曲亭馬琴「兎園小説拾遺」 第二 「伊勢松坂人殿村精吉來翰中、京師地震聞書寫幷京の人六右衞門の書狀の寫」
[やぶちゃん注:「兎園小説余禄」は曲亭馬琴編の「兎園小説」・「兎園小説外集」・「兎園小説別集」に続き、「兎園会」が断絶した後、馬琴が一人で編集し、主に馬琴の旧稿を含めた論考を収めた「兎園小説」的な考証随筆である。昨年二〇二一年八月六日に「兎園小説」の電子化注を始めたが、遂にその最後の一冊に突入した。私としては、今年中にこの「兎園小説」電子化注プロジェクトを終らせたいと考えている。
底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらから載る正字正仮名版を用いる。
本文は吉川弘文館日本随筆大成第二期第四巻に所収する同書のものをOCRで読み取り、加工データとして使用させて戴く(結果して校合することとなる。異同があるが、必要と考えたもの以外は注さない)。
馬琴の語る本文部分の句読点は自由に変更・追加し、記号も挿入し、一部に《 》で推定で歴史的仮名遣の読みを附した。今回はやや長いが、そのままとした。
本篇は「京都地震」関連記事の第五弾。第一篇以降で注した内容は、原則、繰り返さないので、必ず、そちらを先に読まれたい。
差出人「殿村精吉」「琴魚」は既出既注だが、再掲すると、戯作者で、やはり既出既注の、松阪の商人で本居宣長門下の国学者殿村安守の弟にして、馬琴の弟子であった櫟亭琴魚(れきていきんぎょ 天明八(一七八八)年~天保二(一八三一)年)である。伊勢松坂生まれで、精吉は本名。文化五(一八〇八)年に馬琴の門に入った。兄と師が共同執筆した「犬夷評判記」(馬琴の「南総里見八犬伝」と「朝夷巡島記」の批評と馬琴自身のそれへの回答の形式をとる評論物)を校訂。浮世絵師合川珉和(あいかわみんわ)とも親交があった。作品に「刀筆青砥石文」などがある。]
○伊勢松坂人殿村精吉來翰中、
京師地震聞書寫、幷、京の
人、六右衞門の書狀の寫。
一、京都大地震の儀者、定《さだめ》て最早御承知可ㇾ被ㇾ有ㇾ之候へ共、此地は貴地より程近き儀故、委細に承《うけたまはる》筋も有。また、親しくその地震に出合候人にも、面會いたし候へば、荒增《あらまし》、奉二申上一候。最《もつとも》、地震は、去《さる》七月二日夕七時《ゆふななつどき》、初め、尋常の地震、一つゆり候處、其以前より、殘暑も、わけて酷《ひど》かりしゆゑ、人々、秋暑《しうしよ》に苦しみ候最中にて、「是は、よろしき地震なり。定めて、氣候も、是より立直《たちなほ》り、雨にもやなるらん。さあらば、凌《すごし》よかるべし。」抔いふ程こそあれ、乾《いぬゐ》[やぶちゃん注:南西。]の方より、「バリバリ」と響來《ひびきき》り、大地は大浪《おほなみ》の打《うつ》ごとく、家居《いへゐ》は勿論、土藏其外、建物等、或は倒れ、或は引裂《ひきさけ》、建具、不ㇾ殘、弓をなして[やぶちゃん注:不詳。「弓柄(ゆづか)のように、しなるようになって」の意か。]、梁、殆《ほとんど》、落《おち》んとす。其中にも、土藏、別《べつし》て、當り、きびしく、元來、貴地とちがひ、火災、稀なる土地故に、自然《おのづと》、土藏の普請抔、麁末成《そまつなる》故に候哉《や》、十に八、九は、壁土を、不ㇾ殘、ふるひ落し候て、鳥籠《とりかご》のごとく成たるが、多く候よし[やぶちゃん注:壁土の上・中・底埋め塗りと荒壁まで、すっかり崩れ落ちしまい、上下左右に組んだ竹だけとなって鳥籠のようになってしまった、というのである。]。家居は、倒《たふれ》候處、千軒が一軒にも不ㇾ當《あたらざる》よし。損じ候は、十軒が十軒とも、大小、破損せざるは、なし。中にも、些《すこし》も不ㇾ損して、三、五寸も、礎《いしづゑ》を退《しりぞ》き、丁度、引居《ひきゐ》たるごときもあり、と及ㇾ承候。最、彼《かの》大地震は、わづか煙草一ぷくの間《あひだ》にも不ㇾ及、東南の間をさして、ゆり通り候よし。其地震のゆり通《どほ》りにも、筋《すぢ》、有ㇾ之。二條御城などは、全《まつたく》、其筋と申《まをす》者にや。南北の高塀、十八、九間[やぶちゃん注:約三十三~三十四メートル半。]、落《おち》て、石垣抔も、大分、御堀ヘ落崩《おちくづ》れ、御城中にも破損出來《しゆつらい》のよし。さるが中にも、御所樣においては、御築地《おんついぢ》、いさゝか損じ候のみにて、乍ㇾ恐、御別條なし、との儀に御座候。此外、神社・佛閣、不ㇾ殘、損《そんず》模樣に申候は、全《まつたく》、虛說にて、八坂・東寺などの塔も、聊《いささかも》損じ無ㇾ之よし、最、洛中にては、餘程の損毛、三井店《みつゐのたな》などの内評《うちひやう》には、昨春、御地の大火に、店々、燒失よりも、當年の家宅の損じは、算盤の玉數、多く候由。其番頭支配人より及ㇾ承候。是は其主人々々の居宅、幷に、土藏の損じ、澤山成《たくさんなる》故と聞へ申候。扨《さて》、其地震、過《すぎ》て後、二日、夜中にも鳴動、亦は、地震、數度ありて、曉に至るまで、鳴動、六十餘度も有ㇾ之よし。翌三日朝、一天、すべて、黃色になり、人々の面《おもて》も、みなみな、黃疸のごとくに相見え候よし。されども、程なく、曇空《くもりぞら》になり、消渡《きえわた》り候よし。三日にも不二相替一、鳴動・地震、數度、御座候よし。四日朝は、又、一天、赤く相成《あひな》り、朱《しゆ》を流すがごとく、きのふの黃色より、又、おそろしく覺え候よし。され共、是も程なく、薄らぎ候て、無難也とぞ。矢張、震動は不ㇾ止、夫《それ》より、日々、鳴動・震動、時となく、いたし、八日夜は、又、尋常より、少々大きなる地震も御座候よし。十八、九日に至り、大雨、降《ふり》そゝぎ、鴨河、大洪水、淸水《きよみづ》山の手、崩れ出《いで》候て、其處《そこ》より、山、水を吹出《ふきいだ》し、其水筋《みづすぢ》、大佛邊の人家へ突《つき》かけ、不時の騷動に御座候よし。され共、段々、薄らぎ候樣子。全《まつたく》先年、信州淺間山の燒出《やけいで》候時、近國へ響渡り候樣なる音にて、「ドンドン」、「ビリビリ」とひゞき候よしに御座候。初は、「但馬、城の崎《きのさき》溫泉、吹出《ふきだ》したる。」抔いふ說も御座候が、是も虛說にて、此頃、城崎より、消息御座候處有《あり》て、慥《たしか》に相分《あひわか》り申候。何分、洛中のみならず、愛宕山《あたごさん》、いたく荒《あれ》候趣に御座候。近く、伏見も、大津の驛も、絕《たえ》て、此難、無ㇾ之よし。「是、亦、怪《あやし》き事。」と、人々、申候。此餘、地震の有樣、承り及候事も候へ共、「さのみは」と、文《ふみ》略仕《りやくつかまつり》候。京都より來狀、是等は、委しきに御座候間、入封《にふふう》仕候。御覽の上、御返却に不ㇾ及候書狀《およばずさふらふしよじやう》に御座候。
八月五日 琴魚
當七日出《しゆつ》の御書面、相屆《あひとどき》、拜見仕候。殘暑、强《つよく》御座候處、益《ますます》御安靜被ㇾ遊二御座一、恐悅御儀《きやうえうのおんぎと》奉ㇾ存候。然《しから》ば、當二日の大地震、其御地へ相聞え、わざわざ、御人被ㇾ下、御懇情《ごこんじやう》の至《いたり》、千萬、難ㇾ有、尙、委敷《くはしき》御報候樣被二仰下一革奉ㇾ畏候。則、左に申上候。
一、當二日晝七ツ時、大地震、夫より、引續、翌三日朝迄、九度の地震御座候へ共、左程、烈敷《はげしき》地震にも無ㇾ之候處、始終、山、鳴、震動いたし、中々、晝夜共、不安心に御座候に付、母家、幷、内ども、不ㇾ殘、二日七ツ時より、五日迄、三日三夜、川原へ住居《すみゐ》致し【琴魚云、「鴨川東岸の住居なり。」。】、勿論、市中此邊の者共、殘らず、東西の藪え、逃行《にげゆき》、川通りは、河原へ立退《たちの》き、何れも、着のみ着の儘にて迯行《んげゆき》、誠にあはれ成事共に御座候。五日晝頃より、昨夜迄、日々、五、六度づゝ、少々づゝ、山鳴・地震御座候得共、何《いづ》れ迚《とて》も、先づ、居宅へ歸り、少々は安心いたし候處、又候《またぞろ》、昨夜の七ツ時前より、五度の地震、中々、兩度は、嚴敷《きびしき》地震に御座候間、又々、大騷動いたし、俄に河原え、立退、一統に、夜を明し候事に御座候。日々の地震にて、徹二心魂一誠心痛罷在候《しんこんてつし、せいしんいたみまかりありさふらふ》。乍ㇾ去《さりながら》、御影《おかげ》にて、母共《ども》始め、家内、怪我人は一人も無二御座一候間、乍ㇾ恐、御心安可ㇾ被ㇾ下候。倂《しかし》、居宅、幷に、新建共《とも》、及二大破一、崩れ候程の儀は無二御座一候へ共、總體の家建《いへだち》[やぶちゃん注:家全体の具合。]、東の方へ二寸許《ばかり》寄り申候。右、家根、幷、壁の痛み、地面われ候は、勿論の事に御座候。母儀は、七十六歲に相成候得共、此度の大地震は初《はじめ》てにて、大《おほき》に驚き候事に御座候。御所樣、仙洞樣、御築地は無二御別條一候【琴魚云、「此頃、京師の人に承り候へば、御築地、いさゝか、損じ候由申候。」。】御攝家方樣、堂上方樣の御築地は、過半、崩れ申候。二條御城高塀、殘らず、損じ、又は崩れ【琴魚云、「南北のみ」のよし。】、角櫓《すみやぐら》、一つ、崩れ申候由。其外、神社佛閣、堂・宮共(ども)、大小の損じ、有ㇾ之。市中、此邊の土藏は、殘らず、大《おほきに》、損じ、又は、崩れ候處も多く御座候。市中家建は、たふれ不ㇾ申候へ共、端々《はしばし》は、家建、たふれ、又は、橫にたふれ候家々も多く御座候。卽死、幷に、怪我人等は、多分、有ㇾ之由に御座候。人數相知不ㇾ申候【琴魚云、「七月三日書上げ、『死人、三百餘』と申事に御座候。」。】。右、地震の騷動より、火難・水難の噂、高く、諸方へ、荷物等、持步行《もちありき》、大さわぎに御座候。中に又、盜難のうれひ、出來《しゆつらい》、晝夜共、少々も安心いたし不ㇾ申候。今日迄、打臥《うちふし》候儀、出來不ㇾ申、心痛罷在候事に御座候。諸方の風聞承り候處、江州邊より、宇治・伏見・河内・攝州・紀州邊迄、同日同刻の地震、御座候【琴魚云、「勢州も二日同刻、尋常より、少々、大きなる地震有ㇾ之候。」。】。若州・丹波・丹後・但馬邊の山、崩れ、大地震にて、村々、流れ候噂、專《もつぱら》、御座候へ共、未聢《いまだ、しか》と實說は承り不ㇾ申候。先年、及二御聞一の通り、佐州小木湊、羽州浦田湊、幷、キサガタ、近年、越後三條、江州の大地震、承り居候。右、何《いづ》れも、終りは、大雨に相成候由。此頃、當地の日和中《ひよりなか》に、雨ふり候氣色、無ㇾ之、晝前より八ツ時過迄は晴天、暑さ、中々、凌兼《しのぎかね》候。其餘は、曇天、夜分も兩三日以前より、月、さえ候得共、折々、おそろしき雲も相見え申候。「何分、此上は烈敷《はげしき》雨、降申候へば、世間一統、人氣《ひとけ》も直《なほ》り、靜《しづま》り候半《さふらはん》。」と、雨を祈入《いのりいり》候事に御座候。誠に此度の騷動、前代未聞、京都大火後の大騷動、家別に[やぶちゃん注:家それぞれに。]大小の失却に御座候。右騷動中にも、銘々、うろたへ、あわて候。智惠自慢、誠におそろしき中にも、面白おかしき事も御座候。何分、最初の大地震にて、魂《たま》をつぶし候故、少々の地震にも聲を上げ、驚きさわぎ候事に御座候。最《もつとも》、「比叡山將軍地藏」幷に「將軍塚」の震動と、專ら、申居候ヘ共、何《いづ》れ、東山《ひがしやま》一帶に、山鳴・震動に御座候。尙、委敷《くはしく》申上度《たく》候へ共、未《いまだ》、手、ふるひ、難ㇾ書《かきがたく》、書面文略仕候。尙、追々、跡より、可二申上一候。倂《しかしながら》、追々、靜り、おだやかにも相成可ㇾ申候間、此段、乍ㇾ恐、御安心可ㇾ被ㇾ下候。河原納凉《からなうりやう》も、一體、不景氣の上、此度の騷動にて、「見せ物」も相止《あひや》め、「ばけ物」の出そふな河原にて、さびしき事に御座候。乍二末筆一、奥樣、始め、何《いづ》れも樣え、宜敷《よろしく》被二仰上一可ㇾ被ㇾ下候。德事[やぶちゃん注:意味不明。或いは、六右衛門の妻の名前が「德」というのか。]も、此頃は、病氣、差起り、昨今は打臥罷在候。右、宜申上吳候樣申居候。先《まづ》は御禮御請《おうけ》迄申上度《たく》、不二取敢一如し此御座候。頓首。
七月九日 六 右 衞 門
[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げ。]
庚寅八月十四目日、大阪書林河内附茂兵衞より到來、當時、京都にて寫本にて行はる由也。初めは印行せしを、早く絕板せられしかば、寫本になりたり。八月六日出の狀中に云、「今日、京都より參り候人の申候には、今、以、振動は不ㇾ止よしに御座候」云々。
[やぶちゃん注:「佐州小木湊」新潟県佐渡市小木町(おぎまち)。佐渡島の小木(グーグル・マップ・データ)。これより二十八年前に起こった享和二年十一月十五日(一八〇二年十二月九日)に佐渡島小木付近の海域を震源として発生した佐渡小木地震。マグニチュード六・五から七・〇と推定される地震で、享和佐渡地震とも呼ばれる。津波の記録はないが、小木半島の海岸では約二メートルの隆起が生じたと考えられている。参照した当該ウィキを見られたい。
「羽州浦田湊」不詳。或いはこれ、「浦田湊、幷、キサガタ」(象潟)とセットで「浦田湊」の「浦田」は「酒田」の誤りか誤写・誤読ではあるまいか? 象潟地震は文化元年六月四日夜四ツ時(一八〇四年七月十日午後十時頃)に出羽国を中心として発生した津波を伴った大地震。マグニチュード 七・一から七・五との推定のほか、七・〇前後ともされる。震源は象潟十数キロメートル沖の海底の断層かとされる。ご存知の通り、芭蕉の見た象潟の大部分が陸化してしまった。同前でこちらを参照されたい。
「越後三條」三条地震。文政十一年十一月十二日(一八二八年十二月十八日)に現在の新潟県三条市付近で発生した。震央は三条市芹山付近で、マグニチュードは六・九と推定されている朝五ツ時上刻(凡そ午前九時前)に発生したとされる。同前でこちらを参照されたい。
「江州の大地震」文政近江地震。文政二年六月十二日(一八一九年八月二日) の未の下刻頃(午後三時頃)に本州中部、伊勢・美濃・近江で発生した大地震。マグニチュード七・一・〇前後又は六・九で、震源は一説に琵琶湖東方の水底下かとされる。同前でこちらを参照されたい。]
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