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2022/12/14

大和怪異記 卷之六 第八 鳳來寺鬼の事

 

[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。

 正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]

 

 第八 鳳來寺(はうらいじ)鬼《おに》の事

 三河設樂郡《したらのこほり》煙巖山(《えん》がんざん)鳳來寺勝嶽院(《しよう》がく《ゐん》)の開山を利修仙人(りしゆせんにん)といひ、つねに、鬼を、つかふ。

 仙人いはく、

「汝等、かくてあらんには、人、おそるべし。それがしにさきだつて、成仏せよ。」

と、すゝめて、鬼のくびを切(きり)て、はうふり[やぶちゃん注:ママ。]しと、いひつたふ。

 元和《げんな》元年の囬祿(くわいろく)に及びしを、慶安二年、再興のとき、堂の地をならしけるに、ひとつのはこを、ほり出《いだ》し、あやしみて、ひらきみれば、よのつねの「ぬり桶(をけ)」ほどの、されかうべ、あり。

 いにしへの、「鬼のかしら」にて有(ある)べし。

 則(すなはち)、もとのごとく、埋みぬ。

 「此時、見たり。」

と、寶珠院代官庄田何がし、かたりし。

[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十八 雜叓篇」(「叓」は「事」の異体字)冒頭にある「鳳耒寺堺夜叉髑髏(ほうらいじさかひやしやどくろ)」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。同合巻「六」PDF)の56コマ目からであるが、内容がもっと詳しい記載になっているので、以下に電子化して示す。読みは一部に留めた(表記と歴史的仮名遣の誤りはママ)。所持する吉川弘文館随筆大成版を参考にしつつ、読点・記号を打った。

   *

   ○鳳耒寺堺夜叉髑髏

三州設樂郡(しだらこをり)、煙嚴山(えんかんざん)鳳耒寺の開山(かいさん)を、利修(りしゆ)仙人と申しき。常に、鬼神(きしん)を、めし仕へるとかや。ある時、仙人、鬼(き)に告(つけ)たまはく、「我、徃(ゆき)て後(のち)、汝、かくてあらんには、人々、おそれて、此山の詣(まふて)も、おのづから、やみなん。疾(と)く、我に先だちて、成佛(しやうふつ)せよ。」と、懇(ねんごろ)にすゝめさせ、則(すなはち)、手づから、鬼(をに)の首(くび)を切(きり)て、葬(ほふむ)りたまひしと也。されば、むかしの伽藍は、元和六年に回祿せしを、假堂(かありだう)にて、年、經(へ)たりし。慶安二年に、武江(ぶこう)より、御建立(このりう)ありし。惣奉行には、太田備中守殿、副司には江原与右衞門どの、甲斐庄(かひのせう)喜右衞門との、おのおの、越(こし)たまひて、扨(さて)、伽藍の地形(ちぎやう)を、つき、いとなみけるに、ゆゝしき石の凾(はこ)を、ほり出したり。披(ひらき)て見れば、さしわたし、一尺ばかりの髑髏にて、ありし。皆人(みなひと)、おどろき、あやしみけるに、寺僧のいはく、「これなん、緣起にしるす處の『鬼の首』にておはしき。」と、くはしく語りしかば、本(もと)のごとくに埋みをきし。

   *

「三河設樂郡煙巖山鳳來寺勝嶽院」現在の愛知県新城市の鳳来寺山(ほうらいじさん)の山頂(標高六百九十五メートル。但し、厳密には鳳来寺山の山頂標識から北に位置する瑠璃山と呼ばれる岩峰の標高)付近にある真言宗五智教団の煙巌山鳳来寺。本尊は開山の利修作とされる薬師如来である。寺の創建は大宝二(七〇二)年とされる。利修仙「勝嶽院」及び原本堂以外のそれより上の蓬莱寺の堂宇は近代の回禄(火災)で焼失しており、現在は勝嶽院の跡地には「勝岳不動堂」が建立されてある。「新城市産業・立地部観光課」作成になるパンフレット「プチ 仙人入門! 鳳来寺山コース」に、地図と高度表が載っており、五百三十メートル位置に「勝岳不動堂」があり、写真も添えてあって、そこには、『自分の寿命を悟った利修仙人は、お供の三匹の鬼に「共に死んで鳳来寺の守り神になる」ことを約束させました。仙人は鬼の首を本堂の下に埋めた後、ここ勝岳不動で元慶』二(八七八)年『に入寂』『されたと伝えられています』とある。

「利修仙人」やまざき にんふぇあ氏のブログ「鳳来寺を開山した謎の超人、利修仙人とは?」によれば、欽明天皇三一(五七〇)年に『山城国(京都南部)で生まれ』、『愛知県の鳳来寺山の木の祠に住み、鳳凰や龍と親しくしながら』、『修行をしていた』が、斉明天皇元(六五五)年(生年が正しいとすれば八十五歳相当)『にして百済に渡って学んだあと』、『日本へもどり、悪さをしていた』三『匹の鬼をこらしめ、従えて暮らしていた』。弘文天皇元・天武天皇元(六七二)年『には病にかかった文武天皇』(ママ。文武天皇の生年は天武天皇一二(六八三)年生まれ。天武天皇の誤りであろう。次も同じ)『から何度も祈祷依頼があったため断れず、鳳凰に乗って訪れ、祈祷によって文武天皇の病を治した。その褒美として、鳳来寺が建てられる』。『さらに』大宝三(七〇三)年『には聖武天皇の病を祈祷で治し、褒美として光明皇后から直筆の額を受け取る』(引用先にそれを掲げた仁王門の写真がある)。『この時点で』、彼は実に一三三『歳に達している』。彼は元慶二(八七八)年(清和上皇・陽成天皇の治世)に、三〇八『歳で亡くなったと伝えられている』とある、まさに「仙人」に相応しい名怪僧である。

「元和元年」一六一五年。徳川秀忠の治世。

「慶安二年」一六四九年。徳川家光の治世。「再興」は徳川家康の生母「於大の方」が当山に参籠して家康を授けられたという伝説があり、それを知った家光の家康神格化の大号令の一環。

『よのつねの「ぬり桶(をけ)」』グーグル画像検索「塗り桶」をリンクさせておく。洗面器様のものではなく、口がやや大きい縦長の桶が想起されていよう。

「寶珠院代官庄田何がし」不詳。「寶珠院」という寺は愛知県内に複数ある。蓬莱寺に最も近いのは、愛知県新城市にある宝珠院(グーグル・マップ・データ)であるが、ここは現在は臨済宗である。そもそも「寶珠院代官」という言い方自体がちょっと判らない。]

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