曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「麻布大番町奇談」
[やぶちゃん注:「兎園小説拾遺」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上段後ろから四行目)から載る正字正仮名版を用いる。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。
馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回は江戸の巷説で頻りに語られた当時のアップ・トゥ・デイトな都市伝説(urban legend)であるので(前回の怪しげな野馬台詩に「雲峰婆々古狸喰」(雲峰の婆々 古狸に喰(く)はる)と出る)、段落を成形した。]
○麻布大番町奇談
文政十一年三月中比《なかごろ》、雲峰《うんぱう》の家に、久しく仕《つかへ》し老女、有《あり》。名を「やち」と、いへり。年七十餘りに成《なり》ぬれば、名をよぶ人もなく、只、
「婆々《ばば》。」
とぞ、いひける。
[やぶちゃん注:「文政十一年」一八二八年。「雲峰」旗本で文人画家でもあった大岡雲峰(明和二(一七六五)年~ 嘉永元(一八四八)年)。当該ウィキによれば、『名は成寛、通称次兵衛。字は公栗。雲峰と号す。江戸の生まれで』、『筑後柳河藩士牛田』(「うしだ」か)『忠光の子として生まれる。のちに旗本大岡助誥』(「すけつぐ」か)『の養子となり』、天明八(一七八八)年二十四歳で『家督を継ぐ』。寛政三(一七九一)年には『表右筆に任じられ』た。『絵では鈴木芙蓉の高弟で、のちに』、二つ『年上の谷文晁の門人となった。山水画・花鳥画を得意とし、二宮尊徳とその娘の画の師にもなった。四谷大番町に住み、画風を南蘋派に転じると』、「四谷南蘋」と『加称され』、『文化年間には文晁や酒井抱一などと並称された』。『本草学にも興味を持ち、増田繁亭編』「草木奇品家雅見」(そうもくきひんかがみ 文政七(一八二四)年刊)や、旗本で園芸家でもあった水野忠暁の「草木錦葉集」(文政一二(一八二九)年刊)『などに弟子の関根雲停、石川碩峰とともに挿絵を描いている』。天保七(一八三六)年六月二十一日に『雲峰主催の』「尚歯会」(江戸後期に蘭学者・儒学者などの幅広い分野の学者・技術者・官僚などが集まって発足した会の名称。主宰は遠藤泰通(遠藤勝助))が『大窪詩仏の』「詩聖堂」で『開催され、村井東洋』(当時八十二歳。以下同じ)・谷文晁(七十五歳)、春木南湖(七十八歳)・大窪詩仏(七十歳)など十一『人が参加した。雲峰は』この時、七十三歳で、『江戸画檀の長老として敬われた。享年』八十四、とある著名人であった。噂話・都市伝説としては、実在する有名な人物が関わっていることから、怪奇実話として喧伝されていたことが判る。彼の「漢画石譜」(名乗りは『雲峯泰化寉』(うんぱうたいくわかく)『著』とある。出版は後代の明治一三(一八八〇)年東京府の玉林堂刊)が早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで視認出来る。]
婆々が親族、皆、たえて、引取《ひきとり》養ふ者なく、掛るべき便《たより》なければ、
「千秋を主人の家に過《すぐ》せよ。」
とて、憐《あはれ》み、おきけり。
かゝりし程に、この年の三月中頃より、何の病《やまひ》もなきに、俄《にはか》に氣絕して、暫く、息、かよはざりしに、一時計《いつときばかり》ありて、やゝ、人心地付《つき》にき。
さばれ、身體、自由ならずして、只、日にまして、食餌《しよくじ》、すゝみて、常に十倍し、且、其間に餠菓子を求めければ、渠《かれ》がまにまに與へけり。[やぶちゃん注:「渠がまにまに」かの者がかく言うがままに。]
かゝれば、みたびの食の外、しばしも物たうべぬいとま、なかりき。
死に近き者の、かく健啖なるを、『あやし。』と、おもはざる者、なし。
渠、手足こそ自由ならね、夜每に、いとおもしろげに、歌、うたひ、或は、
「友、來れり。」
とて、高らかに獨《ひとり》ごとなど、す。
或は又、はやしたてゝて、拍子とる音なども。聞えし事、有。
或は、いたく、酒にゑひたる如くにして、熟睡し、日の登るまで、さめざることも有けり。
主人、いぶかりて、松本良輔てふ、くすしに、脈、うかゞはせしに、
「脈は、絕《たえ》て、なし。少しはあるが如くなれ共、脈にあらず。奇なる病ひなるかな。藥方、つかず。全く老耄《らうもう》の致《いたる》所、心氣を失ひて、脈絡、通ぜず。只、補ふの外、なし。」
とて、時々、來診してけり。
[やぶちゃん注:「松本良輔」幕府医官。サイト「福岡市薬剤会の歴史」の「夜明け前 西洋医学の導入」にフル・ネームで出る。
「附かず」は薬の附方(=処方)が出来ないの意。「補ふ外、なし」通常の食事を摂らせて補う以外にはない。]
かくて、月日をふるまゝに、婆々が半身《はんしん》、自然と減じて、後《のち》には、骨、出《いで》て、穴を、なし、
「その穴の内より、毛の生《おひ》たるやうの者、見ゆる。」
とて、看病せし物、おどろき、のゝしりけり。
兎角する程に、春【文政十二年。】に成ければ、息氣《そくき》あるにより、腰湯を、あみせ、敷物など、日々に敷替《しきかへ》て、いたはらせけるに、婆々、よろこびて、しばらく謝すること、限りなし。
良餌《りやうじ》など、養ひの爲に、主人、沙汰して、小女《こをんな》を付置《つけおき》つ。
とかうする程に、又、冬になりければ、きるもの、皆、脫《ぬがせ》、かへさせたるに、脫《ぬが》したるきる物に、狸にや、毛物の毛、多く、つきて、あり。
又、その臭氣、高く、鼻をうがつ計成《ばかりなる》に、人々、いよいよ、あやしみけり。
是よりして後、
「をりをり、狸の、婆々が枕邊を徘徊し、或は婆々が裳(もすそ)の間より、尾《を》抔《など》出《いだ》すことあり。」
とて、彼《かの》小女、いたくおそれて、寄も得[やぶちゃん注:不可能の呼応の副詞「え」に漢字を当て字したもの。]つかざりしを、主人のねんごろに諭《さと》しなどするに、後には馴《なれ》て、おそれずなりぬ。
されば、夜每に婆々が唄ふ歌などを聞覺《ききおぼえ》て、
「こよひは、又、何をうたひやする。」
とて、待《まち》がほなるも、いとおかしかりき。
後々に至りては、婆々のふしどに、狸、多く、つどひたるにや、つづみ笛・太鼓・三味せんにて、はやすが如き音、聞え、婆々は聲、高やかに、歌、うたひけり。
又、一夜、はやしに合《あは》して、をどる足音の聞えし事も、ありけり。
又、ある朝、婆々が枕邊に、柿を、多く、つみおきしこと有よしを、婆々に問へば、
「こは、昨夜の客が、『わが身を、よくいたはらせ給はするよろこびに。』とて、まゐらせし也。」
といふ。
さばれ、皆、いぶかりて、くらふものも、なし。
こゝろみに、さきて見るに、誠の柿なり。
看病せる小女に、皆、とらしつ。
又、一日《いちじつ》、切《きり》もちひを、多く枕邊におかれしこと、あり。是も狸のおくりものなるべし。
「主《あるじ》の、淺からずあはれめるを、友狸《ともだぬき》の感じて、かゝる事をしつるにや。禽獸も亦、感ずるよしありて、仁に報《むくい》る心にや。」
と、人みな、いひけり。
又、一夕《いつせき》、火の玉、手まりのごとく、婆々の枕邊を飛《とび》めぐりたり。
彼《かの》小女、おそるおそる、これを見しに、
「赤きまりの、光り有《ある》物にて、手にも、とられず、忽《たちまち》消《きえ》うせて、なかりし。」
といふ。
つぎの日、婆々に是を問《とひ》しに、
「此夜は女客《をんなきやく》ありて、まりを、つきたり。」
と答ふ。
又、一夜、火の玉、桔槹《きつかう》せしこと、あり。[やぶちゃん注:「桔槹」(現代仮名遣「きっこう」。「けっこう」とも読む)は「跳ね釣瓶(つるべ)」のこと。ここは跳ね釣瓶が上がったり下がったりするように、火の玉が動いたことを指す。]
これを婆々に問へば、
「羽子《はご》を、つきたるなり。」
と答ふ。
又、一日、婆々、
「歌を、よみし。」
とて、紙筆を乞ひつゝ書つくるを見るに、
朝顏の朝は色よく咲《さき》ぬれど
夕《ゆふべ》は盡《つく》るものとこそしれ
婆々は、無筆にて、歌など、よむべき者にあらず。
こも、又、狸のわざなるべし。
又、一日、婆々が畫《ゑ》をかきて、彼小女に、あたへしを見るに、蝙蝠《かうもり》に旭《あさひ》をゑがきて、賛、あり。その賛に、
日にも身をひそめつゝしむかはほりの
よをつゝがなくとびかよふなり
と有。
婆々、畫を書《かく》者にあらず。是も亦、古狸のわざなり。
かくて、ますます、ものおほく、たうべること、三たび每に、八、九椀、その間には、芳野團子《よしのだんご》、五、六本、ほどもなく、金鍔・燒餠、二、三十など、かくのごとく、日々、健啖なれども、病ひは聊《いささか》も、おきる氣色、なし。
かくて、一夕、婆々がふしどに、光明、赫奕《かくやく》として、紫雲、起《おこ》り、三尊の彌陀、あらはれて、婆々の手を引くがごとく、將《ゐ》てゆき給ふと、見えげれば、例の小女、おどろき、おそれ、あはて、まどひ、走り來りて、あるじ夫婦に
「しかじか。」
と告《つげ》しかば、あるじ雲峰、その妻と共に走りて、其《その》ふし戶にゆき見れば、婆々は、うまいして、目に、さえぎる者、なし。
[やぶちゃん注:「うまい」「熟寢」。熟睡していること。]
さる程に、このとし【文政十二。】、十一月二日の朝、雲峰の妻、良人に告《つぐ》るやう、
「昨夜、ふりたる狸の、婆々のふし戶より出《いで》て、座中をめぐり、戶節の透《すき》より、出でゆきにき。」
といふ。
[やぶちゃん注:「文政十二」年「十一月二日」はグレゴリオ暦で一八二九年十一月二十七日。]
婆々は、其儘、いき、絕《たえ》けり。
思ふに、始め、婆々が頓死せし時、其なきがらに、老狸《らうり》のつきて、ありしなり。こは、雲峰の話せられしを、そがまゝに書《かき》しるすになん【「實は、雲峰のしるせしなり。」と、ある人、いひける。さもあらんか。】
[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げ。]
原本、この下に、『彼小女の夢に、古狸《ふるだぬき》の見えて、金牌《きんぱい》を與へし。』抔といふことあれど、そは、うけられぬ事なれば、こゝには省きたり。こゝにしるすごとくにはあらねど、「此狸の怪、ありし事は、そら言《ごと》ならず。」と、ある人、いひけり。原文の、くだくしきを謄寫《とうしや》の折《をり》、筆に任《まか》して、文を易《かへ》たる所、あり。さばれ、その事は、一つも、もらさで、元のまゝにも、のせしなり。奇を好む者の爲には、是も話柄の一つなるべし。
庚寅秋九月、燈下、借謄了《かりうつしをはんぬ》。
[やぶちゃん注:「庚寅」文政十三年。この文政十三年は十二月十日(一八三一年一月二十三日)に天保に改元している。
細部の描写が、妖しくも細かく、江戸後期の事実怪談として、よく出来ている。所謂、「憑き物」で、妄想性が強度で、しかもそれ自体が閉じられた大系を持った重い精神疾患の老女であったと思われ、また、悪いことに、細菌感染によって身体に大きな壊疽が生じている辺りの描写は、なかなかにエグいものの、逆にリアルさがある。
なお、私の「Facebook」の友達が運営しておられる素敵なサイト「DEEP AZABU」の、こちらの「麻布大番町奇談」(二〇一五年九月六日公開)に全文の現代語訳が載り、大岡雲峰の旧自邸位置も示されてあるので、是非、読まれたい。私も「江戸マップβ版」の「江戸切絵図」の「 千駄ヶ谷 鮫橋 四ッ谷繪圖」(嘉永三(一八五〇)年版)で確認したところ、中央やや下方の「森川紀伊守」屋敷の左下方(この地図は左上方が北)角に食い込むようにある「大岡金之助」がそこであり、グーグル・マップ・データでは、現在のここの中央附近(「文学座」の西方外、慶応大学キャンパス北方外。東京都新宿区大京町(だいきょうちょう))に当たるものと推定される。]
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