大和怪異記 卷之七 第十 虵をころしたゝりにあふて死る事
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここから。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]
第十 虵《へび》をころしたゝりにあふて死《しぬ》る事
出羽国、龍門寺、鎭守(ちんじゆ)の石がき、くづれしを、人、あまた、あつまり、いしを、つみかゆる所に、石の間《あひだ》より、六、七寸ばかりの虵、出《いで》しを、追《おひ》まはし、うちころしけるに、其もの共゙、たちまち、まなこ、くらみて、死ぬ。
追たるものは、五十日、六十日、わづらはざるは、なし。
その蛇は、四足ありて、顏は、繪にかける蛇形《じやけい》のごとし。其蛇、いまに傳て、江戶、慶養寺にありになむ。「犬著聞」
[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第九 崇厲篇」(「すうれい」と読む。「あがむべき貴い対象を疎かにした結果として起こる災い」の意)にある「蛇(じや)を殺して忽ち死す」である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。同合巻の55コマ目から。そちらでは、冒頭に、『出羽の国最上源五郎殿の菩提所、竜門寺(りうもんじ)の鎮守は龍にて侍るよし、古(いにしへ)より云つたへし』とあって、この蛇が龍の使いであることを匂わせるようにしてある。本篇より親切にして、重要な言い添えである。
「出羽国、龍門寺」他にヒントとなる情報がないので、「最上家 龍門寺」で検索した結果、一番多いのは山形県山形市北山形にある曹洞宗登鱗山龍門寺であった(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。最上家六代当主で羽州探題を担ったとされる最上義秋が、兄最上義春(五代当主)の菩提を弔うために建立したとされている。但し、この二人の兄弟についても、詳細によく判らないところがある。
「四足ありて」じゃあ、蛇じゃなくて、蜥蜴でしょ?
「慶養寺」台東区今戸にある曹洞宗霊亀山慶養寺。いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫の足あと」の同寺の記載に、『出羽国山形登鱗山竜門寺末』とあり、寛永二(一六二五)年、其頃は『浅草蔵前ニ在リ、何之頃カ当地ヘ引。開山良寮和尚、龍門寺』十二『代也』とあって承応二(一六五三)年、『寂ス。本堂本尊三尊釈迦弥陀弥勒、宮通弁財天』とある。]
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