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2022/12/26

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 忠を盡して殺された話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。]

 

      忠を盡して殺された話 (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 

 六百九十五年前に成《なつ》た「續古事談」卷五に、齊信《ただのぶ》民部卿、別當の時、法住寺で文行《ふみゆき》と正輔と先祖の事を論じて、正輔、盃《さかづき》を文行に抛掛《なげかけ》た。文行、太刀を拔《ぬか》んとするを、大力の人に留められ、正輔の族《うから》三人、文行を捕《とらへ》んとし、文行、庭へ跳下《おどりおり》る。文行が郞等、「吾主人は醉うて居《を》る。」と云《いふ》て、矢を弓に番《つが》ふて向ふたので、正輔の方人《かたうど》、文行を捕へ得ず、其間に、文行は馬に騎《のり》て去《さつ》たが、拘留三日で免《ゆる》さる。文行、言《いひ》ける、「坂東の猛者《まうざ》なりせば、かくは致さざらまじ、京は口惜しき所也。」と云《いひ》て、東國に下りける。其時、此助けたりし郞等を殺して鳧《けり》。『彼《か》の日の事を、東國の人に聞せじ。』となるべし。此事を、世の人、善惡は未だ定めずとぞ、と見ゆ。「續史籍集覽」の「佐藤系圖」に、文行は左衞門大夫、相模守で秀鄕の曾孫たり。「佐野松田系圖」には、文行、左衞門尉、母は鎭守府將軍利仁の女《むすめ》と有るが、利仁は文行の曾祖父秀鄕より前の人だから、誤聞だらう。

 扨、文行が身の恥を蔽《おほ》はんとて、己を助け吳《くれ》た郞等を殺したのに似た話は、十六世紀に伊太利の「トラヘッタ」女公、兼「フンジ」女伯だった美姬「ジュリア・ゴンツァガ」、年若きに夫に死に別れた時、花戸《はなや》が「戀愛花」と呼ぶ「アマランツス」(希臘語で「不凋《しほれぬ》」の意)を紋に用ひ、初《はじめ》て相見し男との愛情が一生失せざる義を表した。然るに、土耳古帝「ソリマン」二世、其無雙の美人たるを聞き、驍將《けうしやう》「バビルサ」をして、海賊を率ひ[やぶちゃん注:ママ。]、「フォンジ」を夜襲し、「ジュリア」を奪はしめた。一士有り、之を知《しり》て告《つげ》たので、「ジュリア」、襦袢裸か、跣《はだし》で騎馬して、身を全うし、遁れたが、少し後に、刺客をして、其士を殺さしめた。全く裸體を見られたるを憾《うら》んで也と云ふ(一八一一年板、「ムーショー」編「艷史話彙(ジクシヨネール・ド・ラムール)」卷三、五三頁)。予、在英の間だ、介學の友たりし「ウヰルフレッド・マーク・ウェブ」氏の「衣裝之傳歷(ゼ・ヘリテイヂ・オヴ・ドレツス)」(昨年板、二一四頁)に、十一世紀に英國の貴女が、寒夜にすら、丸裸で臥《ふし》た、と有る。伊太利は英國より遙かに暖いから、件の女公抔も常に裸で寢たんだろ。

[やぶちゃん注:読みの一部は、「新日本古典文学大系」版(以下の注でも脚注を参考にした)の「續故事談」(鎌倉初期の説話集。編者不詳。現存する最終巻の巻六末に、建保七(一二一九)年の四月二十三日のクレジットを載せるが、この年は四月十二日に承久に改元している)その他を参考に附した。国立国会図書館デジタルコレクションの『国史叢書』第十一(大正三(一九一四)年国史研究会刊)所収の当該部をリンクさせておく。

「齊信民部卿」藤原斉信(康保四(九六七)年~長元八(一〇三五)は公卿・歌人。太政大臣藤原為光の次男。「別當の時」とは「検非違使別当」で彼が同職であったのは、長保三(一〇〇一)年十二月十日から寛弘三(一〇〇六)年 六月二十八日まで。

「法住寺」(ほうじゅうじ)は京都東山にあった真言宗の寺で、永延二(九八八)年に斉信の父で太政大臣であった為光が創建したが、長元五(一〇三二)年に火災の類焼によって焼失した。現在の法住寺(グーグル・マップ・データ)は後白河上皇によって同所に建立された後身である。

「文行」(生没年不詳)は貴族。藤原北家秀郷流の鎮守府将軍藤原文脩(ふみなが)の子。かの藤原秀郷の曽孫に当たり、母は芥川龍之介の「芋粥」で知られる藤原利仁の娘であったともされるが、熊楠の言う通り、時制的に信じ難い。当該ウィキによれば、検非違使であったが、ここにある通り、寛弘三(一〇〇六)年六月十六日に藤原時平の孫であった正輔(先祖は正輔の方が遙かに上であったと「新日本古典文学大系」版脚注にある)と争ったために結果的にこの事件で職を追われ(赦(ゆ)されたとあるのは「拘留」を、である)、『藤原道長を訪ねている』。二十二日に『罪名が奏上されたという』。他に『下野守』『を歴任した』ともある。

「方人」仲間。味方。

「猛者《まうざ》」「続古事談」原本の読みを振った。

『十六世紀に伊太利の「トラヘッタ」女公、兼「フヲンジ」女伯だった美姬「ジュリア・ゴンツァガ」』ジュリア・ゴンザーガ(Giulia Gonzaga 一五一三年~一五六六年)。イタリアの名家コロンナの一人であったヴェスパシアノ・コロンナ(Vespasiano Colonna 一四八五年~一五二八年)と一五二六年、十四歳の時に結婚したが、僅か二年後に夫は亡くなり、その後、再婚しなかった。英文の彼女ウィキによれば、一五三四年八月の夜、夫の旧領で彼女の支配地であったフォンディの町(Conte di Fond:本篇の「フォンジ」)をオスマン帝国海軍提督ハイレディン・バルバロッサ(Hayreddin Barbarossa)(本篇の「バビルサ」)が急襲、彼女を誘拐し、皇帝であったスレイマン大帝(Suleiman I:本篇の『「ソリマン」二世』だが、「二世」は不審)に引き渡そうとした。バルバロッサはオスマン帝国の大宰相イブラヒム・パシャから彼女を誘拐するよう命ぜられており、パシャの計画では、彼女をスルタンのハーレムに加え、スルタンの妻であるロクセラナに取って代わらせる目論見があった。しかし、彼女は逃亡、これに不満を抱いたバルバロッサは、フォンディと近くのスペルロンガの住民を虐殺したが、近くのイトリで撃退されている。彼女は、一人の騎士を連れて、夜に逃げたが、彼女は後、脱出中にほぼ裸であったのを見られただけの理由で、その騎士を殺した、と書かれてある。

「花戸《はなや》」「選集」のルビを採用した。

『「戀愛花」と呼ぶ「アマランツス」(希臘語で「不凋《しほれぬ》」の意)』ナデシコ目ヒユ科Amaranthoideae 亜科ヒユ(アマランス)属 Amaranthus は一年草の擬似穀類。属名で通称名アマランスは、ギリシャ語の「アマラントス」、「(花が)萎れることがない」が語源。

『ウヰルフレッド・マーク・ウェブ氏の「衣裝之傳歷(ゼ・ヘリテイヂ・オヴ・ドレツス)」(昨年板、二一四頁)」』『リンネ学会』会員で博物学者であったウィルフレッド・マーク・ウェッブ(Wilfred Mark Webb 一八六八年~一九五二年:熊楠より一つ下)の‘The Heritage of Dress’(「ドレスの伝統」一九一九刊)。「Internet archive」のこちらで原本の当該部が視認出来る。彼は、「十二支考」の「鶏に関する伝説」や、南方熊楠の「平家蟹の話」(私のサイト版)にも登場する。]

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