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2022/12/30

ブログ1,890,000アクセス突破記念 恒藤恭「旧友芥川龍之介」全電子化始動 / 序・目次・「友人芥川の追憶」(全)

 

[やぶちゃん注:本書は芥川龍之介が最も信頼した畏友であった恒藤恭(つねとう きょう 明治二一(一八八八)年~昭和四二(一九六七)年)の著になるもので、朝日新聞社から戦後の昭和二四(一九四九)年に刊行された。

 恒藤恭は旧姓井川(いがわ:婿養子により大正五(一九一六)年十一月に改姓)は島根県松江生まれ。法哲学者で法学博士。大阪市立大学学長及び名誉教授(昭和二一(一九四六)年)。戦前に於ける日本の代表的法哲学者として知られ、京都帝国大学法学部教授時代、思想弾圧事件として著名な「瀧川事件」で抗議の辞任をした教官の一人であった。芥川龍之介より四歳年上であるが、中学卒業後、体調を崩し(本文に出るように内臓性疾患)、三年間の療養生活を経て、恢復の後、文学を志して上京、『都新聞社』文芸部所属の記者見習をしながら、第一高等学校入学試験に合格、第一部乙類(英文科)に入学した。この時、芥川龍之介と同級となり、終生の親友となった。大正二(一九一三)年、一高第一部乙類を首席で卒業後、京都帝国大学法科大学政治学科に入学した(文科から法科への進路変更については別な文章で、芥川との交流によって自身の能力の限界を知ったからである、と述べておられる)。京都帝大進学後も龍之介との文通(新全集で現存三十八通に及ぶ)による交流が続き、芥川の勧めを受けて第三次『新思潮』第一巻第五号(大正三(一九一四)年六月一日発行)にジョン・ミリントン・シング(John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)の「海への騎者」(Riders to the Sea 一九〇四年作)を翻訳寄稿したりしている。また、芥川龍之介は大正四(一九一五)年八月三日から二十二日迄、彼の薦めで彼の実家のある松江に来遊している。これは芥川龍之介の人生の最初の大きな痛手となった吉田弥生への失恋の傷手を癒してやることが井川の目的であった。その際、山陰文壇の常連であつた井川は、かねてより、自分の作品発表の場としていた地方新聞『松江新報』に、芥川来遊前後を記した随筆「翡翠記」を連載(既に私のブログ・カテゴリ「芥川龍之介」にて二十六回分割で電子化注を終えている)、その中に「日記より」という見出しを附した芥川龍之介名義の文章が三つ、分けられて掲載された。後にこれらを抜き出して合わせ、「松江印象記」として、昭和四(一九二九)年二月岩波書店刊「芥川龍之介全集」別冊で公開されている(従って現在の「松江印象記」という題で知られるそれは芥川龍之介自身による命名では、実は、ない)。これは私が昔、既に『芥川龍之介「松江印象記」初出形』として電子化しているので参照されたい。個人的に私は恒藤恭の文学的才能を非常に高く評価している

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 但し、以下に示すように、「友人芥川の追憶」以外の章、「芥川龍之介」・「芥川龍之介のことなど」・「赤城山のつつじ」は、同画像を視認してタイピングすることとなるので、全部を電子化(私のオリジナル注を添える)するのには、相応の時間が掛かることと思う。そこで、まずは、分割してブログで公開し、最後に全部をPDF縦書版にしてサイトに公開する予定である。私は原書を所持していない。二十代の頃に入手しようと、神保町を木枯らしの吹く中を経巡ったが、遂に見つけることが出来なかったから、この書には拘りがあるからである。

 実は、以下の本書本文の最初に掲げられてある「友人芥川の追憶」は、サイト横書HTML版で筑摩書房類聚版「芥川龍之介全集 別巻」に所収するそれを、一度、「友人芥川の追憶  恒藤 恭」として電子化注はしている。そこでは、恣意的に漢字を概ね正字化して示した。それは、本「友人芥川の追憶」が、本文を見ても判る通り、龍之介の自死の直後に書かれたもので、芥川龍之介の書誌データによれば、昭和二(一九二七)年九月発行の『文藝春秋 芥川龍之介追悼號』に初出した同名記事であるからであった。しかも筑摩版のその末尾には『(昭和二年八月七日)』という丸括弧記載があり、これは実に、芥川龍之介の自死から僅か十四日後に書き上げられたものと判るからである。

 残念ながら、この戦前に書かれた「友人芥川の追憶」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。「友人芥川の追憶」パートは、既存の私の電子化を参考にしつつ、漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。注は私の旧電子化注を参考にしながら、ブラッシュ・アップした。ブログ版では傍点「﹅」は太字とする。

 なお、本「友人芥川の追憶」の「十二」章の十八条から成る龍之介を剔抉したアフォリズム風のそれは、恒藤版の「西方の人」(リンク先は私の芥川龍之介の正續完全版)とも言うべき、恐るべき分析であり、私は隅から隅まで完全に支持する素晴らしいものである。「十三」章に至っては法哲学者ならではの、非常に論理的に解析された龍之介論で、短い乍らも、大方の芥川龍之介研究者のだらだらと長く、それでいて彼の核をまるで摑んでいない有象無象の退屈極まりない龍之介論に比べて、公案への名答と言うべきもので、最早、孰れも注の必要を認めない名文である。

 なお、本テクスト始動を、2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、ついさっき、1,890,000アクセスを突破した記念として公開する。【2022123010:15 藪野直史】]

 

 

 恒 藤  恭

 

  旧友芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:外装カバーの表紙部分。底本は国立国会図書館で外装が変えられて補修されているため、表紙は見られないのだが、幸い、表現急行氏のブログ「表現急行2」の「古本日記 恒藤恭『旧友芥川龍之介』」に底本原本の外装カバー写真が載せられあったことから、その画像から起こした。以下もその同写真にあるカバーの背である。]

 

 旧友芥川龍之介  恒 藤 恭

 

 

 恒 藤  恭

 

  旧友芥川龍之介

 

       朝日新聞社

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの底本の扉。]

 

 

    

 

 芥川龍之介は私の最も親しい友人の中の一人であつた。一高の学生時代にはじめて互ひに知り合つてから、私たちの親しい交はりは十六年ばかり続いた。昭和二年七月二十四日の芥川の自殺によつて此の交はりは終りを告げたとは云ふものの、彼のおもかげは絕えず折りにふれて私の意識のうちによみがへり、或時はあざやかに。或時はかすかに、私の心に呼びかけるのである。

 たぐひ稀れな、すぐれた資性と能力とをいだいたままに、三十六歳のみじかい生涯をもつて芥川か此の世を去つたことは、今でもなほ、遺憾の極みにおもふところである。彼の死後、私は二十年以上も生き延び、碌々として生活をいとなんでゐるのであるが、若しも彼が現存まで生存してゐたのであつたならば、作家として又は文学者として、どのやうにすばらしい成長を遂げたであつたらうかと、空しい想像をめぐらして見たい氣になる。

 この書に收めた諸篇は、学生時代に執筆したものと、芥川の自殺の直後に執筆したものと、一昨年から昨年にかけて執筆したものとの三つの種類にわかち得られる。「旧友芥川龍之介」といふ書名をえらんだけれど、芥川に関することだけを書きつらねたわけではなく、それ以外に、過去における私自身の生活についての敍述や、芥川に関係のある事柄から連想を馳せて、ほしいままに論述をこころみたものなどもまじつてゐる、さらに、岩波書店刊行の「芥川龍之介全集」第七巻の中に收錄されなかった故人の書簡四十二通を卷末にをさめて、故人を偲ぶよすがとした。

  昭和二十四年六月二十四日

                   恒 藤  恭

 

 

    目  次

 

 序

 友人芥川の追憶

 芥 川 龍 之 介

 芥川龍之介のことなど

 赤城山のつつじ

     ※

 芥川書簡集

 

[やぶちゃん注:目次。リーダとページ数は省略した。

 以下はその「目次」の裏の右ページ左下方に記されてある。]

 

 

            揷  絵

            

            樹下の我鬼先生

            裸形の芥川龍之介

            女

                ※

            芥川龍之介遺墨

 

[やぶちゃん注:この左ページには、「樹下の我鬼先生」と下方に活字で入れた芥川龍之介が恒藤宛に郵送した葉書の裏の、龍之介自身の手になる自身のカリカチュアと短い通信文の画像が載る。国立国会図書館デジタルコレクションの底本データ画像は全部がモノクロームであるので、カラー印刷かどうかは判らないのだが、先の表現急行氏のブログ「表現急行2」の「古本日記 恒藤恭『旧友芥川龍之介』」にある原本のカラー画像を見ると、原葉書の美麗なカラー画像であることが判った)これは、私の「芥川龍之介書簡抄88 / 大正七(一九一八)年(三) 五通」の内の四通目にある「大正七(一九一八)年九月十八日・京都市外下加茂村松原中ノ丁八田方裏 井川恭樣・消印十九日・十八日 龍(自筆絵葉書)」であり、そちらで原葉書の自筆絵葉書をカラーで示してあるので、参照されたい。以下にも活字化しておく。]

 

忙しかつたので返事が遲れた 土日兩日は大抵東京にゐる 秋來たら

 

[やぶちゃん注:ここまで絵の右端の余白にあり、以下は左端の余白に書かれてある。]

 

一度やつて來給へ 以上

 

[やぶちゃん注:以下は絵の中に書かれた自作漢詩句。]

 

   寸步却成千里隔

            我鬼題幷画龍

   紛々多在半途中

 

[やぶちゃん注:最後の「龍」は上の「画」の字の上に朱印として打たれてある。]

 

樹下の我鬼先生

     芥川龍之介ゑがく

 

[やぶちゃん注:以上は、葉書画像の画像外の右下に恒藤が記した活字である。]

 

 

   旧 友 芥 川 龍 之 介

 

 

[やぶちゃん注:本文前標題(左ページ)。]

 

 

    友 人 芥 川 の 追 憶

 

        

 

 数へて見ると、芥川との交はりは十八年の過去からつづいた。芥川は三十六歲で亡くなつたのだから、私達の交はりは丁度芥川の一生の後半にわたつて居た訳である。

 この永い年月のあひだ、彼は恒に私の最も親しい且つ最も敬愛する友人の一人であつた。性格や氣質において二人はいろいろ異なる所があつた。思想の上でも一致しない点が数々あつた。しかしながら不思議とお互ひに親しみを感じた。この心持は少しも渝ることなく十八年のあひだ持続した。[やぶちゃん注:「渝る」「かはる」。「變はる」に同じ。]

 この間に、高等学校時代の彼、大学時代の彼、機関学校の先生をして居た頃の專ら文筆に依つて衣食するやうになつた彼、と云つたやうに――彼の生活の境涯の変つて行くのを、近くから又遠くから私は眺めた。そして終りに彼の遺骸の荼毘に付せられるのを見守らねばならなかつた。

 お互ひに死といふものについて話したことは時折りあつた。お互ひに健康について絕えずいたはり合つた。

 何時のことであつたか、田端の家で、私の用ひてゐた白耳義製のカフスボタンをしきりにほめて、「君が死んだら形見にくれたまへ」と云ふから、「やるよ」と約束したことかあつた。欧羅巴へ向けて出発する前のこと、ひよつとしたら先方で何かの加減で死なぬとも限らぬと思つたから、その釦を芥川に贈つて置かうかとも考へたが、少し感傷的に過ぎるやうな氣がして差控へた。アメリカの暑熱で大分胃腸をいためたものの、兎に角、昨年の九月の半ばすぎに私は橫浜に上陸することが出來た。そして鵠沼の居に芥川をおとづれ、久し振りに話し合つた。それが永久の別れであつた。[やぶちゃん注:「白耳義」「ベルギー」。「欧羅巴へ向けて出発する」恒藤は大正一一(一九二二)年に京都帝国大学経済学部助教授となり、二年後の大正一三(一九二四)年三月から大正一五(一九二六)年九月まで 欧州へ留学している。]

 鵠沼の駅に向ふ車の中で、ふと、此れきりでもう会へないのぢやないかしら、と云ふやうな予感があたまの中に閃いた。瞬間ひじやうにさびしい氣がした。が私は直きに、そんなことはないと理性によつて打消した。けれども、やつぱり其予感が事実となつてしまつた。ほんたうに残念である。

[やぶちゃん注:後の「芥川龍之介のことなど」にもこの最後の邂逅は再話されるが、ここでは、私の「芥川龍之介書簡抄137 / 大正一五・昭和元(一九二六)年九月(全) 九通」の最後の私の太字注の引用で我慢されたい。]

 

        

 

 謂はゆる江戶つ子の出不精で、大学卒業のころ以前には、芥川はめつたに東京を離れなかつた。東京を離れてもあまり遠方へ出かけたことは無かつた。それを初めて遠方へ引張り出したのは私だつた。そして、私の勧めに應じて印象記を『松陽新報』といふ地方の新聞に載せたのが――後になつて知つた事であつたけれど――彼が作品を公けにした最初であつた。[やぶちゃん注:私の冒頭注で出した『芥川龍之介「松江印象記」初出形』を参照。この作品が「芥川龍之介」を作者名として使用した最初であり、パブリックに公開した最初の作でもある。]

 同じ筆法で、私は芥川を西洋にまで引張つて行かうと思つて努力した。西洋へ行きたい希望は彼自身一高時代から懐抱してゐたので、大分乗り氣になつて私の勧めに耳を傾けて吳れた。だか、中國へ行つて健康を害した以前の経驗は、彼の洋行に対する家庭の人々の憂惧の念を大ならしめた。それは全く無理のない事でもあつた。同行が出來ぬのは遺憾だが、後からやつて來たまへと言ひ残して、私は日本を去つた。巴里からまた、私は勧誘の手紙を出した。小穴氏などの言によると、私の誘惑は大分効果をあたへたらしい。しかし芥川は日本を離れることが出來なかつた。[やぶちゃん注:「小穴」芥川龍之介が晩年に強い親近感を持った友の画家小穴隆一。私の「芥川龍之介盟友 小穴隆一」等を参照。]

 それは二つの点において甚だ遺憾である。一つには、和漢の文学において甚だ造詣の深かつた芥川は、西洋の文学についても恐る可き読書力を発揮してゐた。また、すぐれたる彼の藝術的感覚は、東洋の絵画彫刻に対しても、西洋のそれに対しても、潑剌たる鑑賞能力となつて働いた。欧羅巴における見聞は、彼の創作的精神の上に深大なる影響を及ぼしたであらうと想像される。二つには――此方が主として遺憾なのであるが――あの頃に彼が西洋へ行つたとしたら、恐らく彼の気持は一轉したであらう、内的生活にも展開を來したであらうと考へられる。そして、多分あんなに早く死にはしなかつたであらうと思ふ。

 そんなやうな仮定的想像が当つてゐようが居まいが、彼に欧羅巴の土を一度踏ませてやりたかつた。たとへば、システィナ礼拝堂のミケランジェロの天井画及壁画の複製を見てあんなにも昂奮した彼が、原物を見たらどんなに歓喜したであらうか。あるひはルーヴル画廊のレムブラント筆「基督復活して弟子に現るる図」に直面して、如何ばかり彼はわが意を得たり! とうなづいたであらうか。

 しづかなイタリアの僧院、堂内のくらがりに瞑目のをんなの影うかぶフランスの加特力敎寺院などにも、彼はたましひと感覚との安らかな休息を見出したであらうものをと思ふ。

 どうせ、今となつてただ愚痴を言ふだけのことに過ぎぬとは知れてゐるけれど、しかし全く残念である。[やぶちゃん注:「加特力」「カトリック」。]

 

        

 

 私にとつてだけ興味のある事柄を書くことを恕して貰ふとして――芥川との交はりには、四つの時期ともいふべきものがあつた。高等学校時代、大学時代、その以後大正十二三年頃迄の時代、彼の晩年三四年の間といつたやうなくぎりがそれである。最後の時期には私は海外に在つたし、帰つてからも一度しか彼に会はず、唯彼の作品を通じてのみ彼の存在に接触したのであつた。[やぶちゃん注:「恕して」「ゆるして」。]

 右にあげた第一の時期、すなはち高等学校時代における芥川及び彼との交はりについて、心にうかぶままにそこばくの追憶を書きしるしたいと思ふ。それ以来、大分年月が経過したので、おぼえの悪い私の記憶には、多くの事柄が逸してしまつたし、その頃の日記の類なども破棄したやうに思ふ。そして丹念に思ひ出のいとぐちをほどいて行く時間の余裕もあたへられてゐないので、私の記述は甚だ不充分なものとなるであらう。

 芥川は会話においても「僕」といふ一人称の代名詞を用ひてゐた。文章においてもさうであつたと思ふ。彼と私との間においても、会話にも音信にも彼は「僕」といふ代名詞を用ひた。私もやはりさうであつた。但、芥川が家庭の内でも外でも「僕」を以て一貫してゐたのに反して、私は幼時から家庭では「私」といふ代名詞を用ひてゐた。かつて芥川が私の鄕里の家に來て泊つてゐたとき、『なるほど、君はうちでは「私」といふ語をつかつてるね。やさしい語だね』と妙に感心して云つたことがあつた。

 私にとつては「僕」といふ語は社交用、特に対友人用の代名詞であつた。をかしな事には、自分自身の家庭をつくつてからは、妻に向つても「僕」といふ代名詞を用ひるのであつた。しかも文章において自己を表はす爲には私は「私」といふ語を用ひ來つてゐる。芥川と私とは、複数の一人称としては「僕たち」といふ代名詞を用ひてゐた。そこで、私が文章の上に芥川と私とを一人称の複数において表はす場合には、一つのディレンマに会する。しかし私は以下において「私たち」といふ代名詞を用ひることにしたい。――言語の感覚の極めて銳敏であつた芥川の事について追想するとき、つい斯やうな餘計な事柄も書き添へたい気持になるのである。

 去る七月二十七日、芥川の遺骸が谷中の斎場から日暮里の火葬場に運ばれ、燒竃の中に移され、一同の燒香が了つたのち、ふと見ると、鉄扉のかたへにかけてある札の上の文字が「芥川龍之助」となつてゐた。その刹那に、若しも芥川がそれを見たら、「しやうがないな」と苦笑するだらうと思つた。すると世話役の谷口氏が「どなたか硯をもつて來て下さい、佛が氣にしますから字を改めます」といふやうなことを言つた。……「芥川龍之介」と改めて書かれた。何だか私も安心したやうな気がした。生前、芥川は「龍之助」と書かれたり、印刷されたりして居るのを見ると、参つたやうな、腹立たしいやうな、浅ましいやうな感じをもつたものだつた。それは、彼が「龍之介」といふ自分の名を甚だ愛し且つそれについて一種の誇りをもつて居たからでもあつた。第三者の眼から見ても、「龍之介」は「龍之助」よりもよほど感じがいいし、よりエステッシュでもある、しかし我の强い彼は特別强くこの點を意識してゐたに違ひない。それは子供らしい誇りであつた。しかしそんな所にわが芥川の愛すべき性格のあらはれがあつた。彼の作品を愛讀してゐるとか、彼を敬慕してゐるとか云つたやうな事を書いて寄こす人が、偶々「芥川龍之助樣」と宛名を書いて居るのを見て、「度し難い輩だ」と云ふ樣なことを呟いた例を一、二思ひ出す。[やぶちゃん注:「谷口」谷口喜作(明治三五(一九〇二)年~昭和二三(一九四八)年)。「うさぎや」の店名で知られ、現在も東京都台東区上野広小路に営業する大正二(一九一三)年創業の和菓子屋の主人。岩波新全集に人名索引によれば、東京生まれの当主は『俳人としても活躍し、多くの文化人と交流を持つとともに「海紅」「碧」などの俳句雑誌に句やエッセイを載せていた』とし、『甘いものが好きな芥川は、この店の「喜作もなか」が大好物であった』とある。『小穴隆一 「二つの繪」(17) 「手帖にあつたメモ」』の私の注の「うさぎや」を参照。「エステッシュ」は“Esthetic” であろう。「審美的な」の意。言わずもがなであるが、音写は「エステェティック」。この焼き場の一件については、別に小穴隆一の「二つの繪」の「橫尾龍之助」に(リンク先は私の電子化注)、『燒場の竃に寢棺が約められ、鍵がおろされてしまつて、門扉にかけた名札には芥川龍之助と書いてあつた。谷口喜作が燒場の者に注意をして芥川龍之介と書改めさせ、恒藤恭がよく注意してくれたと谷口に禮を言つてはゐたが、今日芥川の墓のある染井の慈眼寺に區で建てた立札はこれまた芥川龍之助の墓となつてゐる。龍之介は戸籍面ではどこまでも龍之助であつたのかも知れない』などとある。参照されたい。]

 

        

 

 芥川も私も一年のうちの季節の移りかはりを强く意識し、それからの影響を氣分の上にかなり深く受けるたちであつた。けれども、其点について共通な所もあれば、さうでない所もあつた。たとへば、秋は私たち二人の心を同じ仕方で促へた。ところが、夏については、芥川は梅雨の候を愛すること深く、濕潤の空氣にひたつてIN HIS ELEMENTに在るかの如く思はれたが、私はそれに先立つ新綠の季節を好もしとした。彼は盛夏のころの强烈な日光に対し一種の本能的な怕れを感じる慣ひであつたが、私はむしろ夏の太陽の下にかがやく物象のすがたをいさぎよく思つた。二人の間の性格や氣質やの相違の外に、東京で生れ東京でそだつた彼と、山陰道で生れ山陰道で育つた私との間に存したところの生活環境の上の相違が、夏季に対する――さうした二人の異なる意識を條件づけたのであるかも知れない。[やぶちゃん注:「IN HIS ELEMENT」「彼の本領発揮の内に在る」と言った意。]

 子供の時から中学時代までを通じて私たちの生活環境を形づくつたところの家庭や、社会的周囲や、鄕土やは、かなり趣を異にするものであつた。ただ一つの例をあげると、芥川から二、三度聞かせられた話にこんなのがある――「四つか五つの時だつた。母に連れられて歌舞伎へ行つたんだ。その時、團十郞が勧進帳をやつたんださうだが、團十郞があの大きい眼を剝いて花道から出て來たとき、僕が『うまいつ』と叫んださうだ。見物がみな息をこらしてゐる時なんだらう。母はどうしようと当惑したんださうだ。今でもよく其事を云つて母がわらふよ』 團十郞の噂をしか聞いたことのない私は、この話など、何だかひどくまばゆいやうな氣もちで聽いたものであつた。[やぶちゃん注:「わらふよ』」の後の字空けはママ。芥川龍之介は「文學好きの家庭から」(大正七(一九一八)年一月発行の『文章倶樂部』に「自傳の第一頁(どんな家庭から文士が生まれたか)」の大見出しで表記の題で掲載されたもの。リンク先は私の古い電子化注)の中に、このエピソードを書いており、『芝居や小說は隨小さい時から見ました。先の團十郞、菊五郞、秀調なぞも覺えてゐます。私が始めて芝居を見たのは、團十郞が齋藤内藏之助をやつた時ださうですが、これはよく覺えてゐません。何でもこの時は内藏之助が馬を曳いて花道へかゝると、棧敷の後で母におぶさつてゐた私が、嬉しがつて、大きな聲で「ああうまえん」と云つたさうです。二つか三つ位の時でせう』とある。]

 それで、高等学校で二人がお互ひを深く知りはじめたとき、二人はずゐ分と内容の違つた世界を所有しつつ接触して行つたのであつた。やがて、共通の世界が二人の間に生まれた。それは次第に廣くも深くもなつて行つたが、その以前から各自の所有してゐた世界の特性は、この新しく二人の間に展開し始めた世界の内容に対して影響を及ぼすことを止めなかつた。勿論依然として東京に住むことをつづけた彼と、新たに東京に住む境遇にたつた私とでは、右の関係において著しく事情を異にするものがあつた。とは云へ、一高における生活、とりわけ二年生である間彼の送つた寄宿寮の生活は、芥川にとつて全く新しい経驗であつた。一高及びその寄宿寮の生活は私にとつても亦新しい経驗であつた。斯うした種々の事情の錯綜のうちに、私たちの共通の世界はつくられた。

 私は一年生の時から寮にはいつてゐたが、芥川は二年生になつて初めて寮にはいつた。私たちはたしか北寮三番の室に起臥した。初め寮の生活は彼にとつて随分無氣味な、そして親しみにくいものであつたに相違ない。次第に彼は其れに馴れては行つたものの、六分どころしか其れに應化しなかつた。私も寮の生活には十分應化せずして終つた方だが、それでも芥川に比べれば、さうした生活に適應する能力をより多くもつてゐた。例へば、彼は初めは中々寮で入浴することを肯んじなかつた。やつと入浴するやうになつても、稀れにしか入浴しなかつた。しかし忘れて手拭をもたずに風呂にはひつたやうな逸話をのこした。銭湯にもあまり行つたことはないと云つてゐた。寮の食事は風呂のやうに忌避するわけにはゆかぬので每日喫べてはゐたが、いつも閉口してゐた。食堂でも、ある日の昼食後に、インキ瓶だと思つて醬油入をつかんで入口まで持つて行つたといふ逸話を作つた。さうした。ユーモアは、後年に至るまで、彼の行動の上にも、思想の上にも影を射してゐたやうに思ふ。

 

        

 

 当時、芥川の意識の中に二個の東京が存在してゐた。鄕土としての東京と、一高の所在地としての東京とがそれである。芥川にとつて、向が陵は鄕土としての東京の範囲外に在つた。土曜日の午後、新宿の家に向つて寮を去り行く彼の樣子は、さながら東京に遊学せる地方の青年が鄕里をさして帰省の途に就く姿に似たものがあつた。だから、薄暮、寮の窓に灯がつきそめ、白い霧が艸地に這ふのをながめながら、私が多少のノスタルジアにかかると芥川もひと事ならず其れに同感して吳れたものであつた。[やぶちゃん注:「向が陵」「むかふがをか(むこうがおか)」は旧制第一高等学校の別名。「向陵(こうりょう)」とも称した。東京都文京区向丘にあったことに由来し、「旧制第一高等学校寮歌」の第一番は「向が陵の自治の城、サタンの征矢はうがちえで、アデンの堅城ものならず、こもる千餘の大丈夫は、むかし武勇のほまれある、スパルタ武士の名を凌ぐ。」である。「今昔マップ」の昭和初期(最も古いものは画像が劣化していて、判読し難いので、こちらを選んだ)の地図で「一高」とあるのが、そこ。現在、東京都文京区弥生で東京大学弥生キャンパスであるが、その西北に向丘(むこうがおか)の地名が残っているのが確認出来る。

 尤も眞実のところは、私たちのノスタルジアの対象は、超現実的な或る世界であつたかも知れない。さう云ふ意味においては、白晝、校庭の樹木のかげなどで、私たちは屢々私たちのノスタルジアについて語り合つた。

 そんなとき、校庭の木立のもとの空間は、芥川の鄕土としての東京の一部分でもなければ、第一高等学校の構内の一部分でもなく、私たちだけの領する第三の世界に属するのであつた。

 後年、私たちは田端の家の二階の書斎において時に斯かる第三の世界を復活せしめたことがあつた。

 

        

 

 かの鄕愁に似て、しかも本質を異にするものに、私たちのエキゾチシズムがあつた。

 茲にも、ただ一つの例をあげると、工科大学の古城のやうな煉瓦造りの前の細かな石砂利を踏んで、ディッキンソンの銅像の下にいたり、滑かに光る花崗石の台石の上に踞けつつ、沈丁花のほのかなかをりに私たちはイスパニアの荒れた町の女の歌声を思ひうかべた。[やぶちゃん注:「玆」「ここ」。「ディッキンソンの銅像」芥川龍之介の「路上」(リンク先は「青空文庫」)の「二十二」にも登場する。筑摩書房全集類聚版脚注では『東大構内にあった外人教師の銅像であろうが実物も記録も現存しない』とするが、これは誤りで、現在の本郷キャンパス内に現存し、Cherles Dickinson West(チャールズ・ディキンソン・ウエスト 一八四七年~一九〇八年)で、アイルランド・ダブリン出身の御雇外国人で、明治一五(一八八二)年に招聘されて来日、機械工学と造船学を教授した。サイト「travel.jp」のこちらのtabi47氏の投稿記事で銅像の写真を見ることが出来る。「踞けつつ」「こしかけつつ」。

 だが、夏休みの近づく頃の或る夕がた、同じ銅像の下で、來らむとする夏のことを話し合つたとき、彼の語つたことを忘れ得ない。

「君、どこへ行く?」

 と私はたづねた。

「東北の方へ旅行して見たいと思ふけれど、夏は暑くてね。僕は暑さには辟易する。それに少しでも家(うち)に余計ゐたいよ」

 と彼は答へた。

「なぜ?」

 と重ねて問ふと、

「なぜつて、僕は少しでも父や母と一緖に居たいんだ。父や母も最早年をとつてゐるからね。父や母はただ僕一人を希望に生きてるんだ。それに何人にも何物にも侵されない家庭の城壁の中はほんたうに安らかなんだからな」

 といふやうなことを言つた。

 後年、彼の作品の中に、芥川はいともうつくしく広大なる彼自身のエキゾチシズムの世界をつくり上げた。私はそれを嘆賞する。

 おなじやうに、芥川がその創作力によつて展開を企てたものに、妖怪の世界がある。妖怪に関する古今東西の文獻を夙くからあさつた彼は、屢々私に彼の蘊蓄の一端をもらした。諸國の河童の話などは每々きかされた。しかし私は妖怪にはあまり趣味をもたなかつた。私の趣味は神話的存在者の彼方に及ばなかつた。[やぶちゃん注:「夙く」「はやく」。]

 私たちの読み、そしてそれについて語り合つた文学的作品などのことは、煩しいから記述しない。

 

        

 

 東京について私が芥川を通じて知り得た事柄は少くない。但、古今の東京について知る事極めて豊富なる彼が、江戶趣味を私に向つて鼓吹するやうなことを努めて避けてゐたやうに思はれるのは、かへりみてまことに心床しい。その点において、彼は大通に近きものがあつた。[やぶちゃん注:「大通」(だいつう)遊里・遊芸などの方面を中心とした庶民風俗の事情に非常によく通じている人物。粋人。]

 彼はむしろト當時流行してゐた浅薄な江戶趣味をあざ笑つてゐた。ゐなか者の私をゐなか者視するやうなこともかつて無かつた。但、ある日、大川端まで散步したとき、或る川べりで、

「あのあたりが『こまがた』だらう」

 とゆびさしたら、

「君、『こまがた』ぢやない。『こまかた』といふんだよ」

 と敎へられた。そばでをんなの人が聞いてゐた。その時は、自分の地方人たることを切実に意識した。でも、ある日、古本屋から、寺沢靜軒著「江戶繁昌記」を買つて來てよんでゐたところ、芥川がまだそれを読んでゐまいと知つて、いささか得意になつたやうなこともあつた。[やぶちゃん注:『寺沢靜軒著「江戶繁昌記」』江戸末期の漢学者で儒者であった寺門静軒(てらかどせいけん 寛政八(一七九六)年~慶応四(一八六八)年)の著わした江戸地誌。正編五冊・後編三冊で天保二(一八三一)年刊。爛熟期の江戸市中の繁盛の光景を「相撲」・「吉原」・「両国花火」など数十項に分けて、俗体の漢文で記述したもので、幕末期に流行した繁昌記ものの濫觴。今でこそ風俗史料として貴重であるが、天保十二年、内容の政道への風刺から「天保の改革」忌諱に触れ、風俗壊乱の指弾を受けて発禁となった。その結果、武家奉公御構(おかまい)(勤仕(ごんし)禁止)となって、以後、諸国を流浪した。]

 私たちは好んで上野の不忍の池のほとりを散步した。蓮は彼のこのむ植物の一つであつた。私もまた幼時から蓮がすきであつた。しかし敗荷のおもむきを解することにおいて、彼は私よりはるかに先んじてゐた。[やぶちゃん注:「敗荷」「やれはす」「やれはちす」。葉のやぶれた蓮。]

 時に郊外に足をのばしたこともあつた。野外で辨当をたべるやうなことは嫌ひな彼であつたけれど、くぬぎ林のかげなどで一緖に握飯の包をひらいたことも無いわけではなかつた。むさし野の林をわたるしぐれの音は、彼のこころから愛した所であつた。

 一般的には、彼は自然の美の観照において極めてするどい感覚をもつてゐたけれど、自然に対する彼の態度は、観照者のたたずむ界線の此方に執念深く留まつてゐた。それを踏みこえて、謂はば自然のふところに抱かれることを少年の時からねがうてゐた私にとつては、さうした彼の性向は、意地惡くも、はがゆくも惑じられた。

 かうした方角には、私たちに共通でないところの離ればなれの世界がひろがつてゐた。

 

        

 

 一緖に芝居を見に行つたこともあつた。幕合には大分議論をした。絵の展覽会にも折々一緒に行つた。上野の音樂学校の土曜演奏会にもかなり缺かさずに出かけた。音樂の鑑賞力においては、彼は大して私を凌駕してゐなかつた。

 彼のすきな、一高の寮歌が二つ三つあつた。彼はよく昂然としてそれを歌つた。

 こころもち猫背の氣味に、そしていささかへんな両手の振り方をして步む癖はあつたけれど、兵式体操は私なんかより余程うまかつた。それに、大して声はおほきくないけれど、小隊長になつたりなんかすると、敵愾心のこもつたやうな雄壯な声を吐き出して、例の昂然たる態度で号令をかけた。

 軍國主義はきらひだけれど、軍事趣味は解する所があつたらしい。後年彼の職を奉じた海軍機関学校と彼との配合は、出たらめのやうで、必ずしも出たらめではない。軍艦の中の生活のことなどを書いた彼の作品には、幾分軍事趣味が滲み出てゐるやうに思ふ。ことに軍人の生活ではなく、軍艦それ自身を描写した文句などには、軍艦それ自身が生きてゐると同時に、軍艦といふ存在物に対する一種の愛着心の如きものが漂つてゐる――甲虫などをみて私たちの意識する愛着心のやうなものが……。[やぶちゃん注:「軍艦それ自身を描写した文句などには、……」ここで恒藤が言っているのは、機関学校時代の軍艦「金剛」への教授嘱託としての航海見学で実際に乗船した折りのルポルタージュ「軍艦金剛航海記」(リンク先は「青空文庫」)を指すというよりも、私は寧ろ、自分自身や、発狂状態になって芥川らが入院させた親友宇野浩二をカリカチャライズした、自死直前の「三つの窓」(昭和二(一九二七)年七月一日発行『改造』初出。リンク先は私の古いサイト版)を指しているものと考えるべきである。但し、芥川が軍事趣味を持っていたことは、「金剛」乗船時の手帳記録を見れば、歴然とする。例えば、私の図入りの「芥川龍之介手帳 1―16」を参照されたい。]

 尤も、すべて勝負事はきらひであつた。

「圍碁の趣味がわからなくては、漢詩、ことに五言絕句の味はひはわからないだらう」

 といふやうなことを私がいふと、

「なあに、眞の藝術家は勝負事はきらひなんだよ」

 と、幾人もその実例をあげて、彼の主張の証明を試みた。何遍もその主張は聞かされた。だが、賭け事のあそびには興味をもち得たやうである。[やぶちゃん注:龍之介は晩年には花札を好んでやっている。]

 勝負事のきらひだつた彼の心理を解剖してみると、負かすこともあまり愉快ではないし、負けることは尙更愉快ではないといふ心持が、すぐ顏をのぞけるからであつたらう。

 

        

 

 彼は数学はすきだつたし、数学的能力ももつてゐたらしい。

 高等学校時代から彼は長い路筋をたどつて議論をすすめることは嫌ひであつた。

 感じや氣分の上では、矛盾が大きらひであつたが、諭理の上の矛盾は之を犯して平氣であつた。

 抽象的な槪念で言ひあらはすと、芥川は理智の人でなく、叡智の人であつた。

 

        

 

 彼は精神的に著しく早熟だつた。

 後年彼の諸々の作品に盛られた内容の根抵を成す人生観的思想は、高等学校時代の後半期及び大学時代の初期にすでに確立されてゐたことを想ふ。

 その後に成長し、円熟して行つたものは、大体から見て、彼の表現の力なり手腕なりではあるまいか。

 唯――これは単に作品を通じてのみ判断するのであるが――死を距ることあまり遠からぬ時期から、彼の人生観の一面としての宗敎的思想を深く掘り下げたやうに思ふ。もとより、以前からさうであつた如く、彼の芸術観によつてぴたりと裏打された宗敎的思想ではあつたけれど。

 

        十一

 

 私は中学校の四五年生の頃から胃腸を害し、卒業後三四年間、無爲にくらしてゐたことがあつた。一度は將に死にさうであつた。

 幸ひにして健康を回復した。爾來、私は健康を維持することにはかなり努力した。この点について、芥川は著しく私の影響をうけた。尤も、私は常に熱心に芥川におなじやうな努力をすすめた。これは彼にとつて少からず迷惑であつたに相違ない。しかし私の苦言の合理性は彼も十分みとめてゐた。そして相当私の言を用ひて、彼の日常の生活に採用してくれた。高等学校時代の後半から卒業ごろにかけて、彼の健康狀態はかなり良好であつた。私の執拗な干渉がその事に対して多少寄與する所があつたと信じても、拠り所のない推断とは云へぬであらう。

 後年、創作に専心するに至つて、芥川は身体の虐待を次第に甚しくした。その頃には、相会する機会はすくなかつたけれど、相見る每に、私は苦言をあたへた。何とか彼とか彼は弁解をしたが、反抗はしなかつた。[やぶちゃん注:「何とか彼とか」「なんとかかとか」「なんとかかんとか」。]

 身体の力の旺盛なために、肉体と精神との釣り合のとれてゐない人が沢山あるが、彼の場合には、精神の力が旺盛に過ぎて、肉体と精神との釣り合が危げに保たれてゐた。高等学校時代において既にその兆があらはれてゐた。後年、この現象は顕著となり、芥川は常にどれだけそれを氣にかけ、それに悩んだか知れない。

 彼の精神のはたらくところ、凡そ愚鈍と名狀す可きものの現はれを見出し難かつた。彼の肉体は彼の精神を荷ふにふさはしき品位にみちてゐたが、彼の精神のはたらきを支へるに足る力にあまりに欠けてゐたとも考へられるであらう。

 だが、彼みづから動物的なる力と呼んだ所のものの中に、彼のすぐれたる聰明の支配を拒むものがあつた。これらの二者の葛藤に乘じて、彼の精神の一隅に巢くふ或る病的なるものが勢ひを逞しくしたやうに感じられる。但、これは後年に至つての出來事である。

 

        十二

 

 はじめに、高等学校時代の芥川についての追憶を書きたいと記したが、その範囲を逸することをゆるされたい。

 芥川はモラリストを憎みつつも、彼自身あまりにモラリストであり過ぎた。

 波はメフィストフェレスを愛しつつも、あまりに烈しいメフィストフェレスをばにくんだ。

 

 藝術の道に精進せむとする彼の氣魄は、りんりんと鳴りを立てるかの如く思はれた。

 彼のあゆんで行く方向に、或る処では、人生の道と藝術の道と相合し、或る処では、二つの道が離ればなれに見える。

 後の場合に、彼は躊躇なく芸術の道をえらぶが如くして、必ずしもさうでない。

 

 彼は孤独を愛しながら、孤独に堪へることが出來なかつた。(都会人であり過ぎたせゐかも知れない)

 彼はかなり多量のセンチメンクリズムをもつてゐた。自分でもはつきりそれを意識してゐた。そして其れを露はにすることを怕れた。

 

 それは鍊を経たセンチメンタリズムであつた。このセンチメンタリズムの湧き出る泉源は、一塊の岩石をへだてて、彼の固有する詩的精神の泉源と相対した。

 詩は彼の孤独のくるしみを和げた。しかしながら、何人か詩に永住することが能きよう乎。[やぶちゃん注:「何人か」「なんぴとか」。「能きよう乎」「できようか」。]

 

 彼が天使を呼べば、天使は嬉々として來つて彼の手を取らむとするであらう。だが、彼はひらりと身をかはすであらう。

 彼が惡魔を呼べば、惡魔は欣々として來つて彼の手を取らむとするであらう。しかし、彼はひらりと身をかはすであらう。

 さりながら、つひに彼は氣根萎えて打ちたふれ、やさしい天使の介抱を受けるであらう。

 芥川のこころに宿る惡魔は、良心の瞳を片時も放さず瞠めてゐる惡魔であつた。彼がその惡魔を退ける工夫をしないのが、もどかしく思はれた。それは怕ろしい惡魔ではあるが、神々しい惡魔でもあつた。[やぶちゃん注:「瞠めて」「みつめて」。「神々しい」「かうがうしい」。]

 

 芥川において生活と芸術とは、ひじやうに高い程度に合致してゐた。但、その意味は、彼の残した芸術と彼の生きた生活とが寸分の𨻶なく合はさつて居るといふのではない。彼の生きた生活が彼の残した藝術よりも一層藝術的であつたといふにある。

 

 芥川の思想のあるものに、その作品を通じて接するとき、私は往々にして不満を感じた。しかし、同一の思想を芥川自身が口づから語るとき、私は何らの不満を感じなかつた。恐らく、芥川の精神から離れて客観化されたが故に、その思想に対して不満を感じたのかも知れない。但、往々にして彼の弄することを好んだ江戶つ子的詭辯にまどはされたわけでは断じてない。

 

 全体して見れば、芥川は强靭な意力をもつてゐた。けれども、その意力のはたらく方向にむらがあつた。

 

 彼の精神のはたらきの銳さは、多くの場合に、彼のうちに潜む処女のごとくやさしい心づかひと、はげしい情熱とを、他人の眼から全然隠し去つた。

 

 いつ見ても彼の眼は澄み切つてゐた、が、彼の感情は常にあたたかく搖いでゐた。

 彼の表現があまりに𨻶の無いやうにと工夫を凝らされてゐる爲に、彼の作品がつめたい感じを惹き起すことがある。日常の彼の行動には沢山の𨻶があつた。彼はそれを意としなかつた。だから彼から直接につめたい感じを受けたことはない。

 

 屢々彼はさかんに人を罵倒した。

 彼は時には(子供らしく)虛勢を張つた。

 しかし法螺は決して吹かなかつた。

 

 自然にむかつて彼は甚しく謙虛であつた。が、心の底に三分の敵意を藏して自然に対することが稀れでなかつた。

 

 彼は妖怪を愛した。しかし妖怪の存在を信じては居なかつた。

 

 彼のミラクルをよろこぶ心は、彼の峻嚴なるリアリズムといたましく矛盾した。

 

 彼は若い女のゐる前で昂奮した。しかし男のゐる前でも昂奮した。ただ親しい友人の前でのみ平静であつた。

 誰だつてさうなんだらう。

 ただ彼の聰明さに比べて少し不釣合だと思はれただけだ。

 

 彼にも初恋があつた。その委曲は記すまい。そのとき彼は一生懸命であつた。

 

        十三

 

 爭鬪があればこそ、勝利はあり得る。爭鬪を経ない勝利は無い。これは自明の理である。善と惡とは永久に爭鬪の運命を負はされてゐる。惡の征服において善が成り立ち、善に対する反抗において惡が成り立つ。

 惡がなければ善もない。これが此世の掟である。惡の征服の後に來る平和はうつくしい。けれども現実の世界は、爭鬪なくして平和に至る途を保證せぬ。

 この爭鬪は最も多樣な形態において行はれる。が、芥川はこの爭鬪をいとはしとした。だから、彼の眼には、善も亦暗い陰影を帶びて映り過ぎた。「しかも惡も、惡との爭鬪も、共に人生の必要に属する。しからば、すでに惡との爭鬪を善と名づけるとき、何故に惡そのものをも善とよびえないか。否、一方において惡を惡とよぶものが、何故に善をも惡とよばないか。」彼は斯る論理に飽くまでも執着した。どこ迄も、何処までも、それにこだはつた。

 

 善惡の相関的制約性は美醜の相関的制約性とその論理的構造を一にする。ただ美醜の差別は官能を通じて我等の意識にあたへられるのを特色とする。芥川の如く銳敏なる美的感覚をもつ人にとつて、美醜の鑑別はあまりにも明確なりと思惟されたであらう。

 その思想的生涯を一貫して彼の抱いたところの「道德に対する懐疑心」は、彼の感情と感覚とにかたく根ざすものであつた。しかも道德的本能は彼において人一倍力强かつた。

 この矛盾は、後半生を通じて、彼をいら立たせた。

 

        十四

 

 この稿を書き始めたとき書かうとも思はなかつた事を、勢ひに任せて書いた。あまり長くなつたから大抵にして稿を了したいと思ふ。

 

 大正二年に私たちは一高を卒業した。六月の試験のすんだあと、芥川、藤岡、長崎、私と四人の同級の者が、赤城、榛名の山々へ旅した。

 私たちは先づ赤城山を目ざした。

 足尾鉄道の一小駅上神梅(かみかんばい)で下車した私たちは、森林の茂みを縫ふ嶮しい山みちを登つて行つた。芥川はその年の春胃拡張を病み、不換金正氣散といふ漢方藥の二合分を一合に煎じ詰めたやつを根氣よく吞んで、それを癒したあとだつた。彼は大分登りなやんだ。「こんなに心臓が鼓動する」といふから、その胸に手を当てて見ると、なる程むやみと心臓が鼓動してゐた。「これでもつて好く登れるね」と私は感心した。

 大黑檜と地蔵が嶽との間の外輪山の凹みにたどりついたときは、もう日暮れに近かつた。黃ばなの梅鉢草やゆきわり草の花のうへに坐して暫く憩うた。うしろを振り向くと、今まで登つて來た方角の上州の平野の眺めが遙かな思ひをさそひ、ゆくての谷を見おろすと、みどりの牧場に数知れぬ牛や馬があそんで居た。牧場の盡きるところには湖の水が白く光つてゐた。草鞋の足かろく四人は夕餉のけむりの一すぢ立つ方へと降つて行つた。

 枝振りのやさしい山梨の木が一杯に梢を張り、純白な花をこぼれるやうに咲かしてゐた。

 あるいて行くうちにも、「ほんたうに佳いだらう。うつくしいだらう。だから僕は赤城が一等好きだつて云ふんだ。ねえ、何処よりもいいだらう」と、芥川は大へん得意だつた。ウイリアム・ブレークの版画などをみせて吳れたときのやうに得意だつた。前の年の春休みのころ、まだ湖畔は雪にうもれて居る折りに彼は來たことがあるのだつた。

 大沼(おほぬ)の岸に近い宿に泊つた。あくる朝、四時まへに目をさまし、三人を起して登山の途に就いた。私たちは大黑檜の峯にかかつた。

 林をはなれて草山の背にたどりつくと、風はさかさまに下から吹き上げ、見る見る雲霧が谷間をとざし、林を包み、ゆくての山をかくしてしまつた。

 櫻草や虫取すみれや、そのほか数々のうつくしい花になぐさめられつつ雲の中を登りにのぼつて、絕嶺についた。眺望はなかつた。

 寒いので、ながく留まることも出來ず、山の花をつみつみ下山した。宿の若者の剪つて吳れた白樺の杖をつきながら四人は湖水の岸づたひにあゆんで前橋に向つた。七里のみちを前橋に降り、電車で伊香保の溫泉に行つて泊つた。あくる日は榛名の山にのぼつた。そのまた翌る日は二組にわかれ、芥川と藤岡とは帰京し、私は長崎と妙義山から軽井沢の方へまはつた。

 それから三、四年後のこと、赤城の頂の山霧の中に径(みち)がかようて居る叙景を結末に取り入れた、「道」と題する長篇の小說を書きたいと思ふと、芥川は私に語つた事があつたが、その希望を現実にしなかつた。

[やぶちゃん注:「大正二年に私たちは一高を卒業した。六月の試験のすんだあと、芥川、藤岡、長崎、私と四人の同級の者が、赤城、榛名の山々へ旅した」この前の大正二(一九一三)年六月十二日から二十日が一高の卒業試験で、それが終わった二日後の六月二十二日から、芥川龍之介は同級生の井川(いかわ:後の恒藤)恭・長崎太郎・藤岡蔵六とともに赤城山方面へ旅行に出立し、二十三日には午前四時に起床、赤城山に登頂、下山して伊香保に宿泊、翌二十四日には榛名山に登頂、二十五日に伊香保に滞在、二十六日に藤岡とともに帰京している(井川と長崎は、二人と別れ、妙義山から軽井沢に向かっている)。この登山の途中、「赤城にて」とする少年期よりの親友山本喜譽司に宛てた絵葉書がある(大正二(一九一三)年六月二十三日・消印二十四日)。私の「芥川龍之介書簡抄14 / 大正二(一九一三)年書簡より(2) 三通」の二通目を参照。なお、この時の同行者については、長崎太郎(明治二五(一八九二)年~昭和四四(一九六九)年)は高知県安芸郡安芸町(現在の安芸市)出身。京都帝国大学法科大学を卒業後、日本郵船株式会社に入社し、米国に駐在し、趣味として古書や版画を収集、特に芥川龍之介も好きだったブレイクの関連書の収集に力を入れた。帰国後に武蔵高等学校教員となった。昭和四(一九二九)年、京都帝国大学学生主事に就任、昭和二〇(一九四五)年、山口高等学校の校長となって山口大学への昇格に当たった。昭和二十四年には京都市立美術専門学校校長となり、新制大学への昇格に当たり、翌年、京都市立美術大学の学長に就任している。藤岡蔵六(明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)年)は愛媛県出身で、後に哲学者となった。東京帝大哲学科を卒業し、ドイツ留学後、甲南高等学校教授となった。この旅行については後掲される紀行文「赤城山のつつじ」で、より細かに描かれている。

「前の年の春休みのころ、まだ湖畔は雪にうもれて居る折りに彼は來たことがあるのだつた」明治四四(一九一一)年四月一日から一週間の試験休暇中の六日に、府立三中・一高時代の親友であった西川栄次郎(明治二五(一八九二)年~昭和六三(一九八八)年:東京帝国大農学部卒で、同大助手となり、研究員として英国へ留学、後に鳥取高等農林学校教授となった)とともに、雪景色の赤城山に登頂している。

「大沼(おほぬ)」実はルビは誤りで、「おの」と読む。赤城山の北東にあるカルデラ湖「赤城大沼(あかぎおの)」(国土地理院図)。

「足尾鉄道の一小駅上神梅」現在の群馬県みどり市大間々町上神梅にある「わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線」の「上神梅駅」。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「不換金正氣散」(ふかんきんしょうきさん:現代仮名遣)は、サイト「漢方ライフ」のこちらによれば(生薬成分はそちらを見られたい)、主治は『瘴疫時気による湿困脾胃』・頭痛・発熱・嘔吐痰涎・腰背部のこわばり・突発性吐瀉・下痢とあり、『体力』が『中等度で、胃がもたれて食欲がなく、ときにはきけがあるものの次の諸症』とあって、急性及び慢性胃炎・胃腸虚弱・消化不良・食欲不振、及び、『消化器症状のある感冒』とある。

「大黑檜」も読みが難しく、現行では「おおくろび」と読む。赤城山系の最高峰(千八百二十七メートル)である「大沼」の北東に聳える「黒檜山(くろびやま)」(国土地理院図)のこと。]

 

        十五

 

「我は唯茫々とした人生の中に佇んでゐる。我々に平和を與へるものは眠りの外にある譯はない。あらゆる自然主義者は外科医のやうに残酷にこの事実を解剖してゐる。しかし聖霊(せいれい)の子供たちはいつもかう云ふ人生の上に何か美しいものを残して行つた。何か『永遠に超えようとするもの』を」

 「改造」所載、「西方の人」の第三十五、「復活」の末尾に、芥川はこんな文句を書いてゐる。

 今や彼は、その文句の中にしるされた真理を目のあたり見て居るであらう乎。

 書いてここに到つて、私は淚の落ちるのを止めえない。

[やぶちゃん注:冒頭に惹かれているのは、恒藤の述べるように、芥川龍之介の事実上の最後の遺筆となった「西方の人」(正編)の「35 復活」の最終段落である(リンク先は私の「西方の人」正續完全版)。]

 

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