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2022/12/02

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「【地震奇談】平安萬歲樂」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上段八行目から。普通附されてある頭の「○」印がない)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回はやや長いが、そのままとした。

 本篇は「京都地震」関連記事の第六弾。第一篇以降で注した内容は、原則、繰り返さないので、必ず、そちらを先に読まれたい。

 なお、この標題は、後に記されてあるように、一月後に出回った一種の瓦版の長めのもので、災害に乗じて関連記事で儲けようとしたものらしい。なお、標題の「平安萬歲樂」は、表現上は、震災被害を乗り越えて平穏ならんことを言祝ぐといった感じに見えるが、江戸後期当時、「萬歲樂」という語は、感動詞として頻りに用いられたもので、「危険な折りや、驚いた時などに唱える「厄除け」の言葉で多くは、「万歳楽、万歳楽」重ねて用い、所謂「くわばら、くわばら」と同義でもあったので、それをきかせた、洒落にならない洒落ででもあろう。試みに調べてみたところ、「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」のこちらに、宮内庁書陵部蔵の「平安万歳楽」(見開き扉の表記のママ)が視認出来、見ると、「みやこまんざいらく」と読みが振ってあった。しかも、ここでは、以下に続く「下」のパートも視認出来る(私は、こうしたものを書いて、金を儲けた筆者が生理的にイヤな感じなので、読みたくもないので、電子化するつもりもない)。所蔵元の「宮内省書陵部」公式サイト内の当該書の書誌を見ると、全一巻で文政十三年刊、『一名』を『大地震録』とし、版は、『京都』の『美濃屋平兵衛』とあった。また、本文末を見ると、署名は「東鹿齋」ではなく、「東祿斎」である。

 

   【地震奇談】平安萬歲樂

比《ころ》は文政十三庚寅年、七月二日晝七ツ時、京都大地震にて、始め、「どろどろ」と、ゆり出し、其跡、引續《ひきつづき》て、大地震となり、やゝしばらく、家居、倒るゝ計《ばかり》にて、只、おもひがけなく、皆、地に伏《ふし》、疊に伏、柱を、いだき、垣を杖にするも、みな、其身の全き事のみ祈る中に、老人の出《いで》て、「大道《だいだう》へ、出《で》よ。」と罵るを聞傳へ、銘々、板を並べ、疊を敷《しき》て、皆、大道へ出《いで》けり。扨、古家、古土藏は、皆、倒れ、其外、神社佛閣・石鳥居・石燈籠、或は、築地・高塀の倒るゝ事、夥敷《おびただしく》、たとへ、丈夫の土藏なりとも、ひゞり[やぶちゃん注:「罅(ひび)に同じ。]の、入らぬは、なし。棚の諸道具、落損じ、竃《かまど》、倒れ、襖・戶・障子は、之も更《さら》也、家居《いへゐ》、たわみて、戶のしまり惡敷《あしき》は、みな、一統にて、中には、地震より、ゆがみ戾り、戶のしまり、よく有も、いとおかし[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]。其物音、天地に響き、土、ちり、宙を曇らす。其中に、只、「どろどろ」と、ゆりたえず、心もそゞろに、魂をとられ、肝を冷し、うろたへるものも有。あはて騷ぐも道理こそ。二日夜は、大道にて、夜を守らんとするに、夜氣《よき》うけん事を思ひ、板をもて、屋根となし、又、繩を引渡し、むしろを覆ひて、洛中洛外、皆、夜を明《あか》し、町々には、嚴重に高張《たかばり》[やぶちゃん注:高張り提灯。]を立《たて》、家並に「かけあんどう」を釣りて、身は、陣笠をかむり、胸當《むねあて》りゝしく[やぶちゃん注:「胸當」は火事装束の一つで、背の裂けた羽織を着用する者が用いる防災用の胸当て。火事羽織と同物同色同製で、両辺の紐に玉をつけ、帯に挟む。サイト「みんなの知識 ちょっと便利帳」の「火事装束(羽織・胸当・石帯) 茶へるへとわん無地(二つ引紋付)」の右上の写真の羽織の下の間にあるものがそれ。]、馬、挑灯をともし[やぶちゃん注:「馬提灯」では見当たらないので、読点を入れた。「馬に灯した提灯を附けて」の意でとっておく。]、近き友・親族へ、見舞に廻る事、おたがひにて、ころび寐《ね》の枕元へ、犬のはゐ來《きた》るも、いとおかし。井の水は、皆、濁れり。少々、氣のおさまれる方は、大道にて、茶をわかし、飯を物し、酒を汲《くみ》、漸《やうやう》、食物、のんどを通るといへ共、心はそゞろに、只、「どろどろ」と、ゆり、たえず。町内には、金棒・わり竹を引鳴らし、「火の用心」、觸步行《ふれありく》事、嚴敷《きびしく》、何方《いづかた》よりか、老人の來て、「まじなひ」をあたへる有《あり》。其歌に、

 ゆるぐともよもやぬけじの要石《かなめいし》

      鹿《か》しまの神のあらん限りは

と、皆、書寫して、戶口の柱、或は、大黑柱に張付、勿體なくも、天照大神宮[やぶちゃん注:伊勢神宮。]の御祓《おはらひ》を頭《かしら》に戴き、髷《まげ》に「まじなひ」の祕文をはさみ、殊に老人・病人・子供を抱《いだき》し者は、其心配、得《え》[やぶちゃん注:呼応の不可能の助詞「え」の当て字。]もいへず。中には、家におされ、倒るゝ有、又は、物に、はさまれ、塀に押《おさ》れて、なやみぬる聲、かまびすしく、くすし[やぶちゃん注:「藥師」医師。]の東西へ馳《かけ》るを聞《きく》に付け、見るに迷ひ、いと、心づかひして、其夜も、東、しらみをまち、明日《みやうにち》三日にもなりなば、些《すこし》、ゆるがん事を祈り、人の顏色、かはり、俗語に「靑い顏」と云ふらせしもむべ成哉《なるかな》。只、火用心、盜賊、隨分、心得て、油斷なく、日夜、心を配りけん。異說・浮說を言《いひ》ふらし、捕《とらへ》らるゝ者も有。中には、盜《ぬすみ》はたらく惡とう[やぶちゃん注:ママ。]は、天の罪、眼前たり。町々、家並に、水鐵砲[やぶちゃん注:小型の木製の手突きの水撒きポンプ。「三重県総合博物館」公式サイト内の「水鉄砲」で、現物画像と、延焼防止で個人用もあったが、有効性が低かったなどの詳しい記載がある。]をかまへ、屋根へ水を遣り、常に手荒き事も取《とり》あへぬをのこも、土足になり、水をくみ、はこびぬるも、いとおかし。持人《もちびと》[やぶちゃん注:裕福な者。]は、藪へ、或は、野へ、食物をはこび、老人・子供の手を引連行《ひきつれゆく》も有。三日夜も、またまた、明しぬるに、明《あけ》六ツ時[やぶちゃん注:午前六時前後。]、やゝ曇りて、雨、「はらはら」と降出《ふりいだ》しけるに、跡、一天、「空やけ」となりて、一面、黃色になり、誠に、誠に、おそろしきけしきなるを、皆人《みなひと》、取々《とりどり》沙汰しける中にも、「どろどろ」と、時をたがへず、ゆり、たえず。又、古家・古土藏の、たをれ[やぶちゃん注:ママ。]かゝるに、杖をつき、つツぱりして、とゞめたるは、夥敷《おびただしく》、餘多《あまた》有。俄《にはか》の家替へする人、あちこちに、かしましくて、四日も程なく、夜はいかなる者も、少し身の勞れ出て、只、まどろむうち、五日となり、手の舞《まひ》、足の踏《ふむ》所も、しらず。六日、七日、八日夜も、空は曇りて、雨は少しもふらず。夜八ツ時[やぶちゃん注:午前二時前後。]、七ツ時[やぶちゃん注:「曉七ツ」で午前四時頃。]、大分、つよく「どろどろ」と、ゆり來り、皆、大道へ、又、出て、取沙汰も、「是が七日七夜の、はねなるか。」と、云々《いひいひ》、咒《まじな》ひ居《を》るに、九日になりて、いまだ、「どろどろ」と、嗚りやまず。誠に前代未聞の大變にて、只、神を祈り、佛を信じ、身を愼むより、他事《たじ》なし。心得の歌に、

 雷はあたま叩《たたか》れ地しんとて

      尻つめらるゝ天のおしかり

其外、洩《もれ》たるは、後篇に出す。此草紙は、今度の大變、他國へ、文通にて、しらせる人、此小册にて、事、委敷《くはしく》相分《あひわかり》、且、又、後世まで殘し置《おき》なば、其心得にもならん事を、深く思ひ、爰に記す。

          洛住  東 鹿 齋 述

 今、廿六日に至りでも、いまだ「どろどろ」と、

 時々、ゆりやまず、おそるべし、おそるべし。

              恐怖齋主人顏色

是は、當時、大坂市中にて、寫本にて行《おこなは》れし也。いくらも、うつして、賣ける也。大阪書林河内屋茂兵衞より、おくりこしたり。此書、江戶書林へ狀中に封じ入れて、來つるもの、兩三通、見しに、みな、同文同筆なり。いとまあるものゝわざにて、いさゝか賣得《うりどく》にせしなるべし。庚寅八月六日出《しゆつ》にて、同月十四日、東、着。

此書、はじめは板にゑりて賣りしを、いく程なく、絕板せられたり。其後は又、寫本にて賣りしもの、是也。予は、この印本をも、藏《をさ》めたり。

一、土御門殿學頭小島典膳の、當時、著せし「地震考」一卷あり。藏板なれば、坊賣《ばううり》には、なし。見て、心得になること、多かり。

[やぶちゃん注:『土御門殿學頭小島典膳の、當時、著せし「地震考」一卷あり』上西 勝也氏のサイト「史跡と標石で辿る 日本の測量史」のこちらのページに、小島濤山(とうざん 宝暦一一(一七六一)年~文政一三・天保元(一八三一)年)は阿波出身で、通称を典膳・九右衛門とも。京都で暦学・算学を学び、陰陽寮の土御門家に仕えた。文化一一(一八一一)年二月に、『京都に滞在中の伊能忠敬を訪ねて』おり、また、この『文政京都地震』の際、『この機会に小島は弟子の東隴庵(とうろうあん)による口述筆記によって「大地震暦年考」を著し、地震の前兆や、余震があっても』、『すぐ後に大震は起きないとの説、また』、『地震後の社会不安による恐慌などについても述べて』おり、『このほか』、『仏教天文学を批判した「佛國暦象弁妄」の著作があ』るとあり、また、現在、『小島の墓所は京都八瀬の養福寺にあ』るが、その『墓碑には「小島濤山先生墓」とあり』、『両側面、裏面には「故司天門下都講小島君」からはじまる業績がぎっしり彫られてい』る、とあった。

「坊賣」不詳。市街の書肆では扱わない、一般には販売しない意か。]

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