒るゝ事、夥敷《おびただしく》、たとへ、丈夫の土藏なりとも、ひゞり[やぶちゃん注:「罅(ひび)に同じ。]の、入らぬは、なし。棚の諸道具、落損じ、竃《かまど》、倒れ、襖・戶・障子は、之も更《さら》也、家居《いへゐ》、たわみて、戶のしまり惡敷《あしき》は、みな、一統にて、中には、地震より、ゆがみ戾り、戶のしまり、よく有も、いとおかし[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]。其物音、天地に響き、土、ちり、宙を曇らす。其中に、只、「どろどろ」と、ゆりたえず、心もそゞろに、魂をとられ、肝を冷し、うろたへるものも有。あはて騷ぐも道理こそ。二日夜は、大道にて、夜を守らんとするに、夜氣《よき》うけん事を思ひ、板をもて、屋根となし、又、繩を引渡し、むしろを覆ひて、洛中洛外、皆、夜を明《あか》し、町々には、嚴重に高張《たかばり》[やぶちゃん注:高張り提灯。]を立《たて》、家並に「かけあんどう」を釣りて、身は、陣笠をかむり、胸當《むねあて》りゝしく[やぶちゃん注:「胸當」は火事装束の一つで、背の裂けた羽織を着用する者が用いる防災用の胸当て。火事羽織と同物同色同製で、両辺の紐に玉をつけ、帯に挟む。サイト「みんなの知識 ちょっと便利帳」の「火事装束(羽織・胸当・石帯) 茶へるへとわん無地(二つ引紋付)」の右上の写真の羽織の下の間にあるものがそれ。]、馬、挑灯をともし[やぶちゃん注:「馬提灯」では見当たらないので、読点を入れた。「馬に灯した提灯を附けて」の意でとっておく。]、近き友・親族へ、見舞に廻る事、おたがひにて、ころび寐《ね》の枕元へ、犬のはゐ來《きた》るも、いとおかし。井の水は、皆、濁れり。少々、氣のおさまれる方は、大道にて、茶をわかし、飯を物し、酒を汲《くみ》、漸《やうやう》、食物、のんどを通るといへ共、心はそゞろに、只、「どろどろ」と、ゆり、たえず。町内には、金棒・わり竹を引鳴らし、「火の用心」、觸步行《ふれありく》事、嚴敷《きびしく》、何方《いづかた》よりか、老人の來て、「まじなひ」をあたへる有《あり》。其歌に、

 ゆるぐともよもやぬけじの要石《かなめいし》

      鹿《か》しまの神のあらん限りは

と、皆、書寫して、戶口の柱、或は、大黑柱に張付、勿體なくも、天照大神宮[やぶちゃん注:伊勢神宮。]の御祓《おはらひ》を頭《かしら》に戴き、髷《まげ》に「まじなひ」の祕文をはさみ、殊に老人・病人・子供を抱《いだき》し者は、其心配、得《え》[やぶちゃん注:呼応の不可能の助詞「え」の当て字。]もいへず。中には、家におされ、倒るゝ有、又は、物に、はさまれ、塀に押《おさ》れて、なやみぬる聲、かまびすしく、くすし[やぶちゃん注:「藥師」医師。]の東西へ馳《かけ》るを聞《きく》に付け、見るに迷ひ、いと、心づかひして、其夜も、東、しらみをまち、明日《みやうにち》三日にもなりなば、些《すこし》、ゆるがん事を祈り、人の顏色、かはり、俗語に「靑い顏」と云ふらせしもむべ成哉《なるかな》。只、火用心、盜賊、隨分、心得て、油斷なく、日夜、心を配りけん。異說・浮說を言《いひ》ふらし、捕《とらへ》らるゝ者も有。中には、盜《ぬすみ》はたらく惡とう[やぶちゃん注:ママ。]は、天の罪、眼前たり。町々、家並に、水鐵砲[やぶちゃん注:小型の木製の手突きの水撒きポンプ。「三重県総合博物館」公式サイト内の「水鉄砲」で、現物画像と、延焼防止で個人用もあったが、有効性が低かったなどの詳しい記載がある。]をかまへ、屋根へ水を遣り、常に手荒き事も取《とり》あへぬをのこも、土足になり、水をくみ、はこびぬるも、いとおかし。持人《もちびと》[やぶちゃん注:裕福な者。]は、藪へ、或は、野へ、食物をはこび、老人・子供の手を引連行《ひきつれゆく》も有。三日夜も、またまた、明しぬるに、明《あけ》六ツ時[やぶちゃん注:午前六時前後。]、やゝ曇りて、雨、「はらはら」と降出《ふりいだ》しけるに、跡、一天、「空やけ」となりて、一面、黃色になり、誠に、誠に、おそろしきけしきなるを、皆人《みなひと》、取々《とりどり》沙汰しける中にも、「どろどろ」と、時をたがへず、ゆり、たえず。又、古家・古土藏の、たをれ[やぶちゃん注:ママ。]かゝるに、杖をつき、つツぱりして、とゞめたるは、夥敷《おびただしく》、餘多《あまた》有。俄《にはか》の家替へする人、あちこちに、かしましくて、四日も程なく、夜はいかなる者も、少し身の勞れ出て、只、まどろむうち、五日となり、手の舞《まひ》、足の踏《ふむ》所も、しらず。六日、七日、八日夜も、空は曇りて、雨は少しもふらず。夜八ツ時[やぶちゃん注:午前二時前後。]、七ツ時[やぶちゃん注:「曉七ツ」で午前四時頃。]、大分、つよく「どろどろ」と、ゆり來り、皆、大道へ、又、出て、取沙汰も、「是が七日七夜の、はねなるか。」と、云々《いひいひ》、咒《まじな》ひ居《を》るに、九日になりて、いまだ、「どろどろ」と、嗚りやまず。誠に前代未聞の大變にて、只、神を祈り、佛を信じ、身を愼むより、他事《たじ》なし。心得の歌に、

 雷はあたま叩《たたか》れ地しんとて

      尻つめらるゝ天のおしかり

其外、洩《もれ》たるは、後篇に出す。此草紙は、今度の大變、他國へ、文通にて、しらせる人、此小册にて、事、委敷《くはしく》相分《あひわかり》、且、又、後世まで殘し置《おき》なば、其心得にもならん事を、深く思ひ、爰に記す。

          洛住  東 鹿 齋 述

 今、廿六日に至りでも、いまだ「どろどろ」と、

 時々、ゆりやまず、おそるべし、おそるべし。

              恐怖齋主人顏色

是は、當時、大坂市中にて、寫本にて行《おこなは》れし也。いくらも、うつして、賣ける也。大阪書林河内屋茂兵衞より、おくりこしたり。此書、江戶書林へ狀中に封じ入れて、來つるもの、兩三通、見しに、みな、同文同筆なり。いとまあるものゝわざにて、いさゝか賣得《うりどく》にせしなるべし。庚寅八月六日出《しゆつ》にて、同月十四日、東、着。

此書、はじめは板にゑりて賣りしを、いく程なく、絕板せられたり。其後は又、寫本にて賣りしもの、是也。予は、この印本をも、藏《をさ》めたり。

一、土御門殿學頭小島典膳の、當時、著せし「地震考」一卷あり。藏板なれば、坊賣《ばううり》には、なし。見て、心得になること、多かり。

[やぶちゃん注:『土御門殿學頭小島典膳の、當時、著せし「地震考」一卷あり』上西 勝也氏のサイト「史跡と標石で辿る 日本の測量史」のこちらのページに、小島濤山(とうざん 宝暦一一(一七六一)年~文政一三・天保元(一八三一)年)は阿波出身で、通称を典膳・九右衛門とも。京都で暦学・算学を学び、陰陽寮の土御門家に仕えた。文化一一(一八一一)年二月に、『京都に滞在中の伊能忠敬を訪ねて』おり、また、この『文政京都地震』の際、『この機会に小島は弟子の東隴庵(とうろうあん)による口述筆記によって「大地震暦年考」を著し、地震の前兆や、余震があっても』、『すぐ後に大震は起きないとの説、また』、『地震後の社会不安による恐慌などについても述べて』おり、『このほか』、『仏教天文学を批判した「佛國暦象弁妄」の著作があ』るとあり、また、現在、『小島の墓所は京都八瀬の養福寺にあ』るが、その『墓碑には「小島濤山先生墓」とあり』、『両側面、裏面には「故司天門下都講小島君」からはじまる業績がぎっしり彫られてい』る、とあった。

「坊賣」不詳。市街の書肆では扱わない、一般には販売しない意か。]

萩原朔太郞 一九一三、四 習作集第八卷 五月

 

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 直前の「萩原朔太郞 一九一三、四 習作集第八卷 ひかげおとこ」の後の、本篇より前の詩篇は、以下の通り、電子化注済みである。

「ほゝづき」→『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 小曲集』の私の注]

 

 

 五月

 

私の大好きな五月

その五月が來ないうちに

もしかして死んでしまつたら

ほんの氣まぐれの心から

河へでも身を投げたら

もう死んでしまうたらどうしよう

私の好き五月に來ないうちに

 

[やぶちゃん注:因みに、萩原朔太郎(明治一九(一八八六)年十一月一日生まれ)は 昭和一七(一九四〇)年五月十一日に急性肺炎のため、世田谷の自宅で数え五十五歳で逝去している。]

萩原朔太郞 一九一三、四 習作集第八卷 ひかげおとこ

萩原朔太郞 一九一三、四 習作集第八卷 ひかげおとこ

[やぶちゃん注:電子化注の意図及び底本の解題と私の解説は初回のこちらを参照されたい。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いるが、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 直前の『萩原朔太郞 一九一三、四 習作集第八卷 寫真に添へて 歌集「空いろの花」の序に」』の後の、本篇より前の詩篇は、以下の通り、電子化注済みである。

「女よ」→『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 女よ』の私の注

「五月」→『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 旅上』の同前

「こゝろ」→『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 こころ』の同前

「みちゆき」→『萩原朔太郎詩集 純情小曲集 正規表現版 始動 / 「珍らしいものをかくしてゐる人への序文」(室生犀星の序)・自序・「出版に際して」(萩原朔太郎)・目次・愛憐詩篇「夜汽車」』の冒頭詩篇「夜汽車」の私の注

「さくら」→『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 櫻』の私の注

「△」(無題)→『萩原朔太郎詩集「純情小曲集」正規表現版 金魚』の同前]

 

 

 ひかげおとこ

 

日かげ男の悲しさに

ひろき我が家もなにかせん

のらりくらりと緣ばたに

煙草を吸へど春の日は

しづこゝろなく暮もせず

日かげ男のためいきに

ちうまんえんだの花が咲く

 

日かげ男も夜となれば

人にかくれて茶屋あそび

女欲しさに來は來つれ

日かげものとて へこおびに

靑い淚がちりやちり

              (一九一三、四、)

 

[やぶちゃん注:「おとこ」「ちうまんえんだ」はママ。

「ちうまんえんだ」は「ちゆうまえんだ」が正しい。萩原朔太郎が親しかった北原白秋の実家にあった菜園の名称である。私の『北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) (献辞)・自序「わが生ひたち」・挿絵その他目次』の序にも出、その詩集の「北原白秋 抒情小曲集 おもひで (初版原拠版) 黑い小猫」にも出る。後者では、詩篇の後に自註して、『ちゆうまえんだ。わが家の菜園の名なり。』(太字は原詩集(私のその底本である「国文学研究資料館」公式サイト内の「電子資料館 近代文献情報データベース ポータル近代書誌・近代画像データベース」のこちらで高知市民図書館「近森文庫」蔵の初版本のここでは傍点「﹅」。以下同じ)とある。前者を見ると、白秋は『ちゆうまえんだの菜園を一周回(めぐり)して貧しい六騎(ロクキユ)の厨裏(くりやうら)に濁つた澱みをつくるのであつた。そのちゆうまえんだはもと古い僧院の跡だといふ深い竹藪であつたのを、私の七八歲のころ、父が他から買ひ求めて、竹藪を拓き野菜をつくり、柑子を植ゑ、西洋草花を培養した。それでもなほ晝は赤い鬼百合の咲く畑に夜(よる)は幽靈の生(なま)じろい火が燃えた。』と述べている。語源は不詳である。]

萩原朔太郞 一九一三、四 習作集第八卷 寫真に添へて 歌集「空いろの花」の序に

 

[やぶちゃん注:既に所持する筑摩版「萩原朔太郎全集」の第一巻(昭和五〇(一九七五)年五月刊)及び第三巻(昭和五二(一九七七)年五月刊)に載る詩篇(初出形準拠)は総て電子化注をブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」及び「萩原朔太郎Ⅱ」で終わっている。かくして、最後に載る詩篇は、第二巻(昭和五一(一九七六)年三月刊)の「習作集(愛憐詩篇ノート)」(内実は習作集第八巻及び第九巻。他の習作集は現存しない)の一部(決定稿が発表されているものについては、既に当該詩篇の私の注でほぼ電子化してある)のみであるから、この際、これらも続けて正規表現で電子化を始動し、ブログでの完全な萩原朔太郎全詩篇の電子化注を目指そうと思うに至った。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いる(同書は希有の素晴らしさで、本文のみでなく、編者解説まで総てが正字採用である)。その解題によれば、この「習作集」は『著者自身の保存用として淨書したものと思われる』とあり、『各作品はほぼ創作順に配列されて』おり、『書寫年代は、「習作集第八卷」が大正二』(一九一三)『年四月から九月までであり、「第九卷」が大正二年からほぼ翌年十二月頃までと思われる。清書ノートであるため、書寫時と創作時はかならずしも一致しない』とある。萩原朔太郎満二十七から二十九歳まで(彼は明治一九(一九八六)年十一月一日生まれ)に当たる。この大正二年は、年始めの二月に所謂、〈聖エレナ〉喪失体験の傷心があり、それを受けて、まさにこの四月に自筆歌集「ソライロノハナ」(手製。リンク先は私の八年前のPDF縦書ルビ附一括電子化注(正字化不全は御容赦あれ)。全百二十ページ縦書ルビ版。散文「自敍傳」、及び聖エレナに係わる「二月の海」(「大磯の海」)を含む)が制作られている。謂わば、この四月は萩原朔太郎の詩人としての本格的な精神的彷徨の最初の一歩であったと私は思っている。

 なお、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。

 さて、以下の『寫真に添へて 歌集「空いろの花」の序に』であるが、これは、上記のPDF版の自筆歌集『ソライロノハナ』の私の冒頭注で電子化しているが、当時は私の古いPCWordUnicodeが使用できる環境になかったため、漢字の正字化が致命的に不全であり、今回、再度、ネット画面で普通に正字で読めるように、ブログのここで電子化することとした。

 また、それに際し、所持する新潮社『フォト・ミュゼ』の「萩原朔太郎写真作品 のすたるじあ 詩人が撮ったもうひとつの原風景」(一九九四年十月刊)に載る「『ソライロノハナ』・朔太郎自筆の歌文集」のキャプションを持つ当該ページを大きく撮ったカラー写真を私のOCRの最大画素で読取・トリミングして添えることとした。これは見開きの詩集の当該部の前の添え辞ページを見せずに、「のど」の部分を右に入れて撮影されたものであるが、これは、掲載本の性質上、写真のない前ページを外して写真画像を大きく撮ったものであって、対象を芸術的にフレーミングしてカットして撮影された芸術写真とは見做し得ない。従って、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないという文化庁の公式見解に相当するものであると判断する。

 則ち、今回の電子化は、「萩原朔太郞全集」第二卷の「習作集第八卷」の原表記で示し、注で底本のおぞましい消毒本文の紹介その他の注などを示した上で、実際の歌文集『ソライロノハナ』に、萩原朔太郎の写した自画像写真とともに示したその写真画像を元に字起こしをし、その比較をして、注するという段取りを、まず、とった。

 

 寫眞に添へて

 歌集「空いろの花」の序に

 

たはかれどきの薄らあかりと

空いろの花の我(ア)れの想ひを

たれ一人知るひともありやなしや

廢園の石桓にもたれて

わればかりものを思へば

まだ春あさき草のあひだに

蛇いちごの實の赤く

かくばかり嘆き光る哀しさ

               (一九一三、三)

 

[やぶちゃん注:通常、底本の原底本部(校訂本文下)の標題は、詩篇本文と同ポイントであるが、ここのみ『歌集「空いろの花」の序に』が有意に大きいので、かく、した。底本では、編者注があり、『卷末の目次では』(目次は活字化されていない)『「空色の花の序に」との題を附している」とある。

 底本の校訂本では、以下のように消毒されてしまっている。

   *

 

 寫眞に添へて

 歌集「空いろの花」の序に

 

かはたれどきの薄らあかりと

空いろの花の我(ア)れの想ひを

たれ一人知るひともありやなしや

廢園の石垣にもたれて

わればかりものを思へば

まだ春あさき草のあ7ひだに

蛇いちごの實の赤く

かくばかり嘆き光る哀しさ

               (一九一三、三)

 

   *

「桓」の修正は奇異感があるからやむを得ないとして(但し、「桓」には(「標(しるし)として立てた木・対象物の周りに廻らした木」の意、「勇ましいさま・ぐるぐると巡るさま」の意があり、漢語の古語で「桓表」は「聖所や要所に立てた榜示のための標木(ひょうぼく)」の意がある)、冒頭の「たはかれどき」を「かはたれどき」と消毒する行為を私は許すことが出来ない。「黄昏時」の古語の元は「誰(た)そ彼(かれ)」時で、「彼は誰(た)れ」時が確かに一般的であるが、私は大学時代に万葉集講義の中で、「誰(た)は彼れ」という語を、最初に聴いた記憶があるからで、私には全く違和感や躓きを感じないからである。而して、以下で見る通り、『ソライロノハナ』でも、そうなっているからである。

 

Soraironohana

 

萩原朔太郎は固執的思い込みも含めて、音律への拘りがあり、この改変校訂本文は全く指示出来ないのである。以下に、以上の画像に従って起こす。

   *

 

      空いろの花

たはかれどきの薄らあかりと

空いろの花のわれの想ひを

たれ一人知るひともありやなしや

廃園の石桓にもたれて

わればかりものを思へば

まだ春あさき草のあはひに

蛇いちごの実の赤く

かくばかり嘆き光る哀しさ

       一九一三. 三

 

   *

 字体はママであるが、最終行の「嘆」の字は、原本では「口」に「美」の六画目を除去した変字であり、表示出来ないので、「嘆」とした。

 因みに、『ソライロノハナ』の以上に続く詩篇形式の分かち書きの自序でも、所持する筑摩版「萩原朔太郞全集」第十五卷(昭和五三(一九七八)年五月刊)では、不当な消毒がなされてあるので、同書の巻頭に写真版で掲げられた以下の『『ソライロノハナ』 自序と中扉』の画像をトリミングして示し(先の文化庁判断に基づき、著作権は発生しない)、それに従って、電子化しておく。

 

Soraironohanajijyonakatobira

 

          一四一三、四・

年ごろ詠み捨てたる歌

凡そ一千首の中より忘れ難き

節あるもの思ひ出多きものゝ

み集めて此の集を編み

あげつ、

悲しき日、樂しき日、

あるかなきかの空いろの花

のためいきばかり、こゝら

へてせんかたなきはあらぢ

かし

 

   *

「節」はママ。校訂本文では、踊り字を総て正字化し、クレジットの最後の「・」を除去し、以上の本文を二段落構成に改変した上、「あげつ」以下の読点三つを総て除去し、歴史的仮名遣の誤りの「あらぢかし」を「あらじかし」と訂して、以下のように消毒されてしまっている。

   *

 

          一四一三、四

年ごろ詠み捨てたる歌凡そ一千首の中より忘れ難き節あるもの思ひ出多きもののみ集めて此の集を編みあげつ

悲しき日樂しき日あるかなきかの空いろの花のためいきばかりここらへてせんかたなきはあらじかし

 

   *

私に言わせれば、何をかいわんや、「やり過ぎ」以外の何物でもない。]

2022/12/01

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「伊勢松坂人殿村精吉來翰中、京師地震聞書寫幷京の人六右衞門の書狀の寫」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回はやや長いが、そのままとした。

 本篇は「京都地震」関連記事の第五弾。第一篇以降で注した内容は、原則、繰り返さないので、必ず、そちらを先に読まれたい。

 差出人「殿村精吉」「琴魚」は既出既注だが、再掲すると、戯作者で、やはり既出既注の、松阪の商人で本居宣長門下の国学者殿村安守の弟にして、馬琴の弟子であった櫟亭琴魚(れきていきんぎょ 天明八(一七八八)年~天保二(一八三一)年)である。伊勢松坂生まれで、精吉は本名。文化五(一八〇八)年に馬琴の門に入った。兄と師が共同執筆した「犬夷評判記」(馬琴の「南総里見八犬伝」と「朝夷巡島記」の批評と馬琴自身のそれへの回答の形式をとる評論物)を校訂。浮世絵師合川珉和(あいかわみんわ)とも親交があった。作品に「刀筆青砥石文」などがある。]

   ○伊勢松坂人殿村精吉來翰中、

    京師地震聞書寫、幷、京の

    人、六右衞門の書狀の寫。

一、京都大地震の儀者、定《さだめ》て最早御承知可ㇾ被ㇾ有ㇾ之候へ共、此地は貴地より程近き儀故、委細に承《うけたまはる》筋も有。また、親しくその地震に出合候人にも、面會いたし候へば、荒增《あらまし》、奉申上候。最《もつとも》、地震は、去《さる》七月二日夕七時《ゆふななつどき》、初め、尋常の地震、一つゆり候處、其以前より、殘暑も、わけて酷《ひど》かりしゆゑ、人々、秋暑《しうしよ》に苦しみ候最中にて、「是は、よろしき地震なり。定めて、氣候も、是より立直《たちなほ》り、雨にもやなるらん。さあらば、凌《すごし》よかるべし。」抔いふ程こそあれ、乾《いぬゐ》[やぶちゃん注:南西。]の方より、「バリバリ」と響來《ひびきき》り、大地は大浪《おほなみ》の打《うつ》ごとく、家居《いへゐ》は勿論、土藏其外、建物等、或は倒れ、或は引裂《ひきさけ》、建具、不ㇾ殘、弓をなして[やぶちゃん注:不詳。「弓柄(ゆづか)のように、しなるようになって」の意か。]、梁、殆《ほとんど》、落《おち》んとす。其中にも、土藏、別《べつし》て、當り、きびしく、元來、貴地とちがひ、火災、稀なる土地故に、自然《おのづと》、土藏の普請抔、麁末成《そまつなる》故に候哉《や》、十に八、九は、壁土を、不ㇾ殘、ふるひ落し候て、鳥籠《とりかご》のごとく成たるが、多く候よし[やぶちゃん注:壁土の上・中・底埋め塗りと荒壁まで、すっかり崩れ落ちしまい、上下左右に組んだ竹だけとなって鳥籠のようになってしまった、というのである。]。家居は、倒《たふれ》候處、千軒が一軒にも不ㇾ當《あたらざる》よし。損じ候は、十軒が十軒とも、大小、破損せざるは、なし。中にも、些《すこし》も不ㇾ損して、三、五寸も、礎《いしづゑ》を退《しりぞ》き、丁度、引居《ひきゐ》たるごときもあり、と及ㇾ承候。最、彼《かの》大地震は、わづか煙草一ぷくの間《あひだ》にも不ㇾ及、東南の間をさして、ゆり通り候よし。其地震のゆり通《どほ》りにも、筋《すぢ》、有ㇾ之。二條御城などは、全《まつたく》、其筋と申《まをす》者にや。南北の高塀、十八、九間[やぶちゃん注:約三十三~三十四メートル半。]、落《おち》て、石垣抔も、大分、御堀ヘ落崩《おちくづ》れ、御城中にも破損出來《しゆつらい》のよし。さるが中にも、御所樣においては、御築地《おんついぢ》、いさゝか損じ候のみにて、乍ㇾ恐、御別條なし、との儀に御座候。此外、神社・佛閣、不ㇾ殘、損《そんず》模樣に申候は、全《まつたく》、虛說にて、八坂・東寺などの塔も、聊《いささかも》損じ無ㇾ之よし、最、洛中にては、餘程の損毛、三井店《みつゐのたな》などの内評《うちひやう》には、昨春、御地の大火に、店々、燒失よりも、當年の家宅の損じは、算盤の玉數、多く候由。其番頭支配人より及ㇾ承候。是は其主人々々の居宅、幷に、土藏の損じ、澤山成《たくさんなる》故と聞へ申候。扨《さて》、其地震、過《すぎ》て後、二日、夜中にも鳴動、亦は、地震、數度ありて、曉に至るまで、鳴動、六十餘度も有ㇾ之よし。翌三日朝、一天、すべて、黃色になり、人々の面《おもて》も、みなみな、黃疸のごとくに相見え候よし。されども、程なく、曇空《くもりぞら》になり、消渡《きえわた》り候よし。三日にも不相替、鳴動・地震、數度、御座候よし。四日朝は、又、一天、赤く相成《あひな》り、朱《しゆ》を流すがごとく、きのふの黃色より、又、おそろしく覺え候よし。され共、是も程なく、薄らぎ候て、無難也とぞ。矢張、震動は不ㇾ止、夫《それ》より、日々、鳴動・震動、時となく、いたし、八日夜は、又、尋常より、少々大きなる地震も御座候よし。十八、九日に至り、大雨、降《ふり》そゝぎ、鴨河、大洪水、淸水《きよみづ》山の手、崩れ出《いで》候て、其處《そこ》より、山、水を吹出《ふきいだ》し、其水筋《みづすぢ》、大佛邊の人家へ突《つき》かけ、不時の騷動に御座候よし。され共、段々、薄らぎ候樣子。全《まつたく》先年、信州淺間山の燒出《やけいで》候時、近國へ響渡り候樣なる音にて、「ドンドン」、「ビリビリ」とひゞき候よしに御座候。初は、「但馬、城の崎《きのさき》溫泉、吹出《ふきだ》したる。」抔いふ說も御座候が、是も虛說にて、此頃、城崎より、消息御座候處有《あり》て、慥《たしか》に相分《あひわか》り申候。何分、洛中のみならず、愛宕山《あたごさん》、いたく荒《あれ》候趣に御座候。近く、伏見も、大津の驛も、絕《たえ》て、此難、無ㇾ之よし。「是、亦、怪《あやし》き事。」と、人々、申候。此餘、地震の有樣、承り及候事も候へ共、「さのみは」と、文《ふみ》略仕《りやくつかまつり》候。京都より來狀、是等は、委しきに御座候間、入封《にふふう》仕候。御覽の上、御返却に不ㇾ及候書狀《およばずさふらふしよじやう》に御座候。

  八月五日             琴魚

當七日出《しゆつ》の御書面、相屆《あひとどき》、拜見仕候。殘暑、强《つよく》御座候處、益《ますます》御安靜被ㇾ遊御座、恐悅御儀《きやうえうのおんぎと》奉ㇾ存候。然《しから》ば、當二日の大地震、其御地へ相聞え、わざわざ、御人被ㇾ下、御懇情《ごこんじやう》の至《いたり》、千萬、難ㇾ有、尙、委敷《くはしき》御報候樣被仰下革奉ㇾ畏候。則、左に申上候。

一、當二日晝七ツ時、大地震、夫より、引續、翌三日朝迄、九度の地震御座候へ共、左程、烈敷《はげしき》地震にも無ㇾ之候處、始終、山、鳴、震動いたし、中々、晝夜共、不安心に御座候に付、母家、幷、内ども、不ㇾ殘、二日七ツ時より、五日迄、三日三夜、川原へ住居《すみゐ》致し【琴魚云、「鴨川東岸の住居なり。」。】、勿論、市中此邊の者共、殘らず、東西の藪え、逃行《にげゆき》、川通りは、河原へ立退《たちの》き、何れも、着のみ着の儘にて迯行《んげゆき》、誠にあはれ成事共に御座候。五日晝頃より、昨夜迄、日々、五、六度づゝ、少々づゝ、山鳴・地震御座候得共、何《いづ》れ迚《とて》も、先づ、居宅へ歸り、少々は安心いたし候處、又候《またぞろ》、昨夜の七ツ時前より、五度の地震、中々、兩度は、嚴敷《きびしき》地震に御座候間、又々、大騷動いたし、俄に河原え、立退、一統に、夜を明し候事に御座候。日々の地震にて、徹心魂誠心痛罷在候《しんこんてつし、せいしんいたみまかりありさふらふ》。乍ㇾ去《さりながら》、御影《おかげ》にて、母共《ども》始め、家内、怪我人は一人も無御座候間、乍ㇾ恐、御心安可ㇾ被ㇾ下候。倂《しかし》、居宅、幷に、新建共《とも》、及大破、崩れ候程の儀は無御座候へ共、總體の家建《いへだち》[やぶちゃん注:家全体の具合。]、東の方へ二寸許《ばかり》寄り申候。右、家根、幷、壁の痛み、地面われ候は、勿論の事に御座候。母儀は、七十六歲に相成候得共、此度の大地震は初《はじめ》てにて、大《おほき》に驚き候事に御座候。御所樣、仙洞樣、御築地は無御別條候【琴魚云、「此頃、京師の人に承り候へば、御築地、いさゝか、損じ候由申候。」。】御攝家方樣、堂上方樣の御築地は、過半、崩れ申候。二條御城高塀、殘らず、損じ、又は崩れ【琴魚云、「南北のみ」のよし。】、角櫓《すみやぐら》、一つ、崩れ申候由。其外、神社佛閣、堂・宮共(ども)、大小の損じ、有ㇾ之。市中、此邊の土藏は、殘らず、大《おほきに》、損じ、又は、崩れ候處も多く御座候。市中家建は、たふれ不ㇾ申候へ共、端々《はしばし》は、家建、たふれ、又は、橫にたふれ候家々も多く御座候。卽死、幷に、怪我人等は、多分、有ㇾ之由に御座候。人數相知不ㇾ申候【琴魚云、「七月三日書上げ、『死人、三百餘』と申事に御座候。」。】。右、地震の騷動より、火難・水難の噂、高く、諸方へ、荷物等、持步行《もちありき》、大さわぎに御座候。中に又、盜難のうれひ、出來《しゆつらい》、晝夜共、少々も安心いたし不ㇾ申候。今日迄、打臥《うちふし》候儀、出來不ㇾ申、心痛罷在候事に御座候。諸方の風聞承り候處、江州邊より、宇治・伏見・河内・攝州・紀州邊迄、同日同刻の地震、御座候【琴魚云、「勢州も二日同刻、尋常より、少々、大きなる地震有ㇾ之候。」。】。若州・丹波・丹後・但馬邊の山、崩れ、大地震にて、村々、流れ候噂、專《もつぱら》、御座候へ共、未聢《いまだ、しか》と實說は承り不ㇾ申候。先年、及御聞の通り、佐州小木湊、羽州浦田湊、幷、キサガタ、近年、越後三條、江州の大地震、承り居候。右、何《いづ》れも、終りは、大雨に相成候由。此頃、當地の日和中《ひよりなか》に、雨ふり候氣色、無ㇾ之、晝前より八ツ時過迄は晴天、暑さ、中々、凌兼《しのぎかね》候。其餘は、曇天、夜分も兩三日以前より、月、さえ候得共、折々、おそろしき雲も相見え申候。「何分、此上は烈敷《はげしき》雨、降申候へば、世間一統、人氣《ひとけ》も直《なほ》り、靜《しづま》り候半《さふらはん》。」と、雨を祈入《いのりいり》候事に御座候。誠に此度の騷動、前代未聞、京都大火後の大騷動、家別に[やぶちゃん注:家それぞれに。]大小の失却に御座候。右騷動中にも、銘々、うろたへ、あわて候。智惠自慢、誠におそろしき中にも、面白おかしき事も御座候。何分、最初の大地震にて、魂《たま》をつぶし候故、少々の地震にも聲を上げ、驚きさわぎ候事に御座候。最《もつとも》、「比叡山將軍地藏」幷に「將軍塚」の震動と、專ら、申居候ヘ共、何《いづ》れ、東山《ひがしやま》一帶に、山鳴・震動に御座候。尙、委敷《くはしく》申上度《たく》候へ共、未《いまだ》、手、ふるひ、難ㇾ書《かきがたく》、書面文略仕候。尙、追々、跡より、可申上候。倂《しかしながら》、追々、靜り、おだやかにも相成可ㇾ申候間、此段、乍ㇾ恐、御安心可ㇾ被ㇾ下候。河原納凉《からなうりやう》も、一體、不景氣の上、此度の騷動にて、「見せ物」も相止《あひや》め、「ばけ物」の出そふな河原にて、さびしき事に御座候。乍末筆、奥樣、始め、何《いづ》れも樣え、宜敷《よろしく》被仰上可ㇾ被ㇾ下候。德事[やぶちゃん注:意味不明。或いは、六右衛門の妻の名前が「德」というのか。]も、此頃は、病氣、差起り、昨今は打臥罷在候。右、宜申上吳候樣申居候。先《まづ》は御禮御請《おうけ》迄申上度《たく》、不二取敢一如し此御座候。頓首。

 七月九日           六 右 衞 門

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げ。]

 庚寅八月十四目日、大阪書林河内附茂兵衞より到來、當時、京都にて寫本にて行はる由也。初めは印行せしを、早く絕板せられしかば、寫本になりたり。八月六日出の狀中に云、「今日、京都より參り候人の申候には、今、以、振動は不ㇾ止よしに御座候」云々。

[やぶちゃん注:「佐州小木湊」新潟県佐渡市小木町(おぎまち)。佐渡島の小木(グーグル・マップ・データ)。これより二十八年前に起こった享和二年十一月十五日(一八〇二年十二月九日)に佐渡島小木付近の海域を震源として発生した佐渡小木地震。マグニチュード六・五から七・〇と推定される地震で、享和佐渡地震とも呼ばれる。津波の記録はないが、小木半島の海岸では約二メートルの隆起が生じたと考えられている。参照した当該ウィキを見られたい。

「羽州浦田湊」不詳。或いはこれ、「浦田湊、幷、キサガタ」(象潟)とセットで「浦田湊」の「浦田」は「酒田」の誤りか誤写・誤読ではあるまいか? 象潟地震は文化元年六月四日夜四ツ時(一八〇四年七月十日午後十時頃)に出羽国を中心として発生した津波を伴った大地震。マグニチュード 七・一から七・五との推定のほか、七・〇前後ともされる。震源は象潟十数キロメートル沖の海底の断層かとされる。ご存知の通り、芭蕉の見た象潟の大部分が陸化してしまった。同前でこちらを参照されたい。

「越後三條」三条地震。文政十一年十一月十二日(一八二八年十二月十八日)に現在の新潟県三条市付近で発生した。震央は三条市芹山付近で、マグニチュードは六・九と推定されている朝五ツ時上刻(凡そ午前九時前)に発生したとされる。同前でこちらを参照されたい。

「江州の大地震」文政近江地震。文政二年六月十二日(一八一九年八月二日) の未の下刻頃(午後三時頃)に本州中部、伊勢・美濃・近江で発生した大地震。マグニチュード七・一・〇前後又は六・九で、震源は一説に琵琶湖東方の水底下かとされる。同前でこちらを参照されたい。]

萩原朔太郞 習作集第八卷・第九卷電子化注始動 / 一九一三、四 習作集第八卷 ある日

 

[やぶちゃん注:既に所持する筑摩版「萩原朔太郎全集」の第一巻(昭和五〇(一九七五)年五月刊)及び第三巻(昭和五二(一九七七)年五月刊)に載る詩篇(初出形準拠)は総て電子化注をブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」及び「萩原朔太郎Ⅱ」で終わっている。かくして、最後に載る詩篇は、第二巻(昭和五一(一九七六)年三月刊)の「習作集(愛憐詩篇ノート)」(内実は習作集第八巻及び第九巻。他の習作集は現存しない)の一部(決定稿が発表されているものについては、既に当該詩篇の私の注でほぼ電子化してある)のみであるから、この際、これらも続けて正規表現で電子化を始動し、ブログでの完全な萩原朔太郎全詩篇の電子化注を目指そうと思うに至った。

 底本は以上の昭和五二(一九七七)年五月筑摩書房刊「萩原朔太郞全集」第二卷を用いる(同書は希有の素晴らしさで、本文のみでなく、編者解説まで総てが正字採用である)。その解題によれば、この「習作集」は『著者自身の保存用として淨書したものと思われる』とあり、『各作品はほぼ創作順に配列されて』おり、『書寫年代は、「習作集第八卷」が大正二』(一九一三)『年四月から九月までであり、「第九卷」が大正二年からほぼ翌年十二月頃までと思われる。清書ノートであるため、書寫時と創作時はかならずしも一致しない』とある。萩原朔太郎満二十七から二十九歳まで(彼は明治一九(一九八六)年十一月一日生まれ)に当たる。この大正二年は、年始めの二月に所謂、〈聖エレナ〉喪失体験の傷心があり、それを受けて、まさにこの四月に自筆歌集「ソライロノハナ」(手製。リンク先は私の八年前のPDF一括電子化注(1メガバイト弱。古い電子化のための正字化不全は御容赦あれ)。全百二十ページ縦書ルビ版。散文「自敍傳」、及び聖エレナに係わる「二月の海」(「大磯の海」)を含む)が制作られている。謂わば、この四月は萩原朔太郎の詩人としての本格的な精神的彷徨の最初の一歩であったと私は思っている。

 なお、電子化では、下段に配されある誤字などを編者が修正していない原ノートの表記形を元とした。但し、踊り字「〱」「〲」は横書でも縦書電子化すると、奇体になり、生理的嫌悪感を感ずるので、正字化する。

 当初は、既に決定稿の注で私が電子化したものは、単純に飛ばして電子化しようと思ったが、読者に対して「習作集」の内容を順列で確認出来る便宜を図るため、既注のそれを標題とともにリンクを貼ることに敢えてした。但し、これに含まれる短歌は、実は、サイトの「やぶちゃん版萩原朔太郎全歌集」(PDF縦書ルビ附・1.34MB)で電子化しているのだが、Unicode以前の電子化のため、表記不全が多く、また、ブログでは、一部が電子化してあることから、ブログにないものはPDFが見られないデバイスでも読めるように、改めて作成することとした。

 まずは、冒頭の「ある日」である。]

 

一九一三、四 習作集第八卷

 

 

 ある日

 

すこし空腹になりしとき

どこかで花火があがりたり

午後の日光は生ぬるく

やゝ汗ばみたるカフスの上に漂ふ

散步のかへし路

我はあまりの樂しさに

牛肉屋の二階に立ちて

しづこゝろなく

電車の通る街を眺め居たり

 

[やぶちゃん注:なお、次の「放蕩の蟲」は『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 放蕩の虫』の私の注で電子化済みである。]

萩原朔太郎 (「君は少しもやらんね、どうしたんだ」……) 斷片

 

[やぶちゃん注:既に完全電子化したつもりでいた筑摩版「萩原朔太郎全集」第三巻(昭和五二(一九七七)年五月刊。本電子化の底本)だったが、最後に載る「全文抹消草稿」と「斷片」の内の数篇をやり残していたことに気がついたので電子化注する。なお、同全集第一巻の詩篇は総て終わっており、残る詩篇は、第二巻の「習作集(愛憐詩篇ノート)」(内実は習作集第八巻及び第九巻。他の習作集は現存しない)の一部(決定稿が発表されているものについては、既に当該詩篇の私の注で電子化してあるものが多い)のみであるから、この際、それらも、これに続けて正規表現で電子化を始動し、完全な萩原朔太郎全詩篇の電子化注を目指そうと思う。

 本電子化を以って筑摩版「萩原朔太郎全集」第三巻の詩篇のパートの電子化注を終った。]

 

   ○

「君は少しもやらんね、どうしたんだ」

と言つて親しげに對手の前にある酒杯を望めのぞきこんだ、

 

萩原朔太郎 (春はなゝめに散りくるのである、……) 斷片

 

[やぶちゃん注:既に完全電子化したつもりでいた筑摩版「萩原朔太郎全集」第三巻(昭和五二(一九七七)年五月刊。本電子化の底本)だったが、最後に載る「全文抹消草稿」と「斷片」の内の数篇をやり残していたことに気がついたので電子化注する。なお、同全集第一巻の詩篇は総て終わっており、残る詩篇は、第二巻の「習作集(愛憐詩篇ノート)」(内実は習作集第八巻及び第九巻。他の習作集は現存しない)の一部(決定稿が発表されているものについては、既に当該詩篇の私の注で電子化してあるものが多い)のみであるから、この際、それらも、これに続けて正規表現で電子化を始動し、完全な萩原朔太郎全詩篇の電子化注を目指そうと思う。]

 

   ○

春はなゝめに散りくるのである、

 

[やぶちゃん注:編者の後注があり、『冒頭にやや大きな字で「大北原北感情」の六文字が記されている』とある。「大北原北」は、よく判らぬが、現在の群馬県高崎市北原町(きたはらまち)の北の意か。朔太郎の前橋の実家のあった場所から四、五キロメートルの直近ではある。]

萩原朔太郎 (やきすぎたびふてきで……) 全文抹消草稿

 

[やぶちゃん注:既に完全電子化したつもりでいた筑摩版「萩原朔太郎全集」第三巻(昭和五二(一九七七)年五月刊。本電子化の底本)だったが、最後に載る「全文抹消草稿」と「斷片」の内の数篇をやり残していたことに気がついたので電子化注する。なお、同全集第一巻の詩篇は総て終わっており、残る詩篇は、第二巻の「習作集(愛憐詩篇ノート)」(内実は習作集第八巻及び第九巻。他の習作集は現存しない)の一部(決定稿が発表されているものについては、既に当該詩篇の私の注で電子化してあるものが多い)のみであるから、この際、それらも、これに続けて正規表現で電子化を始動し、完全な萩原朔太郎全詩篇の電子化注を目指そうと思う。

 なお、底本には『本篇原稿一種一枚』とある。]

 

  ○

さみだれなかばの

南風 醉ひ 酒をすご せし したあさの こころに 食事に

私はびふてきを やきすぎたびふてき の一片と

からし をふりかけた のきいた食事

 

萩原朔太郎 (愚かな旅人はその目的地を忘れた……) 全文抹消草稿

 

[やぶちゃん注:既に完全電子化したつもりでいた筑摩版「萩原朔太郎全集」第三巻(昭和五二(一九七七)年五月刊。本電子化の底本)だったが、最後に載る「全文抹消草稿」と「斷片」の内の数篇をやり残していたことに気がついたので電子化注する。なお、同全集第一巻の詩篇は総て終わっており、残る詩篇は、第二巻の「習作集(愛憐詩篇ノート)」(内実は習作集第八巻及び第九巻。他の習作集は現存しない)の一部(決定稿が発表されているものについては、既に当該詩篇の私の注で電子化してあるものが多い)のみであるから、この際、それらも、これに続けて正規表現で電子化を始動し、完全な萩原朔太郎全詩篇の電子化注を目指そうと思う。

 なお、底本には『本篇原稿一種一枚』とある。歴史的仮名遣の誤りはママ。]

 

  ○

愚かな旅人は考へたはその目的地を忘れた

私はしかも長い道中で、まつぴるまの道中で

旅人は立どまつて考へたが考へました始めた[やぶちゃん注:「立どまつて」はママ。]

自分の爪先が南をさして居る

だから南へ行くのだと

の足は正直に進んだ

けれども心は不安反對に躊躇しながら

さて彼が氣がついた

いま爪足が西をさして居る[やぶちゃん注:「爪足」はママ。編者は「爪先」の誤記とする。]

だから西へ行くのだと

そうして旅をつづけた

けれども心では躊躇しながら

 

[やぶちゃん注:後に編者注があり、『本稿は「蝶を夢む」の「巢」草稿と同じ用紙に書かれている』とある。当該草稿は『萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 巢』の私の注で電子化してある。]

萩原朔太郎 (みにくい動物) 全文抹消草稿(以上の標題も抹消)

 

[やぶちゃん注:既に完全電子化したつもりでいた筑摩版「萩原朔太郎全集」第三巻(昭和五二(一九七七)年五月刊。本電子化の底本)だったが、最後に載る「全文抹消草稿」と「斷片」の内の数篇をやり残していたことに気がついたので電子化注する。なお、同全集第一巻の詩篇は総て終わっており、残る詩篇は、第二巻の「習作集(愛憐詩篇ノート)」(内実は習作集第八巻及び第九巻。他の習作集は現存しない)の一部(決定稿が発表されているものについては、既に当該詩篇の私の注で電子化してあるものが多い)のみであるから、この際、それらも、これに続けて正規表現で電子化を始動し、完全な萩原朔太郎全詩篇の電子化注を目指そうと思う。

 なお、底本には『本篇原稿一種一枚』とある。本篇では、底本では、詩篇本文の頭と末尾に抹消記号があるが、それは意味がないので無視した。歴史的仮名遣の誤りはママ。]

 

  ○みにくい動物

あやしげなる動物

みにくい動物の

おもくるしい色情の

むらがる、むらがる、てふてふの無氣味な→醜い→おほきな亘巨大なかたまり、白い幽靈を

ああ たえがたい肉のやなみと[やぶちゃん注:編者は「なやみ」の誤記と注する。以下二箇所も同じ。]

やなましい色情の幽靈

いつづまるやうな色情のくるしみもだえ[やぶちゃん注:編者は「いきづまる」の誤記とする。]

はげしいたましひのやなみ、

 

[やぶちゃん注:後に編者注があり、『『青猫』の「恐ろしく憂鬱なる」草稿と同じ用紙に書かれており、その一部のヴアリアントと思われる』とある。ここに言う『「恐ろしく憂鬱なる」草稿』は「萩原朔太郞 靑猫(初版・正規表現版) 恐ろしく憂鬱なる」の私の注で電子化してある。参考までに、『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(すべて憂鬱なる森の中に。) / 詩集「靑猫」所収の「恐ろしく憂鬱なる」の初期稿の標題を含む断片』も参看されたい。それらから推測するに、ヴァリアントとしても、ごく初期のそれであろうかとも感じられる。]

萩原朔太郎 (僕は獵犬です……) 全文抹消草稿

 

[やぶちゃん注:既に完全電子化したつもりでいた筑摩版「萩原朔太郎全集」第三巻(昭和五二(一九七七)年五月刊。本電子化の底本)だったが、最後に載る「全文抹消草稿」と「斷片」の内の数篇をやり残していたことに気がついたので電子化注する。なお、同全集第一巻の詩篇は総て終わっており、残る詩篇は、第二巻の「習作集(愛憐詩篇ノート)」(内実は習作集第八巻及び第九巻。他の習作集は現存しない)の一部(決定稿が発表されているものについては、既に当該詩篇の私の注で電子化してあるものが多い)のみであるから、この際、それらも、これに続けて正規表現で電子化を始動し、完全な萩原朔太郎全詩篇の電子化注を目指そうと思う。]

 

  ○

僕は未亡人 獵犬です

諸君

もし僕の空想が眞理ならば

諸君

僕は最も巧者な獵犬です

諸君さて諸君

の主人が射落したは鐵砲をよくしました

 

[やぶちゃん注:後に編者によって、『本稿は「草稿詩篇 月に吠える」の「冬」の無題の分』(私の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 冬』追加注で電子化してある)『及び「草稿詩篇 蝶を夢む」の「懺悔」無題の分』(ここにあるページ指定によれば、私の『萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 懺悔』の私の注の二種示したものの草稿の後者を指す)『と同じ用紙に書かれている』とある。]

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