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2022/12/31

恒藤恭 「旧友芥川龍之介」の「芥川龍之介」(全)

 

[やぶちゃん注:本篇は芥川龍之介自死の一ヶ月あまり後の昭和二(一九二七)年九月発行の『改造』に初出したものである。但し、本篇末尾には、『昭和二年八月五日』のクレジットがあるので、執筆自体は芥川の処決から十三日後に擱筆されたものと判る。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 残念ながら、この戦前に書かれた「芥川龍之介」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したものについては、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡にリンクさせあるので、そちらを見られたい。底本の傍点「﹅」は太字とした。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 以下、「芥川龍之介」本文(35(左)ページ)の前の前の左ページには、作者が描いた芥川龍之介の絵が配されてある。龍之介の傷心を癒すために恭が自身の故郷出雲に招いた折りに描いたものである(龍之介の松江到着は大正四(一九一五)年八月五日午後四時着で、二十一日に松江を発っている)。以下に絵の右下方外にあるキャプションを起こしておくが、この絵は、表現急行氏のブログ「表現急行2」の「古本日記 恒藤恭『旧友芥川龍之介』」の写真を見るにモノクロームのようである。この絵は私の『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 始動 / 「一」』でモノクロとカラーの画像(彼方の山体が薄い紫に着色されているのが印象的である)を掲げてあるので、そちらを参照されたい。絵の右下には「AUG. 12TH」のクレジット・サインがある。

 

 

 裸形の芥川龍之介

   大正四年八月出雲海岸にて著者ゑがく

 

 

    芥 川 龍 之 介

 

 

         

 

 七月二十八日の午前、遺族、親戚、若干の友人と共に私は日暮里の火葬場にゆき、芥川の遺骨を壺に拾つた。はじめ一同が焼香した後、係りの人たちが鉄扉を開いて竃の中から取り出した白骨を皆の眼の前に置いたとき、「きれいに燒けて居るな」と思つた。それは淸淨なるものの一と塊りであつた。

「この白骨を芥川に一と目見せてやりたいものだな」、次の瞬間にはそんな事を考へてゐた。そしたら「ああ身が軽くなつちやつた、うれしいぜ」と言ふだらうとおもつた。

「もうこれで此世に於ける君の存在は完全に終了した。安心して吳れたまへ。しかしね、残つた者はさびしくて堪らないぜ」。斯んなことを一言彼に告げたくも思つた。 

 八月二日の夜、私は東京を出発し、翌あさ下鴨の家に帰つた。暑さに中つて腸や頭やをいためた後に上京して、酷暑の中をあちこちしたので、心も身体も疲れた。何だか氣拔けのしたやうな感じがした。東京で買つて來たおもちやの BILDA や積み木を並べて子供たちとあそんだ。[やぶちゃん注:「BILDABetta Bilda(ベッタ・ビルダ)。イギリス製のレゴに似たプラスチック製の組み立てブロック玩具。英文サイトのこちらで確認した。]

 それから、戶棚の中から古い手紙を入れた箱を取り出して、芥川から來た書簡をえらび出した。大抵の手紙は保存して居ないけれど、芥川のよこした分は不思議と高等学校時代のから割合に完全に保存してゐる。順序もなく、封筒の中からなかみを出して讀み返した。過去はなつかしく記憶の中によみがへつて來た。ああそんな事もあつたつけと幾たびか独りでうなづいた。

 明治四十五年の七月、出雲の國松江に帰省して居た頃に吳れた手紙などが、一等古い部分に属し、封筒に入れた書簡が七十通ばかりと五、六枚のはがきとが残つてゐる。最後に來たのは今年の五月二日付の便りで、留守中に妻が狀差の中か何かから探し出して置いて吳れたのであつた。大部分は大正二年から七年頃までの日付になつてゐる。その頃から以後は、偶々東京又は京都で会へば、昨日別れたもののやうに話し合ふのであつたけれど、文通は稀れにしかしなくなつた。

[やぶちゃん注:「明治四十五年の七月、出雲の國松江に帰省して居た頃に吳れた手紙などが、一等古い部分に属し」恒藤の言う通りで、旧全集(私は新全集は一部しか所持しない。全文新字体というのが反吐が出るほど嫌いだからである)の書簡の中で最も古い井川(恒藤の結婚以前の姓)恭宛書簡は明治四五(一九一二)年一月一日附の自作の漢詩を記した年賀状である(当時、二人は一高第二学年であった。なお、当時の学制の新年度の始まりは九月)。私の「芥川龍之介書簡抄8 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(1) 八通」を見られたい。一通目の明治四五(一九一二)年一月一日・新宿発信(推定)・山本喜譽司宛(葉書)の注に、芥川が井川に送った年賀の漢詩を示してある(漢詩は私の「芥川龍之介漢詩全集始動 一」で訓読や注も示してある)。さらに、少し後に、同年六月二十八日附、及び、七月十六日附(これがここで恒藤が指摘している書簡である)の出雲に帰省中の井川恭に宛てた書簡が続き、井川恭との急速な親近度の高まりを見てとることが出来る。旧全集本巻収録の恒藤(井川)恭宛書簡は全部で九十四通で、画家小穴隆一と並んでダントツに多い。

「最後に來たのは今年の五月二日付の便り」「芥川龍之介書簡抄145 / 昭和二(一九二七)年五月(全) 十八通」の冒頭一通目で電子化注してある。]

 

 

        

 

 

 人の死んでしまつた後の狀態を死といふし、斯かる狀態としての死に人が到達する過程をも死といふ。前の意味における死は、生と対立するものであるが、後の意味における死は、生の最終の部分である。だから、或る人の一生について云爲するときに、この後の意味における死を其人が如何やうに経過したかといふことを不問に付してはなるまい。その人が自殺といふ経過をえらんだ場合において、一層然るであらう。しかしながら、人生の終りの部分としての死は、必ずしも藝術品の創作の過程における最後の仕上げのやうな意味をもつものではない。死が人の生涯の一構成分子として有する重要性は或る人の場合においては比較的に大であり、他の人の場合においては比較的に小である。自殺の場合といへども、例外を成すものではないと思ふ。或る人が自殺によつてその生涯を了へた場合に、彼の自殺を以て彼の生涯における最大の事件であるが如く思惟することは、多くの場合において彼の生涯の意義を正しく理解するの途ではない。しかも或る人の自殺が、彼を知つてゐた者に與へるところの心理的影響は、ややもすれば後者をして、死が前者の生涯において有する意義に関する錯覚に陷らしめる。[やぶちゃん注:「云爲」「うんゐ」。ある事柄を取り上げ、それについて、あれこれ言うこと。「云々(うんぬん)」に同じ。「然る」「しかる」そうあるべきであること。「途」「みち」。]

 芥川の場合において、彼の死が彼の生涯において如何なる意義を有するものであるか、を私は論じようとは思はない。唯、何にしても、自殺が彼の一生において有する重要性を過大視することは、私にとつては望ましくない。――根本において斯うは考へるものの、しかし、彼の自殺によつて惹起された心理的影響から免れることは不可能である。一つ一つ披いて讀んで行つた芥川の手紙の中で、次に全文を写すところの一通が最も强く私の心を撲つたのも、その爲である。それは大正四年三月九日の書信である。

[やぶちゃん注:以下書簡引用は最後の恒藤の註を含め、底本では全体が二字下げとなっているが、ブログ版では引き上げた。私の「芥川龍之介書簡抄36 / 大正四(一九一五)年書簡より(二) 失恋後の沈鬱書簡四通」で最初に電子化してある。恒藤が後注するように、元書簡では句読点はなく、表記・改行・字空けの一部も恒藤によって整序が加えられてある。署名の「龍」はもっと下にあるが、ブログのブラウザ上の不具合を考え、引き上げた。以下同じ。]

 

 イゴイズムをはなれた愛があるかどうか。イゴイズムのある愛には、人と人との間の障壁をわたる事は出來ない。人の上に落ちてくる生存苦の寂莫を癒す事は出來ない。イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない。

 周圍は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。しかも人はそのまゝに生きる事を强ひられる。一切を神の仕業とすれば神の仕業は惡むべき嘲弄だ。

 僕はイゴイズムをはなれた愛の存在を疑ふ。(僕自身にも)。僕は時々やりきれないと思ふ事がある。何故、こんなにして迄も生存をつづける必要があるのだらうと思ふ事がある。そして最後に神に対する復讐は、自己の生存を失ふ事だと思ふ事がある。僕はどうすればいいのだかわからない。

 君はおちついて画をかいてゐるかもしれない、そして僕の云ふ事を浅薄な誇張だと思ふかも知れない。(さう思はれても仕方がないが)。しかし僕にはこのまゝ回避せずにすすむべく强ひるものがある。そのものは僕に周圍と自己とのすべての醜さを見よと命ずる。僕は勿論亡びる事を恐れる。しかも僕は亡びると云ふ予感をもちながらも此ものの声に耳をかたむけずにはゐられない。

 每日不愉快な事が必ず起る。人と喧嘩しさうでいけない。当分は誰ともうつかり話せない。そのくせさびしくつて仕方がない。馬鹿々々しい程センチメンタルになる事がある。どこかへ旅行でもしようかと思ふ。何だか皆とあへなくなりさうな氣もする。大へんさびしい。

     三 月 九 日       龍

(註) 句読点は恒藤施す。以下同じ。

 

 右の書信の日付に先立つこと約十日の二月二十八日に書かれた書信の内容と照し合せると、右の書信の内容の意味が一層よく了解し得られるけれど、或る事情のために、唯その最後の部分だけを左に寫す。

[やぶちゃん注:同前で引用は二字下げ。やはり、恒藤は句読点以外にも手を加えている。「芥川龍之介書簡抄35 / 大正四(一九一五)年書簡より(一) 井川恭宛 龍之介の吉田彌生との失恋告白書簡」でカットされた前半部も電子化してある。「不性」は書簡のママ。「無精(ぶしやう)な」の慣用。「貰へば」は原書簡では正しく「貰へれば」となっている。]

 

 不性な日を重ねて今日になつた。返事を出さないでしまつた手紙が沢山たまつた。之はその事があつてから始めてかく手紙である。平俗な小說をよむやうな反感を持たずによんで貰へば幸福だと思ふ。

 東京ではすべての上に春がいきづいてゐる。平靜なる、しかも常に休止しない力が悠久なる空に雲雀の声を生まれさせるのも程ない事であらう。すべてが流れてゆく。そしてすべてが必ず止るべき所に止る。学校へも通ひはじめた。イヷンイリイッチもよみはじめた。

 唯、かぎりなくさびしい。

    二 月 廿八 日         龍

 

 右の二通をいづれも私は京都吉田の帝國大学寄宿舍で受け取つてよんだ。間もなく春休みとなつた。私は上京して、前の年の十月に建ち上つた田端の新居に芥川をおとづれ、休暇の間そこで起居を共にした。

[やぶちゃん注:「前の年の十月に建ち上つた田端の新居」芥川芥川龍之介の終の棲家となった新築の田端の家は、大正三(一九一四)年十月末に完成し(府下北豊島郡滝野川町字(あざ)田端四三五番地。現在の田端一丁目十九―一。グーグル・マップ・データ)、新宿の実父の持ち家から転居している。但し、この春休み(三月)に井川が「上京して」「田端の新居に芥川をおとづれ、休暇の間そこで起居を共にした」という事実は、現在のいかなる芥川龍之介年譜にも記載がない。但し、この大正四年三月の部分は、例えば、現在、最新の岩波新全集の宮坂覺氏の年譜でも記載が全くない(丸々ないのは同年表中では特異点である)から、或いは、そうした、井川が心配してやってきた事実があったとしてもおかしくはない。

 

 

         

 

 

 その時から約一ケ年前の芥川の心境を物語る手紙がある。

[やぶちゃん注:同前。「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」を参照されたい。私の語注も完備している。]

 

 僕の心には時々恋が生れる。あてのない夢のやうな恋だ。どこかに僕の思ふ通りな人がゐるやうな氣のする恋だ。けれども實際的には至つて安全である。何となれば、現實に之を求むべく、一に女性はあまりに自惚がつよいからである二に世間はあまりに類推を好むからである[やぶちゃん注:「自惚」「うぬぼれ」。]

 要するに、ひとりでゐるより外に仕方がないのだが、時々はまつたくさびしくつてやり切れなくなる。

 

 それでもどうかすると大へん愉快になる事がある。それは自分の心臟の音と一緖に風がふいたり、雲がうごいたりしてゐるやうな氣がする時だ。(笑ふかもしれないが)。勿論、妄想だらうけれど、ほんとにそんな氣がして少しこはくなる事がある。

 序にもう一つ妄想をかくと、何かが僕をまつてゐるやうな氣がする。何かが僕を導いてくれるやうな氣がする。小供の時はその何かにもつと可愛がられてゐたが、この頃は少し小言を云はれるやうな氣がする。平たく云ふと、幸福になるポッシビリティがかなりつよく自分に根ざしてゐるやうな氣がする。それも仕事によつて幸福になるやうな氣がするのだから可笑しい。

 幸福夢想家だと君は笑ふだらう。

 

 無智をゆるす勿れ。己の無智をゆるす爲に他人の無智をゆるすのは、最も卑怯な自己防禦だ。無智なるものを輕蔑せよ。(ある日大へん景氣がよかつた時)

 オックスフォードの何とか云ふ学者が「ラムをよんで感心しないものには英文の妙がわからない。ESSAY ON ELIA[やぶちゃん注:横書。以下同じ。この原書簡では縦書。]は文学的本能の試金石だ」と云つた有名な話があるさうだ。上田さんのラム推奬の理由の一として御しらせする。

 

 試驗が近いんだと思ふとがつかりする。試驗官は防疫官に似てゐる。何となれば、常に吐瀉物を檢査するからだ。眞に栄養物となつたものを測るべき医学者が來ない以上試驗は永久に愚劣に止るにちがひない。ノートをつみ上げてみると、ほんたうにがつかりする。

 

  キャラバンは何処に行ける

  みやれば唯平沙のみ見ゆ

  何処に行ける

 

  行きてかへらざるキャラバンあり

  スフィンクスも見ずに

  砂にうづもれにけむ

  われは光の淚を流さざる星ぞ

  地獄の箴言をかかざるブレークぞ

 

  わが前を多くの騎士はすぎゆくなり

  われも行かむと時に思へる

 

  メムノンはもだして立てり

  黎明は未來らず

  暗し――暗し

 

  何時の日か日の薔薇さく

  ほのぼのと

  何時の日かさくとささやく声あり

 

  象牙の塔をめぐりて

  たそがるるはうすあかり

  せんすべなさにまどろまんとする

 

                   龍

 

 この手紙には日付はないが、封筒に大正三年五月十九日のスタンブが捺してある。当時彼はなほ新宿の家に住んでゐた。

 

 

        

 

 

 順次に時の流れを遡つて行くやうだが――封筒の上のかすかなスタンプの文字により、大正三年一月二十一日に発信したものと認むべき手紙がある。後年に至るまで一貫して芥川が把持してゐた人生観なり藝術観なりが、かなり明瞭に且つ濃厚にその中にあらはれてゐるやうに思ふ。彼の手紙の多くはむしろ普通の書信の体裁を成してゐるのだが、この頃はよく感想錄めいたものを書いてよこした。

[やぶちゃん注:以下は書簡の引用だが、底本では字下げがない。以下は、「芥川龍之介書簡抄22 / 大正三(一九一四)年書簡より(一) 二通」の二通目で電子化注してある。かなり長い書簡である。やはり恒藤による整序がなされている。]

 

 自分には善と惡とが相反的にならず相関的になつてゐるやうな氣がす。性癖と敎育との爲なるべし。ロジカルに考へられない程腦力の弱き爲にてもあるべし。

 兎に角、矛盾せる二つのものが自分にとりて同じ誘惑力を有する也。善を愛せばこそ惡も愛し得るやうな氣がする也。ボードレールの散文詩をよんで最もなつかしきは、惡の讃美にあらず、彼の善に對する憧憬なり。遠慮なく云へば、善惡一如のものを自分は見てゐるやうな氣がする也(氣がすると云ふは謙遜[やぶちゃん注:原書簡では「謙辭」となっている。]なるやもしれず)。これが現前せば[やぶちゃん注:原書簡では「現前せずば」となっている。恒藤の脱字か、誤植であろう。]藝術を語る資格なき人のやうな氣がするなり。

 

 同じ故鄕より來りし二人の名を善惡と云ふなり。名づけしは其故鄕を知らざる人々なり。

[やぶちゃん注:ここで底本では改ページになっているが、版組上では、行空けをしていいない。原書簡は一行空けである。ここは特異的に一行空けておく。]

 

 何にてもよけれど、しかつめらしくロゴスと云はむ乎。宇宙にロゴスあり。万人にロゴスあり。大なるロゴスに從つて星辰は運行す。小なるロゴスに從つて各人は行動す。ロゴスに從はざるものは亡ぶ。ロゴスに從はざる行動のみ、もし名づくべくんば惡と名づくべし。

 ロゴスは情にあらず、知にあらず、意にあらず、强ひて云へば、大なる知なり。所謂善惡はロゴスに從ふ行動を浅薄なる功利的の立場より漠然と別ちたる曖昧なる槪念なり。

 

 自分は時に血管の中を血が星と共にめぐつてゐるやうな氣がする事あり。星占術を創めし[やぶちゃん注:「はじめし」。]人はこんな感じを更につよく有せしなるべし。

 

 このものにふれずんば駄目なり。かくもかかざるもこの物にふれずんば駄目也。

 

 藝術はこれに関係して始めて意義あり。

 

 今にして君の「 WESEN を感得せしむるアートは最高也」と云ひしを思ふ。君は三足も四足も僕に先んじたり。

 

 しひて神の信仰を求むる必要なし。信仰を窮屈なる神の形式にあてはむればこそ有無の論もおこれ。自分は「このもの」の信仰あり。こは「藝術」の信仰なり。この信仰の下に感ずる法悅が他の信仰の與ふる法悅に劣れりとも思はれず。

 すべてのものは信仰とならずんば駄目也。ひとり宗敎に於いてのみならず、ひとり藝術に於てのみならず、すべて信仰となりてはじめて命あらむ。

 

 藝術を実用新案を工夫する職人の如くとり扱ふものは幸福なり。

 

 自己を主張すと云ふ、しかも軽々しく主張すと云ふ。

 自分は引込思案のせいかしらねど、まづ主張せんとする自己を観たしと思ふ。

 顧みて空虛なる自己をみるは不快なり。自ら眼をおほひたき位いやなり。されどせん方なし。樽の空しきか否かを見し上ならでは、之に酒をみたす事は難かるべし。兎に角いやなり、苦しいものなり。

 

 みにくき自己を主張してやまざるものをみるときには、嫌惡と共に壓迫を感ず。少しなれど壓迫を感ず。

 

 自分はさびし。

 時々今から考へると一高にゐた時分に君はさぞさびしかつたらうと思ふ事あり。

 かく云へばとて君と今の僕と同じと云ふにはあらず、君の云つてる事が僕にわからなかつたからなり。何時でも[やぶちゃん注:「何時までも」の意か。]わからないのかもしれねど。

 

 自分は新思潮同人の一人となれり。發表したきものあるにあらず、發表する爲の準備をする爲也。表現と人とは一なりとは眞なりと思ふ。自分は絃きれたる胡弓をもつはいやなり。これより絃をつながむと思ふ。

 

 アナトオル・フランスの短篇を訳して、今更わが文のものにならざるにあきれたり。同人中最も文の下手なるは僕なり、甚しく不快なり。

 

 同人とは云へ皆步調は別なり、早晚分離せむか。[やぶちゃん注:この後には原書簡では一行空けがある。]

 この二、三ケ月、煮え切らざる日を送れり。胃の具合少し惡きに、いろいろな考に頭をつかひし爲なり。その爲に年賀狀の外どこへも手紙をかかず、君にも失礼した訳なり、堪忍したまへ。海苔は少し大袈裟なり。胃病で死んでも海苔を食ふはやめじと誓ひたり。

 

 忙しいだらうが時々手紙をくれたまへ。僕もせいぜい勉强してかく。

 今日の手紙は大抵日記よりのぬき書きなり。幼きを嗤はざらむ事をのぞむ。[やぶちゃん注:この後は原書簡では一行空けがある。底本は改ページであるが、版組上、一行空けはされていない。特異点で一行空けを施す。なお、以下の和歌は原書簡では三首ともに一行ベタである。原書簡では、第一首目の初句は「ともかく」で「も」はない。]

 

 歌も殆どつくらず、つくる暇もなし。唯三首。

 

 ともかくもむしやうに淋し

   夕空の一つ星のやうに

     むしやうに淋し

 

 こんなうれしき事はなし

   こんなうれしき事はなきに

     星をみてあれば淚ながるるかな

 

 木と草との中に

 われは生くるなり

 木と草との如くに

 

[やぶちゃん注:この最後の和歌はおかしい。原書簡では、「木と草との中にわれは生くるなり日を仰ぎてわれは生くるなり木と草との如くに」(ベタはママ。前の二首も同じ)であるから、改行表示するなら、

   *

 

 木と草との中に

 われは生くるなり

 日を仰ぎて

 われは生くるなり

 木と草との如くに

 

   *

となろうか。]

 

 書中偶々私の言について記してゐることなどは、聰明なる彼の謙遜の氣質に因るものであつて中らざること大である。[やぶちゃん注:「中らざる」「あたらざる」。]

 大正二年六月、私たちは一高を卒業した。芥川はかねての志望通りに東京大学の英文科に入学する考へであつた。私はその一年前くらゐから讀んでゐた哲学書の影響を受けて、英文学研究の志を絕ち、京都大学の法科に入学することに決心した。それについては、芥川は唯一の相談相手であつた。[やぶちゃん注:当時は既に東京大学も京都大学も孰れも「帝國大學」に改称されている。「私はその一年前くらゐから讀んでゐた哲学書の影響を受けて、英文学研究の志を絕ち、京都大学の法科に入学することに決心した」と述べているが、一つには、芥川龍之介の文才を見るにつけ、彼には叶わない、彼に叶わないのであれば、(英)文学での活路はないと、恒藤が思ったらしいことは、現行ではよく知られたことである。]

 その夏、私は松江に帰省したが、七月十七曰夜の日付で芥川の送つて吳れた手紙は、高等学校三年間二人の交はりを回顧して、つぶさ一に彼の感想をしるしたものであり、私にとつては最も思ひ出の深い長文の書信である。ただ私はその内容を公けにしようとは思はない。この手紙に対して私の送つた返答の手紙の文句が偶然残つてゐる。恐らく一度書いて、気に入らなくて書き直したものかと思ふが、事によつたらすつかり内容を書き改めて送つたのかも知れない。つまらないものではあるけれど。当私が彼に対してもつてゐた心持をそのまま現してゐると思はれるので、一部分をぬき書きする。[やぶちゃん注:「七月十七曰夜の日付で芥川の送つて吳れた手紙」は「芥川龍之介書簡抄41 / 大正四(一九一五)年書簡より(七) 井川恭宛」があるが、これは「高等学校三年間二人の交はりを回顧して、つぶさ一に彼の感想をしるしたものであり、私にとつては最も思ひ出の深い長文の書信である」とあるのとは一致しない。或いは、結局、この書簡を全集には拠出しなかったものと考えらえる(ちょっと残念。往復書簡を並べて読みたかった)。なお、以下は恒藤自身の下書きであるから、字下げや行空けはない(但し、手紙の開始は改ページとなっている。しかし、判組上の行空けは認められない)。下書きではあるが、往復書簡の一方として恒藤の手紙が読めるのは、私は非常に嬉しい。

 

 きみの手紙をよんだ。その文句は僕のこころにとつては强い響を持つてゐた。大ヘんうれしいと同時に、するどいメスのさきがかくれた傷口を抓いてゆくやうに痛苦しい氣持がした。僕には値ひしないほど君があつくそそいでくれた好意がこの二年間にどれだけつもつたか。今またそれのあらはれにふれたとき、きみの示してくれたやさしいこころは、なぜかメスのやうにするどくいたく感ぜられる。[やぶちゃん注:「抓いて」「抓」は「取る・摑む・握る」、「搔く・ひっ搔く」、「捕らえる」などの意があるが、ここは私はメスに応じて、「ひらいて」「ひきさいて」と読みたい。ああ! しかし! 井川(恒藤)が言う「するどいメスのさきがかくれた傷口を抓いてゆくやうに」文章を書く芥川龍之介とは、後に菊池寛が芥川龍之介の作品をカリカチャアして「人生を銀のピンセツトで弄(もてあそ)んでゐる」と言い放ったそれなんぞより、遙かに芥川龍之介の核心をつらまえているではないか!!!

 なんだか斯う書いて行くと、ぢきにあの本館が目にちらつく。それを斜めに見上げたさまが浮ぶかと思ふと、二階のまどから追分を見下した眺めがみえる。やつぱり君がそばに居て、ややもすると二あし三あし動きさうにするやうな氣がする。庭から見上げるときは、動いてゐる雲のあひだから日のひかりがこぼれて來さうだが、窓から見おろすときは、雨がねずみ色に空間をぬらしてゐる。もうあそこいらで低徊する機会はないかも知れないね。[やぶちゃん注:「追分」何処を指しているのか判然としないが、「今昔マップ」の戦前の第一高等学校附近の地図(右に現在の地図と併置されている)をリンクさせておく。]

 僕が君に対して言ひたいと思つてゐたことを、君の方から僕に向けてよつぽどすなほにうまく書いて貰つたやうな氣がする。君のまごころからのいろいろの賞讃のことばのどれか一つでもほんたうに受けるだけの理由が若しあつたならば、それを君から聽くことはどれだけの悅びであるかも知れない。しかし僕はうれしいよりも恥しい氣がする。恥しいよりも悲しい氣がする。僕はそれだけの理由を確実にもつてゐない。(略)

 君がわがままであつたと云へば僕はどれだけ我儘であつたであらう。正直なところ、もし比較の出來るものがあるならば、幾倍わがままであつたか知れない。

 君はいつも、そしてどのかどを手に当つて見ても、いつも手ざはりのよい珠玉のかたちをしたやうな人だと思つた。それで、手ざはりがわるいと感じたやうな時をあとで考へて見ると、いつもやつぱり自分の手の先の感覚が我儘な時であつたのだ。一体、君はしづかにして居るときは、大へんやさしい謙遜を主張するから、若し君にわがままがあつたにしろ、君は氣を置いてわがままをするのに、僕は自分がわが儘をするのが権利ででもあるやうに我儘を通さうとしてゐたやうな氣がしてすまなかつたと思ふ。(略)

 ぜんたい僕の方が年上なくせに、僕は君に対するといつでも、年長者に対するやうな氣がしてゐた。少くとも年少とは感ぜられなかつた。それだけ君は世間に対して、否自己に 対して落ち着きを持つてゐるのに違ひない。君ばかりでなく、一体に僕は大抵の周囲の同じ年輩の人々がみんなはるかに僕よりも老成してゐるやうな氣もちがしてならないが、誰でもそんなものかしら? まあ僕の交友の中では君ぐらゐが同じ年ごろに感ぜられる。ただみんなは、ざわざわと落ちつかうとしてゐるのに、君だけは羨ましいほど靜かに落ち着いてゐる。君はやはり君の自己を内からながめて、不安である、いつもさわいで居ると云ふかも知れないけれど、その不安も騷ぎもまことに靜かに落ちついて居るらしく見えてならない。(略)

 君にいろんな弱点や缺点があるとしたら、僕はそれに大てい平氣で接して居られるらしい。また好きな点もあるらしい。君の弱点に乘ずると云ふやうな考へからでは無い。数ヘ立てて來れば、君の長所や美点は沢山あつて、嘆賞する、また畏敬する心は折りにふれて湧いたが、何だか君を誰よりもなつかしくさせるものは、君のどちらかと云へば影のうすい SIDE であつたやうな氣もする。考へてみると、誰だつてほんたうに威張れる、誇れる長所や美点をどれだけも持つては居はすまい。お互ひの缺点か弱点がお互ひの氣に障らず、不快にも思へなかつたら、此世の中で其上の事はあるまい。世の中が寂しい。いろんなもののざわめきや入り乱れの中にも生といふものはさびしい。そのさびしい氣持が君とは共通なやうな氣がして、二人一緖にゐると、大分さびしさが薄らぐやうな氣がした。眞実、君から求められるものは其れだけであつたかも知れないし。またそれだけが何よりも有難かつたのであつた。[やぶちゃん注:「SIDE」性格の側面。一面。]

 氷の上に立つて一寸踏み出すと、あつしまつたと思ひながらも滑るやうになると書いたが、その踏み出す時の足の性根は実際に確かで、また能く自己を制する力をもつてゐるが、少しすべり出したかと思ふと、足の方が逆に自己を主張する。その滑り出した初めの自己がほんたうの自己か、それとも其制御を無視してほとんど本能的にすべるのがほんたうの自己か、実さい紛らはしい。君はよくつつしんで、わり合にその無制御的にすべる事をやらないやうに思ふ。それだけ君はよく自己を顧慮して生活を按排してゆく。(略)

 東京の町の中で君と一緖にあるいて來て、又は乘り合せて來て、新たに乘り別れたり、又乘り替へたりして電車で別れるときは、大へんさびしいと思つた。電車といふ奴は不可抗力をもつた動物のやうな氣のする時もあるね。(略)君に対しては不まじめに腹を立てたことも、まじめに腹を立てたことも殆どない。尤もいつか有樂座の外で侍ちぼうけてゐた時は、君と云ふもののカテゴリーの中からパンクチュアリティを除かねばならぬかと考へて少し腹が立つた。その外、何時か(君に氣にもとめなんだであらうし、僕もいつ頃かよく覚えぬが、とに角此学期の間である)学課を了へて帰るときに、一緖に三丁目まで(?)ゆかうと云ひ出したら、君は用事があるからといつて、さつさとどちらへか電車に乘るベくあの下駄棚のふたをあけて往つてしまつた事があつた。その時は、腹が立つたといふよりは、ばかに失望したやうなと云ふよりは、何だかつまらない氣がした。それで今でもその氣持はよくおぼえて居る。僕はいつでも僕の勝手に從つて行動してゐたくせに、その時は、『なぜ一寸氣をかへて一緖に行つて吳れないのだらう』とずゐ分我儘な事を考へながら、畢竟人間といふものの交はりはお互ひの「我」の接触で、それの触れ合はないところの時間と空間とは恐ろしく空虛なものと感じた。そして考へて見ると、自分も、いつも自分の我を通したがるが、若しも幾分まごころを以て自分に接して吳れる人があつたら、よつぽどその人にさびしい氣もちを與へるにちがひないだらうと考へた。(略)

[やぶちゃん注:「パンクチュアリティ」“punctuality”。人の時間を守る几帳面さ。時間を厳守する能力。

 それにしても! この恒藤の手紙はまるでラヴ・レターではないか!

 

 

        六

[やぶちゃん注:ママ。本当は「五」である。以下、そのまま、章番号は、ずれてしまっている。]

 

 

 大正三年十月、新宿から田端にひつこしたときには「銀杏落葉櫻落葉や居を移す」といふ小句を書きそへた印刷の通知狀をよこしたが、十二月一日付の音信には、その新居の樣子や田端の情景を叙述したあとに、次のやうな事をしたためてゐる。

[やぶちゃん注:冒頭のそれは「芥川龍之介書簡抄32 / 大正三(一九一四)年書簡より(十) 二通」の初めの大正三(一九一四)年十一月一日・田端発信・井川恭宛を見られたい。以下の引用は字下げはない。これは「芥川龍之介書簡抄33 / 大正三(一九一四)年書簡より(十一) 井川恭宛二通」の一通目だが、日付は大正三(一九一四)十一月三十日の誤りである。この手紙も、かなり長い。以下は途中からの抄録で、やはり恒藤によって表記に手が加えられてある。]

 

 此頃僕はだんだん人と遠くなるやうな氣がする。殆ど誰にもあはうと云ふ氣がおこらない。時々は随分さびしいが仕方がない。その代り今までの僕の傾向とは反対なものが興味をひき出した。僕は此頃ラッフでも力のあるものが面白くなつた。何故だか自分にもよくわからない。たださう云ふものをよんでゐると、さびしくない氣がする。さうして高等学校にゐた時よりも大分ピュリタンになつた。(略)

 兎に角僕は、少し風向きがかはつた。かはりたてだからまだ余裕がない。僕は僕の見解以外に立つ藝術は悉く邪道のやうな氣がする。そんな物を拵へる奴は大馬鹿のやうな氣がする。[やぶちゃん注:ここに省略がある。]大分鼻いきが荒いが、まじめなんだからひやかしてはいけない。それから天才の眞似をしてるんでもないから心配しなくつてもいい。余裕[やぶちゃん注:底本は印字が擦れているいるため、判読不能。原書簡で「裕」とした。]がないから切迫してゐる。切迫してゐるとすぐ喧嘩腰になりさうでいけない。一体僕は人の感情を害するやうな事をするのは大嫌なのだが此頃は反意志的に害しさうで困る。Y[やぶちゃん注:恒藤によって匿名にされたもので、原書簡では「山宮」(さんぐう)。]さんなんか大分氣をわるくしてゐるらしい。兎に角僕がよくないのだ。

 君が京都にゐる中に一ぺんゆきたい。鼻息のあらい時にゆくと、君があきれてしまふかもしれない。尤もいくらあらくつても自分のものがいいと思つてゐるわけではない。人のものがあんまり卑怯でのんきだから不愉快なのだ。同時に自分のものも其仲間入りをするか、もしくは其以下になりやすいのだから猶不愉快なのだ。でも少し位あらいのではあきれまいと思ふから、やつぱり行きたい。要するに君が京都へいつたのはよくない。あはうと思つても一寸あへないのはおそろしく不自由だ。手紙では埒があかないし、[やぶちゃん注:ここに省略がある。]ゆくには遠いし、甚だよくない。

 何だかする事が沢山あつて忙しい。体は大へんいい。胃病は全く癒つた。

 いつか寮で君が云つたやうに朝おきた時にミゼラブルな氣もちがする事だけは少しもかはらない。医科の男に何故だらうつてきいてみたら、血液が後頭部へどうとかする具合だらうつて云つた。その男もあまりよくわかつてゐないのだから、僕はなほさらわからない。

 新思潮はとうの昔廃刊した。それでもあれがあつたおかげで、皆かいたものがすぐ活字になる権利を得てゐる。(略)

 僕はこの頃今までよんだ本を皆よみかへしたいやうな氣がする。何もわからずによんでゐたやうな氣がして仕方がない。

 世の中にはいやな奴がうぢやうぢやゐる。そいつが皆自己を主張してるんだからたまらない。一体自己の表現と云ふ事には自己の價値は問題にならないものかしら。ゴーホも「己は何を持つてゐるか世間にみせてやる」とは云つたが「どんなに醜いものを持つてゐるかみせてやる」とは云はなかつた(略)[やぶちゃん注:ここで引用は終わり、改ページとなっている。版組を見るに、一行空けはないが、特異的に一行空ける。]

 

 大学の英文科に在籍した三年間の学課は芥川にとつて世にも退屈な時間つぶしであつた。それは当然至極な事柄である。彼はその事についてよく話しもしたし手紙にもかいた。一例をあげる。大正四年六月十三日付の書簡である。

[やぶちゃん注:字下げはない。この書簡はこのために、昨夜、「芥川龍之介書簡抄 追加 大正四(一九一五)年六月十二日 井川恭宛書簡」として電子化注しておいた。やはり恒藤によって一部表記が整序されている。]

 

 試驗は十日に始まつて十五日にすむ。日數は短いが一日に二つある日がある位で中々充實してゐるから厄介だ。殊にこの一年來興味のないものには努力する事が益々出來なくなつて來たので余計厄介だ そして專門の英文学の講義が僕には一番興味がないんだから愈愈厄介だ。最後にまだ一週二回づつ品川の医者へ通つてゐるんだから、その上に厄介至極だと云つていい。(略)

 差当り僕の頭は数字で一杯になつてゐる。ディッケンスの著作年表、ペトラルカのソンネットの数、十六世紀のソンネット作家の作品総数、沙翁のソンネットの番号、及シムベラインの幕数、景数――實際災だ。早く自分の事がしたくつてたまらないが、仕方がない。ノートのよみきれない科目は半創作的な答案を書いて間に合せてゐる。

 田端は若葉――あらゆる種類の若葉で埋つてゐる。その上に每日靜な雨がさあつとふつてゐる。僕が雨期を愛するのは、君もしつてゐるだらう。僕は少しでもエステティッシュな心のある人なら誰でも黴のはへる事位は度外視して雨期を愛すべきものだと思ふ。この頃の雨に飽きた木の枝ほどうつくしくしだれてゐるものは外にない。江城五月黃梅雨と云ふが、黃梅、黃麦、新綠及び灰色の空の美しい諧調は、西洋の詩に見られない美しさであらう。雨のはれまを散步すると、家々門巷掃桐花と云ふ句を思出す。槐影沈々雨勢來と云ふ句を思出す。一川薰徹野薔薇と云ふ句を思出す。僕は試驗後少くも半月は雨がふつてゐる事を祈つてゐる。(略)

 早く自由にいろんな事がしたい。僕にはする事、しなくてはならない事が沢山ある。僕の友だちに一人今三期の結核患者がゐるが、病氣が病氣なので、誰も見舞ひに行かない。姉さんと妹と三人ぐらしで、姉さんもまだ片づいてゐないのだから大へんだ。病院へ入れておくのも苦しいらしい。ああなつちやたまらないと思つた。しみじみさう思つた。その人が野心家でないのは、まだしもの幸かもしれない。[やぶちゃん注:以下は原書簡では改行している。]どこへゆくともまだきまつてゐないがどこかへゆく。

    十 二 日 夕           龍

 

 

        

 

 

 封筒を失つた爲に、発信の時を正確に知り得ない書簡が若干ある中に次のやうな文句のものがある。多分大正四年のあひだに書かれたものと思ふ。[やぶちゃん注:以下、字下げはない。これは「芥川龍之介書簡抄36 / 大正四(一九一五)年書簡より(二) 失恋後の沈鬱書簡四通」の三通目で、「大正四(一九一五)年三月九日・京都市吉田京都帝國大學寄宿會内 井川恭君 直披・三月十二日 東京田端四三五 芥川龍之介」として電子化注してある。恒藤はかなり手を入れている。]

 

 僕は愛の形をした HUNGER を恐れた。それから結婚と云ふ事に至るまでの間(可成長い、少くとも三年はある)の相互の精神的、肉体的の變化を恐れた。最後に最も卑しむべき射倖心、そして更に僕の愛を動かす事の多い物の來る事を恐れた。

 しかし時は僕にこの三つの杞憂を破つてくれた。僕は大体に於て常にジンリッヒなる何物をも含まない愛を抱く事が出來るやうになつた。僕はひとりで朝眼をさました時に、ノスタルジアのやうなかなしさを以て人を思つた事を忘れない。そして何人[やぶちゃん注:「なんぴと」。]にも知らるる事のない、何人にもよまるる事のない手紙をかいて、ひとりでよんで、ひとりでやぶつた事も忘れない。(略)

 僕は霧をひらいて新しいものを見たやうな氣がする。しかし不幸にしてその新しい國には醜い物ばかりであつた。[やぶちゃん注:原書簡ではここで改行していない。]

 僕はその醜い物を祝福する。その醜さの故に、僕は僕の持つてゐる、そして人の持つてゐる美しい物を更によく知る事が出來たからである。しかも又僕の持つてゐる、そして人の持つてゐる醜い物を更にまたよく知る事が出來たからである。

 僕はありのままに大きくなりたい。ありのままに强くなりたい。僕を苦しませるヴァニチーと性慾とイゴイズムとを、僕のヂャスチファイし得べきものに向上させたい。そして愛する事によつて、愛せらるる事なくとも、生存苦をなぐさめたい。

 この二、三日漸く CHAOS をはなれたやうな、しづかな、そのわりに心細い狀態が來た。僕はあらゆる愚にして滑稽な虛名を笑ひたい。しかし笑ふよりも先に同情したくなる。恐らくすべては泣き笑ひで見るべきものかもしれない。

 僕は僕を愛し僕を惜むすべての STRANGERS と共に大学を出て、飯を食ふ口をさがして、そして死んでしまふ。しかしそれはかなしくも、うれしくもない。しかし死ぬまでゆめをみてゐてはたまらない。そして又人間らしい火をもやす事がなくては猶たまらない。ただあく迄も HUMAN な大きさを持ちたい。

 

 かいた事は大へんきれぎれだ。此頃僕は僕自身の上に明かな変化を認める事が出來る。そして偏狹な心の一角が愈々 SHARP なつてゆくのを感じる。每日学校へゆくのも沙漠へゆくやうな氣がしてさびしい。さびしいけれど僕はまだ中々傲慢である。   龍

 

 高等学絞時代から大学時代へかけて芥川ががいて吳れた書信の中の若干をえらび、その全文もしくは一部分を寫しとることによつて、この時代における彼の生活――主として内的生活の片影をあらはすことが、以上において私の試みた所であつた。故人が私に宛てて送つた私的音信を公けにするのは、さし控ふべき事であらうかと考慮してみたが、直接に又は作品を通じて間接に故人を愛する人々が、彼をより好く知り、より深く愛するよすがに爲るであらうといふ考へから、その公表を敢てすることにした。

 

 

        

 

 

 人生の或る時点に個人が社会において占める地位は、そこばくの義務と責任とを伴ふ。それらの義務なり責任なりは、生存の肯定を前提することによつてのみ成り立つものであるから、原則としては、自殺はそれらの義務や責任やに調和するものではない。芥川の場合において、彼の自殺は社会の一員としての義務及び責任に反するものではないといふやうに、私は彼の所爲を辯護しようとは思はない。仮令かやうな辯護を試みたところで、それが彼にとつて何の意義に値ひするであらうぞ。さりとて、彼に向つて道德的責任を問はむとすることは、私の感情の肯ぜざる所である。むしろ私は、若しも彼の魂がなほ存在するものならば、「よくも君はあんなに深刻な苦しみに堪へて、その時までも生きて居られたね」と、さう云つて慰めたく思ふのである。

 七月二十四日夜、始めて悲報を耳にしたとき。「噫[やぶちゃん注:「ああ」。]、やつたな!」と思つた。この心持を說明するには多くの言を費さねばならぬから差控へる。ただ私は彼の自殺の事実を知つたとき、後で考へると自分でも不思議な位に、少しも駭かなかつた。そして彼の自殺を決意するに到つた心持に十分同感することが出來るやうに思つた。唯俄に人生が数倍の寂寞を加へた感に襲はれた。爾來この氣持は今に至るも持続して居る。

 彼の自殺に何等かの理由があるとすれば、それは全く彼の場合に特有な理由であると、私は信ずる。何等かの他の人又は人々の自殺の理由と同一のカテゴリイに帰せしめることによつて、彼の自殺の理由を理解し得たと考へるのは、單なる論理的満足たるに過ぎぬであらう。人間の行爲の動機はすべて之を理解し得るといふ前提其ものが、すでに甚だ疑はしいものではあるまいか。若しも强ひて普通の自殺の理由を以て彼の場合を理解せむと欲する人があれば、彼は理由無くして自殺したと答ふべきであらう。但、「彼の全生涯及び全性格の裡に彼の自殺の理由を求めよ。而して其中に彼の生きた社会的環境の全面をも考慮せよ」との答は、恐らく間然する所無き答であらう。私自身としては、「彼の自殺の理由はわからない。しかし自殺を決意するに至つた心持には同感出來る」と云ふ外はない。だが、彼の自殺の原因や動機が仮令完全に明かになつたところで、最早二度と彼に会つて話することが出來なくなつたといふ儼然たる事実に面して、何の得る所ぞと云ひ度い。

    ――昭和二年八月五日――

[やぶちゃん注:最後のクレジットは底本では最終行の下二字インデントであるが、改行して引き上げた。

 さて、私は、以上の恒藤恭の文章を、初めて、タイピングで電子化しながら読んだ(書簡は私の「芥川龍之介書簡抄」の電子データを用いて加工したので、思ったより早く打てた)が、私は読み終わって、世にある作家や研究者の有象無象の芥川龍之介論などでは、到底、ほとんど感ずることの出来ない、強い芥川龍之介への愛を感じた。しかも、論考部は、流石に法哲学者恒藤を感じさせる、名外科医の術式を見るような明晰さにも感動したことを言い添えておく。

 本電子化注を今年の私の読者への御歳暮とする。よいお年を!]

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