大和怪異記 卷之七 第十二 人をころすむくゐの事
[やぶちゃん注:底本は「国文学研究資料館」の「新日本古典籍総合データベース」の「お茶の水女子大学図書館」蔵の宝永六年版「出所付 大和怪異記」(絵入版本。「出所付」とは各篇の末尾に原拠を附記していることを示す意であろう)を視認して使用する。今回の本文部分はここと、ここ。但し、加工データとして、所持する二〇〇三年国書刊行会刊の『江戸怪異綺想文芸大系』第五の「近世民間異聞怪談集成」の土屋順子氏の校訂になる同書(そちらの底本は国立国会図書館本。ネットでは現認出来ない)をOCRで読み取ったものを使用する。
正字か異体字か迷ったものは、正字とした。読みは、かなり多く振られているが、難読或いは読みが振れると判断したものに限った。それらは( )で示した。逆に、読みがないが、読みが振れると感じた部分は私が推定で《 》を用いて歴史的仮名遣の読みを添えた。また、本文は完全なベタであるが、読み易さを考慮し、「近世民間異聞怪談集成」を参考にして段落を成形し、句読点・記号を打ち、直接話法及びそれに準ずるものは改行して示した。注は基本は最後に附すこととする。踊り字「く」「〲」は正字化した。なお、底本のルビは歴史的仮名遣の誤りが激しく、ママ注記を入れると、連続してワサワサになるため、歴史的仮名遣を誤ったものの一部では、( )で入れずに、私が正しい歴史的仮名遣で《 》で入れた部分も含まれてくることをお断りしておく。
標題中の「むくゐ」はママ。]
第十二 人をころすむくゐの事
相州本目《ほんもく》の浦に、大工八兵衞といふものが甥《をひ》に、あた人《びと》ありて、もてあつかひしを、からめ、うみに、しづむ。延宝七年夏の比《ころ》なり。
翌年のおなじ比、八兵衞が妻、子をうみしを、とりあげみれば、ひたゐ[やぶちゃん注:ママ。]に角(つの)、をひ[やぶちゃん注:ママ。「生(お)ひ」。]、上下《うへした》のは、くひちがい[やぶちゃん注:ママ。]、其かたちは、をゐ[やぶちゃん注:ママ。「甥」。]に、にたり。
やがて、大工道具箱を、うへに置《おき》、をしころすに[やぶちゃん注:ママ。「押し殺す」。]、しばしは、
「むくむく」
と、もちあげしとかや。同
[やぶちゃん注:「犬著聞集」原拠。「新著聞集」には載らないようである。
「相州本目《ほんもく》の浦」神奈川県横浜市中区本牧(ほんもく)。当該ウィキによれば、最初の記載は嘉吉二(一四四二)年に『「横浜」とともに初めて記録に見え、「本目」と書かれたこともあるが、語源は不詳。戦国時代には、芝浦・羽田と並んで北条水軍の拠点が置かれていた。「本目」と書かれたこともあるが、語源は不詳。戦国時代には、芝浦・羽田と並んで北条水軍の拠点が置かれていた』とある。『戦後、埋め立て計画が持ち上がった際、地元の漁協は反対運動を行ったが』昭和三四(一九五九)『年に街の発展と将来のために埋め立てに同意』し、『現在は海岸』は総てが『埋め立てられて工場』・『埠頭などになって』おり、旧本牧地区は完全に内陸化されてしまっている。この本篇の言っている「浦」や「うみ」(海)に相当する場所は陸地となってしまっていると考えてよい。「今昔マップ」で戦前と現在の決定的な違いが判る。カーソルでなぞってみれば判る通り、国道三五七線よりも有意に内側に旧海岸線はあったからである。因みに、この本牧山頂附近にある横浜緑ケ丘高等学校に私は九年勤務したが、教師生活の中で一番楽しかったのは、ここだった。
「あた人」「仇人」。敵対する人。敵(かたき)。「あだびと」の古形。]
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