[やぶちゃん注:本書の解説や底本等は、冒頭の「累が最後之事」を参照されたい。「助か」はママ。「助が」。本文には身体障碍者に対する差別用語が出るので、批判的に読まれたい。]
顯誉上人助(すけ)か㚑魂を弔(とふらひ)給ふ事
比は、寬文十二年、飯沼壽龜山弘經寺(いゝぬまじゆきさんぎきやうじ)にて、四月中旬の結解(けつげ)より、大衆(しゆ)一同の法問(ほうもん)、十七日に始(はじま)り、三則目に當(あたつ)て、十九日の算題は、發迹入源(ほつしやくにふげん)の說破(せつは)なれば、各々、眞宗の利劔を提(ひつさ)げ、施化利生(せけりしやう)の陣頭におゐて、法戦(ほつせん)、場に火花をちらし、右往左往に、勝負をあらそひ、単刀直入のはたらき、互に、隙なき折から、祐天和尚も今朝(けさ)より、數度(すどの)かけ合(あい)に、勢力も、つかれたまひ、しばらく息をやすめて、向ひを、
「きつ」
と詠(なが)めたまへば、羽生村の庄右衞門、只今、一大事の出來し[やぶちゃん注:「しゆつたいし」。]、喉(のんど)にせまる風情(ふぜい)にて、祐天和尚の御顏を、あからめもせず、守り居(ゐ)たり。
和尚、此よし、御覽じて、
『いかさま、此者のつらつきは、今日、妻子の死にのぞむか、さては、きわめたる一大事出來せりと見へたり。何事にてもあれかし、この法席(ほつせき)は、たつまじものを。』
と、見知らぬていに、もてなし、確乎(かつこ)としてぞ、おわしける。
[やぶちゃん注:「結解」「結夏(けつげ)」のこと。安居(あんご:四月から七月の夏季九十日間に亙って行なわれる仏道修行)の開始当日を指す。ここにある通り、「寬文十二年」「四月中旬の結解」で「十七日」が、その日。グレゴリオ暦で一六七二年五月十四日。
「大衆一同の法問」所持する高田衛先生の「江戸の悪魔祓い師(エクソシスト)」(一九九一年筑摩書房刊)の注によれば、『浄土宗の檀林では、定期法問』(「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「法問」によれば、『浄土宗義に関する問題を提出し、質疑応答すること。法門とも書き、論義、談義ともいう。江戸時代に盛んに行われ、特に檀林においては所化の学識能力を図る試験として重視された。法問には臨時と定期の二種類があった』とある)『として、四月十七日から二十一日まで、十月十七日から二十一日まで、年二回の法問の行事が定められていた。この期間は、学僧たちそれぞれにとってハレの場であった。とくに四月の法問は学僧にとって、年一度の重要な試練の日であった』とある。だから、祐天は、明かに、羽生村で再び何かが起こっていることを感じ取りながらも、近くで深刻な顔で凝っと彼を見つめている庄右衛門を、敢えて無視しているのである。
「三則目」ここまでの法問の宗門に関わる議論の問題は、毎日、一則宛出ていることが判る。
「算題」順番に出題される定期法問の法問問題。
「發迹入源」凡夫には理解出来ない仏の深妙な教えを、理解することに拘らず、仏智を仰ぎ信ずる法問を言う(同じく「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「施化利生門・発迹入源門」に拠った)。]
庄右衞門が心の内、
『此日の法問、過(すく[やぶちゃん注:ママ。])る事、千歲を(ちとせ)まつに、異ならじ。』
と推量(おしはか)られて知られたり。
扨、やうやうに、法問、はて、大衆も、みなみな、退散すれば、祐天和尚も、所化寮さして歸り給ふに、庄右衞門、やがて、後(しり)につき、そゞろあしふんで[やぶちゃん注:落ち着かない足取りで。]來る時、和尚、寮の木戶口にて、うしろを
「きつ」
と、かへり見たまひ、
「いかにぞや、庄右衞門殿、用有(ようあり)げに見ゆるは、何事にかあらん、おぼつかなし[やぶちゃん注:不審である。]。」
と、のたまへば、庄右衞門、畏(かしこま)り、
「さればとよ、和尚樣、かさねが、また、きたり、今朝よりせめ候が、もはや、命は、つゞくまじ。急ぎ、御出、有べし。」
と、所まだらに、いゝちらす。
[やぶちゃん注:「所まだらに」火急のことなれば、「所々を略して短くして」訴えたである。]
和尚、聞も[やぶちゃん注:「きくも」。]あへたまわず、
「さては。其方は、さきへ行け。我も追付(おつゝけ)行べし。」
と、しやうぞく、召かへ、出給ふが、何とも、りやうけん、したまわず、門外の松原まで、只、うかうかと[やぶちゃん注:心が落ち着かないさま。]ゆき給ふを、庄右衞門、待受(まちうけ)、申やう、
「何となさるゝぞや、和尚樣、はやく御越候ひて、十念さづけ給へ」
と、いふに、和尚のたまはく、
「何とかさねが來るとや。其用所(ようじよ)、何事にかあらん。また、せめのやうだいは、いか樣なるぞ。」
と問たまへば、庄右衞門申樣[やぶちゃん注:「まをしやう」。]、
「今朝の五つ時[やぶちゃん注:午前八時頃。]より、『かさねが、また、參りたり。』とて、与右衞門も、金五郞も、名主と我等に告(つげ)しらせ候ゆへ、早々、兩人、參りて、そのありさまを見候に、まづ、くるしみのていたらく、日比(ひごろ)には百倍して、中に、もみあげ、てんとうし、五体、あかく、ねつなふして、眼(まなこ)の玉も、ぬけ出しを、兩人、いろいろ、介抱、仕り[やぶちゃん注:「つかまつり」。]、
「累よ、菊よ、」
と呼(よばは)れとも、有無(うむ)の返事もならばこそ、只、ひらぜめの苦痛なれば、大方(おほかた)、命(いのち)は御座あるまじ。せめての事に、十念を、からだになり共、さづけ給ひ、後生、御たすけ候へ。」
と、なみだくみてぞ、かたりける。
[やぶちゃん注:「中に、もみあげ」身体が内側に捩じられ、揉み上げられるような様子を言う。私は、癲癇症状の一つで、頭と足先だけが床について、その他の部分が、弓なりに反ってしまう、所謂、「ヒステリー弓(きゅう)」のような状態を言っているように感じられる。とすれば、「てんとう」は「顚倒」で、その弓形(ゆみなり)から、ひっくり返ることを言っていると私は初読時にはイメージした。高田先生は前掲本で、『〈中〉は〈宙〉で、〈てんとう〉は〈顚倒〉であろう。五体揉みしだかれ、屈曲させながら、宙に逆さに浮揚している、というのである』とさる。まさに「エクソシスト」の一場面もかくやという、衝撃的映像で頗る映画的な奇体な空中の転倒(逆さま)浮揚というわけだが、事実、後で、祐天自身も現認する――事実の怪現象――なのである。現世とは、その根を異界に生きる幽霊は、本邦では、しばしば逆立ちして、出現する。その依るところの基本原則が我々とは真逆に反転しているもの(善悪も逆転する)ことを象徴するものとされる。
「五体、あかく、ねつなふして、眼(まなこ)の玉も、ぬけ出」(いで)「し」全身残らず赤変しているというのは、高熱によるものであり、とすれば、「ねつなふ」とは、体内からの熱によって苦しみ悩む身体状態、「熱惱(ねつなう)」の意と理解出来る。実際の疾患としても、熱性マラリアの症状にごく近い。因みに、高田先生も「熱悩」とされる。
「ひらぜめ」高田先生は後注で、『ここでは、間断なく、責めが続くことを指す語であろう』とされる。]
和尚、此よし、聞しめし、いよいよ、心おくれつゝ、たゞぼうぜんと、あきれはて、夢路(ゆめぢ)をたどる心地にて、あゆみかねてぞ、見へたまふ。
[やぶちゃん注:先の調伏の際、祐天は寺や朋輩僧に責任が及ばぬように、自分一人の責任に於いて、それを執行しているから、今回の再憑依が、確かに再び累の亡魂によるものであるとすれば(祐天の不審は正しく、実は違う(累の霊ではない)のだが)、そうなると、祐天自身の法力不足によるものであって、彼の個人的責任が僧衆の中で大きな問題となり、彼の名声も地に落ちることになるから、特異的に「心おくれ」、「茫然と」「あきれはて」「あゆみかねて」いるのである。]
時に庄右衞門、言葉あらゝかに、いふやう、
「こは、きたなし、祐天和尚。たとひ、天魔のしわざにて、菊が命を、せめころし、貴僧の、ちじよくに及びて、身をいかやうになしたまふとも、名主・それがし兩人は、『命かぎりに御供せん。』と、約諾(やくだく)、かたく、相極め[やぶちゃん注:「あいきわめ」。]、此惣談、決定(けつてう)して、名主を、あとに、とめ置き、それがし一人、御むかひにまいりたり。此上は、貴僧、いかやうに成給ふ共、我々、兩人、御供仕らんに、何のあやうき所か、おわせん。はやく、いそぎ給へ。」
と、いへば、和尚、あざわらつて、のたまはく、
「おろか成、[やぶちゃん注:「なり、」]庄右衞門。汝等二人、我が『供』とは、それ、何のためそや[やぶちゃん注:ママ。]。汝は、いそぎ、さきへ行け。我は、こゝにてしばらく、祈願するぞ。」
と、のたまひて、心中に、誓(ちかひ)たまわく、
「釈迦・弥陀、十方の諸佛達、たとひ、定業(でうごふ)かぎり有て、菊が命は失(う)するとも、二度[やぶちゃん注:「ふたたび」。]爰に押かへし、我敎化にあわせてたべ。かれを捨置給ひて、我を外道に成し給ふな。佛法の神力(じんりき)、此度(このたび)ぞ。」
と、決定のちかひ、たておわつて、いさみすゝんで行(ゆき)給へば、庄右衞門も、力を得、ちどりあしを、かけてぞ、いそぎける。
やうやう、近付[やぶちゃん注:「ちかづき」。]、与右衞門が家を見渡せば、四方のかこひ、柱斗(はしらばかり)を、のこしおき、ことごとく、引拂(ひきはら)ひ、屋敷中[やぶちゃん注:「やしきうち」。]は、尺地(せきち)もなく[やぶちゃん注:僅かな地面も見えぬほどに。]、老若男女、みちみちたり。
[やぶちゃん注:前に「死靈解脫物語聞書下(2) 祐天和尚累を勸化し給ふ事」で掲げた際に言ったが、一つのキャプションを除けば、この絵は、確かに、この附近に配すべき挿絵であるので、再掲しておく。]
其外、大路のうへ、木の枝、こゝかしこの大木まで、のぼりつれたる見物人、かくばかり此村に、人多くはなけれ共、前々よりのふしぎなど、遠近にかくれなく聞つたへし事なれば、
「又、今朝より、せむるぞ。」
と、つげ渡るにや、あるらん、道も、田畑も、平おしに、皆、人とこそ、見へたりけれ。
かくて、祐天和尚と庄右衞門は、いそぐに、ほどなく、与右衞門が家近く着給へども、いづくをわけて入給ふべきやうもなく、人のうへをのりこへ、ふみこへ、やうやうとして、菊がまくらもとに近付たまへば、されども、疊(たゝみ)一枚敷(まいじき)ほど、座を分(わけ)て待居(まちゐ)たるに、やがて着座し給ひ、あせ、おしのごひ、あふぎを、つかひ、しばらく、やすみ給ふ時、名主、いと心せき顏(がほ)にて、
「まづまづ、はやく、菊に十念をさづけ給ひ、いとまを、とらせ給ふべし。とくに、おち入る者にて候ひしが、貴僧の御出(いで)を相待(あいまつ)と見へ申。」
と云時、和尚のたまわく、
「まて。しばし。十念も、授まじ[やぶちゃん注:「さづけまじ」。]。ちと、思ふ子細(しさい)、有。」
とて、ながるる御あせを、押拭(おしのごいひ)、押拭、菊が苦痛を見給へば、実(げ)にも、道すがら、庄右衞門がいふごとく、床より上ヘ一尺あまり浮きあがり、浮きあがり、中[やぶちゃん注:「ちゆう」。]にて、五たいを、もむこと、『人道(だう)の中にして、かゝる苦患(くげん)の有べしとは、何れの經尺(きやうしやく)[やぶちゃん注:経典や書物。]に見へけるぞや。是ぞ、始めの事ならんと見るに、心も忍びず、かたるに言葉もなかるべし。』と、あきれはてゝぞ、おわしける。
『「いかなる罪のむくひにて、さやうの苦痛をうけしぞ。」と、傳へ聞さへあるものを、まして、その座に居給ひて、まのあたり、見られし人々の心の内、さぞや。』
と思ひはかられて、筆(ふで)のたてども、わきまへず。
[やぶちゃん注:最後の一段落は、作者自身が、登場して、一言言っているものととっておく。]
其時、名主、こらへかね、和尚に向て、いふやう、
「ひらに、十念を授け給ひ、はやく、いとまをとらせ給へ。」
といふに、和尚のたまわく、
「何として、さは、急ぐぞ。」
と、のたまへば、名主がいわく、
「和尚は、御心、つよし。我〻は、かゝる苦患を見候ひては、きも、たましゐも、うせはつる心地して、中中、たへがたく候ふ。」
と、いへば、和尚のたまわく、
「さのみ機遣(きづかい)したまふな、名主殿。何ほどに苦(くるし)むとも、めたと、死するものに、あらず。さて、此責(せめ)るものは、しかと、累と申[やぶちゃん注:「まをす」。]か。又、何の望(のぞみ)、有て、來れりと申か。」
と問たまへば、名主、荅へていわく、
「されば、今朝(けさ)より、いろいろ、たづね候へ共、一言(こと)も物は申さず、只、ひらぜめにて候。」
といふ時、和尚、
「扨こそ、まづ、其相手を聞さだめ、子細をよくよく問(とい)きわめずは、十念は授くまじ。」
とて、きくが耳のもとにより、
「汝は、菊か。累なるか。また、何のために來るぞや。我は、祐天なるが、見しりたるか。」
と、高聲(かうしやう)に、二声(こゑ)、三声、すきま、あらせで、問給ふに、苫痛は、少し、やみけれども、有無の返事は、なかりけり。
しばらく有りて、また、右のごとく問給へば、目の玉の、ぬけ出たるも、引入(ひきいり)、色のあかきも、たちまち、あをく成、たゞ、まじまじと、和尚の御顏をながめ、淚をうかべたるばかりにて、いなせ[やぶちゃん注:「「否諾(いなせ)」。]の返事は、せざりけり。
其時、和尚、いかりを顯はし、左の御手をさしのべ、かしら髮を、かいつかみ、床の上におしつけ、
「おのれ、第六天の魔王め。人の物いふに、何とて、返事はせぬぞ。只今、ねぢころすが、是非、いわざるや。」
と、しばし、しづめて聞たまへば、其時息の下にて、たへたへしく、何か一口(くち)、物(もの)をいゝけるを、和尚の耳へは、
「す。」
と、ばかり入けるに、名主、はやくも、聞つけ、
「『すけ』と申、『わつぱし』で御座あると申。」[やぶちゃん注:「小童衆(わつぱし)」。]
といふ時、
「とは、何者(なにもの)の事そ[やぶちゃん注:ママ。]。」
と問たまへば、名主がいわく、
「こゝもとにては、六つ、七つばかり成男の子を、『わつぱし』と申。」
といひければ、和尚、菊に向て、のたまはく、
「其『助』といふものは、死たるものか、生(いき)たる物か。」
と聞たまへば、また、息の下にて荅(こたふ)るやう、
「『かて、つみにゆく。』とて、松原の土手から𥿻川(きぬかわ)へ、さかさまに、うちこふだ。」[やぶちゃん注:「糧、摘みに行く」で「食材にする野草を、摘みに行くよ。」の意。]
と、いふを、和尚、やうやう聞うけたまひ、
「さては。聞へたり。」
とて、打あをのき、名主に向て、のたまふは、
「いかに。其方は、いやなる所の名主哉(かな)、今の詞を聞たまひたるか。さては、此『わつぱし』は、大方、親のわざにて、川中へ、打こふだりと、聞へたり。いそひで、此おやを、せんさくしたまへ。」
と有ければ、名主、承り、
「尤。仰せ、かしこまつて候へ共、かつて、跡形(あとかた)も、しれぬ事なれば、何とかせんぎ仕らん。只、そのまゝにて御弔(とふらひ)あれ。」
といふ時、和尚のたまはく、
「よく合㸃し給へ。名主殿。すでに此㚑、つく事は、その怨念をはらさんために、來(きた)るには、あらずや。しからば、かれが本望(ほんもう)をも、とげさせず、ぜひなく、弔ふたればとて、何としてか、うかぶべき。早々、せんぎしたまへ。」
と有れば、名主、また、いわく、
「御意[やぶちゃん注:「ぎよい」。]、もつともにては候ヘ其、今、此大群の中にて、何者を、とらゑ、いかやうにか、せんぎ仕らん。」
と、一向、承引(せうゐん)せざる時、和尚、いかつて、のたまはく、
「さては。その方は、我がいふ事をうけぬと見へたり。よしよし、我、今、寺に歸り、弘經寺を、おしかけ、地頭・代官へ、つげしらせ、急度、せんぎを、とぐべきが、それにても、なを、所の者を、かばい、『せんぎ成まじ』と、いわるゝか。」
と、あらゝかに、のたまへば、名主、途方にくれ、
「さては、何とか、せんぎ仕らん。庄右衞門は、いかゞ思はるゝぞ。」
といふ時、庄右衞門がいわく、
「とかく、たゞ今、和尚のたつね給御詞(ことば)と、菊が荅る言葉を、少ものこさず、此大勢の中へだんだんにふれ廻し、一々、人の返荅をきくより、外の事、あらじ。」
といひければ、
「此義、尤、しかるべし。」
とて、名主、一つの法言(ほうげん)[やぶちゃん注:従うべき触れ事。]を出し、居長高(ゐだけたか)に、のびあがり、高聲(かうしやう)に、ふれまはすは、
「おこがましくはありながら、とふとかりける、せんぎなり。其ことばにいわく、『只今、祐天和尚、『菊を責る者は、何ものぞ。』と、たづね給へば、㚑魂の荅へには、「『すけ』といふ『わつぱし』成(なる)が、『「かて、つみにゆく。」とて、松原の土手より、きぬ川へ、さかさまに、打こふだ。』と。こたへたり。然るあひだ、その打こみたる人を御尋あるぞ。縱ひ、親にても、兄弟にても、其外、親類・けんぞくにても、ありのまゝに、さんげせよ。若、又、他人・他門にてもあれ、此事におゐて、かすかに成共[やぶちゃん注:「なるとも」。]、見聞(けんもん)したる輩(ともがら)は、まつすぐに、申出よ。當分に、かくし置き、後日のせんぎに、あらはれなば、急度(きつと)、六ケ敷(むつかし)かるべし。」
と、段々に、いゝつぎ、一々、次㐧に、ふれ𢌞(まわ)す。
庄右衞門がことわりには、
「少も、此義、しる人あらば、早々(そうそう)、申出られよ。まづは、その身の罪障懺悔(ざいしやうさんげ)、後生菩提のためなるべし。かつは、亡者の怨念、はらし、速(すみやか)に成佛させんとの御事にて、祐天和尚の御せんぎぞや。たのむぞ、たのむぞ、人々。」
と、かなた、こなた、二、三返、告渡れ共、皆々、
「しらず。」
といふ中に、東の方、四、五間[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]ばかり隔(へたて[やぶちゃん注:ママ。])たる座中より、老婆のあるが、のびあがり、
「其事は、八右衞門に、御尋(たつね[やぶちゃん注:ママ。])あれ。」とぞ、訴へける。
名主、此よし、聞よりも、
「それ、八右衞門は、何くに[やぶちゃん注:「いづくに」。]あるぞ。」
と呼(よば)はれば、
「今朝(けさ)よりあれなる木の下に見えけるが、今は、居(お)らず。」
といふにより、常使(でうつかひ)に、いゝ付、こゝかしこと、尋出し、やうやうに、つれ來(きた)るを、名主、ちかく召よせ、
「かくの次第。」
と問ければ、八右衞門、よこ手を
「はた」
と打、
「さては。其『助』が、まいりて候かや。是には、長き物語の候ものを。」
と、泪をながしながら、一々、次㐧に、かたりけり。
「まづ、其『すけ』と申『わつぱし』を川に打こみ捨たる事は、六十一年以前の事、それがしは、ことし丁(ちやう)[やぶちゃん注:当年の意。]六十にて、未生以前(みしやういぜん)の事なれども、親どもの因果はなしを、よくよく、聞覚へたり。此度[やぶちゃん注:「このたび」。]、御弔(とふらひ)なされたる累が実父、さきの与右衞門、やもめにて在(あり)し時、他村より、妻を、めとる。その女房、男子一人、つれ、きたれり。その子の形は、めつかいで、てつかいで、びつこにて、候ひしを、与右衞門がいふやう、[やぶちゃん注:「六十一年以前」還暦によって新しい時代に変わった年目を当て、この助の死霊が、知る人も少ない永い時代をドライヴしてきた存在であることが明らかのとなる。「めつかい」片目に障碍があること。「てつかい」片手に障碍があること。]
『かくのごとくのかたわもの、養育して何かせん。急(いそひ)で、誰にも、くれよ。』
と、いへば、母親のいふやうは、
『親だに、あきし此子をば、たれの人か、めぐまんや。』
と、いへば、与右衞門が云樣、
「扨は、その方、共に出て行(ゆけ)。」
と、折々、せめて云けるゆへ、母親が思ふやう、
『子を捨(すて)るふちは、あれ共、身を捨る藪なし。』
とて、只今、かれが申通り、『かてつみ』につれ行、松原の上手より、川中へなげこみ、夫に、
『かく。』
と語れば、与右衞門も、うちうなづき、
『それこそ、女のはたらきよ。』
とて、中よく、月日を送りしが、終に、其年、懷姙し、翌年、娘を平產す。取あげそだて見てあれば、めつかい・てつかい・ちんばにて、おとこ・女は、替れども、姿は同じ、かたわもの。
『むかしの因果は、「手洗(たらい)の緣(ふち)をめぐる」と聞(きゝ)しが、今の因果は、「針の先をめぐる」ぞや。』
と、親どもの、一つはなしにいたせしを、たしかに、よく、聞覚へたり。さて、そのかたわ娘は、先[やぶちゃん注:「せんの」。]与右衞門が実子(じつし)なるゆへに、すてもやらて[やぶちゃん注:ママ。]、養育し、先度の㚑魂、累とは、此かたわ娘の事なるぞや。さて此累、成長し、兩親も死果(しには)て、孤(みなしこ[やぶちゃん注:ママ。]となりしを、
『代々、百姓の家を、つぶさじ。』
とて、親名主(おやなぬし)のあわれみにて、今の与右衞門に、入むこさせて置給ひしが、終に与右衞門が手にかゝり、かの累も、此𥿻川に沈み果しは、是も、因果のむくひならんと、思ひ合せて見る時は、今の与右衞門も、さのみは、にくき事、あらじ。」
と、すゝりなきをしながら、いと明白(めいばく)にかたれば、聞居た(きゝゐ)る人々も、みな、
「尤。」
と感しつゝ[やぶちゃん注:ママ。]、各々、なみだを、ながしけり。
[やぶちゃん注:この八右衛門の昔語りによって、先代の与右衛門と後妻が、後妻の連れ子で多重障碍を持った少年「助」を、結託して鬼怒川に投げ込んで殺害したプロトの悪因縁が明らかとなり、しかもその因果が、翌年に二人の間に生まれた「累」に全く同じ先天的障碍として託されてしまい、遂には、累入り婿の新しい与右衛門によって、累に対して「入れ子」構造になった因果の忠実な再現としての殺害まで行われるという、呪われた血脈の斬殺事件の内容が、ここに明らかになるのである。]
さて、此八右衞門がはなしにて、かさねが年の數と、すけが、川へながされし、年代を考れば、先[やぶちゃん注:「まづ」。]、助が、川のみくづと成しは、慶長十七年壬子(みつのけねに當れり。
[やぶちゃん注:「慶長十七年壬子」干支は正しい。グレゴリオ暦一六一二年。徳川秀忠と大御所家康の治世。「大坂冬の陣」の前々年。なお、「国文学資料館」のこちらには、手書き書入れが行間と頭書にあり、行間には助の殺された日を「四月十九日」と記しつつ、頭書には、『法蔵寺緣記ニハ元和年中三月トアリ慶長十七ヨリ元和元年ハ四年後ナリ』とある。元和元年は一六一五年で、三月十五日に「大坂夏の陣」で豊臣氏が滅亡、翌年に家康が逝去している。因みに、慶長十七年四月十九日はグレゴリオ暦では一六一二年五月十九日であり、元和元年三月(但し、改元は慶長二十年七月十三日であるから、まだ慶長)は一日がグレゴリオ暦一六一五年三月二十九日、大の月で三月三十日は四月二十七日である。]
また、かさねが年の數は、三十五の秋の中半(なかば)、𥿻川にて殺されし、とは見へたり。
[やぶちゃん注:累が殺されたのは、正保四年八月十一日(グレゴリオ暦一六四七年九月九日)であるから、累の誕生は本文に即すなら、慶長一八(一六一三)年となる。]
さて、八右衞門が物語、畢(おわつ)て、祐天和尚、菊に向て、のたまはく、
「汝、すけが、さいごの由來、つぶさにもつて、聞屆(きゝとゞけ)たり。尒(しか)るに、今、菊に取付(とりつく)事、何ゆへ、有つて、きたるぞや。」
と。
きく、息の下にて、荅るやう、
「累が成佛したるを見て、我も浦山(うらやま)しく思ひ、來(きた)れり。」
と。
和尚、此よし、聞し召(めし)、名主に向て、のたまふは、
「これは、人々の不審をはらさんためなれば、我が問ふことばと、助が荅(こたふ)る相拶(あいさつ)を、一々に、ふれたまへ。」
と、あれば、名主、
「御尤(もつとも)。」
と立あがり、大音聲(だいおんじやう)にて、先(さき)のごとく、云(いゝ)つたへければ、近くも、遠くも、一同に、聲をあげてぞ、泣(なき)にける。
[やぶちゃん注:祐天による先の累の怨霊の調伏・得脱は、やはり完遂成就していたことを、村民全体に認知させることで、祐天の法力が、何よりも民俗社会に於ける信仰としての事実としての公認定を得た瞬間を高らかに掲げる極めて感動的なSE(サウンド・エフェクト)シーンである。]
さて、其次に、問たまふは、
「六十一年の間、何(いづ)く、いか成所に在(あり)て、何たる[やぶちゃん注:「なんたる」。]くげんを、うけし。」
と、あれば、助がいわく、
「川の中にて、昼夜、水を、くろふて、居申たり。」
と。
又、此通りを、名主、ことはれば、若きもの共のさゝやくは、
「さては。この『わつぱし』は、㚑山寺渕(れいぜんじぶち)に、年來(としころ)、住(すむ)なる河伯(かつは[やぶちゃん注:ママ。])ぞや。雨のそぼ降れば、川浪に、さかふて、松原の土手にあがり、身をなぐる風情して、なきさけぶ有樣を。折折、見付しものを。」
とて、みな、口々にぞ、つぶやきける。
[やぶちゃん注:「㚑山寺渕」不詳。]
さて、其次に、祐天和尚、問たまはく、
「しからば、今朝(けさ)より、人々の尋(たづぬ)る時、右の通りを述(のべ)ずして、何(なに)とて、みなみなに、機遣(きづかひ)を、させけるぞ。」
と。
助、荅へていわく、
「『さ、いふたればとて、たすけてくるゝ人、あらじ。』と思ひ、せんなきまゝに、かたらず。」
と云へば、又、此趣(おもむき)を、先のごとく、呼(よば)わる時、みな、
「ことわり。」[やぶちゃん注:もっともなこと。]
とぞ、うけにけり。
さて、和尚、問たまわく、
「しからば、われ、本願の威力(いりき)を賴み、汝をたすけにきたりて、いろいろに問ふ時、何とて、ものを、いわさるや[やぶちゃん注:ママ。]。」
と。
助、荅へていわく、
「『たすからふ』と思ふたれば、餘りうれしさのまゝに、何とも、物が申されぬを、むたひに、引つめ給ひし。」
と、あれば、其時、和尚も、ふかくに、なみだを、ながしたまへば、名主・年寄を始として、遠くも、近くも、みな、一同に、聲をあげ、なげき渡りしそのひゞき、天地も、さらに感動し、草木までも、哀嘆すとぞ、見へにけり。[やぶちゃん注:「菊」(次代の入婿与右衛門の六人目の妻との間に出来た娘である)の口を借りて、「助」が語るこれは、「『ああ、やっと僕は救われるんだなぁ!』と思ったので、あまりのその嬉しさ故に、心がいっぱいになってしまい、何とも返事が言えなくなってしまったのに、あなたさまは、乱暴に僕を引き倒し押さえなさったのだもの。」という意であり、これに、流石の歌強面のゴースト・バスター祐天も、落涙・号泣する(以下の「和尚、よく泣き給ひて」を見よ)。ここも本篇のポジティヴなクライマックスの一つである。]
これぞ、誠に、弥陀本願の威力を以て、父子相迎(そうこう)して大會(ゑ)に入り、則(すなはち)、六道のくげんを問(とい)給へば、宿命通(しゅくみやうつう)の悟りにて、一一(いちいち)、昔を語る中に、地獄は、劇苦(ぎやくく)、𨻶(ひま)なくして、久しく、鬼畜は、苦報、おもくして、いやしく、人間には、八苦の煙、たへず、天上には、五衰の露、乾かず。すべて、三界、皆、苦なれば、何くか[やぶちゃん注:「いづくか」。]やすき処あらんと、心憂げに申す時、弥陀を始め、たてまつり、恆沙塵數(ごうしやじんすう)の大衆達(しゆたち)まで、皆、一同に、なげき、憐みたまふらんも、此會(ゑ)の儀式に替(かわ)らじ。思ひ合て見る時は、其折(をり)のあはれさを、いか成ふでにか、つくされん。
[やぶちゃん注:「父子相迎」歴史的仮名遣は「ふしさうがう」が正しい。善導の儀礼書「般舟讃」(はんじゅさん)にある言葉。「阿弥陀仏」を「父」に、「衆生」を「子」に擬えたもので、互いに尋ね合って浄土に相まみえることを指す(「WEB版新纂浄土宗大辞典」のこちらに拠った)。
「宿命通」前世における自他の生存の状態を自在に知る神通力。]
さて、和尚、よく泣き給ひて、
「いざ、成佛、とげさせん。」
と、名主方より料紙を取寄、「単刀眞入(たんとうしんにふ)」と戒名し、庄右衞門に仰せ付られ、
「西のはしらに押付(おしつけ)ん。」
とて、起つ時、前後左右に並居(なみゐ)たる者共、一同に、いふやうは、
「それ、よく、庄右衞門殿、かの『わつぱし』が、袖に、すがり、ゆくは。」
と云時、和尚を始め、名主・年寄も、
『これは。』
と、おもひ、見給へば、日もくれがたの事なるに、五、六歲成わらんべ、影のごとくに、「ちらり、ちらり」
と、ひらめいて、今、書(かき)たまへる戒名に、取付とぞ、見へける。
[やぶちゃん注:素晴らしい共同幻覚の来迎映像の開始点である。]
其時、和尚、不覚に[やぶちゃん注:「覺えず」。反射的に。]、十念、したまへば、むらかり居たる老若男女、みな、一同に、
「南無阿弥陀佛。」
と唱ふる聲の内に、四方(はう)の氣色(けしき)を見渡せば、何とは知らず、光りかゞやき、木々の梢(こづゑ)にうつろふは、宝樹宝林と詠(なが)められ、人々の有樣は、皆、金色(こんじき)のよそほひにて、佛面(ぶつめん)・菩薩形(ぎやう)と變じ、木にのぼり居たるおのこどもは、諸天、影向(やうがう)の姿か、とぞ、見えける、となん。
[やぶちゃん注:「影向」(「よう」・「かう」(連濁で「がう」)は、孰れもの呉音。神仏の本体が一時に応現すること。神仏が仮の姿をとなって現世に現われること。神仏来臨。]
是ぞ、佛智の構(こま)ふなる、當所(たうしよ)、極乐とは、聞へたり。
[やぶちゃん注:「構(こま)ふ」「かまふ」に同じで、ここは「徹底的に面倒をみる・世話する・庇(かば)う」の意。]
さて、此氣色を、おかむ[やぶちゃん注:ママ。「拜む」。]もの、名主・年寄を始め、其座にあつまる老若男女、百餘人とこそ、聞へけれ。
其時、和尚、戒名に向て、心中に、きせい[やぶちゃん注:「祈誓」。]したまはく、
「『理屋性貞(りおくしやうてい)』も『單刀眞入』も、此菊が德により、成仏したまふ事なれば、かならず、此ものゝ命を守り、諸人のうたがひを、散じ給へ。」[やぶちゃん注:「理屋性貞」先に累に与えられた新しい戒名。]
と、ふかく、賴(たのみ)、十念𢌞向、畢(おわつ)て、いそぎ、寮に歸り給へば、同寮の人々、心許(もと)なく待居(まちゐ)られしが、いそぎ、たち向ひ、
「何事候や。おぼつかなく候ふ。」
と申せば、和尚、いと心よげにて、
「かゝる事の、有しぞや。戒名は書(かき)置しぞ。心あらば、諷經(ふぎん)せよ。」
と仰らるれば、皆、人々、感じあひて、老たる若き所化衆(しよけしゆ)、思ひ思ひに、諷經にこそは、行れにけり[やぶちゃん注:「おこなはれにけり」。]。
[やぶちゃん注:「諷經」「ぎん」は唐音。声を揃えて経を読み上げること。]
さて、また、祐天和尚は、いそぎ、近所の醫者をよびよせ、菊が療治をたのみ給へば、いしや、かしこまつて、いそぎ、羽生村に行き、菊が脉(みやく)をうかゞひ、すなはち、かへつて、和尚に申やう、
「かれが脉の、正体(しやうたい)なく候へば、中中、療治は、かなひ申さず。そのゆへ、くすりをも、あたへず、罷歸り候。」
と、いへば、祐天和尚、聞給ひ、
「何をか、いふらん。菊が命をば、我諸佛へ、たのみおき、そのうへ、『單刀眞入』などへ、能々(よくよく)、やくそくし置し物を。」
と思召し、
「しからば、是非、なし。其藥箱を開き、『益氣湯(ゑききとう)』を、七ふく、調合し、我に、あたへ給へ。」
と、あれば、
「畏(かしこまつ)て候。」
とて、すなはち、調合して參らせ、御いとま申て、歸られたり。
[やぶちゃん注:「益氣湯」(「湯」歴史的仮名遣は「たう」が正しい)現在、「補中益気湯」(ほちゅうえっきとう)がある。「ツムラ」公式サイト内のこちらに、『生命活動の根源的なエネルギーである「気」が不足した「気虚」に用いられる薬で』、『「補中益気湯」の「中」は胃腸を指し、「益気」には「気」を増すという意味があ』るとする。『胃腸の消化・吸収機能を整えて「気」を生み出し、病気に対する抵抗力を高める薬で』、『元気を補う漢方薬の代表的処方であることから、「医王湯(イオウトウ)」とも』呼ばれるとあった。]
和尚、其跡にて、いそぎ、かの藥を、せんじ給ひ、一番ばかりを持參にて、其夜中(やちう)に、羽生へ行き、菊にあたへたまひて、名主・年寄に、たのみ置き、寮に歸らせたまひしが、跡にて、段段、藥を、あたへ、あくる廿日に成しかば、『益氣湯』二ふくにて、菊が氣分、本服(ほんぶく)して、次㐧に、ひふも、調(とゝの)ひけり。
[やぶちゃん注:「一番」最初に煎じたエキス。
「廿日」寛文十二年四月二十日。グレゴリオ暦一六七二年五月十七日。
「ひふ」「皮膚」。熱を持って赤発していたそれが、平常に戻ったのである。]