只野真葛 むかしばなし (57)
一、羽倉東倉(はくらとうざう)といひし人、大嶋織部樣といひし旗本の物見を借(かり)て居《をり》たりし【富十郞、來りし時、「藥取。」と云しは此大嶋なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。哥よみのお民が弟、眞淵が師の子なり。半左衞門とおなじ並び、尾張樣をむかふに見ている所なりし。坂東三津五郞、細物見世を出し、はじめて色摺(いろずり)の「のしつゝみ」紙を工夫して出せしに、
「何ぞ似つかはしき名を付(つけ)くれ。」
と、此東倉に賴しに、「さくら形御のしつゝみ」と書(かき)て遣(つかは)しとぞ。其頃は、世に古事《ふるごと》のひらけぬ時で、ヲランダばかり、はやる故、
『さらさ形の書(かき)そこない[やぶちゃん注:ママ。]。』
と誰(たれ)も思(おもひ)て有(あり)し。お民も、上の間(ま)にすみて居しが、ワ、子分の時分、「古今」のよみくせを、直してもらいに行(ゆき)て有(あり)し。
[やぶちゃん注:「羽倉東倉」「日本庶民生活史料集成」では、『羽倉東藏』とあり、中山英子氏の注に、『荷田東満の子、御風と号す』とある。荷田東満(かだのあずままろ)は知られた国学者荷田春満(寛文九(一六六九)年~元文元(一七三六)年)の名の別自称表記。息子荷田御風(かだののりかぜ 享保一三(一七二八)年~天明四(一七八四)年)は京都生まれだが、家学の国学を江戸で教えた。講談社「デジタル版日本人名大辞典+」によれば、禄をうけることを欲せず、豊後岡藩から賓客として迎えられるに留まった。初名は冬満で、東蔵は通称。
「物見」物見櫓。
「哥よみのお民」「日本庶民生活史料集成」の注に、『東満の妹蒼生子のこと。才女で』、『和歌をよみ、紀州侯の女公子に仕え、後』、『諸侯の婦人女公子等に歌を教えた』とある。
『富十郞、來りし時、「藥取。」と云し』「只野真葛 むかしばなし (50)」参照。]
今は、誰(たれ)も、書をよみ、古事も知る世と成(なり)しを、其世に、人の書を讀(よま)ぬ故は、田沼とのもの守と申(まをす)人は、一向、學文なき人にて有し。今の人は惡人のやうに思(おもへ)ど、文盲なばかり、わるい人では無(なか)りしが、其身、文盲より、書のよめる人は、氣味がわるく思われ[やぶちゃん注:ママ。]しかば、其時の公方樣をも、書に眼の明(あか)ぬ樣にそだて、上、御身ちかくへ、少しにても、學文せし人は、寄られざりし故、出世のぞみ有(ある)人は、書を見る事を、いみ嫌い[やぶちゃん注:ママ。]し故なり。世に有(ある)人は殘らず文盲故、うたてうたてしき事、おほかりしなり。父樣には、てうど、其時分、用(もちひ)るによいほど、學文被ㇾ成し故、
「別段なる御了簡。」
と、人、おもゑ[やぶちゃん注:ママ。]しなり。
[やぶちゃん注:「田沼とのもの守」田沼意次のこと。彼は側用人に異動して従四位下に昇叙の二年後に老中格に異動して侍従を兼任する以前は、従五位下主殿頭(とのものかみ)であった。彼は仙台藩医であった真葛の父工藤平助と強い接点がある。ウィキの「田沼意次」によれば、『迫りくる北方の大国ロシアの脅威に備えるため』、『「赤蝦夷風説考」を天明』三(一七八三)年に、『当時の幕府老中』であった『田沼意次に献上し』ており、『これが田沼の蝦夷地開発の原点になったといわれ』ている、とある。]
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