「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 錢孔に油を通す
[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。
以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから次のコマにかけて。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。
注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。]
錢孔に油を通す (大正二年九月『民俗』第一年第二報)
誰が書《かい》たか知らぬが、「長秋夜話」と云ふ三册本の卷上に、飛鳥井《あすかゐ》大納言雅世《まさよ》卿、蹴鞠に分けて譽れ有り。或時、貴賤、群集して觀る所で、鞠筥《まりばこ》の底脫《そこぬけ》たのを、腰に結ひ付け、其筥を通して鞠を蹴る事、幾度しても外さず。然るに、見物中に、油賣商《あぶらうり》有《あつ》て、「何の此曲が其樣に珍らしいか、人々の感歎、心得難い。」と云ふ。側に居たる者、「この秘曲は、彼《かの》卿のお家にのみ傳ふる所なるを、輕評するは、淺ましい。」と罵り惡《にく》む。鞠、濟《すん》で、邸外で、彼油賣、前刻《ぜんこく》、側に居たる輩に向ひ、「吾、所存有《あつ》て、斯《か》く言《ふう》た。これを見よ。」とて、荷桶より、一升升《いつしやうます》を取出し、十分に油を盛り、右の手に、錢一文、持て、油を容るる器に當て、油を器へ注ぐに、油、其錢穴の眞中を通りて、少しも錢を汚《よご》さず、一升の油器へ移り了《をは》る。衆《もろもろ》の見る者、手を打《うつ》て驚歎す。油賣、言ふ、「此曲を習ふて能くするに非ず。每日の經驗で、不覺《おぼえず》、熟練した。飛鳥井卿は、蹴鞠が家業故、幼年より、自然《おのづ》と精通したのぢや。」と、やりこめられて、一同、閉口した、と有る。
此樣な話は支那にも有て、「淵鑑類函」三二四に、金坡遺事曰、陳堯咨善射、亦以自矜、嘗射二於家圃一、有二油翁一、釋ㇾ擔而睨ㇾ之、久不ㇾ去、見三其發ㇾ弓十中二八九一、但微頷ㇾ之、問曰、汝亦知ㇾ射乎、吾射不二亦精一乎、翁曰、無ㇾ他但手熟耳、陳忿然曰、爾安敢輕二吾射一、翁曰、以二我酌一ㇾ油知ㇾ之、乃取二一葫蘆一、置二於地一、以ㇾ錢覆二其口一、徐以ㇾ杓酌ㇾ油、瀝瀝自二錢孔一入、而錢不ㇾ濕、因曰、我亦無ㇾ他、唯手熟爾、陳笑而遣ㇾ之〔「金坡遺事」に曰く、『陳堯恣《ちんぎやうし》、射《しや》を善くし、亦、以つて自(みづか)ら矜(ほこ)る。嘗つて、家圃(かほ)にて射る。賣油(ばいゆ)の翁(わう)あり、擔(に)を釋(お)きて、之れを睨(み)て、久しく去らず。其の弓を發すること、十にして、八、九、中(あ)つるを見、但(ただ)、微(わづ)かに之れに頷(うなづ)くのみ。問ひて祝曰はく、「汝、亦、射を知るか。吾が射、亦、精(たくみ)ならざるか。」と。翁曰はく、「他(ほか)に無し。但(ただ)手の熟するのみ。」と。陳、忿然(ふんぜん)として曰はく、「爾(なんぢ)、安(いづくん)ぞ敢へて吾が射を輕んずるや。」と。翁曰はく、「我れの油を酌むを以つて、之れを知れ。」と。乃(すなは)ち、一つの葫蘆(ふくべ)を取りて、地に置き、錢を以つて、其の口を覆ふ。徐(おもむ)ろに杓(しやく)を以つて油を酌(く)み、瀝々(れきれき)として錢の孔(あな)より入るるも、錢、濕(ぬ)れず。因りて曰はく、「我れ、亦、他、無し。唯(ただ)、手の熟するのみ。」と。陳、笑ひて、之れを遣(や)る。』と。〕。「今昔物語」十、「長安市汲ㇾ粥施ㇾ人嫗語第卅七」〔長安の市(いち)に粥(かゆ)を汲みて人に施(せ)せし嫗(おうな)の語(こと第三十七)〕も似て居《を》る。
[やぶちゃん注:「長秋夜話」不詳。近似する書名のものを調べてみたが、それらしい部分を発見出来なかった。
「飛鳥井大納言雅世」(元中七/明徳元(一三九〇年)年~宝徳四(一四五二)年)は室町前期の歌人。初名は雅清。正二位権中納言。雅縁(まさより)の子で、飛鳥井家第七代当主。和歌と蹴鞠を師範とする堂上家(とうしょうけ)の人として育ち、早くから第三代将軍足利義満に仕え、義満五男で第六代将軍となった足利義教まで長く信任された。多くの歌集の編纂に携わり、蹴鞠に関する「蹴鞠条々大概」がある。
「結ひ付け」底本は「張り付け」であるが、公卿の仕様としてはおかしいと思い、「選集」を採用した。
「此曲が其樣に珍らしいか」「このきよくがそのやうに」。「選集」では『この曲がそんなに珍らしいか』とする。意味は、「そんな技(わざ:曲芸)がどうしてそんなに珍しいのか?」の意。
「淵鑑類函」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)で、南方熊楠御用達の漢籍である。「漢籍リポジトリ」の当該巻の「射三」の当該部([329-20b])の影印本画像と校合した(底本には誤字有り)。
「葫蘆」瓢簞のこと。無論、中を抜いて物を入れるように加工した容器としてのそれである。
『「今昔物語」十、「長安市汲ㇾ粥施ㇾ人嫗語第卅七」』以下の示す。テクストは「やたがらすナビ」のものを加工データとして使用し、正字表記は芳賀矢一編「攷証今昔物語集 中」の当該話で確認した。所持する「新日本古典文学大系」三十四巻も参考にした。読み易さを考えて段落を成形した。
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長安の市に粥を汲みて人に施せし嫗の語第三十七
今は昔、震旦(しんだん)の長安の市に、粥を、多く煮て、市の人に食はしむる嫗、有りけり。
此の市に行き違(か)ふ人の、員(かず)知らず、日の出づる時より、日の入るる時に至るまで、市の門(もん)を出入りするに、市の門の前に、粥を多く煮(に)、儲(まうけ)て、百千の器(うつはもの)を並べ置きて、其の粥を、其の器に盛りて、人に食はしむる功德(くどく)を造りけり。
而るに、始めは、其の粥を𣏐(ひさこ)に汲みて、慥(たし)かに器に入れけるに、漸(しばら)く年月積もるに隨ひて、功(く)、入りにければ、一、二丈を去りて、杓に粥を汲みて擲(な)げ入るるが、塵許(ちりばか)りも泛(こぼ)さざりけり。
猶、年月を經て、久しく積もるに隨ひて、四、五丈を去りて、杓に粥を汲みて擲げ入るるが、露許(つゆばか)りも泛さざりけるを、見る人の云ふ樣(やう)、
「然(しか)らば、何事なりと云ふとも、年來(としごろ)の功(く)、入らば、此(か)くの如く有るべきなりけり。」
となむ、云ひ合ひけるとなむ、語り傳へたるとや。
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「儲(まうけ)て」設置して。「人に食はしむる功德を造りけり」というところから明らかなように、この老女は粥を売って鬻いでいるのではなく、人へ無料で食を布施することで、自らの来世の功徳を得ている慈善事業として無料で配布している点に注意せねばならない。但し、この遠投して椀に入れる曲芸は、それなりの投げ銭のおこぼれは受けられたと考えるべきではある。
「𣏐(ひさこ)」「杓(しやく)」に同じ。「ひさこ」は「瓢」(ひさご)で、昔は瓢簞を乾燥させて四分したそれに柄をつけて柄杓としたことによる和訓である。
「一、二丈」本邦の一丈は中世以降、現行と同じ三・〇三メートルであり、読者もそれで換算するしかないが、以下の離れた距離は異様に長過ぎる感じがするかも知れない(五丈は約十五・一五メートル)。而してこの話柄(出典未詳)は大陸伝来のものであるが、実は中国の一丈も唐代には三・一一メートルであり、それ以前でも二メートル超ではある。最も短い周から前漢の頃でも二・二五メートルであるから、五丈は十一・二五メートルとなるので、まあ、技の凄さを誇張するための、中国お得意の誇張表現と押さえておけば、よいであろう。]
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