譚海 卷之五 下總印旛沼御埋立幷江戶千川上水の事
○同時、總州印馬沼[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]を埋て、新田にひらき、和州金嶺山を掘(ほり)て、金(きん)をとり、百姓方よりは、持高百石に付、銀二拾五匁づつ、五ケ年上納、江戶町家よりは、居宅壹間に付、銀三匁づつ、五ケ年上納事(じやうなふのこと)、仰付られけるが、浚明院公方樣薨去に付、此事、停止(ちやうじ)にせられたり。金峯山などは、よほど金掘の小屋、山中に出來(いでき)て、金掘にとり懸(かかり)たる程の事と、いへり。印馬沼は、三、四年以前より、已に埋立に及びて、官の金を費せしも、餘程なる事、といへり。當時、駒込の千川上水を、再び興(おこ)し、ひかれて、本鄕より下谷・淺草に到るまで、地中に竹樋(たけとひ)を通し、新(あらた)なる井戶を、其道路に拵へ、年々、水役銀、上納に及びけるが、是も事行れず、停止に及(および)たり。此上、水遠き所より來(きた)る故、水の到りかぬる所も儘有(ままあり)、徒(いたづら)に新井戶を、もふけたるばかりにて、水役《みづやく》上納せしかば、迷惑に及ぶ所、おほし、といへり。天明二年の頃より、興し行(おこなは)れたる事なりとぞ。
[やぶちゃん注:「同時」前話を指す。天明年間に老中田沼意次の時に干拓計画がなされ、工程の三分の二まで進捗したが、前話の主題である天明六(一七八六)年七月の大洪水と、田沼の失脚(同年八月)により、中断された。
「浚明院公方樣薨去」「浚明院(しゆんめいゐん)」は徳川家治の諡名。は天明六(一七八六)年八月二十五日に享年五十で亡くなった。死因は脚気衝心とされる。
「千川上水」「玉川上水」を水源とし、境橋(現在の東京都西東京市新町と武蔵野市桜堤との境界付近。この中央辺り。グーグル・マップ・データ)から、江戸城の城北地域へ流れた総延長約二十二キロメートルに及んだ上水用水路「江戸の六上水」の一つであった。]

