芥川龍之介書簡抄149 追加 大正四(一九一五)年六月十二日 井川恭宛書簡
[やぶちゃん注:必要があって以下に電子化する。底本は岩波書店旧全集の「一六二」番書簡。年末に至って右糸切り歯の根本が痛むので(先週、歯科医が見落として、一月十三日に治療をすることになっているが、どうなるか、判らんね。チステかも知れん。もし、おかしくなったら、ブログも更新しないかも知れない)、注は、漢詩その他以外は、筑摩書房の全集類聚版及び岩波新全集人名解説索引等に主に拠った。]
大正四(一九一五)年六月十二日・「京都市京都帝國大學寄宿舍内 井川恭樣」・「十二夕 田端 芥川龍之介」
試驗は十日に始まつて十五日にすむ 日數は短いが一日に二つある日がある位で中々充實してゐるから厄介だ 殊にこの一年來興味のないものには努力する事が益〻出來なくなつて來たので余計厄介だ そして專問の英文學の講義が僕には一番興味がないんだから愈〻厄介だ 最後にまだ一週二囘づゝ品川の醫者へ通つてゐるんだからその上に厄介至極だと云つていゝ
今日沙翁の試驗があつた プリントを送るから見てくれ給ヘ シエクスピアのソネツトはW・H・にさゝげてあるがそのW・H・は誰だと云ふ推側を十ばかり書いてそれを一々誰の說にして誰の反對說ありと云ふやうな調子で批評すると一題でも隨分長くなる おかげで一生役に立たないに相違ないとしか思はれない名前や事賞實をむやみに覺えさせられた 沙翁のソンネツトの初版は四つ切版で行數二千五百五十一行 その中誤植三十六 ヴイナス アンド アドニイスは同版で行數三千四十七行その中誤三十六と云ふのはその一つにすぎない
体はいゝとも惡いとも自分にはわからないがそんなに惡くはなささうだ
差當り僕の頭は數字で一杯になつてゐる デイツケンスの著作年表 ペトーラルカのソンネツトの數 十六世紀のソンネツト作家の作品總數 沙翁のソンネツトの番号 及シムベラインの幕數景數――實際災だ 早く自分の事がしたくつてたまらないが仕方がない ノートのよみきれない科目は半創作的な答案を書いて間に合せてゐる
田端は若葉――あらゆる種類の若葉で埋つてゐる その上に每日靜な雨がさあつとふつてゐる 僕が雨期を愛するのは君もしつてゐるだらう 僕は少しでもテテイツシユ[やぶちゃん注:底本では右にママ注記がある。]な心のある人なら誰で黴のはへる事位は度外視して雨期を愛すべきものだと思ふ この頃の雨に飽きた木の枝ほどうつくしくしだれてゐるものは外にない 江城五月黃梅雨と云ふが黃梅、黃麥、新綠及び灰色の空の美しい諧調は西洋の詩に見られない美しさであらう 雨のはれまを散步すると家々門巷掃桐花と云ふ句を思出す 槐影沈々雨勢來と云ふ句を思出す 一川薰徹野薔薇と云ふ句を思出す 僕は試驗後少くも半月は雨がふつてゐる事を祈つてゐる
蚊は存外ゐない
增野氏は氣の毒だ 同情した 心もちが可成よくわかつたから
しかしギタンヂヤリの譯はいけない 隨分大きな誤譯がある それも急ぐからかもしれない
帝劇で武者の「わしも知らない」をやる やるのは猿之助
早く自由にいろんな事がしたい 僕にはする事しなくてはならない事が澤山ある 僕の友だちに一人今三期の結核患者がゐるが病氣が病氣なので誰も見舞ひにゆかない 姊さんと妹と三人ぐらしで姊さんもまだ片づいてゐないのだから大へんだ 病院へ入れておくのも苦しいらしい あゝなつちやたまらないと思つた しみじみさう思つた その人が野心家でないのはまだしもの幸かもしれない
どこへゆくともまだきまつてゐないがどこかへゆく
十二日夕 龍
井 川 君
[やぶちゃん注:「W・H・」筑摩全集類聚の脚注に、『シェイクスピアのソネットSonnet(十四行詩)一五四篇中の一二〇数篇に歌われている美少年』とある。
「四つ切版」同前で、『quarto 本の大きさ。7✕8』½『または10✕13 インチ大』とある。
「ヴイナス アンド アドニイス」同前で、『一五九三年の作。Henry Wriothesley(ソネットの相手とも言われる)に捧げられている』とある。
「シムベライン」同前で、『Cymbeline(「シンベリン」(1609~10)。シェイクスピアの晩年の作』。古いケルト人ブリテン王に纏わる戯曲。
「テテイツシユ」筑摩版全集類聚本文では、『エステテイツシユ』と修正されてある。脚注に、『ästhetisch(独)。美的』とある。
「江城五月黃梅雨」これは李白の七絶「與史郞中欽聽黃鶴樓上吹笛」(史郞中欽と黃鶴樓上に吹笛(すいてき)を聽く)の結句「江城五月落梅花」の記憶の誤りと思われる。また、この詩句の「落梅花」は眼前の風景から連想した楽曲の名称であるので注意されたい。
「家々門巷掃桐花」宋の張澮川の七絶「寒食」の結句。「家家 門巷 桐の花を掃(は)き」。
「槐影沈々雨勢來」宋の司馬光の七絶「夏日西齋卽事」の承句。「槐(えんじゆ)の影は沈沈(しんしん)として 雨勢(うせい) 來たる」。
「一川薰徹野薔薇」出典不詳。「一川(いつせん) 薰徹(くんてつ)す 野薔薇(のばら)」と訓じておく。
「增野氏」筑摩版は不詳とするが、岩波新全集人名解説索引(私は解説索引の部分のみをコピーで持っている)に、『増野三良(1889-1916)詩人。翻訳家。島根県生まれ. 早大英文科卒. 1914年詩誌「未来」を三木露風・服部嘉香・柳沢健らと創刊. 一方、タゴールに傾倒し, 『ギタンヂヤリ』『新月』『園丁』などの訳書を刊行. 肺を患い, 故郷の浜田で夭折した. 』とある。
『武者の「わしも知らない」』これは本書簡抄で二度既注している。武者小路実篤による戯曲「わしも知らない」のこと。釈迦と釈迦族滅亡を描いたもので、大正三(一九一四)年一月に『中央公論』に掲載され、翌年のこの年に帝国劇場で文芸座によって上演された。実篤の戯曲作品で初めての上演で、十三代目守田勘弥が釈迦、二代目市川猿之助が流離王を演じた。私は読んだことがない。詳しくは当該ウィキを参照されたい。
「僕の友だちに一人今三期の結核患者がゐる」筑摩版脚注に「三期」を注して、『現在の安静度一度に当る。結核で空洞ができた重い症状。中学の友人平塚のこと。』とある。府立第三中学校時代の芥川の同級生で友人であった平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)。読むたびに涙がこみあげて来る芥川龍之介の「彼」(私の詳細注附きサイト版)の主人公である。]
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