大和怪異記 卷之六 第十四 鴈風呂の事
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。]
第十四 鴈風呂(がんぶろ)の事
つがるざかひに、「鳫ぶろ」といふ事、あり。
これは、每年の秋、鴈、わたるとき、くはえ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]來《きた》る木を、奧刕外濱(そとのはま)に、をとしをき[やぶちゃん注:「を」は孰れもママ。]、來春、その木を、くはえて、かへる。
其木の殘りたるを、あつめ、法樂(はうらく)に、ふろを、たく。
これは、人のためにとられし鳫(がん)のとふらひとぞ。同
[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第六 勝蹟篇」にある「奥州外濱鴈風呂由(おふしうそとがはまがんふろゆ)」(歴史的仮名遣はママ)である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。ここの合巻「二」の71コマ目から。そこでは、大きな違いがあり、本篇の「法樂」(仏の教えを修めて自ら楽しむこと、又は、供養をして神仏を楽しませること)が「法藥」(仏法を衆生の苦患を救う妙薬に喩えていう語。「教え」という「薬」)となっている。入湯を亡くなった雁の供養の施餓鬼に擬え、それが身を精進するという意でとれる「法藥」の方が、断然、いい。
「雁風呂」当該ウィキを引く。『青森県津軽地方に伝わるとされた風習の一つ。また、それにまつわる伝説。雁供養ともいう』。『青森県には「雁風呂」「雁供養」という伝説が伝わるとされていた』。『月の夜、雁は木の枝を口に咥えて北国から渡ってきて、飛び疲れると波間に枝を浮かべ、その上に停まって羽根を休める。そうやって津軽の浜までたどり着くと、要らなくなった枝を浜辺に落とす。日本で冬を過ごした雁は早春の頃、浜の枝を拾って北国に戻って行く。雁が去ったあとの浜辺には、生きて帰れなかった雁の数だけ枝が残っている。浜の人たちは、その枝を集めて風呂を焚き、不運な雁たちの供養をしたという』。『木片を落とす場所は、函館の一つ松付近という説と』、『津軽の海岸という説が見受けられる。該当する地方に雁風呂の風習がいつ頃からあったのか、そもそもそういった風習が存在したのかという疑問の声もある』。二〇一二『年、青森県立図書館の調査により、上記の伝説は』、一九七四『年の』「サントリー」の『テレビCMで広まったものであり、青森県内で伝承されたものではないと判明した』。『また、伝説の基となった物語は四時堂其諺』(しじどう きげん 寛文六(一六六六)年~元文元(一七三六)年:僧で俳人。京都安養寺正阿弥の住職。俳諧は宮川松堅の門人で「貞徳三世」を称した。享保頃に京都俳壇で重きをなした)の「滑稽雑談」(こっけいぞうだん:正徳三(一七一三)年成立)の巻十六に『収められているが、日本ではなく』、『他国の島での話として収められた物語と判明した』とある。私も高校時代、このCMに心打たれた一人である。――しかし、本当にそうだろうか? 本「大和怪異記」は宝永五 (一七〇八)年の序を持ち、明かにここに示された「滑稽雑談」よりも前であり、しかも原拠は遡る「犬著聞集」(貞享元(一六八四)年成稿・元禄九(一六九六)年板行)である。このウィキの、というか、青森県立図書館の調査に対し、激しく物申すものである!!!
「奧刕外濱」現行では「そとがはま」の読みが普通。平凡社「世界大百科事典」によれば、『青森県東津軽郡と青森市にかけての汎称』で「詩経」の「小雅」の『率土浜(そつとのひん)』(辺境の意)より『つけられた地名という。西行法師』の「陸奥の奥ゆかしくぞ思ほゆる壺の碑(いしぶみ)そとの濱風」(「山家集」)は『その意である。外ヶ浜には善知鳥(うとう)という鳥が住むという。外ヶ浜に流謫されて没した烏頭中納言安方の化身で』、『親が〈うとう〉と呼ぶと』、『子が〈やすかた〉と答えるとされる。謡曲』「善知鳥」は『この伝説に材を採る』とある。この広域附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。なお、現在の地名としては、津軽半島に青森県東津軽郡外ヶ浜町(そとがはままち)がある。]
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