大和怪異記 卷之六 第三 病中にたましゐ寺に參る事
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。
標題及び本文中の「たましゐ」はママ。]
第三 病中にたましゐ寺に參る事
むさしの国熊谷邊《へん》、上吉見村、龍海院の旦那、喜兵衞といふもの、永々(ながなが)、わづらひしかば、寺より、折々、見まひに、人をつかはしけるに、ある日、雨、ふりしとき、笠、うちきて、寺に來り、佛前を拜してかへるを、住持、みつけて、よびかへし、
「そこには、氣色(きしよく)よくて、めでたし。ちやを、のみて、歸られよ。」
といふに、三ぶくまで、のみて、かへれり。
跡より、住持、其よろこびに使(つかひ)をつかはしければ、
「喜兵衞は、かぎりになり、時《とき》を、まち侍る。」
と、いひこしける。
「さては。たましゐの、さき立(だち)て來れる成(なる)べし。」
と、あはれに思ひし、つぎの日、死しけるとなり。「犬著聞」
[やぶちゃん注:典拠「犬著聞集」は既に先行するこちらで注済み。本書の最大のネタ元。「犬著聞集」原拠だが、これは、幸いにして、後代の再編集版である神谷養勇軒編の「新著聞集」に所収する。「第十三 往生篇」にある「生䰟(せいこん)寺に詣づ」(「䰟」は「魂」の異体字)である。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の寛延二(一七四九)年刊の後刷版をリンクさせておく。そちらでは「喜兵衞」は「坂田」姓であり、茶は全く飲んでいない。「犬著聞集」の原形が本篇と思われる。なお、この手の話は、本邦では全国的に古くからよく知られるところの、終命近き時に至り、檀那寺に生霊となって御礼参りに来たとする定番にしてしみじみとした怪奇談の典型である。私の電子化注『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「臨死の病人の魂寺に行く話」』(以上はブログ横書版。他に同一内容のサイトの読み易いPDF縦書ルビ版もある)を参照されたい。熊楠は、『臨死人の魂が寺に往く話は西洋にも多』く見られるとするが、私はキリスト教会の神父や牧師に暇乞いをしに来る生霊の話というのは、不学にして、聴いたことがない。いや、本邦では、寺の住職へではなく、親しい知人の元に暇乞いに現われるケースも古くより甚だ多い。近代の実話怪談の一つに、中には、老人の生霊が、夕刻、あくがれ出でて、外出・彷徨し、とある他家の垣根に立小便をし、それを知人が見つけ、しかし、場合が場合だから、声をかけずに黙って通り過ぎたが、「外に出られるほどになったのか。」と喜び、後日、その知人が快気祝いに訪ねると、寝たままで起きることは出来ないありさまであったため、「以前に私が見たのは見間違いでした。」と述べるや、「いやいや、お恥ずかしいところ見られたわい。」と恐縮して笑ったという、上手く出来たヴァリエーションもあるのである。西洋の生霊には、こうした大らかさは認められるケースは、まず、ないように思われる。今の外国の心霊映像なるもの(私はYouTube の複数のサイトのそれらを定期的に物理的科学的に検証するのが趣味なのだが)の半数以上が、実は、やらせ臭さ満載の「ポルターガイスト」であるのだが、それを「賑やかでいい」などという輩は一人もいないし、そもそも生霊という概念は、個人的には、キリスト教には頗る馴染まないもののように思われ、そうした生体からの幽体離脱というのは、寧ろ、実はキリスト教とは、全然、次元を異にした、中世以降の心霊学上の現象の中で盛んに言上げされ、所謂、怪しげな心霊写真でも、本邦で『専門家によると、性質(たち)の悪い生霊』などと脅しをかけるのと同じような、糞まがまがしいものとして扱われる傾向があるように思うのである。私は日本のこの「しみじみとしたお礼参りする生霊」をこそ、日本の文化的な怪談のオリジナリティとして大事にしたいと思うのである。
「上吉見村」「吉見百穴」で知られる現在の埼玉県比企郡吉見町(よしみまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)の北部分か。戦前の地図を「今昔マップ」で見ると、現在の吉身町の北部分に「北吉見村」があり、その北部分の荒川右岸の「上砂(かみづな)」がある。現在もここに同地名が残る。この附近と同定してよいだろう。]
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