萩原朔太郎 槪念敍情詩 六篇 (筑摩書房版「萩原朔太郞全集」第十四卷「補遺」所収)
[やぶちゃん注:所持する底本としている昭和五三(一九七八)年二月筑摩書房刊の初版「萩原朔太郞全集」第十四卷(全第十五卷の内)の冒頭「補遺」の中に置かれている。
これは大正一〇(一九二一)年十月号『内在』第六輯に掲載されたもの。
詩論であるが、文末に萩原朔太郎の「槪念敍情詩」なるものが、標題と異なるが、五篇置かれてあり(或いは、冒頭の解説自体を「槪念敍情詩」の散文詩の一種と認識しているのかも知れない)、この五篇は私の知る限りでは、筑摩版全集の詩篇パートには見当たらないので、ここに萩原朔太郎の詩篇の追加として電子化する。太字は底本では傍点「●」である。]
槪念敍情詩 六篇
槪念敍情詩について 槪念敍情詩(又は觀念敍情詩)とは調子を落して書いた敍情詩である。この「調子を落す」といふ謂は、つまり詩の發想に於ける VISIONを稀薄させることであつて、言はば「より散文的な氣分」でかかれた一種の詩である。[やぶちゃん注:欧文は横書。以下同じ。]
普通の敍情詩にあつては、思想それ自らが、一つの完全なVISIONであり、趣味であり、情感でなければならぬ。卽ち純粹の敍情詩としては、所謂「思想」――通俗に言ふ意味での――といふものはない。何故ならば、直感の一元的叡智に於ては「思想卽感情」「感情卽思想」であつて、この境地に於ける心意は、畢竟「趣味」に外ならないからである。然り、すべての藝術は趣味である。美である。しかもこの一つの一元的境地を反省し、之れを批判的に分析するならば、そこで一方には思想が割り出され、一方からは感情が發見される。
この一つの事實は、すべての藝術――音樂、繪畫、彫刻、小說、演劇等――に通じて平等の眞理である。しかしながら、就中、音樂、繪畫、敍情詩等にて一層明白である。諸君はどういふ仕方で美術を觀照するか。繪畫から直接に受取るものは、ただ一つの單純な心意「美」にすぎない。しかしてこの「美」を感得するものは諸君の「趣味性」に外ならない。しかしながら、一度もし諸君が必要に迫られて、或は自己を反省する目的から、そこに何等かの說明――趣味そのものには說明がない――を求めようと欲するならば、諸君は退いて、その單一な感動である「美」を分析し、その美感のよつて來る由所を反省せねばならぬ。ここに於てか卽ち純一の趣味は分析されて、一方では作品の内容を語る思想の發見となり、一方ではその意味されたる感情が理解される。この方法は、繪畫と音樂の觀照批評家が常に經驗してゐる所であるが、敍情詩に於ても、全く同樣である。何となれば、眞の純粹の敍情詩は、本質上、繪畫や音樂と同質であつて、絕對に「說明」や「槪念」を含まないからである。
敍情詩とは、先づかういつた性質の者である。しかしながら、その表現の中には、調子の强さに於て、種々の程度がある。我々は、その比較的「調子の弱い」ものを稱して、普通に「散文詩」――所謂「自由詩」とは別の意味で――と言つてゐる。この所謂「散文詩」は、本質上からみて調子が低いのみならず、形式の上での韻律も低くて、むしろ散文に近いのが普通である。そこで此所に若し、形式上の韻律は、さほどにまで弱められなくつて、しかも本質上に於て甚だしく調子を弱めたるもの――卽ち一層槪念的であり、說明的であるもの――があつたとすれば、何と名づくべきであらうか、之れが卽ちここで問題とする「槪念敍情詩」である。
槪念敍情詩の標本的なものは、ニイチエの論集『悅ばしき智識』の卷頭にかかげられた十數篇の短詩であらう。それらの詩は、すべて立派な押韻を踏み、詩の規則正しき格調を守つた者であるにかかはらず、世評は之れを純粹の敍情詩と眺めてゐない。何故といふに、それは純粹の趣味といふには餘りに智識的、觀念的でありすぎる。純粹の趣味――卽ち一元的の直感――は、決してそんなに固くるしい議論めいたものではない。たとへそこにどんな深玄な哲學が暗示されてあるにもせよ、趣味としての顯現は、その周圍に一種の言ふべからざる情緖、感情の濃やかな色合ひを帶びるのである。その理由は、前に述べた如く、直感の境地に於ては「思想卽感情」「感情卽思想」であつて、兩者一如の眞如を現出するから、若しそこで明らかに、之れは思想、之れは感情、として觀念される者があつたとすれば、何よりもそれが純一の直感でない證據、不純の槪念物たる證據である。
とはいへ、若し少しく觀照者の側での調子を弱めていふならば、既に純粹の槪念といふべきものはないのだから、從つて、どんな調子の弱い詩でも、之れを敍情詩の圈内に繰りあげて差支へないとも考へられる。しかし私は、敍情詩人としての私の良心から判斷して、自分自身に恥かしいもの、卽ち純粹の直感的、人格的の趣味になりきらないもの、未だ多少なりとも槪念や智識のカスを濁した思想は、純粹の敍情詩として發表する勇氣をもたない。すべての思想は、それが完全に人格となりきつた時、全くその思想らしさを失つてむしろ溫かい感情となり、また趣味となつて發顯される。故に趣味で書かれない藝術は、すべて虛僞の――若しくは調子を弱めたる――藝術である。以下發表する六篇の詩は、勿論私にとつて虛僞の詩ではない。それは實際の經驗であり、僞らざる告白である。しかし乍ら、純粹の敍情詩といふべく、あまりに調子を弱めすぎてゐる。卽ちあまりに說明的でありすぎる。所で所謂、それが「槪念敍情詩」なのである。
古くなつた思想
古くなつた思想は
丁度 靴のやうなものである。
足の方で成長しないのなら
だれにだつて
慣れた靴ははきいい。
自由詩人の迷信
汽車は軌道をはしつて行く
あんなにも心持よげに
まるで軌道の リズムの上をすべつて行くやうだ。
だがもし軌道がないならば
汽車はもつと早く
そしてもつと自由に飛ぶだらう。
おお立派な推理!
そこで汽車が顚覆したといふわけ
見られる通り。
美學者と藝術家
君たち 流行おくれの婦人よ
君の新しい衣裝は
いつでも流行の趣味に遲れてゐる。
君の今日知つてゐる美は
僕らが昨日感じた美だ
君らは永遠に追ひつかない。
實用的でない議論
「かれが水に這入るまへから
子供は溺れるにきまつてゐた」
と決定論者が主張した。
「否(いや)。子供は選擇をあやまつた
さうでなく 淺い方へ泳いだならば
子供は此所に立つてゐた」
と反對者が、自由意志の論者がわめいた
「いづれにせよ」
あはれな犧牲の父親が怒り出した
「いづれにせよ子供は死んだ
いづれにせよ この議論は實用的でない」
厭世思想家の趣味
日あたりのいい庭では
どんな菌(きのこ)も發育しない。
だから菌は
どんな天氣にも 日向(ひなた)をすかない。
これは自然に適つた趣味だ。
[やぶちゃん注:底本には編者注があり、『同時發表の「有神論のヂレンマ」は「全集第四卷(『新しき欲情』)」に收錄』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの同原本のここ。電子化しておく。
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212
有神論のヂレンマ 神がもし人間であるならば! と無神論者が言つた。愛したり、憎んだり、罰したり、怒つたりする人間であるならば、おお、私は神を輕蔑する、神がもし人間でないならば、自然のやうな、宇宙のやうな、實在のやうな、無限のやうな創造者のやうな、雲をつかむやうなものであるならば、神の存在に就いて、私にまで何の關係があらうぞ。
*
「ニイチエの論集『悅ばしき智識』」「悦ばしき知識」(Die fröhliche Wissenschaft)は一八八二年刊。ウィキの「ニーチェ」によれば、『ニーチェの中期の著作の中では最も大部かつ包括的なものであり、引き続き』、『アフォリズム形式をとりながら、他の諸作よりも多くの思索を含んでいる。中心となるテーマは、「悦ばしい生の肯定」と「生から美的な歓喜を引き出す気楽な学識への没頭」である(タイトルはトルバドゥールの作詩法を表すプロヴァンス語からつけられたもの)』。『たとえば、ニーチェは、有名な永劫回帰説を本書で提示する。これは、世界とその中で生きる人間の生は一回限りのものではなく、いま生きているのと同じ生、いま過ぎて行くのと同じ瞬間が未来永劫繰り返されるという世界観である。これは、来世での報酬のために現世での幸福を犠牲にすることを強いるキリスト教的世界観と真っ向から対立するものである』。『永劫回帰説もさることながら、『悦ばしき知識』を最も有名にしたのは、伝統的宗教からの自然主義的・美学的離別を決定づける「神は死んだ」という主張である』とある。私は邦訳全集を所持するが、ドイツ語は読めない。原文が読める方は、こちらに電子化されてある。]
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