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« 『明治大正文學全集 萩原朔太郞篇』萩原朔太郞自註 | トップページ | 曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「麻布大番町奇談」 »

2022/12/12

曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「文政十三年雜說幷狂詩二編」

 

[やぶちゃん注:「兎園小説拾遺」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」・「兎園小説余禄」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちら(左ページ上段二行目)から載る正字正仮名版を用いる。

 本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。

 馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。

 以下は、所謂、「シーボルト事件」ドイツ人医師フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold 一七九六年~一八六六年:標準ドイツ語での発音を転写する「ズィーボルト」「ジーボルト」。彼は自らオランダ人と偽って入国している)の国外追放事件を扱っている。小学館「日本大百科全書」によれば、文政一一(一八二八)年九月、オランダ商館付医官シーボルトが任期を終えて帰国しようとした際に、たまたま起こった暴風雨のために乗船が難破し、積み荷が調べられた。そのオランダへ持ち帰る荷物のうちに、伊能忠敬作成の日本地図など、多くの禁制品のあることが発覚し、事件が起こった。取調べは江戸と長崎で行われ、長引き、シーボルトは凡そ一年間、出島に拘禁され、翌年九月二十五日(グレゴリオ暦十月二十二日)、「日本御構(おかまへ)」(追放)の判決を受け、同年十二月、日本より追放された。この事件に連座した日本人は、江戸では書物奉行兼天文方高橋作左衛門景保(入牢となって吟味中に病死)、奥医師土生玄碩(はぶげんせき:家禄及び屋敷没収)、長崎屋源右衛門など。長崎では門人の二宮敬作、高良斎(こうりょうさい)、出島絵師川原登与助(とよすけ:川原慶賀(けいが))を始め、通詞(つうじ)の馬場為八郎・吉雄(よしお)忠次郎・稲部市五郎・堀儀左衛門・末永甚左衛門・岩瀬弥右衛門・同弥七郎から、召使いに至るまで、実に五十数人の多数に上った、とある。本書では、サイド・ストーリーとして、先行する京都大地震に関わる記事「風怪狀」で、高橋景保の本件での処罰がちらりと出たところで注している。ウィキの「シーボルト事件」が、より詳しい。また、大船住人(おおふなすみと)氏のサイト「大船庵」の「シーボルト事件関係者判決文(文政13年)」(原文は内閣文庫の「文政雑記」からの翻刻で、右に現代語訳が載る)が載り、読解の大いなる助けになる。]

 

   ○文政十三年雜說、幷《ならびに》、狂詩二編

申渡之覺。

        御書物奉行天文方兼帶

              高橋作左衞門

地誌・蘭書、和解等の御用相勤罷在候に付、御用立候書籍取出差上候はゞ、御爲筋《おんためのすぢ》にも可相成と、兼て心掛の由に申立候得共、去る戌年[やぶちゃん注:二年前の文政十一年。]、江戶參府の阿蘭陀人、外科シーボルト儀、魯西亞人著述の書籍、阿蘭陀屬國の新圖、所持いたし候趣、通詞吉雄忠次郞より承り及、右書類、手に入、和解致、差上度《さしあげたき》一圖に存込《ぞんじこみ》、懇望致し候得ども、容易に不手放候間、忍び候て、度々、旅宿に罷越、懇意を結び候上、右書籍、交易の儀、申談候處、シーボルト儀、「日本、幷、蝦夷地の宜《よろし》き圖、有ㇾ之候はゞ、取替可ㇾ申。」旨、申聞、右地圖、異國へ相渡候儀は、御制禁に可ㇾ有ㇾ之哉《や》とは存候得共、右に拘《かかは》り、珍書、取失ひ候も殘念に存、下河邊林右衞門《しもかはべ りんゑもん》に申付、先年、御用仕立候、測量の日本、幷、蝦夷地圖地名等、差圖いたし、新規に仕立《したて》させ、度々、差送り、右書籍、貰請《もらひうけ》、幷、「東韃紀行」、「北夷紀行」、九州小倉・下の關邊《あたり》の測量切繪圖等、貸遣《かしつかは》し、其後、シーボルトより、「日本圖、蝦夷、幷、カラフト、クナシリより、ヱトロフ、ウルツプ邊迄、引續《ひきつづき》候縮圖、仕立吳《したてくれ》候。」樣、申越候に付、指贈候心得《さしおくりさふらふこころえ》にて、是又、林右衞門に申付、仕立出來《しゆつらい》致し候得ども、『望《のぞみ》の書類、手に入候上は、最早、差遣候に不ㇾ及儀。』と、追《おつ》て心付《こころづき》、右繪圖は不差贈候處、右の次第、及露顯、御詮議の上、シーボルト、歸國不ㇾ致内、地圖其他共、取上候得共、右體《みぎてい》不容易品《やういならざるしな》、阿蘭陀へ相渡、重き御國禁を冒《おかし》候段、不屆の至《いたり》、剩《あまつさへ》、平日、役所御入用筋の儀、假令《たとひ》、私慾は無ㇾ之共《これ、なけれども》、勝手向入用《かつてむき、いりよう》に打込《うちこみ》、遣拂《つかひはらひ》、紛敷取計《まぎらはしきとりはからひ》、其上、身持不愼《みもちふしん》の儀も有ㇾ之、旁以《かたはらもつて》、御旗本の身分に有ㇾ之間敷《これ、あるまじき》儀、重々不屆の至に付、存命に候得ば、死罪被仰付者也。

  三月

[やぶちゃん注:「魯西亞人著述の書籍」冒頭注で紹介した大船氏の注に、『ロシアの提督クルーゼンシュテルンの世界周航地誌』とある。

「吉雄忠次郎」(天明七(一七八七)年~天保四(一八三三)年)は、まめ@よねざわ氏のブログ「米沢の歴史を見える化」の「長崎のオランダ通詞 吉雄忠次郎」の『米沢市史編集資料―米沢人国記』第十号から引用された松野良寅氏の記事によれば、『名は永慮』とある。但し、講談社「デジタル版 日本人名大辞典」では永宣。『高橋景保とシーボルトの仲介役を果たした吉雄忠次郎も捕えられ、天保元年(一八三〇)閏三月二十五日に審判が終るとともに江戸町奉行に引渡され、四月六日長崎をたった。五月二十五日江戸に着いた忠次郎は、永禁を申し渡され、米沢新田上杉佐渡守勝義にお預けとなり、流人の取扱いを受けた』。『米沢に流された忠次郎は、代官小島次左衛門の蔵役人渋谷安太郎(鉄砲屋町)の座敷牢に入れられ、次いで福田町の上村家に、さらに山上通町の石坂家に移され、天保四年二月二十九日、この石坂広次宅で死亡した』とあり、以下には、流人としての扱いの厳しい掟(特に自殺防止のそれが凄い)も記されてある。一読されたい。

「旅宿」同じく大船氏の注に、『江戸の長崎屋』のことで、『オランダ商館長が四年毎に参府した時の定宿』とあり、別な注の『長崎屋源右衛門』には、『高橋景保が内密にシーボルトと会っている事や、シーボルトの治療を受けるため』、『多くの人々が宿に来ることを放置した廉で』、『五十日の手鎖(手を合わせて瓢型の鉄製手錠をかける)を言渡された』とある。

「東韃紀行」(とうだつきかう)は「東韃地方紀行」で間宮林蔵の旅行記。全三巻。文化五(一八〇八)年から翌年に亙る樺太(サハリン)・黒竜江(アムール川)下流デレンに至る踏査を、師の村上島之丞の養子村上貞助に口述を筆記させたもの。文化七(一八一〇)年に完成した。シーボルトは後、その著「日本」(‘Nippon’)にこれを訳述してヨーロッパに紹介している。

「北夷紀行」は「北夷分界餘話」で同じく間宮林蔵が「東韃地方紀行」とともに仕上げた旅行記。樺太探検についてパートを口述したもの。

「下河邊林右衞門」作左衛門の部下であった暦作測量御用手伝出役。大船氏の記事に彼の処分申渡書によれば、『中追放(ちゆうついはう)』の処罰を受けている。江戸時代の追放刑の一つで、重追放と軽追放の中間のもの。罪人の田畑・家屋敷を没収し、犯罪地・住居地及び武蔵・山城・摂津・和泉・大和・肥前・東海道筋・木曽路筋・下野・甲斐・駿河に入ることを禁じ、又は、江戸十里四方外に追放された。

「身持不愼の儀」大船氏の注に、『次の下川辺判決文にあるように部下の娘を妾同様に使った事か?』とある。当該部は(一部の漢字を正字化した)、『殊ニ娘迄作左衞門義妾同樣召仕候義者乍察、彼是申候ハハ勤向差障ニ可相成と存候迚、不存分ニ致置』いたことらしい。

「旁以」如何なる見地からみても。

「存命に候得ば、死罪被仰付者也」この申し渡しは文政十三年三月のものであるが、高橋景保は文政十二年二月十六日(一八二九年三月二〇日)に伝馬町牢屋敷で獄死している。国禁を冒して極秘文書を漏洩したのであるが、高橋が幕閣の中でも実務上、相応の実績を成していた人物であったことと、連座する者が異様に膨れ上がっていたことから、申し渡しが遅れたものかと思われる。高橋の遺体の扱われ方の酸鼻を越えるそれは、後にも出るが、「風怪狀」で既に注した。]

申渡之覺。

              高 橋 小 太 郞

其方儀、父作左衞門、去る戊年、江戶參府の阿蘭陀人、異國の珍書、繪圖等、所持いたし候趣及ㇾ承、右書類、手に入、和解いたし差上候はゞ、御用に可ㇾ立所と存込《ぞんじこみ》、懇望の餘り、彼之者、望に從ひ、御制禁の儀と乍心付、日本、幷、蝦夷地測量の圖、其他、品々、相贈、右書類、貰請候段、重き御國禁を冒し、不屆の至、剩、役所御入用筋の儀、假令、私慾無ㇾ之共、勝手向入用と打込、遣拂候段、紛敷取計、殊に身持不愼の儀ども有ㇾ之、其方儀は「何事も不ㇾ存。」旨申立候得共、作左衞門、右體、不屆之始末にも不心付、殊に身持等の儀は、父の儀に候共、心付、異見をも可ㇾ申處、無其儀、畢竟、等閑《なほざり》の心得方、不埒の至に付、作左衞門、存命に候得ば、死罪被仰付ものに付、其方儀、遠島被仰付もの也。

  三月

[やぶちゃん注:「高橋小太郞」景保の長男。先の引用の松野良寅氏の記事では『景僕』とある(読み不詳)。年齢不詳。父の種々の行為を「全く知らなかった」と述べており、さらに父の不行跡一般に対して異見をしなかったことを咎められているからには、既に成年であったのであろう。]

          高橋作左衞門二男

              高 橋 作 次 郞

父作左衞門、不屆の所行有ㇾ之に付、存命に候得ば、死罪被仰付ものに付、其方儀、遠島被申付者也。

  三月

[やぶちゃん注:同じく先の引用の松野氏の記事では『景福』とある(読み不詳。「かげよし」「かげとみ」か)。年齢不詳。]

私曰《わたくしにいふ》、高橋作左衞門、文政十一年子十月十日に被召出御詮議の上、あがり屋え、被ㇾ遣候處、御詮議中、去丑年、牢死いたし候間、死骸は鹽詰に、いたしおかれ、當寅三月、右一件、落着。文政十三庚寅年三月也。

長崎通辯吉雄忠次郞、何がし爲八、外一人【姓名、忘却。】、右三人は、一人づゝ、大名え、御預け、遠島同樣の心得にて、嚴敷押籠置《きぎしくおしこめおき》候樣被仰付候由。

奧御醫師土生玄碩は、右におなじ筋の御咎ながら、高橋一件には、あらず。是は、以前に落着、改易になりし由也。吉雄忠次郞以下の被仰渡《おほせわたさる》の寫し、未ㇾ見ㇾ之。傳聞のまゝ、識ㇾ之《これをしるす》。阿蘭陀人シーボルト儀は、高橋作左衞門、幷に、土生玄碩より、交易の地圖、幷、御時服等、御取上げ、御詮議中、於長崎入牢、其後、赦免、歸國。

[やぶちゃん注:「何がし爲八、外一人」孰れも不詳。大船氏の下川辺林右衛門の申し渡しの下方の注の『その他の関連処分者』に『馬場為三郎、吉雄忠次郎、堀義左衛門、稲部市五郎はオランダ通詞で高橋―シーボルトの仲介をした旨で年番通詞へ預け』とはあった。

「土生玄碩」(宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年)は眼科医。安芸国高田郡吉田(現在の広島県吉田町)の医家土生義辰の長男。土生家は、代々、この地で眼科を開業していた。名は義寿。初めは医名を玄道と称し、後に玄碩と改名した。安永七(一七七八)年、大坂の「楢林塾」に入り、さらに京都の和田東郭に学んで、帰郷。家伝の漢方眼科に飽き足らず、再び大坂に出て、三井元孺・高充国などに就いて、新知識を受け、特に眼科手術を修得し、帰郷・開業した。享和三(一八〇三)年には広島藩藩医となり、江戸にあった藩主の六女教姫の眼病を治療して名声を挙げ、そのまま江戸にとどまり、眼科の名医を以って世に知られた。文化七(一八一〇)年、江戸幕府奥医師、同十三年、法眼(ほうげん)に叙せられる。光学的虹彩切除術の前駆とみられる仮瞳孔術を考案し、蘭館医シーボルトから散瞳薬の伝授を受けてもいるが、その謝礼として、当時、国禁の品であった将軍家紋服を贈与したことが発覚(シーボルト事件連座)、改易・財産没収、終身禁固刑となったが、天保八(一八三七)年には禁固を解かれて、江戸深川に隠居した。遺著に門弟が師説を集録した「迎翠堂漫録」・「師談録」などがある(以上は朝日新聞出版「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

一、己丑[やぶちゃん注:文政十二年。]の春、新板、十遍舍一九作の草雙紙、「神風和國の功し《じんぷうやまとのいさをし》」、二册物、蒙古入寇の事を作るといへども、高橋作左衞門を諷《ふう》して、素襖《すあを》着たる武者の畫に、劍かたばみを七曜の劍にしたれば、「いかゞ敷《しき》」由にて、同年の春二月中、草紙類、改《あらためて》、名主より、相達《あひたつ》して、絕板せられ畢《をはんぬ》。此板元は、地本問屋岩戶屋喜三郞也。但し、板元作者等、御咎、なし。

[やぶちゃん注:加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「筆禍『神風倭国功』(ひっか じんぷうやまとのいさおし)」に、以上の記載が引かれ、本合巻物は『それを踏まえたものとされたのであろう。剣片喰(ケンカタバミ)は高橋景時の家紋、七曜は北斗七星だから、これで天文方の高橋景時を擬えたものと、改名主たちは判断したのであろうか』とあった。元合巻が読めないので、これ以上は注のしようがない。

 以上の戯詩は、底本では、ベタで各句末に読点を打って続いているが、一段で、かく示した。]

   一、今般一件無題    疎 漏 仙

萬蕪繫獄鳴牙齕(はかみ)

家探尋出隱密文

出役殺置掠手當

女房辭退陷瑕瑾

妻妾同伴鯨音閣

時賄珊瑚本國裙

誘引歷々不知數

就中軍扇與輿紋

此事無是非只矣

大金齎取酒日醮

全盛奢侈人犢鼻

貞女蕩馴奇茱薰

吉利志丹婆天連

欝々朦々意遂曛

可有宗門嚴法度

茫然次第成暗雲

紀行爲囮占逸物

萬里歸帆驕功勳

飛脚書狀次第走

縮圖風說隔年間

元是淺心楚忽至

不思罪科謀反筋

縱使當人醢骨肉

先刻銅鏤奈配分

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

右戊子[やぶちゃん注:文政十一年。]冬日、或人に借抄す。萬蕪は高作の別號。鯨音閣は本町長崎屋の堂號也といふ。按ずるに、右の長篇脫句あり。別に寫し置たるを失ひたれば、異日、尋出たらんとき、補ふべし。 

[やぶちゃん注: 「牙齕」へのルビ「はかみ」以外の読みはない。訓読を自然流で試みるが、これ、意味の分からないところは多過ぎる。読みは胡麻化しているので、判って読んでいるわけではなく、スーダラ無責任似非訓読と心得られたい。どなたか、適切な訓読を御教授あれかし。因みに、馬琴オ附記の「高作」は高橋作左衛門の号というのだが、辞書では彼の号は「蛮蕪(ばんぶ)」または「観巣(かんそう)」とある。或いは原本活字本の「蠻」の字の誤読かも知れぬし、巧妙にズラシを入れたものか。

「疎漏仙」不詳。

   *

萬蕪(ばんぶ) 獄に繫がれ 牙齕(はがみ)を鳴らす

家 探尋(たんじん)すれば 隱密(おんみつ)の文(ふみ) 出づ

出役(しゆつやく) 殺し置かれ 手當を掠(うば)はる

女房 辭退して 瑕瑾(かきん)に陷(おちい)り

妻妾(さいしやう) 同伴して 鯨音閣(げいおんかく)

時に 珊瑚を賄ふ 本國の裙(もすそ:をんな)に

誘引 歷々として 數知れず

就中(なかんづく) 軍扇 輿(こし)の紋を與へり

此の事 是非無きのみ

大金 齎されて 酒を取る日は 醮(しやう)たり

全盛の奢侈(しやし)は 人の犢鼻(とくび:ふんどし)

貞女 蕩馴(たうじゆん)して 奇(く)しき茱(ぐみ) 薰る

吉利志丹(きりしたん) 婆天連(ばてれん)

欝々 朦々 意 遂に曛(たそがれ)

宗門に有るべきは 嚴しき法度(はつと)なるも

茫然とっして 次第に暗雲と成れり

紀行 囮(おとり)と爲(な)して 逸物(いつぶつ)を占(しめ)んとし

萬里 歸帆 功勳に驕り

飛脚 書狀 次第に走る

縮圖 風說 年を隔つる間(あひだ)

元 是れ 淺心にして 楚(すはえ) 忽ちに至る

思はざる罪科 謀反(ばうはん)の筋(すぢ)

縱(たと)ひ 當人をして 醢(ひしほ)の骨肉(こつにく)とせしむも

先刻の銅鏤(どうる) 奈(なん)ぞ配分せんや

   *

「醮」中国古代の天神に対する祭祀や饗食のことか。ウィキの「醮」によれば、それらの神は多く星辰を、その居所とすると考えられたため、醮は必然的に星辰を祀り、これに酒肴を供えた。本来の醮は、婚儀や加冠に際して行われた儀礼で、祖廟に於いて、酒と脯・を用いて行われたとあるから、塩漬にされた高橋のそれに引っ掛けたものかと私は思った。よう判りません。

 以下の判じ物式の戯詩の図示は、当初、底本(改頁で分離してしまっている)を参考に、全くの活字のタイピングで、そのまま電子化しようとしたのだが、横軸罫線や「初」「終」の縮小文字を入れると、どうしてもブラウザ上のズレが生じてしまい、到底、綺麗に全体を示すことが不可能であるあることが判った。しかし、本画像は、『インターネット公開(裁定)著作権法第67条第1項により文化庁長官裁定を受けて公開』となっており、その部分をトリミングして合成し、字や罫線の一部のスレやズレをソフトで加工して、一応、作成しては見たものの、調べてみると、文化庁裁定の活字化された一部の場合は、著作権法上の抵触する可能性があるため、それはやめて(著作権の問題とは別に、原本がやや古いため、総てのスレやズレの補正が完全には出来なかったことが最大の不満であった)、仕切り直し、★底本の文字と罫線を、ワードで適切な大きさの罫線も特に選び、タイピングして電子化し、それを縦書に変更したものを、スクリー・ショットで画像として取り入れ、さらにそれを画像ソフトで細かく加工処理するという、かなり迂遠な作業を行って、以下に掲げた。個人的には、著作権に全く触れることなく、しかも見栄えも原画像より遙かによく、正直、『かなり左右に長めかな? って思いはするが(Wordでいろいろ試みたが、行間を見かけ上で狭めることが何故か出来なかった)、かなり、いい線、いってるぜ!』と自負している。にしても、こうした言葉遊びの場合、指示線を無視して普通に右から読んでも、意味がとれてこそ、真の戯詩と言えるのだが、どうもそこまで凝って作ってはいないらしい。

 


Kaibousitategaki

 

 右、流行野馬臺詩。

 小川町評判、土浦侯、馬に蹴られし事也。雲峰婆婆、古狸に喰る、右記事一篇有錄下

右庚寅秋八月、ある人に借抄す。

右、讀則《どくそくす》。

[やぶちゃん注:「野馬臺詩」(やばたいし/やまたいし)は平安から室町に掛けて流行した予言めいた怪しげな詩の総称。梁の予言者宝誌和尚の作とされるが、偽書の可能性が高い。日本で作られたものとされるが、中国が元とする説もある(当該ウィキを参照した)。これはそれを真似たパロディ漢詩。

 以下は三段組みで、各句に読点が打たれてあるが、読点を除去し、一段で示した。この「讀則」とは、その記号の規「則」に従って「讀」み直した、という意であろう。以下、漢詩の前後を一行空けた。]

 

通人小紋薄羽織

薩布太布藤組笠

貂皮再來亦責寺

此節和尙必至愼

當年御祭存外好

牧狩水滸松木踊

四人生捕大力士

馬蹄小川町評判

逃出被叱寄合咄

本所狼煙々裏苦

高松六尺成三尺

亡目高利爲闇打

惡口別當殺玄關

小婦悞倉千兩箱

雲峰婆々古狸喰

雨止殘暑世上穩

日日日暮御咄之聲

 

[やぶちゃん注:同前の仕儀で訓読を試みる。やはり、全くヒントがないので訳和布(わけわかめ)である。「雲峰婆婆、古狸に喰る、右記事一篇有錄下」のみは、次の条「麻布大番町奇談」で語られるので、そちらを電子化するまでお待ちあれ。

   *

通人の小紋 薄羽織(うすばおり)

薩布(さつふ) 太布(たふ) 藤組笠(ふぢくみがさ)

貂(てん)の皮 再び來つて 亦 寺を責む

此の節 和尙 必ず 至つて愼み

當年 御祭 存外 好(よろ)し

牧狩り 水滸 松木踊り

四人 生け捕り 大力士

馬蹄 小川町 評判たり

逃げ出でて 叱られ 寄合咄(よりあひばなし)

本所の狼煙(のろし)の煙の裏 苦しく

高松 六尺 三尺と成る

亡目(めくら)の高利 闇打(やみうち)に爲(な)し

惡口(あつこう) 別當 玄關に殺さる

小婦 倉(くら)を悞(たが)へて 千兩箱

雲峰の婆々 古狸に喰(く)はる

雨 止みて 殘暑 世上 穩かなり

日日(ひび) 日暮(ひぐれ) 御咄(おはなし)の聲

   *

「薩布」「宮古上布」や「八重山上布」を江戸以前は、かく呼称した。薩政時代まで、宮古諸島と八重山諸島は実際には薩摩の支配下にあり、琉球の織物は、総て、薩摩を経由したことによる。苧麻(ちょま:イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ(苧)Boehmeria nivea var. nipononivea のこと。しつこい雑草として嫌われるが、茎の皮からは衣類・紙・漁網にまで利用できる丈夫な靭皮繊維が取れることから、古くから利用されてきた身近な植物であった。「紵(お)」「苧(ちょ)」「青苧(あおそ)」「山紵(やまお)」「真麻(まお)」など、異名が多い。ここはウィキの「カラムシ」に拠った)。)を手紡ぎにして、細密に織り上げた上質の麻布である(以上は「創美苑」公式サイト内の「きもの用語大全」の「薩摩上布」に拠った)。

「太布」徳島県南西部の山間部に位置する那賀町(旧木頭村(きとうそん)。現在の徳島県那賀郡那賀町木頭。グーグル・マップ・データ)に伝承されてきた、コウゾ(楮:クワ科コウゾ属コウゾ雑種コウゾ Broussonetia kazinoki × Broussonetia papyrifera 。ヒメコウゾ(学名前者)とカジノキ(同後者)の雑種)の樹皮から繊維を採って製した目の粗い布で、「阿波の太布」と呼ばれたそれであろう。太布は古代から織られた堅牢な布で、徳島県では、剱山麓の祖谷地方や旧木頭村が主な産地で、以上の名で古くから知られてきた。その用途は、仕事着を始め、穀物や弁当などを入れる袋・畳の縁などで、丈夫で長期の使用に耐え得る実用衣料として使用されてきた(以上の本文部はサイト「文化遺産オンライン」の「阿波の太布製造技術」に拠った)。

「藤組笠」藤(フジ)のつるを編んで作った笠。単に「藤笠」とも呼ぶ。元文(一七三六年~一七四一年)頃に流行し、若年の武士・医師・僧侶などが多く用いられたという。

「貂の皮 再び來つて 亦 寺を責む」意味不明。

「牧狩り」「水滸」源頼朝の富士の牧狩(曾我兄弟仇討ち)や「水滸伝」を入れ込んだ祭りの出し物か。

「松木踊り」大館市松木(グーグル・マップ・データ)に伝わる享保二〇(一七三五)年に始まったされる「大関東流唐獅子踊(だいかんとうりゅうからじしおど)り」の流れを組む獅子舞いのそれか。「秋田民俗芸能アーカイブズ」こちらで動画も見られる。解説に『この獅子踊りは佐竹藩主の前でも披露できる格式の高いものであったともいわれた』とある。

「四人 生け捕り 大力士」これが「シーボルト事件」のチャチャか? 大船氏の記事の下川辺林右衛門の判決に注があり、『川口源次外四人:吉川克蔵、門谷清次郎、永井甚左衛門、岡田東輔。何れも景保配下地図作成チームで同心クラス。シーボルトに渡すべき地図を製作した廉で川口、吉川、門谷の三人は江戸十里四方追放(日本橋から四方五里以内の居住を禁じられる)、永井は江戸払(品川、板橋、千住、本所、深川、四谷大木戸以内の居住を禁じられる)、岡田は自殺』とあることからの思いつきに過ぎない。

「馬蹄 小川町 評判たり」馬琴が「小川町評判、土浦侯、馬に蹴られし事也」と書いている一件だが、不詳。文政十三年当時の藩主は土屋彦直である。

「逃げ出でて 叱られ 寄合咄」これは、加藤好夫氏のサイト「浮世絵文献資料館」の「筆禍『神風倭国功』」の方の話のチャチャか。

「本所の狼煙の煙の裏 苦しく」「高松 六尺 三尺と成る」「亡目(めくら)の高利 闇打(やみうち)に爲(な)し」「惡口(あつこう) 別當 玄關に殺さる」「小婦 倉(くら)を悞(たが)へて 千兩箱」総て不詳。何かの奇聞・巷説・事件をもとにしたものとは思われるが、私には判らない。というより、この詩全体が、古今東西の似非占い師の朧な意味深にして阿呆臭いそれと酷似しており、コジツケれば、何でも関係があるかのように読めるだけの話かも知れぬ。何かピッタリくるものがあるとなら、識者の御教授を乞うものである。]

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