「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 駕籠舁互に殺さんと謀りし話
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。]
駕籠舁互に殺さんと謀りし話 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)
寶永八年發行、自笑《じせう》の「傾城禁短氣《けいせいきんたんき》」四の四に、二人の駕籠舁(かごかき)、寒夜、京より大津行《ゆき》の嫖客《へうかく》を載せんとするに、其客、寒氣に中《あた》り、忽ち、死す。遺言により、其肌着より、小判千兩、取出《とりいだ》し、死骸を駕籠に乘せ還る途上、一人の駕籠舁、大地に坐し、泣き出す。今一人、その譯を聞くと、「實は、汝を打ち殺して、千兩、丸取りにせんと、數《しばし》ば、杖を、後より振り上げたが、目前、死人を見乍ら、『淺猿《あさま》しき心に成《なり》し。』と、身の零落を悲《かなし》む。」と答ふ。今一人、「われも、汝を殺し、この金、悉く取らんと謀り居たり。」と懺悔し、色々、來歷を語ると、此二人も、駕籠の中の死人も、異腹の兄弟だつたてふ譚が有る。
それより廿三年前(元祿元年)出た西鶴の「新可笑記」五の四に、奧州女賊の娘、二人、剽掠(おいはぎ[やぶちゃん注:ママ。])に出《いづ》る道傍に、絹、十匹、落たるを拾ひ、五匹宛、分かち、持歸《もちかへ》る。心の中で、姉は妹を、妹は姊を、殺し、絹を、皆、自分の物にせんと、思ひ設けて急ぐ途上、火葬の火の殘り燃《もゆ》るを見て、各《おのおの》、無常を悟り、悔《くい》て、絹を同時に火に投込む。互に理由を尋ねて、齊《ひとし》く惡心を懺悔し、家に還《かへり》て、母を勸め、三人、發心して比丘尼と成《なつ》た、と出づ。
治承の頃、平康賴の筆と傳ふる「寶物集《ほうぶつしふ》」一に、兄弟、父より、各、五百兩の金を得て、道にて、弟、其五百兩を投げ捨つるを、兄、怪《あやし》んで、譯を問ふと、弟、泣泣《なくなく》答へたは、「我、此金を持《もつ》た故に、汝が持つ金を奪《うばひ》て千兩に成《なし》て持《もと》うと、一念、起つた。金は、うたてしき物と思へば、捨《すつ》る。」と云ふ。兄、淚を流し、「我も、然《しか》思ふた。」とて、又、投捨た。是を「斷金の契り」とは申すとは、牽强《こじつけ》だが、この話は龍樹大士の「大智度論」に出づ。百卷と云ふ大部の物で、座右に有《あり》乍ら、搜すに時を費やす故、「法苑珠林」卷九四より、孫引きとせう。云く、有二兄弟二人一、各擔二十斤金一行、道中更無二餘伴一、兄先作二是念一、我何以(ユヱニ)欲二殺ㇾ弟ㇾ取金一、此曠路中人無二知者一、弟復生ㇾ念、欲二殺ㇾ兄取一ㇾ金、兄弟各有二惡心一、語言視瞻皆異、兄弟卽自悟、還生二悔心一、我等非人、與二禽獸一何異、同產兄弟、而爲二少金一故、而生二惡心一、兄弟共至二泉水邊一、兄以ㇾ金投二著水中一、弟言、善哉善哉、弟復棄二金水中一、兄言、善哉善哉、兄弟更互相問、何 以故言二善哉一、各相答言、我以二此金一故、生二不善心一、欲二相危害一、今得ㇾ棄ㇾ之故言二善哉一、二辭各爾。〔兄弟、二人有り、各(おのおの)、十斤の金(かね)を擔(にな)ひて行く。道中、更に餘(ほか)の伴(つれ)、無し。兄、先づ、是の念(おも)ひを作(な)す。『我れ、何の以(ゆゑ)に弟を殺して金を取らざらん。此の曠路(かうろ)の中(うち)、人の知る者、無し。』と。弟、復(ま)た、念ひを生じ、『兄を殺して、金を取らん。』と欲す。兄弟、各(おのおの)、惡心有れば、語-言(ことば)と視瞻(めつき)と、皆、異(こと)なれり。兄弟、卽ち、自(みづか)ら悟り、還(ま)た、悔心(かいしん)を生(しやう)ず。『我等は、人に非ず。禽獸と何ぞ異ならん。同じ兄弟に產まれ、而(しか)も少しの金の爲めに、惡心を生ず。』と。兄弟、共に泉水の邊(ほと)りに至る。兄、金を以つて、水中に投(な)ぐ。弟、言はく、「善(よ)きかな、善きかな。」と。弟も、復た、金を水中に棄(す)つ。兄、言はく、「善きかな、善きかな。」と。兄弟、更に、互ひに相ひ問ふ、「何を以つての故に『善きかな』と言ふや。」と。各、相ひ答へて言はく、「我れは、此の金を以つての故に、不善の心を生じ、互ひに危害せんと欲す。今、之れを棄つるを得たり、故に『善きかな』と言へり。」と。二(ふた)りの辭(ことば)、各、爾(しか)り。〕。
[やぶちゃん注:「寶永八年」一七一一年。
『自笑の「傾城禁短氣」』「自笑」は八文字屋自笑(?~延享二(一七四五)年)で浮世草子作者・書肆・版元。京の人。本姓は安藤。通称は八左衛門であるが、本書は江島其磧(えじまきせき 寛文六(一六六六)年~享保二〇(一七三五)年)との連名の浮世草子。江島は浮世草子作者で京生まれ。本名は村瀬権之丞。通称は庄左衛門。西鶴の作風を真似た役者評判記「役者口三味線」を書肆八文字屋より刊行した後、浮世草子を「八文字屋自笑」の名で多数執筆・刊行したが、自笑と確執があり、書肆江島屋を起こして其磧名の作を出すしたが、後に和解し、自笑との連名で執筆刊行を続けた。「傾城禁短氣」は江島の代作で、宝永八 (一七一一)の序を持つ。当該篇は同書の「四之卷」の「㐧四 教(をしへ)の駕籠(かご)のりの道連(みちづれ)」である。かなり癖のある崩し字の版本で、ちょっと読み難いが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの同巻(一括PDF)の26コマ目から視認出来る。
「嫖客」「飄客」とも書き、花柳街で遊ぶ客を指す。
「廿三年前(元祿元年)」一六八八年。
『西鶴の「新可笑記」五の四』井原西鶴の浮世草子で、雑話物的傾向を持つ武家説話集。二十六話中、一話を除いては、武家説話で、奇談・珍談の色彩が濃い。この「の四」は前に引かれたものか、必要ない。標題は「腹からの女追剝 武士は其時かはる子どもの事」。国立国会図書館デジタルコレクションの「西鶴文粋」の下巻(春陽堂刊)のこちらから活字本で読める。なお、「可笑記」近世初期に成立した随筆風仮名草子で、作者は浪人の斎藤親盛であるが、その流行にあやかって名乗っただけで、関連性は全くない。
「治承」。一一七七年から一一八一年までであるが、源頼朝の関東政権は、この先の養和・寿永の元号を使わずに治承を引き続いて使用した。優勢となった源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、「平家都落ち」の直後、朝廷から寿永二年十月宣旨が与えられた寿永二(一一八三)年以降、鎌倉方でも京都と同じ元号が用いられるようになった。
『平康賴の筆と傳ふる「寶物集」』平安末から鎌倉初期の仏教説話集。後白河法皇の近習として北面に仕えた平康頼著。康頼が帰洛した治承三(一一七九)年以後、数年間で成立したものと思われる。嵯峨清涼寺における僧俗の談話という「大鏡」「無名草子」などのような座談・問答形式をとっている)。指示するのは、「金寶に非ぬ沙汰付楊震四知幷斷金契(だんきんのちぎり)の事」で、ここの左ページ七行目以降がそれであるが、ここで熊楠が触れているのは、次のコマの右のページ最終行から左ページの五行目まで。
『龍樹大士の「大智度論」』は「大蔵経データベース」で校合した。今回は珍しく、熊楠の表示の方が正しい感じがする箇所が多かった。]
« 尾形龜之助第三詩集「障子のある家」再版本に基づく縦書PDF化作業始動 | トップページ | 尾形龜之助詩集「障子のある家」原本(昭和二三(一九四八)年再版本)準拠正規表現版・藪野直史作製・注附き(PDF)公開 »