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2022/12/23

甲子夜話卷之七 8 信長の匾額

[やぶちゃん注:今回は特異的に鍵括弧を用いて読み易くし、句読点も変更・追加した。また、底本に『欄外原注。以下同』とある箇所は《 》で示した。読みも( )で歴史的仮名遣で補った。]

7-8

林氏の便房《べんばう》に揭(かかげ)たる匾額(へんがく)の畫(ぐわ)を、「何なりや。」と問しかば、「原本は織田右府【信長。】、安土城の居間に掛(かけ)おかれし額の寫(うつし)なるを、其圖を、尾州總見寺に寫傳(うつしつたへ)たりしなり。」と云(いふ)。總見寺住僧の記あり。

[やぶちゃん注:以下、漢文部分は、底本では全体が一字下げ。まず、返り点のみで示し、後で底本の訓点に従って訓読文を示す。]

此圖也者、總見寺殿贈一品大相國公近州安土之熟《「熟」、「塾」也。》、眎有ㇾ人快開胸襟、下捨片箆、傍設蚊帳、在《「在」、「左」之誤。》持直木、右擎簸箕者上也。是形我國之諺於繪事而以敎ㇾ人也。販夫知ㇾ之、牧豎識ㇾ之。不ㇾ用訓詁著矣。見者勿以ㇾ易ㇾ解忽一ㇾ諸也。儻施之於辭則曰、其爲丈夫者心體廣胖、氣宇高直、而内無諂曲外勵家業、則終能保ㇾ身也。繄相公之意、而從著至微之捷徑也。所ㇾ謂修身齊家治國平天下之道亦不ㇾ出平《「平」、「乎」之誤。》昰《「昰」、「是」古文。》矣。厥曾孫織田貞幹、臨寫附乎山謂曰、斯事逸乎家譜

惟𢖶ㇾ《「𢖶」、「恐」古文。》)失ㇾ旃。請作ㇾ記永貽將來奧書顚末

元祿元歲舍戌辰十二月穀日

      敕住法山當寺六世白翁々識

「元祿も、今を距(へだた)ること久(ひさし)ければ、姑(しばら)く其舊を存する爲に、此文を添(そへ)おくなり。然れども、惜(をしむ)らくは、假字文(かなじぶん)にて綴らば、能(よく)通(つう)すべきを、不解事(ふかいじ)の僧の、不成語(ふせいご)の眞文(まなぶん)にて記(しる)しぬれば、一向、分らぬことに成(なり)たり。」迚(とて)、林氏、笑ひけり。

■やぶちゃんの呟き

 まず、訓読を示す。読みは私の推定。欄外原注に従い、補正し、段落を成形した。中間部は元自体が、確かにトンデモ訓読文である。面倒なので、中に注も入れ込んだ。

   *

 此の圖は、「總見寺殿贈一品大相國公(さうけんじでんざういつぽんだいしやうこくこう)」[やぶちゃん注:織田信長の戒名。]の、近州、安土の塾(じゆく)、人、有り、胸襟を快開(かいかい)し、下(しも)に片箆(へんへい)を捨て、傍ら、蚊帳(かや)を設け、左に直木(ちよくぼく)を持ち、右に簸箕(ふき[やぶちゃん注:塵取り。])を擎(も)つ者を眎(しめ)すなり。

 是(これ)、我國の諺(ことわざ)を繪事(ゑごと)に形(な)して、而以(しかしてもつて)、人を敎ふなり。

 販夫(はんぷ[やぶちゃん注:商人(あきんど)。])も之を知り、牧豎(ぼくじゆ[やぶちゃん注:牧童。])も之を識(し)る。訓詁(くんこ)を用ひずして、著(し)れり。

 見る者、解(と)き易(やすき)を以(もつて)、諸(もろもろ)、忽(たちまち)にすこと、勿(なかれ)。

 儻(も)し、之を辭(ことば)に施さば、則ち曰(いは)ん[やぶちゃん注:ママ。]、

「其---夫(おとこ[やぶちゃん注:ママ。])は心---胖(むねをひろく)、氣---直(こゝろをぼうのやうにもち)、而----無(へらをつかず)、外---勵(かせげば)、則----保(みをあげる)なり。」。

 繄(こ)れ、相公の意(い)にして、從(したがつ)て、至微(しび)の捷徑(しやうけい)を著(あらは)すなり。

 謂所(いはゆる)、「修身・齊家・治國平天下」の道も、亦、是(ここ)に出(いで)ざる。

 厥(そ)の曾孫(そうそん)織田貞幹(をださだもと)、臨寫(りんしや)して「乎山(こざん)」に附して[やぶちゃん注:意味不明。]、謂ひて曰く、

「斯(かかる)事、『乎家譜(こかふ)』[やぶちゃん注:意味不明。]に逸(いつ)す。惟(ただ)、旃(せん[やぶちゃん注:「旗」。])を失ふを恐る。請ふ、記(き)を作(つくり)て、永く將來に胎(のこさ)ん。」

と。

 奧に顚末を書(しよ)す。

元祿元歲戌辰(ぼしん)の舍(すへ)十二月[やぶちゃん注:グレゴリオ暦では既に一六八九年一月。]穀日(こくじつ[やぶちゃん注:良い日柄を言う語。])

      住法山(に)敕(せらる)當寺六世、白翁翁、識(しるす)。[やぶちゃん注:以上には返り点のみであるので、( )で送り仮名を含めて読みを当てた。]

   *

「林氏」お馴染みの静山の親友の林家第八代林述斎。

「便房」「便所」の意味もあるが、ここはプライベートな休息のための部屋の意であろう。

「尾州總見寺」愛知県名古屋市中区にある臨済宗妙心寺派の景陽山總見寺(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『初めは伊勢国大島村』(現在の三重県川越町)『に西明寺という講寺』としてあったが、であった。 元弘二/正慶元(一三三二)年、名僧『虎關師錬が景陽山神賛寺と改め後醍醐天皇の勅により官寺となり』(この僧の最後の「敕」はそれを指すのでああろう)、『後に伊勢国安國寺』『となった』。『天正の頃、廃寺になりかかっていたのを』、『織田信雄が父の菩提を弔うために清洲北市場(現在の清須市一場)に移し』、後、信長が生前中に建立した『安土摠見寺にならい』、『總見寺』『と改めた。忠嶽を開祖としたが、忠嶽は虎關を開山と仰ぎ』、『自分は』二『世となった』。慶長一六(一六一一)年の「清洲越し」(名古屋城の築城に伴う清洲から名古屋への都市移転)により、『名古屋南寺町』(現在の大須三丁目)『に移』ったとし、『信長公廟が存在する』とある。

「織田貞幹」(承応二(一六五三)年~享保六(一七二一)年)は尾張藩家老で茶人。当該ウィキによれば、『織田信次の子として誕生した。父・信次は織田信長の九男』『織田信貞の長男であったものの、病弱のため弟の貞置に家督を譲った。貞幹は叔父の旗本』『貞置の養子となり、貞置から有楽流を学んだ(尾州有楽流)』。『後に尾張藩』二『代藩主』『徳川光友に召し出されて、尾張藩士になった。始めは光友の嫡子・綱誠の小姓となり』、百『石を与えられた。次第に加増されて最終的には』四千『になった。元禄』九(一六九六)年七月、『国家老とな』った。享保三(一七一八)年七月に『隠居し、長男の長恒に家督を譲』り、『以後、巻有と号』した。『なお、山崎闇斎の弟子』『佐藤直方に朱子学を学ん』でいるとあり、墓は上記の景陽山總見寺にあるとある。

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