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2023/01/31

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 化け地藏

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。]

 

      化 け 地 藏  (大正三年一月『民俗』第二年第一報)

 

 「東海道名所記」一にいふ、「小磯の町外れに小橋あり。其前に切通しあり。右の方に石地藏あり。往昔此地藏、夜每化けて、往來の人を誑《たぶら》かし惱ましけり。紀州の某とかや、急ぎける道なりければ、夜に入りて、爰《ここ》を通り侍りしに、美しき女に成《なり》て立ち出づ。兎角する程に、頻りに怖しく成くれば、拔討《ぬきうち》に打けり。斬《きら》れて後に、露はれたり。立寄《たちより》てみれば、石地藏の首、打落されたるにてぞ有ける。其より以來は、「頸斬《くびき》れの地藏」とぞ名《なづ》けゝる。」。「堺鑑」卷中に、「首截り地藏。行基作。北の莊皇子が飢[やぶちゃん注:底本は「○」。「選集」のものをそのまま示した。そちらにはママ注記がある。]の北の邊りに草庵あり。昔し、此所に葉屋の辻堂有て、西國巡禮、高野山通路、休所の爲に有しに、夜々、奇怪の事有て、或夜、道行く人と行逢《ゆきあひ》て、化生《けしやう》の者を斬留《きりとめ》たり。明《あけ》てみれば、石地藏なり云々。諸願祈るに、驗《しるし》有ずと云事なし。その時の太刀疵の跡、現に拜まれ給ふ也。」。

 熊楠案ずるに、支那にも類話あり。唐の釋道宣撰の「三寶感通錄」一に、東晋の穆《ぼく》帝の永和三年二月八日夜、荊州城に現ぜし釋尊の金像は、阿育王が作つた物で、長沙寺に安置された。孝武帝の太元中、此像、自ら寺の西門を、いで步く。邏者(まわりばん)[やぶちゃん注:ママ。])之を人と思ひ、問ふに、答へぬから、刀もて、うつと、鏗然《かうぜん》と、音、する。みれば、佛像で胸に刀の跡が有たと、載せ居る。

[やぶちゃん注:「東海道名所記」は江戸前期に浅井了意によって著された東海道の仮名草子。神社仏閣・名所旧跡を訪ねながら、江戸より宇治までを旅する名所記で、万治21659)刊。全六巻。当該部は、巻一の最後の大磯のパート内にある。「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で白柳友治編昭一一(一九三六)年昭和堂刊の懐かしいガリ版刷風の活字で、ここ(右ページ一行目の、私の好きな「鴫立澤」の直後)から当該部が読める。血洗川の近く、切通しの岩窟中に行基作と伝えられる地蔵があったが、現在は大磯町国府本郷の西長院(グーグル・マップ・データ)に安置されて「身代わり地蔵」と呼ばれている。旧所在地は、この中心附近となろう(グーグル・マップ・データ航空写真。「切通橋」交差点名が確認出来る。資料として「大磯町郷土資料館」の作製になる「大磯宿の名所マップ」PDF)を参考にした)。

「堺鑑」は江戸前期の郷土史家衣笠一閑(きぬがさいっかん 生没年未詳)が、堺の神廟・宮室・陵墓・古跡・故事・戦跡・人物・名物などについて纏めた全三巻からなる堺最初の地誌とされるもの。貞享元(一六八四)年刊。その巻二の「古跡」の掉尾にある。「国立公文書館デジタルアーカイブ」のここ(16コマ目)で視認出来るので、電子化する。句読点・記号を打った。

   *

  首截地藏(クビキリジザウ) 

此地藏菩薩ハ行基菩薩ノ作也。北莊(キタノシヤウ)、「皇子(ワウジ)カ飢(ウヘ)」ノ北ノ邊(ホトリ)ニ草菴アリ。昔、此所(コノトコロ)ニ藁屋(ワラヤ)ノ辻堂アリテ、西國順禮・高野山、通路休所(ツウロキウシヨ)ノ爲(タメ)ニアリシニ、夜(よ)ナ夜ナ奇恠(キクワイ)ノ事アリ。或夜、道行人(ミチユキビト)ト徃會(ユキアヒ)テ化生(ケシヤウ)ノ者ヲ截(キリトメ)タリ。明(アケ)テ見レバ、卽(スナハチ)、石地藏也。其ヨリ名付テ、「首截地藏」ト云傳(イヽツタヘ)り。諸願、祈(イノル)ニ驗(シルシ)アラズト云事ナシ。其時ノ太刀疵(タチキズ)ノ跡、現(ゲン)に拝(オガマ)レ玉フ也。

   *

これによって、奇妙に見えたそれは、北荘村の「皇子(わうじ)が飢(うゑ)」と言う異名であったことが判る。しかも、現在の大阪府堺市堺区北田出井町に「王子ヶ飢(おうじがうえ)公園」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)として地名が生きているのであった。しかも、この地蔵、現存している。「かん太里親」氏のブログ『ぼく「かん太」です』の『「極楽橋」と「首切り地蔵」』を見られたい。そこには、文久年間(一八六一年~一八六四年)の古地図が掲げられてあって、「極楽ハシ」。「北ノ庄村」「王子ケ飢」「首切地蔵」の文字が見える。「首切地蔵」ここにあるのである。そのサイド・パネルのここで尊像を拝むことが出来た。「餓」の由来はよく判らないが、これらの異名からは餓鬼道の供養であろうか? と感じた。

『唐の釋道宣撰の「三寶感通錄」』前に出た「續高僧傳」の作者である盛唐の道宣(五九六年~六六七年)撰で正しくは「集神州三寶感通錄」。

「東晋の穆帝の永和三年」三四七年。

「阿育王」古代インドのマウリヤ朝の第三代の大王にして仏教の守護者として知られるアショカ(在位紀元前二六八年頃~ 紀元前二三二年頃)。この像の話は何度も南方熊楠は挙げている。例えば、『「南方隨筆」底本正規表現版「俗傳」パート「泣き佛」』を見られたい。

「孝武帝の太元中」東晋の孝武帝司馬曜の治世に行われた二番目の元号。三七六年~三九六年。

「鏗然」原題仮名遣「こうぜん」。金属・石・楽器などがかん高い音を出すさま。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 紀州の民間療法記

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。]

 

      紀州の民間療法記  (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 

 田邊の老人に聞く。曾て、童子、指を火傷(やけど)せしに、其母、直ちに其子の指を自分の陰戶に入れしめた。卽効ありと云ふ。又、斬髮屋《さんぱつや》の斬髮に、婦女の陰毛、三本、混じ、煎じ飮めば、淋病、いかに重きも治すとて、貰ひに來る人有りと、斬髮屋の話だ。〔(增)(大正十五年九月十六日記)「本草網目」五二に、湯火傷灼《たうくわしやうしやく》に、女人の精汁を以て、頻々、之れを塗れと、「千金方」より引た。又、髮髲(髲は他人の髮を自分の髮を飾るに用いたので、「カモジ」の事)利小便水道〔髮髲(かもじ)、小便・水道を利す。〕。之を燒《やき》て粉にし、石淋を治するため、服する、とある。又、婦人隂毛主五淋及隂陽易病〔婦人の陰毛は、五淋及び陰陽の易病(えきびやう)を主(つかさど)る。〕とあり、『陰陽易病』とは、病後交接、卵腫或縮入、腹絞痛欲ㇾ死〔病後に交接し、卵(たま)[やぶちゃん注:睾丸。]、腫れて、或いは、縮んで腹に入り、絞らるる痛みにて死なんと欲(す)る。〕を云ひ、[やぶちゃん注:以上の「を云ひ、」は底本にはない。「選集」の『をいい、』を参考に私が添えた。]それを治するに、取婦人隂毛、燒ㇾ灰飲服、仍以洗ㇾ隂水飲ㇾ之〔陰毛を取りて、灰に燒き、飮みて服(ぶく)すに、仍(なほ)、陰を洗へる水を以つて、之れを飮むなり。〕とある。然らば、本《も》と、支那說で、本邦に傳はつて俗人迄も知り行ふたのだ。〕

[やぶちゃん注:『「本草網目」五二に、湯火傷灼に、……』同巻の「人精」の一節。「漢籍リポジトリ」[122-29b]の影印を参照されたい。「精汁」は女性生殖器の正常な分泌液を指す。

「婦人隂毛主五淋及隂陽易病」前と同じページの「陰毛」の一節。[122-33b]を見られたい。]

 拙妻、話に、古傳に、『韮《にら》の雜水《ざうすい》は冷たきを服すれば、寬利し、温かなるを用うれば、腹を固むる。』と。また、西牟婁郡上芳養村(かみはやむら)の人いわく、「以前、婦女、其夫抔を毒するに、鐵針の碎屑(くず)を飯に入れ、知らずに食《くは》せる事、有り。夫、何とも知らずに煩ひ出し、醫師にも、病原、分らぬ。斯る時、韮(にら)を食へば、針屑、悉く、下り出て、平治すと。〔(增)(大正十五年九月十六日記)巖谷小波君の「東洋口碑大全」上の八三五章に「三國傳記」より、丹波の村人が靑鷺を射傷《いきずつ》くると、翌夜より、其家の後に栽《うゑ》た薤(「倭名類聚抄」にオオミラと訓じ、狩谷棭齋の「箋注」九に、辣韭(らつきう[やぶちゃん注:ママ。「らつきやう」が正しい。])の事と、しある。「大和本草」・「本草啓蒙」・「本草圖譜」、みなラツケウとしある)「和漢三才圖會」には、ラツケウと薤を別物と立《たて》て、薤を、韮の葉長く廣いオオニラというものと、しある。「三國傳記」は「和三」と同じく、薤を大ニラ、韮をコニラと心得、大小いずれか分からず、たゞニラなる名を薤の字で書いたらしい)を盜む者あるので、或夜、伺うて、射ると。靑鷺が死におり、盜み食《くふ》た薤が、矢根《やのね》に卷付《まきつい》て出居《でをつ》たので、傷の療治に薤を盜みにきたと知り、直に弓を捨て、入道した話を引きおる[やぶちゃん注:以上最後は底本は「聞きおる」。「選集」をとった。]。『民俗』二年二報には、山崎麓氏が「雪窓夜話」・「旅行集話」・「金石譚」、種彥の小說「白縫譚」より、鐵を呑んだ大鯰や、大鯉や、雀が、韮を食て、自ら鐵を出した例をひきおる。また、種彥から、かかる俗信が支那から出た證として「續醫說」を引《ひか》れた。「本草綱目」二六には、魚の骨が咽に立《たつ》たり、誤つて釵鐶《さいくわん》(カンザシやユビワ抔)を呑んだ者が薤を食ふたら出てくるとある。されば、これも、本と、支那傳來の療法で、支那で薤の藥功として擧げたのを、日本で大ニラを用ひ、それから「和漢三才圖會」九九に云る通り、日本で大ニラは少ないに由《よつ》て、專ら、小ニラ乃《すなは》ち、今、單にニラといふ奴を用ゆる事に成たでせう。〕

[やぶちゃん注:「韮」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ニラ Allium tuberosum

「西牟婁郡上芳養村」「Geoshapeリポジトリ」の「歴史的行政区域データセットβ版」のこちらで旧村域が確認出来る。現在の和歌山県田辺市上芳養(グーグル・マップ・データ)に合致する。

「巖谷小波君の「東洋口碑大全」上の八三五章に「三國傳記」より、丹波の村人が靑鷺を射傷くると……」国立国会図書館デジタルコレクションのここで同書(大正二(一九一三)年刊)の当該部が視認出来る。「三國傳記」は室町時代の説話集で沙弥(しゃみ)玄棟(げんとう)著(事蹟不詳)。応永一四(一四〇七)年成立。八月十七日の夜、京都東山清水寺に参詣した天竺の梵語坊(ぼんごぼう)と、大明の漢守郎(かんしゅろう)と、近江の和阿弥(わあみ)なる三人が月待ちをする間、それぞれの国の話を順々に語るという設定。全十二巻各巻三十話計三百六十話を収める。

「薤」「オオニラ」はネギ属ラッキョウ Allium chinense の別称。

『「倭名類聚抄」にオオミラと訓じ』巻十七の「菜蔬部第二十七葷菜類第二百二十五」に、

   *

薤 「唐韻」に云はく、『薤【「胡」「介」の反。「械」と同じ。】葷菜(くんさい)なり。「本草」に云はく、『薤、味、辛苦、無毒。【和名「於保美良(おほみら)」。】。』と。蘇敬注に云はく、『是れ、韮の類なり。』と。

   *

とある。

「本草圖譜」本草学者岩崎灌園(かんえん)によって文政一一(一八二八)年に完成された本邦初の本格的植物図鑑。全九十六巻から成り、約二千種の植物を分類、彩色した絵を交えて紹介したもの。

「山崎麓」(ふもと 明治二一(一八八三)年~昭和一八(一九四三)年)は国文学者。横浜生まれ。第四高等学校・東京帝大文科大学国文科卒。逓信省機関逓信協会主幹嘱託・英字新聞『ジャパンマガジン』編集嘱託・年駿台英和女学校教員嘱託を経て山口高等学校教授から國學院大學教授となった。]

 黃楊(つげ)を西牟婁郡で、なべわりと云ふ。その生葉を燒くと、パチパチと烈しく音して、鍋を破相《やぶりさう》だからだ。之を煎じて服すると、胃病を治すと云ふ。

 「おとなえそう」と云物、「リュウマチ」に神効ありとて、熊野邊を求め行く人、多し。前年、予、那智に居つた時、二十里斗り旅して、求めに來た人が有た。予、諸處で、其草を大切に藏するのを見ると、箱根草と云ふ羊齒に外ならぬ。「和漢三才圖會」九二末に、相傳云、能治產前產後諸血症及痰飮、往年阿蘭陀人見ㇾ之稱ㇾ有良草、請採得之、甚以爲ㇾ珍。〔相ひ傳へて云ふ、「能く產前產後の諸血症及び痰飮を治す。」と。往年、阿蘭陀人、之れを見て、「良き草、有り。」と稱し、請ひて之れを採り得て、甚だ以つて珍と爲せり。」と。〕箱根で採つたから、箱根草と云たらしい。

[やぶちゃん注:「おとなえそう」「箱根草と云ふ羊齒に外ならぬ」シダ植物門シダ綱シダ目ホウライシダ科ホウライシダ属ハコネシ Adiantum monochlamys 。画像は当該ウィキを参照されたい。小学館「日本大百科全書」によれば、『短く匍匐』『する根茎から長さ』十五『センチメートルほどの葉を出す』。『扇状倒卵形の羽片となる。青森県を除く東北地方以南の山地林下の岩土に着生する。漢方では』「石長生」『(せきちょうせい)といい、利尿、解熱、駆虫、寄生虫による皮膚病治療などに使われる』とあった。

『「和漢三才圖會」九二末に、……』国立国会図書館デジタルコレクションの文政七(一八二四)年版で当該部を示す。そこでは「箱根草(はこねくさ)」と訓じている。]

 山中に住む人に、淋病、多し。西牟婁郡兵生(ひやうぜい)抔で、木挽輩《こびきども》、「其《それ》、藥。」とて、勘太郞といふ碧紫《るり》色の大蚯蚓、長七、八寸有るを採り、裂きて、土砂を去り、其肉、まだ動き居るを食ふ。實に、見るも、胸惡い。

[やぶちゃん注:「西牟婁郡兵生」現在の和歌山県田辺市中辺路町兵生(ひょうぜい)。ここ(グーグル・マップ・データ)。熊楠の奥深い山間の採集地として、お馴染み。

「勘太郞といふ碧紫《るり》色の大蚯蚓、長七、八寸有る」環形動物門貧毛綱ナガミミズ目フトミミズ科フトミミズ属シーボルトミミズ Pheretima sieboldi  の別名(紀伊半島・四国)として知られる。本邦の最大級のミミズの一種で、最大長五十センチメートル、延伸すると六十センチメートルを超え、しかも、濃紺色を成し、なかなかの奇体である。]

 田邊の老人、身に刺立《とげたて》て惱む時、雉の爪で掻くと、出て來る。其跡へ、卽飯(そくい)と、五倍子粉(ふしのこ)を練り合せ、貼りおゝ。斯る時の用意に、雉の足を蓄へ置く人、有り。

[やぶちゃん注:「卽飯」「續飯」が正しい。その読み「そくいひ」の転訛した語。飯粒を箆(へら)状のもので押し潰し、練って作った糊(のり)を指す。

「五倍子粉」『早川孝太郎「猪・鹿・狸」 鹿 四 鹿の角の話』の「フシ(五倍子)の實」の私の注を参照されたい。]

 和歌山で、古く、「兎の手で痘瘡を搔くと、害がない。」と云て、蓄へた人、有り。又、田鼠(うごろもち)の手を、爪杖(まごのて)にして、痘瘡を搔く人も有つた。

[やぶちゃん注:「田鼠(うごろもち)」モグラの古名。]

 初茄子を一つ、小兒の臥處の上に釣置《つりお》くと、その夏、汗瘡(あせぼ)を生ぜぬという。馬齒莧(すべりひゆ)を煠(ゆで)ると[やぶちゃん注:「煠」は底本では「渫」。「選集」で訂した。後も同じ。]、莖より、粘汁《ねんじふ》、出でゝ、色、赤く、蚯蚓の如きを、好んで食ふ人、有り。鹽で、此草の葉を揉み、汗瘡《あせも》に付《つく》ると神効有り。見る中《うち》に治するが、劇烈な物で、時として、愚者が氣絕する由。又、田邊でいふは、馬齒莧(すぶりひゆ[やぶちゃん注:ママ。])は、至つて精(せい)の强い者故、渫(ゆで)でて、味噌あえにして食へば、イキンド(喘息(ぜんそく)の方言)を治する事、妙也。

[やぶちゃん注:「馬齒莧」庭の雑草としてよく見かける(私の家の庭にもよく蔓延(はびこ)る)、食用になるナデシコ目スベリヒユ科スベリヒユ属スベリヒユ Portulaca oleracea の漢名。]

補 訂 (大正十五年八月記)

 蒟蒻(こんにやく) 魚骨や、土砂石粒を、構わず、食ふ人あり。度重《たびかさ》なれば、會陰(ありのとわたり)に積み聚まりて、大患をなす。田邊の近村の舊社掌、此患に罹り、外科醫に切出さしめた事あり。其人、現に存命す。俗傳に、蒟蒻を、間《ま》ま食ふと、かゝる患《わづらひ》なしといふ。元祿六年著「鹿《しか》の卷筆《まきふで》」三に、「きかぬ奴《やつこ》の衆道《しゆだう》」と題し、或奴、元結い賣りの少年を犯すとて、誤つて、砂を犯し、少年に向ひ、扨々、其方は、隨分、嗜みが惡い。必ず、必ず、今よりして、蒟蒻を藥食ひにしやれ、と云たとあるをみて、其頃も、蒟蒻は腹に入った土砂を消す、と信ぜられたと判つた。「和漢三才圖會」百五にも、俗傳、蒟蒻能下腹中土砂、男子最有ㇾ益、此不ㇾ知其據。〔俗に傳ふ、「蒟蒻は、能く腹中の土砂を下(くだ)し、男子、最も、益、有り」。と。此れ、其の據(よるところ)を知らず。〕と出づ。明治四十五年[やぶちゃん注:底本は「昨七年」であるが、「選集」で訂した。]七月の『人類學雜誌』前田生の說に、尾張名古屋で、十二月八日、蒟蒻のピリピリ煮、必ず食ふべし。平生、月に一度も蒟蒻を食ふを「砂おろし」といふと、故人の記を引た。何故、こんな俗信が生じたかと尋るに、楠本松藏といふ田邊人いわく、「一體、蒟蒻ほど、土砂と粘着しやすい物なく、一寸でも、地へ落すと、卽時に、砂や土が附て、中へ侵入し、いかに洗へばとて、離れず、食用に成ぬ。」と。それで、人體に蒟蒻が入れば、腹中の土砂を吸ひ取て外へ出すと考へられた、と考ふ。

[やぶちゃん注:「蒟蒻」単子葉植物綱オモダカ目サトイモ科コンニャク属コンニャク Amorphophallus konjac

「會陰(ありのとわたり)」「蟻の門渡り」男女ともに陰部と肛門の間を言う。

「社掌」明治二七(一八九四)年二月の勅令によって設けられた神職の職名。第二次世界大戦後、廃止された。一つは、府県・郷社及び内務大臣の指定した護国神社で、社司の下に属し、神明に奉仕し、祭祀や庶務に従事した神職を指し、別に、村社以下の神社及び内務大臣の指定しない護国神社に於いて、一切の事務を取り扱った神職を指す(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

『元祿六年著「鹿の卷筆」三に、「きかぬ奴の衆道」』江戸前期の上方(大坂か)の噺家(はなしか)鹿野武左衛門(しかのぶざえもん 慶安二(一六四九)年~元禄一二(一六九九)年:本名は志賀安次郎。江戸で塗師(ぬし)職人となったが、三十歳頃、噺家となり、身振り手振りによる仕方噺(しかたばなし)を完成、「江戸落語の祖」とされる)の噺本。しかし、翌元禄七(一六九四)年、この本に関わった流言が巷(ちまた)に流れ、筆禍を受けて伊豆大島に流刑となった。後、江戸に帰ったが、病死した。早稲田大学図書館「古典総合データベース」で、死後の貞享三(一六八六)年の版本によって当該部が、ここと、ここで読める(jpg単独画像)。標題は「きかぬやつこのしゆどう」で、熊楠の引用は終りの部分。

『「和漢三才圖會」百五にも、俗傳、……』同前の国立国会図書館デジタルコレクションの当該箇所をリンクさせておく。そこではふりがなは「こんにやく」だが、漢字標題は「蒟蒻餠」である。

「前田生」よく同雑誌に投稿していた前田太郎という方(詳細事績不詳)かと思われるが、当該論考を確認出来ないので、よく判らない。

「楠本松藏」日記にも出る南方熊楠の友人らしい。

 以上の「補訂」パートは「選集」の編者注によれば、『『民俗』一年二報「紀州の民間療法記(一)」の後半と、同誌三年一報「蒟蒻」の内容をあわせ』、『加筆したもの』とある。底本はここで終わっているのであるが、「選集」では、この「補訂」の後に以下の「追加」がある。これについては、やはり注で、『追加は、同誌に緣一報問答欄に「紀州の民間療法記(二)」と題して掲載されたが、岡書院版『続南方随筆』には収録されていない』とある。初出誌に当たれないし、新字・現代仮名遣化されてしまっているので、以下に参考として、「選集」のそれをそのまま電子化し、注も附しておく。

   *

【追加】

 前文に田鼠(うごろもち)の手で痘瘡を搔くことを載せたのち、西鶴の『二代男』五の第一章を見ると、「今、歴々の太夫たちに、尻ばすねもあり田虫もあり、見えるところの錢瘡(ぜにがさ)もこれには土竜(うごろもち)の手して搔くが妙藥なり」とある。痘瘡に限らぬことと見ゆ。

 田辺の俗伝に、端午に飾りし菖蒲の根元の孔で酒吮(す)えば中風を防ぐと言う。

 また上巳(じょうし)に飾った丸実の金柑を貯えおき、食らえば熱病を治す、と。

 また琴の一の緖(お)を腹に巻けば腹痛起こらず、また白き鶩(あひる)の生血は中風を治す、また全身眼の周りまで黒き矮鷄(ちやぼ)の初生卵(はつたまご)食らえば一生中風を病まぬ、と。

 田辺から四里ばかり鮎川という所に、猴搔荊(さるかきいばら)とて鉤曲がりつける葛(かずら)あり、一本ごとに必ず雌雄一対の蠹(きくいむし)住む。黒焼にして服すると腦病を治す、と。猿搔荊とは鉤藤(かぎかずら)のことだろう。西牟婁郡二川村大字兵生で聞いたは、蜂蜜をそのまま用ゆれば通じを開き、温めて用ゆれば瀉痢を止む、と。

 田辺の漁婦六十歳ほどなるが、印魚(こばんうお)(方言やすら)の頭にある小判形の吮著器(サツカー)を多く貯え、熱冷(ざま)しまた下痢の人に施すに神効ありと言う。骨ごとき硬い物で何の味わいなし。二寸ばかり長きをおよそ三分一ばかり切って味噌汁で薄く仕立てて服するのだ。

 東牟婁郡湯峰(ゆのみね)に蒔かずの稲というあり。自生の稲と言い、小栗判官入湯の時、初めて生えしなど伝う。その米、血の道に神効ありとて貴ぶ。

 海草郡日方町生れの至って正直なる者みずから験して奇効ありしとて語る。鷄雌雄を択ばず頭を醤油で付焼にして三、四回食らえば、いかに重き痔にても治る。かくすれば骨も嘴も容易に食らい得。眼玉を食う時氣味惡しき由。耳側の肉旨し。腦漿(のうみそ)が最も利くのだ、と。

 またいわく、無花果の枝葉は煮出せば茶の通り赤褐色となる.はなはだ身を温むるもので、ちょっと入れればたちまち全軀發汗す。これに浴すると痔を治す、と。

 またいわく、營實(てりはのいばら)の花風邪熱を治す、と。

 またいわく、尾長糞蛆(くそむし)八疋ばかり土器二つ合わせた中に入れ、密封して黒焼きし、その粉を五回ほどに呑ますと肋膜炎に効あり、と。

 拙妻話す田辺の古傳伝に、病人が厠へ入った跡へ入らんとする時、まず草や藁を投じてのち入れば病を受けず、これを病を断(き)ると稱す、と。

 またいわく、上(のぼ)せ性また產後の人に眞醋(まず)(米製)害あり、梅醋はさらに害なし。梅醋は真醋と異(かわ)り、いかほど貯うるも黴を生ぜず、と。

 またいわく、蘆を刈り大布囊に入れ、茶のごとき色出るまで煮出し、その囊に坐しその湯に浴すれば疝気を治す、と。

(大正三年一月『民俗』二年一報)

   *

・「尻ばすね」「尻蓮根」(しりばすね:単に「しりばす」とも)尻にできた「できもの」の一種を言う。

・「銭瘡」「田虫」に同じ。見えるところの出来たものは、円形で、銭形を呈するから。

・「上巳」(じょうし)。 旧暦三月三日。桃の節句。中国古代には三月最初の巳の日に行われていたが、三国時代の魏の時より固定された。

・「鮎川」現在の和歌山県田辺市鮎川(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。

・「猴搔荊」「鉤藤」双子葉植物綱アカネ目アカネ科カギカズラ属カギカズラ Uncaria rhynchophylla 。見事な鉤は当該ウィキの、この画像を見られたい。

・「蠹(きくいむし)」鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目Cucujiformia下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae に属する木材への穿孔生活に適応して短い円筒形の微小な昆虫で種類も多い。

・「印魚(こばんうお)(方言やすら)」スズキ目コバンザメ科コバンザメ属コバンザメ Echeneis naucrates 。私の『栗本丹洲「栗氏魚譜」より「小判鮫」 (コバンザメ)』を参照されたい。「コバンイタダキ」の名の方が知られるが、標準和名はコバンザメである。紀州の地方名「ヤスダノコバン」「ヤスダ」「ヤスラ」「ヤイチヤ」等は国立国会図書館デジタルコレクションの宇井縫蔵の名著「紀州魚譜」のこちらで確認出来る。

・「吮著器(サツカー)」「せんちゃくき」。吸いつくための吸着機能部位。“sucker”は英語で「吸盤」の意。

・「東牟婁郡湯峰(ゆのみね)」現在の和歌山県田辺市本宮町湯峯。私は、入湯し、泊ったこともある。

・「海草郡日方町」現在の和歌山県海南市日方

・「營實(てりはのいばら)」バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属テリハノイバラ Rosa luciae

・「尾長糞蛆(くそむし)」糞虫(ふんちゅう)。多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科 Scarabaeoidea及びそれに近縁なグループに属する種群で、哺乳類、特に草食動物の糞を食べるものの総称。「オナガクソムシ」という種は昆虫嫌いの私には判らない。悪しからず。]

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 銀杏樹と女の乳との關係

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。漢文脈の「々」は正字化した。

 なお、標題の「銀杏樹」のルビ「いてふ」については、Q&Aサイトのこちらの回答に、『「銀杏」はシナでは「いんきゃう」に近い発音していたので、その時代に日本に伝わったので、銀杏を「いんきゃう→いちゃう」と訛って言ったとも言われる。また』中国『では銀杏を「鴨脚(いぁきゃう)」と言ったのが』、『日本に来て「いちゃう」と訛った説もあるようで』あり、『さらに、「一葉(いちえふ)」という説も』あるとあった。小学館「日本国語大辞典」によれば、『歴史的』仮名遣『は江戸時代以来「いてふ」と書かれたが、近年、語源の研究から「いちゃう」が正しいとされる』とある。則ち、本邦の歴史的仮名遣では「いてふ」「いちやう」の表記が過去には混在していた。漢文部は後に〔 〕で推定で訓読文を配した。]

 

     銀杏樹(いてふ)と女の乳との關係 (大正二年九月『民俗』一年二報)

 

 銀杏樹と女の乳とは多少の關係あり。和歌山市道傍(きんぼう)の或村に「擂木(れんぎ)の銀杏樹」とて、或寺か社の境内に老木あり。其れに擂木狀(れんぎじよう)の長き瘤《こぶ》を生じ、垂下《たれさが》れり。乳の病ある婦人、之に立願して平癒す、と云り。「紀伊國名所圖會」第二編か三編に其圖ありと記憶す。又、明治二十九年以前の『植物學雜誌』に、誰かが、其科學上の說明を出し有《あつ》たと記憶す。序でに云ふ。「池北偶談」卷廿四に、鄕大夫有好爲雅談、問鄰縣一友人云、聞貴鄕多銀杏、然否、友人不ㇾ應、問再三不ㇾ已、旁人皆匿笑、終不悟、蓋銀杏淫行音同也。〔鄕大夫の、好んで雅談を爲す者、有り。鄰縣の一友人に問ひて云はく、「貴鄕に銀杏多しと聞く。然るや否や。」と。友人、應ぜず。問ふに、再三して、已(や)まず。旁(かたは)らの人、皆、匿(ひそ)み笑ふも、終(つひ)に悟らず。蓋し、「銀杏(インシン)」と「淫行(インシン)は、音(おん)、同じければなり。〕薩摩人に歌謠を勸むるとて、「『おはこ』を出せ」と强いて、叱られた話に似て居るが、是も銀杏と女人の關係と云はゞ、云ひ得るから、記し置く。

[やぶちゃん注:「道傍(きんぼう)」はママ。私はルビから確信犯と判じ、ママとした。「選集」では『近傍』とあってルビはない。

「擂木(れんぎ)の銀杏樹」「擂木」は「擂り粉木」のことで、古木のイチョウによく見られる気根の形状を、女性の乳房同様、ミミクリーしたものである。イチョウの気根については、「しろうと自然科学者」氏のブログ「しろうと自然科学者の自然観察日記」の「子宝・安産のシンボルとしてあがめられるイチョウの乳柱(気根?)。【7月中旬のあきる野市・八王子市での自然観察・その1】」がよい。他を見ても、我々は判ったように「気根」と言っているのだが、植物学的にはイチョウが形成する(形成しないイチョウも多い)理由はよく判っていないというのが真相である。されば、古くからの民俗社会での信仰も大いにあっていい気がしてくる私である。

「擂木狀(れんぎじよう)」ルビの「じよう」はママ。「じやう」が正しい。実は「選集」では『擂木状(すりこぎじよう)』とあるのだが、これは編集者が判り易く補正した可能性が疑われる(初出は見られないので断定は出来ない)ので、そのままに電子化した。

『「紀伊國名所圖會」第二編か三編に其圖あり』国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一六(一九四一)年刊の同書(本文は版刻復刻)上巻のここに出る図であろう。右上のキャプションに「九頭神社」「研棒銀杏(れんきいてう)」とある。ところが、この神社の本文記載が周囲に見当たらないので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原版本で調べたところ、「三之巻上 名草郡」(一括PDF)の35コマ目からで解説文を確認出来た。そこでは「九頭大明神(くづだいみやうじん)」とあり、『えだごとに瘤(こぶ)のごときものを生じて長く下り垂(たれ)たり其最(もつとも)長(ちやう)ずるものは五尺余(よ)におよべり土人呼(よん)で研棒銀杏といふ一奇観といふべし』とあるので、これは同一の対象えだることは疑いない。調べみたが、「九頭」を名乗る(を含む)神社はこの和歌山市内だけでも七社ある(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。しかし、この乳房銀杏は現存しない模様で、位置を特定するのも意味がないとおも思ったが、種々の上記の解説の地名などから推理すると、この神社は、ここの「九頭大明神」、或いは、その南直近にある「九頭神社」ではないか(或いは、それらの神社の最初に建てられた場所)と思う。

「池北偶談」清朝初期の詩宗で、別名を王漁洋と称した王士禛(一六三四年~一七一一年)の随筆集。本文は「中國哲學書電子化計劃」のこちらの影印本と校合した。一つ、大きな誤りがあり、「雅談」を熊楠は「雜談」としている。そうした版本があるのかも知れないが、ここは「雜談」ではなく、「雅談」であることが、一つの落差を生じて面白い。断然、「雅談」とした。但し、字体は熊楠の表記を概ね優先した。

「銀杏(インシン)」原題中国語で「yín xìng」。「インシィン」。

「淫行(インシン)」同前で「yín xíng」で「行」の四声が異なるだけで、ほぼ同じ。

「おまん」鹿児島弁で女性生殖器を指す。大学時代、国学院大学だったので、「神道概説」が一年次の必須科目であったが、老教授が性的な噺を連発するので、欠かさず出た(女学生は概ね嫌っていた)が、奥方を早くに亡くされて、田舎出(場所を記憶していない)の女中を雇っていたが、『夕餉が近くなると、「先生、おまんあげましょか?」と言うんで、嬉しくなっちゃう。』とおっしゃっておられた。確か、十二月末の講義だったか、有意にサボっている学生が多く、大教室の三分の一以下だった。すると、「今日の講義を聴いた諸君は「優」。一月から、来んで、いいよ。試験は受けてね。」と言われたのも忘れられない。]

2023/01/30

「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 寂照飛鉢の話

 

[やぶちゃん注:「續南方隨筆」は大正一五(一九二六)年十一月に岡書院から刊行された。

 以下の底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。今回の分はここから。但し、加工データとして、サイト「私設万葉文庫」にある、電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集4」の「続南方随筆」(一九八四年刊・新字新仮名)で校合した。

 注は文中及び各段落末に配した。彼の読点欠や、句点なしの読点連続には、流石に生理的に耐え切れなくなってきたので、向後、「選集」を参考に、段落・改行を追加し、一部、《 》で推定の歴史的仮名遣の読みを添え(丸括弧分は熊楠が振ったもの)、句読点や記号を私が勝手に変更したり、入れたりする。漢文脈部分は後に推定訓読を添えた。漢文脈の「々」は正字化した。]

 

     寂照飛鉢の話  (大正二年九月『民俗』第一年第二報)

 

 印度の聖人が鉢を飛《とば》して食を受《うけ》た例は、佛典に數(しばし)ば見るが、吾邦にも越《こし》の泰澄(たいちよう)の沙彌臥行者(しやみふぎげうしや[やぶちゃん注:ママ。「しやみふせ(り)のぎやうじや」が正しい。])は、自分は室内に臥し乍ら、海舶過《すぐ》るごとに、鉢を飛して供を乞ふ(「元亨釋書」)。また、「宇治拾遺(うじしうゐ[やぶちゃん注:ママ。「うぢしふゐ」が正しい。])に、信貴山(しぎさん)の聖僧、常に鉢を山下に飛して食を受けた話、有り。「古事談」卷三に、淨藏、鉢を飛し、北の方、王城に往《ゆき》て食を受來《うけきた》らしむるが常なりしに、三日續けて空で歸るから、調べると、山中の老僧の大鉢が飛んで來て、淨藏の鉢中の物を奪ひ去るのだつた、と載せ居る。匡房《まさふさ》卿の「續本朝往生傳」に、大江定基、出家して、法名寂照、長德中、宋に入り、安居之終、列於衆僧末、彼朝高僧、修飛鉢法、受齋食之時、不自行向、次至寂照、寂照心中大耻、深念本朝神明佛法、食頃觀念、爰寂照之鉢、飛繞佛堂、三匝受齋食而來、異國之人悉垂感淚、皆曰、日本國不ㇾ知ㇾ人、令奝然渡海、似ㇾ表無人、令寂照入宋、似ㇾ不ㇾ惜ㇾ人云々〔安居の終はりに、衆僧(しゆそう)の末(すゑ)に列(つらな)りぬ。彼(か)の朝(てう)の高僧、飛鉢(ひはつ)の法を修(しゆ)して、齋食(さいじき)を受くるの時、自(みづか)ら行き向かはず、次いで寂照に至る。寂照、心の中に大いに耻ぢて、深く本朝の神明・佛法を念じ、食頃(しばし)して觀念せり。爰(ここ)に寂照の鉢、佛堂を飛び繞(めぐ)ること、三匝(みめぐ)りして、齋食を受けて、來れり。異國の人、悉くに感淚を垂れ、皆、曰く、「日本國は人を知らず。奝然(てうねん)をして渡海せしめしは、人なきを表はすに似たり。寂照をして、入宋せしむるは、人を惜しまざるに似たり。」云々〕。「大江氏系圖」を見ると、寂照は匡房の曾祖父匡衡の從弟に當る。他人でないから、據《よりどころ》ろ有て言《いふ》たものだろう[やぶちゃん注:ママ。]。

[やぶちゃん注:「越の泰澄(たいちよう)の沙彌臥行者」奈良時代の修験道の僧泰澄(天武天皇一一(六八二)年~神護景雲元(七六七)年)は越前国生まれで、加賀白山を開山したと伝えられる、「越の大徳」と称された名僧の弟子(生没年未詳)。アーカイブされた「能登出身の仙人―2 臥行者」によれば、『臥行者のことは、金沢文庫および密谷本』「泰澄和尚伝記」『によると、泰澄』二十一『歳の』大宝二(七〇二)年『能登島の小沙弥が弟子とり、臥行者と名づけられた。その頃から臥行者は、「飛鉢(ひはつ)の呪法」がききめをあらわすようになったと』伝えられる。和銅五 (七一二) 年、『この臥行者』『が、日本海を航行する船に、越知山(丹生郡朝日町越知山)から佐波理(さはり:銅と鈴の合金)の鉢』『を飛ばして布施を求めていた。山頂から思いっきり飛ばした鉢が、鳥のように飛び、船の船頭の足元に届くのを見て、越知山から大声で「われらの師匠のため、鉢一杯の布施を頼み申す」と言うのである。その法力に驚いた船頭たちが、鉢に米を入れると、鉢は空へ舞い上がり、越知山山頂の彼のもとに戻っていくのであった』。『ある時、出羽の船頭神部浄定が都に納める米俵を積んで、越知山の前の海を航行していた』が、『臥行者がいつものとおり』、『鉢を飛ばして布施を求めると、船長は』、『これは出羽の国から京へ運ぶ官米だから』、『といって断った。すると、鉢は越知山に飛び戻り、鉢の後に続いて米俵も次々と飛び去っていった。神部浄定は驚き、近くの港に船を寄せると、越知山山頂に駆け登った』。『山頂にあった小さな寺の前庭に行くと、米俵が積み上げられていた。船頭は、臥行者に詫びてから、奪われた米は官米であり、それを弁償するために、これから出羽の百姓たちが苦しい暮らしを続けなければならない、と哀願し許してもらい』、『船に帰ってみると』、『米俵はもとのように積まれてい』たため、『泰澄の人格に打たれた船頭は発心し、官米を送り届けると、都からの帰路に弟子入りし浄定(きよさだ)行者と呼ばれるようにな』ったとある。リンク先には、まだ続きがあるが、ここまでとするが、アーカイブなので、保存しておかれる方がよかろう。

『「宇治拾遺(うじしうゐ)」に、信貴山(しぎさん)の聖僧、常に鉢を山下に飛して食を受けた話、有り」「宇治拾遺物語」の「信濃國の聖(ひじり)の事」。飛倉で知られる「信貴山縁起」に基づくもの。かなり長い。「やたがらすナビ」のこちらで電子化されたものが読める(新字)。

『「古事談」卷三に、淨藏、鉢を飛し、北の方、王城に往て食を受來らしむるが常なりしに、三日續けて空で歸るから、調べると、山中の老僧の大鉢が飛んで來て、淨藏の鉢中の物を奪ひ去るのだつた、と載せ居る』「古事談」巻第三にある、「淨藏貴所(じやうざうきそ)」の飛鉢法の説話。これもかなり知られたものである。国立国会図書館デジタルコレクションの『国史叢書』第十一巻「古事談 續古事談 江談抄」のここから(左ページ)読める。

「續本朝往生傳」の漢文文字列は所持する一九九五年岩波書店刊の『日本思想体系』新装版の「往生伝・法華験記」他の原文と校合し、同書の訓読文と比較したところ、数箇所に問題があったので、修正した。なお、この「大江定基」は次段の「三河入道寂照」と同一人物で、彼の出家の最初の動機は「今昔物語集」(巻第十九 參河守大江定基出家語(參河守大江の定基出家の語(こと))第二)や「宇治拾遺物語」(卷第四 七 三川の入道(にうだう)遁世の事)などで知られるが、愛する妻が死んでも愛おしさのあまり葬送せず、その亡骸の口を吸っていたが、遂に遺体が腐り出し、そのおぞましい腐臭に泣く泣く葬ったことにあった。後者は私の「雨月物語 青頭巾  授業ノート」(サイト版)で電子化しているので参照されたい。]

 「宇治拾遺」には、『今は昔、三河入道寂照と云ふ人、唐土(もろこし)に渡つて後、唐土の王、止(やんごと)なき聖(ひぢり)どもを召集めて、堂を飾りて、僧膳を設けて、經を講じ給ひけるに、王の給はく、「今日の齋莚は手長(てなが)(給仕)の役、有可らず。各《おのおの》我鉢を飛せ遣《やり》て、物は受可し。」との給ふ。其心は日本僧を試みんが爲也。扨、諸僧、一座より次第に鉢を飛せて物を受く。三河入道、末座(ばつざ)に着きたり。其番に當りて、鉢を持《もち》て立《たた》んとす。「爭《いか》で鉢を遣てこそ受《うけ》め。」とて、人々、制し止めけり。寂照、申しけるは、「鉢を飛する事は別の法を行《おこなひ》てする業也。然るに、寂照、未だ此法を傳へ行はず。日本國に於いても、此法、行ふ人有けれど、未だ世には行ふ人、無し。爭でか飛さん。」と言て居たるに、「日本の聖、鉢、遲し。鉢、遲し。」と責ければ、日本《につぽん》の方《かた》に、向《むかひ》て祈念して謂《いは》く、『我國の三寶神祇、助け給へ。恥見せ給ふな。』と念じ入《いり》て居たる程に、鉢(はち)、獨樂(こまつぶり)のように、くるめきて、唐土の僧の鉢よりも、早く飛びて、物を受て歸りぬ。その時、王より始《はじめ》て、「止事《やんごと》なき人なり。」とて、拜みけるとぞ申し傳へたる。』と有る。

[やぶちゃん注:「宇治拾遺物語」の引用は、本来の原文に異様に手が加えらているため(特に平仮名の漢字化)、所持する信頼出来る二種の同作の刊本を参考に大幅に手を加えた。

 「ユール」の「マルコ・ポロ」紀行(一八七一年板卷一、二六六頁)に、元世祖が供養せし比丘(バツシ)衆、方術に長ぜることを敍《のべ》て、帝、飮む時、其食卓を地上八肘(クビツト)(日本の一丈二尺餘)高き壇に載せ、卓より十步距つて酒等を盛《もつ》た盃を置く。帝、之を飮んとすると、比丘衆、方術もて、誰も觸《ふれ》ぬに盃を自ら帝の前に往《ゆか》しむ。是れ其席に侍する人々、每度、見る所で、時として、一萬人も侍する事有り、全く事實で、虛言でない、と書いて居る。「ユール」、註して云く、一三二三至二八年の間に、支那に三年留つた天主僧「オドリク」も、短く此事を記して云く、幻士、美酒を盛《もつ》た盃をして、空中に飛行し、自ら酒飮まんと欲する諸人の前に往しむ、と。丁度、元の英宗の末年から文宗の初年間、我朝、後醍醐帝御宇の初めに當り、「マルコ」の支那滯在よりは、凡そ三十年後の事だ。「ジェシュケ」の說に、近代の喇嘛《ラマ》僧も術士が盃を飛すと信ず、と。歐州でも、「シモン・マグス」や「ツエサレ・マルテシオ」は、食器や銀盃を手で觸ずに動かしたと古く信ぜられた、と。以上、「ユール」の註だが、熊楠曾て「飛盃(フライイング・カツプス)」と題し、大略、右の通り書集めて、明治三十三年二月の『ノーツ・エンド・キーリス』に出し、濠州土人が弓を用いるを知《しら》ずに、ブーメラングを發明した抔を引き合わせ、多大の誇張は有るにしても、既に多くの人が觀たと云ふ飛鉢の一條は、必ず何か一種の機巧(からくり)を使ふた事實が有たのだろうと評し置《おい》た。其頃、予、「ヘブリウ」語を學ぶのを助けられた「ウヰリアム・ガーペット」てふ奇人有て、當時、羅馬法皇が何とかいふ神通家を「ヴァチカン」から卻《しりぞ》けたるを不當とし、上に引《ひい》た日本國不ㇾ知人云々の語を援《ひ》いて、『ブリチシュ・エンジニヤリング』誌へ書立《かきたて》て居《をつ》た。

[やぶちゃん注:『「ユール」の「マルコ・ポロ」紀行(一八七一年板卷一、二六六頁)』はイギリスの軍人で東洋学者でもあったヘンリー・ユール(Henry Yule 一八二〇年~一八八九年)のマルコ・ポーロの「東方見聞録」の訳注本‘The Travels of Marco Polo’。

「比丘(バツシ)」このルビは底本では判読が出来なかったので(「ペツシ」のようには見える)、国立国会図書館デジタルコレクションの渋沢敬三編「南方熊楠全集」第六巻文集Ⅱ(昭和二七(一九五二)年乾元社刊)の当該部で確認した。因みに、「選集」では『パツシ』のように見える(半濁音の右側が切れていて、これもよく判らないが、そう見える)。「万葉文庫」では『ハツシ』で起こしてある。そもそも「比丘」はサンスクリット語Bhikṣu」(ビクシュ)の漢音写で、現代中国語ではbǐqiū」(ピィーチ(ォ)ウ)である。どれであってもあり得そうな感じがするが、現段階では、私のとっては、唯一の新たなデータとして上記リンク先のそれを採用した。

「八肘(クビツト)(日本の一丈二尺餘)」キュービット(英語:cubit)は古代から西洋の各地で使われてきた長さの単位。「肘から中指の先までの間の長さ」に由来する「身体尺」の一つで、ラテン語で「肘」を意味する 「cubitum」に由来する。時代によって差があるが、概ね「四十三~五十三センチメートル」を「一キュービット」とする。「一丈二尺」は三メートル六十三センチ。

「オドリク」(Odorico da Pordenone ?~一三三一年:「オドリク」は英語読みで、正しくは「オドリコ・ダ・ポルデノーネ」)はイタリア人宣教師。若くして「フランシスコ修道会」に加わり、一三二〇年頃、東方への布教を志して出発した。ペルシア経由で海路インドを経、一三二二年から翌年頃に広東に上陸、一三二五年、現在の北京に到着、三年間滞在し、陸路によりイタリアに帰着した。一三三〇年に見聞を口述している。その内容は布教よりも土地の紹介に重点がおかれ、とくに杭州の仏教寺院の行事の話が貴重である(主文は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「ジェシュケ」不詳。

「シモン・マグス」(Simon Magus)は聖書に登場する人物。当該ウィキによれば、『別名は魔術師シモン』で、『新約聖書外伝の』「ペテロ行伝」『によると、自らの魔術によって空中を浮揚し』、『ペテロに対し』、『挑んだが、ペテロが神に祈りを捧げると』、『忽ち』、『墜落し』て『落命したとされる』とある。

「ツエサレ・マルテシオ」不詳。

『熊楠曾て「飛盃(フライイング・カツプス)」と題し、大略、右の通り書集めて、明治三十三年二月の『ノーツ・エンド・キーリス』に出し』「Internet archive」のここ(右ページ左下方から次のページにかけて)で原投稿‘FLYING  CUPS’を確認出来る。但し、それは、ここで熊楠が挙げた例とほぼ同じである。]

 「紀伊續風土記」八一、熊野川畔七日卷淵の上の山に、飛鉢森(ひはつのもり)有り。むかし、異僧專念上人、此に棲み、鉢を下して、施物を乞ふ。筏師、戯れに、草鞋《わらぢ》を鉢に入れると、筏師、忽ち、淵に入り、渦に卷《まか》れて七日の間、出《いづ》るを得ず、因《より》て名づく、とある。予、曾て、淋しき熊野の山中で、薄暮近く鼯鼠(むさゝび)如き者が、高い頂から、斜めに下り、又、上ること、數回なるを見て、『鼯鼠が、下から上へ飛ぶは、奇怪。』と、久しく守《まもつ》て居ると、「やえん」と云ふ機械で物を上下するのと分つた。專念上人が鉢を飛ばすとはなく、上下したと有るは、全く「やえん」樣の物を、常人に分らぬ法で使ふたのかと思ふ。唐の釋道宣の「續高僧傳」三三、元魏の時、洛京永寧寺の天竺僧(てんじくそう)勒那漫提(ろくなまんてい)、五明の術に通ず。每見洛下人遠向嵩高少室取ㇾ薪者、自云、百姓如(ゆき)許地(かのちに)、擔負辛苦、我欲暫牽取二山、枕洛水頭人伐ルヲ。乃還ㇾ放去、不以爲一ㇾ難、此但數術耳、但無知者、誣ㇾ我、爲聖所以不一ㇾ敢。〔每(つね)に、洛下の人の、遠く嵩高(すうかう)の少室(せうしつ)に向ひて、薪を取る者を見る。自(みづか)ら言ふ、「百姓、許(か)の地に如(ゆ)き、擔(にな)ひ負ひて、辛苦す。我れ、暫く、二山を牽(ひ)き取り、洛水の頭(ほとり)に枕(まくら)せしめ、人、伐り足(た)るを待ち、乃(すなは)ち、故に還(かへ)し去らんと欲す。以つて難(かた)しとは爲(な)さず、此れ、但(ただ)、數術(まじない)たるのみ。但、無知の者、我れを誣(し)いて、聖(ひじり)とは、敢へてせざる所以(ゆゑん)と爲(な)す。」と。〕是も「やえん」樣の仕掛で、高山巓(こうざんてん)から、手早く薪を下す成案有しを、暫く二山を牽き取る抔と、どうせ、爲る積りは無いのだから、大言したのだろう。又、同書卷卅に、道士陸修靜、北齊に入《いり》て、諸沙門と道術を角(くら)べるに、咒して衣鉢を擧《あげ》たり、轉(ころが)したりした事が有る。(六月十八日より七月十一日夜に至り、草し終る)

[やぶちゃん注:『「紀伊續風土記」八一、熊野川畔七日卷淵の上の山に、飛鉢森(ひはつのもり)有り。……』国立国会図書館デジタルコレクションの「紀伊続風土記」第三輯(仁井田好古等編・明治四三(一九一〇)年帝国地方行政会出版部刊)の「巻之八十一 牟婁郡第十三」の末にある。ここの上段八行目から。

「續高僧傳」は「大蔵経データベース」で校合した。

「嵩高の少室」北魏の首都であった洛陽の東南東にある嵩山(すうざん)の西の峰少室山(標高一四〇五メートル)のこと。

「元魏の時」「天竺僧」「勒那漫提」「元魏」は南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建国され、前秦崩壊後、独立、華北を統一して、五胡十六国時代を終焉させた北魏(三八六年 ~五三四年)のこと。「勒那漫提」は中インド出身の翻訳僧。

「やえん」「野猿」「矢猿」。強靭な縄で作った一種のロープ・ウェイ式の機械。谷を跨いで、木材を搬出したり、人が乗って谷を渡ったりするのに用いる。江戸時代には既にあった。

「陸修靜」南北朝時代の南朝の劉宋(四二〇年~四七九年)の道士(四〇六年~四七七年)。画題として知られる「虎渓三笑図」の主人公慧遠を陶淵明とともに尋ねるのが、彼である。]

死靈解脫物語聞書下(5) 顯誉上人助か㚑魂を弔給ふ事

 

[やぶちゃん注:本書の解説や底本等は、冒頭の「累が最後之事」を参照されたい。「助か」はママ。「助が」。本文には身体障碍者に対する差別用語が出るので、批判的に読まれたい。]

 

  顯誉上人助(すけ)か㚑魂を弔(とふらひ)給ふ事

  比は、寬文十二年、飯沼壽龜山弘經寺(いゝぬまじゆきさんぎきやうじ)にて、四月中旬の結解(けつげ)より、大衆(しゆ)一同の法問(ほうもん)、十七日に始(はじま)り、三則目に當(あたつ)て、十九日の算題は、發迹入源(ほつしやくにふげん)の說破(せつは)なれば、各々、眞宗の利劔を提(ひつさ)げ、施化利生(せけりしやう)の陣頭におゐて、法戦(ほつせん)、場に火花をちらし、右往左往に、勝負をあらそひ、単刀直入のはたらき、互に、隙なき折から、祐天和尚も今朝(けさ)より、數度(すどの)かけ合(あい)に、勢力も、つかれたまひ、しばらく息をやすめて、向ひを、

「きつ」

と詠(なが)めたまへば、羽生村の庄右衞門、只今、一大事の出來し[やぶちゃん注:「しゆつたいし」。]、喉(のんど)にせまる風情(ふぜい)にて、祐天和尚の御顏を、あからめもせず、守り居(ゐ)たり。

 和尚、此よし、御覽じて、

『いかさま、此者のつらつきは、今日、妻子の死にのぞむか、さては、きわめたる一大事出來せりと見へたり。何事にてもあれかし、この法席(ほつせき)は、たつまじものを。』

と、見知らぬていに、もてなし、確乎(かつこ)としてぞ、おわしける。

[やぶちゃん注:「結解」「結夏(けつげ)」のこと。安居(あんご:四月から七月の夏季九十日間に亙って行なわれる仏道修行)の開始当日を指す。ここにある通り、「寬文十二年」「四月中旬の結解」で「十七日」が、その日。グレゴリオ暦で一六七二年五月十四日。

「大衆一同の法問」所持する高田衛先生の「江戸の悪魔祓い師(エクソシスト)」(一九九一年筑摩書房刊)の注によれば、『浄土宗の檀林では、定期法問』(WEB版新纂浄土宗大辞典」の「法問」によれば、『浄土宗義に関する問題を提出し、質疑応答すること。法門とも書き、論義、談義ともいう。江戸時代に盛んに行われ、特に檀林においては所化の学識能力を図る試験として重視された。法問には臨時と定期の二種類があった』とある)『として、四月十七日から二十一日まで、十月十七日から二十一日まで、年二回の法問の行事が定められていた。この期間は、学僧たちそれぞれにとってハレの場であった。とくに四月の法問は学僧にとって、年一度の重要な試練の日であった』とある。だから、祐天は、明かに、羽生村で再び何かが起こっていることを感じ取りながらも、近くで深刻な顔で凝っと彼を見つめている庄右衛門を、敢えて無視しているのである。

「三則目」ここまでの法問の宗門に関わる議論の問題は、毎日、一則宛出ていることが判る。

「算題」順番に出題される定期法問の法問問題。

「發迹入源」凡夫には理解出来ない仏の深妙な教えを、理解することに拘らず、仏智を仰ぎ信ずる法問を言う(同じく「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「施化利生門・発迹入源門」に拠った)。]

 庄右衞門が心の内、

『此日の法問、過(すく[やぶちゃん注:ママ。])る事、千歲を(ちとせ)まつに、異ならじ。』

と推量(おしはか)られて知られたり。

 扨、やうやうに、法問、はて、大衆も、みなみな、退散すれば、祐天和尚も、所化寮さして歸り給ふに、庄右衞門、やがて、後(しり)につき、そゞろあしふんで[やぶちゃん注:落ち着かない足取りで。]來る時、和尚、寮の木戶口にて、うしろを

「きつ」

と、かへり見たまひ、

「いかにぞや、庄右衞門殿、用有(ようあり)げに見ゆるは、何事にかあらん、おぼつかなし[やぶちゃん注:不審である。]。」

と、のたまへば、庄右衞門、畏(かしこま)り、

「さればとよ、和尚樣、かさねが、また、きたり、今朝よりせめ候が、もはや、命は、つゞくまじ。急ぎ、御出、有べし。」

と、所まだらに、いゝちらす。

[やぶちゃん注:「所まだらに」火急のことなれば、「所々を略して短くして」訴えたである。]

 和尚、聞も[やぶちゃん注:「きくも」。]あへたまわず、

「さては。其方は、さきへ行け。我も追付(おつゝけ)行べし。」

と、しやうぞく、召かへ、出給ふが、何とも、りやうけん、したまわず、門外の松原まで、只、うかうかと[やぶちゃん注:心が落ち着かないさま。]ゆき給ふを、庄右衞門、待受(まちうけ)、申やう、

「何となさるゝぞや、和尚樣、はやく御越候ひて、十念さづけ給へ」

と、いふに、和尚のたまはく、

「何とかさねが來るとや。其用所(ようじよ)、何事にかあらん。また、せめのやうだいは、いか樣なるぞ。」

と問たまへば、庄右衞門申樣[やぶちゃん注:「まをしやう」。]、

「今朝の五つ時[やぶちゃん注:午前八時頃。]より、『かさねが、また、參りたり。』とて、与右衞門も、金五郞も、名主と我等に告(つげ)しらせ候ゆへ、早々、兩人、參りて、そのありさまを見候に、まづ、くるしみのていたらく、日比(ひごろ)には百倍して、中に、もみあげ、てんとうし、五体、あかく、ねつなふして、眼(まなこ)の玉も、ぬけ出しを、兩人、いろいろ、介抱、仕り[やぶちゃん注:「つかまつり」。]、

「累よ、菊よ、」

と呼(よばは)れとも、有無(うむ)の返事もならばこそ、只、ひらぜめの苦痛なれば、大方(おほかた)、命(いのち)は御座あるまじ。せめての事に、十念を、からだになり共、さづけ給ひ、後生、御たすけ候へ。」

と、なみだくみてぞ、かたりける。

[やぶちゃん注:「中に、もみあげ」身体が内側に捩じられ、揉み上げられるような様子を言う。私は、癲癇症状の一つで、頭と足先だけが床について、その他の部分が、弓なりに反ってしまう、所謂、「ヒステリー弓(きゅう)」のような状態を言っているように感じられる。とすれば、「てんとう」は「顚倒」で、その弓形(ゆみなり)から、ひっくり返ることを言っていると私は初読時にはイメージした。高田先生は前掲本で、『〈中〉は〈宙〉で、〈てんとう〉は〈顚倒〉であろう。五体揉みしだかれ、屈曲させながら、宙に逆さに浮揚している、というのである』とさる。まさに「エクソシスト」の一場面もかくやという、衝撃的映像で頗る映画的な奇体な空中の転倒(逆さま)浮揚というわけだが、事実、後で、祐天自身も現認する――事実の怪現象――なのである。現世とは、その根を異界に生きる幽霊は、本邦では、しばしば逆立ちして、出現する。その依るところの基本原則が我々とは真逆に反転しているもの(善悪も逆転する)ことを象徴するものとされる。

「五体、あかく、ねつなふして、眼(まなこ)の玉も、ぬけ出」(いで)「し」全身残らず赤変しているというのは、高熱によるものであり、とすれば、「ねつなふ」とは、体内からの熱によって苦しみ悩む身体状態、「熱惱(ねつなう)」の意と理解出来る。実際の疾患としても、熱性マラリアの症状にごく近い。因みに、高田先生も「熱悩」とされる。

「ひらぜめ」高田先生は後注で、『ここでは、間断なく、責めが続くことを指す語であろう』とされる。]

 和尚、此よし、聞しめし、いよいよ、心おくれつゝ、たゞぼうぜんと、あきれはて、夢路(ゆめぢ)をたどる心地にて、あゆみかねてぞ、見へたまふ。

[やぶちゃん注:先の調伏の際、祐天は寺や朋輩僧に責任が及ばぬように、自分一人の責任に於いて、それを執行しているから、今回の再憑依が、確かに再び累の亡魂によるものであるとすれば(祐天の不審は正しく、実は違う(累の霊ではない)のだが)、そうなると、祐天自身の法力不足によるものであって、彼の個人的責任が僧衆の中で大きな問題となり、彼の名声も地に落ちることになるから、特異的に「心おくれ」、「茫然と」「あきれはて」「あゆみかねて」いるのである。]

 時に庄右衞門、言葉あらゝかに、いふやう、

「こは、きたなし、祐天和尚。たとひ、天魔のしわざにて、菊が命を、せめころし、貴僧の、ちじよくに及びて、身をいかやうになしたまふとも、名主・それがし兩人は、『命かぎりに御供せん。』と、約諾(やくだく)、かたく、相極め[やぶちゃん注:「あいきわめ」。]、此惣談、決定(けつてう)して、名主を、あとに、とめ置き、それがし一人、御むかひにまいりたり。此上は、貴僧、いかやうに成給ふ共、我々、兩人、御供仕らんに、何のあやうき所か、おわせん。はやく、いそぎ給へ。」

と、いへば、和尚、あざわらつて、のたまはく、

「おろか成、[やぶちゃん注:「なり、」]庄右衞門。汝等二人、我が『供』とは、それ、何のためそや[やぶちゃん注:ママ。]。汝は、いそぎ、さきへ行け。我は、こゝにてしばらく、祈願するぞ。」

と、のたまひて、心中に、誓(ちかひ)たまわく、

「釈迦・弥陀、十方の諸佛達、たとひ、定業(でうごふ)かぎり有て、菊が命は失(う)するとも、二度[やぶちゃん注:「ふたたび」。]爰に押かへし、我敎化にあわせてたべ。かれを捨置給ひて、我を外道に成し給ふな。佛法の神力(じんりき)、此度(このたび)ぞ。」

と、決定のちかひ、たておわつて、いさみすゝんで行(ゆき)給へば、庄右衞門も、力を得、ちどりあしを、かけてぞ、いそぎける。

 やうやう、近付[やぶちゃん注:「ちかづき」。]、与右衞門が家を見渡せば、四方のかこひ、柱斗(はしらばかり)を、のこしおき、ことごとく、引拂(ひきはら)ひ、屋敷中[やぶちゃん注:「やしきうち」。]は、尺地(せきち)もなく[やぶちゃん注:僅かな地面も見えぬほどに。]、老若男女、みちみちたり。

 

Yutentyoubuku

 

[やぶちゃん注:前に「死靈解脫物語聞書下(2) 祐天和尚累を勸化し給ふ事」で掲げた際に言ったが、一つのキャプションを除けば、この絵は、確かに、この附近に配すべき挿絵であるので、再掲しておく。

 

 其外、大路のうへ、木の枝、こゝかしこの大木まで、のぼりつれたる見物人、かくばかり此村に、人多くはなけれ共、前々よりのふしぎなど、遠近にかくれなく聞つたへし事なれば、

「又、今朝より、せむるぞ。」

と、つげ渡るにや、あるらん、道も、田畑も、平おしに、皆、人とこそ、見へたりけれ。

 かくて、祐天和尚と庄右衞門は、いそぐに、ほどなく、与右衞門が家近く着給へども、いづくをわけて入給ふべきやうもなく、人のうへをのりこへ、ふみこへ、やうやうとして、菊がまくらもとに近付たまへば、されども、疊(たゝみ)一枚敷(まいじき)ほど、座を分(わけ)て待居(まちゐ)たるに、やがて着座し給ひ、あせ、おしのごひ、あふぎを、つかひ、しばらく、やすみ給ふ時、名主、いと心せき顏(がほ)にて、

「まづまづ、はやく、菊に十念をさづけ給ひ、いとまを、とらせ給ふべし。とくに、おち入る者にて候ひしが、貴僧の御出(いで)を相待(あいまつ)と見へ申。」

と云時、和尚のたまわく、

「まて。しばし。十念も、授まじ[やぶちゃん注:「さづけまじ」。]。ちと、思ふ子細(しさい)、有。」

とて、ながるる御あせを、押拭(おしのごいひ)、押拭、菊が苦痛を見給へば、実(げ)にも、道すがら、庄右衞門がいふごとく、床より上ヘ一尺あまり浮きあがり、浮きあがり、中[やぶちゃん注:「ちゆう」。]にて、五たいを、もむこと、『人道(だう)の中にして、かゝる苦患(くげん)の有べしとは、何れの經尺(きやうしやく)[やぶちゃん注:経典や書物。]に見へけるぞや。是ぞ、始めの事ならんと見るに、心も忍びず、かたるに言葉もなかるべし。』と、あきれはてゝぞ、おわしける。

 『「いかなる罪のむくひにて、さやうの苦痛をうけしぞ。」と、傳へ聞さへあるものを、まして、その座に居給ひて、まのあたり、見られし人々の心の内、さぞや。』

と思ひはかられて、筆(ふで)のたてども、わきまへず。

[やぶちゃん注:最後の一段落は、作者自身が、登場して、一言言っているものととっておく。]

 其時、名主、こらへかね、和尚に向て、いふやう、

「ひらに、十念を授け給ひ、はやく、いとまをとらせ給へ。」

といふに、和尚のたまわく、

「何として、さは、急ぐぞ。」

と、のたまへば、名主がいわく、

「和尚は、御心、つよし。我〻は、かゝる苦患を見候ひては、きも、たましゐも、うせはつる心地して、中中、たへがたく候ふ。」

と、いへば、和尚のたまわく、

「さのみ機遣(きづかい)したまふな、名主殿。何ほどに苦(くるし)むとも、めたと、死するものに、あらず。さて、此責(せめ)るものは、しかと、累と申[やぶちゃん注:「まをす」。]か。又、何の望(のぞみ)、有て、來れりと申か。」

と問たまへば、名主、荅へていわく、

「されば、今朝(けさ)より、いろいろ、たづね候へ共、一言(こと)も物は申さず、只、ひらぜめにて候。」

といふ時、和尚、

「扨こそ、まづ、其相手を聞さだめ、子細をよくよく問(とい)きわめずは、十念は授くまじ。」

とて、きくが耳のもとにより、

「汝は、菊か。累なるか。また、何のために來るぞや。我は、祐天なるが、見しりたるか。」

と、高聲(かうしやう)に、二声(こゑ)、三声、すきま、あらせで、問給ふに、苫痛は、少し、やみけれども、有無の返事は、なかりけり。

 しばらく有りて、また、右のごとく問給へば、目の玉の、ぬけ出たるも、引入(ひきいり)、色のあかきも、たちまち、あをく成、たゞ、まじまじと、和尚の御顏をながめ、淚をうかべたるばかりにて、いなせ[やぶちゃん注:「「否諾(いなせ)」。]の返事は、せざりけり。

 其時、和尚、いかりを顯はし、左の御手をさしのべ、かしら髮を、かいつかみ、床の上におしつけ、

「おのれ、第六天の魔王め。人の物いふに、何とて、返事はせぬぞ。只今、ねぢころすが、是非、いわざるや。」

と、しばし、しづめて聞たまへば、其時息の下にて、たへたへしく、何か一口(くち)、物(もの)をいゝけるを、和尚の耳へは、

「す。」

と、ばかり入けるに、名主、はやくも、聞つけ、

「『すけ』と申、『わつぱし』で御座あると申。」[やぶちゃん注:「小童衆(わつぱし)」。]

といふ時、

「とは、何者(なにもの)の事そ[やぶちゃん注:ママ。]。」

と問たまへば、名主がいわく、

「こゝもとにては、六つ、七つばかり成男の子を、『わつぱし』と申。」

といひければ、和尚、菊に向て、のたまはく、

「其『助』といふものは、死たるものか、生(いき)たる物か。」

と聞たまへば、また、息の下にて荅(こたふ)るやう、

「『かて、つみにゆく。』とて、松原の土手から𥿻川(きぬかわ)へ、さかさまに、うちこふだ。」[やぶちゃん注:「糧、摘みに行く」で「食材にする野草を、摘みに行くよ。」の意。]

と、いふを、和尚、やうやう聞うけたまひ、

「さては。聞へたり。」

とて、打あをのき、名主に向て、のたまふは、

「いかに。其方は、いやなる所の名主哉(かな)、今の詞を聞たまひたるか。さては、此『わつぱし』は、大方、親のわざにて、川中へ、打こふだりと、聞へたり。いそひで、此おやを、せんさくしたまへ。」

と有ければ、名主、承り、

「尤。仰せ、かしこまつて候へ共、かつて、跡形(あとかた)も、しれぬ事なれば、何とかせんぎ仕らん。只、そのまゝにて御弔(とふらひ)あれ。」

といふ時、和尚のたまはく、

「よく合㸃し給へ。名主殿。すでに此㚑、つく事は、その怨念をはらさんために、來(きた)るには、あらずや。しからば、かれが本望(ほんもう)をも、とげさせず、ぜひなく、弔ふたればとて、何としてか、うかぶべき。早々、せんぎしたまへ。」

と有れば、名主、また、いわく、

「御意[やぶちゃん注:「ぎよい」。]、もつともにては候ヘ其、今、此大群の中にて、何者を、とらゑ、いかやうにか、せんぎ仕らん。」

と、一向、承引(せうゐん)せざる時、和尚、いかつて、のたまはく、

「さては。その方は、我がいふ事をうけぬと見へたり。よしよし、我、今、寺に歸り、弘經寺を、おしかけ、地頭・代官へ、つげしらせ、急度、せんぎを、とぐべきが、それにても、なを、所の者を、かばい、『せんぎ成まじ』と、いわるゝか。」

と、あらゝかに、のたまへば、名主、途方にくれ、

「さては、何とか、せんぎ仕らん。庄右衞門は、いかゞ思はるゝぞ。」

といふ時、庄右衞門がいわく、

「とかく、たゞ今、和尚のたつね給御詞(ことば)と、菊が荅る言葉を、少ものこさず、此大勢の中へだんだんにふれ廻し、一々、人の返荅をきくより、外の事、あらじ。」

といひければ、

「此義、尤、しかるべし。」

とて、名主、一つの法言(ほうげん)[やぶちゃん注:従うべき触れ事。]を出し、居長高(ゐだけたか)に、のびあがり、高聲(かうしやう)に、ふれまはすは、

「おこがましくはありながら、とふとかりける、せんぎなり。其ことばにいわく、『只今、祐天和尚、『菊を責る者は、何ものぞ。』と、たづね給へば、㚑魂の荅へには、「『すけ』といふ『わつぱし』成(なる)が、『「かて、つみにゆく。」とて、松原の土手より、きぬ川へ、さかさまに、打こふだ。』と。こたへたり。然るあひだ、その打こみたる人を御尋あるぞ。縱ひ、親にても、兄弟にても、其外、親類・けんぞくにても、ありのまゝに、さんげせよ。若、又、他人・他門にてもあれ、此事におゐて、かすかに成共[やぶちゃん注:「なるとも」。]、見聞(けんもん)したる輩(ともがら)は、まつすぐに、申出よ。當分に、かくし置き、後日のせんぎに、あらはれなば、急度(きつと)、六ケ敷(むつかし)かるべし。」

と、段々に、いゝつぎ、一々、次㐧に、ふれ𢌞(まわ)す。

 庄右衞門がことわりには、

「少も、此義、しる人あらば、早々(そうそう)、申出られよ。まづは、その身の罪障懺悔(ざいしやうさんげ)、後生菩提のためなるべし。かつは、亡者の怨念、はらし、速(すみやか)に成佛させんとの御事にて、祐天和尚の御せんぎぞや。たのむぞ、たのむぞ、人々。」

と、かなた、こなた、二、三返、告渡れ共、皆々、

「しらず。」

といふ中に、東の方、四、五間[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]ばかり隔(へたて[やぶちゃん注:ママ。])たる座中より、老婆のあるが、のびあがり、

「其事は、八右衞門に、御尋(たつね[やぶちゃん注:ママ。])あれ。」とぞ、訴へける。

 名主、此よし、聞よりも、

「それ、八右衞門は、何くに[やぶちゃん注:「いづくに」。]あるぞ。」

と呼(よば)はれば、

「今朝(けさ)よりあれなる木の下に見えけるが、今は、居(お)らず。」

といふにより、常使(でうつかひ)に、いゝ付、こゝかしこと、尋出し、やうやうに、つれ來(きた)るを、名主、ちかく召よせ、

「かくの次第。」

と問ければ、八右衞門、よこ手を

「はた」

と打、

「さては。其『助』が、まいりて候かや。是には、長き物語の候ものを。」

と、泪をながしながら、一々、次㐧に、かたりけり。

「まづ、其『すけ』と申『わつぱし』を川に打こみ捨たる事は、六十一年以前の事、それがしは、ことし丁(ちやう)[やぶちゃん注:当年の意。]六十にて、未生以前(みしやういぜん)の事なれども、親どもの因果はなしを、よくよく、聞覚へたり。此度[やぶちゃん注:「このたび」。]、御弔(とふらひ)なされたる累が実父、さきの与右衞門、やもめにて在(あり)し時、他村より、妻を、めとる。その女房、男子一人、つれ、きたれり。その子の形は、めつかいで、てつかいで、びつこにて、候ひしを、与右衞門がいふやう、[やぶちゃん注:「六十一年以前」還暦によって新しい時代に変わった年目を当て、この助の死霊が、知る人も少ない永い時代をドライヴしてきた存在であることが明らかのとなる。「めつかい」片目に障碍があること。「てつかい」片手に障碍があること。]

『かくのごとくのかたわもの、養育して何かせん。急(いそひ)で、誰にも、くれよ。』

と、いへば、母親のいふやうは、

『親だに、あきし此子をば、たれの人か、めぐまんや。』

と、いへば、与右衞門が云樣、

「扨は、その方、共に出て行(ゆけ)。」

と、折々、せめて云けるゆへ、母親が思ふやう、

『子を捨(すて)るふちは、あれ共、身を捨る藪なし。』

とて、只今、かれが申通り、『かてつみ』につれ行、松原の上手より、川中へなげこみ、夫に、

『かく。』

と語れば、与右衞門も、うちうなづき、

『それこそ、女のはたらきよ。』

とて、中よく、月日を送りしが、終に、其年、懷姙し、翌年、娘を平產す。取あげそだて見てあれば、めつかい・てつかい・ちんばにて、おとこ・女は、替れども、姿は同じ、かたわもの。

『むかしの因果は、「手洗(たらい)の緣(ふち)をめぐる」と聞(きゝ)しが、今の因果は、「針の先をめぐる」ぞや。』

と、親どもの、一つはなしにいたせしを、たしかに、よく、聞覚へたり。さて、そのかたわ娘は、先[やぶちゃん注:「せんの」。]与右衞門が実子(じつし)なるゆへに、すてもやらて[やぶちゃん注:ママ。]、養育し、先度の㚑魂、累とは、此かたわ娘の事なるぞや。さて此累、成長し、兩親も死果(しには)て、孤(みなしこ[やぶちゃん注:ママ。]となりしを、

『代々、百姓の家を、つぶさじ。』

とて、親名主(おやなぬし)のあわれみにて、今の与右衞門に、入むこさせて置給ひしが、終に与右衞門が手にかゝり、かの累も、此𥿻川に沈み果しは、是も、因果のむくひならんと、思ひ合せて見る時は、今の与右衞門も、さのみは、にくき事、あらじ。」

と、すゝりなきをしながら、いと明白(めいばく)にかたれば、聞居た(きゝゐ)る人々も、みな、

「尤。」

と感しつゝ[やぶちゃん注:ママ。]、各々、なみだを、ながしけり。

[やぶちゃん注:この八右衛門の昔語りによって、先代の与右衛門と後妻が、後妻の連れ子で多重障碍を持った少年「助」を、結託して鬼怒川に投げ込んで殺害したプロトの悪因縁が明らかとなり、しかもその因果が、翌年に二人の間に生まれた「累」に全く同じ先天的障碍として託されてしまい、遂には、累入り婿の新しい与右衛門によって、累に対して「入れ子」構造になった因果の忠実な再現としての殺害まで行われるという、呪われた血脈の斬殺事件の内容が、ここに明らかになるのである。]

 さて、此八右衞門がはなしにて、かさねが年の數と、すけが、川へながされし、年代を考れば、先[やぶちゃん注:「まづ」。]、助が、川のみくづと成しは、慶長十七年壬子(みつのけねに當れり。

[やぶちゃん注:「慶長十七年壬子」干支は正しい。グレゴリオ暦一六一二年。徳川秀忠と大御所家康の治世。「大坂冬の陣」の前々年。なお、「国文学資料館」のこちらには、手書き書入れが行間と頭書にあり、行間には助の殺された日を「四月十九日」と記しつつ、頭書には、『法蔵寺緣記ニハ元和年中三月トアリ慶長十七ヨリ元和元年ハ四年後ナリ』とある。元和元年は一六一五年で、三月十五日に「大坂夏の陣」で豊臣氏が滅亡、翌年に家康が逝去している。因みに、慶長十七年四月十九日はグレゴリオ暦では一六一二年五月十九日であり、元和元年三月(但し、改元は慶長二十年七月十三日であるから、まだ慶長)は一日がグレゴリオ暦一六一五年三月二十九日、大の月で三月三十日は四月二十七日である。]

 また、かさねが年の數は、三十五の秋の中半(なかば)、𥿻川にて殺されし、とは見へたり。

[やぶちゃん注:累が殺されたのは、正保四年八月十一日(グレゴリオ暦一六四七年九月九日)であるから、累の誕生は本文に即すなら、慶長一八(一六一三)年となる。]

 さて、八右衞門が物語、畢(おわつ)て、祐天和尚、菊に向て、のたまはく、

「汝、すけが、さいごの由來、つぶさにもつて、聞屆(きゝとゞけ)たり。尒(しか)るに、今、菊に取付(とりつく)事、何ゆへ、有つて、きたるぞや。」

と。

 きく、息の下にて、荅るやう、

「累が成佛したるを見て、我も浦山(うらやま)しく思ひ、來(きた)れり。」

と。

 和尚、此よし、聞し召(めし)、名主に向て、のたまふは、

「これは、人々の不審をはらさんためなれば、我が問ふことばと、助が荅(こたふ)る相拶(あいさつ)を、一々に、ふれたまへ。」

と、あれば、名主、

「御尤(もつとも)。」

と立あがり、大音聲(だいおんじやう)にて、先(さき)のごとく、云(いゝ)つたへければ、近くも、遠くも、一同に、聲をあげてぞ、泣(なき)にける。

[やぶちゃん注:祐天による先の累の怨霊の調伏・得脱は、やはり完遂成就していたことを、村民全体に認知させることで、祐天の法力が、何よりも民俗社会に於ける信仰としての事実としての公認定を得た瞬間を高らかに掲げる極めて感動的なSE(サウンド・エフェクト)シーンである。

 さて、其次に、問たまふは、

「六十一年の間、何(いづ)く、いか成所に在(あり)て、何たる[やぶちゃん注:「なんたる」。]くげんを、うけし。」

と、あれば、助がいわく、

「川の中にて、昼夜、水を、くろふて、居申たり。」

と。

 又、此通りを、名主、ことはれば、若きもの共のさゝやくは、

「さては。この『わつぱし』は、㚑山寺渕(れいぜんじぶち)に、年來(としころ)、住(すむ)なる河伯(かつは[やぶちゃん注:ママ。])ぞや。雨のそぼ降れば、川浪に、さかふて、松原の土手にあがり、身をなぐる風情して、なきさけぶ有樣を。折折、見付しものを。」

とて、みな、口々にぞ、つぶやきける。

[やぶちゃん注:「㚑山寺渕」不詳。]

 さて、其次に、祐天和尚、問たまはく、

「しからば、今朝(けさ)より、人々の尋(たづぬ)る時、右の通りを述(のべ)ずして、何(なに)とて、みなみなに、機遣(きづかひ)を、させけるぞ。」

と。

 助、荅へていわく、

「『さ、いふたればとて、たすけてくるゝ人、あらじ。』と思ひ、せんなきまゝに、かたらず。」

と云へば、又、此趣(おもむき)を、先のごとく、呼(よば)わる時、みな、

「ことわり。」[やぶちゃん注:もっともなこと。]

とぞ、うけにけり。

 さて、和尚、問たまわく、

「しからば、われ、本願の威力(いりき)を賴み、汝をたすけにきたりて、いろいろに問ふ時、何とて、ものを、いわさるや[やぶちゃん注:ママ。]。」

と。

 助、荅へていわく、

「『たすからふ』と思ふたれば、餘りうれしさのまゝに、何とも、物が申されぬを、むたひに、引つめ給ひし。」

と、あれば、其時、和尚も、ふかくに、なみだを、ながしたまへば、名主・年寄を始として、遠くも、近くも、みな、一同に、聲をあげ、なげき渡りしそのひゞき、天地も、さらに感動し、草木までも、哀嘆すとぞ、見へにけり。[やぶちゃん注:「菊」(次代の入婿与右衛門の六人目の妻との間に出来た娘である)の口を借りて、「助」が語るこれは、「『ああ、やっと僕は救われるんだなぁ!』と思ったので、あまりのその嬉しさ故に、心がいっぱいになってしまい、何とも返事が言えなくなってしまったのに、あなたさまは、乱暴に僕を引き倒し押さえなさったのだもの。」という意であり、これに、流石の歌強面のゴースト・バスター祐天も、落涙・号泣する(以下の「和尚、よく泣き給ひて」を見よ)。ここも本篇のポジティヴなクライマックスの一つである。

 これぞ、誠に、弥陀本願の威力を以て、父子相迎(そうこう)して大會(ゑ)に入り、則(すなはち)、六道のくげんを問(とい)給へば、宿命通(しゅくみやうつう)の悟りにて、一一(いちいち)、昔を語る中に、地獄は、劇苦(ぎやくく)、𨻶(ひま)なくして、久しく、鬼畜は、苦報、おもくして、いやしく、人間には、八苦の煙、たへず、天上には、五衰の露、乾かず。すべて、三界、皆、苦なれば、何くか[やぶちゃん注:「いづくか」。]やすき処あらんと、心憂げに申す時、弥陀を始め、たてまつり、恆沙塵數(ごうしやじんすう)の大衆達(しゆたち)まで、皆、一同に、なげき、憐みたまふらんも、此會(ゑ)の儀式に替(かわ)らじ。思ひ合て見る時は、其折(をり)のあはれさを、いか成ふでにか、つくされん。

[やぶちゃん注:「父子相迎」歴史的仮名遣は「ふしさうがう」が正しい。善導の儀礼書「般舟讃」(はんじゅさん)にある言葉。「阿弥陀仏」を「父」に、「衆生」を「子」に擬えたもので、互いに尋ね合って浄土に相まみえることを指す(「WEB版新纂浄土宗大辞典」のこちらに拠った)。

「宿命通」前世における自他の生存の状態を自在に知る神通力。]

 さて、和尚、よく泣き給ひて、

「いざ、成佛、とげさせん。」

と、名主方より料紙を取寄、「単刀眞入(たんとうしんにふ)」と戒名し、庄右衞門に仰せ付られ、

「西のはしらに押付(おしつけ)ん。」

とて、起つ時、前後左右に並居(なみゐ)たる者共、一同に、いふやうは、

「それ、よく、庄右衞門殿、かの『わつぱし』が、袖に、すがり、ゆくは。」

と云時、和尚を始め、名主・年寄も、

『これは。』

と、おもひ、見給へば、日もくれがたの事なるに、五、六歲成わらんべ、影のごとくに、「ちらり、ちらり」

と、ひらめいて、今、書(かき)たまへる戒名に、取付とぞ、見へける。

[やぶちゃん注:素晴らしい共同幻覚の来迎映像の開始点である。]

 其時、和尚、不覚に[やぶちゃん注:「覺えず」。反射的に。]、十念、したまへば、むらかり居たる老若男女、みな、一同に、

「南無阿弥陀佛。」

と唱ふる聲の内に、四方(はう)の氣色(けしき)を見渡せば、何とは知らず、光りかゞやき、木々の梢(こづゑ)にうつろふは、宝樹宝林と詠(なが)められ、人々の有樣は、皆、金色(こんじき)のよそほひにて、佛面(ぶつめん)・菩薩形(ぎやう)と變じ、木にのぼり居たるおのこどもは、諸天、影向(やうがう)の姿か、とぞ、見えける、となん。

[やぶちゃん注:「影向」(「よう」・「かう」(連濁で「がう」)は、孰れもの呉音。神仏の本体が一時に応現すること。神仏が仮の姿をとなって現世に現われること。神仏来臨。]

 是ぞ、佛智の構(こま)ふなる、當所(たうしよ)、極乐とは、聞へたり。

[やぶちゃん注:「構(こま)ふ」「かまふ」に同じで、ここは「徹底的に面倒をみる・世話する・庇(かば)う」の意。]

 さて、此氣色を、おかむ[やぶちゃん注:ママ。「拜む」。]もの、名主・年寄を始め、其座にあつまる老若男女、百餘人とこそ、聞へけれ。

 其時、和尚、戒名に向て、心中に、きせい[やぶちゃん注:「祈誓」。]したまはく、

「『理屋性貞(りおくしやうてい)』も『單刀眞入』も、此菊が德により、成仏したまふ事なれば、かならず、此ものゝ命を守り、諸人のうたがひを、散じ給へ。」[やぶちゃん注:「理屋性貞」先に累に与えられた新しい戒名。]

と、ふかく、賴(たのみ)、十念𢌞向、畢(おわつ)て、いそぎ、寮に歸り給へば、同寮の人々、心許(もと)なく待居(まちゐ)られしが、いそぎ、たち向ひ、

「何事候や。おぼつかなく候ふ。」

と申せば、和尚、いと心よげにて、

「かゝる事の、有しぞや。戒名は書(かき)置しぞ。心あらば、諷經(ふぎん)せよ。」

と仰らるれば、皆、人々、感じあひて、老たる若き所化衆(しよけしゆ)、思ひ思ひに、諷經にこそは、行れにけり[やぶちゃん注:「おこなはれにけり」。]。

[やぶちゃん注:「諷經」「ぎん」は唐音。声を揃えて経を読み上げること。]

 さて、また、祐天和尚は、いそぎ、近所の醫者をよびよせ、菊が療治をたのみ給へば、いしや、かしこまつて、いそぎ、羽生村に行き、菊が脉(みやく)をうかゞひ、すなはち、かへつて、和尚に申やう、

「かれが脉の、正体(しやうたい)なく候へば、中中、療治は、かなひ申さず。そのゆへ、くすりをも、あたへず、罷歸り候。」

と、いへば、祐天和尚、聞給ひ、

「何をか、いふらん。菊が命をば、我諸佛へ、たのみおき、そのうへ、『單刀眞入』などへ、能々(よくよく)、やくそくし置し物を。」

と思召し、

「しからば、是非、なし。其藥箱を開き、『益氣湯(ゑききとう)』を、七ふく、調合し、我に、あたへ給へ。」

と、あれば、

「畏(かしこまつ)て候。」

とて、すなはち、調合して參らせ、御いとま申て、歸られたり。

[やぶちゃん注:「益氣湯」(「湯」歴史的仮名遣は「たう」が正しい)現在、「補中益気湯」(ほちゅうえっきとう)がある。「ツムラ」公式サイト内のこちらに、『生命活動の根源的なエネルギーである「気」が不足した「気虚」に用いられる薬で』、『「補中益気湯」の「中」は胃腸を指し、「益気」には「気」を増すという意味があ』るとする。『胃腸の消化・吸収機能を整えて「気」を生み出し、病気に対する抵抗力を高める薬で』、『元気を補う漢方薬の代表的処方であることから、「医王湯(イオウトウ)」とも』呼ばれるとあった。]

 和尚、其跡にて、いそぎ、かの藥を、せんじ給ひ、一番ばかりを持參にて、其夜中(やちう)に、羽生へ行き、菊にあたへたまひて、名主・年寄に、たのみ置き、寮に歸らせたまひしが、跡にて、段段、藥を、あたへ、あくる廿日に成しかば、『益氣湯』二ふくにて、菊が氣分、本服(ほんぶく)して、次㐧に、ひふも、調(とゝの)ひけり。

[やぶちゃん注:「一番」最初に煎じたエキス。

「廿日」寛文十二年四月二十日。グレゴリオ暦一六七二年五月十七日。

「ひふ」「皮膚」。熱を持って赤発していたそれが、平常に戻ったのである。]

2023/01/29

下島勳「芥川君の日常」

 

[やぶちゃん注:本篇は末尾の記載によれば、昭和九(一九三四)年二月二十八日の午後六時二十五分から中央放送局(当時の日本放送協会(NHK)の放送時の呼称)『趣味講座』で口演放送されたものを活字化したものである。後の下島勳氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。

 著者下島勳氏については、先の「芥川龍之介終焉の前後」の冒頭の私の注を参照されたい。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。太字は底本では傍点「◦」。一部に注を挿入した。]

 

芥 川 君 の 日 常

 

 三月一日即ち明日は、芥川龍之介君が生きておりますと、四十三年の誕生日に當りますので、これから彼が日常生活の一斷面についてのお話をして、その俤を偲びたいと思ひます。

 芥川君と私の關係でありますが、それは同じ田端に偶然住むやうになり、醫者としての私はその職務上から彼が帝大卒業の年ごろから懇意となつたのであります。

 初め芥川君を知つた時分の私は、まだ野狐の臭さ味など取れきれない頃で、今から考えるととかなり變物に見えなたこでありませう。勿論今でも變物にかはりはありませんが――併し若い新進の文學者には、かヘつて其變物が或は興味を惹いたのかも知れません。尤も私といふ人間も、文學や美術にはまんざら趣味のない方ではなかつたから、親子ほど年は違つてゐましたが、よく話も合ひますので、忽ちの間に懇親になつてしまひました。――實を申しますと當時私としましては、何となく理想の中で求めてゐた人にでも、偶然逢つたやうな心特ちがしたのであります。

 さて懇意の度が深まるに隨つてそろそろ讀書を勸めて來るのでした。それは西洋各國小說の代表的傑作といふものでした。尤も嫌ひでないから若干は勿論讀んでゐたのです。初めはマアこれを讀んでごらんなさい。――これも讀んでごらんなさい。――といふやうなことでしたが、これを是非お讀みなさいになり、遂にこれを讀む必要がありますにまで發展して來たのです。もともと下地は好きなり御意はよしで、つい三四牟ばかりの中に、――こう申しては變かも知れませんが、ルネツサンス後の代表的小說と稱せられる飜譯書のあらましは讀んだことになつたんださうです。だからマア西洋文學に對する槪念を摑むことの出來たのは、全く芥川君の指導によつたわけでありまして、卒直に申しますと芥川といふ人はもの好な人物で、この老人に先づある程度の基礎的新智識を吹きこみながら、當時の文壇殊に自分の新作を味あはせ、一面自分の話し相手としたり、批評の聽き手としたり――といつたやうなことになるのではないかと思はれぬことはありません。この點からいふと私の先生だつたり柔順な友人だつたこいふこととになると思ひます。併しこれがために自分の抱いてゐた硏究が中止になつてしまひました。が、そんなことは勿論犠牲にして悔いないほどのほんとの魂の幸福を得たわけであります。

[やぶちゃん注:「自分の抱いてゐた硏究」医師としてのそれか? 下島は俳人井上井月の研究家としても知られているが、「芥川龍之介終焉の前後」の私の冒頭注で述べたように、井月は芥川も好きな俳人であったし、下島の「井月の句集」には芥川龍之介の跋文を貰うなど、寧ろかなりの益を受けているから、「中止になつてしまひました」という謂いはとてものことに当たらないと私は思う。]

 芥川君は天才とはいはれるほど、非常に優れた頭腦の持主でありました。それは如何なる程度に良かつたか? 勿論創作家或が學者としての芥川君は既に定評がありますが、端的な謂はゆる頭の良い具體的事実、たとへぱ讀書の速度及び其態度、記憶力及び想像力、感受性の異常等々につきましても興味のあるお話がありますが、今はさういふことには全然觸れません。

 一體聰明をもつてきこへた然も江戶つ子の芥川君に、洒落氣と皮肉の伴なうのは不思議はありませんが、それでゐながらばかばかしいほど間の拔けたそそつかしいところもあり、またまた冷徹の理智家と評判の高かつた彼が、案外惡戲づきの茶目さんで、さながら子供のやうな一面のあつたことをご存じない方が多くはなからうかと思ひますので、今回は主としてこの方面の實例についてお話したいと思ひます。

 彼の處女出版卽ち羅生門が出ました大正六年九月のある晚のことです。私のところの碌でもない藏幅を見に來られて、座蒲團の上に落着かれたかと思ふ時分に、玄關で婦人の聲がしたのです。書生が飛び出して來意を尋ねますと『只今こちら樣へ髮の毛の長いお方がお出ではござりませぬか』と、さも氣まり惡さうにいふので、書生は勿論芥川氏のことだと合點し『何かご用ですか』と尋ねると、『失禮ですが莨[やぶちゃん注:「たばこ」。]のお錢を戴きませんので』と、もぢもぢしてゐたさうです。書生は早速それを取次いだので、狼狽した彼は玄關へ飛んで行つて代價を仕拂ひ、スマナイスマナイと云ひながら座敷へ戾り、『どうもこのごろ莨を買つて錢を拂はんことがチヨイチヨイあつて困る』といふから、私は『その替りおつりを取らんこともチヨイチヨイあるでせう』といつて笑つたことでありました。

 これは大正九年の春のことです。有樂座で畑中蓼坡、奧村博史君たちが、メーテルリンクの靑い鳥を演じたとき二人で見に行つての歸りでした。何でもキリストの話をしながら田端の庚申さまの邊まで來たと思ふころ急に話を中止してしまつた。そして懷ろへ手を差しこんで腰をひねりながら變な恰好をしてゐるのに氣はついたのですが、一足お先ヘ步き出してゐたので後から急ぎ足の彼は突然『今私が何をしてゐたか知つてゐますか』といふから、『下腹でも搔いてゐる恰好でしたよ』といふと、『實はね、下帶がはづれかゝつたから懷の方へたくし上げてゐたんです』といつてすましてゐました。キリストの話もそれ切りで、夜の十二時ごろお別れしたのでした。

[やぶちゃん注:この観劇は不詳(芥川龍之介の年譜に載らない)。「畑中蓼坡」(はたなかりょうは)は演出家・俳優で、後に映画監督となった。先に不詳としたが、当該ウィキによれば、確かに、大正九(一九二〇)年二月、『民衆座の水谷八重子主演、石井漠振付による』「青い鳥」の演出をしているから、これである。「奧村博史」は洋画家・工芸家で、平塚らいてうの夫である。舞台背景・装飾でも担当したものか。]

 それからこれは、大正十二年五月春陽會の第一回展覽會のときのことです。芥川、室生犀星、渡邊庫助などと同伴で見に行つたのですが、上野公園の入口即ち不忍よりの土堤に茂つてゐる、一寸八ッ手に似た葉の樹木を指して突然『この木の名を何といふのか當てゝみたまへ』ときた。皆面くらつて眼をパチクリやつてゐる。私もさて何の木かな――或は西洋種かも知れないぞと考へてゐるうちに『橡の木だよ。みんな田舍者のくせに駄目だね――ときた』[やぶちゃん注:「――ときた」は鍵括弧外であろう。]。一同啞然たりといつたかたちでありました。

[やぶちゃん注:「渡邊庫助」渡邊庫輔(くらすけ 明治三十四(一九〇一)年~昭和三十八(一九六三)年)の誤記。作家・長崎郷土史家。芥川が嘱望し、最も目をかけた弟子の一人である。]

 マア斯ういつたやうなことが一寸得意だつたのです。だから、斯ういふやうなことを惡意に解釋した批評家などが、機智を弄するキザな技巧だ――などといつてましたやうですが、併し社會人の彼として斯んなことは、何の考へもない例の茶目式洒落に過ぎなかつたのです。

 これは大正十三年二月雨の降つた翌日でありました。足駄をはいた芥川君と當時牛込神樂坂の上の赤城神社の境内にある奧さんのお里の塚本家まで診察に行き、歸りに神樂坂の洋食屋で夕飯を食べてから、自動車で當時銀座にあつた書畫骨董の入札會などをやつてゐたポーザル[やぶちゃん注:ここの左ページ二行目。異様に印刷が小さいが、「ル」と判読した。]とかなんとかいふ處へ寄つて、落札してゐた俳畫の軸を受けとり、夕方から降り出し霙雪をくぐつて銀座の通りから電車に乘り、動坂停留場で下車するころは咫尺を辨ぜぬ東京では珍らしいほどの大吹雪となつてゐました。幸ひつい先の懇意な藥局へ飛びこんで傘を二木借り一本を芥川君に渡し、ホツとして行くこと六七步――私はふと鞄が手にないのに氣がついて、思はすアツと聲を出して振り向いたその刹那、何とも云はずにトンビの下からヅイと私の前ヘつき出しや。例のヅルさうな表情で、……註をするまでもなく電車へ置き忘れたのを後から持つて來てくれたのです。――傘を渡した時に出してくれるのが普通のやり口ですが、そこが彼の彼たるところで、私の一寸駭く樣子を見たかつたのです。まあ斯ういふ茶目さんでありました。――その翌日女中が足駄の交替に來ました。私も下駄のはき違へでは人後に落ちぬ名人ですが、この時は塚本さんを辭したとき先に外へ出た芥川君が間違へてゐるといふやうな彌次喜多を演じたものです。

[やぶちゃん注:「牛込神樂坂の上の赤城神社」現在の東京都新宿区赤城元町のここにある(グーグル・マップ・データ)。この当時、塚本家がここにあったことは、私は初めて知った。]

 これは大正十二年六月末の一寸暑い曰でありました。山本さん(有三)に新富座の中幕六代目の鏡獅子の見物に誘はれたので、田端の偶居に芥川君を待ち會せ、午後の五時ごろ動坂下から自動車を飛ばせ、新富座の左手二階の棧敷へ納まつたときは、仁左衞門の萱野三平が腹を切つて例の嗄聲をふり絞つてゐる所でした。

 鏡獅子は六代目得意中の得意の藝なので、勿論惡からう筈もなく、さすがの芥川君も、あの長い白頭の毛を振り廻すもの凄い獅子舞には非常に感心してゐるやうでした。その時分聊か仕舞の稽古をしてゐた私は、能樂の石橋[やぶちゃん注:「しやくきやう」。]から脫化したこの獅子舞の型が、鍛練された腰の力によつて始めてあの重たい白頭を自由に振ることが出來るさうだと知つやかぷりを囁いたところが、『腰の力――腰のちから』と、低く口ずさみながら、ぢつと見いつてゐたのが一寸滑稽に思はれもしました。

 幕が引かれると早速樂屋へ行き、山本さんの紹介で芥川君もこのとき初めて菊五郞に逢つたのです。

 湯を使つて上つて來た――當時十八貫[やぶちゃん注:六十七・五キログラム。]以上といはれた菊五郞は、次幕の阿鬼太郞作、人情一夕話の大工辰五郞の顏を作るべく、挨拶もそこそこにあの偉大なお臀を我等に向けて鏡の前へ胡坐を据ゑ、話し好きで有名なほどあつて、顏を彩りながらも色々の話をした。山本さんが彼の臀部や太腿に触れて見ろといふから、私は一寸さはつてその緊張度に駭いたりしました。

 この日の私は、餘り着たことのない昔流行つた縞絽の羽織を着て出かけたのですが、宅を出た頃から頻りに私の羽織に見とれてゐるらしい芥川君に氣がついた。

『どうもイイね――山本君。いま斯んなイイ柄ゆきのものは何處を探してもありやしない』

 などと云つていたが、谷田橋へ差しかゝつたころ、

『先生――甚だすまないが、この羽織を僕に吳れませんか?』

 といふのでした。私も突然のことで一寸まごついたが、それが冗談ではないらしいので――

『イヤお易い御用だ。早速進呈しませう。――これは大分前の流行品で、然も柄が若くて私のやうな老人にはもう一寸氣恥かしくなつたから滅多に着ないのだがちようど季節ものでもあり、芝居見といふのだから今日はひとつ精々若返つて着て來たのですよ。成るほどスタリといふ物はないといふが、とんだイイ貰ひ手にありついて、羽織も運がイイし第一私が仕合せだ』

 といつたところが、まるで兒童か何かのやうに喜んではしやぎきつたあの稚氣滿々の芥川君が、まだ私の眼の前に彷彿します。山本さんが若しこの話をお聽きになられたら、恐らく同じやうに感淚の新たなものがあらうと思はれます。

 羽織は翌朝早速お屆けしあ。縫ひなほされて非常によく似合ふ芥川君の着姿にも幾度か接したのであつた。が、今は遺物となつて同家に保存されてゐるのです。

 この返禮といふ意味かどうかは判らぬが兎に角、その年の暮に大彥で作らせた袴を一着贈られました。その奉書の包み紙に――

  たてまつるこれの袴は木綿ゆゑ絹の着ものにつけたまひそね

 といふ歌が書いてゐつ梵。當時これは面白いと思つてゐたのですが、粗忽な私は何處ヘどうしたのか行衞不明になつたので、甚だ殘念に思つてゐました。ところが、ほど經てふと押入れの反古籠の中から水引のかかつたままのそれを發見して、且つ駭き且つ喜んだことでありました。今は茶掛けの軸に仕立て袴とともに追憶の紀念となつてゐます。

      お も か げ

   なで肩の瘦せも縞絽の羽織かな

――といふ私の句があります。

 芥川君は私が鄕里の信州から送つてくる食ぺものなどを贈つたり、或は今田舍へ行くと松茸や栗の季節だ、天龍川の鮎はうまいなどと鄕里の噂でもすると、。いつでも機嫌がよろしくない、そして斯ういふのです。『あなたは故鄕があるから羨やましい。私には故鄕といふものがない。實に寂しい。よくあなたは故鄕から柿が來たとか何が來とか云つて物を下さるが、時として一種の反感さへ起きる』といふのです。『オヤ變だね、あなたは東京といふ立派な故鄕があるではありませんか』といふと、『イヤ東京は故鄕といふ感じが少しもない。東京などといふ處は決して故鄕とは思はれない。』と强くいふのでありました。

 芥川君は寂しがりやの人戀しやでありました。小穴隆一君なども藝術的理解のほか、このÅ人戀しさの話し相手が、あの親密な交友關係にまで發展したものと解するのが至當かと思はれます。自分の好きな客なら隨分忙しい時でもよく逢つたものです。我々もご家族の診察などすませて逢はずに歸らうとする時でさへ、忙しい中から聲を聽きつけて、マア三十分話して行けといふ、三四十分立つたから歸らうとすると、もう三十分とくる。こん度は原稿は明日の晩までに書けばイイから灯のつくまでとくる。そしてどんなに忙しくても僕は夕方書けないからといふのでありました。夜などこの三十分で隨分おそくまで更す[やぶちゃん注:「ふかす」。]ことがあつたのです。併し非常に忙しい時などは玄關へ面會謝絕の貼り紙を出したことは云ふまでもありません。またこの頃は非常に忙しいやうだからと遠慮して數日訪問しないと、暫く來なかつたが何か變つた事でも出來たのかなどと、一寸厭味に近いことさへ云ふのでありました。

 彼は一寸をかしいくらひ常に私を强いものにしてゐました。――その實特別强くも何ともない私を。尤も私が夢の中の怪物と格鬪した話をしたらそれをひどく感心して、菊池寬氏なんかにまで吹聽しらものです。ところが大正十五年の春私の娘が死んだとき、私が泣いたことに一種の味でも感じてゐたものとみえまして、翌年即ち自決の年の四月ごろ『先生あの時は中々結構でした。――あれでイイ』などと、まるで俳優のしぐさでも褒めてゐるやうなとをいふのでした。――平常强いと信じてゐる私の淚を見て氣の優しい芥川君が、 やはり自分と違つてゐない私を感じたとでもいふ意味だつたかも知れません。それは兎にかく、平常菊池は强いく强いといつてゐたが、彼が終焉の日や葬儀の日の菊池氏が聲淚ともにくだるといふあのありさまを何處からか眺めてゐて、『君中々結構だよ――それでイイ』など云つたと假定したら、果してどんなものでせう。

 私は震災前、何だか都會生活が厭やにもなりまた家事の都合もあつたので、鄕里へ引込まうかと思た[やぶちゃん注:ママ。]ことがありました。その時意中を打ちあけたところが非常なけんまくで『そんなことをしてくれては僕は勿論僕の一家が困る。それは是非思ひ止まつてください』と顏色を變へたものでした。家事上の都合もあるからと云ふと、『信州の一平民が東京へ移住出來ない理由がない』などと丸で暴君のやうな髙飛車をきめこんだことがあります。それが子供の死んだとき室生犀星君に、『先生はこん度こそ田舍へ引込まれるかも知れない』といつてゐたさうです、[やぶちゃん注:読点はママ。]ところが其後心氣も一轉し、また家事の都合も必ずしも私の故鄕を必要としないことになつたのですが、自決の年の三月頃かと思ひます。何かの話の切つかけからか忘れましたが、『先生は田舍が好きならもう引込まれても差支ヘがない』などといふてゐたのです。これはもう私が田舍へ引込をまぬといふことを承知してゐながら、一寸茶目氣分から漏らした言葉であらうと思ひますが、併しこの時分の茶目氣分には既に齒車式悲痛の匂ひがします。

 芥川君の莨好きもまた有名なものでしたが、かくいふ私も芥川君に一步も讓らん莨好きだつたのです。あるとき芥川君に僕も止めるから貴君も止めないかと勸めたことがありました。すると私が止めるなら止めてもイイといつてゐましたが、私も斷然止めるほどの勇氣が出ずに一年以上も過ごしました。併し私は非常な勇氣を奮つてとうとう[やぶちゃん注:ママ。]やめ同時にその話しをすると、とぼけたやうな顏をして、『僕は酒も飮まず他に大した嗜好もない。今莨をやめては何の樂しみもないから、これだけは許してください』と泣かんばかりに哀願するのでした。

 晚年の芥川君は、見やうによつては睡眠藥と莨の刺戟で創作をつづけてゐたといつても過言でないほどなので、無理とは知りながらも、あまりに喫し過ぎるのを見かねて忠告すると、『好きなものをやめるなんて慘酷だ。あなたは好きなものをやめたが、それは卑怯といふものだ』などと逆襲するのでした。

 また私が若いころある責任感から自殺しようとした秘話があつて、それには非常な興味と同情をもつてゐてくれましたが、晩年には『それは體力的に助かつたのです』などと言ひ、『若し其時死んでゐたらどうだつたでせう』などと冷淡な皮肉をいふやうになり、終には『實行しない自殺談なんか有難いものではない。恰も自殺しない厭世論と同じことだ。』などといふやうになつたのであります。つまり、あれほど惧れた犬さへこはくなくなり、あれほど尊敬した芭蕉の筆蹟を見ても感興を惹かないといふやうな悲しい狀態となつたのです。

 實は今夕斯ういふことには觸れないつもりでしたが、一寸觸れましたからこれだけのことを申したいのです。當時醫者として老友としてまた藝術及び藝術生活の理解者として、芥川君に對する苦衷が單に煙草や睡眠藥に止まらなかつたといふことを御諒察願ひたいのであります。

 ――時間も迫つてまいりましたから。明るい季節の趣味談を一つしてご免を被らうと存じます。

 今芥川家のお座敷の床に黃檗高泉の梅といふ字を書いた季節の茶掛が、漱石先生の風月相知の額と斜めに相對してかかつてをります。これはどんな茶室へ掛けても立派にをさまる品位ある中々イイ軸であります。この軸は大正八年の二月、ある靑年畫家が人から賴まれ私に買つてくれといつて持つて來たのですが、芥川君の懇望でお讓りしたものであります。それは芥川全集書翰篇二五一の私宛の手紙の末に『御話の高泉の書小生などの手にも入ものに候やこれまた伺上候』のそれであります。當時既に盛名の降々たる芥川君でありましたが、たかが、といつては高泉禪師に失禮ですが、『小生などの手に入るものに候や』といつてゐるところに其ウブさが知られるのであります。そして非常に安値に手にはいつたので、これまで非常に喜ばれたのであります。後にはこの道の趣味も中々發展されましたが、この高泉の軸は芥川君自身として掛物を買はれたイの一番卽ち最初のものでありまして、私には殊に印象の深いものであります。――ではこれで終りとします――。ご淸聽を感謝します。

  (昭和九・二・二八・午後六・二五・中央放送局趣味講座口演)

[やぶちゃん注:最後のクレジットは下インデントでややポイント落ちであるが、引き上げた。

「黄檗高泉」(おうばくこうせん 一六三三年~元禄八(一六九五)年)は江戸前期の渡来禅僧。福建省生まれ。「高泉」は道号、法諱は「性潡」、別号に「雲外」「曇華道人」。隠元の法嗣慧門如沛(えもんじょはい)の法を嗣ぎ、隠元七十歳の賀に渡来した。塔頭法苑院に住し、金沢の献珠寺や、伏見の天王山仏国寺を開山、次いで、宇治黄檗山万福寺第五代住持となった。当該ウィキが編年体で詳しく書かれてある。この「梅」の掛物は私は見たことがない。

「漱石先生の風月相知の額」『小穴隆一 「二つの繪」(5) 「自殺の決意」』に同書の写真を掲げてある。]

2023/01/28

下島勳「芥川龍之介終焉の前後」

 

[やぶちゃん注:本篇は『文藝春秋』昭和二(一九二七)年九月発行の『文藝春秋』の「芥川龍之介追悼號」に寄稿されたもので、後の下島氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。最後のクレジットは執筆のそれであろう。

 著者下島勳(いさをし(いさおし) 明治三(一八七〇)年~昭和二十二(一九四七)年:芥川龍之介より二十二年上)は医師。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川家の主治医で、その友人でもあって、本文にある通り、芥川龍之介の末期を診たのも彼である。芥川も愛した俳人井上井月の研究家としても知られ、大正一〇(一九二一)年十月二十五日発行の下島勳編「井月の句集」(出版は空谷山房で奥附の住所が下島と同じであるから自費出版である)には芥川龍之介が「序」を寄せている(ブログで電子化済み)。自らも俳句をものし、「空谷」と号した。また、書画の造詣も深く、能書家でもあった。芥川龍之介の辞世とされる「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の末期の短冊は、彼に託されたものであった。私は既に古くサイト版で下島氏の「芥川龍之介氏のこと」(昭和二(一九二七)年九月発行の『改造』の「芥川龍之介特輯」に初出。同前の随筆集に所収)を筑摩全集類聚版「芥川龍之介全集」別巻を底本に電子化している(新字。近々、正規表現に直す)。

 底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。

 なお、芥川龍之介の自殺に用いた薬物については、私は一般に知られているジャールとヴェロナールではなく、青酸カリと考えており、少なくとも、下島だけは、その使用した致死薬物が何であったかが判っていた可能性が高いと思っている。それは、例えば、『小穴隆一「鯨のお詣り」(36) 「二つの繪」(25)「彼の自殺」』に見られる、下島の対応が、「自殺」でも、「病死」でも、どちらでも構わないといった、医師として奇体な忖度を加えていることからも、激しく疑われるのである。

 

芥 川 龍 之 介 終 焉 の 前 後

 

 七月半ばから暑氣のために胃を病んでゐられる老人(父君)の診察に行つたのは、二十日のたしか午後四時少し過ぎごろであつ記。診榔を了つてから二階の應接間兼臨時の書齋へ這入と、内田百間氏が歸りがけとみえて椅子から離れたところであつた。内田氏を玄關に見送つて上つて來た芥川氏は、元氣ではあつたが、内田氏の何か一身上の問題をひどく案じてゐられた。又宇野浩二氏の病氣も案じてゐられた。

 私は直ぐお暇するつもりでゐたところ、『今日は先夜の敵討ちを是非するから』と云つて、猪鹿蝶の道具をサツサと並ぺはじめるのである。私は『昨夜寢不足してゐるから御免だ』と逃げを張つたが、仲々聽かばこそ、『今日は小穴にも全勝した。今日は誰にでも勝てる自信があるから逃がさない』と非常な勢ひで、もう親極めの割札をしてゐるのであつた。

 私は逃げ出すわけにも行かず、椅子から離れて机の脇の座蒲團の上に座を占めた。が、果せるかな、その物凄いほどの猛威に壓せられて、たちまちの間に三番立て續けに敗けてしまつた。氏は頗る大得意のニコニコもので、『今日は幾回やつても駄目です』と凉しい顏である。茶を持つて來てくださつた奧さんも笑はれたぐらゐであつた。私は、『どうも不思議だ、こん筈はない』と云へば、例の薄笑ひを漏らしながら、『どういふわけでせう』と皮肉な反問を浴びせるのである。

 『どうも斯うもない。憑きものの加減で頭がはつきりしてゐるからでせう』と云へば『然り、札がわかる』と云つて意氣軒昂である。私は電燈が灯つてから歸つたのであつた。

 それから一日置いて二十二日の午後三時半頃、老人の診察が了るか了らぬうちに伯母さんが出て來られて、『どうも二階のが胃が惡さうだから診てやつてくれ』と云つて、間もなく二階から下座敷へ引ぱつて來た。

 『何、昨日午後睡眠藥を飮んで晝寢をしてゐるところを、突然起されたんで例の腦性嘔吐をやつたんです。まるで關係もない雜誌の記者が來たと云つて、用事も無いのに起すんですから…………それだからまだ今日もフラフラしてゐます。ほかには何も故障はないのです』と不平たらたらである。

 そこで老人の枕を借用、そのまゝ仰臥の位置で一診した。(實は胃と腦の合劑の散藥は常に用ひられてゐたが、正式に診察するのはこゝ暫く振りであつた)その結果は外觀上それ程にも思つてゐなかつた肉體が、一般に衰弱してゐることで、殊に心臟の力も例の過敏であるべき筈の膝蓋腱反射も力が足らず、それに瞳孔も少し大きいやうに思つたので、これは睡眠藥の飮み過ぎに違ひない、あとで充分忠告の必要があると思つたのである。

 それから複製の長崎屛風を見せるから二階へ來いと云ふ。いつものやうにに階の圓卓子の上で屛風繪を見ながら、鵠沼へは何時行かれるかと聽くと、明日か明後日頃だと答へられた。そこで、餘り睡眠藥を濫用してはいけない、どうもそんにな症狀があるから充分氣をつけたまへ』と忠告すると、不愉快さうな苦笑を漏らして、『大丈夫です。大丈夫です』と云つてゐられた。

 そこへ小穴君がやつて求て雜談を始めたのであるが、――

『昨日の嘔吐は苦しかつた。胃に吐くものがないのに吐くのは實に苦しい』と頻りに訴ヘるのである。そこで我々の方では乾嘔と云つて苦しい理由を說明すると、乾嘔と云ふ言葉が妙だとでも思つたのか『乾嘔、乾嘔』と小兒のやうに口ずさんでゐた。

 それから小穴君が何のことからであつたか、生命と創作のことについて心細いことを云つたので、老人の冷水を浴びせたやうに覺えてゐる[やぶちゃん注:ママ。「の」は「に」であろう。]。だが、主人公は一向興味がない陰氣さうな顏をして、例の通り、後頭部を籐椅子の背に摺りつけて、左右前後に動かしてゐた。

 また改造八月號所載の『西方の人』と『東北、北海道、新潟』を讀めと云つて示された。そこで一應ざつと通讀したが、殊に『東北、北海道、新潟』は眞に駭くべき簡潔と、刺すやうな不思議な暗示の魅力とに、思はず感嘆の聲を發すると、さも滿足さうな表情を浮べるのであつた。

[やぶちゃん注:私のサイト版で「西方の人」はこちらで「正續完全版」で、「東北、北海道、新潟」は私のマニアックな推理頭注を添えて古くにここに公開してあるので未見の方は是非見られたい。]

 その日の氣温は華氏の九十度[やぶちゃん注:摂氏三十二・二度。但し、これは下島の記憶違いで、この昭和二(一九二七)年八月二十二日は華氏九十五度=摂氏三十五度であった。]といふ、本夏最高のレコードを示した實に暑苦しい日であつた。が唯暑苦しいばかりでなく、變に重苦しく寂しい厭な心持ちがした日であつた。

 私はそれから間もなくおいとまをした。梯子段の上まで送つて來て體がフラフラすると云ふから固く見送りを辭退したが仲々聽かない。いつもの通り玄關まで下りて來て、叮嚀にチヤンと手をついて送つてくれた。が、これが今生のお別れであつた。……

 歸宅して夕食を濟ませたが、どうも鵠沼行きが氣になり出した。そして下の四疊半の簞笥の前のバスケツトが變に氣に掛るのであつた。この日の朝、輕井澤に居られた室生犀星氏への手紙の端にも、たしか芥川氏の鵠沼行きのことを書いた筈である。

[やぶちゃん注:不審。「芥川龍之介書簡抄147 / 昭和二(一九二七)年七月(全)/芥川龍之介自死の月 三通」には、そのような犀星宛書簡はない(年月未詳書簡も調べた)。思うに、これは大正十五年の九月の鵠沼からの犀星宛書簡を、錯覚しているもののように感じられる。「芥川龍之介書簡抄137 / 大正一五・昭和元(一九二六)年九月(全) 九通」の一通目がそれではないか? 本文に「ちよつと東京にかへつたがまだ中々暑い今明日中に鵠沼へかへるつもり」とあることと、「二伸」にある『僕もこの間催眠藥をのみすぎ夜中に五十分も獨り語を云ひつづけたよし』というのが、医師としての下島の目に止まり易い内容であるからである。なお、下島が芥川龍之介の鵠沼行きを気にしているのは、後に理由が書かれている。漠然とした自殺の虞れなどによって気にしているのでは毛頭ないことをここで事前に述べておく。

 二十三日は午前に久保田万太郞氏が息耕一君を連れて診察に來られた。そして芥川氏のことを聽かれて答へたのか、私から云つたのか、多分明日あたり鵠沼へ行かれるだらうと云つたやうに覺えてゐる。

 夕食後兩國の花火見と云ふより、散步かたがた上野まで筆を買ひに行つた。十六曰の夜澄江堂で俳人室賀春城さんに久振りでお目にかゝつたとき、彼の有名な唐の魏徵の述懐、中原還逐鹿といふ詩を書いてくれとの依賴であつた。拙筆だからと辭退したが、是非と云ふのでお受けをした。その事を二十日に行つた時に話して、『妙な詩を好まれるものだ』と云ふと『イヤ、その心持ちは私によくわかる。あの人は靑年時代政治家志望だつたから』と云はれた。それから曾て聞いた話しであつたが、室賀氏は自分の幼時子守りをしてくれたことや、資性温厚篤實、後クリスチアンとなり、行商などして六十に近い今日まで獨身を守り、獻身謝恩に燃ゆるうちに、禪僧のやうなところのある、俳句の好きな一種の奇人だと賞揚し、是非それを書いて遣つてくれと云ふのだつた。そんなわけから、實は鵠沼に行つてしまはぬ前に一度見てもらつてからと思つたので、所藏の筆を檢べて見たが、役に立ちさうなのがない。そこで池の端の筆屋までいつたのである。

[やぶちゃん注:「室賀春城」芥川龍之介の幼い頃からの知人である室賀文武(むろがふみたけ 明治元或いは二(一八六九)年~昭和二四(一九四九)年)の俳号。先般、電子化注した『室賀文武 「それからそれ」 (芥川龍之介知人の回想録・オリジナル注附き)』の注を参照されたい。

「魏徵」(五八〇年~六四三年)は初唐の詩人で政治家・学者。山東省出身。諫議大夫・檢校侍中・鄭國公に封ぜられ、直言を以って、皇帝太宗を補佐し、善政「貞観(じょうがん)の治」(六二七年~六四九年)に導いたことで知られる。不遇であったのが、抜擢を受け、朝廷で高位の役職に就いた唐室創業の功臣である。

「述懷」は魏徵の代表的詩篇で、その第一句が「中原還逐鹿」(中原 還(ま)た鹿を逐(お)ひ)で二句目に「投筆事戎軒」(筆を投じて 戎軒(じゆうけん)を事(こと)とす)と続く。但し、一句目を「中原初逐鹿」(中原 初めて 鹿を逐ひ)とする一本がある。詩篇全体は「詩詞世界 二千七百首詳註 碇豊長の漢詩」のこちらを見られたい。充分な語句注釈がなされてある(前注もその記載を参考にさせて貰った)。]

 筆を求め次手に福神漬を買ひ、廣小路の角の時計屋の前まで來ると、人混みの中から『先生!』と呼ぶ聲がする。よく見ると伊藤貴麿君ではないか。『ヤア暫く』『暑いですなあ』の挨拶が濟んで、これも聽かれたのか、或はこちらから云ひ出したのか兎に角、芥川氏は明日頃多分鵠沼へ行かれるだらうと話しした。伊東君は『大分御無沙汰をしてゐるから、ことによると明日頃お伺ひするかも知れぬ』と云ふてお別れした。

[やぶちゃん注:「伊藤貴麿」(たかまろ 明治二六(一八九三)年~昭和四二(一九六七)年:芥川龍之介より一つ下)は児童文学者・翻訳家。大正十三(一九二四)年に新感覚派の『文藝時代』に参加したが、その後は児童文学界で活躍、その後は『文藝春秋』系の作家となり、少年向けの「西遊記」「三国志」「水滸伝」を始めとする中国文学の翻案物を得意とした。この年の正月、昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・伊藤貴麿宛の芥川龍之介書簡がこちらにある。下島は芥川を訪ねた彼と知り合いになったのであろう。言うまでもないが、ここで「明日頃お伺ひするかも知れぬ」というのは、芥川龍之介の家に伺うの意である。]

 二十四日は、未明から雨が降り出し久し振りに冷味を覺えながら、よい心持ちにまだ夢うつゝを辿つてゐた。すると、玄關の方で、確かに聞きなれた芥川のお伯母さんの聲がする。家内が出て應答の慌たゞしい聲の間に、變だとか、呼んでも答へがないなど響くので私はギヨツとして床の上に起き直つた。家内の取次ぎの終らぬうちに急ぎ注射の準備を命じ、臺所へ飛んで口を嗽[やぶちゃん注:「すす」。]ひでゐると、また老人の聲がする。いきなり手術衣を引かけるが早いか、鞄と傘を引たくるやうにして家を出た。

 近道の中坂へかゝると、雨の爲、赭土[やぶちゃん注:「あかつち」。]は意地惡く滑り加減になつてゐる。焦燥と腹だたしさの混迷境を辿つて、漸く轉がるやうに寢室の次の間一步這入るや、チラと蓬頭[やぶちゃん注:「ほうとう」。方々に伸びた髪。]蒼白の唯ならぬ貌が逆に映じた。――右手へ𢌞つて坐るもまたず聽診器を耳にはさんで寢衣の襟を搔きあげた。左の懷ろから西洋封筒入りの手紙がはねた。と、同時に左脇の奧さんが、ハツと叫んで手に取られた。遺書だなと思ひながら、直ぐ心尖部に聽診器をあてた。刹那、――微動、……素早くカンフル二筒を心臟部に注射した。そして更に聽診器を當てゝ見たがどうも音の感じがしない。尙、一筒を注射して置いて、眼孔を檢し、軀幹や下肢の方を檢べて見て、體温はあるが、最早全く絕望であることを知つた。そこで近親其他の方々に死の告知をすましたのは、午前七時を少し過ぎてゐた頃かと思ふ。

 死の告知がすむと、急に何とも云はれぬ空虛を感じたが、ふと枕元に置いてあるバイブルに眼が付いた。手に取つて無意識に開いてゐると、小穴隆一君を思ひ出した。そこで急いで義敏君(甥君)を煩はすことにした。

[やぶちゃん注:「義敏君(甥君)」芥川龍之介の実姉ヒサ(当時は西川ヒサ)と先夫葛巻義定(当時は離婚。但し、再婚相手の西川豊が自殺した後、ヒサと再々婚している)との間に生まれた葛巻義敏。]

 すると、伯母さんが何にか紙に包んだものを手にせられて『これは昨夜龍之介から、明朝になつたら先生に渡してくれと賴まれました』かう云ひながら手渡された。早速上包みを開いて見ると、短册に「自嘲。水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の一句が達筆に書いてあるではないか。――今は魂去つて呼べども應へぬ故人の顏と句を見較べてゐるちに嚴肅とユーモラスが入り乱れて、泣くにも泣かれぬ寂寞の感に打たれるのであつた。

 手續きの上にも菊池寬氏に來て貰はねばならぬ事情があるので、直ぐ文藝春秋社へ電話を掛けさせた。間もなく小穴君が來た。私がもう駄目だと告げたときの同君の顏は、何とも名狀し難い悲痛そのものだつた。

[やぶちゃん注:「手續きの上にも菊池寬氏に來て貰はねばならぬ事情がある」恐らくは、遺書(リンク先は私のサイト版「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」)の中にあった全集について既に一度決まっていた新潮社との契約を全面破棄し、師漱石と同じ岩波書店と新たに契約するという、ちょっと大きな問題があったからであろうと私は考えている。

 そこで最後の面影を寫すべく、直ぐ畫架を椽近くの適所に据えた。雨は音をたてゝ降り出した。薄暗い室内に電氣の灯つてゐるのを氣づいたのはその時である。

[やぶちゃん注:小穴の描いたデス・マスクは、それを表紙カバーにした小穴隆一の「二つの繪 芥川龍之介の囘想」 の第一回に、そのカバーの画像を掲げてある。]

 私は私の職務の上から死因を探求しなけれぱならない。そこで先づ齋藤茂吉氏の睡眠劑の處方や、藥店から取つて來た包數や日數を計算して見たが、どうも腑に落ちない。そこで奧さんや義敏君に心當りをきいて見ると二階の机の上が怪しさうだ。直ぐ上つて檢べて見て、初めてその眞因を摑むことが出來たのであつた。

[やぶちゃん注:ここでその「眞因」を具体にさらっと書かないところの方が、よっぽど「怪しさう」じゃないか!?!

 電話は菊池氏が雜誌婦女界の講演に、水戶へ行つたことを報じて來た。で、近親の方々と相談の上直に法律上の手續を取ることにした。

 間もなく警察官が來る。檢案やら調査やらが始まる。諸方へ電報を打ち通知をする。その中に鎌倉から久米正雄、佐佐木茂索、菅忠雄の諸氏が驅けつける。菅氏は菊池氏の迎へに上野停車場へ行く。谷口喜作氏が來る、次で久保田万太郞、小島政次郞、犬養健、野上豊一郞、野上彌生子、香取秀眞の諸氏その他友人知己の方々が續々來る。また關係諸雜誌書店等の社長や社員の方々が來る。その中に菊池氏が漸くやつて來る。輕井澤から室生犀星氏が驅けつける。各新聞記者が押し寄せる。南部修太郞、北原大輔、齋藤茂吉、土屋文明、山本有三の諸氏が見える。新聞記者諸君に手記の發表をする。一方葬儀その他の協議も始まる。――といつたやうな混雜裡に、納棺を了つたのは翌二十四日午前二時頃であつた。

 附記したいのは、瀧野川警察署の司法主任畑警部
 補は、芥川氏の藝術及び人物に深い理解があるら
 しく、種々の點につき新説叮嚀であつた。殊に手
 記を讀まれるとき畑氏の眼には、たしか泪の露の
 一滴を宿してゐた。

                      (昭和二・八・五)

[やぶちゃん注:附記は底本通り、一字下げを行った。一行字数はブラウザの不具合が生ずるので、適当な字数で改行しておいた。最後のクレジットは下方インデントであるが、引き上げた。なお、一人だけ、私が今までのサイトやブログで注していない人物名が出ているので、それのみ注する。

「北原大輔」(明治二二(一八八五)年~昭和二六(一九五一)年)は日本画家。長野県生まれ。東京美術学校予科日本画科卒。下島勳の紹介で、芥川と面識を持った。龍之介も参加していた文人・財界人の「道閑会」にも加わっており、龍之介の大正一四(一九二五)年二月『中央公論』初出の「田端人」の掉尾に彼が挙げられ、寸評されてある(リンク先は「青空文庫」。新字旧仮名)。]

死靈解脫物語聞書下(4) 石佛開眼の事

 

[やぶちゃん注:本書の解説や底本等は、冒頭の「累が最後之事」を参照されたい。]

 

  石佛開眼の事

 同二月十二日、石佛すでに出來して、飯沼弘經寺(いゝぬまぐきやうじ)客殿に、かきすゆれば、すなはち、当(たう)方丈、明誉檀通上人(みやうよたん[やぶちゃん注:ママ。]つうしやうにん)、御出有。そのほか、寺中のしよけ衆など、おもひおもひに入堂(にふだう)す。

[やぶちゃん注:「飯沼」は羽生町の古い村名。

「明誉檀通」(?~延宝二(一六七四)年)江戸前期の浄土宗の僧。随波に就いて、出家し、上野(こうずけ)館林の善導寺。下総飯沼弘経寺の住職を経て、鎌倉の浄土宗大本山光明寺(こうみょうじ)を継いだ。祐天は彼の高弟子。号は合蓮社明誉空阿符念。]

 ときに、方丈、ふでとり給ひ、「妙林(めうりん)」をあらため、「理屋松貞([やぶちゃん注:「り」。]をくせうてい)」と、かいみやうし、少々、くやうをとげられ、終(つゐ)に羽生村法藏寺の庭にたてゝ、前代未聞のしやう跡(せき)に胎(のこ)す。永き代(よ)のしるし、是なり。

[やぶちゃん注:「妙林」殺された累の当初の戒名。「死靈解脫物語聞書 上(1) 累が最後之事」参照。]

 奇哉(きなるかな)、此物かたり、あるひは、現在のゐんぐわをあらはし、あるひは、当來の苦乐(くらく)をしらせ、あるひは、誦經念佛の利益をあらそひ、あるひは、四恩報謝の分斉(ぶんざい)す。

[やぶちゃん注:「四恩報謝」「仏・菩薩の与えて呉れる恩」・「父母が与えて呉れた恩」・「総ての生きとし生けるものが与えて呉れる恩」・「国主が呉れる恩」の四つの「恩」に「報」じて感「謝」すること。

「分斉」身の程を心得ること。「分際」に同じ。]

 かくのごとく、段々の事、有て、終(つい)に智惠・慈悲・方便、三種菩提の門に入り、能所相應(のうじよさうおう)して、機法一合(がつ)の全躰立地(ぜんたいりつち)に、生死の囚獄(しうこく[やぶちゃん注:ママ。])を出離し、直に涅槃の淨刹(じやうせつ)に徃詣(わうげい)する事、まつたく、是、他力難思善巧(たりきなんじのぜんきやう)、本願不共(ほんぐわんふぐう)の方便也。

[やぶちゃん注:「三種菩提」菩提に於いて相違する三種の心。菩薩の巧方便(ぎょうほうべん)回向(利他行)を実践するに当たって、障礙(しょうがい)となる心を指し、「自己に執着する心(我心)」、「衆生を安あんずることのない心(無安衆生心)」、「自己のみを供養して恭敬(くぎょう)する心(供養恭敬自身心)」の三つ。参照した「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「三種菩提門相違法」には、『この三種の心は智慧・慈悲・方便に』基づいて、『遠離するならば、菩提の障りとなることはなく、菩提に随順する三清浄心に転ずることができる』とあるので、ここはその三種を離れて、正菩提に入ることを指している。

「他力難思善巧」阿弥陀如来の本願は衆生の思念を超えた、勝れた「難思」(思念することが難しい)」絶対他力の用意に認識することは出来難い誓願であり、「善巧」(歴史的仮名遣は「ぜんげう」が正しい)は、人々の機根に応じてそれぞれに対応して、巧みに善に教え導き、仏の利益を与えることを言う。

「本願不共」一度述べたが、仏・菩薩の各自の、共通しない独特の属性を言う。ここでは、前に注した阿彌陀の第十八誓願を指すと考えてよい。]

 しかりといへども、願力(ぐわんりき)不思議の現證(げんしやう)を顯す事、且(かつ)、恐は[やぶちゃん注:「おそらくは」。]、導師、決定心(けつぢやうしん)の發得(ほつとく)によるものなるをや。しからば、此決定信心の人、何(いづ)れをか求めんとならば、單直仰信(たんじきこうしん)、称名念佛の行者、是(これ)、其人也。此人におゐて、いか成[やぶちゃん注:「なる」。]德あるぞや、とならば、隨順佛願、隨順佛敎、隨順佛意(ずいじゆんぶつい)、是、其德也。かくのごとく、心得(こゝろうる)時は、道俗貴賤、老若男女によらず、唯(たゞ)、一向に信心称名せば、現当(げんとう)の利益(りやく)、是より、顯れんか。

  右此かさねが怨霊(おんれう)、得脫の物語、世間に流布して
  人の口に在といへとも、前後次㐧、意詞(こゝろのことば)、
  色々に乱れ、其事、慥(たしか)かならず。爰に【某甲。】、
  彼(かの)死㚑(しれう)の導師、
  顯誉上人、拜顏之砌(みぎり)、度々、懇望、仕、直(じき)
  の御咄(はなし)を、深く耳の底にとゞむいへども、本より
  愚癡忘昧(ぐちもうまい)の身なれば、かく有難き現證不思
  議の事ともを、日を經んまゝ、あとなく、廃忘(ぼう)せん
  ほいなさに、詞(ことは)の、つたなきを、かヘりみず、書
  記(かきしる)し置者(おくもの)也。猶、此外にも累と村
  中との問荅には、聞落したる事、あるべきか。

[やぶちゃん注:最後の二字下げと、「顯誉上人」(祐天の号。正しくは「明蓮社顯譽」)の行上げ敬意は底本に従った。二行割注の【 】内の「某甲」は著者自身を示すもの。なお、まだ、二章が続く。]

死靈解脫物語聞書下(3) 菊人々の憐を蒙る事

 

[やぶちゃん注:本書の解説や底本等は、冒頭の「累が最後之事」を参照されたい。]

 

  菊人々の憐を蒙(あわれみ)る事

 去程(さるほど)に、祐天和尚、餘りの事のうれしさに、假寐(かりね)の夢も結びたまはず、まだ、夜ふかきに、寮を、たち、惣門さして、出給ふ。

 門番、あやしみ、

「夜も、いまだ明(あけ)ざるに、いづ地へか、おはします。」

と、いへば、和尚のたまわく、

「我は羽生ヘ行なり。夜中に、何共[やぶちゃん注:「なんとも」。]、左右(さう)やなかりしか。」

と問たまへば、門守がいわく、

「されば、夜前(やぜん)の仰(おゝせ)により、隨分、心懸(こゝろかけ)待(まち)候へ共、いまに何のたよりも御座なく候。羽生への道すがら、山狗(いぬ)もいで申さん。それがしも、御供仕らん。」

とぞ申ける。

 和尚のたまはく、

「汝をつれゆけば、跡の用心、おぼつかなし。とかふせば、夜も明(あけ)なんに、行(ゆく)さきは、別義あらじ。かたく、門を守り居(お)れ。」

とて、只一人、すごすごと、羽生村に行着(ゆきつき)、件(くだん)の所を見たまへば、菊を始め、二人のばん衆、前後もしらず、臥(ふ)して有。

 和尚、立(たち)ながら高聲(こうしやう)に十念したまへば、二人の者、目をさまし、「是は、御出候か。」

とて、おきなをる時、和尚のたまはく、

「各各は、何のための番ぞや。いねたるな。」

と仰せらるれば、二人の者、申やう、

「いかで、しばしも、やすみ申さん。宵のまゝにて、菊も、正體なく、いね申候。其外、何のかわりたる義も御座なく、夜もいまだ明やらず候まゝ、しばし、やすらひ、御左右(さう)も申さまじ。」[やぶちゃん注:最後の部分は、祐天の叱責に対して、「そのように厳しいことを申されますな」と弁解しているのであろう。]

など、かれこれいふ内に、菊も目さまし、うづくまり、ぼうぜんたるていなり。

 和尚、其有樣を見たまへば、

『嵐(あらし)も寒きあけがたの、内もさながら、そと成[やぶちゃん注:「なる」。]家(いゑ)に、かきかたびらのつゞれひとへ、目も当られぬていたらく、縱ひ、死㚑ものゝけは、はなれたり共、寒氣(かんき)、はだへを、とをすならば、何とて、命(いのち)のつゞくべき。』

と思しめし、名主・年寄を恥(はち[やぶちゃん注:ママ。])しめ、

「各々は、餘り、心づき、なし。いかで、此菊に、古着ひとへは、きせたまわぬ。かれが夫(おつと)は、いづくに在ぞ[やぶちゃん注:「あるぞ」。]。」

と、よびたまへば、金五郞、よろをい出て、古(ふる)むしろを、打はたき、菊が上におゝはんとすれば、菊がいわく、

「いやとよ、重し。着すべからず。」

といふ時、名主・年寄、申すやうは、

「そのぶんは、たつて、御苦勞になさるまじ。所のものゝならひにて、生れながら、みな、かくのごとし。」

といへば、和尚のたまはく、

「それは達者にはたらくものゝ事よ。此女は、まさしく正月はじめより煩付(わつらひつき[やぶちゃん注:ママ。])、ものも、くらわで、やせおとろヘたるものなれば、とにかくに、各各が、めぐみなくては、そだつまじ。万事、賴む。」

と、のたまへば、二人の者、畏(かしこまつ)て

「此上は、隨分、見づぎ、申べし。」[やぶちゃん注:「見つぎ」「見繼ぎ・見次ぎ」で、

見届けること・見守り続けること」の意。]

と、ことうけすれば、其時、和尚も、きげんよく、急ぎ、寺に歸りつゝ、すぐに方丈へ行たまひ、納所敎傳(なつしよきやうでん)に近付、

「夜前(やぜん)の㚑魂は、いよいよ、去、菊は本復したれども、衣食(ゑじき)倶(とも)に、貧しければ、命をさそふる、たより、なし。尒るに[やぶちゃん注:「しかるに」。]、かれを存命さするならば、多くの人の化益(かやく)なるべし。なにとぞ、命を扶(たす)けたく思ふに、先(まつ[やぶちゃん注:ママ。])、各々も、古着のあらば、一つあて、とらせよ。我も一つは、おくるべし。さて、方丈の御膳米を、かゆにたかせ、あたへたく思ふ。」[やぶちゃん注:「納所敎傳」雑務(特に寺院の経済関係)を務める下級の僧侶。納所坊主。「敎傳」はあまり見かけないが、正規の修行僧と区別するための謂いか。]

などして、寮に歸り給ふ時、方丈[やぶちゃん注:ここは弘経寺の住職。]は、廊下にたちやすらひ、此事を聞し召、納所を近付(ちかつけ)、仰せられしは、

「実(げ)にも、かのものゝいふごとく、此女のいのちは、大切なるぞや。それそれの用意して、つかはせ。さて、是を、はだに、きせよ。」

とて、かたじけなくも、上にめされし、さやの御小袖をぬがせたまひ、下し[やぶちゃん注:「くだし」。]つかはされける時、名主・年寄兩人を、急度(きつと)、めし寄(よせ)られ、直(じき)に仰らるゝは、[やぶちゃん注:「さや」「紗綾」。卍(まんじ)を崩して繋いだ模様などを織り出した、艶(つや)のある絹織物を指す。]

「汝ら、よく合點して、菊が命を守るべし。其ゆへは、我々、經釈(きやうしやく)をつたへて、千万人、度(ど)すれども、皆、是、道理至極(だうりしごく)の分(ぶん)にして、いまだ、現證(げんしやう)を顯さず。尒るに、此女は、直に、地獄・極乐を見て、よく因果を顯す者なれば、万(ばん)人化益(けやく)の證拠なり。隨分、大切に介抱せよ。なをざりにもてなし、死なせたるなど聞ならば、此弘經寺が怨念、汝らにかゝるべし。」

と、はげしく敎訓したまへば、二人の者ども、なみだをながし、畏(かしこまつ)て御前を立、急ぎ羽生へ歸りつゝ、方丈の仰せども、一〻にかたりつたへ、扨、下しつかわされたる御小袖を着せんとすれば、菊がいわく、

「あら、もつたいなし。何とてか、弘經寺樣の御小袖を、我等が手にも、ふれられん。」

と、いへば、

「実(げに)、尤(もつとも)なり。」

とて、後日に、是を打敷(うちしき)にぬい、法藏寺の佛殿にぞかけたりける。

[やぶちゃん注:「打敷」仏壇の荘厳具(しょうごんぐ)の一種。仏壇に置かれる卓の天板の下に挟んで正面に垂らすようにして飾る。「内敷」「打布」「内布」とも呼ぶ。]

 扨、祐天和尚の御ふるぎ、其外、人々よりあたへられたる着物をも、いろいろ、辭退せしかとも[やぶちゃん注:ママ。]、かれこれと、ぬいなをし、さまさまに方便してこそ、きせたりけれ。

 さてまた、弘經寺より下されたる食物(じきもつ)は、申に及ばず、其外の食事(しよくじ)をも、一圓(ゑん)に、くらわず、たまたま、少も[やぶちゃん注:「すこしも」。]食せんとすれば、すなはち、胸に、みちふさがり、あるひは、ひふを、そんさす。惣じて、此㚑病(れびやう)を受(うけ)し正月始の比(ころ)より、三月中旬にいたるまで、大かた、湯水のたぐひのみにて暮らせしかども、さのみ、つよくやせおとろへも、せざりければ、人々、是をふしんして、問けるに、

「何とはしらず、口中に、味(あちはひ[やぶちゃん注:ママ。])有て、外の食物(しよくもつ)に、望(のぞみ)、なし。」

と、いへば、

「扨は。極乐の飮食(おんじき)を、時々、食するにもや、あらん。」

とて、さながら、

「淨上より、化來(けらい)せる者か。」

と、あやしみ、うやまひ、めぐむ事、かぎりなし。

 

久保田万太郞「年末」 (芥川龍之介の「年末の一日」についての随想)

 

[やぶちゃん注:本篇は「芥川龍之介硏究」(大正文學硏究會編・昭和一七(一九四二)年七月河出書房刊)の「思ひ出」パートに書き下ろしで収録された、芥川龍之介の晩年の印象的な逸品「年末の一日」(リンク先はの古い電子化)についての随想である。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の原本当該部(リンクは冒頭ページ)に拠った。但し、所持する筑摩書房の『全集類聚』版「芥川龍之介全集」別巻に載る同篇(但し、新字)をOCRで読み込み、加工データとした。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。

 久保田万太郎(明治二二(一八八九)年~昭和三八(一九六三)年)は小説家・劇作家・俳人。東京府東京市浅草区浅草田原町(現在の東京都台東区雷門)の袋物(足袋)製造販売を業とする「久保勘」という商屋に生まれた。浅草馬道(現在の花川戸)の市立浅草尋常高等小学校(現在の台東区立浅草小学校)を卒業、東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)に進んだ。この時、一級下に芥川龍之介がいた(三歳年下。但し、彼が芥川と親しく交遊するようになったのは、関東大震災以後とされる)が、明治三九(一九〇六)年の第四年次への進級試験で、数学の点が悪く、落第したため、中退し、慶應義塾普通部へ編入、三年を、もう一度、繰り返して留年した。次いで、慶應義塾大学予科へ進学、折しも同大文学科に森鷗外(顧問)や、永井荷風(教授)が招聘されたことが作家への道を選ばせたとされる。当初は『三田俳句会』で出会った岡本松浜について俳句を稽古し、上田敏を顧問とし、永井が主幹となって発刊された『三田文学』で、水上滝太郎を知る。その頃、松浜が東京を去ったことから、松浜を介し、松根東洋城に俳句を師事している。明治四四(一九一一)年、予科二年を経て文科本科に進み、小説「朝顔」・戯曲「遊戯」を『三田文学』に発表し、『東京朝日新聞』の時評で、小宮豊隆が絶賛し、一躍、『三田』派(耽美派)の新進作家として世に文名を挙げることとなり、同年七月、『太陽』に「千野菊次郎」の筆名で応募した戯曲「プロローグ」が小山内薫の選に入ってもいる。また、この頃、島崎藤村を訪ねている。劇作では、『築地座』を経て、『文学座』の創立に参加し、新派・新劇・歌舞伎の脚色・演出と、多方面に活動を展開、後に『日本演劇協会』会長を務め、文壇・劇壇に重きを成した。小説・戯曲ともに、多くは浅草を舞台とし、江戸情緒を盛り込んだ情話で、長く人気を得た。また、文人俳句の親分的存在としても知られ、俳誌『春燈』を創刊、主宰している(以上は当該ウィキを元にした)。但し、私は彼の俳句を全く評価していない。]

 

年  末

 

 芥川君に「年末の一日」といふ作がある。年末、ある新聞社の人を案内して夏目先生のお墓まゐりをしたところ、どう道を間違へたか、行けども行けどもお墓のまへに出なかつた。墓掃除の女に訊いたりして、結句は分つたものの、そのときはもうあぐねつくし、疲れ返つてゐた。そのあとその連れとわかれ、一人とぼとぼした感じに田端まで歸り、墓地裏の、八幡坂まで達したとき、たまたまそこに、その坂を上りなやんでゐる胞衣會社の車をみ出した。自分のその萎えた氣もちを救ふため、無理から力を出し、ぐんぐんとその車のあとを押した……といふのがその作の筋である。

「北風は長い坂の上から時々まつ直に吹き下ろして來た。墓地の樹木もその度にさあつと葉の落ちた梢を嗚らした。僕はかう言ふ薄暗がりの中に妙な興奮を感じながらまるで僕自身と鬪ふやうに一心に箱車を押しつゞけて行つた……」

 そして、この作、かうした哀しい結尾をもつてゐる。

 十枚にもみたないであらう小品だがわたしの好きな作である。好きといふ意味はいつまでも心に殘つていとしい作である。大正十四年十二月の作だから、これを書いたあと、間もなく、かれは「點鬼簿」「玄鶴山房」を經て「河童」を書いたのである。そして、そのあと、かれは死んだのである。……ことによると、このとき、……すでにこの時それを意識してゐたかれだつたかも知れないのである。でなくつて、それは、「……鬪ふやうに一心に箱車を押しつゞける」かれのすがたはあまりに慘めである。曇つた空の下、ふきすさぶ風の中、どうしたら自分をはツきりつかむことが出來るか、どうしたらかれ自身その存在をたしかにすることが出來るか?……泣かうにももう泪の涸れた瀨戶の、空しい眼をあげてただ遠いゆくてをみまもるかれの頰のいかに蠟の如く冷めたかつたことよ……

 しかも、かれは、かれ自身この苦しみを飽くまではツきりさせようとした。飽くまでただしく傳へようとした。わたしはこれをその當時「新潮」の編輯をしてゐた佐々木千之[やぶちゃん注:「ちゆき」。]君に聞いた。その八幡坂を上りなやんでゐた車、かれの力のかぎりをつくしてそのあとを押した箱車の、その橫に廣いあと口に東京胞衣會社の數文字を書くまでに幾度その行を書きかへたか知れないのだつた。胞衣會社の箱車をえてはじめてかれはかれ自身納得したのである。……わたしはこれを聞いたとき、身うちの冷え切るのを感じた。

「どうです、暇なら出ませんか?」その「年末の一日」の中のかれはその新聞社の人にかういつてゐる。

……わたしはおもひ出した、しばくわたしもかれからかうしたことをいはれた。そして、しばしなかれとともにあてもなく散步したりした。

「どうです、おまんまを喰べに行きませんか?」

 あるときである、ふらりと、いつものやうにわたしはかれの書齋にすわつた。そしていつものやうに、一二時間、われわれは、とりとめなく饒舌りあつた。そのとき、突然、どんなことでも思ひついたやうにかれはいつた。

「さア……」

 わたしは躊躇した。

「行きませう、行きませう。……いいぢやありませんか、そのまんまで……」

……といふのは、そのとき、わたしはふだん着のまゝだつた。ふだん着の上に外套を引ツかけて出て來たわたしだつた。

「えゝ、ぢやア……」

 わたしといへどそのまゝわかれにくかつた。結局賛成して一しよに外へ出た。

 動坂へ出て電車に乘つた。上野で下りて池の端の或料理屋へ行つた。……こゝで「或」といふのはことさら名まヘをいはないのではない、忘れたのである。……正午をすこしすぎたばかりのかうした家のしづけさ……しぐれの暗さをもつたそのしづけさにつゝまれて、われわれは、がらんとした、何としても二人には廣すぎる感じの、しらじらした座敷の眞ん中に向ひ合つた。

 間もなく膳が運ばれた。わたしに猪口を取上げさせつつ、かれは、平野水のなかに食鹽を入れて飮んだ。再び、われわれは、とりとめなく饒舌りつゞけた。[やぶちゃん注:「平野水」炭酸水。天然に涌き出る水で、炭酸ガスを含み、商品として飲料に供せられた。兵庫県平野温泉から産出したところからの命名で、後の「三ツ矢サイダー」である。]

 とくに、なぜ、かうした例をこゝにもち出したかと讀者はあやしむかも知れない。しかもこの日のことは、嘗て一度、かれがつねに襟をかけた下着をもちひてゐた床しさをつたへるそもそもの立前にわたしは話してゐるのである。それを重ねて、いまさらのやうにまたわたしのかういふのは、それが矢つ張年末だつたからである。ともに新年のための仕事をすませたあとのことだつたからである。……その座敷の、一方だけあいた窓の、貼りかへたばかりの障子のそとに遠く見下された町々の、そこにすでに所狹く立てられた軒々の笹……それはいつになつてもなつかしいおもひで……春を待つ子供の時分のおもひでがさういつても愉(たの)しくわれわれの胸によみ返つてゐたのである。

 大正十三年の十二月である。……すなはち「年末の一日」を書いた前の年のことである。わたしはそれを思ふのである。……

 その家を出たあと、われわれは、ぶらぶら切通しの坂を上つた。古本屋を素見[やぶちゃん注:「ひやかし」。]したり靑木堂へよつたりした。靑木堂へよつたのは、わたしがそこの紅茶を東京でのうまい紅茶だといつたのに對して、かれは、いゝえ、それは紅茶ぢやアない、珈琲だ、あすこの珈琲は、東京でのうまい珈琲だと主張した、それぢやア試さうといつて、そこの、暗い階子段を上つたのである。[やぶちゃん注:「靑木堂」明治から大正期にかけて通寺町(現在の神楽坂六丁目)にあった食料品商。酒・洋菓子・煙草・西洋雑貨を手広く扱っていた。]

 かれの說を尊敬して、わたしは、珈琲を飮んだ。しかし、決してかれのいふほどのことはなかつた。いつも飮む紅茶のはうが數等上だつた。正直に、わたしは、それをかれにいつた。

「うん、今日のはあんまりうまくない。」

 素直にかれは肯定した。そしてもう、そんなことはどうでもいゝやうに、皿の上の菓子を、果敢にかれは征服して行つた。……わたしは、かれの、おもひの外なその健啖さにおどろいた。……とにかく、そのとき、その家を出てまだ一時間とたつてゐなかつたのである……

 靑木堂を出て追分のはうへまたあるいた。高等學校のまへの、わたしの知合の文房具屋へ入つた。わたしのした買物と一しよに、かれも、小穴隆一君の小さい妹のところヘもつて行くみやげものを買つた。そしてそこを出て右と左へわかれた。……わたしの記憶にもしあやまりがなければ、極月の暮迅い日は、そのときもう遠い方のあかりのいろを目立たしいものにしてゐた。

 が、それにしても、その强い食慾、あかるい心もち、こだはりのないとりなし。……いつ、どうして、どうしたつまづきから、かれは、それらのすべてを失つたのか?……わづか一年。……わづか一年の間にである。……[やぶちゃん注:以下、二行空け。]

 

 

 ……わたしは、今日、朝からこれを書いてうちにゐる。このごろのわたしとしてはめづらしいことである。なぜなら、このごろのわたしは、わたしのもつ一日の時間の大ていをいそがしく外でばかりくらしつゞけてゐるからである。わたしにかうした生活が、たとひ一時にもせよ、待つてゐようとはかれでもおそらく思はなかつたらう。わたしでも思はなかつた。人間といふ奴はいつどうなるか分らない。……といふことは、かれでもゝし、いまゝで生きてゐたら?……[やぶちゃん注:当該ウィキによれば、久保田はこの執筆当時、『劇団文学座を結成』した後で、これより『新派、新劇、文学座の演出を数多く手がけ』、『明治座や有楽座』・『国民新劇場で』多くの芝居を『上演』、『他にも里見弴と親交を結び、脚色』・『演出を行』っていたが、この昭和一七(一九四二)年には、四『月から内閣情報局の斡旋にて満州国に滞在』したり、『日本文学報国会劇文学部幹事長となり、日比谷公会堂における日本文学報国会の発会式に劇文学部会長として宣誓を朗読』するなどの、大日本帝国の翼賛行動に奉仕し、遑がなかったのである。]

 外には雨がふつてゐる。落葉を濡らして止むけしきなくふりつゞけてゐる。……貼りかへた障子、表替をした疊、今年ももうあと一週間と殘つてゐない。

                   久 保 田 万 太 郞

2023/01/27

死靈解脫物語聞書下(2) 祐天和尚累を勸化し給ふ事

 

[やぶちゃん注:本書の解説や底本等は、冒頭の「累が最後之事」を参照されたい。標題の「附」は「つけたり」と読む。]

 

  祐天和尚累を勸化(かんけ)し給ふ事

 

Yuutenkuru

 

[やぶちゃん注:本シークエンスの挿絵左右見開きでのワン・カット二枚であるが、右から左へ時制移動があり、それが垣根で分けられてある。底本には挿絵はなく、これは所持する国書刊行会『江戸文庫』版に挿入された東京大学総合図書館蔵本のそれをトリミング補正した。枠外は清拭したが、絵の内部は、一切、手をつけていない(因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である)。キャプションがある。右の図は、前の章の終りの、事態の終息の見通しがないことに困り切って相談する場面で、右中央にいる男の右に、

「てらおとこ

  權兵衛」

とあり、向かい合っている中央上の左に、

「名ぬし

 三郞右門」

で、「三郞右衞門」の略。

中央手前から左幅にかけてが、祐天一行の到来を描く。以下の祐天の決心の発言から見て、四人の内(本文によれば、祐天を含めて全部で八名の僧が出向いているが、残りの四人は画面下方の外にいるのであろう。これから調伏する祐天を際立たせるためにも、ごちゃごやと八人を描く必要を絵師は感じなかったものと思われる。正解である)、左幅の方の墨染めを着た菊に対しているのが、祐天と思われる。独り、家内に横たわったのが、菊で、

「きく

 くるしみぬる」

と右に記されてある。]

 

 去程(さるほど)に、權兵衞、弘經寺に歸る道すがら、思ふやう、

『誠や、祐天和尚、「かの累が怨㚑(おんれう)のありさま、直(ぢき)に見てまし。」と仰られし。よき折から、人もなきに、御供(とも)、仕(し)、見(みせ)參らせん。』

と思ひ、歸りける所に、寺の門外に、意專(いせん)・敎傳(きやでん)・殘應(ざんおう)などゝ聞えし、所化衆(しよけしう)、五、六人、並居(なみゐ)給(たまへ)るに、

「かく。」

と、いへば、

「よくこそ知らせたれ。祐天和尙の御出あらば、我我も、行ん。」

とて、みなみな、用意をぞ、せられける。

[やぶちゃん注:「祐天」は、寛永十四年四月八日(一六三七年五月三十一日)生まれで、『増上寺の檀通上人に弟子入りした』ものの、『暗愚のため』に『経文が覚えられず』、『破門され、それを恥じて成田山新勝寺に参』籠し、『不動尊から剣を喉に刺し込まれる』という『夢を見て』、『智慧を授かり、以後』、浄土宗では珍しい調伏の法力を発揮することで既に知られていたようである(以上の引用は当該ウィキ)。茨城県守谷市本町にある浄土宗八幡山雲天寺の公式サイトのこちらによれば、『飯沼弘経寺の末寺である当山雲天寺において、祐天上人が「七ヵ日説法」を説かれたのは、飯沼弘経寺の第』三十『世住職になられた時ではなく、以前の師僧檀通上人に随行した時のことであり』、『寛文』九(一六六九)年三十三歳の『とき、当時雲天寺住職から本堂落慶入仏法要(本堂落慶入仏供養一七日)の談義僧派遣の依頼あってのことで、この際に檀信徒を前に』七『日間にわたる「七ヵ日説法」を説かれたとされてい』るともあり、『この縁ある弘経寺に在寺していたときに、現在の常総市にある法蔵寺の当時住職とともに累怨霊を解脱しており、この怨霊解脱に使った百萬遍珠数』(一つの珠の直径が五センチメートル以上ほどある珠数)『と、怨霊の遷った累と菊の木像が寄進され、現在もなお残って』いるともあった。これによって、祐天と弘経寺との深い関係が窺われ、さらに、この事件より三十年後のことであるが、元禄一三(一七〇〇)年、祐天は第五代『将軍綱吉公の台命により』、『再び飯沼の地に戻り、弘経寺の住職となっ』てもいるのである。以上から、本寛文十二(一六七二年)年三月当時、祐天は満三十五であることが判る。]

 さて、權兵衞は祐天和尚の寮に行き、

「かやうかやうの次㐧にて、さいわひ、只今、見る人も御座なく候に、門前に居(ゐ)られし所化衆をも、御つれあそばし、羽生へ御越なさるべうもや、あらん。」

と、いへば、和尚、聞もあへたまわず、

「よくこそ告(つげ)たれ、いざ、行(ゆく)へし[やぶちゃん注:ママ。]。」

とて、既に出んとしたまひしが、

「まて。しばし。」

と案じたまひて、仰らるゝは、

「いかなる八獄の罪人も、時機相應の願力(ぐわんりき)を仰(あふ)ぎ、一心に賴まんに、うかまずといふ事、あるべからず。然る所に、再三、念佛のくどくをうけて、得脫(とくだつ)したる㚑魂、たち歸り、たち歸り、取付(とりつく)事は、何樣、石仏ばかりの願ひならず。外に、子細の有と見へたり。若(もし)又(また)、外道天魔の障碍(せうげ)か。そのゆへは羽生村の者共、たまたま、因果のことはりを、わきまへ、菩提の道におもむくを、さゑんとて、來れるか。さなくは、狐狸(きつねたぬき)のわざにて、おゝくの人を、たぶらかさんために、取つくにもやあらんに、せんなき事に、かゝりあひ、我が一分(いちぶん)は、ともかくも、師匠の名まで、くだしなば、宗門の瑕瑾(かきん)なり。只、そのまゝに、すておき、所化共も、行べからず。」[やぶちゃん注:「さゑん」「さへん」で、「障へる・支える」、「妨げる・邪魔する」の意であろう。「瑕瑾」傷。名誉を傷つけること。]

と、貞訓(ていきん)を加へたまへば、權兵衞も、

「尤、至極。」

して、

「爾者[やぶちゃん注:「しからば」。]、所化衆をも、留(とめ)申さん。」

とて、門外さして、出て行く。

 あとにて、和尚、おぼしめすは、

「既に此事は、石塔開眼(かいげん)まで、方丈へ訴へ、其領定(れうでう)有上は、縱(たと)ひ、我々、捨置とも、終(つい)には、弘經寺が苦勞に成べき事共也。そのうへ、權兵衞がはなしのてい、村中の難義、此事に究(きわま)るとあれば、いと、ふびんの次第なり。我行て弔(とぶら)はん。累が㚑魂ならば、いふに及ばず、其外、天魔波旬(てんまはじゆん)のわざ、又は、魅魅魍魎の所以(しよい)にもせよ、大願業力(だいぐわんごうりき)の本誓(ほんぜい)、諸佛護念(ごねん)の加被力(かびりき)、一代經卷の金文(きんもん)、虛(むな)しからじ。其上、和漢兩朝の諸典(しよでん)に載(のす)る所、いか成三障四魔をも、たゞちに、しりぞけ、順次、得脫の證拠、數多(すた)、あり。幸成哉、(さいはひ)、時機相應の他力本願、佛力法力、傳授力、爭(いかでか)、以て、しるし、なからん。但し、今まで兩度の念仏にて、いまた[やぶちゃん注:ママ。]、埒[やぶちゃん注:「らち」。]あかで、來(きた)る事、恐は[やぶちゃん注:「おそらくは」。]疑心名利の失(しつ)有て、弔ふ人の、あやまりならんか。我、佛説に眼(まなこ)をさらし、諸人に、これを敎ふといへども、皆、經論の傳説にて、直(ぢき)に現證(げんしやう)を顯す事、なし。善哉(よいかな)や、この次でに、經卷・陀羅尼の德をも、ためし、そのうへには、我宗[やぶちゃん注:「わがしゆう」。]祕賾(ひさく)の本願念佛の功德をも、こゝろみん。もし、それ、持經密呪のしるべもなく、また、證誠の実言(じつごん)、虛(むなしく)して、称名の大利も、顯はれず、菊が苦痛も、やまずんば、二度(ふたゝび)、三衣(さんゑ)は着(ちやく)せじものを。」

と、ひかふる衆を、ふりすて、守り本尊、懷中し、行脚衣、取りて、打かけ、門外さして出給ふは、常の人とは、見えずとぞ。

[やぶちゃん注:「領定」申し立てを受「領」し、その通りに決「定」された事を言うのであろう。

「天魔波旬」人の生命や善根を絶つ悪魔。他化自在天(第六天)の魔王のこと。「波旬」は、サンスクリット語の「パーピーヤス」の漢音写で、「パーパ」(「悪意」の意)ある者の意。仏典では、仏や仏弟子を悩ます悪魔・魔王として登場し、しばしば魔波旬(マーラ・パーピマント)と呼ばれる。「マーラ」(「魔」)は「殺す者」の意で、個人の心理的な意味合いでは、「悟り」(絶対の安定)に対する「煩悩」(不安定な状態)の、集団心理的には新勢力たる「仏教」に対する、旧勢力たる「バラモン教」の象徴と考えられている。

「大願業力」通常の読みは、「たいぐわんごふりき」で、「仏の大いなる本願の力」。特に「阿彌陀仏の本願」の大慈大悲の絶対の働きを指す。「大願力」と「大業力」、或いは「大願」・「大業」・「大力」の意などと解される。

「加被力」神仏が衆生を助けるために慈悲を加える力。「加威力」(かいりき)とも言う。

「一代經卷」釈迦が生涯に亙って説法した経典の総称。広くは、「経」・「律」・「論」の「三蔵」全体を含む。「大蔵経」「一切経」「蔵経」に同じ。

「金文」有難い総ての「経文」(きょうもん)の意。

「三障四魔」正法(しょうぼう)を信じ行ずる際に、これを阻もうとして起こる働きの総称。三つの「障り」と四つの「魔」。「三障」は「業障」(ごっしょう)・「煩悩障」・「異熟障」(いじゅしょう:「報障」とも言う。これは既に定められてしまっている地獄・餓鬼・畜生等の三悪道や正法誹謗などの報いとして起こる障り)で、「四魔」は「煩悩魔」・「五蘊魔」(ごうんま:心身に苦悩を生じさせるもの。「陰魔」(おんま)とも言う)・「死魔」(生命を奪おうとするもの)・「天魔」(善行を妨げんとするもの。「天子魔」(てんじま)とも。本来は「他化自在天子魔」(たけじざいてんしま)の略で、第六天の魔王他化自在天王による最大最悪の魔障で、生命の根本的な迷いから生ずるもので、権力者などの身に入り込むなどして、あらゆる力を以って修行者に迫害を加えるもの)を指す。

「祕賾」秘奥な事柄。きわめて奥深い真理。

「持經密呪」「持經」本邦では特に「法華経」を受持し、読誦する者を「持経者」と呼び、法華宗・日蓮宗を指す。「密呪」真言密教における仏・菩薩などの本誓(ほんぜい:人々を救済しようとする根源の誓願)を表わす秘密の語である真言や陀羅尼を指す。

「しるべなく」「知る邊」「導」。教導して呉れる対象がなく。

「証誠」「しようじやう」は「真実であると証明すること」を言う。

「三衣」歴史的仮名遣は「さんえ」でよく、「さんね」とも読む。本来はインドの比丘が身に纏った三種の僧衣を指し、僧伽梨衣(そうぎゃりえ:九条から二十五条までの布で製したもの)・大衣(だいえ。「鬱多羅僧衣」(うったらそうえ)とも言い、七条の袈裟で上衣とするもの)・安陀会(あんだえ:五条の下衣)のことを指すが、ここは単に「僧」の代理語として用いている。]

 さて、門前に居られたる、衆僧(しゆそう)に向て、宣(のたま)ふは、

「六人は、歸り、權兵衞、一人は、我を案内して、累が所に、つれ行(ゆけ)。」

と、あれば、六僧のいわく、

「我々も、御供(とも)申行ん[やぶちゃん注:「まをしゆかん」。]。」

といふに、和尚、のたまわく、

「いなとよ。自分は、ふかき所存有故に、覚悟して行也。汝等は、止(とゞ)まれ。」

と、あれば、意專のいわく、

「貴僧は、何とも、覚悟して行たまへ。我々は、只、見物にまからん。」

と、いわれしを、和尚、打ほゝゑみ給ひ、

「尤々[やぶちゃん注:「もつとも、もつとも」。]。いざ、さらば。」

とて、以上八人の連衆(れんじゆ)にて、羽生村さして、行たまふ。

 いそぐに、ほどなく、行つき、彼家(かのいゑ)を見たまへば、茅茨(ほうし)、くづれては、日月霜露([やぶちゃん注:「じつげつ」。]さうろ)も、もるべく、垣壁(かきへき)、破れては、狼狗(らうく)・嵐風(らんふう)も凌(しの)ぎがたきに、土間には、おとる[やぶちゃん注:「劣(おと)る。粗末な。]ふるむしろの、目ごとに、しげき蟣(のみ)・蝨(しらみ)、尻ざしすべきやうもなく、各々、すそを、つまどり、あとやまくらにたゝずみて、菊が苦痛を見たまへば、のみ・しらみの、おそれもなく、けがれ・不淨もわすられて、みなみな、座にぞ、つき給ふ。

[やぶちゃん注:「茅茨」歴史的仮名遣は正しくは「ばうし」。茅(ちがや)と茨(いばら)葺(ふ)いた屋根の意から、そのような「あばら家」を指す。

「蟣(のみ)」これは用字として誤りである。「蟣」は平安頃からある古語で、「きさし」と読み、「虱(しらみ)の卵」を指すからである。

「尻ざしすべきやうもなく」(その時は)気軽に腰をおろすことも出来難く。

「あとやまくらに」「(背の向こうの)後や、枕(元)に」。]

 扨、導師、枕に近寄たまへば、何とかしたりけん、菊が苦痛、忽(たちまち)、やみ、大息(いき)、つゐてぞ、居たりける。

[やぶちゃん注:「導師」言うまでもなく、祐天。即座に法力が発揮される見どころである。]

 時に和尚、問(とい)たまはく、

「汝は、菊か。累なるか。」

と。

 病人、荅(こた)へ云やう、

「わらわは、菊で御座有が、累は胸にのりかゝつて、我がつらを、ながめ居申[やぶちゃん注:「をりまをす」と読んでおく。]。」

と。

 和尚、又、問たまわく、

「いか樣にして、汝を責るや。」

と。

 菊がいわく、

「水と、沙とを、くれて、息をつがせ申さぬ。」

と。

 和尚、又、問ひたまわく、

「累は、何といふて、左(さ)のごとく、せむるぞや。」

と。

 菊がいわく、

「『はやく、たすけよ、たすけよ。』と、いふて、責申。」

と、いとあわれなる声根(こはね)にて、たえだえしくぞ、荅へける。

 其時、和尚、聞もあへたまわず、

「今、さらば、各々、年來(としこご)所持の經陀羅尼、かゝる時の所用ぞ。」

と、まづ、「阿彌陀經」三卷、中聲(ちうこゑ)に讀誦し、𢌞向、已(おわつ)て、

「扨、累は。」

と問給へは[やぶちゃん注:ママ。]、菊がいわく、

「そのまゝ、胸に居申。」

と。

 次に四誓の偈文(げもん)、三反(べん)、誦(じゆ)し、ゑこうして、又、問たまへば、今度も、同じやうにぞ、荅へける。

[やぶちゃん注:「四誓の偈文」「無量寿経」の一節を指す。千葉県市川市の浄土宗善照寺の「バーチャル寺院:善照寺」のこちらに全偈文と現代語訳が載る。]

 扨、其次に、「心經」、三反、誦じ已て、前のごとく、尋ねたまへば、菊がいわく、

「さてさて、くどき問ごとや。それさまたちの目には、かゝり申さぬか。それほど、それよ、我胸にのり、かゝり、左右の手を、とらへて、つらを詠(なが)めて居るものを。」

と、いふ時、和尚、又、すきま、あらせず、「光明眞言」、七反、くり、「隨求陀羅尼(ずいぐだらに)」、七反、みてゝ[やぶちゃん注:「滿てて」。唱え終わって。]、度[やぶちゃん注:「たび」。]ごとに、右のごとく問たまふに、いつも、同邊(どうへん)にぞ、荅へける。

 其時、和尚、六人の衆僧に向(むかつ)て、のたまわく、

「是、見たまへよ、かたかた[やぶちゃん注:ママ。]。今、誦する所の經・陀羅尼は、一代顯密の中におゐて、何れも、甚深微妙(ぢんじんみめう)なれ共、時機、不相應なる故か、少分[やぶちゃん注:「しやうぶん」。少しの効果。]も、顯益(けんやく)、なし。此上は、我宗(わがしう)の深祕(しんひ)、超世別願(てうせべつぐわん)の称名(しやうみやう)ぞ、我に隨(したがひ)て、唱へよ。」

と、六字づめの念佛、七人一同の中音(ちうおん)にて、半時(はんじ)[やぶちゃん注:現在の一時間相当。]ばかり唱へ畢(おわつ)て、

「さて。累は。」

と問たまへば、また、右のごとくに荅へけり。

[やぶちゃん注:ここまでで、祐天は浄土宗では明らかに禁じられている、修学で得た顕・密の咒(まじない)などまでも修法(しゅほう)してしまっている。しかも、寺を出る際に「見物している」と述べた七名の僧にも、結局、唱和させているのである。多分、これは、その方が見た目の迫力はあるからという理由で、作者が手を加えたものかも知れ

ない。

 

Yutentyoubuku

 

[やぶちゃん注:本シークエンスの挿絵左右見開きでのワン・カット二枚であるが、時制が右から左へ、かなりの時制移動がある。挿絵の出所は前に同じ。キャプションがある。右幅上部に、数珠を左手首に掛け、菊の髪を左手でぐいと摑んで抑え込み、強引に念仏をさせようとする劇的シーンを描き、手前と中央手前から左幅の右斜め部分にかけて、群がり集まった羽生村の村民の見物する様子を描写する。祐天の右上に、

「ゆうてん

 おしやう」

とあり、抑えられた菊の下方に、

「きく

 ねんぶつ

 申べき

  と

 いふ」

とある。菊の足元下方に、

「おの

  おの

 より

  あつまる」

とある。なお、この絵に相当するシークエンスは実は、次の「顯誉上人助(すけ)か㚑魂を弔(とふらひ)給ふ事」の中に、絵だけならば、よりしっくりくる(特に多数の見物人の描写は、そちらの方に酷似する)のだが、一点、菊が「十年申」す「べきと」言「ふ」というキャプションは、そちらとは全く合わない台詞であるから、私はあくまでここで、この挿絵を紹介しておく。左幅の左側三分の二は、最終章「菊が剃髪停止(てうじ)の事」のワン・シーンで、菊が、累の憑依から救われた後日、尼になると言う菊を連れて名主らが弘経寺を訪ねる場面である。左の端にいるのが、菊で、その上方に、

「きく

 びやう

    き

 ほんぶくして」

とあり、名主らしき人物の右に続いて、

「なぬし

 きくを

  つれだつ(「ち」にも見える)」

と記されてある。挿絵は、一貫して概ね本文に即して描かれてある。]

 

 其時、和尚、興(けう)をさまし、前後をかへり見たまへば、いつのほどより、集(あつま)りけん、てん手に、行燈(あんどう)、ともし、つれ、村中の者ども、稻麻竹葦(とうまちくい)と並居(なみゐ)たるが[やぶちゃん注:四種の植物のように群がって立っている様子を言う。]、一人、一人[やぶちゃん注:「ひとり、ひとり」]、和尚に向ひ、

「何(なにかしは)、たれ。」

「それがしは、これ。」

と、一々、名字をなのり、樣々、時宜(しぎ)を述(のぶ)る事、いとかまびすしく聞へければ、和尚、いらつて、のたまはく、

「あな、かしがまし、人々。今、此所にして、汝等が名字を聞て、せん、なし。只、其許(そこもと)を、分けよ。我れ、用事を弁ずるに。」

とて、たちたまへば、ひぢを、たをめ、座を、そばだて、おめおめしくぞ、通りける。

 和尚、すなはち、外に出て、意地(いぢ)の領解(れうげ)を述られしは、物すさましくぞ、聞えける。

[やぶちゃん注:「行燈、ともし、つれ」当初は「つれ」は完了の助動詞の已然形で、確述の意の「確かに、灯(とも)しているのであって」の意かと思ったが、文法的にちゃんと説明出来ないことから、ここは「行燈(あんどん)を灯している人が、互いに連れ合って参っており、」の意でとる。

「時宜」この場にあるそれぞれの民からの形式的な挨拶。

「其許を、分けよ」「この場からは、一度、解散せよ。」の意であろう。なお、ここで名を名乗っているのは、世間に知られた法力僧祐天を一目見、名を挙げることで、彼に知って貰うことによって、ひいては、御利益がある、と思った、浅薄な願いからの名乗りであろう。

「たをめ」「手折(たを)め」、肘を曲げて。威嚇的な動作であろう。

「座を、そばだて」座っていたのを、急にすっくと立ち上がって。同前の仕儀。

「おめおめしく」恥ずかし気のないさま。ここは単に、祐天が民草に威嚇的に出ることを全く気にしていないことを強調しているに過ぎない。]

 其詞にいわく、

「十劫正覚(じつこうしやうがく)の阿弥陀佛、天眼天耳(てんあんてんに)の通[やぶちゃん注:「つう」。通力(つうりき)。]を以て、我がいふ事を、よく、聞れよ。五劫思惟(ごこうしゆい)の善巧(ぜんぎやう)にて、超世別願(てうせべつぐわん)の名を顯し、極重𢙣人(ごくぢうあくにん)、無他方便(むたはうべん)、唯称名字(ゆいしやうみやうじ)、必生我界(ひつしやうがかい)の本願は、たれがためにちかひけるそや[やぶちゃん注:ママ。]。また、常在㚑山(じやうざいれうせん)の釈迦瞿曇(くどん)も、耳(みゝ)を、そばたて、たしかに聞け。彌陀の願意を顯すとて、是爲甚難(ぜいじんなん)の説(せつ)を演(の)べ、我見是利(がけんぜり)のそらごとは、何の利益を見けるぞや。それさへ有に、十方恒沙(ごうじや)の諸佛まで、廣長舌相(くわうちやうぜつさう)の實言(じつごん)は、何を信ぜよとの證誠(しやうせう)ぞや。かゝる不実なる佛敎共が、世に在るゆへ、あらぬそらごとの口まねし、誠の時に至ては、現證(げんしやう)、少しも、なきゆへに、かほどの大場([やぶちゃん注:「おほ」。]ば)で、恥辱に及ぶ。口をしや。但し、此方に[やぶちゃん注:「こなたに」。]、あやまり有(あり)て、そのりやく、顯れずんば、佛をめり、法を譏(そし)る、急(いそ)ひで、守護神をつかはし、只今、我身を、けさくべし。それ、さなき物ならば、我、爰にて、げんぞくし、外道(げだう)の法を學びて、佛法を、破滅せんぞ。」

と高声(かうしやう)に呼(よび)わり、たけつて、本の座敷に、なをり給ふ時は、いかなる怨㚑執對人(しうたいじん)も、足をたむべきとは、見へざりけり。

[やぶちゃん注:「十劫正覚の阿弥陀佛」遙か十劫(じっこう)前に成仏した阿弥陀仏のこと。法蔵菩薩が四十八誓願を立てて仏となることを誓って、成仏してから、現在に至るまでの時間を「十劫」と表現し、本願を成就して成仏(「正覺」(しやうがく))したのが十劫の昔であったことから「十劫の弥陀」と称する。因みに、その誓願の内の第十八誓願「縱(たと)ひ、我、佛を得んに、十方(じつぱう)の衆生、至心に信樂(しんぎやう)して我が國に生まれんと欲し、乃至、十念せん。若し生まれずば、正覺を、取らじ。」というもので、「至心・信楽・欲生我国の三心を以って、念仏すれば、必ず、衆生(生きとし生けるものすべて)を往生するようにさせる、そうでなければ、私は、如来にならぬ。」という誓願。現在、既に阿弥陀は如来となっているので、衆生が生まれる以前から総ての衆生は極楽往生することが、決まっているという恐ろしく長い時間をドライヴしている予定調和命題である。本邦の浄土教では、この第十八誓願が特に重要視され、四十八誓願中の「王本願」とも呼ばれている。

「天眼天耳」色界の諸天人の眼と耳を指す。六道衆生の言語と、一切の音響を聞き取ることが出来るとされる。

「五劫思惟の善巧」阿弥陀仏が四十八願を立てる以前に、その誓いに就いて、半分の五劫もの長い間、考え続けたこと。「善巧」は「人々の機根に応じて、巧みに、善に教え導き、仏の利益(りやく)を与えること」を指す。ここはそれを衆生一人一人に総て応じて、洩れなく教示するようにすることを言う。

「超世別願」阿弥陀仏が成就した本願は、諸仏や諸菩薩の「別願」(仏・菩薩がそれぞれ独自の立場に立って発した誓願のことを指す)も及ばない、「世」にも勝れた「超」越的な誓願であることを表わす語。「無量寿経」上に「我、超世の願を建つ、必ず無上道に至らん」と誓い、法然は「十二問答」(禅勝房との問答)の中で、『ただ、極樂の欣(ねが)はしくもなく、念佛の申されざらん事のみこそ、往生の障(さはり)にては、あるべけれ。かるが故に「他力本願」ともいひ、「超世の悲願」ともいふなり。』とある(ここは「WEB版新纂浄土宗大辞典」のこちらに拠った)。

「無他方便」「極重惡人 無他方便」恵信僧都源信が「観無量寿経」の説く肝要を簡潔に示した語句の一部。極重の悪人を救う道は、「南無阿彌陀仏」と称名念仏して、極楽に往生する以外、他のてだては、ない、ということ(小学館「日本国語大辞典」に拠る)。

「唯称名字」「南無阿彌陀佛」の念仏が衆生を救う唯一絶対の本願であることを言うもの。

「必生我界」不詳。「必」ず、衆「生」を「我」の立てた誓願の成就によって、極楽世「界」に導く、という意か。

「常在㚑山」「常在靈鷲山」(じやうざいりやうじゆせん)と同じ。「法華経」の「寿量品」にある自我偈の一句で、「釈迦の寿命は永遠にして、仏身は常住である。」ことを示す言葉。方便のために「入滅」を示した語であったが、実は「死ぬ」ことは、「成仏すること」であり、その後は「常に説法し、衆生を済度しているということ」の意とされるようになった。また、仏を念ずる際に、この言葉は、よく唱えられる。

「瞿曇」釈迦が出家する前の本姓。サンスクリット語「ゴータマ」の漢音写。

「是爲甚難」は「佛說阿彌陀經」の一句。『舍利弗、如我今者、稱讚諸佛、不可思議功德、彼諸佛等、亦稱說我、不可思議功德、而作是言。釋迦牟尼佛、能爲甚難、希有之事、能於娑婆國土、五濁惡世、劫濁(こうじよく)・見濁・煩惱濁・衆生濁・命濁中(みやうじよくちゆう)、得阿耨多羅(とくあのくたら)、三藐(さんみやく)三菩提、爲諸衆生、說是一切世間、難信之法。』。「能(よ)く爲(な)すこと甚だ難(かた)し」。

「我見是利」「阿彌陀經」の一節。『舍利弗、若有善男子、善女人、聞說阿彌陀佛、執持名號、若一日、若二日、若三日、若四日、若五日、若六日、若七日、一心不亂、其人臨命終時、阿彌陀佛、與諸聖衆、現在其前、是人終時、心不顛倒、卽得往生、阿彌陀佛、極樂國土、舍利弗、我見是利、故說此言、若有衆生、聞是說者、應當發願、生彼國土、舍利弗、我見是利、故說此言、若有衆生、聞是說者、應當發願、生彼國土。』(舎利弗、若し、善男子・善女、人、有りて、阿彌陀佛を說くを聞きて、名號を執持すること、若しくは一日、若しくは二日、若しくは三日、若しくは四日、若しくは五日、若しくは六日、若しくは七日、一心不亂ならん。其の人、命、終る時に臨みて、阿彌陀佛、諸の聖衆と與(とも)に其の前に現在したまふ。是の人、命、終る時、心、顚倒せず。卽ち、阿彌陀佛の極樂國土に往生することを得。舍利弗、我是(がぜ)の利を見るが故に、此の言を說く。若し、衆生、有りて、是の說を聞かん者は、應當に發願して、彼の國土に生まるべし。)。以上は、長南瑞生氏のサイト「浄土真宗.jp」の「阿弥陀経とは?」を参考にさせて貰った。

「恒沙」「恆河沙」(ごうがしや)の略。「ガンジス川の砂」の意で、仏教の経典中で「数えきれないほど多い」ということの比喩として、たびたび用いられている。

「廣長舌相」仏に具わっているとされる三十二の優れた相(そう)の一つ。「舌が広く長く、伸ばすと顔一面を覆う」という様態を指し、「嘘・偽りのないこと」を示す相の一つとされる。後に転じて、「仏の説法」を「広長舌」と称し、「雄弁なこと」などの比喩に使用されるようになった。

「怨㚑執對人」怨霊に「對」して調伏退散を「執」行するゴースト・バスターのことか。

「足をたむべきとは、見へざりけり」その祐天の激しい信念には、それに対して、とても「足を踏み止まることが出来るような」同力を持った人物はいないように見えた、の意であろう。]

 されども、

「累は。」

と問給ふに、又、もとのごとく荅る時、和尚、きつと、思ひ付たまふは、

『実(げ)に、実に。われら、あやまりたり。その当人のなき時こそ、我々ばかりの称名𢌞向も、薰發(くほつ)・直出(じきしゆつ)の理(り)に、かなわめ。既に、罪人、爰に在り。彼に、となへさせて爾るべし[やぶちゃん注:「しかるべし」。]。是ぞ、「觀經」に説所(とくところ)の、十𢙣五逆のざい人、臨終、知識の敎化に値(あ)ひ、一声十念(いつしやうじうねん)の功により、決定往生(けつじうわうじやう)と見へたるは、こゝの事ぞ。」[やぶちゃん注:「薫發」「宿善薫發」。前世に積んだ善根が、善い縁に触れて、現われるさまを指し、本来は「正しい仏道修行に入ること」を言う。「直出」不詳。「直ちに本来の姿を自ずから現わすこと」か。「觀經」「觀無量壽經」の略。「十𢙣五逆」「十𢙣」(「𢙣」は「惡」の異体字)は「身」・「口」・「意」の三業(さんごう)が生み出すとする、十種の罪悪。殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口(あっく)・両舌・貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・邪見を指す。「五逆」は、五種の最も重い罪とするもので、一般には「父を殺すこと」・「母を殺すこと」・「阿羅漢(あらかん:尊敬や施しを受けるに相応しい真の聖者)を殺すこと」・「僧の和合(仲よく親しみ合う切磋琢磨する僧衆教団の結束)を破ること」・「仏身を傷つけること」を指し、一つでも犯せば、最悪の「無間地獄」に落ちると説かれる。「五無間業」「五逆罪」とも称する。]

と、おもひきわめ、菊に向いて、のたまふは、

「汝、我ことばにしたがひ、十たび、念佛をとなふべし。」

と、あれば、菊がいわく、

「いなとよ、さやうの事、いわんとすれば、累、我(わが)口を、おさへ、となへさせず。」

といふ時、左右にひかへたる百姓共、ことばをそろへて、いふやう、

「それは、御無用に候。その者、念佛する事、かなわぬ子細(しさい)候。いつぞやも、來りし時、是成[やぶちゃん注:「これなる」。]三郞左衞門、今のごとくに、すゝめられ候へば、累が申やう、『おろか成云事や[やぶちゃん注:「おろかなるいひごとや」。]。獄中にて、念佛が申さるゝ物ならば、誰(たれ)の罪人が、地獄にして劫數をへん。』と申候。」

と、いゝも、はてさせず、和尚、いらつて、のたまわく、

「しづまれ、しづまれ、汝等。口のさかしきに、其事も、我、よく聞けり。それはよな、累、來て、菊が身に直(ぢき)に入替りしゆへにこそ、唱ふる事、かなわざらめ、今は、しからず。累は、すでに、別(べち)に居(ゐ)て、我に向ひ、ものをいふは、菊なり。しかれば、累が名代[やぶちゃん注:「みやうだい」。]に、菊に、となへさするぞ。」

と、のたまへば、みな、

「尤。」

と、うけにけり。

 さて菊に向ひ、

「かく。」

と、のたまへば、菊がいわく、

「何と仰られても、念佛となへんとすれば、息ぐるしくて。」

と、いふとき、和尚、

「さては。累が㚑魂にあらず。狐狸(きつねたぬき)のしわざなり。そのゆへは、実(まこと)の累が㚑ならば、菊が唱ふる念佛にて、己(をの)れが成佛せん事のうれしさに、すゝめても、となへさすべきが、おさゆるは、くせものなり。所詮は、菊か[やぶちゃん注:ママ。「が」。]からだのあるゆへに、ゑ知れぬものゝ寄そひて、村中にも難義をかけ、我々にも、恥辱をあたゑんとするぞ。よし。此者を、我に、くれよ。たち所に責めころし、我も爰にて、いかにもなり、萬人の苦勞を、やめん。」

と、のたまひて、かしらかみを、引のばし、弓手(ゆんで)に、

「くるくる」

打まとひ、首(かうべ)を、取(とつ)て、引あげたまふ時、菊は、わなゝく声を出し、

「あゝ、となゑん、となゑん。」

と、いふ時、和尚のいわく、

「さては、累が『しかと、となへよ。』といふか。」

と聞給ヘば、菊、荅て

「中中、さ申。」

といふ故に、

「尒者。」[やぶちゃん注:「しからば」。]

とて、かみ、ふりほどき、手をゆるし、合掌叉手[やぶちゃん注:「さしゆ」。]して、十念を授け給へば、一一に[やぶちゃん注:「いちいちに」。]、受おわんぬ[やぶちゃん注:「うけ畢(をは)んぬ」。]。

「扨(さて)、累は。」

と問たまへば、菊がいわく、

「只今、我が胸より、おりて、右の手を取(とり)、わきに、侍る。」

と、又、十念を授けて、問給へば、

「今、爰(こゝ)を去(さつ)て、窓かうしに、手を、うちかけ、うしろ向ひて、たてる。」

と、いふ。

 また、十念をさづけて、問たまへば、その時、菊、起きなをり、四方上下を見めぐらし、よにも、うれしげなるかほばせにて、

「累は、もはや、見え申さぬ。」

と、いへば、其時、座中の者共、皆、一同に声をあげ、

「近比、御手がら。」

と云(いふ)時、又、菊、いとわびしき音根(こわね)を出し、

「それ、よく、それさまの、うしろへ、累が、また、來(きた)る物を。」

といふ時、和尚、はやくも、心得たまひ、守り本尊を取出し、扉を開き、菊に指向けて、「累がつらは、かやう成しか。」

と問たまへば、菊がいわく、

「いなとよ、かほをば、見ざりしか。」

と、いふて、のびあがり、あなたこなたを、見廻し、

「わかれ、いづちへか、行きけん、たちまち、見へず。」

といふ時、和尚、又、菊に十念を授けたまひ、近所より叩(たゝき)かねを取よせ、念佛しばらく修(つと)め、𢌞向して歸らんとしたまひしが、名主・年寄、兩人に向て、宣ふは、

「此㚑魂のさりやう、いさきか心得がたき所、有。併(しかしながら)、実(まこと)に累が㚑魂ならば、もはや、二度(ふたゝび)、來(きた)るまじ。若、又、狐狸のわざならば、また、來る事も、有べきか。そのやうだいを、見たく思ふに、こよひ一夜(や)、番を、すへて、替(かわ)る事も有ならば、早々、我に、知らせて、たべ。」

と有ければ、名主・年寄、畏(かしこまつ)て、

「我々、兩人、直(ぢき)に罷有らん[やぶちゃん注:「まかりあらん」。]。御心易く思召(おぼしめせ)。」

と、かたく、領定(りやうぢやう)仕れば、悅びいさんで、和尚を始め、以上八人の人々、皆々、寺へぞ、歸られける。

 是時、いかなる日ぞや。寬文十二年三月十日の夜、亥(い)の刻ばかりに、累が廿六年の怨執(おんじう)、悉(ことどと)く、散じ、生死得脫(しやうしとくだつ)の本懷を達せし事、併(しかしながら)、是、本願橫帋(わうし)、をさをさの利益、只、恐は[やぶちゃん注:「おそらくは」であろう。]、決定信心(けつぢやうしんじん)の、導師の手に、あらんのみ。

[やぶちゃん注:「寬文十二年三月十日の夜、亥の刻」グレゴリオ暦一六七二年四月七日の午後七時頃から九時頃。]

2023/01/26

恒藤恭「旧友芥川龍之介」(全)原本準拠正規表現+藪野直史オリジナル電子化注一括版公開

新字体と旧字体(正字体)の混淆で、甚だ校正に手間取ったが、やっと公開に漕ぎつけることが出来た。

恒藤恭「旧友芥川龍之介」(全)原本準拠正規表現+藪野直史オリジナル電子化注(一括縦書PDF版・4.8MB弱・全198ページ)

校正中に発見した誤字は、ブログ版も、総て修正し、注も再検証した。どうぞ、御笑覧あれかし。

2023/01/25

死靈解脫物語聞書下(1) 累が㚑亦來る事附名主後悔之事

 

[やぶちゃん注:本書の解説や底本等は、冒頭の「累が最後之事」を参照されたい。標題の「附」は「つけたり」と読む。]

 

死靈解脫物語聞書下

  累が㚑(れう)亦來る事名主後悔之事

 去(さんぬ)る二月廿八日、斎(とき)の座席にて、累が㚑魂、忽(たちまち)、はなれ、菊、本復(ほんふく)する故に、

「聖霊、得脱、疑ひなし。」

と、人々、安堵の思ひをなし、みなみな、信心、観喜する所に、亦、明(あく)る三月十日の早朝より、累が㚑、來(きたり)て、菊を責(せむ)る事、例のごとし。

 時に、父も、夫も、あわてふためき、早々、名主・年寄に、

「かく。」

と告(つぐ)れば、兩人、おどろき、則(すなはち)、來(きたり)て、菊に向ひ、

「累は、何(いづ)くに在るぞ。亦、何として、來(きた)る。」

と、いへば、菊がいわく、

「『約束の石仏をも、いまだ、立てず、其上、我に成佛をも、遂(とげ)させず、大勢、打寄(うちより)、僞りを構へて、亡者をたぶらかす。』と、いふて、我を、せめ申。」

と、いへば、名主、聞も[やぶちゃん注:「ききも」。]あへず、

「是は。思ひもよらぬ事哉(かな)。累、能(よく)聞け。其石佛は、明後(めうご)、十二日には、かならず、出來(しゆつらい)する故に、我々、昨日(さくじつ)、弘經寺(ぐきやうじ)方丈樣(はうじやうさま)へ罷出(まかりいで)、石塔開眼(せきとうかいげん)の事、兩役者を以て、申上る所に、方丈の仰せには、『其石佛の因緣、具(つぶさ)に聞傳(ききつた)へたり。出來(でき)次第に、持來(もちきた)れ。かならず、我、開眼せん。』と、直(じき)に仰せを蒙りし上は、縱(たち)ひ、汝が心は變化(へんくわ)して、石塔、望(のぞみ)は、止むとても、方丈の御意(ぎよい)、重(おも)ければ、是非、明後日(めうごにち)は立(たて)る也。かほど、決定(けつでう)したる事共を、汝、知らぬ事、あらじ。よしよし、是は、菊がからだの有故に、ゑ[やぶちゃん注:ママ。不可能の呼応の副詞「え」。]知れぬ者の寄添(よりそふ)て、いろいろの難題を懸け、所の者に迷惑させんためなるべし。此上は、慈悲も善事も、詮(せん)なし。只、其儘に捨置(すてお)き、かたく、此事、取持(とりもつ)べからず。」

と、名主・年寄、大きに立腹して、各(みな)各、家に歸れば、与右衞門も、金五郞も、苦しむ菊をたゞひとり、其儘、家に捨置き、㙒山(のやま)のかせぎに出(いで)たるは、せんかたつきたる、しわざなり。

[やぶちゃん注:「去(さんぬ)る二月廿八日、斎(とき)の座席にて……」「死靈解脫物語聞書上(6) 羽生村の者とも親兄弟の後生をたつぬる事」の最後のシークエンスを指す。

「明る三月十日」前話の頭の時制は、寛文十二年二月二十七日(グレゴリオ暦一六七二年三月二十六日)であったが、最後の念仏供養のシーンは徹夜で行われ、翌朝二月二十八日がコーダとなっている。同年二月は小の月であるから、その次の日の二月二十九日で二月は終わっていることから、その「二月」が「明」けて「三月」となっての意である。則ち、二月二十七日、或いは、遅くとも二十八日未明に菊に憑依していた累の霊は、落ちていたのである。それから、纔か十一日か十二日後の、この寛文十二年三月十日(グレゴリオ暦一六七二年四月七日)に再び憑依したのである。]

 かゝりける所に、弘經寺の若黨に、權兵衞(ごんびやうへ)といふ男、山𢌞(まはり)の次(つい)でに、名主が舘(たち)に行(ゆき)けるが、三郞左衞門、常よりも、顏色、靑ざめて、物(もの)あんじ姿(すがた)なり。

 權兵衞、其故を問(とひ)ければ、名主がいわく、

「さればこそ。權兵衞殿、かゝる難儀成(なる)事、また、今朝(けさ)より出(いで)きたれ。其故は、昨日(きのふ)、貴方(きほう)も聞(きゝ)給ふごとく、累が石佛、十二日には出來(しゅつらい)する故に、御開眼の訴訟(そしやう)、首尾能(よく)かなふ所に、彼(かの)累、今朝(こんてう)より來(き)て、また、菊を責(せむ)る故、其子細を尋ぬれば、『石佛をも、たてず、我が本意をも、叶へず。』とて、ひたすら、菊を責(せめ)候也。『此上は、是非なき事。』とて、すて置歸り候へとも、つくつく[やぶちゃん注:ママ。]、此事を案じ候に、まづ、さし当(あたり)、明後日、石佛、出來仕(つかまつ)り、方丈樣へ持參の上にて、何(なに)とか、申上べき。すでに此間(あいた[やぶちゃん注:ママ。])、『地下中(ちけちう)、打寄(うちより)、一夜別時(やべつじ)の念仏にて、聖㚑(せいれう)、得脫(とくだつ)仕る。』と、昨(さく)日、申上たる所に、『また、來り候。』とは、ことの始終をも見さだめず、あまりそさうなる申事[やぶちゃん注:「まをしごと」。]と、思召(おほしめし)もいかゞなり。そのうへ、此㚑付(れうつき)しより、このかた、村中の者共、親兄弟の𢙣事をかたられ、隣鄕(りんごう)・他鄕(たごう)の聞所(きくところ)、證拠たゞしき『はぢ』を、さらす。しかれども、今までは、死(しに)さりたるものゝ𢙣事なれば、子孫の面[やぶちゃん注:「つら」。]をよごす分[やぶちゃん注:「ぶん」。]にして、当時、させる難義、なし。此うへに、また、いかなる𢙣事をか、いゝ出し、生たるものゝ身の上、地頭・代官へも、もれ聞(きこ)え、一〻[やぶちゃん注:「いちいち」。]、詮義に及ぶならば、村中、滅亡のもとひならんも、いさしらず、せんなき事に懸り合(あい)、村中へも、苦勞をかけ、我等も、難義を仕まつる。」

と、くどきたてゝぞ、後悔(こうかい)す。

 權兵衞、つぶさに此事を聞居(きゝゐ)けるが、名主が後悔、遠慮の段、一々、道理至極して、あいさつも出がたきほどなりしが、やうやうに、もてなし、名主が所を立出(たちいて[やぶちゃん注:ママ。])て、すぐに菊が家に行き、そのありさまを見てあれば、たゞ一人、あをさまにたをれ居て、苦痛する事、例のごとし。

 權兵衞も、餘り、ふびんに思ひければ、庭に立(たち)ながら、名主が今のものがたり、石佛出來(てき[やぶちゃん注:ママ。])あらましまで、證拠たゝしく[やぶちゃん注:ママ。]云聞(いゝきか)すれども、

「いつわるものを。」

と、時々、返荅(へんたう)して、苦痛は、さらに止(やま)ざれば、權兵衞も、あきれつゝ、打捨(うちす)て、寺にそ[やぶちゃん注:ママ。]歸りける。

 

2023/01/24

死靈解脫物語聞書上(6) 羽生村の者とも親兄弟の後生をたつぬる事 / 死靈解脫物語聞書上~了

 

[やぶちゃん注:本書の解説や底本等は、冒頭の「累が最後之事」を参照されたい。]

 

 羽生村の者とも親兄弟の後生(ごしやう)をたつぬる事

 去(さる)ほどに、二月廿七日、ひがんの入にあたりたる辰の上刻より、村中の男女とも、与右衞門が家に充滿し、四方のかこひを、引はらひ、見物、すもうの場(ば)のごとく、前後左右に打こぞり、

「亡魂の生所(しやうじよ)をたづねん。」

と、一々、次㐧の問荅は、前代未聞の珍事なり。

[やぶちゃん注:「二月廿七日」前話の翌日。寛文十二年二月二十七日はグレゴリオ暦一六七二年三月二十六日。

「ひがんの入」この二月二十七日はユリウス暦では三月十六日でグレゴリオ暦と十一日のずれがある。春の彼岸は陰暦でも新暦でも春分に当たる日(新暦では三月二十日或いは二十一日頃)を挟んだ前後三日間をあわせた七日間を言うから、ユリウス暦を当てると、概ね「彼岸の入り」として不審ではない。

「辰の上刻」午前七時頃。同年同日の日の出はl、いつもお世話になる鈴木充広氏のサイト「曆のページ」で計算すると、午前五時五十五分であるから、太陽がはっきりと現認出来る(その日=春分当日になった)という時刻として問題ない。]

 其時、名主三郞左衞門、すゝみ出て、泡、ふき居たる菊にむかひ、

「かさね、かさね、」

と、よばわれば、菊が苦痛、たちまち、しづまり、起きなをり、ひざまついてぞ、居たりける。

 さて、名主のいふやうは、

「今日、村中あつまる事、別義にあらず。昨晚、やくそくの通り、今夕一夜(や)、別事(べちし)の念佛を興行し、すみやかに、汝を、うかべん。しかるに、廿六年このかた、當村の男女共、冥途に趣く、あまた、あり。だんだんに、尋ぬべし。くわしく語りて、聞せよ。」

と、いへば、㚑魂、荅(こたへ)て、いわく、

「地獄道も、数、多く、其外(そのほか)、四生(しやう)の九界(かい)、無邊なれば、趣く衆生も、むりやうなり。何そ[やぶちゃん注:ママ。]、是を、ことごとく、存じ申さんや。しかれとも、同國同所のよしみなるか[やぶちゃん注:ママ。]当村の人々、あらましは覺へたり。なを、其中に知らぬもあらんか。」

と、いえば、名主がいわく、

「本より知らぬ人は、其分、知りたるばかり、荅へよ。まづ、それがしが、しうと夫婦の人は、いかに。」

と、たづぬれば、累、こたへて、いわく、

「かまへて腹(はら)ば、たゝせたまふな。御兩人ながら。かやうかやうの科(とが)にて、そこそこの地獄に、おわす。」

と云。

[やぶちゃん注:「四生」(ししやう)は有情(うじょう)の四種の動物の生まれ方を指す。卵生(らんしょう:卵から生まれる。概ねの魚類・両生類・鳥類・爬虫類など)・胎生・湿生(湿気から生まれるもので、蚊などの多くの昆虫類はこれに属した)・化生(けしょう:卵や母胎から生ずるといった視覚的理解は不能な、天上界や地獄の有情のように、論理的物理的な解説可能な経過を経ず、突如として誕生することを指す。一部の、現行では普通に卵生とされている虫やその他の動物でも、本草学では、理解不能なまがまがしいものとしてこれに分類されているケースも多い)。

「九界」(くかい)は、この世の厳密な意味での「迷い」の境界を九つに区分したもので、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上は無論、声聞(しょうもん:修行僧)・縁覚(えんがく:仏の教えによらず、自ら独りで覚ったとし、他に教えを説こうとしない孤高の聖者)・菩薩(真の修行の最終段階にある存在)の九つ。総ては仏果を得るまでの階梯状態を指す。これに、完全な真の悟達の境界である「仏界」を加えて「十界」という。]

 次に、年寄、問へば、此兩親も、

「そのとが、このとが、ゆへ、かなた、こなたの、地獄。」

と荅ふ。

 次にとへば、

「是も、地獄。」

又とへば、

「それも、地獄。」

と、かくのごとく、大方、

「地獄々々。」

と荅る中に、ある若き男、腹を立て、

「おのれ、僞りを、たくみ出し、人々の親を、『みな、地獄の罪人。』といふて、子共のつらを、よごす事、きくわい[やぶちゃん注:「奇怪」。]なり。よしみなくは、ともかくもあれ、我が親におゐては、かくれなき善人なり。かならず墮獄が定(でう)ならば、其科(とが)を出すべへし。證拠もなきそらごとをいわば、おのれ、聖㚑、口、ひつさくぞ。」

と、いかりける。

[やぶちゃん注:「よしみなは」「誼み無くは」。生前、親しく触れ合って知ることがない連中ならば。]

 累がこたへていわく、

「まづまづ、しづまりたまへ。さるほどに、今朝(けさ)より、『腹ばし、立な。』と理(ことわ)りおく。されば、汝が親にかぎらず、地獄へおつるほどの者、罪の証拠。しからぬは、なきぞ、とよ。取分て、最前より、我こたふる所の罪人達のつみ・とが、みな、ことごとく、明白に、此座中にも知る人有て、互に、『それぞ。』と、うちうなづく。本より、汝が父にも正しき罪の証拠あり。その人、この人、よく、是を、しれり。」

とて、とがの品々、云あらはす時、

「さては。さに、うそ。」

とて、引退(しりぞ)くも、あり。

[やぶちゃん注:「さに、うそ」「然に、噓。」。「それはッツ! 真っ赤な嘘だ!」。]

 惣じて、この日、累が荅(こたふ)る墮獄の者、罪障のしなしな[やぶちゃん注:「品々」。]、其座に有し人を證人(せうにん)にとりて、地獄の住所、受苦の數々、あきらかに是を語るといへども、終日(すいじつ)のもんどうなれば、具(つぶさ)に覚へたる人、なし。

 此外、少々、かたり傳うる事ありしかども、たゞ、その中に、極善・極𢙣の二人を出して、余(よ)はことごとく、是を畧(りやく)す。

 さて、ある若き者、出て問ひける時、累、

「ひし」

と、いき、つまり、

「汝が親は、知らず。」

と、いへば、かのもの、いと腹だちて云やう、

「口おしき事かな。これほど、村中の人々、みなみな、親の生所をとへば、其責(せめ)の有さままで、今見るやうに荅ふる所に、我か父一人を、しらぬ事やは、あるべき。いんきよ閑居の身となりて、久しく地下[やぶちゃん注:「ぢげ」。自分の住んでいる集落の内の民。]へも、まじわらず、人かずならで、おわりしを、あなどり、かくいふと、覚へたり。村中一同のせんさくに、贔屓偏頗(ひいきへんば)は、させぬぞよ。是非。我が親の地獄をば、聞ぬかぎりは、ゆるさぬぞ。」

と、まなこに、かどをたて、ひぢをはりてぞ、いかりける。

 かさね、聞て、

「おかしきものゝいひやうかな。人は、みな、さだまつて、地獄へばかり、ゆくものに、あらず。いろいろの、ゆき所あり。汝が父は、よそへこそ、ゆきつらめ。地獄の中には居らぬ。」

と云に、かの男、いまだ、腹をすへかねて、

「たとへ、いづくにてもあれかし、かほど多き人々の親の生所をしる中に、それがし一人、聞ずして、あるべきか。是非、是非、かたれ。」

と、つめかけたり。

 其時、かさね、しばし、案じて云やう、

「汝が父は、大かた極乐に在るべし。其ゆへは、其方が親の死(しに)たる年月と、其日限(にちげん)をかんがふるに、今日、極乐まいりあるといふて、地獄中にみちみちたる当村の罪人ども、晝夜、六度の呵責を、一日一夜、ゆるされたりといふに付き、後に、そのものゝ事を尋ぬれば、『念佛杢之介』と聞へて、昼夜、わらなわを、よりながら、念仏を拍子として、年たけ、隱居の身となりては、朝ごとの送り膳を、中半(なかば)、さき分(わ)け、茶碗に入れおき、たくはつの沙門に、ほどこすを、久しき行とし、念佛さうぞくにて、おはりたりとぞ、聞へける。」

[やぶちゃん注:「送り膳」これは思うに、曹洞宗等で言う「御靈供膳」(おりくぜん)が訛ったものであろう。愛知県などでは、古くは仏壇の阿弥陀用と先祖用の二膳の精進料理を用意した。

「念佛さうぞく」「念佛裝束」。「南無阿彌陀佛」を染め抜いた白衣か。]

 さてまた、年寄庄右衞門、問て、いわく、

「汝、今朝より、このかた、荅る所の罪人とも、𢙣の輕重、地獄の在所、そのせめの品々まで、かく、あきらかにしる事は、ことごとく、其所へ行き、其人のありさまを、直(じき)に見て、いへるか。」

と聞きければ、かさね、こたへて、いわく、

「いなとよ。さには、あらず。我が住家(すみか)は地ごくの入口、『とうかつ』といふ所に在し故、墮獄(だごく)の罪人を、ことぐごとく、見聞するなり。そのゆへは、まづ、初めて地獄へおつるものをば、火の車に乘(のせ)て、おつる獄の名を、かきしるしたる旗をさゝせ、牛頭(ごづ)・馬頭(めづ)、あたりを拂ひ、高声に、よばわり、つれ行おとを聞ば、あるひは、『此罪人、何(いか)なる国の、なにがしといふもの、かやうかやうの科(とが)により、只今、黑縄地獄(こくしやうぢごく)』、あるひは、『衆合地獄(しゆがうぢごく)』、あるひは、『せうねつぢごく』など、いちいち、ことわり行(ゆく)ゆへに、すべて、八大地獄へ、おち來(く)るもの、みな、我が等活にて、見聞(けんもん)すれども、日々、夜々、引もきらず、とをる事なれば、百分が一つも、覚(おぼゆ)る事、あたはず。しかれども、同じ里(さと)に住(すみ)し、なじみにて有やらん、当村(とうむら)の罪人、大かたは、覚へたり。又、呵責のしなしなは、互に、うさを、かたりあひ、或は、あぼうらせつども、人をさいなむ言葉のはしにて、おのづから、聞しりたり。」[やぶちゃん注:「とうかつ」「等活地獄」。「想地獄」とも呼び、「八熱地獄」の第一の初等の地獄。罪科は殺生。ウィキの「八大地獄」によれば、『この中の罪人たちは』、『互いに敵愾心を持ち、鉄の爪で殺し合うという。また、獄卒や鬼の料理人に身体を切りきざまれ、切り裂かれ、粉砕され、死ぬが、涼風が吹いて、また獄卒の「活きよ、活きよ」の声で等しく元の身体に生き返る、という責め苦が繰り返されるゆえに、等活という』が、『この「死んでもすぐに肉体が再生して何度でも責め苦が繰り返される」現象は、他の八大地獄や小地獄にも共通する』ものである、とある。

「黑縄地獄」(こくじようぢごく)は、同前によれば、『殺生のうえに偸盗』『を重ねた者が、この地獄に堕ちると説かれ』、『等活地獄の下に位置し』、鬼が『罪人を捕らえて』、『熱く焼いた縄で身体に墨縄』(すみなわ)『をうち』、『縄目をつけ、これまた』『熱鉄の斧で』、『縄目の通りに切り裂き、削って』、『恐怖と激痛を与える。また』、『左右に大きく熱した鉄の山があ』り、『山の上に鉄の幢(はたほこ)を立て、鉄の縄をはり、罪人に鉄の山を背負わせて縄の上に登らせ、そのまま渡らせる。すると罪人は縄から落ちて砕け、あるいは鉄の鼎(かなえ)・釜(かま)に突き落とされて煮られる。この苦しみは先の等活地獄の苦しみの』十倍とされる、とある。

「衆合地獄」(しゆがふぢごく)は「堆壓地獄」とも言い、殺生・偸盗に邪淫を加えた亡者が落ちる。同前で、『黒縄地獄の下に位置し、その』十『倍の苦を受ける』。『相対する鉄の山が両方から崩れ落ち、おしつぶされて圧殺されるなどの』『苦を受ける』。先に出た『剣の葉を持つ林の木の上に美人が誘惑して招き、罪人が登ると今度は木の下に美人が現れ、その昇り降りのたびに罪人の体から血が吹き出す。それは誘惑に負けた罪とされる。鉄の巨象に踏まれて押し潰される』とある。

「せうねつぢごく」「焦熱地獄(せうねつぢごく)」。「炎熱地獄」とも呼ぶ。衆合地獄の下方には、「叫喚地獄」と「大叫喚地獄」があり、その下がここで、殺生・偸盗・邪淫・飲酒(おんじゅ)・妄語・邪見(仏教の教えとは相容れない考えを説いたり、実践すること)を重ねた科で堕ちるとする。同前に、『常に極熱の火で何度もあぶられ』、『焼かれ』、『焦がされ、その苦しみがずっと続く。罪人たちは地獄の鬼たちに打たれ続け、赤く熱した鉄板の上で鉄串に突き刺されたり、目・鼻・口・手足などを肉』団子『のように分解され、それぞれを炎で焼かれる。この焦熱地獄の炎に比べると、それまでの地獄の炎も』、『雪のように冷たく感じられるほど』の高熱に満たされており、『豆粒ほどの焦熱地獄の火を地上に持って来ただけでも』、『地上の全てが一瞬で焼き尽くされるという』とある。

「八大地獄」以上の六つの下層に「大焦熱地獄」(罪科は+「犯持戒人」(はんじかいじん:尼僧・童女などへの強姦)と、最大最悪の「阿鼻(あび)地獄」(=「無間(むけん)地獄」。罪科は+父母や阿羅漢(聖者)の殺害(せつがい))がある。

「あぼうらせつ」「阿防羅刹・阿傍羅刹」と書き、歴史的仮名遣は「あばうらせつ」が正しい。地獄の獄卒の一種。頭と足は牛で、手と胴体は人間、力は山を抜くほど強く、三叉(みつまた)の鉄叉(てっさ)で人間を釜の中に投げ込んで責めるとされる。「速疾鬼(そくしつき)」などとも呼ぶ。]

といふ時、又、ある者、問ふて、いわく、

「我が父は十六年以前、何月何日(いくにち)に死せし。」

 と、いきも、きらせず、

「それは、無間(むけん)。」

と、こたへたり。

 問者(とふもの)、せきめんして、

「汝、我が親の、人にすぐれて、あたる罪のあれば、『むけん』とは告(つぐ)るぞ。あまりに、口の聞すぎて、そさうなるいゝ事や。とがの次第を、一々(いちいち)に、語れ。きかん。」

と、のゝしりけり。

[やぶちゃん注:「口の聞すぎて」言いたい放題ぬかしおって。

「そさうなるいゝ事」「そさう」は「粗相」。「(累が)軽率さから言い出した虚言」と非難しているのである。]

 かさね、こたへて、いふやう、

「さればとよ、此事は、汝が親のさんげ・滅罪、むけんの苦をかろめんため、此とが、つぶさに、かたるべし。聞傳ふる人々は、一反(いつへん)の念佛をも、かならず、ゑかうしたまふべし。」

と懇(ねんごろ)に、ことはり、

「さる比(ころ)、此弘經寺に、利山和尙(りざんおしやう)と聞へし能化(のうけ)、御住職の時代に、残雪と申す所化(しよけ)、相馬村(さうまむら)にて、たくはつし、九月下旬の比をひ、安居(あんご)の領(りやう)を背負(せおふ)て、弘經寺さして、歸らるを、汝が親、見すまして、さゝはらより、はしりいで、かの僧物(そうもつ)を、はぎとれば、やうやう、衣一ゑにて、ふるひふるひ、迯(にげ)られしを、たれだれが、見たるぞや。此一つの罪にても、三宝物の、ぬす人なれば、無間の業は、まぬかれず。それのみならず、是成[やぶちゃん注:「これなる」。]名主との[やぶちゃん注:「殿」。]、よき若衆にてありし比、しうとめ御前の、いとおしみ、『あはせを、ぬふて、着せん。』とて、嶋木綿(しまもめん)を手折(ており)にし、さらして、ほしおかれけるを、汝が親、ぬすみとる。是をば、たれたれ、見しかども、もし、告(つげ)たらば、汝が親、火をつけそふなるふぜいゆへ、知らぬよしにて居(ゐ)けるとき、名主どの、腹を立て、『村中を、やさがしせん。』と有ければ、そのおき所なきまゝに、名主のうらの、みぞほりへ、ひそかに、ふみこみおきたるが、其後、日でり、打つゞゐて、水の淺瀨に、かの木綿、五寸ばかり、見へたるを、引あげて見られければ、みな、ぼろぼろと、腐りたり。是は、村中に、かくれ、なし。さて、その外に人の知らぬつみとが、いくらといふ、数、かぎりなし。」

と。

[やぶちゃん注:「利山和尙」不詳。

「能化」ここは、弘経寺の長老。

「所化」修行僧。

「相馬村」羽生の南東の旧茨城県北相馬郡相馬町、現在の茨城県取手市藤代(グーグル・マップ・データ。以下同じ)があるが、ここは以下、「安居」と「九月」という記載から、夏安居(げあんご:仏教の本元であったインドで、天候の悪い雨季の時期の、相応の配慮をしたその期間の修行を指した。本邦では、暑さを考えたものとして行われた夏季の一所に留まった修行を指す。多くの仏教国では陰暦の四月十五日から七月十五日までの九十日を「一夏九旬」「夏安居」と称し、各教団や大寺院で、種々の安居行事(修行)がある。安居の開始は「結夏(けつげ)」と称し、終了は「解夏(げげ)」と呼ぶ)で、その間の托鉢が終わって、本寺へ戻るという意であろうからして、私は、より涼しい場所での托鉢を行ったものと推定し、遙か北の現在の福島県相馬市を比定したい。そこで解夏し、帰ったとすれば、九月の帰還はおかしくないと思うからである。

「安居の領」托鉢で受け取った布施。

「かの僧物」残雪が着ていた衣服。

「三宝物」「さんぽうもの」。「三寶」は仏教で最も尊いものとされる「釈迦」と、「法(ダルマ)」と、「僧伽」(そうぎゃ・さんが:僧衆・修行僧)であるが、その「僧」、ここは、その僧の持ち物を指す。それを奪うことは、最も重い罪となる。]

 又も、いわんとする所に、名主、大声あげて、

「みなみな、たわこと、せんなし。各々(おのおの)も、聞べからず。日も暮るに、念佛、いざや、はじめん。」

とて、法藏寺を請じ、一夜(や)別時(べつじ)を開闢(かいびやく)する時、菊が、苦痛、少し、やみければ、人々、悅び、

「きくよ、かさねは、歸れりや。」

と尋ぬるに、菊がいわく、

「いなとよ、そのまゝ、我がむねに、居たり。」

と荅ふ。

[やぶちゃん注:「一夜別時」念仏行者が特別の時に念仏することを指す。また、これを「尋常」と「臨終」を分け、「尋常」では、特に一日或いは二日、乃至、七日或いは十日・九十日など、日を限って行なう念仏のことをも指す。「別時の称名」「別時の念仏」とも言う。ここは一夜一日のそれを指す。

「開闢」通常は、信仰の場としての山や寺を開くこと、また、その人を指し、「開白」とも書くが、ここは、「別時の念仏」を行うことを、ちょっと大仰に言ったもの。]

 かくのごとく、折折、問ふに、其夜中は、終に、さらず。

 夜(よ)も明(あけ)、ゑかうの時にいたつて、菊が、いふやう、

「かさねは、いづくへか、行(ゆ)きし。見へず。」

と、いゝしが、しばらくありて、

「又、來り、わきに、そふて、居る。」

と、いへば、法藏寺も、名主・年寄も、皆々、あきれて居られたる内に、麁菜(そさい)の齋(とき)を出しけれども、三人目と、目を見合せ、はし取、あくべきやうもなく、世に、ぶきやうなる時、菊、ふと、かうべを、もたげ、

「あれ、あれ、かさねは、出てゆくは。」

と、いゝて、そのま、起(おき)なをり、氣色(きしよく)、快氣(くわいき)してければ、法藏寺も、二人の俗も、こゝろよく、齋を行ひ、悅びいさんで、みなみな、我が屋に歸らるれば、菊が氣色も、弥(いよいよ)、本復(ほんぶく)して、杖にすがり、村中の子共を引つれ、菩提所法藏寺は、申に及ばす[やぶちゃん注:ママ。]、其外、近里(きんり)の寺・道場へ日々に參詣し、いつの間にならひ得たりけん、念佛鉦鼓(しやうご)のほど、ひやうし、あまり、とうとく聞へければ、人々、不審しあへるは、

「誠に淨土の佛・ぼさつ、『尼に、なれ。』との、おゝせにて、其守護にもや、あるらん。」

と、皆々、奇異のおもひをなし、男女老少、あつまり、此菊を先達(せんだつ)にて、ひがん中の念仏、隣鄕(りんごう)・他鄕(たごう)に、ひゞきわたる。

 其外(そのほか)、家々にて修(しゆす)る事は、昼夜昏曉(ちうやこんきやう)の差別なく、思ひ思ひの仏事・作善、心々(こころこころ)の法事・供養、日を追(おつ)て、さかんなれば、諸人(しよにん)、得道(とくだう)の能(よき)因緣とぞ、聞へける。

 

[やぶちゃん注:以上を以って「死霊解脫物語聞書上」は終わっている。]

2023/01/23

死靈解脫物語聞書上(5) 累が靈魂再來して菊に取付事

 

[やぶちゃん注:本書の解説や底本等は、冒頭の「累が最後之事」を参照されたい。]

 

  累が㚑魂再來して菊に取付事

 此比、累が怨㚑、あらはれ、因果の理りを示し、与右衞門が恥辱ならびに村中の騷ぎなりし所に、ほどなく他力本願の称名ゑかうによつて、亡魂、すみやかにさり、人々、安堵の思ひをなすのみぎり、又、明る二月廿六日の早朝より、彼㚑、來(きたつ)て菊に取付、責(せめ)る事、前のごとし。

[やぶちゃん注:「二月廿六日」寛文十二年二月二十六日はグレゴリオ暦一六七二年三月二十五日。供養によって累の霊が菊から離れて、正気に戻ったのは、「正月廿六日の晚」((3)末参照)であった。寛文十二年一月は大の月で三十日あるから、一月二十七日から数えて、丁度、三十日後に累の霊は、再度、菊に憑依したことになる。]

 時に、父も、夫も、大きに騷ぎ、早々、名主・年寄に、

「かく。」

と告れば、兩人、おどろき、すなはち、彼か家に來て、三郞左衞門、問ていわく、

「汝、累が怨㚑(おんれう)なるが、すでに、其方が望(のぞみ)にまかせ、菩提所の住持を請(せう)じ、其外、地下中(ぢげぢう)、打寄、念佛をつとめ、其上、惣村(そうむら)のあわれみを以て、五錢、三錢の志(こゝろざし)をあわせ、一飯の齋(とき)を僧に施し、重苦拔濟(ぢうくばつさい)、頓證菩提(とんじやうのだい)のゑかう、すでに畢(おわり)て、聖㚑(せいれい)、得脫(とくだつ)するゆへに、菊、まさに本複(ほんぶく)せり。今、何の子細有てか、妙林(めうりん)、爰に來らんや。恐らくは累が㚑魂に、あらじ。狐狸(きつねたぬき)の所以(そい)、成るべし。」[やぶちゃん注:「妙林」累の戒名。「(1)」を参照。]

と、あらゝかにいへば、菊か苦痛、たちまち止むで、起直(おきなを)り、いふやう、

「いかに、名主どの、此間[やぶちゃん注:「このあひだ」。]の念佛興行、齋(とき)の善根(ぜんごん)、村中の志、慥に請取、悦ひ入て[やぶちゃん注:「よろこびいりて」。]候。去(さり)ながら、仏果は、いまだ、成さず。その上、一つの望有て[やぶちゃん注:「のぞみありて」]、來る事、かくのごとし。」

といへば、年寄、問ていわく、

「汝、實(まこと)の累ならば、心をしづめて、能(よく)、聞け。夫(それ)、本願の稱名は、一念十念の功德によつて、いかなる三從(じう)五障(しやう)の女人も、すみやかに成仏し、其外、八逆謗法無間墮獄(ぎやくほうぼうむけんだごく)の衆生も、必ず往生すと、智者・學匠達の勸化(くわんけ)にも、たしかに、聞傳へたり。しかるに、先日、一挺(てう)ぎりの念佛は、村中、挙(こぞつ)て、異口同音(いくどうおん)に称名する事、幾千万といふ、その數を知ら。併(しかしまた)、是、汝がために回向す。此上に、何の不足、有あつて、ふたゝび來て、菊を、なやまさん。但し、『一つの願ひ有て來れり』といふ。既に成佛得脱の所におゐて、娑婆の願ひ有べしとも覚ず。能々(よくよく[やぶちゃん注:左の読み。右はなし。次の「理」も同じ。])、此理(ことわ)りを、わきまへて、すみやかに、去れ。」[やぶちゃん注:「一念十念」「念」は浄土教では、善導以後、特に、「仏名を唱えること」の意で、認識に多様な解釈があるが、基本、思念誦を含めて、心を込めておれば、一回の称名念仏でも、十度のそれでも、度数に関係なく、等しく極楽往生できるという浄土宗での教えを指す。

「三從五障」仏教に長く附帯した女性差別認識。女人は、生来、身に持ってしまっている五種の障害「五障」(ごしょう:梵天・帝釈・魔王・転輪聖王(てんりんじょうおう)・仏(ほとけ))の五つの存在にはなれないというもの。それらになるためには「変成男子」(へんじょうなんし)、則ち、男に生まれ変わらねばならないとする。いやさ、極楽往生するにはその転生が必要というトンデモ差別なのである。後代には、その辺りをぼかしてゆくようになる)と、女性が現世で従わねばならないものとされた三つの道「三從」(さんしょう:幼時にあっては父母に従い、結婚後は夫に従い、老いたる時には子に従うこと)によって著しく制限されているのである。

「八逆謗法無間墮獄」「八逆」は本邦の律令制における八種の重罪(謀反(むへん:王(天皇)を弑することを計る)・謀大逆(陵(みささぎ)や皇宮の破壊を計る)・謀叛(むほん:(日本国外の敵国と内通しようとする)・悪逆(祖父母・父母・伯叔父・兄姉・夫の父母などを殺さんとする)・不道(親族の一つ家の者の三人を殺さんとすること等)・大不敬(大社の破壊・毀損や祭具の偸盗等)・不孝(祖父母・父母を訴えたり、罵ったり、その存命中に別籍にしたり、亡き父母の喪に服さない等)・不義(上司・上官・教師などを殺すことや、夫の喪に服さない等)の八罪。天皇・国家・神祇・尊属に対する罪で、重刑に処せられた。唐制に倣って定められたものだが、多少の違いがあり、それが、本邦の仏教禁制に判りがいいので取り入れられたもの。「謗法」は正しい歴史的仮名遣「はうぼう」で「仏法を謗(そし)り、真理を蔑(ないがし)ろにすること」。而して、「八逆謗法」を行ったものは、死後、最大最悪(堕獄時間も最長)の地獄の最下層にある無間(むけん)地獄(=阿鼻(あび)地獄(堕獄事由は一派には、殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見・犯持戒人・父母阿羅漢(聖者殺害が挙げられる)「堕」(お)ちるとされた。

「一挺(てう)ぎり」「一挺切」(現代仮名遣:いっちょうぎり)サイト「日国友の会」のこちらに、『葬式の終わった夜、ろうそくを一本だけにして、それが消えるまで読経』『念仏すること。または、その行事。特に茨城県地方で行なわれる』とあった。本事件のロケーションは現在の茨城県常総市羽生町(グーグル・マップ・データ)であるから、極めて納得出来る。]

と、いへば、累、こたへて、いわく、

「庄右衞門殿、今の教化(けうけ)、近比(ちかころ)、うけたまはり事、甘心(かんしん)せられ候。去ながら、先日、菊にも、ことわるごとく、我、地獄のくるしみを脱(のが)れ、位を、すこし、のぼる事、各々、念佛の德によるゆへなり。しかれども、成仏の、いまだしき事は、よく案じても見たまへよ。目蓮(もくれん)の神足(しんそく)、那律(なりつ)の道眼(だうげん)、其外、六通無碍の聖者(せうじや)達、直(じき)に來り、直に見て、救ひたまふすら、まぬかれがたきは、墮獄の罪人なり。しかる所に、念佛の功德は、能々、甚深微妙(しんしんみめう)なればこそ、各々ごとき三毒具足の凡夫達の𢌞向心によつて、我、既に地獄の責(せめ)を脱れ、少し、位をすゝむ事を得たりき。さて又、望みといふは、別義にあらず。我がために、せきぶつ一體、建立して得させたまへ。」[やぶちゃん注:「目蓮の神足」サイト「通信用語の基礎知識」の「目連」によれば、『釈迦の十大弟子の一人。梵名モッガラーナ。漢字では目犍連子、大目犍連と音写される』。『釈迦の弟子の中で最も神通に優れ、神通第一と言われる。舎利弗の友人であり、バラモンの裕福な家系に生まれたが』、『後に出家』し、『共に教団に入信した舎利弗とともに教団をまとめ、阿羅漢果(あらかんか、悟り)を得た』、『ある日』、『目連は神通力の一つ神足通』(じんそくつう:思いのままに行きたいところに行け、また、姿を変えることが出来たり、環境を変えることも可能な神通力を指す)『により、亡き母を六道中』に『捜し回り、遂に餓鬼道』で『見つけた。ここで苦しむ母の姿を知り』、『釈迦に相談、雨安居(うあんご)が終わる日』(七月十五日)、『十万の衆僧に百味の飲食を供養し、衆僧らも施主目連のために成仏を祈願したところ、目連の母は衆僧の神力により餓鬼道の苦悩から解放されたとされる。これがお盆の起源となった』。『目連は釈迦の護衛をしたと伝えられている。舎利弗と共に釈迦の後継と目されていたが、釈迦よりも先に入滅してしまった』とある。

「那律の道眼」釈迦十大弟子の一人。釈迦が説法していた際に居眠りをし、なんのために出家したのかと叱られて以後、「仏陀の前では決して眠るまい」と誓いをたて、ついに失明してしまったが、そのために天眼(てんげん:対象や事態を見通す能力)を得たとして「天眼第一」と称される。第一回結集(けつじゅう)にあって「増一阿含経」(ぞういちあごんきょう)の集成に貢献している(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「六通無碍」通常、「六通」は「六神通」で、仏・菩薩に備わる六種の超人的な能力(神足通・天眼通・天耳(てんに)通・他心通・宿命(しゅくみょう)通・漏尽(ろじん)通)を指す。ここは聖者である阿羅漢が「融通無礙」(何ものにもこだわることがなく、思考や行動が自由自在であること)であることを言う。

「三毒」人間の持つ根元的な三種の悪徳。自分の好むものをむさぼり求める「貪」欲(とんよく:「と」と濁らないのが普通)、自分の嫌いなものを憎み嫌悪する「瞋」恚(しんい)、物事に的確な判断を下すことが出来ずに迷い惑う愚「痴(癡)」の三つ。]

と、いへば、名主がいわく、

「流轉をいとひ、出離を願ふて、念佛を乞もとむるは、其道理、至極せり。今、石佛の望み、いさゝか、以て心得られず。但し、念佛の功德より、石佛の利益(りやく)、すぐれたるゆへに、かくは願ふか。」

と、たづぬれば、累がいわく。、

「愚かにも、とわせ給ふものかな。縱(たと)ひ百千の起立塔像(きりうとうざう)も、もし、功德の淺深(せんしん)を論ぜば、何そ、一念の称名に及ばんや。しかるに、今、石佛を乞(こい)もとむるには、いろいろの子細、有。先、一つには、村中の人々、昼夜を分たず、我を介抱し、其上、大念佛を興行して、我に与へたまふ報恩のため。二には、往來遠近の道俗、当村に來り、彼の石佛を拜見して、因果の道理を信し、称名懺悔(せうみやうさんげ)せば、是、すなわち、永き結緣利益(けちゑんりやく)と思ふ。三には、かゝる衆善(しゆぜん)の因緣(ゐんゑん)により、廣く念佛の功德を受て、すみやかに成佛得脱せん事を願ふゆへに、再び、爰に來れり。」

と、いへば、

名主、又、問ていわく、

「後(のち)の二義は、さもあらんか、初(はじめ)の一義につゐて、大きに、ふしん、あり。凡そ恩を報ずといふは、親の恩、國主の恩、主の恩、衆生の恩、是、皆、報ずべき重恩なり。しかるに、汝、來て、菊を責(せむ)れば、親の与右衞門、甚(はなはだ)、もつて、めいわくす。さてこそ、菊は大不孝ものよ。是はこれ、汝が与ふる不孝なれば、親の報恩にそむけり。次に國主の恩にそむく事は、一夫(ふ)、耕(たがやさ)ざれば、其国、飢(き)を受け、一婦(ふ)、織(おら)ざれば、其国、寒(かん)を受(うく)る。されば、民(たみ)一人にても、飢寒(きかん)の憂(うれひ)を蒙(かうむ)る事、尤[やぶちゃん注:「もつとも」。]、國主のいたむ所也。しかるに汝、菊をなやますゆへに、村中の男女が紡績(ぼうせき/うみつむぐ)のいとなみを忘れ、稼穡(かしよく)のはたらきを止めて、昼夜(ちうや)、此事に、隙を、ついやす。豈(あに)、是、飢寒のもとひにあらずや。さあらば、国主の恩にそむかん事、必(ひつ)せり。又、衆生の恩にそむく事は、汝、來て、菊を責る故に、我々、既に苦勞す。かくのごとく、他人に苦をかくるを以て、衆生、恩を報ずとせんや。上(か)み、件(くだん)の三恩正にそむけり。汝、若(もし)、主人あらば、不忠ならん事、疑ひなし。さては、何を以てか報恩のしるべとせん。此道理を聞分(きゝわけ)、あらぬ願ひを、ふりすて、只一筋に極乐へ參らんと思ひ、すみやかに、爰を、はなれよ。」

とぞ敎へける。

[やぶちゃん注:「稼穡」「稼」は「植える」、「穡」は「収める」の意で、穀物の植え付けと刈り入れ。広く農事の意。

「三恩正」不詳。「三正」には、「書経」の「甘誓」にある、「天・地・人」の三つの正道の意と、「礼記」の「哀公問」に基づく、「君臣の義・父子の親・夫婦の別」の三つが正しく守られていることを言う語がある。「恩」から考えれば、後者の意か。]

 累、

「につこ」

と、打笑ひて、云樣は、

「誠に、そなたは、他在所(たざいしよ)の人なれども、おさなきより、器用なる仁と聞及び、しうとめ御前の、こい婿(むこ)になり、當村の名主を、もたるゝ甲斐ありて、只今、一々の御敎化、実(まこと)に、以て、聞事(きくこと)なり。去ながら、其道理の趣く所、たゞ当前(たうせん)の少利をとつて、幽遠廣博(ゆうをんくわうばく)なる深妙功德の大報恩を、かつて以て、わきまへたまわず。我が報恩の所存を、よくよく聞せられて、早々(そうそう)、石佛を建て、其上に念佛供養をとげられ、我に、手向(たむけ)たまへ。」

「其故は、若(もし)、此石仏、じやうじゆして、我ねがひのかなふならば、菊は亡母(もうぼ)に孝をたて、其緣にもよほされ、与右衞門が後世をも、たすくならば、これ、眞實の報恩なるべし。扨、當村の人々、此しるしを見るごとに、我事を思ひ出し、一返の念佛をも唱へたまふものならば、みづから、大利を得たまふべし。その上、此石佛のあらんかぎりは、當村の子々孫々、『是ぞ、因果をあらはす證據よ。』と見る時は、与右衞門ごときのあく人も、一念、其心を改め、善心におもむかば、『一念発起菩提心 勝於造立百千塔(せうおざうりうひやくせんとう)』、豈(あに)、是(これ)、天下の重寶(てうほう)ならずや。しからば、国主の大報恩、是に過(すぎ)たる事、あらじ。」

[やぶちゃん注:「勝於造立百千塔」「百千塔(ひやくせんたふ)を造立(ざうりふ)するに勝(まさ)れり」(本文の読みの歴史的仮名遣は誤りが多い)。しかし、これは少し相応しない謂いと言える。「一念発起した菩提心は、百千の供養塔を造立するよりも遙かに勝っている。」の意であるから、一基の石像を立てるのも、同様に、不要のことと言えるからである。]

「さはいへど、かゝる廣大無邊なる佛法の深意(じんい)は、各々(おのおの)ことき[やぶちゃん注:ママ。「ごとき」。]の小智小見にては、聞ても、中々、其理を信ずる事、あたわじ。さあらば、たち歸て、当前の利を、見よ。すでに、此かさね、親のゆづりを得て、持(もち)來る[やぶちゃん注:「きたる」。]田畑(でんばた)七石目(こくめ)あり。此田畑は、村中一番の上田なりし所に、与右衞門、一念のあく心によつて、われを害せし故、先度も云ことく[やぶちゃん注:ママ。]、廿六年以來、不作して、いま、朝夕を送るにまづしく、餘寒(よかん)甚しき春の空に、只一人ある娘の煩ふにすら、くされかたびら一重のていたらく。是、見たまヘ、一念の𢙣心にて、ながく飢寒のうれひをかふむるにあらずや。さて又、菊に不孝の罪をあたふると云事、是、猶、与右衞門が自業自得の報ひなれば、あながち、菊が不孝にあらず。そのうへ、与右衞門が当來のおもき業(ごふ)を、今、此現世(げんぜ)に苦をうけて、少も[やぶちゃん注:「すこしも」。]、つぐなふものならば、轉重輕受(てんぢゆうきやうじゆ)のいわれゆへ、菊は、かへつて親の苦をすくふ孝々[やぶちゃん注:ママ。]の子なるべし。又、各々も、子孫のためを、おぼしめさば、当分の苦勞をかへりみず、はやく、我が願ひにまかせ、石佛をたてゝたび候へ。」[やぶちゃん注:「轉重輕受」「重きを轉じて輕く受く。」。過去世の重い罪業によって、現世だけでなく、未来世に亙って、重い苦しみの報いを受けなくてはならないところを、現世に正法を信じて広めるならば、その実践の功徳の力によって、重罪の報いを一時(いっとき)に軽く受けるだけで、罪業は総て消滅させることが出来るという意。]

と、いゝければ、庄右衞門がいふやうは、

「汝がいふ所の道理、詞は至極に聞ゆれ共、願ふ所は、かなひがたき望也。凡(およそ)、起立塔像の事善(じぜん)を修(しゆ)するには、相應の財產なくては成就せず。与右衞門が家、まづしくして、少分(せうぶん)のたくわへなき事は、汝が知て、今いふ所也。此上は名主殿の下知を以て、最前(さいぜん)のとをり、村中のこらず、五錢、十錢のさしつらぬきを、なさるゝとも、人のこゝろざし、不同(ふどう)にして、あるひは、おしみ、あるひは、腹、たち、或ひは、迷惑に思ふものあらば、是、淸淨(しやうじやう)の善に、あらず。しからば、汝が遠き慮(おもんはかり)も、おそらくは、相違せんか。只、おなじくは、先づ、はやく成佛して、一切滿足の位を得、思ひのまゝに報恩し、心にまかせて、人をも、導(みち)びけ。自證(じせう)も、いまた[やぶちゃん注:ママ。]埒(らち)あかで、いわれざる報恩化他(けた)の願望、せんなし、せんなし。」[やぶちゃん注:「化他」他人を教化すること。]

と、いひければ、怨㚑、こたへて、いわく、

「其事よ。庄右衞門どの。自證とくだつのためにこそ、かゝる化他の願ひもすれ。且、又、貧者のかなわぬ望とは、心得られぬ仰かな。与右衞門こそ、貧者なれ、累は正しく七石目の田畑あり。これを代替(しろかへ)、石佛領(りやう)になしてたべ。」[やぶちゃん注:「領」主要なる代金。]

といふ時、庄右衞門、息をもつがせず、

「さてこそよ、累どの、報恩しやとくは違ひたり。汝、已に地獄をのがれ出て、位を增進する事、ひとへに菊が恩ならずや。しからば、菊を、たすけおき、衣食を与へめぐむならば、報恩ともいゝつべし。その上、田畑・資財は、本より、天地の物にして、定(さだま)れる主[やぶちゃん注:「あるじ」。]、なし。時にしたがつて、かりに名付ける我物なれば、汝が存生(そんじやう)の時は、汝が物、今は、菊が物なり。しかるに、これを沽却(こきやく)して、汝が用所につかはん事、是に過(すぎ)たる橫道(わうだう)、なし。かたはらいたき望み事や。」[やぶちゃん注:「報恩しやとく」「報恩謝德」。受けた恵みや恩に対して報いようと、感謝の気持ちを持つこと。「沽却」売り払うこと。]

と、あざわらつてぞ、敎化しける。

 其時、怨㚑、氣色(きしよく)かわつて、

「あゝ、六ケ敷[やぶちゃん注:「むつかしき」。]の理屈爭ひや。なにともいへ、我願(わがねがひ)のかなわぬ内は、こらへは、せぬぞ。」

と云聲の下よりも、泡、ふき出し、目を見はり、手あしを、もがき、五たいを、せめ、悶絕顛倒(もんぜつてんどう)の有さまは、すさまじかりける次第なり。

 時に、名主、見るに忍びず、

「しばらく、しばらく、苦痛を、やめよ。汝が望にまかせ、石佛をたてゝ与(あ)たふべし。此間、三海道(みつかいだう)に石佛の如意輪像、二尺あまりと見えたるが、其領(りやう)をたづねるに、『金子貳分』とかや、荅へたり。かほどなるにても、堪忍するや。」[やぶちゃん注:現在の茨城県常総市水海道地区。旧羽生村の南直近の鬼怒川対岸(左岸)で一番近い水海道森下町は一キロも離れていない。]

と問ひければ、累、こたへて、いふよう、

「大小に望みなし。只、はやく立て得させたまへ。」

と云時、常使(じやうつかひ)を呼寄せ、直に累が見る[やぶちゃん注:「みえる」か。]所にて、件(くだん)の石塔をあつらへ畢(おはり)て、

「さては、汝が望み足ぬ。すみやかに、され。」

と、いへば、㚑魂がいわく、

「石佛は、外の望み。我が本意(ほんい)は、『念佛の功德をうけて成佛せん』と思ふなり。急ぎ、念佛を興行し、我を極乐へ送りたまへ。さなくは、いづくへも、行所、なし。」

と、いゝおわつて、本(もと)のごとく、せめければ、名主、年寄、惣談して、

「此上は、村中へふれ𢌞し、一夜(や)、念佛、興行して、大勢の男女、異口同音に、眞實(しんじつ)にゑかうして、累が菩提を、とむらはん。」

といふ時、一同に云けるは、

「名主・年寄へ申す。今夜、村中、打寄、一夜の大念佛を興行し、累に手向たまはゞ、かれが成佛、疑ひなし。しかるに、彼者(かのもの)、廿六年、流轉して、冥途の事をよく知(しり)つらんなれば、我々が親兄弟の、死果生所(しやうしよ)をも尋ね、聞度(きゝたく)、侍る。」[やぶちゃん注:以上の台詞の話者が示されていない。「年寄」ととっておく。]

と、あれば、名主、聞て、

「よくこそ、いゝたれ。此事、我等も聞度候へば、今日は、もはや、日も暮ぬ。明日早々、寄合ん。」

と、各々、約諾(やくだく)、相究(きはめ)、みな、我が屋にぞ歸りける。

[やぶちゃん注:「常使」名主や年寄が公私の連絡に雇っている者であろう。]

2023/01/22

死靈解脫物語聞書上(4) 菊本服して冥途物語の事

 

[やぶちゃん注:本書の解説や底本等は、冒頭の「累が最後之事」を参照されたい。二行割注。]

 

     菊本服(ほんぶく)して冥途物語(めいどものかたり)の事

 

Kikujigokumeguri

 

[やぶちゃん注:本シークエンスの挿絵左右見開きで続きのワンカット二枚。上方に地獄の想起が吹き出しで描かれてある。底本には挿絵はなく、これは所持する国書刊行会『江戸文庫』版に挿入された東京大学総合図書館蔵本のそれをトリミング補正した。枠外は清拭したが、絵の内部は、一切、手をつけていない(因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である)。キャプションがある。右の図は、右上方の鬼女めいた累の図の右に、

「かさねが

  おんりやう」

左手の菊の脇に、

「 きく

 ごぢごく ごくらくの

 ものかたり」

左の図の右下方に。

「村の人よりあひ

  ねんぶつを

   くうぎやう」

とある。「くうきやう」は「供養」。左の上中央には、本文には出ないが、私の大好きな「浄玻璃の鏡」が描かれてある。]

 

「今度[やぶちゃん注:「このたび」。]、ふしぎ成事ありて、与右衞門が娘の菊、累と云ものゝ亡魂にさそはれ、地獄・極乐(ごくらく)、見し。」

など云(いふ)に、

「いざ、行(ゆ)ひて、聞べし。」

と、村中の男女、あつまり、いろいろの物語する中に、先(まづ)、ある人、問(とい)ていわく、

「菊よ、此比、累にさそわれて、何国(いづく)にか、行きし。又、其累といふものゝ姿は、いかやうにか、有し。」

と、いへば、菊、荅ていわく、

「されば、累と云女は、まづ、いろ黑く、かた目、くされ、鼻は、ひしげ、口ののはゞ、大きに、すべて、顏の内には、もがさのあと、所せきまで、ひきつり、手もかゞまり、あしも、かたみぢかにして、世にたぐひなく、恐ろしき老婆成しが、折々、夢現(ゆめうつゝ)に來り、我を、さそひ行んとせしか共、あまり恐ろしくて、いろいろ、わびことし居(ゐ)たる所に、有時、又、來(きたつ)て、是非をいわせず、終(つゐ)に我身をひじさげ[やぶちゃん注:「肘」に「提げ」。]はしり行(ゆき)しが、刀(かたな)の葉の木かやのしげりたる、山のふもとに我を捨ておき、其身は、いづ地ともなく、消へうせぬ。」[やぶちゃん注:「木かや」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera 。葉は長さは二~三センチメートル、幅は二~三ミリメートルで、線形を成し、断面は扁平で表面が膨らみ、先端は鋭く尖っていて、触れると痛い。葉の表面は黒緑色から濃緑色で、光沢があり、革質で硬く、枝に羽状に互生する。]

と、いへば、又、有人、聞ていわく、

「それは、正(まさ)しく『劔山(けんざん)ぢごく』とやらんにてあるべし。いかなる人や登りつらん。」[やぶちゃん注:「劔山ぢごく」地獄思想で「剣葉林」「剣樹林」「刀葉林」「刀葉樹」と呼ばれる、私の最も好きな地獄のヴァリエーションの一つ。色々な様態表現があるが、一般的には、殺生・偸盗に邪淫の罪を加えた亡者は落ちる「衆合(しゅごう・しゅうごう)地獄」のそれがオーソドックスで、例えば、ウィキの「八代地獄」の「衆合地獄」の記載を、一部、借用すると、『相対する鉄の山が両方から崩れ落ち、おしつぶされて圧殺されるなどの追い込まれた苦を受ける』(次段の「谷尾」がそれ)。『剣の葉を持つ林の木の』頂きに『美人が』立って、『誘惑して招き』、覚えず淫を発して無我夢中で『罪人が登ると』、ずたずたに全身を傷つけられ、ふと見れば、『今度は木の下に』かの『美人が現れ、その昇り降りのたびに罪人の体から血が吹き出す』という、シジフォス的円環苦患(くげん)を受けるものである。]

と、いへば、菊、こたへて、いわく、

「さればとよ。おとこ、女は、いかほどゝいふ數かぎりなき其中に、たまたま、法師なども、うち交じりて見ゆめるが、ある女のうつくしく、やさしげなるかほつきし、色よき小袖をうちはをり、少し、谷尾(たにお)をへだてたる向ひのかたの山ぎわにて、うちわ、さしかざし、ゑもしれぬ事をいふて招く時、老たる若きおのこども、あるひは、法師まじりに、心も、うかうかしく、そらになりて、我さきにはしり行き、彼(かの)の女に近付(ちかづか)んとあらそひ行に、林の切かぶ、さながら、劔にて、足を、つんざき、あるひは、ゆん手(で)、め手の、木(き)かやの葉にさわれば、はだへを、やぶり、しゝむらを、けづる。また、空よりは、風のそよふくに、劔の木の葉は、たえず落ちかゝつて、首(かふべ)を、くだき、なづき[やぶちゃん注:頭。]を、とをすゆへ、五体より血を流す事、いづみのわき出るごとく、道(みち)も木草(きくさ)も、血しほに、そみ、谷の流れもそのまゝ、あかねをひたせるに同じ。かく、からくして、やふやふ、行付くと見れば、あらぬ野山の刀の木の梢にうそぶき、さきのごとく、人をまねき、たぶらかす。かやうに、男は、女にばかされ、おふなは、おのこに、たぶらかされて、たがひに身を刄(やいば)にかけ、かばねに血をそゝくを見れば、かはゆくもあり、又、おかしくも有し。」

と、いへば、又、問ていわく、

「さて、其劔刄(つるぎやいば)は、汝が身には、たゝざるや。其外には、何事か有し。」

と、いへば、菊、こたへていわく、

「さればにや、彼(かの)つるぎ、我身に、かつて、あたらず。しげれる中を、わけて行くに、道の木かやも外になびき、空よりふる刄も、我が身にはかゝらず、すべて、いかなる故やらん、おそろしき事、少(すこし)も、なかりき。さて、其山を過(すぎ)て、じやうじやうたる野原(のばら)を行けば、何に當(あたつ)て、結構なる門がまへの屋(いゑ)あり。番衆(ばんしゆ)とおぼしき人、よき衣裳にて、あまた居(い)られしに、近付き、事のやうをたづねければ、[やぶちゃん注:「じやうじやうたる」「擾擾たる」であろう。但し、歴史的仮名遣は「ぜうぜう」。入り乱れてごたごたするさま。同義の「冗冗」でも「じようじよう」。「何に」「いづくに」か。「何処だかわからないが」。]

「爰は極乐の東門。」

と仰せられし。ゆかしさのまゝ、さしのぞきながめやれば、内より、僧の有が[やぶちゃん注:「あるが」。]、出て[やぶちゃん注:「いでて」。]、我が手を取て、引(ひき)入れ、所所[やぶちゃん注:「ところどころ」。]を、ことわけて、いゝきかせ給ひしが、中々、結講に奇麗なる事、かたらんとするに、言葉をしらず。先[やぶちゃん注:「まづ」。]、地(ぢ)には、白かね・こがねなどの沙(すな)いさごを敷(しき)て、所所には、いろいろに、ひかる玉などにて、垣(かき)を、しわたし、さて、其間々(あいたあいた)に、さまさまのうへ木・草花、うねなみ、よく、うへ、そろへ、花も有、実(このみ)も有、靑葉も有、紅葉(もみぢ)もあり。つぎほに、つぎ穗をかさね、ゑもいわぬ香(にほ)ひ、かうばしき樹(うへき)ども、いくらと云(いふ)數、かぎりなし。

[やぶちゃん注:「うねなみ」「壠並み」。積み重ねるように植え並べてあり。]

 さて、其次には、たからの玉にて堤(つゝみ)を築(づい)たる池の中に、蓮(はす)の花の、色よく、赤く、白く、靑く、黃色に、まんまんと咲(さき)みだれたる花のうへに、はだへも、すきとをりたる人の、遊びたわむれ居(ゐ)られしなど、面白く、うら山しく、我も、もろ共に、あそびたくこそ思ひけめ。

[やぶちゃん注:「築(づい)たる」は「築(つ)きたる」のイ音便の濁音化。]

 さて、其次には、大き成屋(いへ)の門に入てみれば、弘經寺(ぎきやうじ)の佛殿などよりも、中中、すぐれたる構へにて、黃(き)げさ・黃衣[やぶちゃん注:「くわうえ」。僧の僧の上着。]をめされたる御僧達の、いくらともなく並居(なみゐ)たまへるに、どりどりに、名もしらぬ、かざり物共をならべたて、或は佛事・作善(さぜん)などやうの所もあり、あるひは、談義・法會(ほうゑ)のていに見へたる所もあり。あるひは、世にとうとげなる僧達の集り居て、何とも物をいわで、もくもくとして居られし座敷も有。あるひは、かね・太鼓・笛・尺八や、其外、いろいろの鳴(なり)物共、拍子をそろへて、舞ひあそばるゝ座敷も有。此外、いく間も有しかども、爰(こゝ)にて、たとふる物、なきゆへに、つぶさには語られず。

[やぶちゃん注:「弘經寺(ぐきやうじ)」今は「ぐぎょうじ」と読む。現在の茨城県常総市羽生町にある浄土宗寿亀山天樹院弘経寺(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、応永二一(一四一四)年、鎌倉の『名越流北条氏一族の出で、増上寺開山聖聡弟子だった嘆誉良肇(りょうちょう)の開山により、下総国岡田郡飯沼村』(現在の茨城県常総市羽生町の古い村名)『に創建された』。『『良肇により僧侶の教育に力が入れられ、二世の松平氏宗家第四代松平親忠開基の大恩寺開山了暁(りょうぎょう)慶善、弘経寺三世の曜誉酉冏(ゆうげい)、徳川将軍家菩提寺大樹寺開山の勢誉愚底(ぐてい)、知恩院』二十二『世周誉珠琳(しゅりん)、松平氏宗家第三代松平信光開基の信光明寺開山釋誉存冏(そんげい)など』を『輩出』した。『のち、北条氏と争っていた下妻城主多賀谷重経の陣が寺内に置かれ、戦禍により荒廃するが、徳川家康次男結城秀康の開基で、結城弘経寺(茨城県結城市)が再建された』。『家康からも信仰されていた』十『世了学により』、『再興され、江戸期には浄土宗の檀林がおかれた。了学から五重相伝を受けた千姫から本堂の寄進もなされた』、比較的新しいが、浄土宗の名刹であり、上記の地図で判る通り、舞台である旧羽生村の東のごく直近にある。

「作善」仏縁を結ぶためのさまざまな善事を行うこと。造仏・造塔・写経など。]

 さてまた、空より、いろいろの花ふるゆへに、『是は。』と思ひ、見あげたれば、塔とやらん、殿(でん)とやらん、光りかゝやく屋作りの、雲のごとくに、立並(たちなら)ぶ。其間〻[やぶちゃん注:「そのあひだあひだ」。]のきれと[やぶちゃん注:「切戶」。V字形に山稜の切れ込んで低くなっている急な崖。]には、いろどりなせるかけ橋を、かなたこなたへ引はへて、其上をわたる人々の、かずかず、袖をつらねて、行通ふ有樣、あぶなげもなきていたらく、月日よりも、あきらかに、つらなる星のごとくにて、かきりなき空の氣色(けしき)、何(なに)とも何とも、詞(ことば)には、のべられず。かやうに、いつとなく、こゝかしこを、見めぐれとも、夜(よる)昼(ひる)昏(よい)曉(あかつき)の差別(しやべつ)もなく、雨風(あめかぜ)雷電(らいでん)のさたも、せず。惣じて、何に付ても、せわくしき事なく、世にたぐひなき、ゆたか成所にて有しか。」

とぞ、かたりける。

 又、問て、いわく。

「其極乐にては、何をか、てには、しけるぞや。」

と。

 菊、こたへて、いわく、

「樹(うへき)に成[やぶちゃん注:「なりたる」。]たるだんす[やぶちゃん注:「團子」(だんご)に同じ。]のやう成ものを、与へられしまゝ、たべたり。」

と。

 又、問て、いわく、

「その味(あぢはひ)は、いか樣にか、有し。」

と。

 菊、荅へて、いわく、

「爰にて、くらはぬ物なれば、何とも、ことばには語られぬが、今に、其氣味は、口のうちに殘りたり。誠にたくさんに有しものを。いくらも拾ひ來て、たれたれにも、一ツあて成共[やぶちゃん注:「なりとも」。]、とらせんものを。」

と、わきまへもなく、語りけり。

 其中に、さかしきものの有て、いふやうは、

「誠に極乐の叓[やぶちゃん注:「事」の異体字]。]は、阿弥陀如來、因位(いんゐ)[やぶちゃん注:如来になる前の修行の菩薩の身分であった時。]のむかし、大慈大悲の眞實智惠(しんじつちゑ)より、無量淸淨不思議(むりやうしやうじやう)の境(けう)を巧み顯せる御事なれば、いかで、汝が語りも、つくさん。さて、此方[やぶちゃん注:「こなた」。]へは、何として歸りけるぞ。」

と問(とい)ければ、菊、荅へて、いわく、

「去(され)ば、先の一人の御僧、我に仰せらるゝは、

『汝は、いまだ、爰へ來るものにはあらねども、異成故(ことなるゆへ)有て、かりに此所へきたれり。今より、しやばに歸りなば、名を「妙槃(めうはん)」と付(つ)ひて[やぶちゃん注:ママ。]、魚鳥(うをとり)を喰(くら)はで、よく念佛申し、かさねて、こゝに、來よ。此外、あまた面白き所どもを見せなんぞ。かまへて、本の在所に行き、こゝの事、めたと、人にかたるな。』[やぶちゃん注:「めたと」副詞。原義は「ある状態が程度を越えてはなはだしく現われるさま」或いは「ある行為が次々に激しくなされるさま」を表わすが、この場合は呼応の副詞法で「めったに・決して~(してはならぬ)」の意。]

とて、數珠一れんと、錢百文とを、くれられ、門の外へ、おくり出されし時、彼(かの)累、此度(たび)は、引かへ、美しき姿となり、色よき小袖をきて、我に向ひ、かすかす[やぶちゃん注:「數々」。]に禮をのべて云やう、

『わらわが、かほどの位(くらゐ)に成事、ひとへに、汝が「とく」によれり。今は汝を本の在所へ歸すなり。是よりさきは、地獄海道にして、世に恐ろしき道すがらぞ。かまへて、わきひら[やぶちゃん注:「側邊(わきひら)」。道の脇。]を見るな。物をいふ事、なかれ。そこを過(すぐ)れば、白き道、有。それまでは、我、おくるぞ。』

とて、あたりを見れば、類(たぐ)ひなく、けつこう成[やぶちゃん注:「なる」。]裝束したる人、六人、有[やぶちゃん注:「ある」。]が、「御經(おきやう)かたひら」を賣りて居られしを、一衣(ゑ)、かいとり、是を、かさねが、我身に打はをり、そのわきに、我を、かいこみ、

『かならず、目を、ふたぎ、息をも、あらくなせそ。』

といふて、足ばやに過る時、わらわが思ふやう、

『いか成事やらん、見てまし物を。』

と、袖の内より垣間見てければ、さてもさても、すさましや。有所には、人を、たはら[やぶちゃん注:「俵」。]に入れ、よく、くびり置き、つらばかりを出させ、はゞ、ひろく、さき、とがり、『もろは』[やぶちゃん注:「兩刃(もろは)」。]のついたる柄(ゑ)のながき刀にて、『づふづふ』と、つらぬけば、血けふり、たつとひとしく、『わつ。』と泣き叫ぶ声、耳の底に通りて、今に、其聲、あるやうに、おぼへたり。」

「又、有所には、人を、あまた、くろがねの臼(うす)に入れて、かみ・ひげも、そらさまに、はへのぼり、牛のつらのごとく成ものどもが、大勢、集まり、くろがねのきね[やぶちゃん注:「杵」。]にて、『ゑい』聲、出して、つきはたけば、多くのからだ、手足五体も、みぢんに成、麦粉(むぎこ)のごとくに成を、くろがねの箕(み)にうつし、何か、一口、ものをいふて、𧣀(ひ)ければ[やぶちゃん注:「角で突く」の意。牛頭の獄卒だから角がある。]、そくじに、本の人となり、泪(なみだ)をながして居るも有。」

「又、有所を見れば、大き成池(いけ)の中に、くろがねの湯の、『くらくら』と、わきかへりたる、兩方の山の岩のはなに、縄を引渡し、人の背中に、すりぬか俵(だはら)ほど成[やぶちゃん注:「なる」。]石をせおわせ、其外、つゞら・椀・櫃(ひつ)・ふくろ・荷桶(におけ)の類ひまで、つむりにさゝえ、肩にかけさせ、彼の縄のうへを、いくらも、いくらも、追(おひ)わたせば、よろめきながら、やうやう、『中ば過るまで渡るか。』とみれば、ぼたり、ぼたりと、池の中に落つるとひとしく、白くされたる[やぶちゃん注:白く漂白された。]かうべ、つがひばなれたる[やぶちゃん注:関節(「つがひ」)が完全に外れてしまった骨々。]白骨ばかり、わきかへり、汀(みぎは)によるを、また、おそろしきもの共が、鉄のぼうを以て、彼ほね共を、かきあつめ、何とかいふて、一うち、二うち、打てば、そのまゝもとの姿となり、なきさけんで居るも有。」。

「その外、いろいろの責(せめ)どもを見侍りしが、思ひいづるも、心うく、語れば、胸もふさがりて、さのみは、ことばに述られず。されども、世にも希有(けう)とき責めの、かずかず多き、其中に、をかしくもあり、又、いとおしくもありしは、ある僧の、左右の足に、かねのくさりを、からげつけ、門ばしらのかさ木に、引はたけて[やぶちゃん注:「裸にして」或いは「旗のようにぶら下げて」の意であろう。]、つなぎ置き、さかさまにぶらめかし、彼わきかへるねつ鉄を、柄(ゑ)のながき口のある『ひしやく』にて、後門(こうもん)[やぶちゃん注:肛門。]よりつぎ込めば、腹の中に煑(にへ)とをりて、へそのまわり、むね・喉(のど)・目・口・鼻・耳、てへん[やぶちゃん注:「天邊」。てっぺん。頭頂。]より、くろがねの湯の、『ふりふり』とわき出る[やぶちゃん注:「いづる」。]時、彼(かの)僧、声をあげて、

『あら、あつや、堪へがたや、「かゝる事の有べし。」と、かねて佛の、ときおかれしを知ながら、つくりし罪の、くやしさよ、くさしさよ、』

と、さけぶ声とひとしく、腐れごも[やぶちゃん注:腐った薦(こも)。]のおつるやうに、ほねぼね、ふしぶし、つぎめ、つぎめ、皆、はなれて、『めそめそ』と、地(ぢ)におちつき、なを、もへあがる有樣、いとふしかりし事、其なり。」[やぶちゃん注:「めそめそ」、小さくなるさま。]

と、泪ぐみてぞ、語りける。

 聞居(きゝゐ)たるものどもも、惧(とも)に淚をながしけり。

「さて、地獄海道を、悉く、行過(ゆきす)ぎ、約束のごとく、白き道に出たる時、かさね、我を脇より、かい出し、

『是より、一人、ゆけ。』

と、いゝて、うせるけるが、いつしか、我は、家に、ふせり居たるに、人々、大勢、集まり、念佛𢌞向したまひて、

『やれ、怨㚑(おんれう)は、さりたるぞ。』

とて、たちさわがれし時成。」

とぞ。

 思ひ出し、思ひ出し、來る日も、來る夜も、寄合(よりあい)て、只、此事のみにて有しか[やぶちゃん注:「が」の誤刻か]、いと珍しき事共也。

 さても。此度(このたび)、菊が地獄極乐の物かたり、かれこれを、問いきわめらるれば、あるいは、淨土の依正二報(ゑしやうにはう)、五妙境界(めうけいうがい)の快乐(けらく)等、あるひは、地獄の噐界有情(きかいうじやう)、三𢙣火坑(あくくわけう)の苦患(くげん)等(とう)、其名をしらず、そのことをわきまへずといへども、あるひは、なれし村里の噐(うつわ)によそへ、あるひは、近き寺院の嚴(かざり)にたぐゑて、しどろもどろに語りしを、傳へ聞ば[やぶちゃん注:「きかば」。]、皆、

「經論の實説に契(かな)ゑり。」

とぞ。

[やぶちゃん注:「依正二報」自分自身の過去の業の報いとして、まさしく得られた有情(うじょう)の身心を「正報」と呼び、有情の生存のよりどころとなる山川草木などの外的な環境を「依報」という。「依報」は多数の有情が共同で造る業(共業(ぐうごう))の結果とされる。詳しくは、参照した「WEB版新纂浄土宗大辞典」の「依報・正報」を参照されたい。

「五妙境界」「きやうがい」の読みが正しい。眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)の五つの感覚器官の対象である色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)の五つの感覚世界が清浄(しょうじょう)、且つ、優れている楽しみを言う。

「噐界有情」自然環境としての世界を指す仏語。仏教では世界は生じ、また、滅するものと考え、その世界を構成するものの内、生命を持つものを「衆生世間」或いは「有情世間」と呼び、さらに、これらの生命を生きとし生ける全衆生が生存する場所である国土・山川・海洋などを包括して「器世間」と呼ぶ。

「三𢙣火坑」正しくは「さんあくくわきやう(さなくかきょう)」。地獄・餓鬼・畜生の三悪趣(三悪道:さんまくしゅ・さんまくどう)を「業火の巨大な坑(あな)」に喩えたもの。]

 誠成かな[やぶちゃん注:「まことなるかな」。]、いんが必然の理(ことは)りを、恐るべし、信(しん)すべし。『佛種(ぶつしゆ)は緣(えん)より生ず。』とあれば、此聞書(ききがき)、あわれ、廃𢙣修善(はいあくしゆぜん)の因緣共[やぶちゃん注:「とも」「。]ならんかし、と。

 沙門受苦の所に至ては、惠心先德(ゑしんせんどく)「往生要集」の意(こゝろ)を、少々、書加(くわ)へて、筆者【某甲残壽。】罪障懺悔(ざいせうさんげ)のため、彼の菊が見し所の僧の呵責に因んて[やぶちゃん注:ママ。]、野僧が身に敢て、破戒無漸・不淨説法・虛受信施(こじゆしんせ)・放逸邪見(はういつじやけん)の当果をのぶるゆへ、恐々[やぶちゃん注:「おそるおそる」。]名を記すものなり。仰(あをぎ)願(ねがはく)は、此ものがたり、一覽の人々、彼(かの)墮獄の僧の業因、いかにとならば、全く、是、他の事にあらず。筆者が『罪科(ざいくわ)成(なり)。』と見取(けんしゆ)したまひて、性具(せうぐ)大悲の方便法施(ほうへんほつせ)、必ず、あいまつものなり。

[やぶちゃん注:「惠心先德」天慶五(九四二)年~寛仁元(一〇一七)年]は平安中期の天台僧。大和出身。俗姓は卜部。比叡山で名僧良源に師事。横川(よかわ)の恵心院に隠棲して修行と著述に専念し、「恵心僧都」「横川僧都」と呼ばれた。

「往生要集」横川恵心院に隠遁していた源信が寛和二(九八五)年に、中国で盛んであった浄土教の観点に従って、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、全三巻からなる。宋でも高く評価された。源信は本書及び念仏結社の指導をするなど、後の浄土教教団形成に大きな影響を与えたため、本邦の「浄土教の祖」とされる。私は人間としての親鸞に強く惹かれ(「教行信証」を始めとする知られた著作は殆んど読んでいる。但し、私は無宗教である)、そこから「往生要集」へ遡って、全文を読んでいる。言っておくと、その「大文第一 厭離穢土」(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人の六道を説く)は頗るつきで面白い(逆に「大文第二 欣求浄土」以下の往生論・念仏論は聊か退屈であった。

「筆者【某甲残壽。】」本書の作者であるが、不詳。噺である。

 作者は、本文にも出るが、「殘壽」なる人物であるが、事績は不詳。(1)の冒頭注で記したが、祐天上人の直弟子(本文末に祐天の口述筆記を担当したと思われる記載がある)に当たる浄土宗の説教僧の一人であると目されている。

「虛受信施」僧が、不当に、或いは、信心の実が伴わない状態で、施し(懇志)を受けることを言う。

「当果」通常、「当果無礙」(とうかむげ)は「来世に極楽往生の果報を得ることに対して全く障りとなるものが無い状態」を指すが、ここは逆に、因果応報の結「果」として「当」然受ける科(とが)を指す。

「性具」天台大師智顗(ちぎ)の教えの中核の一つ。小学館「日本大百科全書」によれば、『われわれはこの世界を実在するものと単純に解したり、逆に実有(じつう)ならざるものと解することもある。その解し方は無数であるが、実はその無数の了解の仕方に応じて、われわれの善悪さまざまのあり方が現出してくる。自らの認識の仕方に従って、いろいろのあり方をとりえて、しかも現に具体的にあるものとして生きているという衆生』『のあり方の構造を、衆生の心のなかにもともと「具(そな)」わっているもの(=心具)と見て取って立言されたのが、性具説である』とある。]

2023/01/21

室賀文武 「それからそれ」 (芥川龍之介知人の回想録・オリジナル注附き)

 

[やぶちゃん注:先にブログで電子化注した恒藤恭の「旧友芥川龍之介」の「芥川龍之介のことなど」の「三十一 室賀老人のこと」及び「三十三 室賀老人の俳句と短歌」「三十五 俳人としての芥川龍之介」で私は、彼が自殺を決意した後、「西方の人」の資料提供を求めて、室賀に逢って、室賀からキリスト教徒になることを強く勧められた事実から、或いは、どこかで自死を回避するためのキー・マンとして、室賀に縋った可能性を述べたが、そこで芥川龍之介と幼少期から自死直前まで親交のあった年長の室賀について注をした際、彼が芥川龍之介の実父新原敏三と同郷であることから、室賀の書いた文章があることを思い出したので、以下で電子化することとした。

 それは、昭和一〇(一九三五)年二月と三月に普及版(新書版)「芥川龍之介全集」の月報第四号と第五号に分載された「それからあれ」という一文である。初出原資料に当ることは出来ないので、新字新仮名の憾みはあるが、二〇一七年岩波文庫刊の石割透編「芥川追想」に載るそれを底本とする。読みは特に編者の追加注記がないことから、そのままに再現した(ちょっと五月蠅いぐらいある)。

 以下、室賀の事績について、既注のものを少し加工して、以下に掲げる。

 室賀文武(むろがふみたけ 明治元或いは二(一八六九)年~昭和二四(一九四九)年二月十三日:老衰で逝去)は、芥川龍之介の幼少期からの年上(二十三歳以上)の知人で、後に俳人として号を春城と称した。山口県玖珂郡室木村(現在の山口県岩国市室の木町(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)の農家に生まれた。同郷であった芥川の実父敏三(彼は周防国玖珂郡生見村湯屋、現在の山口県岩国市美和町生見(いきみ)の生まれであった)を頼って政治家になることを夢見て上京、彼の牧場耕牧舎で搾乳や配達をして働き、芥川龍之介が三歳になる頃まで子守りなどをして親しんだしかし、明治二八(一八九五)年頃には、現実の政界の腐敗に失望、耕牧舎を辞去して行商の生活などをしつつ、世俗への夢を捨て去り、内村鑑三に出逢って師事し、無教会系のキリスト教に入信した。生涯独身で、信仰生活を続けた。一高時代の芥川と再会して後、俳句やキリスト教のよき話し相手となった。芥川龍之介は自死の直前にも彼と頻繁に逢っている。これは「西方の人」執筆のための参考にする目的が主であったものであろうとは思うが、私はその心の底には、自死回避の僅かな可能性をキリスト者であった彼に無意識に求めたものと考えている。俳句は三十代から始めたもので、彼の句集「春城句集」(大正一〇(一九二一)年十一月十三日警醒社書店刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇が読める。リンク先は芥川龍之介の書いた「序」の頭)に芥川龍之介は序(クレジットは先立つ四年も前の大正六年十月二十一日であるが、これは室賀が出版社と揉めたためである。なお、その「序」でも芥川龍之介は彼の職業を『行商』と記している)も書いている。晩年の鬼気迫る「歯車」の(リンク先は私の古い電子テクスト注)「五 赤光」に出る「或老人」は彼がモデルであり、晩年の芥川にはキリスト教への入信を強く勧めていた。新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、翌年の自死の年の一月には、芥川龍之介は執筆用に帝国ホテルに部屋を借りてそちらに泊まることがあったが、その折りには、『しばしば歩いて銀座の米国聖書協会に住み込んでいた室賀文武を訪ね、キリスト教や俳句などについて、長時間熱心に議論した』とある。私は不思議なことに、この時、室賀を訪ねた龍之介のシークエンスを、実際に見たことがある錯覚を持っている。恐らく、若き日の冬の一夜、この龍之介の室賀への訪問を帝国ホテルから銀座まで歩いて踏査した経験があるからであろう。私の「芥川龍之介書簡抄131 / 大正一五・昭和元(一九二六)年三月(全) 二通」で「大正一五(一九二六)年三月五日・田端発信・室賀文武宛」も電子化してある。なお、彼の「春城句集」の芥川龍之介の序文は未電子化のようなので、「三十一 室賀老人のこと」で電子化しておいた。]

 

 

   それからそれ

                           室賀文武

 

 

 周防の国の岩国川を、遡(さかのぼ)ること五、六里にして、山代に達す。山代とは、北は石見の国、東は安芸の国に隣接したる一区域の、五、六箇村の汎称(はんしょう)である。名は実(じつ)の賓(ひん)。山代は山代と称せらるる程(ほど)に、山嶽重畳、また重畳。そして、平地らしい平地は、殆(ほと)んど見当らないといってもいい程である。その山代地方から、維新の頃有名だった御用商人の山代屋和助が、呱々(ここ)の声を揚げたのである。が、その山代屋和助の他に、も一人卵の殼を割って、世に飛出した男がある。その男こそは、明治になって牛乳屋耕牧舎主人の、新原敏三その人である。然(しか)もその腰から、長男として登録されたる一人の嬰児(えいじ)こそ、彼(か)の芥川竜之介君だった。

[やぶちゃん注:「実(じつ)の賓(ひん)」字の古い通称か。「Stanford Digital Repository」の当該地区を含む戦前の地図「大竹」を見たが、見当たらない。但し、何となく親和性があるのは、「生見」の名が記された南西直近に「志(シツ)谷」があり(現在は「したに」と読んでいる)、また、生見川を遡って、東の尾根を越えたところに「賓田山」のように見えるピークの名がある。

「山代屋和助」(天保七(一八三六)年) - 明治五(一八七二)年)は陸軍省御用商人で、元は長州藩奇兵隊隊士であった。明治初期に起こった公金不正融資事件に関与し、割腹自殺したことで知られる。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「呱々の声を揚げた」「呱々」は 特に生まれてすぐの赤ん坊の泣き声で、赤子が生まれることを言う。]

 「俺が子にどうしてあんな子が出来たのであろうか」と、彼の父に不思議がられた程に、彼芥川君父子程、体格なり、性質なりを異にして居た者は、世に稀(まれ)であるといっても可い程である。要するに、彼はお母さん肖(に)である。そして、そのお母さんという方は、痩形のすらりとした、美人型の方だった。そのお母さんは、後には発狂されたけれども、まだ病の発(おこ)らなかった前には、極(ご)く淑(しと)やかで、それに読書きも相当に出来そうな、一見誰が目にも、閨秀(けいしゅう)の面影が漾(ただよ)うて居た。丁度(ちょうど)それが、芥川君そっくりといっても可い程だった。

 しかし私が、何故この様の事を詳しく知って居るのであるか、それは私が芥川君の当歳(とうさい)の頃から丸三年、彼のお父さんに仕えて、牛乳を搾(しぼ)ったり、また配達などをして居た関係からである。

[やぶちゃん注:「当歳」生まれたその年。]

 私は何を忘るる事が出来ても、芥川君の幼少の頃の澄み切った鮮やかな眼だけは忘るる事が出来ない。それは実に愛すべきものであった。彼の幼時に就(つ)いての私の知るところは、ただこの位のものである。しかし、彼が小中学時代の事になると、必ずや何か見るべき者があったに相違あるまい。が私はそれに先だって、故(ゆえ)あって彼の家を立去って了(しま)ったのであるから、何一つ知る筈(はず)がない。つまり私に取っては、その時代の事は、封じられたる一巻の巻物に過ぎない。

 因縁とでもいうのであるか、一旦離れた芥川君と私との機縁は、不思議にも、期せずして自ら繫(つな)がって来た。それは彼が新宿の牧場の往宅から、一高の何年かに通学時代だった。その時私は、なよなよとひょろ長い若竹の彼を、十何年振りかに見出した。そして彼より、兎(と)も角(かく)も二階へ上れと云わるるがままに、私は彼のあとについて二階へ上った。座に着くと、話は勿論(もちろん)文学談だった。そして彼は何をいわるるかと思った所が、「僕は夏目先生の宅へ往ける様になっては居るけれども、まだなかなか以(もつ)て往く訳(わけ)にはゆかない」と云わるるのであった。それを聞いて私は、何という気の弱い青年であろう、そんなに尻込みすべき要があるであろうか、と思ったけれども、それに対しては、敢(あえ)て追窮(ついきゅう)もしなかった。それから私は、自分の近什(きんじゅう)を七、八句書き並べて、彼の批判を仰いだ。すると、彼は一読の上、「この句は好(よ)いなア」と春雨の句を賞揚せられた。それには自分も喫驚した。何故かとなれば、実はその春雨の句は、変なことをいう様であるが、私の自信句であるにかかわらず、或(あ)る二、三の大家達の選に漏れた句である。然るに、三四郎としてはちゃきちゃきであったとは申せ、彼の目にとまった事は、実に意想外の感なき能(あた)わずであった。そこで私は、それ以来彼を、後世畏るべき三四郎視して、先生ともつかず、また友人ともつかず、無二の親しい関係が生じて来た次第であった。

[やぶちゃん注:「それは彼が新宿の牧場の往宅から、一高の何年かに通学時代だった」この室賀の芥川龍之介宅への訪問は年譜に記載がないが、「一高」生であることから、明治四三(一九一〇)年四月の一高進学から、大正二(一九一三)年七月一日の卒業までの閉区間となる。芥川龍之介は満十八から二十一歳、室賀は四十一以上である。

「僕は夏目先生の宅へ往ける様になっては居るけれども、まだなかなか以(もつ)て往く訳(わけ)にはゆかない」芥川龍之介が夏目漱石に初会するのは、東京帝大文科大学三年の大正四(一九一五)年十一月十八日のことで、漱石門下であった林原耕三(明治二〇(一八八七)年~昭和五十(一九七五)年:英文学者・俳人。福井県出身。旧姓は岡田。芥川より五つ年上)に伴われて、久米正雄とともに漱石山房を訪れている。

「近什」最近作った詩句文を言う。

「春雨の句」自身作であるから、当然、「春城句集」に収録されていると考えてよい。国立国会図書館デジタルコレクションのここにある八句の孰れかである。

   *

春雨や芹生の里の八つ下がり

春雨や晴なんとして日の見ゆる

糸芝に音もなく降る春の雨

小集を催す亭や春の雨

電車待つ男女の群や春の雨

春雨や蒲團剝れて申分

金堂の内陣暗し春の雨

春雨や芝居見にゆくすまゐ取

   *

頭に配した一句目か。個人的には私ごのみの叙景句である。「芹生」は歴史的仮名遣「せれふ(「せりふ」の音変化)、現代仮名遣「せりょう」、京都市左京区大原の西方に古くあった地名で歌枕である。大原川(高野川上流)西岸の野村・井出附近。「八つ下がり」午後二時を過ぎた頃である。また、芥川我鬼好みは最後の句のモンタージュも入りそうではある。]

 それから五、六年後の事であるが、私は私の分際、否技倆(ぎりょう)としては、赤面に値すべき程度のものではあったが、『春城句集』と名づくる、自選句集なるものを公にするに当って、芥川君に序文を依頼に及んだ所が、彼は快諾されて、私は日ならず彼の草稿を受取った。

[やぶちゃん注:『春城句集』(大正一〇(一九二一)年十一月十一日警醒社書店発行)の序は、最後に「大正六年十月廿一日」のクレジットがある。既に横須賀海軍兵学校の教授嘱託で、横須賀市汐入に下宿していた。当時は満二十五歳。]

 春天の二月になったばかりの、某日の事だった。私は芥川君から藪(やぶ)から棒に、「僕は結婚した」との通知に接した。それには、私も一寸面喰(ちよっとめんくら)った。しかし、心からの喜びを禁じ得なかった事も申すまでもない。私は、直ちに筆を取って、第一に極(きま)り文句の祝辞を書いてから、その次に、「不日(ふじつ)新夫人への初対面の為(た)めに参上いたします積(つも)りですが、就いては、其に先(さきだ)って新夫人の御顔を、早く拝見仕度(した)いのでありますから、新婚の御写真の御贈与を乞う。云々」――そしてその末尾に、俚謡(りよう)を二句附加えておいた。その俚謡は、

  啼くが鶯役目ぢやないかこちの花嫁をなぜ覗く

  二人揃うて梅見もよいが伊達の薄着はせぬがよい

というのであった。しかるに、私の希望は容(い)れられて、程なく大型の写真らしいものが、郵送されて来た。ところで、その写真を受取るや否や、私の考(かんがへ)は瞬間的に一変して、その写真を袋から取出して見る事を欲せなくなった。私の考の一変した理由は、私がもし新夫人と初対面前に、予備知識、即(すなわ)ち写真にてお顔を拝見して知って居るとなると、他日初対面の挨拶(あいさつ)を交わす際に、興味が――失礼な申分(もうしぶん)かも知れないが――半分以上殺(そが)がれて了うという、ただそれだけを恐れたばっかりの事だった。私はどんな事があろうとも、新夫人と初対面前には、一切拝見しない事に極めて了った。

[やぶちゃん注:「不日」日ならずして。近いうちに。]

 それから十日も経たない中(うち)に、私は短冊(たんざく)に祝句を揮毫(きごう)し、それと共に写真も持参して、夜分だったが、新夫人と初対面の挨拶を交わした。そしてまた家族の方々には、「お写真はここに持参して居りますが、実はまだ拝見しないのですよ」、と話した所が、お母さんが忽(たちま)ち目を丸くされて、「なぜ見ないのですか」と詰問(きつもん)に及ばれた。が、私はそれには笑って答えずに、二階へ上って了った。そして書斎へ這入(はい)って初めて、芥川君に向ってその写真をまだ見ない理由を説明し、且(か)つ持参のそれを初めて見参した。芥川君彼も、成程(なるほど)と首肯(うなず)かれて、「それは先に見て置かない方がいいな。」と、満足げににやりと笑われた。私もそれで大満足だった。

 その晩私は、十一時過(すぎ)まで話してまかった。その帰り際に、私は紙片を乞うて、

  野暮と知れどもつい長話立てば箒(ほうき)の立たぬうち

と、また戯(ざ)れ事を書きつけた、すると芥川君は送って下に降りながら、早速家族の方一同に向って御披露に及ばれたので、私は頗(すこぶ)る恐縮した。猶(なお)その上、先日呈した戯書も、「みんなが諳誦(あんしょう)して居るよ」と聞かされて、私は這々(はいはい)の体(てい)でまかった。

  鶏 頭 花 鳳 仙 花 鶏 蹴 合 ひ つ ゝ   春城

 私は曽(かつ)てこういう句をものして、芥川君に見て貰(もら)った事があった。すると、彼は「いけない」といって取られなかった。で私はその理由を質(ただ)すと、「僕は殺伐(さつばつ)の事を好まないからだ」との答だった。その程に彼は女性の様な、美(うる)わしい情愛の豊かな人だった。

 それから、夏夜彼と対談中の事だったが、いろいろな虫が座中に飛来すると、彼は白紙にそれをぐるぐると包んで、闇中に投(ほう)り出(だ)されたのを、私は幾度となく見て知って居る。そしていつの場合でも、彼は世の多くの人達がやる様に、憎々しげに叩(たた)きつけて殺して了うなどの残忍な振舞は、曽て一度も間違ってもされた事はなかった。しかしそれは彼が人間以外の生物に対する濃厚なる愛の現れであるが、もしそれが人類愛になると、更(さら)に更に濃厚の度の加わる事は、今更贅弁(ぜいべん)を要しないのである。

 或日(あるひ)の事だった。二階の書斎の隣の間に、彼の伯母さんが、感冒にかかって仰臥(ぎょうが)して居られた事があった。それを彼は下へ降り乍(なが)ら見舞われたのを、私は見て居たのだった。すると彼は自分の手を伯母さんの額に当て、熱度を計り、すぐその手を自分の額へ当てて熱度の高下(こうげ)を比較せらるるのだった。事はただそれだけの事であって、何の変哲もなく、世間一般の茶飯事に過ぎないのであるが、それを側で見て居た私に取っては、何となく美しく感ぜしめられた。しかもその一事は彼の金玉(きぎょく)の美辞麗句よりも、より以上の美しさを感ぜしめられたのだった。一寸した事すら斯(かく)の如き彼だったから、彼の死後に於ける彼の家族の方々の、殊に老人達の哀借の情の甚(はなは)だしき事ったら、一通や二通ではなかった。で、お母さん達の「竜ちゃんが優しくして呉(く)れたので」がはじまると、急にその話を転向せしむべきの要があった。なぜかとなれば、私は老人達の涙に、いつも釣込まれる事を恐れたからであった。

 

 哀れっぽい話の序(ついで)に、も一つ書いて見よう。しかし、其は私という一個人の事であるから、申訳(もうしわけ)の無い事を予(あらかじ)めお断りしておく。私は或晩彼にこういう事を話した。「私は御存じの如く孤独者である。けれども私の性分として、人様のお世話になる事は大嫌(だいきらい)である。たといそれが親兄弟であろうが、また親戚であろうが、もしくは朋友その他何人であろうとも、私は絶対的に援助だけは受けない覚悟を極めて居る。しかし、それにしても将来の事は予想が出来ないから、どんな貧困という鬼が、私を待ち受けて居るかも知れない。しかしそういう場合に対する、私の取るべき道は決まって居る。そしてそれは他でもない、私は多くの知人の迷惑を避くるが為めに、旅に出るまでである。そして、多少の物でもある程の物にて衣食し、それが尽きたら餓死する覚悟である。それには如何(いか)なる場合と雖(いえ)ども、私は絶対に乞食はせぬ。また自殺もせぬ積りである」と私は平素考えて居た通りの事を、さ程の重大事でも何でも無いかの様に、包まず隠さず前後の思慮もなく言って退(の)けた。私がこの話をする中に、彼の面色は幾度も変じた。――私はそう意識した――そして言畢ると、彼の声音(こわね)は急遽(にわか)におろおろ声と化した。そして彼は何を言わるるかと思ったところが、彼は、「そういう場合には僕にだけは知らせて下さい」といわるるのだった。が私は容易に諾(うん)といわなかった。で彼は一層激しく、「僕にだけは是非知らせて下さい」と追窮して已(や)まれなかったのだった。果は「誓って下さい。屹度(きつと)知らすと誓って下さい」と畳みかけて迫らるるその真剣さ。その意気込さ。それは実に意外だった。私は全く面喰ってしまった。私はとうとう根負けして、「では知らせます」と、遂に誓約した。ああ良友今はなし。

 最後に、彼対宗教――特に基督教だに就いて、芥川君と私との間にどういう交渉があったかをいささか述べて見たい。私は早くから彼に基督教の必要の事を、幾度となく繰返し繰返してすすめたのだった。が聴かれなかった。でまた或時は、恩師内村鑑三先生著の、『宗教と現世』という本を持って往って、彼に読ませた所が、それも「不可ない」といって返された。が私はそれにも懲りず、今度は三崎(みさき)会館に於ける、恩師の連続講演に誘って見た。がそれも彼は「暇が無い」との理由の下に応ぜられなかった。其所(そこ)で私は、これは急がず焦心(あせ)らずに、時期を俟(ま)つより他には仕方がない。それがのろくて却(かえ)って早道と考えて、それに決めた。そして自然に一任している中に、彼の文名はますます天下に高まった。同時にまた彼の肉体は日々に蠹(むし)ばまれて、早くも衰頽(すいたい)の微(きざし)さえほのめいて来た。多分それが為でもあろう、彼は次第に宗教に興味を感ぜらるる様になって来た。しかもそれが、死期に先だつ事一、二年前頃になると、殊に甚だしくなって来た。果せるかな、来るべき者は遂に来たのだった。

[やぶちゃん注:「三崎(みさき)会館」「東京三崎会館」。旧「バプテスト中央会館」のことで、現在の東京都千代田区神田三崎町一丁目にあった。米国北部バプテストが経営したキリスト教伝道と社会事業を一体的に推進した施設で、明治四一(一九〇八)年に「バプテスト中央会館」として設立し、その後、「東京三崎会館」に改名した。昭和一九(一九四四)年に会館が接収され、活動を終えた(当該ウィキに拠った)。]

 其は、大正十五年三月三日の事だった。私はその暁に、夢を見た。私は何所(どこ)かしらを歩いて居た。すると疲れ切った弱々しげな一匹の蜻蛉(かげろう)が、ふらふらと寄るべなげに、私の足元へ落ちて来た。で私は、その蜻蛉をどこか安全な場所へ移してやらんと見廻した所が、幸(さいわい)にも其所に一本の何かの大樹があったので手でつかんで移してやった。すると、今までは蜻蛉だったのが、いつしかそれが家鳩らしい者に化(かわ)って居た。仏はその家鳩が辛うじてではあったが、するすると大樹の梢(こずえ)高く昇って行ったのを見たのであるが、遂にその姿を見失った。申すまでもなく、それは昇天したのだった。で私はまたその昇天した家鳩の為めに、祈りをささげた。しかもその上また奇態の事には、その家鳩の脚には、手紙らしいものが結びつけてあったのであるが、家鳩はそれを地に落して行った。で私はそれを早速拾い取ったけれども、読みはしなかった。夢の由来はざっと斯(こん)なものだったが、それにしても非常に心持の好い夢だった。私はその晩、また彼の家の雛祭(ひなまつり)を見んが為めかたがた彼を訪問した。そしたら彼は、「いい所へ来て呉れられた、明晩だったら不在だったのであるが」といって迎えられ、直ちに書斎へ通された。そして座に着くと、彼は眼を輝(かが)やかしながら、「今晩君が来られた事は、実に不思議で堪(たま)らぬ。僕はどうしても奇蹟としか思われない。という次第はこうである。今日僕は聖公会出版の祈禱書を古本屋で買って来て、それを読んで見て、その内容の優(すぐ)れて居るのに感心して居た所へ、同じ日にまた聖○協賛会という封書が来た。でそれを見ると、頭文字の聖の字が一番に目について、はッと思った。しかしその封書は何か皇室に関する者であって、全然聖書とは無関係の者だったから何でも無い様なものの、それで居て、最初に一瞥(いちべつ)した瞬間に、はッと何かしら頭に来たのは不思議だった」。「それからまた僕は近ごろ聖書は最良の書である事に気附いたから、聖書を読んで見たいなアと思ったが、誰かに貸し失って今手元にはない。でそれを買い度(た)いなアと思って居た所へ、ひょっくり君が来られたのだから、これはどうしても奇蹟としか思えない」という様な言だった。私のその夢物語と、彼の魂を揺り動かした二、三の話とを切離して、全然没交渉の者として片附けて了う事は、出来ない様な気がしてならぬ。その晩私は芥川君から早速聖書を送って呉れとの依頼を受けて、その翌朝、直ちに彼に宛てて聖書を送った。私は其等の事の為めに大分面白くなったと思った。ここまで来ればもう一息だと思った。昔の本の中に、鎡基(じき)ありと雖ども時を待つに如(し)かずとある。味あるかな言やである。

[やぶちゃん注:「鎡基ありといえども、時を待つに如かず」「孟子」の「公孫丑章句上」にある一句。「齊人有言曰、『雖有智慧、不如乘勢、雖有鎡基、不如待時。』。」(齊人(せいひと)言へる有り。曰く、『智慧、有ありと雖も、勢ひに乘ずるに如かず。鎡基、有りと雖も、時を待つに如かず。』と。)。「鎡基」は畑を耕す農具のことを言う。人が個人個人で内包する真の実力の喩え。]

 それから幾月かの後の事だった。私は芥川君に、矢張(やはり)内村先生著の『感想十年』という本を貸与して、後日になって読後の所感を訊(き)いて見た。すると、彼の答はこうだった。「内村さんは実に偉い。明治の第一人者である」と大いに激賞され、更に言を継いで、「僕もなア、早くから内村さんに就いて学んでおくと好かったのだがなア」と大いに遺憾がられたのだった。それを聞いて、私もまた大いに遺憾がったのであった。それからまたその時だった様に思うが、彼は、「僕は今は聖書中に出ている奇蹟は悉(ことごと)く信ずる事が出来る」とさえ明言されたのだった。私もそれを聞いて、そう来なくてはならないとうなずきつつも非常な喜びを感じた。

 私が芥川君を最後に訪問したのは、彼の死に先だつ事十日前だった。――後に家族の方から聞かされた話であるが、同夜は或る近しい方の訪問されたのだったが、事に託(かこつ)けてそれを帰し、ただ私一人にだけ面談されたのだとの事だった。――その時も矢張基督教に就いて、互に熱心に語り合ったのだった。それからまた、彼は「僕は近頃「西方の人」というのを書いて、それを――社に送って置いたから、出たら見て呉れ」との頼みだった。そしてまたそれに附加えて、「実はそれを君に先に見て貰う積(つもり)だったが、日が無かったので、とうとう止めて了った」と云われたのだった。そしてその夜もまた例に由(よ)って例の如く、私は電車に乗り後れる事を気にしながら、話をいい加減に切上げてまかったのだった。が、が、それが彼と永別になろうとは、どうして知る事が出来よう。噫(ああ)。

[やぶちゃん注:この最後の面会は新全集の宮坂年譜によれば、昭和二(一九二七)年七月十四日頃とする。

』『「西方の人」というのを書いて、それを――社に送って置いた』「西方の人」及び「續西方の人」は自死後、昭和二年八月及び九月発行の『改造』に遺稿として掲載された。私の「西方の人(正續完全版)」を参照されたい。]

 芥川君の絶筆にして、出たら見て呉れと頼み置かれた「西方の人」は、彼の易簀(えきさく)後旬日(じゅんじつ)余にして、世に発表せられた。正直にいえば、私はそれには非常な期待をかけて居たので、一目が千秋(せんしゅう)の思いで待ちに待ちつつあったのだった。然るに、それを一読するに及んで、大いなる失望を感ぜざるを得なかったのだった。なぜか、それは彼の聖書に対する観点と、私の二十余年来信じ来った観点との間には、全然一致し難い、白と黒との相違を少(すくな)からず発見したからだった。というよりは寧(むし)ろ、私は彼の書かれた者の大半が、不可解だったからであるといって差支(さしつかえ)ない。従ってその不可解の理由は、天才と凡才との彼我(ひが)の相違、もしくは修養の如何(いかん)が、私をして彼の縄張(なわばり)内に、一歩も足を踏込むことを許さなかったのであるともいえる。要するに彼の作品は、一種の高等批評であるといえなかったならば、或(あるい)は超高等批評とでもいえるかも知れぬ。いずれにしても彼の観方は、空前の新(あた)らしい観方であるに相違あるまい。従って我々如き世紀違いの古い頭脳の、古い造作(ぞうさく)を改造しない以上は、容易に彼の説の受入れ難いのも当然である。その事に就いて何より好い証拠は、「それで可いのだ」といって、極新らしい現代人の中には、彼の説を支持さるる実例のある事を見ても判る。で私は、その事を附記して置いて、彼の説の当否、是非の判断は、畏るべき後世の人達に一任して、ここにこの稿を終る。

                            (昭和九年十一月十九日) 

 

    献芥川竜之介君之霊

  蹴つて飛ぶおのがむくろや夏嵐   春 城

  帷子に拭ひかねたる泪かな     同

 

[やぶちゃん注:本文の最後のクレジットは最終行一字上げ下インデントであるが、改行した。]

死靈解脫物語聞書上(3) 羽生村名主年寄累が㚑に對し問荅の事

 

[やぶちゃん注:本書の解説や底本等は、冒頭の「累が最後之事」を参照されたい。]

 

  羽生村名主年寄累が㚑(れう)に對し問荅(もんどう)の事

 爰に当村の名主三郞左衞門、同年寄(としより)庄右衞門といふ二人の者、年來(としころ)、内外(ないげ)の典(でん)に心を寄(よせ)、いとさかしきものども成が、ある日の事なるに、打寄、ものかたりするやうは、

「今度、累が怨㚑(おんれう)、顯われ、与右衞門が恥辱は、その身の業(ごふ)。菊が苦痛のふびん成に、いさとも、いさとも、わびことし、怨㚑、すかし、なだめん。」

とて、名主・年寄を始(はじめ)として、少々、村中の男共、与右衞門が家に、あつまりけり。

[やぶちゃん注:「内外の典」内典(ないでん・ないてん)と外典(げでん・げてん)。仏教経典などの典籍(てんじゃく)と仏教以外の典籍(主に儒学の諸書を指す)。] 

 

Kasanehyoui

 

[やぶちゃん注:本シークエンスの挿絵左右見開きで続きのワンカット二枚。底本には挿絵はなく、これは所持する国書刊行会の「近世奇談集成(一)」に挿入された東京大学総合図書館蔵本のそれをトリミング補正した。枠外は清拭したが、絵の内部は、一切、手をつけていない(因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である)。キャプションがある。右の図は、右上方の人物の頭に、

「名主」

その左手の家内の壁に、

「与右衛門むすめ

 きくにかさねが

 おんりやう

 とりつき

 なやま

   する」

左中央に、元凶の累の元夫、

「与衞門かく

   ちんす」

で、「与衛門、かく、鎭(座)す。」の意か。

左上方の外に、びびった入り婿の、

「金五郞

 にげて

  ゆく」

とある。

で、左の下方のそれは、欠損があって一寸読めないが、

「むすめきくの

  ■しきなかに□□

  さ(「と」?)■大せいけんぶつ

  さぐる」

とでもあるか? 「娘菊の苦しき中に、□□、里(人?)、大勢、見物」して様子を「探る」ででもあろうか? 判らぬ。]

 

 先[やぶちゃん注:「まづ」。]、名主、泡、吹(ふき)出し、苦痛てんどうせる菊に向(むかい)て問ていわく、

「汝、累がうらみは、ひとへに与右衞門にあるべし。何故ぞ、かくのごとく、橫さまに菊をせむるや。」

 その時、菊がくるしみ、たちまち止んで、起(おき)なをり、荅へて、いわく、

「おゝせのごとく、我、与右衞門にとり付、則時(そくじ)に、せめころさんは、いとやすけれ共、彼(かれ)をば、さて置、『きく』をなやますには、色々の子細、有。其故は、まづ、さし当て[やぶちゃん注:「あたつて」。]、与右衞門に、切成[やぶちゃん注:「せつなる」。]かなしみを、かけ、其上、一生のちじよくをあたへ、是を以て、我が怨念を、少し、はらし、又、各々に、菊が苦痛を見せて、あわれみの心をおこさせ、わらわがぼだいを訪(とわ)れんため。次に、『邪見成もの共の、長き見ごりにせん。』と思ひ、菊にとり付事、かくのことし。」

といへば、名主、また、荅ていわく、

「実(げ)に尤なり。しかるに、汝が此間のもの語(かたり)を聞ば、『地獄におちて、昼夜(ちうや)、呵責にあいし。』といふ。既に地獄の劫數(こつしゆ)久しき事は、娑婆の千万歲(せんまんねん)に盡(つく)べからず。何の暇(いとま)ありてか、纔(わづか)に廿六年目に、奈落を出て、爰に、來るや。」

[やぶちゃん注:「見ごり」「見懲り」。因業を見せることで、懲りさせる、諦めさせること。]

 怨靈、荅ていわく、

「さればとよ、我、いまだ地獄の業、悉く尽(つき)ずといへども、少の隙ををうかゝひ、菊に取付は、別なる子細、あり。をのをのが了簡に、あたはじ。」

といふ時、年寄庄右衞門、問ひていわく、

「さては、汝に尋ぬる事、有り。惣じて一切善𢙣の衆生、皆、死に歸す。尒者(しからは)、善人は、來(きたつ)て善所を語り、六親(しん)朋友を勸誡(くわんかい)し、𢙣人は來て、𢙣所を知らせて、其身の苦患を脱(のが)れん事を願ふべし。何故ぞ、死者、尤、多きに、來る人、甚だ、まれなるや。又、いかなれば、汝一人、爰に來て、今のことはりを述(のぶるぞや。」

[やぶちゃん注:「六親」は「ろくしん」或いは「りくしん」と読み、「六戚」と言う。六種の親族。父・母・兄・弟・妻・子、又は、父・子・兄・弟・夫・婦を指すなど、さまざまな組合せがあるが、広く「親族全体」を指した意でとっておく。]

 怨靈、荅ていわく、

「能(よく)こそ問(とは)れたれ、此事を。それ、善人・𢙣人、怨讎(おんじう)、執對(しつたい)有て、死する者多しといへ共、來て[やぶちゃん注:「きたつて」。]告(つぐ)る人、少(すくな)き事は、是、皆、過去善𢙣の業、決定(けつでう)して、任運(にんうん)に未來報應の果(くわ)を感じ極むる故、爰に來る事、能わざる歟(か)。あるひは、宿世(しゆくせ)におゐて、こゝに歸り告げんと思ふ、深き願ひの、なきゆへか。又は最後の一念に、つよく執心をとめざるにもやあらん。他人の事は、しばらく、おく。我は、最後の怨念に依(よつ)て、來りたり。」

と、いへば、名主・年寄をはじめ、村人、『何も、尤。[やぶちゃん注:「いかにも、もつとも」。]』と感じ、

「さては、怨靈退散の祈禱を賴ん[やぶちゃん注:「たのまん」。]。」

とて、當村の祈念者を呼よせ、「仁王」・「法花」・「心經」なんど讀誦(どくじゆ)する時、怨靈が、いわく、

「やみなん、やみなん、よむべからず。縱(たと)ひ、幾反(いくへん)、功を積(つむ)共、我に、緣、なし。うかぶベからず。只、念佛をとなへて、与へたまへ。」

と、あれば、其時、名主、問ていわく、

「誦經と念佛と、何のかわり有て、かくは、いふぞ。」

と。

[やぶちゃん注:「執對」この熟語は見たことがないが、「執拗に対象に拘る程度に大きな差があること」を指すか。多くの死者はその程度が、概ね、あっさりしているとでも言っているものか。

『「仁王」・「法花」・「心經」』「仁王法花心經」という経典はないので分離した。ここに出る「祈念者」は所謂、民間の山伏のような修験者で、仏教の経典のパッチ・ワークみたような、部分的散漫的にそれぞれの経典の一部を読み上げるだけの怪しげなもので、これは、累の霊ならずとも、勘弁という気は確かにする。]

 怨㚑、荅ていわく、

「されば、念佛六字の内(うち)には、一切經卷の功德を含める故に、万機得脱(ばんきとくだつ)の利益(りやく)、有り。」

と。

 名主、又、問ていわく、

「尒者(しからば)、汝、すでに無上大利、名号の功德を能(よく)知れり。何ぞ、みづから、是をとなへて、拔苦受乐(ばつくじゆらく)せざるや。」

と。

[やぶちゃん注:「乐」は「樂」の異体字。]

 怨㚑、荅ていわく、

「おろかなりとよ、名主殿。罪人、みづから念佛せば、地獄の劇苦を身にうけて、劫數(こつしゆ)をふる[やぶちゃん注:「負ふる」。さらに積み入れる。]ばかもの、一人もあらんや。尒(しか)るに、墮獄の衆生も、さかんにして、受苦の劫も久しき事は、あるひは、念佛の利益を自(みづから)能(よく)しるといへ共、𢙣業のくるをしに[やぶちゃん注:「狂ほしきに」。]引(ひか)れて、是を唱ふる事、かなわず。あるひは、生々(しやうじやう)に、かつて、緣なきゆへに、是を聞かず、しらざるたぐひのみ、多し。我、すでに念佛の利益(りやく)をよくしるといへ共、ざいしやうのおゝふ所、みづから称ふる事、かなわず。猶、此ことばの疑がわしくは、各々、自分をかへりみて、能々、得心したまヘかし。されば、此比(このごろ)は、念仏の勸化(くわんげ)、廣くして、淨土のめでたき事を、うらやみ、地獄のすさまじさを、よくおそるゝといへ共、つとめやすき極乐往生の念佛をば、けだいして、殺生・偸盜・邪婬等の地獄の業とさへいへば、身のつかるゝをも覺へず、ゆんでをおそれ、め手をはゞかり、心をつくして、これをはげむに、あるひは、親兄弟の異見をも用ひず、あるひは、他人の見て、あざけるをも、かへり見ず、ないし、罪業のかずかず、增上して、終に、そのあらため所へ引出され、科の輕重、明白に決斷せられて、只今、斬罪・はつつけの場へ引居(ひきすへ)られても、尙、念佛する事、かなわざる。地獄の衆生の因果のほど、能々、わきまへたまひて、あわれみて、たべ、人々よ。」

と、其身もなみだをうかべながら、いとねんころにぞ荅へける。

[やぶちゃん注:「生々」「生きている間」の意。

「ざいしやうのおゝふ所」「罪障の覆ふ所。

「けだい」「懈怠」。なまけ、おこたること。

「つかるゝ」「突かるる」。ここは宗教上の罪業堕獄の精神的恐怖に無意識に心を突かれていることを言っている。

「ゆんで」「弓手」。弓を持つ「左手」。

「め手」「馬手」。手綱を引く「右手」。一種の追跡妄想・被害妄想の心理を指している。

「はつつけ」「磔(はりつけ)」。]

 其時、名主をはじめ集り居たる者共、異口同音に感じあひ、みなみな、袖をぬらしけり。

 さて、名主がいふやう、

「尒(しか)らば、念佛を興行して、汝が菩提を吊(とふら)ふべし。怨(うらみ)をのこさず、菊が苦患(くげん)を、やめよ。」

といへば、怨㚑がいわく、

「我だに成仏せば、何の遺恨か、さらに殘らん。只、急ひで、念佛を興行したまへ。」

とある故に、村人、すなはち惣談(そうだん)し、正月廿六日の晚、ぼたい所法藏寺を請對(しやうだい)し、らうそく一挺(てう)のたつを限りに、念佛を勤行(ごんぎやう)す。ゑかうの時にいたつて、累が怨㚑、たちまち、さり、本の菊と成ければ、法藏寺をはじめ、名主・年寄も安堵して、其上に、村中のこゝろざしをあつめ、一飯(はん)の齋(とき)を行ひ、皆々、信心歡喜(しんじんかんぎ)して、各々、我が屋に歸れば、菊が氣色(きしよく)、やうやう、本ぶくす。

[やぶちゃん注:「齋(とき)」この場合は、法事の終りに供養の〆として寺で出す精進料理を指す。]

2023/01/20

死靈解脫物語聞書上(2) 累が怨霊來て菊に入替る事

 

[やぶちゃん注:本書の解説や底本等は、冒頭の「累が最後之事」を参照されたい。]

 

  累が怨霊(おんれう)來(きたつ)て菊に入替(いりかわ)る事

 夫(それ)より、彼の邪見成る与右衞門、心にあきはてたる妻(さい)を、思ひのまゝにしめ殺し、本より、累が親類兄㐧(きやうだい)、なきものなれば、跡訪(あとと)ふわざもせず、彼(か)れが所帶の田地𢌭(など)を一向に押領(おうれう)し、扨(さて)、女房を持つ事、段々、六人也。前の五人は、何れも、子、なくして、死せり。

 㐧六人目の女房に、娘一人、出來(いで)き[やぶちゃん注:ママ。]、其名を「菊」と云。

 此娘、十三の年、八月中旬に、其母も、終(つゐ)に死去(しきよ)せり。

 さてしも有べきならねば、其歲の暮十二月に、金五郞と云甥(むこ)を取、此菊にあわせて、与右衞門が老のたつ木にせんとす。

[やぶちゃん注:「其歲の暮十二月」冒頭の前章の頭に憑依が「寬文十二年の春」のこととあるから、これはその前年の寛文十一年十二月となる。寛文十一年十二月一日はグレゴリ曆で一六七一年十二月三十一日であるから、まず、婚礼は一六七〇年一月中と考えてよい。而して、以下のシークエンスは翌年寛文十二年壬子(みづのえね)が時制となる

「老のたつ木」「老いを支えてくれる立つ樹」に「たつき・たづき」「方便・活計」、「生活を支える手段・生計」の意を掛けたもの。]

 しかる所に、菊が十四の春、子の正月四日より、例ならず煩ひ忖く。其さま、常ならぬきしよくなるが、果して其正月廿三日にいたつて、たちまち床(ゆか)にたふれ、口より泡をふき、兩眼(りやうがん)に泪(なみだ)をながし、

「あら、苦しや、たえがたや、是、たすけよ、誰はなきか、」

と、泣(なき)さけび、苦痛、逼迫して、既に絕(たへ)入ぬ。

[やぶちゃん注:「菊が十四」数え年であるから、菊は万治二年(一六五九年二月二十二日から一六六〇年二月十日)生まれで、その母の死は、その前年の明暦四・万治元年となる。

「子の正月四日」グレゴリオ暦一六七二年一月六日。

「其正月廿三日」グレゴリオ暦一六七二年二月二十一日。

「絕(たへ)入ぬ」気絶してしまった。]

 時に、父も夫も、肝(きも)を冷し、おどろき、騷ひで、

「菊よ、菊よ、」

と呼返すに、やゝありて、息(いき)出で、眼(まなこ)をいからかし、与右衞門を、

「はた」

と、にらみ、詞(ことば)をいらでゝ云やう、

「おのれ、我に近付(ちかづ)け、かみころさんぞ。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「いらでゝ」「應(答)(いら)ふ」の「出る」を接合したものであろう。「答えて声を出して」の意。

「おのれ、我に近付け、かみころさんぞ。」「お前ッツ! 我らに近づいて見ろ! そうしたら、噛み殺すぞッツ!」。]

 父がいわく、

「汝、菊は、狂乱するや。」

と。

 娘の、いわく、

「我は、菊にあらず。汝が妻の累なり。廿六年以前、絹川にて、よくも、よくも、我に重荷をかけ、むたひに責殺(せめころ)しけるぞや。其時、『やがて、とりころさん。』と思ひしかども、我さへ、昼夜、地獄の呵責に逢(あい)て隙(ひま)なきゆへに、直(じき)に來(きた)る事、かなわず。然共、我が怨念の報ふ所、果して、汝が『かわゆし』と思ふ妻、六人を、とりころす。その上、我、數(かず)數の妄念、虫(むし)と成て、年來(としごろ)、汝が耕作の実(み)をはむゆへに、他人の田畑(でんばた)よりも、不作する事、今、思ひ知るや否や。我、今、地獄の中にして、少(すこし)の隙をうるゆへに、直に來て、菊がからだに入替り、最後の苦患(ぐけん)をあらはし、まづ、かくのごとく、おのれを絹川にて、せめころさん物を。」

と、いゝ、すでにつかみつかんとする時、父も夫も、大きにおどろき、跡をもかへり見ず、与右衞門は法藏寺へ迯行(にげゆか)ば、甥は親の本に走り歸り、ふるひ、わなゝひて、かくれ居(ゐ)たり。

 其時しも、隣家(りんか)の若き男共、「二十三夜待(やまち)」と称し、一所に、あまた集り居けるが、此あらましを傳へ聞き、

「さもあれ、不思議なる事かな。いざ、行(ゆ)ひて[やぶちゃん注:ママ。]直に見ん。」

とて、彼方此方、もよほすほどこそあれ、村中の者共、悉く、与右衞門が所に集り、かの女子(によし)を守り見けるに、その苦(くるし)みのありさま、いか成衆合叫喚(しゆがうけうくわん)の罪人も是にはまさらじと、苦痛顚倒(くつうてんどう)して、絕入(たけいる)事、度々(たびたび)也。

[やぶちゃん注:「二十三夜待」特定の月の二十三日の夜に講を組んだ者たちが集まり、月を拝むのを口実として、飲食をともにして夜明かしをする「月待ち」の集団行事(娯楽)で、江戸時代には全国的に盛んに行われた。]

 其時、村人、

「菊よ、菊よ、」

と、よばわれば、しばらく有て、いふやう、

「何事をのたまふぞや、人々。我は、菊にては、なし。与右衞門がいにしへの妻に、累と申、女なり。我姿の醜き事をきらひて、情なくも此絹川へ押(おし)ひて[やぶちゃん注:ママ。「押入(おしいれ)て」の誤刻か。]、くびりころせし、其怨念を、はらさんために、來(きた)れり。今、与右衞門、法藏寺に隱れ居(お)るぞ。急ひで、彼をよびよせ、我に逢せて、此事を决断し、各々(をのをの)、因果の理(ことは)りを信じ、わが流轉のくるしみを、たすけて、たべ。あら、くるしや、うらめしや、」

といふ時、村人の中に、心さかしきもの有て、いふやう、

「今の詞の次㐧、中中、菊が心より出たる言葉には、あらず。いか樣、怨念㚑鬼(おんねんれいき)の所以と聞えたり。所詮、彼(かれ)が望(のぞみ)にまかせて、与右衞門を引あわせ、事の実否をたゞさん。」

とて、法藏寺に行き、ひそかに与右衞門を、よび出し、

「かく。」

と告(つぐ)れば、かの男、ちんじて、云やう、

「それは、中中、跡かたもなき虛言(そらごと)なり。此娘、狂乱せるか、將又(はたまた)、狐狸の付そひて、あらぬ事を申すと聞ヘたり。よし、其儘にて捨置給へ。」

と、色色、辞退するを、やうやうに、こしらへ、連(つれ)歸り、菊にあわすれば、累が存生(ぞんじやう)の詞つかひにて、上(かみ)件(くだん)のあらまし、一々、滯(とゞこふ)らず云ふ時、与右衞門、そらうそ、ふひて、

「かゝる狂人、おのれが病にほうけ、ゆくゑ[やぶちゃん注:ママ。] もなきそらごとをつくり出て、父に恥辱をあたへんとす。ひらに、人々、その儘、捨置たまひ、皆々、歸らせられよ。」

と、いへば、かさねがいわく、

「やれ、与右衞門、其方は、『此人々の中には、その時の有樣を、具(つぶさ)に知るものなし。』と思ふて、かく、あらそふかや。おろかなり。此村にも、我が最後の樣子を、ほゞ、しれる人、一兩人も有ぞとよ。又、隣村(となりむら)には、慥(たしか)に見とめたる仁(じん)、一人、今に存命(ぞんめい)せられしものを。」

と云時、村人、問ていわく、

「それは、たれ人そや。」

と。

 累がいわく、

「法恩寺村の淸右衞門こそ、正しく、此事を、見られたり。」

と、いへば、さしも橫道(わうたう[やぶちゃん注:ママ。])なる与右衞門も、既に證人を出されて、あらそふに、所なく、泪をながし、手を合せ、ひらにわび居(ゐ)たるばかり也。

 其時、村の人々、

「扨、いかゞせん。」

と評議しけるが、詮ずる所、此かさねが怨みは、非道に彼を殺害(せつがい)し、わづかも其跡をとふ事なく、剩(あまつ)さへ、かさねが田畑の所德にて、恣(ほしひまゝ)に妻をもふけ、一人(ひとり)ならず、二人ならず、こりもやらで、六人まで、つまをかさねし𢙣人なれば、其科人(とがびと)はとがめざれとも、業(ごふ)の熟する所ありて、みづから是を顯せり。不便(びん)なる事なれば、与右衞門に發心(ほつしん)させ、かさねがぼだいを、とわせんには如(しか)じ。」

とて、頓(やが)て剃髮の身となれ共、道心、いまだ發(おこ)らざれば、功德(くどく)のしるべも、なきやらん、菊が苦痛は、やまざりき。

 

2023/01/19

死靈解脫物語聞書 電子化注始動 / 死靈解脫物語聞書 上(1) 累が最後之事

 

[やぶちゃん注:「死靈解脫物語聞書(しりやうげだつものがたりききがき)」は初刊本は元禄三年十一月二十三日(グレゴリオ暦一六九〇年十二月二十三日)に江戸本石町山形屋吉兵衛開版の上・下巻の仮名草子で、下総国(しもうさのくに)羽生(はにゅう)村(現在の茨城県常総市羽生町(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ))で、慶長一七(一六一二)年から寛文一二(一六七二)年)までの六十年に亙る、子殺し・妻殺しから始まる親子三代の悪因果の結果として発生した「累(かさね)」(承応から寛文(一六五二~一六七三)頃の存命とする)という女の死霊(しりょう)の憑依事件を、江戸時代最強のゴースト・バスターとして知られる浄土宗の名僧祐天(正字は「祐天」。歴史的仮名遣「いうてん」、現代仮名遣「ゆうてん」。寛永一四(一六三七)年生まれで、享保三(一七一八)年没。享年八十二。陸奥国(後に磐城国)磐城郡新田村(現在のいわき市四倉町上仁井田(よつくらまちかみにいだ)生まれ。号は明蓮社顕誉。徳川綱吉・家宣らの帰依を受け、増上寺の第三十六世法主(ほっす)を継いで大僧正となった)上人が念仏称名によって解脱へと導く仏教説話の勧化(かんげ)本の体裁をとった怪談である。後に浄瑠璃・歌舞伎に仕組まれ、近世演劇で「累物(かさねもの)」と呼ばれる系統を形成し、近代では、落語家初代三遊亭圓朝(天保一〇(一八三九)年~明治三三(一九〇〇)年)によって、落語の怪談噺に作り替えられた「眞景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」が頓に知られる(初め、安政六(一八五九)年に創作され、当時の演目名は「累ヶ淵後日の怪談」であったが、明治二〇(一八八七)年から翌年にかけて、速記録が『やまと新聞』に掲載され、直後に単行本として出版された。因みに、「眞景」は表向きは「実景」で「実話・実説」の意だが、実は当時の欧米の文化移入の中で、霊現象なんぞというものは「神経」の起こすものという近代合理主義に基づく洒落が掛詞になっている。これは圓朝の隣家に住んでいて懇意にしていた漢学者信夫恕軒(しのぶじょけん 天保六(一八三五)年~明治四三(一九一〇)年:後に東京大学講師にもなっている)による発案とされる)。「眞景累ヶ淵」は私の大好きな噺である。

 作者は、本文にも出るが、「殘壽」なる人物で、事績は不詳。但し、現在の研究では、祐天上人の直弟子(本文末に祐天の口述筆記を担当したと思われる記載がある)に当たる浄土宗の説教僧の一人であると目されている。

 底本は「Wikimedia」にある初版本「死霊解脱物語聞書」PDF)を視認した。但し、所持する国書刊行会の『叢書江戸文庫』第二十六巻の「近世奇談集成(一)」(高田衛・原道生編。国立国会図書館蔵本底本。私の以上の底本とは同じ年の版乍ら、表記にかなりの異同が認められる)に所収するものをOCRで読み込み、加工データとした。ここに御礼申し上げる。

 可能な限り正字表現とするが、底本自体が崩し字なので、略字かどうか迷った場合は正字で示した。また、底本はかなりの読みが振られているが、ブログでは五月蠅くなるだけなので、若い読者を考えて、難読或いは読みが振れると判断したもののみに留めた。歴史的仮名遣の誤りが甚だ多いが、ママ注記をするとこれも邪魔になろうから、敢えて打たなかった。

 なお、現在、大物の電子化物を抱えているため、章毎に分割し、注はストイックに附すこととする。句読点や記号は読み易さを考えて『江戸文庫』を参考にしつつ、かなり自由に変更・追加し、段落もオリジナルに成形した。読みの「(○/○)」は右/左の読みである。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので、正字化した。

 因みに、ネット上には「国文学資料館」のこちらに同じ初刊本画像があり、底本は「ちり」の部分が詰まってしまって、読みが確認出来ないため、こちらで確認した。また、その末尾には手書きで、「法藏寺過去帳之寫(うつし)」や、𥿻川累(キヌガハカサネ)ヶ淵(フチ)之啚」及び附記があり(「𥿻川」は「鬼怒川」の別字)、最後にこれを判読して載せたいと思っている。 また、かなり丁寧に電子化されたものが、「Wikisource」のこちらにあるが、一部の表記に疑問があり、また、私はオリジナルに注を附すことから、屋上屋の謗りはお門違いと存ずる。というより、この作品は三十五の時、一度も退屈を感じずに、一気呵成に読んだ、私の所持する数多の怪奇談の中では、頗る特異点の名作であることから、以前から電子化したかったのが、本音である。]

 

 

 死霊解脱物語聞書  全

 

 

[やぶちゃん注:表紙題箋。]

 

 

死霊解脱物語聞書上

   累が最後之事

 過(すぎ)にし寬文十二年の春、下總國罡田郡(おかだこほり)羽生村と云(いふ)里に、与右衞門と聞ゆる農民の一子、菊と申娘に、かさねといへる先母(せんぼ/さきのはゝ)の死靈とりつき、因果の理(ことはり)を顯し、天下の人(じん)口におちて、万民の耳をおどろかす事、侍りしか[やぶちゃん注:私は「しが」の誤刻と思う。]、その由來をくわしく尋(たつぬ)るに、彼(か)の累と云女房、顏かたち、類ひなき𢙣女(あくぢよ)にして、剩(あまつさ)へ、心ばへまでも、かだましき、ゑせもの也。しかるに、親のゆづりとして、田畑(でんはた)少々、貯持(たくはへもつ)故に、与右衞門と云貧(まづし)き男、彼(かれ)が家に入甥(むこ)して、住(すみ)けり。

[やぶちゃん注:「寬文十二年」一六七二年。

「かだましき」「姧し・姦し」で「心が捩(ね)じ曲がっている・ひどくひねくれている」の意。]

 哀れ成哉(かな)、賤きものゝ渡世ほど、恥がましき事は、なし。此女を守りて、一生を送らん事、隣家(りんか)の見る目、朋友のおもわく、あまり、ほゐなきわざに思ひけるか、本(もと)より、因果を辨(わきま)ふるほどの身にしあらねば、

『何とぞ、此妻を害し、異女(ことおんな)を、むかゑん。』

と、おもひ究めて、有日の事なるに、夫婦もろとも、はたけに出て、「かりまめ」と云物をぬく。

[やぶちゃん注:「かりまめ」「刈豆」。大豆刈りであろう。しかし、思うに、「豆」は女性(女性生殖器の陰核)の隠語であるから、ここで既にして殺害の雰囲気が淫靡に示されていると私は思う。「累物」の一つとして知られる清元の舞踊に「色彩間苅豆」((いろもやうちよつとかりまめ(いろもようちょっとかりまめ)がある。]

 

Kasanekorosi

 

[やぶちゃん注:本シークエンスの挿絵左右二枚。底本には挿絵はなく、これは所持する前掲の国書刊行会の「近世奇談集成(一)」に挿入された東京大学総合図書館蔵本のそれをトリミング補正した。枠外は清拭したが、絵の内部は、一切、手をつけていない(因みに、平面的に撮影されたパブリック・ドメインの画像には著作権は発生しないというのが、文化庁の公式見解である)。キャプションがある。右の図は、中央に、

「羽生(はにう)村」

右中央に、

「与右衛門」

左中央やや下に、

「かさね」

左下下方に、

「きぬ川」

で、左の図では、右上に、

「所のもの

 見て

  ゐる」

右中央やや下に、

「与右衛門急に彼

 かさねを

    川へ

   しづめる」

とあるか。一行目後半「急に彼」(きふにかの)は自信がない。なお、前に掲げた他のネット上のソースでは、挿絵自体が全くない。所持する高田衛先生の「江戸の悪魔祓い師(エクソシスト)」(一九九一年筑摩書房刊)を見ると、この挿絵は、現在、大洲市立図書館蔵の本書で、絵師は西村重長とあった。因みに、この高田先生の一冊は本作での祐天の活躍を皮切りとして、その他の彼の怪奇撲滅のさまを解析した優れた評論集で、是非是非、お薦めの一冊である。]

 

 ぬきおわつて、認(したゝ)め、からげ、彼の女に、おほく、おふせ、其身も少々、背負ひ、暮近くなるまゝに、家地(いゑぢ)をさして歸る時、かさねがいふやう、

「わらわが負たるは、はなはだ、重し。ちと、取わけて持(もち)給へ。」

と、あれば、男のいわく、

「今少し、𥿻川邊まで、負ひ行(ゆけ)。彼(かし)こより、我、かわり持べし。」

と、あるゆへに、是非なく苦しげながら、やうやう、𥿻川邊(へん)にいたるとひとしく、なさけなくも、女を川中へ、つきこみ、男も、つゞゐて、とび入り、女のむないたを、ふまへ、口へは、水底(みなぞこ)の砂をおし込(こみ)、眼を、つつき、咽(のんど)を、しめ、忽ち、せめころしてけり。

 すなはち、死骸を川にてあらひ、同村(どうむら)の淨土宗法藏寺といふ菩提所に負ひ行き、

「頓死。」

と、ことはり、土葬し畢(をはん)ぬ。

 戒名は

「妙林信女 正保四年八月十一日」

と、慥(たしか)に彼(かの)寺の過去帳に見へたり。

[やぶちゃん注:「法藏寺」現在も羽生町にある浄土宗羽生山往生院法蔵寺。この寺には今も累一族の墓所が現存する(サイト「茨城見聞録」の「羽生山 住生院 法蔵寺と累の伝説|御朱印・祐天桜・累ケ淵」を参照されたい。画像もある)。東直近の鬼怒川に「累が淵」がある。

「正保四年八月十一日」グレゴリオ暦一六四七年九月九日。]

 さて、其時、同村の者共、一兩輩(いちりやうはい)、累が最後の有樣、ひそかに是を見るといへども、すがたかたちの見にくきのみならず、心ばへまで、人にうとまる、よほど成ければ、

「実(げ)にも、ことわり、さこそあらめ。」

と、のみいゝて、あながちに男をとがむるわざ、なかりけり。

 

2023/01/18

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(三十)(標題に「二九」とあるのは誤り)・「旧友芥川龍之介」奥附 /「芥川龍之介書簡集」~了 + 恒藤恭「旧友芥川龍之介」全篇電子化注~了

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。最後なので、原書簡(「芥川龍之介書簡抄88 / 大正七(一九一八)年(三) 五通」の三通目)に附した私の注も一部を追加して示しておく。

 なお、標題に発信地を「田端」とあるのは誤りで、「每日海へはいつたり」で判る通り、「鎌倉」(発信地を「鎌倉町大町辻」と記す)である。

 さらに、これを恒藤恭が時系列を無視して、本章=本書の掉尾に置いた意図は判らない。単に、挿入し忘れたのを、現行の最後に追加で置いただけのようにも思える。特に意図を以って配したとは思えない。いや、或いは、恒藤は、この日常的なシークエンスをモンタージュしたそれに、逆に「時々僕が癇癪を起して、伯母や妻をどなりつける」けれど、「每日海へはいつたり、人と話しをしたりして、泰平に暮してゐる」として、「一家無事」と記した、なんだかんだ言っても、芥川龍之介の確かな幸福な一瞬間をここに見出だし、それを最後にさりげなく画像として配したと考えるべきなのかも知れない。ただ、結婚した後、龍之介が文に対して、急にぞんざいな口をきくという暴露的特異点の一通ではあり、私も、鎌倉発であることから、幾つか思いに浮ぶ彼の書簡の中の一つではあるのである。そうして、これは、実は、この内容が、遺稿「或阿呆の一生」の以下を直ちに無条件反射で想起させるものだからでもある(但し、そのロケーションは田端の自宅なのであるが)。

   *

 

       三 家

 

 彼は或郊外の二階の部屋に寢起きしてゐた。それは地盤の緩い爲に妙に傾いた二階だつた。

 彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰たれよりも愛を感じてゐた。一生獨身だつた彼の伯母はもう彼の二十歲の時にも六十に近い年よりだつた。

 彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か氣味の惡い二階の傾きを感じながら。

 

   *

因みに、芥川龍之介の妻文の「二十三年ののちに」(昭和二四(一九四九)年三月発行の『図書』所収。岩波文庫石割透編「芥川追想」で読める)には、『亡くなる年の前あたりに、何を思い出したか、急に「鎌倉を引きあげたのが一生の誤りであった。」といったことがあります。』とあるのである(太字は私が施した)。

 本篇を以って「芥川龍之介書簡集」は終わっており、これで底本「旧友芥川龍之介」の本文パートは終わっている。

 最後にを電子化しておいた。

 さても、これより、本書全篇の一括縦書ルビ版(PDF)の製造にとり掛かる。相当な時間がかかることは、御理解戴きたい。無論、その過程で発見したブログ版の誤字は、修正し、また、注も補正・追加する。

 

    二九(大正七年八月六日田端から京都へ)

 

 拜 啓

 こないだ東京へかへつたら、おやぢの所へ君の手紙が來てゐた。寫眞は今一枚もないから、燒き增して送る由。京都からかへるとすぐ手紙を出したつもりでゐたから、その催促だと思つた。所がうちへ帰つて見ると、妻が君の所へ出す筈の手紙を未に出さずにあると云ふ。封筒の上書きがしてないから、まだ出しちやいけないんだと思つたんださうだよ[やぶちゃん注:この「よ」は原初書簡には、ない。]。莫迦。してなきや、してないと云ふが好いや。こつちも[やぶちゃん注:原書簡は「は」。]忙しいから忘れたんだと云ふと、私莫迦よと、意氣地なく悲観してしまふ。そこで、この手紙を書く必要が出來た。そんな事情だから君にはまだお茶の御礼も何も云はなかつた訳だらう。甚恐縮する。奧さんによろしくお詫びを願ふ。僕等夫婦はずぼらで仕方がないのだ。寫眞もおやぢに至急燒き增しを賴んだから、その中に送るだらう。

 この頃は每日海へはいつたり、人と話しをしたりして、泰平に暮してゐる。一家無事。時々僕が癇癪を起して、伯母や妻をどなりつける丈。

 

   晝の月霍乱人の目ざしやな

 

    八月六日           龍

   井 川 樣

 

[やぶちゃん注:「寫眞」二月二日の芥川龍之介と塚本文の結婚式の写真と思われる。

「京都からかへるとすぐ手紙を出したつもりでゐた」これは二ヶ月前の六月五日、横須賀海軍機関学校の出張で広島県江田島の海軍兵学校参観に行った帰りに京都に滞在したことを言っている。但し、この時、龍之介は恒藤(井川)恭とは逢っていないと思われる。龍之介が鎌倉へ戻ったのは六月十日頃であるから、一月半近くも文は表書きのない手紙をそのままにしていたということになる。確かにちょっと唖然とするが、しかし、それ以上に、結婚した途端、「文ちやん」への言葉遣いがド荒くなるのは、かなり、興醒めである。「時々僕が肝癪を起して伯母や妻をどなりつける丈」とあるのは、龍之介の書簡の中でも、かなり知られた一文である。また、この時期、伯母フキが鎌倉に滞在していたことも判る。なお、この六日後の八月十二日に名作「奉敎人の死」(九月一日『三田文学』発表)を脱稿(私の偏愛する作品で、私はサイトとブログで、

奉教人の死〔岩波旧全集版〕

作品集『傀儡師』版「奉教人の死」

芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)ブログ版

同前やぶちゃん注 ブログ版

原典 斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人伝」より「聖マリナ」

を完備させてある)、翌十三日からは、かの「枯野抄」を起筆している(九月二十一日脱稿で、十月一日『新小説』発表。同じく偏愛する一篇で、

枯野抄〔岩波旧全集版〕

作品集『傀儡師』版「枯野抄」

本文+「枯野抄」やぶちゃんのオリジナル授業ノート(新版)PDF縦書版

同HTML横書版

を完備している)。

「霍乱」(かくらん:原書簡でも「乱」はママ)は現在の「日射病・熱中症」の類い。昼の月を「白目を剝き出した病人の目」に喩えたもの。この句はこの年の「我鬼窟句抄」に載っているから、旧作の使いまわしではない。「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」参照。老婆心乍ら、「目ざし」は字余りでも「まなざし」と読んでいよう。

 以下、奥附。上部に本文は最小ポイントで「著者略歷」が載り(五行目の字空けはママ)、下方にやや縦長の罫線に囲まれて、書誌が載る。「著者」の姓名には「つねとう きよう」のルビがあるが、省略した。なんとなく見た目似せただけで、字のポイントの違いはブラウザの不具合が生じるので再現していない。]

 

 

 著 者 略 歷

大正五年兄弟法學部卒、

昭和十三年法學博士、京

大敎授、大阪商大學長を

經て現在大阪市立大學總

長、 著書「法の基本問

題」「法律の生命」「ハル

ムス法哲學槪論」その他

 

 

昭和二十四年八月一日 印刷

                  定 價 二 百 五 十 圓

昭和二十四年八月十日 發行

     ――――――――――――――――

  

  介       著  者   恒  藤   恭

  之            大阪市北區中之島三丁目三番地

  龍               朝日新聞大阪本社

  川       發 行 者     藤  原   惠

  芥            兵庫縣津名郡志筑町一五八九ノ一

  友                 株式會社井村印刷所

  旧       印 刷 者    井  村  雅  宥

     ――――――――――――――――

 發 行 所     大阪市中之島

                朝  日  新  聞  社

           東京都丸の内

              (電話北濱一三一、丸の内一三一)

 

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十九) (標題に「二八」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えており、カットもある本書簡は特異的にサイトの「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」で電子化注してある(書簡本文だけでよければ、ブログのプレ予告電子化のこちらで見られる)が、両方ともUnicode導入以前のWordで作ったため、漢字の正字化不全があるので、ここで、注を概ね含めて(恒藤恭の注などの不要と判断したものを除去し、一部を訂正・追加もした)総てを正規表現に直した原書簡を特異的に注で掲げておく(恒藤は文中の一部や最後を略してもいるからである)。中国へ『大阪毎日新聞社』特派員として向かう直前の書簡である。

 

    二八(大正十年三月八日 田端から京都へ)

 

 啓

 今この紙しかない。粗紙だが勘弁してくれ給へ。僕は本月中旬出発、三月程支那へ遊びに行つて來る。社命だから貧乏旅行だ。谷森君は死んだよ。余つ程前に死んだ。石田は頑健。藤岡には僕が出無精の爲会はない。成瀨は洋行した。洋行さへすれば偉くなると思つてゐるのだ。厨川白村の論文なぞ仕方がないぢやないか。こちらでは皆輕蔑してゐる。改造の山本実彥に会ふ度に、君に書かせろと煽動してゐる。君なぞがレクチュアばかりしてゐると云ふ法はない。何でも五月には頂く事になつてゐますとか云つてゐた。僕は通俗小說なぞ書けさうもない。しかし新聞社にもつと定見が出來たら、即、評判の可否に関らず、作家と作品とを尊重するやうになつたら、長篇は書きたいと思つてゐる。この頃益々東洋趣味にかぶれ、印譜を見たり、拓本を見たりする癖が出來て困る。小說は藝術の中でも一番俗なものだね。 (中略)

 奥さんによろしく。以上

    三月七日午後                龍 之 介

 

[やぶちゃん注:以下、特異的に原書簡を示し、注も附す 。岩波旧全集の「八六二」書簡を底本とした(新全集書簡番号は「929」)。

   *

大正十(一九二一)三月七日・消印八日・京都市下鴨森本町六 恒藤恭樣・三月七日 東京市外田端四三五 芥川龍之介

 

今この紙しかない 粗紙だが勘弁してくれ給へ 僕は本月中旬出發三月程支那へ遊びに行つて來る 社命だから 貧乏旅行だ谷森君は死んだよ 余つ程前に死んだ 石田は頑健 あいつは罵殺笑殺しても死にさうもない 藤岡には僕が出無精の爲會はない成瀨は洋行した 洋行さへすれば偉くなると思つてゐるのだ 厨川白村の論文なぞ仕方がないぢやないかこちらでは皆輕蔑してゐる 改造の山本實彥に會ふ度に君に書かせろと煽動してゐる君なぞがレクチュアばかりしてゐると云ふ法はない 何でも五月には頂く事になつてゐますとか云つてゐた 僕は通俗小說なぞ書けさうもないしかし新聞社にもつと定見が出來たら即 評判の可否に關らず作家と作品とを尊重するやうになつたら長篇は書きたいと思つてゐる この頃益東洋趣味にかぶれ印譜を見たり拓本を見たりする癖が出來て困る小說は藝術の中でも一番俗なものだね

同志社論叢拜受渡支の汽車の中でよむ心算だ 京都も好いが久保正夫なぞが蟠つてゐると思ふといやになる あいつの獨乙語なぞを敎つてゐると云つたつて ヘルマン und ドロテアは誤譯ばかりぢやないか

奧さんによろしく 頓首

    三月七日午後                 龍 之 介

   恭   樣

 

   *

○やぶちゃん注

・「谷森」谷森饒男(たにもりにぎお 明治二四(一八九一)年~大正九(一九二〇)年八月二十五日)のこと。日本史学者。芥川・恒藤の一高時代の同級生。東京帝国大学史料編纂掛嘱託となり、「檢非違使を中心としたる平安時代の警察狀態」(私家版)等をものすが、夭折した。官報によれば、一高卒業時の席次は、首席の恒藤と次点の芥川に次いで三番であった。父は貴族院議員の谷森真男である。

・「石田」は石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)年)のこと。歴史学者・東洋学者で、芥川・恒藤の一高時代の同級生。

・「藤岡」は藤岡蔵六(明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)年)のこと。哲学者。ドイツ留学中にヘルマン・コーエン(Hermann Cohen 一八四二年~一九一八年:ドイツのユダヤ人哲学者で、新カント派マールブルク学派の創設者の一人。時に「十九世紀で最も重要なユダヤ人哲学者」ともされる)の「純粹認識の論理」を翻訳して注目されたが、先輩であった和辻哲郎の批判を受け、後々まで不遇をかこった。甲南高等学校教授。芥川・恒藤の一高時代の友人。

・「成瀨」成瀬正一(明治二五(一八九二)年~昭和一一(一九三六)年)は仏文学者。横浜市生まれ。成瀬正恭(「十五(じゅうご)銀行」頭取)の長男で裕福であった。芥川・井川(恒藤)の一高時代の同級生で、東京帝大も芥川と同じ英文学科に進み、第三次・第四次『新思潮』に参加した。大正五(一九一六)年八月にアメリカに留学(芥川は「出帆」(リンク先は「青空文庫」(新字新仮名))と題した作品にその船出の様を描いている)するが、失望、ヨーロッパに渡り、帰国後は十八~十九世紀のフランス文学研究に勤しんだ。

・「厨川白村」(くりやがわはくそん 明治一三(一八八〇)年~大正一二 (一九二三)年)は英文学者・評論家。当時は京都帝大英文科教授であった。この頃、成瀬は彼に傾倒していたらしい。因みに、大正七(一九一八)年六月二日頃、芥川龍之介は出張した際に途中下車した京都で、彼と面会している。しかし、この部分、私はちょっと意味を取りかねている。「厨川白村の論文なぞ仕方がないぢやないかこちらでは皆輕蔑してゐる」という部分がそれで、これは或いは、先行する恒藤恭(京都帝大卒で、当時は同志社大学法学部教授であったが、この翌大正十一年には京都帝大経済学部助教授となっている)からの書簡の中に、成瀬の厨川白村論が評判だ、といった伝文があったのに対して、批判したもので――「厨川白村」について成瀬が書いた「論文なぞ」は「仕方がない」ほど評価しようがないもの「ぢやないか」、「こちらでは」、「皆」、彼のその論文を「輕蔑してゐる」ぜ、というニュアンスを私は感じる。「こちら」は京都に対する東京の謂いであり、ごく自然に以上のような意味でとれるからである。無論、そうではなく、芥川龍之介が実は厨川白村自身を評価していなかったというコンセプトとして読むことも可能であるが、厨川は京都帝大の前任者上田敏と同じく、日本における最初にして中心的なイェイツの紹介者であり、アイルランド文学の研究者を輩出するといった功績を考えるに、芥川がまるで評価していなかったというのは、ちょっと考え難い気がするのである。因みに、成瀬は芥川にとっては、所詮、プチブルのお坊ちゃんであり、他の書簡でも、彼をチャラかしたり、厳しい評を加えたりする記載がかなり多く、『新思潮』の同人で友人でもあったが、私は、芥川は彼を文学者としては、一貫して評価してはいなかったように捉えている。但し、碌な才能もない癖に、洋行する彼に、芥川の軽蔑と嫉妬が、綯い交ぜになった心理が、この裏にはあるような気がすることも言い添えておく。

・「山本實彦」(明治一八(一八八五)年~昭和二七(一九五二)年)は当時の大阪毎日新聞社社長であり、芥川も御用達の改造社の創設者である。後の大正一五(一九二六)年に『現代日本文學全集』(全六十三巻)の刊行を開始、円本ブームの火付け役ともなった人物で、芥川龍之介とは自死する直前まで(同全集の強行日程の宣伝部隊に芥川は里見弴と一緒に駆り出されている)いろいろと縁が深かった。

・「何でも五月には頂く事になつてゐますとか云つてゐた」今回、冒頭に掲げた松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」を見たところ、これは恒藤恭の論考「世界民の愉悅と悲哀」であることが判った。この二ヶ月後の大正一〇(一九二一) 年六月一日発行の『改造』に発表されている。

・「同志社論叢」柴田隆行編「L・フォイエルバッハ日本語文献目録」(PDF)によれば、丁度この頃、恒藤は、ドイツの哲学者で「青年ヘーゲル」派の代表的な存在であるルートヴィヒ・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach 一八〇四年~一八七二年)の著作の翻訳を行っている。例えば、「哲學の改革に關する問題」(大正一〇(一九二一)年岩波書店刊のプレハーノフ「マルクス主義の根本命題」所収)、「哲學の改革に關するテーゼ」(大正一二(一九二三)年『同志社論叢』の「マルクス主義の根本問題」巻末)や、「哲學の始點」(昭和二(一九二七)年『大調和』六月号)がそれである。芥川が彼から贈呈された論文も、フォイエルバッハ、若しくは、マルクス主義関連の翻訳か論文であったと考えてよい。

・「久保正夫」(明治二七(一八九四)年~昭和四(一九二九)年)は翻訳家・評論家。芥川・恒藤の一高時代の後輩。京都の第三高等学校講師。デンマークの詩人イェンス・ヨハンネス・ヨルゲンセン(Jens Johannes Jorgensen 一八六六年 ~一九五六年)の「聖フランシス」の訳(大正五(一九一六)年新潮社刊)や、トルストイ「人はどれだけの土地を要するか 外三篇」(大正六(一九一七)年新潮社刊)の訳等がある。

・「ヘルマン und ドロテア」大正七(一九一八)年に新潮社から刊行されたギョオテ(ゲーテ)著・久保正夫訳「ヘルマンとドロテア」を指している。大正九(一九二〇)年にはゲーテの「親和力」(新潮社)も訳しており、久保正夫の訳した本は芥川好みのラインナップではあるが、芥川には、余程、我慢がならない拙い訳であったようだ。

   *]

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十八) (標題に「二七」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。ここから最後までは、総てそちらで注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。

 なお、以下のクレジットは四月二十八日の誤りである。原書簡は「芥川龍之介書簡抄96 / 大正九(一九二〇)年(一) 三通」の三通目で電子化注してある。さらに、前の書簡(大正七(一九一八)年三月十一日)から実に二年も飛んでいる点も特異点である。

 

    二七(大正九年四月二十七日 田端から京都へ)

 

 啓

 手紙及雜誌難有う。君の論文は門外漢にも面白くよめた。法律哲学と云ふものはあんなものとは思はなかつた。正体がわかつたら大に敬服した。外の論文はちよいちよい引繰り返して見た。[やぶちゃん注:原書簡では句点なしで「がとても讀む氣は出なかつた」と続く。]

 本がまだ屆かない由、日本の郵便制度は甚しく僕を悩ませる。君のも入れると二十册送つた本の中、先方へ屆かないのが既に四册出來た訳だ 郵便局は盜人の巢窟のやうな氣がして頗不安だ。二、三日中に今度は書留め小包で御送りする。

 素戔嗚の尊なんか感心しちやいかん。第一君の估券[やぶちゃん注:ママ。「沽券」が正しい。]に関る。それより四月号の中央公論に書いた「秋」と云ふ小說を讀んでくれ給へ。この方は五、六行を除いて、あとは大抵書けてゐると云ふ自信がある。但しスサノオも廿三回位から持直すつもりでゐる。さうしたら褒めてくれ給へ。去る二十一日僕の弟の母[やぶちゃん注:実母フクの妹で新原敏三の後妻に入ったフユ。芥川龍之介からは叔母に当たる。]が腹膜炎でなくなつた。それやこれやでスサノオの尊は書き出す時からやつつけ仕事だつたのだ。去年は親父[やぶちゃん注:実父新原敏三。]に死なれ、今年は叔母に死なれ、僕も大分うき世の苦勞を積んだわけだ。どうも同志社なぞには倉田百三氏に感服する人が多かりさうな氣がする。違つたら御免。この間藏六[やぶちゃん注:藤岡蔵六。一高時代の二人の級友。]が感服してゐるのを見たら、ふとそんな氣がしたのだ。赤ん坊は比呂志とつけた[やぶちゃん注:長男。四月十日出生。就学年を上げるために三月三十日生まれで出生届を出している。]。菊池を Godfather にしたのだ。[やぶちゃん注:原書簡ではここに「赤ん坊が出來ると人間は妙に腰が据るね」とあるのをカットしている。]赤ん坊の出來ない内は一人前の人間ぢやないね。經驗の上では片羽の人間だね。大きな男の子で、目方は今月十日生れだが、もう一貫三百目ある。今ふと思ひ出したから書くが、この前君が東京へ來た時一しよに「鉢の木」で飯を食つたらう。(中略)[やぶちゃん注:略部分は原書簡参照。]久保正夫の講師は好いね。世の中はさう云ふものだ。さう云ふものだから腹を立てる必要はない。同時にさう云ふものだと云つて諦め切る必要もなささうだ。僕はこの頃になつてやつと active serenity の境に達しかけてゐる。もう少し成佛すると、好い小說も書けるし、人間も向上するのだが、遺憾ながらまだ其処まで行かない。相不変女には好く惚れる。惚れてゐないと寂しいのだね。惚れながらつくづく考へる事は、惚れる本能が煩惱即菩提だと云ふ事――生活の上で云ふと、向上即墮落の因緣だと云ふ事だよ。理屈で云へば平凡だが、しみじみさう思ひ当る所まで行くと。妙に自分を大切にする氣が出て來る。実際惚れるばかりでなく、人間の欲望は皆殺人劍活人劍だ。菊池は追々藝術家を廃業してソオシアリストの店を出しさうだ。元來さう云ふ人間なんだから仕方がないと思つてゐる。但しこの仕方がないと云ふ意味は実に困つてゐると云ふ次第ぢやない。当に然る可しと云ふ事だよ。むやみに長くなつたから、この辺で切り上げる。

 

       近 作 二 三

   白桃は沾(うる)み緋桃は煙りけり

   晝見ゆる星うらうらと霞かな

   春の夜や小暗き風呂に沈み居る

 

 奧さんに――と云ふより雅子さんと云ふ方が親しい氣がするが――によろしく。

                   さやうなら

     四月廿七日        一人の子の父

     二人の子の父樣

                 座 右

 

 二 伸

 僕の信用し難き人間を報告する(但し作物その他には相当に敬意を表する事もないではないが)(以下略)[やぶちゃん注:恒藤恭が略した部分は原書簡参照。「福田德三、賀川豐彥 堺枯川、生田長江 倉田百三 和田三造 鈴木文治」と七人をフル・ネームで挙げており、武者小路は「實際ソオシアリストも人亂しだ 武者小路」「実篤なぞは其處へ行くと嬉しい氣がするが」、その「御弟子は皆嫌ひ」とブチかましている。]

 

[やぶちゃん注:「さようなら」は「よろしく。」の後に二十三字明けで、同行にあるが、改行した。原書簡では「――によろしく さやうなら」である。]

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十七) (標題に「二六」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。ここから最後までは、概ねてそちらで注でリンクを示し(一通はちょっと別な形で電子化してある)、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。]

 

    二六(大正大正七年三月十一日 田端から京都へ)

 

 拜 啓

 御祝の品難有う。今日東京へ歸つて拜見した。

 うちはやつと見つかつたが、引越すのは多分今月廿日頃になるだらうと思ふ。鎌倉でも、橋[やぶちゃん注:原書簡は橋名の「亂橋」(みだればし)となっている。後注参照。]と停車場との中間にある寂しい通りだ。間數(まかず)は八疊二間、六疊一間、四疊二間、湯殿、台所と云ふのだから少し廣すぎる。が、蓮池があつて、芭蕉があつて、一寸周囲は風流だ。もし東京へ來る序ででもあつたら寄つてくれ給へ。番地その他はまだ僕も知らない。いづれ引越しの時通知する。

 例の通り薄給の身だから、これからも財政は少し辛(つら)いかも知れないと思つてゐる。兎に角人間は二十五を越すと、生活を間題にするやうになると云ふよりは、物質の力を意識し出すやうになるのだ。だから、金も欲しいが、欲しがつてもとれさうもないから、別に儲ける算段もしないでゐる。

 学校の方はいゝ加減にしてゐるから、本をよむ暇は大分ある。この頃ハムレットを讀んで大に感心した。その前にはメジュア、フオアメジユア[やぶちゃん注:原書簡では「メジユア フオアメジユア」。恒藤の転写ミスであろう。]を讀んでやつぱり感心した。僕の学校は一体クラシックスに事を缺かない丈が便利だ。バイロンのケインなんぞは初版がある。古ぼけた本をよんでゐるのは甚いゝ。その代り沙翁のあとで独訳のハムスンを読んだから妙な氣がした。新しいものもちよいちよい瞥見してゐる。あんまり面白いものも出なさうだね。

 その中に(四月頃)出張で又京都へゆくかも知れない。谷崎潤一郞君が近々京都へ移住するさうだ。さうして平安朝小說を書くさうだ。僕は今度はゆつくり寺めぐりがしたいと思つてゐる。

 あとは後便にゆづる。

 末ながら雅子樣によろしく

 別封は前に書いたが出さずにしまつたものだ。以上

    三月十一日                 龍

 

[やぶちゃん注:原書簡は「芥川龍之介書簡抄86 / 大正七(一九一八)年(一) 十通」の八通目で電子化注してある。諸注してあるが、ここでは以下を補足しておく。

「橋」文中注で示した「亂橋」は固有名詞であり、私はこれを外してしまった恒藤恭には、鎌倉の郷土史を手掛けている私としては、甚だ不満である。鎌倉市材木座二丁目のここ(グーグル・マップ・データ)にある。鎌倉名数の一つである「鎌倉十橋」の一つで、材木座の日蓮宗妙長寺の門前から少し海岸寄りにある橋(グーグル・マップ・データ)であったが、道路上は、現在、ほぼ暗渠化している。但し、上流部には小流が確認出来、現在は欄干様の後代のそれが、上下流の部分が配されてあり、よすがを残し、碑もある(後の二つのリンクは孰れもストリートビュー画像)。芥川が、それほど知られていないこの橋名を出しているのは、彼の尊敬する泉鏡花の初期作品「星あかり」が、この妙長寺や乱橋をロケーションとしているからと推察する。「星あかり」は明治三一(一八九八)年八月発行の『太陽』に「みだれ橋」の標題で発表され、後の明治三十六年一月に春陽堂から刊行された作品集「田每(たごと)かゞみ」に収録した際、「星あかり」と改題されている。私は昨年、この偏愛する一篇を正規表現PDF縦書版でマニアックな注を附して公開してあるので、是非、読まれたい。芥川好みのドッペルゲンガーらしき怪異も描かれており、恒藤恭が読んでいたかどうかは判らないが、芥川の確信犯の仕儀と心得る。なお、上記の地図の北の横須賀線の踏切の向こう側に「辻薬師堂」(正しくは「辻の薬師」)があるが、その鉄道を挟んだ西側に芥川龍之介の新婚の新居はあった(当時の鎌倉町大町字(あざ)辻の小山別邸の離れの建物を借り受けたもの)。本書簡から八日後の三月二十九日、芥川龍之介はここに転居している。宮坂年譜によれば、『当初は伯母フキも同居したが、翌月中旬には田端に帰る。フキは、以後も時々鎌倉を訪れた』とある。場所は現在の鎌倉市材木座一丁目の元八幡(鶴岡八幡宮の元宮である由比若宮)の南東直近のこの中央附近である(グーグル・マップ・データ)。既に述べたが、私の父方の実家は北西二百メートル余りの直近にある。この「辻」というのは、鎌倉時代にここに「車大路」と「小町大路」との辻があったことに由来する。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」明治三〇(一八九七)年八月二十五日発行 教恩寺/長善寺/亂橋/材木座」の「長善寺」(この雑誌発刊時には横須賀線敷設のために、この廃寺となっているので、この項立て自体はおかしい)の項を見られたい。

「その中に(四月頃)出張で又京都へゆくかも知れない」新全集の宮坂年譜によれば、この四月は三月から書き始めていた「地獄變」(五月一日(後者は二日)から二十二日まで『大阪毎日新聞』及び前記の系列新聞である『東京日日新聞』に連載)が、海軍機関学校の公務の多忙と重なり、脱稿が下旬まで延び、『精神的疲労は重く、月末には診察を受けている』という有様であった。但し、「出張」と言っており、これは五月三十日に出発した広島の江田島海軍兵学校参観を指すので、この時には具体な出張日程が示されていなかったものと思われる。先行する『恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その30) /「三十 京都の竹」』が、その出張後の京都訪問を指す。そのために電子化注した「芥川龍之介 京都日記 (正規表現・オリジナル注釈版)」も参照されたい。但し、この時、恒藤と逢ったかどうかは、確認出来なかった

「谷崎潤一郞君が近々京都へ移住するさうだ。さうして平安朝小說を書くさうだ」谷崎がこの時期に京都に転居した事実はなく。「平安朝小說」というのも、この時期、それらしいものはないように思う。]

2023/01/17

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十五)+(二十六) (標題に「二四」及び「二五」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。ここから最後までは、総てそちらで注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する(但し、ここは特異的に次の書簡とカップリングする)。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。本ブログ版では、本文丸括弧表記と区別するため、ルビは上付き丸括弧で示した。]

 

    二四(大正七年一月十九日 鎌倉から京都へ)

 

 女の名は

   加茂江(カモエ)(下加茂を記念するなら、これにし給へ)

   紫 乃(シノ)(子)

   さざれ(昔の物語にあり復活していゝ名と思ふ)

   茉 莉(マリ)(子)

   糸 井(イトヰ)(僕の友人の細君の名 珍しい名だが感じがいゝから)

 これで女の名は種ぎれ。男の名は

   治 安

   樓 蘭(二つとも德川時代のジヤン、ロオランの飜訳。一寸興味があるから書いた)              

   哲(テツ)。士朗。(この俳人の名はすきだ)

   俊(シユン)。山彥。(原始的詩歌情調があるぜ)

   眞 澄(マスミ)(男女兼用出來さうだ)

 そんなものだね。

 書けと云ふから書いたが、なる可くはその中にない名をつけて欲しい。この中の名をつけられると、何だかその子供の運命に僕が交渉を持つやうな氣がして空恐しいから。

 僕は來月に結婚する。結婚前とは思へない平靜な氣でゐる。何だか結婚と云ふ事が一のビズネスのやうな氣がして仕方がない。

 僕は子供が生れたら記念すべき人の名をつける。僕は伯母に負つてゐる所が多いから、女だつたら富貴子、男だつたら富貴彥とか何とかつけるつもりだ。或は伯母彥もいいと思つてゐる。そのあとはいい加減にやつつけて行く。夏目さんが申年に生まれた第六子に伸六とつけたのは大に我意を得てゐる。実は伯母彥と云ふ名が今からつけたくつて仕方がないんだ。

 この頃は原稿を皆断つてのんきに本をよんでゐる。英國の二流所の作者の名を大分覚えた。

 

   爪とらむその鋏かせ宵の春

   ひきとむる素袍の袖や春の夜

   燈台の油ぬるむや夜半の春

   葛を練る箸のあがきや宵の春

   春の夜の人參湯や吹いて飮む

 

この間運座で作つた句を五つ錄してやめる。

 

                         龍

  二伸、奧さんによろしく。產月は何時だい。今月かね。

 

[やぶちゃん注:原書簡は「芥川龍之介書簡抄86 / 大正七(一九一八)年(一) 十通」の二通目。次の書簡を参照。]

 

    二五(大正七年二月十五日 鎌倉から京都へ)

 

 御長男の生まれたのを祝す。御母子の健康を祈りながら

 

   春寒く鶴を夢みて產みにけむ

 

    二月十五日               芥 川 龍 之 介

 

[やぶちゃん注:因みに、恒藤恭の子は大正七年二月十五日、長男が生まれ、名は「信一」と命名されている。しかし、二年後の大正九年七月二日に亡くなった通知が齎されて(逝去は六月二十二日で、死因は疫痢であった)、芥川の家族中がショックを受けている(「芥川龍之介書簡抄98 / 大正九(一九二〇)年(三) 恒藤恭・雅子宛(彼らの長男信一の逝去を悼む書簡)」を参照)。芥川龍之介の案を採用しなかったことは、芥川龍之介にとって幸いであったと断ずることが出来る。何故なら、芥川は、こうした後の偶発的な不幸な状況に対して強い因果を想起する、関係妄想を持ち易い性格であるからである(事実、芥川龍之介が縁談の仲介を世話したり(小穴隆一の場合がそれ)、媒酌人を務めた、縁談や結婚が後に上手く行かなかったり、離婚となるケース(岡栄一郎の場合がそれ)等に於いて、それが強く認められる)。

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十四) (標題に「二三」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。

 以下の書簡は未電子化であったため、先ほど、「芥川龍之介書簡抄158 追加 大正六(一九一七)年十月七日 井川恭宛」として正規表現で電子化注をしておいた。標題に特異点で「東京」とあるが、田端の自宅である。]

 

    二三(大正六年十月七日 東京から京都へ)

 

 今日又東京へかへつて來た。態々難有う。

 あらしはずゐぶん東京がひどかつた。本鄕藪下のよく君と散步した通り(まつすぐゆくと森さんの家の前へ出る細い通り)では、あの大きな欅が三本根元からひつくり返つて、向う側の家を二つつぶしちまつた。大学の木も大分やられた。上野もひどい。銀座の柳がならんで何本も仆れたのも奇観だつたし、朝方々の看板が往來へたくさん落ちてゐたのも盛だつた。僕のうちは垣根が仆れただけだが、前の柏倉(屋根に鳩のあるうち)では、庇が何間か風にさらはれて、うちの中へ雨が土砂降にふりこんださうだ。うしろの小山君の庇も風にやられて、画を大分痛めたらしい。

 学校の方は大分忙しくなつた。和文英譯を敎へるんだから、やりきれない。近々大阪每日へ半月位の豫定で短篇をかく。

 雅子さんによろしく。

    十月七日               芥 川 龍 之 介

 

芥川龍之介書簡抄158 追加 大正六(一九一七)年十月七日 井川恭宛

 

[やぶちゃん注:現在、進行中の恒藤恭「旧友芥川龍之介」の「芥川龍之介書簡集」のための追加電子化はこれで終わる(残りの六通は既に本カテゴリの本チャンで総て電子化済み)。]

 

大正六(一九一七)年十月七日・消印八日・京都市外下加茂村松原中ノ丁八田方裏 井川恭樣 十月七日 芥川龍之介

 

拜啓

今日又東京へかへつて來た 態々難有う

あらしはずゐぶん東京がひどかつた 本鄕藪下のよく君と散步した通り(まつすぐゆくと森さんの家の前へ出る細い通り)ではあの大きな欅が三本根元からひつくり返つて向う側の家を二つつぶしちまつた 大學の木も大分やられた 上野もひどい 銀座の柳がならんで何本も仆れたのも奇觀だつたし朝方々の看板が往來へたくさん落ちてゐたのも盛だつた 僕のうちは垣根が仆れた丈だが前の柏倉(屋根に鳩のあるうち)では庇が何間か風にさらはれてうちの中へ雨が土砂降にふりこんださうだ うしろの小山巽道君の庇も風にやられて画を大分痛めたらしい

學校の方は大分忙しくなつた 和文英譯を敎へるんだからやりきれない 近々大阪每日へ半月位の豫定で短篇をかく

雅子さんによろしく頓首

    十月七日                 芥 川 龍 之 介

   井 川 恭 樣

 

[やぶちゃん注:「本鄕藪下」「まつすぐゆくと森さんの家の前へ出る細い通り」源氏の東京都文京区千駄木にある「藪下通り」(グーグル・マップ・データ)。北部分に旧森鷗外邸(観潮楼)があった(現在は「文京区立森鷗外記念館」)。

「柏倉」不詳。

「小山巽道君」画家らしいが、不詳。

「學校」横須賀海軍機関学校。

「短篇」「戯作三昧」(リンク先は私の作品集「傀儡子」版)。『大阪毎日新聞』夕刊に大正六(一九一七)年十月二十日から十一月四日(十月二十二日は休載)まで計十五回で連載された。

「雅子」恒藤の妻。]

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十三) (標題に「二二」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。

 以下の書簡は未電子化であったため、先ほど、「芥川龍之介書簡抄157 追加 大正六(一九一七)年九月四日 井川恭宛」として正規表現で電子化注をしておいた。]

 

    二二(大正六九月四日 鎌倉から京都へ)

 

 君に隠遁を賛成されて大にうれしくなつたから、この手紙を書く。

 隠遁にかけては、どうも東洋の方が西洋の方より進步してゐるやうだ、僕は同じ隠遁でも、西洋の坊主のやるやつは余り同情がない。エピクロスが地面を買つて、庭を造つて、お弟子と一しよにぶらついたのなどは、西洋にしては白眉だが、東洋にはざらにある。殊に支那人はその方面では大したものだ。王摩詰君などの高等遊民ぶりは実にうらやましい(陶君は田野にくつつきすぎて、僕には稍緣が遠い。)

 林泉の間に徘徊して、暇があれば本でもよんでゐるんだと、僕だつてもう向上するんだが、この頃のやうに鬼窟裡に生計ばかり営んでゐたんぢや、とても駄目だ。君は僕があまり書かないと云つたが、浮世の義理で、やつぱり殆月々書かされてゐるよ。今月も黑潮と中央公論と二つ書いた。それから新潮に日記を書いたから、これは君の方ヘ東京から送らせて、よんで貰ふ。

 どうも日本では、隠遁がブルヂョオアの手に落ちて以來、墮落したね。ポピュライズはヴァルガライズだつた形があるよ。德川時代も元和頃には詩仙堂の大將なんぞがゐたが、追々市井の隠居なるものが勢力を得て來て、大に隠遁道が低級になつて來た。まづ元祿の芭蕉が、最後の偉大なる隠遁家だらうと思ふ。まてよ、そのあとにも九霞山樵がゐる。高芙蓉がある。どうも僕の隠遁史は少し怪しいやうだ。

 雅子さん御懷胎の由、結構な事だ。僕の友人の細君で、今つはりで弱つてゐるのが二人ある。一人はフラウ・アカギだ。

 僕も家を持つと、どうせ貧乏人だから消極的に細々とやつて行かなけりやならない。それでも下宿生活よりましだらう。下宿生活位天下に索漠蕭瑟たるものはないね。パリで下宿ずまひをしてゐる中に、シングが碌に[やぶちゃん注:原書簡では「碌な」。]ものを書かなかつたのは、当然すぎる事だよ。

 かくと云へば、かく事は沢山あるんだが、中々かけるやうに形態を備へて來ない。それに時々、腰がふらついていけない。ふらつかない氣でも、あとで氣がついて見ると、ふらついてゐるんだから駄目だ。こないだシャヴァンヌが惡評はよまずに燒いてしまつて、どんどん仕事をしたと云ふのをよんで以來、僕もその方法を採用してゐる。印象派全盛の中で、あんな画をかきつづけるには、さうでもしなかつたら、駄目だらう、僕も批評と云ふ方面でだけ現代と沒交涉になつて、益々自由を尊重して行かうと思つてゐる。

 僕はこの頃大雅の画に推服し盡してゐる。あいつ一人、どうしてあんな時代に出たらう。雪舟とくらべたつて、或はだと思ふ。一步すすめて、夏珪や牧溪にくらべても、或はだと思ふ。それから字もあの男は馬鹿にうまいね。

 

                  (二十六年非ぢや平仄が合はない)

   卽今空自覺    四十九年非

   皓首吟秋宵    蒼天一鶴飛

 

 隱情盛な時に作つた詩だから、特に書き添へる。序にもう一つ。

 

   心情無炎暑

   端居思瀞然

   水雲凉自得

   窓下抱花眠

 

    九 月 四 日                 龍

 

芥川龍之介書簡抄157 追加 大正六(一九一七)年九月四日 井川恭宛

 

大正六(一九一七)年九月四日・消印五日・京都市下加茂村松原中ノ町八田方裏 井川恭樣 侍史・九月四日 かまくら海岸通野間方 芥川龍之介

 

 君に隱遁を賛成されて大にうれしくなつたから、この手紙を書く。

 隱遁にかけては どうも東洋の方が西洋の方より進步してゐるやうだ 僕は同じ隱遁でも 西洋の坊主のやるやつは余り同情がない。エピクロスが地面を買つて 庭を造つて、お弟子と一しよにぶらついたのなどは 西洋にしては白眉だが 東洋にはざらにある 殊に支那人はその方面では大したものだ 王摩詰君などの高等遊民ぶりは實にうらやましい(陶君は田野にくつつきすぎて 僕には稍緣が遠い)

 林泉の間に徘徊して、暇があれば本でもよんでゐるんだと、僕だつてもう向上するんだが、この頃のやうに鬼窟裡に生計ばかり營んでゐたんぢやとても駄目だ 君は僕があまり書かないと云つたが、浮世の義理で やつぱり殆月々書かされてゐるよ 今月も黑潮と中央公論と二つ書いた それから新潮に日記を書いたから、これは君の方ヘ東京から送らせてよんで貰ふ。

 どうも日本では、隱遁がブルヂヨオアの手に落ちて以來、墮落したね ポピユラライズはヴアルガライズだつた形があるよ 德川時代も元和頃には詩仙堂の大將なんぞがゐたが、追々市井の隱居なるものが勢力を得て來て 大に隱遁道が低級になつて來た。まづ元祿の芭蕉が、最後の偉大なる隱遁家だらうと思ふ まてよ、そのあとにも九霞山樵がゐる 高芙蓉がある。どうも僕の隱遁史は少し怪しいやうだ

 雅子さん御懷胎の由結構な事だ 僕の友人の細君で、今つはりで弱つてゐるのが二人ある。一人はフラウ・アカギだ

 僕も家を持つと どうせ貧乏人だから消極的に細々とやつて行かなけりやならない それでも下宿生活よりましだらう 下宿生活位天下に索漠蕭瑟たるものはないね パリで下宿ずまひをしてゐる中に、シングが碌なものを書かなかつたのは當然すぎる事だよ

 かくと云へば かく事は澤山あるんだが、中々かけるやうに形態を備へて來ない それに時々 腰がふらついていけない ふらつかない氣でも あとで氣がついて見ると ふらついてゐるんだから駄目だ こないだシヤヴアンヌが惡評はよまずに燒いてしまつて どんどん仕事をしたと云ふのをよんで以來 僕もその方法を採用してゐる 印象派全盛の中で、あんな画をかきつづけるには、さうでもしなかつたら 駄目だらう 僕も批評と云ふ方面でだけ現代と沒交涉になつて、益自由を尊重して行かうと思つてゐる

 僕はこの頃大雅の画に推服し盡してゐる あいつ一人 どうしてあんな時代に出たらう 雪舟とくらべたつて、或はだと思ふ 一步すすめて、夏珪や牧溪にくらべても或はだと思ふ それから字もあの男は馬鹿にうまいね[やぶちゃん注:以下の丸括弧二つは底本では繋がった大きな「(」。これはしかし、芥川龍之介自作の漢詩の二句目の「四十九年非」に対する注指示の記号であって、「二十六年非」(この時、芥川龍之介数え「二十六」歳)としたのでは、「平仄が合はない」からこうした、という注記である。]

         (二十六年非ぢや平仄が合はない

   卽今空自覺 (四十九年非

   皓首吟秋宵  蒼天一鶴飛

 隱情盛な時に作つた詩だから、特に書き添へる 序にもう一つ

   心情無炎暑

   端居思瀞然

   水雲凉自得

   窓下抱花眠

    九月四日

   井 川 恭 樣                 龍

 

[やぶちゃん注:「かまくら海岸通野間方」既に注した由比ガ浜和田塚近くの下宿であるが、この十日後、横須賀市汐入の下宿に移っている。

「エピクロス」Epikouros(起源前三四一年~紀元前二七〇年)はギリシアの哲学者。紀元前三一一年頃んいミュティレネに学派を創始し、同三〇六年にはアテネ郊外の庭園に移った。それに因んで彼の学派は「庭園学派」と呼ばれる。デモクリトスの原子論を根底とし、霊魂をも、物体とする唯物論者であり、感覚を知識の唯一の源泉、且つ、善悪の標識とした。そこから有名な「快楽主義」が生れたが、その快は、煩いを伴うものであってはならないとして、享楽であるより、苦しみのない心の平静でなくてはならないとした。そこで彼は、来世を否定し、死に対する恐怖を断ち、神々を恐れる迷信を乗越え、自ら神々の平静さに与かろうとした。この努力により、彼は「魂の救済者」という名声を得、その範例的生故に人々の尊敬を集めた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「王摩詰君」知られた盛唐の詩人王維の字(あざな)で「わうまきつ」と読む。

「陶君」私が高校時代から偏愛する魏晋南北朝(六朝)時代の東晋末から南朝宋の頃の詩人陶淵明。

「鬼窟裡」「鬼窟」は「知識が開けず、ものの道理に冥いこと。また、そうした場所・仲間」の意で、転じて「くだらないこと・存在」の意に用いるので、ここは「俗世間」の意である。

「今月も黑潮と中央公論と二つ書いた」九月一日発行の『黒潮』に発表した「二つの手紙」と、同日発行の『中央公論』に発表した「或日の大石内藏助」(リンクは前者が「青空文庫」(但し、新字新仮名)、後者は私の古いサイト版で正規表現版でオリジナル注附き)。前者は芥川龍之介の最初のドッペルゲンガー小説である。因みに芥川龍之介は後年、自身のドッペルゲンガーを見たと証言している。私のブログ版『芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』を参照されたい。一方、後者は、私が中学時代にこのシークエンスを選んで心理分析した龍之介に大いに感心した佳品である)。

「新潮に日記」九月一日発行の『新潮』に発表した「田端日記」。

を書いたから、これは君の方ヘ東京から送らせてよんで貰ふ。

「ポピユラライズ」popularise。フラットな意で、「一般化する」。

「ヴアルガライズ」vulgarize。批判的謂いで、「卑俗化する・俗悪化にする・通俗化する」。

「元和」江戸前期の「慶長」の後で、「寛永」の前。一六一五年から一六二四年まで。徳川秀忠・徳川家光の治世。

「詩仙堂の大將」石川丈山(天正一一(一五八三)年~寛文一二(一六七二)年)は元武将で文人。三河生まれ。「大坂の陣」の後、浪人となった。一時は浅野家に仕官したが、致仕し、京都郊外に隠棲し、丈山と号した。詳しくは当該ウィキを参照されたい。

「九霞山樵」南画家・書家として知られる池大雅(享保八(一七二三)年~安永五(一七七六)年)の別号の一つ。

「高芙蓉」(享保七(一七二二)年~天明四(一七八四)年)は甲斐高梨生まれの儒者で篆刻家・画家。出生地に因み、姓を「高」とした。 二十歳の頃に京都へ移住し、儒学・金石学・篆刻・書画・武術を独修した。儒学者として立つのが本意であったが、寧ろ、余技とした篆刻・作画で知られた。篆刻は秦・漢の古印の復古を志し、当時、日本で盛んだった明の刻風を一変させ、「印聖」と称された。絵画は宋元画を臨模し、柔軟な感覚による清楚な作風で知られる。池大雅・円山応挙など、当時の文人と広く交わり、指導的役割を果した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。

「雅子さん」恒藤の妻。当時は数えで二十歳。

「フラウ・アカギ」「フラウ」はドイツ語の“Frau”で「夫人・妻」の意。「アカギ」は評論家赤木桁平。昨日公開した「芥川龍之介書簡抄156 追加 大正六(一九一七)年八月二十九日 井川恭宛」の私の注を参照。

「蕭瑟」(せうひつ(しょうしつ))は、元は「蕭」が風や落葉のものさびしい音の形容で、「瑟」は「大形の琴」であるが、もの淋しい音がすることから、これで「秋風がものさびしく吹きすさぶこと」を言う。組んだ「索漠」と同じ。

「パリで下宿ずまひをしてゐる中に、シングが碌なものを書かなかつた」さんざん注したアイルランドの劇作家で詩人のジョン・ミリントン・シング (John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)は一八九四年にパリ大学に留学し、一九〇三年に故国に戻っているが、この間に彼は、事実、碌なものを書いていない。但し、一八九六年にと翌年の二度、アラン諸島を訪づれており、これが後年の名作「アラン諸島」(The Aran Islands :一九〇七年)を生んだ。私は同作の姉崎正見訳を、こちらのサイト版(三部分割)、及び、ブログ版で電子化注を古くに終っている。なお、その一八九七年に彼は宿痾となるホジキン・リンパ腫を発症している。実際、彼の優れた作品は総てアイルランドに戻って以降に書かれたものである。私は特に、戯曲「聖者の泉」(三幕)がすこぶるつきで好きで、芥川龍之介が最後に愛した松村みね子(片山廣子)訳をサイトで公開してある。

「シヤヴアンヌ」フランスの画家ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ(Pierre Puvis de Chavannes 一八二四年~一八九八年)。

「夏珪」(生没年不詳)は南宋の画家。杭州銭塘県出身。南宋の都の臨安の画院で、寧宗の時代に活躍し、特に山水画で知られる。当該ウィキによれば、『北宋期の風景画が大観的な視点から描いているのに対し、夏珪の画の多くは、画の一角に風景を描き』、『多くを余白にした(「辺角の景」)』とある。

「牧溪」表記は牧谿(生没年不詳)が正しい。十三世紀後半の南宋末・元初の僧。法諱は法常。当該ウィキによれば、『水墨画家として名高く、日本の水墨画に大きな影響を与え、最も高く評価されてきた画家の一人である』とあり、彼の山水画は、本邦では、古くからもてはやされた。『鎌倉時代末には日本に伝わっ』ており、十四『世紀中頃には贋作が多く作られるほど人気を呼び、当時の文献でただ「和尚」といえば牧谿のことを指すほど親しまれた。記録も数多く残り、牧谿作品の来歴もかなり正確に知ることが出来る』とし、『牧谿のモチーフの中でも猿は非常に人気があり、雪村や式部輝忠といった関東水墨画の絵師たちも多くの作品を残している。最も熱心に牧谿を学んだ絵師は長谷川等伯で』、『「等伯画説」でも多くの項目を牧谿に充て、明らかに牧谿の影響を受けた作品が数多く残る。傑作「松林図屏風」』(私の偏愛の屏風)『もその成果が結実した作品と看做せよう』。『現在、牧谿の優品はほぼすべて日本にあり、国宝、重要文化財に指定された作品も多い。中国・台湾・欧米にも伝称作を含め』、『牧谿の絵はほとんど存在しない』とある。

「卽今空自覺」「四十九年非……」の漢詩は、私のサイト版「芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈」の「十四」で教え子も加わって、かなりディグしてあるので、是非、参照されたい。

「心情無炎暑 端居思瀞然……」同前のリンク先の「十三 乙」を参照されたい。これには別稿があり、それがその前の「十三 甲」である。

 なお、言っておくと、この書簡が書かれた同じ日に、芥川龍之介は婚約者塚本文に手紙を書いている。「芥川龍之介書簡抄79 / 大正六(一九一七)年書簡より(十一) 塚本文宛三通」を見られたい。]

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十二) (標題に「二一」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。]

 

    二一(大正六年八月二十九日 鎌倉から京都へ)

 

 御無沙汰した。

 雅子さんも相不変御壯健な事と思ふ。僕は暑中休暇を全部東京で費した。赤木の桁平さんと京都へ行くつもりだつたが、向うにある事件が始まつたので、行けなくなつた。松島見物にゆく計画もあつたが、矢張おじやんになつた。

 東京では每日本をよんだり、ものを書いたりして甚だ太平に消閑した。消極的に屋内にばかりゐたから、芝居とか何とか云ふものには一向足を入れなかつた 人にもうちへ來たお客のお相手をした丈で、諸方へ甚御無沙汰をした。每日暑い思をして橫須賀の町をてくてく步いてゐたあとだから、東京の暑さも大して苦にならなかつた。胃の具合も大へんに好い。槪して鎌倉住みになつてから、体が丈夫になつたやうだ。

 來年の三月頃鎌倉へうちを持つ筈だが、まだ漫然とした予想だけで、少しも確実にはなつてゐない。しかし下宿生活は心そこから嫌になつた。

 実は学校もやめてしまつて閉靜に暮したいのだが、いろんな事情がさう云ふ事を許さない。花に浣いだり[やぶちゃん注:「そそいだり」。]、本を讀んだりしてばかりゐられたら、さぞ好いだらうと思ふが、思ふだけだから悲惨だ。僕は元來東洋的エピキュリアンだからな。この間も支那人の隠居趣味を吹聽した本を讀んで、大に同情した。

 東京でぶらぶらしてゐた間に義理でつくつた俳句を御らんに入れる。これを臆面もなく画帖や扇子へ書きちらかしたんだよ。

   論して曰牡丹を以て貢せよ[やぶちゃん注:「論」はママ。原書簡では「諭」である。これでは句意がおかしくなる。恒藤恭の判読の誤りか、誤植である。]

   あの牡丹の紋つけたのが柏莚ぢや

   牡丹切つて阿嬌の罪をゆるされし

       ×

   魚の目を箸でつつくや冴返る

   後でや高尾太夫も冴返る

   二階より簪落して冴返る

       ×

   春寒やお関所破り女なる

   新道は石ころばかり春寒き

       ×

   人相書に曰蝙蝠の入墨あり

       ×

   銀漢の瀨音聞ゆる夜もあらむ

 あとは忘れちまつた。

    八月廿九日            芥 川 龍 之 介

 

[やぶちゃん注:最後の署名は、底本では四字上げ下インデント。本原書簡は未電子化であったので、昨夕、「芥川龍之介書簡抄156 追加 大正六(一九一七)年八月二十九日 井川恭宛」として電子化注しておいたので参照されたい。

 なお、句については、既に、私が強力な句「餓鬼」となって蒐集したオリジナルの「芥川龍之介俳句全集」(こちらで全五巻)の各所で注しているが、ここで少し纏めておく。まず、この十句は俳人芥川我鬼誕生前のプレ作品群で、一句も最後に自らが厳撰した句群(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」)には含まれていない。これらの句の半分は、過去に見た歌舞伎見物のシークエンスを素材としているものと私は推察する。

「諭して」「さとして」。「教え導いて」。後の「貢」は「みつぎ」。ここは風流者・隠者の嘯(うそぶ)きのポーズであり、ここに出る「牡丹」は歌舞伎役者市川団十郎家において二代目以降の花とされているものであり、これは二代目の贔屓方であった江戸城大奥方の女性が彼に送った着物の柄が牡丹であったからとされることを受けて一句を構築したものと私には思われる。

「柏筵」(はくえん)は二代目市川団十郎(元禄元(一六八八)年~宝暦九(一七五九)年)の俳号。彼はかの蕉門の榎本其角との交流もあった。

「阿嬌」は一般には「美人」の普通名詞であるが、ここは漢籍に詳しかった芥川龍之介なれば、その語源である陳阿嬌を指しているように思われる。阿嬌は、漢の武帝の皇后で、大変な美人あったが、武帝より十六歳年上な上に、房事に無関心であった。そのため、武帝も彼女のもとには通わなくなってしまい、代わりに阿嬌の姉の平陽公主、次いで衛子夫(えいしふ)を愛するようになってしまい、後、子のなかった阿嬌は皇后を廃されてしまい、衛子夫が皇后となったいわくつきの悲劇の美女なのである。この句の「罪」は、その房事無関心の罪であり、それへのオマージュとしてのイマジナルな映像であろう。

「冴返る」時季外れの春の季題「冴返る」(春先、暖かくなりかけたかと思うと、再び、寒さがぶり返すことを言う)であるが、この語、芥川我鬼が非常に偏愛した語で、多くの句で頻繁に使用されている。なお、芥川は必ずしも同期的に句を作ることにはあまり拘らず、時に無季と思われる句も読み、新傾向の非定型句や、さらに自由律俳句と見まごう句も一時期には見られる。

「高尾太夫」は、江戸時代の新吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は十一人いたと言われているが、いずれも京町一丁目三浦屋四郎左衛門方のお抱え遊女であった。ここはそれをシンボライズした一句と思われるが、芥川龍之介の晩年の名随想「本所兩國」(昭和二(一九二七)年五月『東京日日新聞』夕刊に全十五回で連載。リンク先は私の古いサイト版電子化注)の『乘り繼ぎ「一錢蒸汽」』の中で、

   *

駒形は僕の小學時代には大抵「コマカタ」と呼んでゐたものである。が、それもとうの昔に「コマガタ」と發音するやうになつてしまつた。「君は今駒形(こまかた)あたりほとゝぎす」を作つた遊女も或ひは「コマカタ」と澄んだ音を「ほとゝぎす」の聲に響かせたかつたかも知れない。支那人は「文章は千古の事」と言つた。が、文章もおのづから匂を失つてしまふことは大川の水に變らないのである。

   *

と述懐しており、この句を詠んだ、知られた悲劇の二代目高尾太夫の伝説をイメージしていたのかも知れない。以上に句は万治二(一六五九)年に彼女が伊達綱宗に贈った句とされるものだが、俗説では、高尾は熱心に通う綱宗を徹底して振り続け、結局、彼に惨殺されてしまい、これが「伊達騒動」の火種となったとされる。

「二階より簪落して冴返る」簪(かんざし)を落とすというシーンはないが、私は若き日にこの句を読むに、直ちに「曽根崎心中」のお初が吊行灯を消すと同時に階下に落ちるシークエンスを思い出していた。

「新道」単なる思いつきだが、当時の東京で最も知られた「新道」の名のつくそれは、「食傷新道」(しょくしょうじんみち)である。現在の中央区日本橋一丁目附近で、今は完全な高層ビル街に変貌して往時の印象は全くない。悲惨な大火で知られる「白木屋」は後に「東急百貨店」となり、更にその跡地に現在は「コレド日本橋ビル」があるが、ここにあった細い通りが、「白木屋の横町」「木原店」と呼ばれ、左右共に美味の評判高い小飲食店が目白押しに建ち並んでいた。ここは江戸時代、文字通り、「通一丁目」として、江戸で最も繁華な場所で、明治になってもその面影が残っており、東京一の飲食店街として浅草上野よりも知られた通りであった。俗に「食傷通り」「食傷新道」などとも呼ばれた。「宇野浩二 芥川龍之介 十 ~ (1)」(私の古い分割ブログ版)で、宇野と芥川がここある「中華亭」で食事をしつつ、『聞きとれないような低い声で、「どうも、この家(うち)は、僕には、『鬼門(きもん)』だ、」と、云った。』という、すこぶる印象的なシーンが出る。

「蝙蝠の入墨」言わずもがな、「お富与三郎」で知られる「与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)」の「源氏店」蝙蝠安の場面を素材とする。蝙蝠安は、ならず者で、頰に蝙蝠の刺青をしている。

「銀漢」天の川。やはり彼が句で好んだ語である。]

2023/01/16

芥川龍之介書簡抄156 追加 大正六(一九一七)年八月二十九日 井川恭宛

 

[やぶちゃん注:ここで一言言っておくと、私が「芥川龍之介書簡抄」を昨年作った際のコンセプトは「私が気になる書簡」を選ぶことであった。また、それ以前に私はオリジナルに「芥川龍之介俳句全集」(こちらで全五巻)と、「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集」、及び、芥川龍之介漢詩全集」を作成した際、俳句・短歌・漢詩に関しては、岩波旧全集と岩波新全集(こちらは新字体が気持ちが悪いので買いそびれて数冊しか所持していないが、当時、勤務していた高校の図書館で借りた)の書簡を総て精査し、それらは漏らさず採ったと考えているため、それらは、原則、書簡の俳句・短歌以外の部分に「気になる」箇所がない限り、その書簡は外してあるのである。逆に、詩篇については、「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」では、書簡を渉猟対象から外しており、冒頭注でも『「全詩集」では毛頭ないことを断って』あり(但し、私はブロブ・カテゴリ『芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」という夢魔』も手掛けており、手を抜いているわけでもないことは言っておく)、詩篇と判断されるものが断片でも含まれるものは概ね採用したのである。「追加」が生じているのは、概ね現在は進行中の恒藤恭「旧友芥川龍之介」に芥川龍之介の恒藤(旧姓井川)宛書簡が多量に出現するために、ちゃんと私の電子化注した原書簡が、別記事と比較並列でき、さらに一括で調べられるようにするための「追加」の仕儀なのであることを御理解戴きたい。見かけや体裁だけを繕うための自慰行為ではないことを明言しておく。]

 

大正六(一九一七)年八月二十九日・消印三十日・京都市外下加茂松原中ノ町 井川恭樣 八月廿九日 芥川龍之介

 

御無沙汰した

雅子さんも相不變御壯健な事と思ふ 僕は暑中休暇を全部東京で費した 赤木の桁平さんと京都へ行くつもりだつたが向うにある事件が始まつたので行けなくなつた 松島見物にゆく計畫もあつたが矢張おじやんになつた

東京では每日本をよんだりものを書いたりして甚[やぶちゃん注:「はなはだ」。]太平に消閑した 消極的に屋内にばかりゐたから芝居とか何とか云ふものには一向足を入れなかつた 人にもうちへ來たお客のお相手をした丈で諸方へ甚御無沙汰をした 每日暑い思をして橫須賀の町をてくてく步いてゐたあとだから東京の暑さも大して苦にならなかつた 胃の具合も大へんに好い 槪して鎌倉住みになつてから体が丈夫になつたやうだ

來年の三月頃鎌倉へうちへ[やぶちゃん注:ママ。]持つ筈だがまだ漫然とした豫想だけで少しも確實にはなつてゐない しかし下宿生活は心そこから嫌になつた

実は學校もやめてしまつて閉靜に暮したいのだがいろんな事情がさう云ふ事を許さない 花に浣いだり[やぶちゃん注:「そそいだり」。]本を讀んだりしてばかりゐられたらさぞ好いだらうと思ふが思ふだけだから悲慘だ 僕は元來東洋的エピキユリアンだからなこの間も支那人の隱居趣味を吹聽した本を讀んで大に同情した

東京でぶらしてゐた[やぶちゃん注:ママ。]間に義理でつくつた俳句を御らんに入れる これを臆面もなく画帖や扇子へ書きちらかしたんだよ

   諭して曰牡丹を以て貢せよ

   あの牡丹の紋つけたのが柏莚ぢや

   牡丹切つて阿嬌の罪をゆるされし

       ×

   魚の目を箸でつつくや冴返る

   後でや高尾太夫も冴返る

   二階より簪落して冴返る

       ×

   春寒やお關所破り女なる

   新道は石ころばかり春寒き

       ×

   人相書に曰蝙蝠の入墨あり

       ×

   銀漢の瀨音聞ゆる夜もあらむ

あとは忘れちまつた 頓首

    八月廿九日            芥 川 龍 之 介

   井 川 恭 樣

 

[やぶちゃん注:「雅子さん」恒藤恭の妻恒藤雅(まさ 明治二九(一八九六)年~昭和五七(一九八二)年)。日本最初の農学博士の一人であり、本邦の土壌学の創始者にして「ラサ工業」を設立したことで知られる恒藤規隆(安政四(一八五七)年~昭和一三(一九三八)年)の長女。著者は彼女の婿養子として大正五(一九一六)年十一月に結婚、井川から恒藤姓となっている。

「赤木の桁平さん」赤木桁平(あかぎこうへい 明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)年:芥川より四つ年下)は評論家、後に政治家。ウィキの「赤木桁平」によれば、『本名は池崎忠孝。初めて夏目漱石の伝記を書いた人物として知られ、漱石門下で一歳違い(赤木の方がとし上)という近さから、芥川龍之介との交流も頻繁で、書簡のやり取りも甚だ多い。衆議院議員を戦前・戦中に三期務めた。『岡山県阿哲郡万歳村(現・新見市)生まれ。東京帝国大学法科大学卒業、在学中夏目漱石門下に入り、漱石命名による「赤木桁平」の筆名で文芸評論を書いたが、中でも』、大正五(一九一六)年の『朝日新聞』に載せた「『遊蕩文学』の撲滅」が有名である。これは、当時、花柳界を舞台にした小説が多く、「情話新集」なるシリーズが出ていたのを、「遊蕩文学」と名づけて攻撃したもので、その筆頭たる攻撃目標は近松秋江だったが、ほかに長田幹彦、吉井勇、久保田万太郎、後藤末雄が槍玉に挙げられた。これは論争になったが、久保田や後藤は、攻撃されるほど花柳小説を書いてはいなかったし、当時、東京帝大系で非漱石系の親玉だった小山内薫が反論した中に、なぜ自分や永井荷風が攻撃目標になっていないのか、とあったが、谷崎潤一郎も批判されていなかった。また、もし少しも遊蕩的でない小説を書く者といったら、漱石と小川未明くらいしかいないではないかという反論もあった。谷崎や荷風が攻撃から外されていた点については、赤木が当時谷崎と親しく、谷崎の庇護者だった荷風にも遠慮したからだろうとされている』。卒業後、『萬朝報』に入社し、論説部員を務めた。その後』、家業のメリヤス業を継いだが、昭和一一(一九三六)年に衆議院議員に当選、第一次『近衛内閣で文部参与官を務めた』。これ以前、昭和四(一九二九)年以降は本名の池崎忠孝で『日米戦争を必然とする立場から盛な著作活動を行な』った。戦後はA級戦犯に指定され、『巣鴨プリズンに収監され』たが、『後に病気のため釈放され』たものの、『公職追放となり』、『そのまま不遇のうちに死去』した、とある。なお、芥川龍之介の書簡では、宛名の関係上、本文内を除くと、本名の池崎忠孝の表記で見かけることの方が遙かに多い。

「向うにある事件が始まつたので行けなくなつた」「松島見物にゆく計畫もあつたが矢張おじやんになつた」とあるのは共通の赤木絡みか。単に「向う」を場所の「京都」に何か「事件が始ま」ったから行けなくなったなら、反対方向の「松島見物」がおじゃんになった理由が説明できないから、違う。ということは、「向う」は「赤木」の方に生じた「事件」ということになろう。当該ウィキによれば、『東京帝大卒業後』のこの大正六年に『『萬朝報』に入社し、論説部員を務めた』が、『養家の長女との結婚を養父母に反対されるも』、『妊娠がわかり』、翌年に『入籍、長男修吉誕生。帝劇女優とのゴシップを起こしたことをきっかけに退職した』とある。この記載はやや長い期間を圧縮しているのかも知れぬが、赤木側の何らかのトラブル(彼は以上のように文壇でもトラブル・メーカーであった)が原因であった可能性が高いように私には感じられる。

「鎌倉住みになつてから」芥川龍之介は海軍機関学校就任から暫くの間、鎌倉和田塚近くの洗濯屋に下宿していた(但し、通勤に時間がかかるためと思われるが、この書簡の半月後の大正六年九月十四日、職場に近い横須賀市汐入の下宿に移っている。『恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その8・その9) /「八 嵐山のはるさめ」「九 帰京後の挨拶の手紙」』の前者の私の注を参照)。

「來年の三月頃鎌倉へうちへ持つ筈だがまだ漫然とした豫想だけで少しも確實にはなつてゐない」翌大正七(一九一八)年の二月二日に文と結婚し、十三日には大阪毎日新聞社社友の件が決まり、月末には名作「地獄變」を起筆、三月には鎌倉大町辻の旧小山別邸内(グーグル・マップ・データ:因みに、私の父方の実家はこの直ぐ近くである)に転居した。

「浣いだり」「そそいだり」は、「水をやる」というのでなく、その美しい花を「眺めては心を浣(あら)う」の意である。

「エピキユリアン」epicurean。狭義には、古代ギリシアの哲学者エピクロスの哲学説を信奉、継承する人をいう。則ち、その原子論的自然観と快楽主義的倫理観を継承する人であり、近代ではガッサンディ、ホッブズ、コンディヤックがその代表者である。広義には、快楽主義、享楽主義的な生き方を信条とする人をいい、粗野な肉体的快を追求する者である場合も、洗練された精神的快を追求する者である場合もある(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「支那人の隱居趣味を吹聽した本」不詳。

「諭して」「さとして」。「教え導いて」。なお、以下の句については、私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句」の「三一四 八月二十九日 井川恭宛」の私の注を参照されたい。]

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十一) (標題に「二〇」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。

 なお、この書簡は、本書の先行する「芥川龍之介のことなど」の「九 帰京後の挨拶の手紙」で、一度、丸々、出ている書簡である。律儀というよりも、恒藤恭の自身宛の芥川龍之介書簡を編年体(一部に大きな間違いはあるが)で資料として読者に供するという学者らしい配慮と言うべきである。再掲すると、原書簡は「芥川龍之介書簡抄71 / 大正六(一九一七)年書簡より(三) 塚本文宛・井川(恒藤)恭宛」で電子化注してある。]

 

    二〇(大正六年 田端から京都へ)

 

 先達はいろいろ御厄介になつて難有う。

 その上、お土產まで頂いて、甚だ恐縮した。早速御礼を申上げる筈の所、かへつたら、母が丹毒でねてゐた爲、何かと用にかまけて、大へん遅くなつた。

 かへつた時は、まだ四十度近い熱で、右の腕が腿ほどの太さに、赤く腫れ上つて、見るのも氣味の惡い位だつた。何しろ、命に関する病氣だから、家中ほんとう[やぶちゃん注:ママ。原書簡も同じ。]にびつくりしたが、幸とその後の経過がよく、医者が心配した急性腎臟炎も起らずにしまつた。今朝、患部を切つて、炎傷から出る膿水をとつたが、それが大きな丼に一ぱいあつた。今熱を計つたら卅七度に下つてゐる。このあんばいでは、近々快癒するだらうと思ふ。医者も、もう心配はないと云つてゐる。

 何しろ、かへつたら、芝の伯母や何かが、泊りがけで、看護に來てゐたには、實際びつくりした。尤も腕でよかつたが。

 医者曰く、「傳染の媒介は、一番が理髮店で、耳や鼻を剃る時に、かみそりがする事が多い。さう云ふのは、顏へ來る。顏がまつ赤に腫れ上つて、髮の毛が皆ぬけるのだから、女の患者などは、恢復期に向つてゐても、鏡を見て氣絕したのさへあつた」と。用心しないと、あぶないよ、実際。

 とりあへず御礼かたがた、御わびまで。

 まだごたごたしてゐる。

    廿一日夜           龍

 

[やぶちゃん注:「関する」恒藤恭が読み替えているのだが、ここは原書簡では「關る」であり、素直に読むならば、私は「かかはる」と訓じていると思う。]

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十) (標題に「一九」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。]

 

    一九(大正六年四月一日 田端から京都へ)

 

 拜 復

 ボクの病氣はもう大へんいゝから安心してくれ給へ。 (中略)

 ボクはどんな意味でも人の運命に交涉を持つ事にはこの頃益々神経質になりつゝある。

 まだ病後の疲勞が回復しないせゐか、何としても疲れ易い。これでよす。

 それから今月の中央公論へ出した僕の小說は大に自信のない事を廣告しておく。

    四月一日夜          龍

 

[やぶちゃん注:この書簡は未電子化であったので、先ほど、「芥川龍之介書簡抄155 追加 大正六(一九一七)年四月一日 井川恭宛」として、岩波旧全集の正規表現の中略復元版を電子化注しておいたので参照されたい。]

芥川龍之介書簡抄155 追加 大正六(一九一七)年四月一日 井川恭宛

 

大正六(一九一七)年四月一日・田端発信・井川恭宛(転載)

 

拜復

ボクの病氣はもう大へんいゝから安心してくれ給へ。一時 三十九度五分も熱が上つて悲觀したが

藤岡君の件について藤岡君にさうする意志さへあれば確にいい緣談だと思ふ いや僕は君の妹さんをよく知らないからその知らないことも勘定に入れての上でだが

但藤岡君には今緣談が一つあつてそれが着々進行中らしい どの程度まで進行してゐるか最近に會はないから知らないがもう見合ひもすみはしないかと思ふ 僕はあした東京を去らなげればならないので會つてゆくひまがないが君の妹さんの事には少しも touch しずに今の緣談がどの位進んでゐるか手紙で聞いて見てもいい

もし或程度まで進んでゐるとすると僕はそいつを打壞すのはとても恐しくて出來ない

ボクはどんな意味でも人の運命に交涉を持つ事にはこの頃益々神經質になりつゝある。

まだ病後の疲勞が囘復しないせゐか、何としても疲れ易い。これでよす。

それから今月の中央公論へ出した僕の小說は大に自信のない事を廣告しておく。

    四月一日夜          龍

 

[やぶちゃん注:最後の署名は下四字上げインデントであるが、引き上げた。この「転載」については、底本の岩波旧全集の後記に、岩波の第三次新書版全集(昭和二九(一九五四)年から翌年にかけて刊行)で、「一時 三十九度五分も熱が上つて悲觀したが」の箇所から「とても恐しくて出來ない」までの部分が『(中略)』となった状態で公開されていたものを、後の角川書店版「芥川龍之介全集別巻」(昭和四四(一九六九)年刊)で、完全版が補塡され、それにに基づいたものである旨の記載がある。

「ボクの病氣」体温から想像出来る通り、前月三月末にインフルエンザに罹患して発熱し、前年十二月に着任した海軍機関学校も一週間ほど休んでいた。

「藤岡君」藤岡蔵六(ぞうろく 明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)年)のことであろう。愛媛県生まれで、一高以来の井川とも共通の友人で哲学者。東京帝大哲学科を卒業後、ドイツに留学し、帰国後、甲南高等学校教授となった。「芥川龍之介書簡抄8 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(1) 八通」の「明治四五(一九一二)年六月二十八日・井川恭宛」の私の彼の注を見られたいが、低人氏のブログ「あほりずむ」の「藤岡蔵六」によれば、芥川・恒藤とともに「一高の三羽烏」と称された才人であったが、『和辻哲郎に学者生命を絶たれた』と穏やかならぬ記載があった。その紹介本である関口安義「悲運の哲学者 評伝 藤岡蔵六」(二〇〇四年イー・ディー・アイ刊)を見れば判りそうだが、藤岡と恒藤の妹の縁談話がどこが発端の起点なのかが判らないが、あったようである。ところが藤岡には同時に別な縁談話があって「それが着々進行中らしい」と釘を刺した上、「どの程度まで進行してゐるか」は「最近」彼とは逢っていないから判らないとしつつも、さらに「もう」そっちの方の「見合ひも」そこそこに済んでおり、そのまま進むように思うと、警告染みたことを記している。それを悪く感じたか、よかったら、「君の妹さんの事には少しも」触れ「ずに今の」そっちの方の「緣談がどの位」まで「進んでゐるか」を藤岡に「手紙で聞いて見てもいい」と思いやりめいた言い添えをしている、一方、しかし、「もし或程度まで進んでゐるとすると」、「僕はそいつを打壞すのは」、「とても恐しくて出來ない」し、僕「はどんな意味でも」、「人の運命に交涉を持つ事には」、「この頃」、「益々」、「神經質になりつゝある」からと多重の忌避感丸出しのダメ押しをしている。これは二年前の春の吉田彌生との忌まわしい破局がフラッシュ・バックしているのは明らかであり、私が彌生との破恋がトラウマとなっていることを如実に示している、龍之介にしては、珍しい妙に捩じくれた雰囲気のある文章となっているところが興味深い。「病後の疲勞が囘復しないせゐか、何としても疲れ易い」から「これでよす」というのも、弁解のために添えた印象で、こうした縁談のゴタゴタには触れたくないという本音が見え見えである。吉田彌生との一件は、それほどの心の疼き続ける傷痕となっていたのである。

「今月の中央公論へ出した僕の小說」この四月一日発行の『中央公論』に発表した「偸盗」の第一回分を指す(「一」~「六」。第二回分は七月一日発行の同誌で「續偸盗」で「一」~「三」)。龍之介は執筆の最中からこの作品に不満を持ち、初回発表前後、ここにある通り、複数の友人に出来に不信を示す言葉を書いている。七月分公開後もこの不満は膨らみ、龍之介は早期から全面的に改作する強い希望を持っていたが、結局、着手することなく、「未完」と称されることと、現在はなっている。但し、私は、若き日に読んだ折り、「偸盗」を断絶した未完とは感じなかったし、寧ろ、精緻に計算された冷徹な「羅生門」や「芋粥」などよりも、遙かに血の匂いのするもの凄い、これはこれで完結された〈王朝物〉の名篇とさえ感じている。]

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(十九) (標題に「一八」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。]

 

    一八(大正五年 田端から京都へ)

 

       I

   白ふぢの花のにほひときくまでにかそけかれどもかなしみはあり

   夕やみにさきつゝにほふ白藤の消なば消ぬべき恋もするかな

   わが恋はいよよかすかにしかはあれいよよきよけくありさびにけり

       Ⅱ

   朝ぼらけひとこひがてにほのぼのとあからひく頰をみむと思へや

       Ⅲ

   たまゆらにきえし光とみるまでにそのたをやめはとほく行きけり

       Ⅳ

   天ぎらふ雲南省ゆ來りたる埴輪童女(をとめ)に FUMIKO は似るも

                          (白木屋の展覽会あり)

   朝づけば観音堂の尾白鳩ふくだめるこそ FUMIKO には似ね

   ふと見たる金の蒔絵の琴爪(つめ)箱をかひてやらむと思ひけりあはれ

 

 君と同じ理由で Extra-Re-Echo を要求する資格があるかと思ふ。

 自賛すればⅡが一番得意。Ⅲはどうしても一番まづい。実感がうすいのかしらとも思つてみる。Ⅳをかく時は氣樂に出來る。Iはともすればありあはせの SENTIMENT で間に合はせてしまひさうで良心がとがめる。それでつくつた歌はもつと沢山あつたが、三首だけしか書かなかつた。君のはがきの絵のやうに、はじめに書いた奴だけ書いたわけだ。

 短篇を二つ書いた。發表したらよんでもらふ。

 朝は早くおきるやうになつたから感心だ。尤も必要にせまられてだが。

 今朝君が結婚したら何を祝はうかと思つていろいろ考へた。BEETHOVEN の MASK ではいけないかな。僕はこの頃この天才と BERLIOZ との傳記をよんで感心してしまつた。

 

[やぶちゃん注:原書簡は「芥川龍之介書簡抄69 / 大正五(一九一六)年書簡より(十六) 二通」の一通目で電子化注してあるので参照されたい。

「Extra‐Re‐Echo」対象芸術作品に対する相手の「特別な反響」を提示すること。それは必ずしも批評とは限らず、感応した芸術作品であってもよい。]

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(十八) (標題に「一七」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。上付きアラビア数字は恒藤が附した注記番号。]

 

    一七(大正五年三月二十四日 田端から京都へ)

 

 荒川の事はちよいとした小品にかかうと思つてゐた。わざわざしらべて貰ふほど大したものではない。何かあの人の事をかいた本はないかな。

 ヘルンが石地藏を見た話は知つてゐる。かかうと云ふ氣にはその話からなつたのだ。

 

 「鼻」の曲折がnaturalでないと云ふ非難は當つてゐる。それは綿拔瓢一郞も指摘してくれた。重々尤に思つてゐる。

 

 それから夏目先生が大へん鼻をほめて、わざわざ長い手紙をくれた。大へん恐縮した。成瀨は「夏目さんがあれをそんなにほめるかなあ」と云つて不思議がつてゐる。あれをほめて以來成瀨の眼には夏目先生が前よりもえらくなく見えるらしい。成瀨は自分の骨ざらしが第一の作で、松岡の「鴦崛摩」[やぶちゃん注:「あうくつま」。]がそれに次ぐ名作だと確信してゐる。

 

 僕はモオパッサンをよんで感心した。この人の恐るべき天才は自然派の作家の中で匹儔[やぶちゃん注:「ひつちう」(ひっちゅう)。匹敵すること。同類・仲間と見做すこと。また、その相手。]のない銳さを持つてゐると思ふ。すべての天才は自分に都合のいゝやうに物を見ない。いつでも不可抗的に欺く可らざる眞を見る。モオパッサンに於ては殊にその感じが深い。

 しかしモオパッサンは事象をありのまゝに見るのみではない。ありのまゝに観じ得た人間を憎む可きは憎み、愛す可きは愛してゐる。その点で万人に不関心な冷然たる先生のフロオベエルとは大分ちがふ。une vie の中の女なぞにはあふるゝばかりの愛が注いである。僕は存外モオパッサンがモラリスティクなのに驚いた位だ。

 

 この頃コンスタンタン・ギュイの画をみて感心した。あれの素描は日本人にも非常によくわかる性質を持つてゐるらしい。墨の濃談なぞでも莫迦に日本画的な所がある。大きなディルネの素描は殊に感心した。それからドラクロア――ダンテの[やぶちゃん注:原書簡ではここに「舟」と入っている。]一枚でも立派なものだ ティントオレットオとドラクロアはいゝ復製のないので有名だが、その惡い複製でも随分感心させられる。あの男の画は恐しくダイナミックだ。オフェリアの画なんぞを見ると殊にさう思ふ。

 

 論文で大多忙。[やぶちゃん注:以下、捲って改ページで、一行空けはないが、原書簡に従い、特異点で一行空けた。]

 

 ロオレンスが死んだ。可愛さうだつた。おともらひに行つた。さうしてこの老敎師の魂の爲に祈つた。ロオレンス自身には何の恩怨もない。下等なのはその周囲の日本人だ。

 ロオレンスの死顏は蠟のやうに白かつた。そしてその底にクリムソンの澱(をり[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣では「おり」でよく、原書簡でもそうルビで振られてある。])がたまつてゐた。百合の花環、黑天鷲絨の柩、すべてがクエエカアらしく質素で且淸淨だつた。僕はロオレンスが死んだ爲に、反て[やぶちゃん注:「かへつて」。]いろんな制度が厄介になりはしないかと思つてゐる。ロオレンスの死が喜ばしたのは成瀨位だらう。成瀨はあの朝方々ヘ、ル・ディアブル・エ・モオルと云ふ句にボン・クラアジュと云ふ! を加へたはがきを出した。[やぶちゃん注:以下、短歌四首を含む四段落(旧全集で本文活字のみで全十五行。総てに行空け有り)がごっそりカットされてある。]

 

 ふみ子を貰ふ事については猶多少の曲折があるかもしれない。さうして事によると君に相談しなければならないやうな事が起るかもしれない。僕はつよくなつてゐる。それだけ余計に曲折をつくる周囲の人間を憫んでゐる。僕が折れる事はないのだから。

 まだはつきりした事はわからない。

 

 本をよむ事とかく事とが(論文も)一日の大部分をしめてゐる。ねてもそんな夢ばかり見る。何だかあぶないやうな、さうして愉快なやうな氣がする。いやな事は一つもしない。散步にふらふらと出て遠くまで行く事がよくある。今日まで三日ばかり逗子の養神亭へ行つて來た。湘南は麥が五寸ものびてゐる。菜はまだあまりさかない。梅は遅いが桃が少しさいてゐる。ある日の夕かた秋谷の方へ行つたかへりに長者ケ崎の少し先の海の岸に白いものが靄の中でうすく光つてゐるから、何かと思つたら桃だつた。山はまだ枯木ばかり、唯まんさくの黃いろい花が雪解の水にのぞんでさいてゐる事がよくある。鳥はひよ、山しぎ、時によると雉。論文をかきあげたらどこかへ行きたい。それまでは駄目。

 迢子葉山の海には海雀が多い。銀のやうに日に光る胸を持つたかはいゝ鳥だ。かいつぶりに似た聲で啼く。鴨、鷗、あいさも多い。

 東京へかへつたら又切迫した心もちになつた。

 來るものをして來らしめよと云ふ氣がする。

                          龍

 

註1 イギリス人、東京帝大講師、担当は英文学。

 

[やぶちゃん注:前回と同じく「芥川龍之介書簡抄55 / 大正五(一九一六)年書簡より(二) 井川恭宛二通(芥川龍之介に小泉八雲を素材とした幻しの小説構想が彼の頭の中にあった事実・「鼻」反響(注にて夏目漱石の芥川龍之介宛書簡を翻刻))」の二通目で電子化注してある。以上はカット部分があるので、参照されたい。]

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(十七) (標題に「一六」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。]

 

    一六(大正五年三月十一日 田端から京都へ)

 

 [やぶちゃん注:原書簡ではここに「(第一)」と行頭にあるのをカットしてある。]論文と原稿とが忙しかつたので、大へん御ぶさたした。これと一しよに寮歌集も送る。

 それから御願が一つある 荒川重之助(?)の事蹟を知る事は出來なからうか。酒のみで天才だと云ふ事だけは君からきいた。あれとヘルン氏とを材料にして出雲小說を一つかきたい。松江の印象のうすれない内に。

 是非たのむ。

 

   閃かす鳥一羽砂丘海は秋なれど

 

 今は俳句氣分になつてゐない

   十 一 日                 龍

註1 出雲の人。彫刻家。稻田姬の彫像―稻田姬が右手で胸のあたりに劍を水平に持ち、
   伏し目にそれを見すえてゐる木彫彩色の彫像が彼の作品の中でも有名である。

 

[やぶちゃん注:読者の諸君は「第一」が気になると思うが、旧全集でも以上と同じで、「第二」は存在しない。ところが、岩波の新全集で原書簡が見つかり、復元されている。それを表記を推定復元したものを、「芥川龍之介書簡抄55 / 大正五(一九一六)年書簡より(二) 井川恭宛二通(芥川龍之介に小泉八雲を素材とした幻しの小説構想が彼の頭の中にあった事実・「鼻」反響(注にて夏目漱石の芥川龍之介宛書簡を翻刻))」の冒頭で電子化注してあるので、是非、参照されたいが、その推定復元の「第二」の本文を以下に示しておく。

   *

(第二)「鼻」は二つのベグリッフスインハルトを持つてゐる 一つは肉體的缺陷に對するヴァニテの苦痛(ハウプト)一つは傍觀者の利己主義(ネエベン)――それ以上に何もずるい企[やぶちゃん注:「くはだて」。]をした覺はない 君がずるい企の意味を明にしなかつたのを遺憾に思ふ 傍觀者の利己主義は二つのベディングングを加へて全體の自然さを破らないようにした 一つは内供の神經質(性格上)一つは鼻の短くなつてから又長くなる迄の期間の短い事(事件上)だ それが徹底していなかったと云へばそれ迄だが

次の號は四月一日發行にした 僕は小品をかいた 出來たら送る

   *

 にしても、リンク先でも言ったが、私は小泉八雲を登場させた芥川龍之介の小説が書かれなかったことを激しく残念に思うのである。

「稻田姬の彫像―稻田姬が右手で胸のあたりに劍を水平に持ち、伏し目にそれを見すえてゐる木彫彩色の彫像」彼のウィキも参照されたいが、これは一八九三(明治二十六)年にアメリカで開かれた「シカゴ万国博覧会」で優等賞を受賞した彫像「櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)」のことで、takuya氏のブログ「タクヤの写真館」の「出雲の天才彫刻家荒川亀斎(島根県松江市)」で、モノクローム写真で、その画像を見ることが出来る。調べたが、この像は現存しないようである。

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(十六) (標題に「一五」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。]

 

    一五(大正四年年七月二十九日 田端から松江へ)

 

 差支へさへなければ、三日に東京をたつ。

 五日には松江へゆけるだらう。よろしく御ねがひ申します。    龍

 

[やぶちゃん注:井川(恒藤)恭が芥川龍之介の失恋の痛手を癒すために、井川の故郷松江に招いた、そのプレの礼状である。これは恒藤恭は何も註していないが、実は自筆絵葉書でルノアール風の裸婦の絵が裏面に描かれている。これは本書中の「芥川龍之介のことなど」の「四 藝術的作品と制作者の性格」の途中に、『女   芥川龍之介ゑがく』というキャプションを伴って画像として使用されてある(ここ)。当該原書簡は「芥川龍之介書簡抄42 / 大正四(一九一五)年書簡より(八) 井川恭宛三通」の二通目で電子化注しており、そこに異なったソースの二種の画像を掲げてあるので見られたい。なお、この年の春、ルノアールの原画を見て、龍之介はいたく感動している。「芥川龍之介書簡抄36 / 大正四(一九一五)年書簡より(二) 失恋後の沈鬱書簡四通」の四通目の「大正四(一九一五)年四月十四日・田端発信・井川恭宛(転載)」を参照。

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(十五) (標題に「一四」とあるのは誤り・クレジットは明治四五(一九一二)年の誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 また、クレジットの大正四年は恒藤恭の勘違いで、明治四十五年の大きな誤りであり、従って「田端」も「新宿」が正しい。従って、本「芥川龍之介書簡集」では、「一」の前に配されるべき、井川(恒藤)恭宛書簡の最古層に配されるべきものである。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。]

 

    一四(大正四年年六月二十八日 田端から松江へ)

 

 新聞を送つて下すつて難有う。幾日か君の帰鄕の道すぢをよむことが出來るのを樂しみにしてゐる。

 讀書三昧所か每日半日は何かしら用が出來てつぶされてしまふ。せめて七月にでもはいつたら少しは落つける事だらうと思ふ。

 二十六日の晚 OPERA をみに行つた 僕の行つた晚は Tanner と云ふ人の THE QUAKER GIRL と云ふ出し物だつた。每日曲がかはるので、二十九日にはあの Musume をやるんださうだ。見物には西洋人が可成沢山きてゐた。三等にさへ夫婦づれが二組來て居たと云へば、 BOX や ORCHESTRA STALL に沢山きてゐたのはしれるだらう。

 藤岡君と一緖になる。予想してゐたより割合に下品で、その上予想してゐたより遙に話す言葉がわからない。笑はせる事は随分笑はせる。僕のうしろにゐた米國人らしい女なんぞは、黃色い薔薇の造花をつけたパナマの大きな帽子が落ちはしないかと心配するほど笑ふ。PINK の襟飾をつけた品のいゝその亭主も時々笑ひ声を何段にも鼻からきつて出す。唯不快だつたのはupper circle や gallery にゐる三等四等の日本人が偶々拍手さへ長くつゞけてゐれば必ず俳優はその技を何度でもくりかへすべき義務があるものと盲信して ENCORE の拍手を長々と何時までもやつてゐる事であつた。

 はねて、明い灯のついた玄関を外へ出るときに、浅黃繻子[やぶちゃん注:「しゆす」。]の地へ雲と龍と騏麟との刺繡をした支那めいた上衣の女を見た。その下から長くひいた淡黃色の JUPON も美しい、つれのもつとぢみななりをした年よりの女と自動車まで話しながら步いてゆくのである。話は英語のやうだつたし、OPERA よりもこの女に一人あつたので、余程西洋らしい心もちがした。

 二十四日か三日に寮へ行つた。敎室では札幌農大の試驗をやつてゐた。あの廊下の練瓦の壁に貼つてある数学の問題をみると、大槪やさしい。寮には鈴木と八木と黑田と根本がのこつてゐた。藤岡はときくと、西寮の三階に独りで住んでゐるのだと云ふ。anchorite みたいだなと思ふ。

 今はもう皆國へかへつてしまつた。藤岡君だけは三十日頃かへると云つてまだのこつてゐる。あの白い壁へ殆半年ばかりぶらさがつてゐた新島先生も、もう鈴木の行李の底へはいつて仕舞つたらう。Adieu

             六月二十八日午後

                    東京にて      龍

 

[やぶちゃん注:既に「芥川龍之介書簡抄8 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(1) 八通」の七通目で電子化注してあるので参照されたい。なお、そちらでは、最後のクレジットと署名は書簡冒頭にある。]

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(十四) (標題に「一三」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。]

 

    一三(大正四年二月二十八日 田端から京都へ)

 

 ある女を昔から知つてゐた。その女がある男と約婚をした。僕はその時になつてはじめて僕がその女を愛してゐる事を知つた。しかし僕はその約婚した相手がどんな人だかまるで知らなかつた。それからその女の僕に対する感情もある程度の推側以上に何事も知らなかつた。その内にそれらの事が少しづつ知れて來た。最後にその約婚も極大体の話が運んだのにすぎない事を知つた。

 僕は求婚しやうと思つた。そしてその意志を女に問ふ爲にある所で会ふ約束をした。所が女から僕へよこした手紙が郵便局の手ぬかりで外へ配達された爲に、時が遲れて、それは出來なかつた。しかし手紙だけからでも僕の決心を促すだけの力は與へられた。

 家のものにその話をもち出した。そして烈しい反對をうけた。伯母が夜通しないた。僕も夜通し泣いた。あくる朝むづかしい顏をしながら僕が思切ると云つた。それから不愉快な氣まづい日が何日もつゞいた。其中[やぶちゃん注:「そのうち」。]に僕は一度女の所へ手紙を書いた。返事は來なかつた。

 一週間程たつてある家のある会合の席でその女にあつた。僕と二、三度世間並な談話を交換した。何かの拍子で女の眼と僕の眼とがあつた時、僕は女の口角の筋肉が急に不随意筋になつたやうな表情を見た。女は誰よりもさきにかヘつた。

 あとで其処の主人や細君やその阿母さんと話してゐる中に女の話が出た。細君が女の母の事を「あなたの伯母さま」と云つた。女は僕と從兄妹同志だと云つてゐたのである。

 空虛な心の一角を抱いてそこから帰つて來た。それから学校も少しやすんだ。よみかけたイヷンイリイッチもよまなかつた。それは丁度ロランに導かれてトルストイの大いなる水平線が僕の前にひらけつゝある時であつた。大ヘんにさびしかつた。五、六日たつて前の家へ招かれた礼に行つた。その時女がヒポコンデリックになつてゐると云ふ事をきいた。不眠症で二時間位しかねむられないと云ふのである。その時そこの細君に贈つた古版の錦繪の一枚にその女に似た顏があつた。細君はその顏をいゝ顏だ云つた。そして誰かに眼が似てゐるが思出せないと云つた。僕は笑つた。けれどもさびしかつた。

 二週間程たつて女から手紙が來た。唯幸福を祈つてゐると云ふのである。其後その女にもその女の母にもあはない。約婚がどうなつたかそれも知らない。芝の叔父の所へよばれて叱られた時に、その女に關する惡評を少しきいた。

 不性な[やぶちゃん注:ママ。「無精(ぶしやう)な」の誤った慣用表現。]日を重ねて今日になつた。返事を出さないでしまつた手紙が沢山たまつた。之はその事があつてから始めてかく手紙である。平俗な小說をよむやうな反感を持たずによんで貰へれば幸福だと思ふ。

 東京ではすべての上に春がいきづいてゐる。平靜なる、しかも常に休止しない力が悠久なる空に雲雀の声を生まれさせるのも程ない事であらう。すべてが流れてゆく。そしてすべてが必[やぶちゃん注:「かならず」。]止るべき所に止る。学校へも通ひはじめた。イヷンイリイッチもよみはじめた。

 唯、かぎりなくさびしい。

    二月廿八日                 龍

 

[やぶちゃん注:失恋――見方を変えれば――芥川家の強烈な反対による――民俗社会的破局――の側面も強い吉田彌生との破談の一件を、芥川龍之介が初めて、親友であった著者に詳らかに明かしたもので、芥川龍之介書簡の内、超弩級に重要な一本である。この心傷(トラウマ)は恐らく芥川龍之介の全生活史の中で、実母の精神的欠損に次いで、対人関係(特に女性)に対する思惟についてコペルニクス的転回を与えてしまった事件であった。思うに、芥川龍之介の、この後の彼の短い生涯の中での、夥しい女性関係を引き起こすことになるその根っこは、ここにある。彼の慢性的なPTSDPost Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)の反側的症状として、龍之介は出逢う女性に反射的に暗示的示唆的モーションをかけて惹き込ませ、恋愛関係を〈模造〉し、而して、同時にそれに神経症的に苦しむことになるという事態を、複数の女性との間に繰り返すことになったのである。或いは、この時のトラウマが、龍之介の中に、『自分は必ず女を虜にすることが出来る、出来ねばならない』という倒立した関係妄想を、終生、形成させたのだとも私は考えている。原書簡は「芥川龍之介書簡抄35 / 大正四(一九一五)年書簡より(一) 井川恭宛 龍之介の吉田彌生との失恋告白書簡」で詳細に正規表現で電子化注してあるので参照されたい。

 なお、発信地が「田端」に変わっている。この四箇月ほど前の前年十月末、芥川家は新宿の実父新原敏三所有の家から、新築した東京府北豊島郡滝野川町字田端四三五番地(現在の北区田端一丁目のここ。グーグル・マップ・データ)に転居していた。芥川龍之介の終の棲家となった。]

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(十三) (標題に「一二」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。]

 

    一二(大正三年九月 新宿から京都へ)

 

      ミ ラ ノ の 畫 工

 

ミラノの画工アントニオは

今日もぼんやり頰杖をついて

夕方の鐘の音をきいてゐる

 

鐘の音は遠い僧院からも

近くの尼寺からも

雨のやうにふつて來る

 

するとその鐘の音のやうに

ぼんやりしてゐるアントニオの心に

おちてくるものがある

 

かなしみかもしれない

よろこびかもしれない

唯アントニオはそれを味はつてゐる

 

「先生のレオナルドがゐなくなつてから

ミラノの画工はみな迷つてゐる」

 

かうアントニオは思ふ

 

「葡萄酒をのむ外に

用のない人間が大ぜいゐる

それが皆 画工だと云つてゐる

 

「レオナルドのまねをして

解剖図のやうな画を

得意になつてかく奴もゐる

 

「モザイクの壁のやうな

色を行儀よくならべた画を

根氣よくかいてゐる奴もゐる

 

「僧人のやうな生活をして

聖母と基督とを

同じやうにかいてゐる奴もゐる

 

「けれども皆画工だ

少くも世間で画工だと云ふ

少くも自分で画工だと思つてゐる

 

「自分にはそんな事は出來ない

自分は自分の画と信ずる物を

かくより外の事は何も出來ない

 

「しかしそれをかく事が又中々出來ない

何度も木炭をとつてみる

何度も絵の具をといてみる

 

「いつも出來上るのは醜い画にすぎない

けれども画は画だ

いつか美しい画がかける時がくる

 

「かう思ふそばから

何時迄たつてもそんな時來ないと

誰かが云ふやうな氣がする

 

「更になさけないのは

醜い画が画でない物に

外の人のかくやうな物になつてゐる事だ

 

「己はもう画筆をすてやうか

どうせ己には何も出來ないのだ

かう思ふよりさびしい事はない

 

「同じレオナルドの弟子だつた

ガブリエレはあの僧院の壁に

ダビデの像をかいたが

 

「同じレオナルドの弟子の

サラリノはあの尼寺の壁に

マリアの顏をかいたが

 

「己はいつ迄も木炭を削つてゐる

いつ迄も油絵具をとかしてゐる

しかし己はあせらない

 

「己はダビデよりマリアより

すぐれた絵をかき得る人間だ

少くもあんな絵はかけぬ人間だ

 

「たゞ絵の出來ぬうちに

己が死んでしまふかもしれぬ

己の心が凋んでしまふかもしれぬ

 

「たゞ画をかく

之より外に己のする事はない

之ばかりを己はぢつと見つめてゐる

 

「この企てが空しければ

己のすべての生活が空しいのだ

己の生きてゐる資格がなくなるのだ」

 

アントニオはかう思ふ

かう思ふと淚がいつとなく

頰をつたはつて流れてくる

 

アントニオは今日もぼんやりと

夕月の出た空をながめながら

鐘の音をきいてゐる

 

 君にあつて話したいやうな氣がする。此頃は格別不愉快な事が多い。

                          龍

  追  伸

     出來るに從つてかく。唯今ひま。

   あざれたる本鄕通り白らませて秋の日そゝぐ午後三時はも

   紅茶の色に露西亞の男の頰を思ふ露西亞の麻の畑を思ふ

   秋風は南瞻(ぜん)部洲のかなたなる寂光土よりかふき出でにけむ

   黃埃にけむる入り日はまどらかにいま南蛮寺の塔に入るなり

   秋風は走り走りて鷄の風見まはすとえせ笑ひすも

   ゼムの廣告秋の入日に顏しかむその顏みよとふける秋風

   をちこちの屋根うす白く光るあり秋や滅金をかけそめにけむ

   ごみごみと湯島の町の屋根黑くつづける上に返り咲く櫻

   遠き木の梢の銀に曇りたる空は刺されてうち默すかも

   あはただしく町をあゆむを常とする人の一人に我もあり秋

   かにかくにこちたきツエラアの書(ふみ)をよむこちごちしさよ圖書館の秋

   日の光「秋」のふるひにふるはれて白くこまかくおち來十月

   木乃伊つくると香料あまたおひてゆく男にふきぬ秋の夕風

   秋風の快さよな佇みて即身成佛するはよろしも        龍

 

[やぶちゃん注:本書簡原本は既に『芥川龍之介書簡抄31 / 大正三(一九一四)年書簡より(九) 井川恭宛(詩「ミラノの画工」及び短歌十四首収録)』で電子化注済みである。また、そこにもリンクさせてあるが、同時期に芥川龍之介が訳した「レオナルド・ダ・ヴインチの手記 芥川龍之介譯 ――Leonardo da Vinci――」(リンク先は私の古いサイト版電子化)も参考になろう。また、短歌の七首目の「光るなり」は原書簡では「光るありである。恒藤の転写の誤りか、誤植であろう。

2023/01/15

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(十二) (標題に「一一」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が「二十九」まで誤ったままで続くという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を一応、終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。上付きアラビア数字は恒藤が附した注記番号。]

 

    一一(大正三年六月十五日 新宿から京都へ)

 

 こつちも試驗で忙しい。心理なんか大抵よまない所が出て悲観しちやつた。六十点とれたかどうか、それさへわからない。苦しむと云ふのと覚えると云ふのとは別々な現象で、其間に必然的な関係はない。それを必然的な関係があると誤断して、その上にそれをひつくりかへして苦めさへすれば覚えるとしたのが試驗の制度だ。此意味で試驗問題をつくる人は中世の INQUISITION の判官にひとしい。事によると更に下等かもしれない。何となれば試驗は陋烈な復讐心が其行爲を規定する主なファクタアになつてるからだ。自分も試驗で苦しんだから若い奴もと云ふやつだ。何とか云ふが、兎に角理屈はぬきにして、いやなものはいやだ。

 靑木堂で岩元さんにあつたら「人間の頭ちふものは大がい際限のあるもんで、午前中よりきかんものだ。それを午すぎに講義をするなんちふ奴は、する奴もする奴だが、きく奴もきく奴さなあ」と云つた。それから、「おらあ自分でやる授業でも午すぎのやつはでたらめをしやべつてるんだが、そのわりに間違はないものだぜ」と云つた。何だか酒屋の番頭に羊羹の拵へ方をきいてるやうな氣がした。

 石田君は勉强して特待になる。谷森君は今日の心理で僕位しくぢつたが、なるかもしれない。久米はなまけてゐて八單位とるさうだ。

 みんなよく一朝事あるときに平生の生活狀態の均衡をやぶつて顧ないでゐられる。この頃僕は肉体的にも精神的にもそんな勢がなくなつてしまつた。

 プリフェアのところへ行つたら、伊太利亞語をやらなくつちやあだめだと云はれた。西班牙語の詩をよんできかせられた。西班牙語が南の語では一番やさしいさうだ。一つ伊太利亞語、西班牙語でもはじめるかなと思つたが、今はもうそんな氣はしなくなつた。しかし伊太利亞語がよめるとちよいといゝな。

 新思潮は一册君の國のうちへおくつた。試驗がこつちより早くすんで、二十日前にはもう君が宍道湖のある町へかヘつてゐるだらうと思つたからだ。例によつて同人一人につき雜誌一册しかもらへないのだから。

 あと一册は今手許にないのですぐに送れない。あさつて試驗で学校へゆくから、その時にする。この手紙より二、三日遅れるだらう。

 あさつてコツトの希臘羅馬文学史の試驗がある。こいつも大変だ。セオクリタス、アポロニウス、サイロピデア、シンサス、アプレリウス――人の名だか本の名だか地名だかわすれてしまふ。   とりあへず。

    六月十五日夜          龍

註1 故岩元禎氏(当時、一高敎授、担当はドイツ語)

 2 イギリス人

 

[やぶちゃん注:この書簡は、電子化していなかったので、先ほど、「芥川龍之介書簡抄154 追加 大正三(一九一四)年六月十五日 井川恭宛」として岩波旧全集の正規表現版で電子化注しておいたので、そちらを参照されたい。]

ブログ1,900,000アクセス突破記念 梅崎春生 文芸時評 昭和二十六年六月分

 

[やぶちゃん注:本評論は底本(後述)の解題によれば、三月三十一日・四月一日・同二日附『東京新聞』に連載されたものである。本文の二行空け部分がその切れ目と考えよかろう。

 私は梅崎春生と同時代のここに挙げられる作家の作品はあまり読んだことがない。私は近現代の作家については、死んでいない人物に対しては冷淡で、共時的に読むことはなかった(現在でも特定の作家を除き、概ね同じである。梅崎春生が亡くなったのは小学校三年生で梅崎春生は知らなかった。但し、私は三~六歳の時期、大泉学園に住んでおり、梅崎春生の家はかなり近くにあったことを後年知った。梅崎との最初の出会いは一九七一年八月七日のNHKドラマ「幻化」で、中学三年の時であった)、従って、注は語句や、特に私がよく知らない作家については、高校の「現代文」(ちょっと以前は「現代国語」と称した)の私の嫌悪する注のような、生年月日の毛の生えた程度の注をするしかないからやりたくないし、私の知っている作家の場合は、没年を示す必要があると考えた場合を除いて、一切、注しない。悪しからず。

 既に述べているが、梅崎春生の短編小説は、最早、上記底本全集のものは、「青空文庫」(ここ)で私よりも先行電子化された分の以下の私の底本全集中の十一篇(「日の果て」「風宴」「蜆」「黄色い日日」「Sの背中」「ボロ家の春秋」「庭の眺め」「魚餌」「凡人凡語」「記憶」「狂凧」。以上は順列を私の底本全集の並びに変えてある)を除き、これで、総て電子化を終えている(全リストは私のサイトのこちらの「■梅崎春生」、及び、ブログ・カテゴリ「梅崎春生」及びブログ版梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】梅崎春生日記【完】を参照)。残るのは、長編「つむじ風」のみである。彼の著作権満了の翌日である二〇一六年一月一日から始めた、私のマニアックに五月蠅い注附きの梅崎春生の電子化も、七年目にして、もう遂に終わりに近づいた。

 底本は昭和六〇(一九八五)年四月発行の沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。太字は底本では傍点「﹅」。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、三十分ほど前、1,900,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二三年一月十五日 藪野直史】]

 

   昭和二十六年四月

 

 「どん底の独裁国」というグラビヤ(改造)がある。フランシスコ・フランコ治下の人民の、貧困と圧制にあえぐ、絶望的な生活がうつし出されている。たくさんの小説を読んだあとこれを見ると、なんだかぎょっとするほど生々しい。どうもよそごとではないような感じである。活字と写真の訴え方の相違なのかも知れない。

 しかし今月読んだ数多の小説の中には、日本の現実を取扱いながら、よそごとめいた感じの作品が、少なからずあったような気がする。一読者としての私の印象は、そうであった。充たしてくれるものが乏しい。

 

 「歴程」三十六号に、こんな詩がある。

 

  風 景

 水のなかに火が燃え

 夕露のしめりのなかに火が燃え

 枯木のなかに火が燃え

 歩いてゆく星が一つ

 

 作者は原民喜。狭くとも、小さくとも、彼が見たこのような風景に、私の内の読者は感動する。この風景が、現実の死に裏づけられているせいなのか。必ずしもそうではあるまい。しかし末期(まつご)の眼にこそ、風景がこんなに澄明に結晶しているので、人が生きてゆく現実は、もっと荒々しく濁っている、と言えるかも知れない。

 火野葦平の「動物」(群像)も、そのような濁りを追求した作品。動物園を舞台にして、鳥獣の生態と、その間における人事の軋轢(あつれき)。題名が示すように、鳥獣的動物との対比において、人間という動物の生態を浮き出させようとしたらしい作品であるが、その対比がうまく行っていないと思われる。

 読後二三日経つと、鳥獣のイメージだけが頭に残っていて、なぜか人間の姿は蒸発したように印象が稀薄になっている。たとえば孔雀(くじゃく)と七面鳥のいきさつなどは、なかなか興味深く印象的なのに、それを眺めている信彦や関良吉の姿は、切抜き絵みたいに平板で影がうすいのだ。もっと執拗に緊密に両者をからませることで、人間獣または人間虫の生態を、うまく定羞できなかったものか。

 そしてこの作者の眼は、鳥獣に対するときは公平であたたか味があるのに、それを囲む人間たちに対しては、なにか不均衡で偏頗(へんぱ)なところがあるようだ。ある人物をひどくいたわり過ぎていたり、別の人物を不当な悪玉として割切っていたり、つまり善玉悪玉みたいな類型的な描き方をしているふしがある。

 やはり人間に対しては、属種や分類としてではなく、個人個人の動静や生態を基準として、作者は追求すべきであろうと、読者の私はそう考える。

 

 丹羽文雄「爛れた月」(中央公論)。現実にたいする無感動。それからくるエゴイズムや冷酷さ。そういう中年の男を主人公として、妻や情婦をからませてある。最後のところで主人公の「『ああ』笑うより他ないではないか。哄笑ではないが、当分笑いは私の口許を消えそうにない」こういう笑いの発生の根源を、やはりこの作者はつかみかねているような気がした。この作品の行文は、なかなか流暢で手慣れているのに、時々ふっと不要な説明みたいなものが入ってくる。それが主人公の心理なり性格なりを、とたんに低俗な、ありふれたものにしてしまう傾きがある。どうしてこんな尻尾を、あちこちくっつける必要があるのか、私にはよく判らない。

 すこし感じは違うが、「禁色」三島由紀夫(群像)にも、不要な尻尾をたくさんぶら下げている感じがある。これらは現実の断片を、模糊たる断片のままでおくのが不安で、いきなり言葉で裁断しようという、不逞にして無意識(?)の焦慮から来るのではないか。だとすれば、それは才華の豊富さよりは、むしろ末梢的な部位における衰弱を示しているように、私には感じられるのだが、どうだろう。

 

 

 上林暁の「姫鏡台」(群像)、「雪解」(日本評論)を読む。他のきめの荒い小説にくらべると、手打うどんみたいな滋味が、ここにあると言えば確かにある。また同時に、ぬけぬけと安心している感じも、なくもない。

 自ら(?)の生活を描き、広汎な市民層の共感をあつめるところに、この作者のひとつの特微があるようである。狭い範囲の鑑賞にしか適しなかった私小説を、その共感の幅においてここまで拡げたということは、やはり上林暁という作家の特色であり、功績でもあると言えるだろう。しかしその為には、必然的に、常軌を逸しない生活感情の起伏と、読者をして親狎(しんこう)させるほどの凡人性が、そこに常に用意されていなくてはならぬ。[やぶちゃん注:「親狎」親しみなれること。近づき馴染むこと。]

 この作家は、よく飲屋などで見知らぬ読者から、気軽に話しかけられることを書くが、確かにそのような親狎性をこの人の作品は多分に持っているようだ。これがたとえば葛西善蔵であったら、読者の大多数は、「やあ葛西さん」と気易く杯を突出すことに、ためらったりはばかったりするに違いなかろう。

 しかし、その凡人的な、時には押しつけがましいほどの愚人的な生活感情の中で、作家が作家として発すべき根本のものを、彼はどうして求めて来ているのだろう。そういう疑問や問題がどうしても残る。答えは簡単である。「雪解」の武智も「姫鏡台」の柏木も、上林暁とは違う。

 武智という人間は、上林暁において長いことかかって綿密に設定され、作者と柔軟な距離を保って動作し生活する作中人物である。しかし彼の作品の中では、その効果上、作者とイコールの擬体を常に保っているようである。ずるいと言えばずるい。

 

 もちろん、どんな私小説家も、作中の「私」に対する距離は確実に保持している。密着したところで作品が出来るはずがない。尾崎一雄には尾崎一雄的な距離、外村繁には外村繁流の距離。しかし上林暁の場合、その距離や角度の設定は、なかなか手がこんでいて、きわめて大胆にして、しかも細心を極めているように思われる。もう少し距離を伸ばして「私」を戯画化することもせず、もう少し近づいて泥沼に手足をとられることもしない。ある一定の長さと幅を、伸縮自在に踏み外さず動いている。そしてその上において、読者の生々しい共感をぴたりとつかんでいる。

 その操作はやはり、嘆賞に値する。「自分の作品はすべて遺書のつもりで書く」。こういう彼の言葉も文字通りのそれではなく、作中の「私」に迫真性と切実感を付与しようとする、作家としての心構え又はテクニックと解すべきであろう。そう私は思う。

 

 こういうことはなかなか大変なことで、私小説だと簡単に片付けてしまう訳には行かない。たとえば私小説でない作家、丹羽文雄と「紋多」の関係、林房雄と「越智英夫」との関係などを見れば、よく判る。これらの関係は、あまりに手軽に設定されていて、しかもその距離は不器用に硬化しているように見える。

 上林暁の第二の「私」の大胆細心な設定に比べれば、まるで竹の筒のように芸がない。「姫鏡台」「雪解」の如き作品が、手打うどんの如く万人に愛される所以(ゆえん)である。日本中で最も誠実にしで老獪(ろうかい)なる作家が、ここにいる。

 

 

 高見順の「呟く幽鬼」(文芸春秋別冊)、「インテリゲンチア」(世界)。それぞれ面白かった。しかしこの二つの小説では、かつての何もかも吐き出そうとする文体から、はなはだしく変貌して、発想も抒情的にすらなっている。抒情という方法によって物に即(つ)こうとする気配がある。つまり自分の生理に逆らってまで嘔吐しようという抵抗は、この作者からはもう消え失せているように見える。それはそれで、いいことかも知れない。しかしそういうことを言っても始まらない。

 もろもろの現実を、彼がどんな風に受け止め、せき止め、どんな具合に処理したり流したりするかは、今後の彼の生理や健康や周囲の現実の抵抗が決定することだろう。でも今のように、心象の夾雑物を排除して物に即こうというやり方は、心象や現実そのものの衰弱をかえってもたらしはしないか。読者としてそういう危惧は残る。

 

 結城信一「螢草」(群像)。奇跡のように清純な恋物語。それがひたむきに描かれているので、その点の感動を読者に与える。しかし実際にこのような、意地悪さを全然欠如した、汚濁を見ない(あるいは見えない)人間を想像すると、私はすこし不安になる。

 この作品を私は全然うそだとは思わないが、他のいろんな現実の対比において、大きなうそを感知する。

 椎名麟三「福寿荘」(文芸)。この作家としてはすこし軽すぎる感じ。流れ動としても、水銀のような重さがあってもいいだろう。しかしこの作品では意識的にその重さを切り離そうとしているようにも見える。すり切れた厚い手帳を出して、メンタルテストをしてあるく森安という男、これなどに錘をつけて定着すれば、もっとよかったのにと思う。それをわざと膜のむこうに追いやっている。

 宇留野元一「あぢさいの花」(文学界)。かゆいところにもう一息で手が届かない。不必要なところに筆を費しすぎて、肝腎なところでは節約しているという感じ。こういう形式で、こんな女を描くのは、無理じゃないかな、とも思う。以上、印象に残った小説の一部分だけ。

 小説以外の文章では、青山二郎「上州の賭場」(新潮)を読み、大そう感心した。なみいる小説よりは、ずっと面白かった。題名通り上州の賭場を描いた文章であるが、作者の眼が過不足なく行き届き、見るべきものはちゃんと見ているような、つめたい正確さがある。偏った見方で大向うをねらうはったりは、ここにはない。曇った眼で見たような小説を数多読んだあとで、こんな文章に接すると、胸が少しはすがすがしくなる。小説の面白さとは違う別の面白さ。

 それに力を得て、つづけて大岡昇平「文学的青春伝」(群像)、石川淳「ジイドむかしばなし」(文学界)を読む。しかしこれらは何だかざらざら引っかかってくるものがあって、「上州の賭場」などに比べると、よほど面白くなかった。読後三十分ほど経つと、ジンマシンがたくさん出た。文章の姿勢や魂胆が、私の体質に合わなかったのだろうと思う。

 

[やぶちゃん注:『「歴程」三十六号』「風景」「原民喜」私のサイト版「原民喜全詩集」を見られたいが、異同はない。『歷程』の《XXXVI》号は確かに昭和二六(一九五一)年三月一日発行のそれの二十三ページに所収していることを、オークション・サイトの目次画像で確認出来た。また、梅崎春生と原民喜が邂逅したことがあることは、彼のエッセイ「その表情――原民喜さんのこと――」(『近代文学』昭和二八(一九五三)年六月号に発表)で確認出来る。そんなことより、実は――原民喜は――ここで梅崎春生が書いている――その前月の三月十三日午後十一時三十一分――国鉄中央線の吉祥寺駅 と西荻窪駅の間の線路に身を横たえて鉄道自殺していた――のである。これは第一回の連載分であるとして、三月三十一日の記事で、自死後十八日目に当たる。これを冒頭に述べたところに、梅崎春生の強い彼への追悼の念が感じられるのである。

『火野葦平の「動物」』「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」でこちらから視認出来る。私は火野が好きで、カテゴリ『火野葦平「河童曼陀羅」』で全電子化注を完遂している。

『「禁色」三島由紀夫』私は三島の思想人としての存在には全く関心も興味もない。但し、彼の文章の若き日の計算された彫琢力には感心はする者ではある。「禁色」も読んだが、梅崎春生と全く同様の感じしか持たなかった。と言っても、三島の代表作を文庫本であらかた読んだのは、彼が自決してから五年後の大学一年の夏休みのことだったが。三島というと特異的に忘れ難いのは、彼の評論「小説とは何か」(昭和四三(一九六八)年五月から二年後の一九七〇年十一月まで『波』(新潮社)に連載されたが、著者の自死によって中絶)の中の一節である。私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一七~二三 座敷童・幽霊』で解説と引用をしてあるので見られたい。]

芥川龍之介書簡抄154 追加 大正三(一九一四)年六月十五日 井川恭宛

 

大正三(一九一四)年六月十五日・井川恭宛・封筒欠

 

こつちも試驗で忙しい 心理なんか大抵よまない所が出て悲觀しちやつた 六十点とれたかどうかそれさへわからない 苦しむと云ふ事と覺えると云ふ事とは別々な現象で其間に必然的な關係はない それを必然的な關係があると誤斷してその上にそれをひつくりかへして苦めさへすれば覺えるとしたのが試驗制度だ 此意味で試驗問題をつくる人は中世の INQUISITION の判官にひとしい 事によると更に下等かもしれない 何となれば試驗は陋烈な復讐心が其行爲を規定する主なフアクタアになつてるからだ 自分も試驗で苦しんだから 若い奴もと云ふやつだ――何とか云ふが兎に角理屈はぬきにしていやなものはいやだ

靑木堂で岩本[やぶちゃん注:底本岩波旧全集にママ注記がある。]さんにあつたら「人間の頭ちふものは大がい際限のあるもんで午前中よりきかんものだ それを午すぎに講義をするなんちふ奴はする奴もする奴だがきく奴もきく奴さなあ」と云つた それから「おらあ自分でやる授業でも午すぎのやつはでたらめをしやべつてるんだが そのわりに間違はないものだぜ」と云つた 何だか酒屋の番頭に羊羹の拵へ方をきいてるやうな氣がした

石田君は勉强して特待になる 谷森君は今日の心理で僕位しくぢつたが なるかもしれない 久米はなまけてゐて八單位とるさうだ

みんなよく一朝事あるときに平生の生活狀態の均衡をやぶつて顧ないでゐられる この頃僕は肉体的にも精神的にもそんな勢がなくなつてしまつた

プリフエアのところへ行つたら伊太利亞語をやらなくつちやあだめだと云はれた 西班牙語の詩をよんできかせられた 西班牙語が南の語では一番やさしいさうだ 一つ伊太利亞語西班牙語でもはじめるかなと思つたが今はもうそんな氣はしなくなつた しかし伊太利亞語がよめるとちよいといゝな

新思潮は一册君の國のうちへおくつた 試驗がこつちより早くすんで二十日前にはもう君が宍道湖のある町へかヘつてゐるだらうと思つたからだ 例によつて同人一人につき雜誌一册しかもらへないのだから

あと一册は今手許にないのですぐに送れない あさつて試驗で學校へゆくからその時にする この手紙より二三日遲れるだらう

あさつてコツトの希臘羅馬文學史の試驗がある こいつも大變だ セオクリタス アポロニウス サイロピデア シンサス アプレリウス――人の名だか本の名だか地名だかわすれてしまふ とりあへず

    六月十五日夜

   井 川 恭 樣          龍

 

[やぶちゃん注:「こつちも試驗で忙しい」当時は進級は九月であったから、ここは学年末試験。

「INQUISITION」縦書。「インクィズィション」は西洋中世の「宗教裁判」「異端審問」の意。

「靑木堂」筑摩全集類聚の注に、『震災まで本郷にあった』、『階下が食料品店で』、『階上が喫茶店』とある。

「岩本さん」一高のドイツ語及び哲学担当の教授であった恩師岩元禎(てい 明治二(一八六九)年~昭和一六(一九四一)年)。『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「八」』の「岩元さん」の私の注を参照されたい。

「何だか酒屋の番頭に羊羹の拵へ方をきいてるやうな氣がした」龍ちゃん! 座布団二枚!

「久米はなまけてゐて八單位とるさうだ」今もそうだろうが、今の単位制採用の高校などでも見られる、例えば、二年生までに取れる、或いは、取らねばならない単位の上限・下限が規定されており、その下限が「八単位」或いは七単位なのであろう。

「みんなよく一朝事あるときに平生の生活狀態の均衡をやぶつて顧ないでゐられる」嘗つての学制では、旧制高校も含め大学等は正規学年次をオーバーするのは、それほど劣悪なことではなく、大学では落第だけでなく、自主的に留年する者も多かった。

「プリフエア」アルフレッド・ウィリアム・プレイフェア(Alfred William Playfair 一八六九年(ある資料では一八七〇年)~一九一七年)はカナダの英文学者で

一九〇五年に来日し、慶應義塾大学文学科で教えていたが、ジョン・ローレンス(John Lawrence 一八五〇年~一九一六年・イギリス人教師。帝国大学文科大学での芥川龍之介の最初の教師であった。「芥川龍之介書簡抄18 / 大正二(一九一三)年書簡より(5) 十一月一日附原善一郎宛書簡」の「ローレンス」の私の注を参照)の急死後、東京帝大にも出講しており、後の大正五(一九一六)年から翌年にかけては正式に東京帝大学文科大学の英語・英文学の教師として在職している。

「南の語」欧州の南の地域の言語の中でという意か。

「コツト」ジョセフ・コット(Joseph Cotte 一八七五年~一九四〇年)はフランス人で、明治四〇(一九〇八)年に来日し、翌年に帝国大学文科大学でフランス語・フランス文学を講義した(在職は大正一一(一九二二)年まで)が、この龍之介の謂いからみて、筑摩類聚版にあるように、英語による『近世ヨーロッパ文学史の講師』もしていたようだ(筑摩版の『明治四十二年来朝』というのは、私の見た二資料から否定される)。

「セオクリタス アポロニウス サイロピデア シンサス アプレリウス――人の名だか本の名だか地名だかわすれてしまふ」と、かの芥川龍之介が言うのだから、これに注を附すのは野暮というものであろう。因みに、私の高校時代の社会科選択は「地理」(地理Bまでしっかり三年間やった)と「政治経済」である。]

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(一一) (標題に「一〇」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこの前、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が「二十九」まで誤ったままで続くという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。上付きアラビア数字は恒藤が附した注記番号。

 なお、本書簡は既に二〇二一年四月一日に『芥川龍之介書簡抄26 / 大正三(一九一四)年書簡より(四) 六月二日井川恭宛 長編詩篇「ふるさとの歌」』として原書簡を電子化して注してある。また、実は本書のこの前の書簡と、この書簡の間には、井川(恒藤)恭宛の芥川龍之介の非常に重大な一通が存在しているのだが、恒藤恭はその書簡を本書では恣意的に掲げていない。それは――芥川龍之介のプライバシー(失恋)に踏み込む危険性を憚ってのこと――であろう(私はどうってことはないと思うが)。当該書簡は「芥川龍之介書簡抄25 / 大正三(一九一四)年書簡より(三) 五月十九日井川恭宛」である。さらに付け加えると、このリンク先の前後で、私はかなりレアな(あまり知られてはいないという意味で)「芥川龍之介書簡抄24 / 特異点挿入★大正二(一九一三)年或いは翌大正三年の書簡「下書き」(推定)★――初恋の相手吉村千代(新原家女中)宛の〈幻しのラヴ・レター〉――」や、芥川龍之介の恋(失恋・破局に終わる)の初めと一般に理解されている「芥川龍之介書簡抄27 / 大正三(一九一四)年書簡より(五) 吉田彌生宛ラヴ・レター二通(草稿断片三葉・三種目には七月二十八日のクレジット入り)」(これは芥川龍之介好きならまず知っている全集所収の書簡)も電子化注してあるので、ご覧あれ。

 なお、以下の詩篇の第一連は底本では改ページ(283が左ページで284は右ページで「283」の裏に相当する)であるが、底本の版組では以下で第二連として示す連との間を孰れのページにおいても空けた形跡が物理的に存在しない。実は同じ現象が289290でも起こっているのである。しかし、原書簡では孰れも二箇所ともに一行空けであるので、ここでは特異的に一行空けた。底本原本を読む人間は改ページで行空け効果を与え得るので、取り立てて問題はなかったのかも知れぬが、私はそれでは我慢が出来ないからである。悪しからず。まあ、萩原朔太郎でさえ、単行本で改ページ行空けとぶつかった部分で気にした形跡が殆んどないほどであるから、恒藤恭に対して文句を言うつもりは毛頭ない。さらに読み進めていかれると私の注が突然入るのであるが、残念なことに、原書簡から一連分が丸々抜け落ちているのである。

 最後にちょっと言っておくと、四連目の「狹丹塗の矢」は「さいにぬりのや」で、「赤い土や顔料で塗った特別な神聖を持つ矢」を指す。五連目の「釧」は「うでわ」。その後の私の挿入注の後の二つ目の連の「櫨弓」は「はじゆみ」或いは「はじ」と読めるが、私は音数律から「はじ」と読みたい。]

 

    一〇(大正三年六月二日 新宿から京都へ)

 

       ふ る さ と の 歌

 

   人がゐないと女はしくしくないてゐる

   葉の黃いろくなつた橡の木の下で

   白い馬のつないである橡の木の下で

 

   何故なくのだか誰もしらない――

   葉の黃色くなつた橡の木の下で

   日の沈んだあとのうす赤い空をみて

   女はいつ迄もしくしくないてゐる

 

   お前が大事にしてゐる靑瑪瑙の曲玉を

   耳無山の白兎にとられたのか

   お前の夫の狹丹塗の矢を

   小田の烏が啣へ行つたのか

 

   何故なくのだか誰もしらない――

   兩手を顏にあてゝしくしくと

   すゝなきながら女は

   とほい夕日の空をながめてゐる

 

   そんなにお泣きでない

   腕にはめた金の釧が

   ゆるくなるほどやせたぢやあないか

   そんなにお泣きでない

 

   女はなきやめるけしきはない

   それもそのはづだ

   とほい夕日の空のあなたには

   六人の姉妹(きやうだい)がすんでゐる

 

   六人の姉妹は女の來るのを待つてゐる

   一番末の妹の女の來るのを待つてゐる

   空のはてにある大きな湖で

 

   湖の上にういてゐる六羽の白鳥が

   女の來るのを待つてゐる

   靑琅玕の水にうかびながら

   妹の來るのを待つてゐる

 

   七年前に七人で

   この國の海へ遊びに來たときに――

   海の水をあびて

   白鳥のうたをうたひに來たときに――

 

   海の水はあたゝかく

   砂の上には薔薇がさいて

   五月の日の光が

   眞珠の雨のやうにふつてゐた――

 

[やぶちゃん注:実は、原書簡では、この後に以下の一連があるのであるが、非常に残念なことに、本書では一連が、丸々、全部、抜けてしまっている。恐らくは恒藤が所持する書簡から原稿に写し書きした際のミスと思われる。恐らく筑摩書房全集類聚版は本底本から引いたらしく、同じように抜けている。

   *

 

   七人とも白鳥の羽衣をぬいで

   白鳥のうたをうたひながら

   海の水をあびてゐた時に――

   七人の少女(をとめ)が水をあびてゐた時に

 

   *

これは芥川龍之介の原詩の詩想を枉げることになるので、敢えて途中で同ポイントで注を挿入しておく。]

 

   卑しいこの國の男が砂山のかげヘ

   そつとしのびよつて羽衣の一つを

   知らぬ間にぬすんだので

   ――何と云ふきたないふるまひだらう――

 

   卑しい男のけはひに七人ともあはてゝ

   羽衣をきるのもいそがはしく

   白鳥に姿をかへてとび立つと

   ――丁度櫨弓の音をきいたやうに――

 

   空にとび立つたのは六羽

   羽衣を着たのは六人――

   一番末の妹は羽衣をとられて

   裸身(はだかみ)のまゝ砂の上に泣きながら立つてゐた

 

   その時その卑しい男にかどわかされた

   一番末の妹を思ひながら

   六羽の白鳥は湖の空に

   七つの星をかぞへながら待つてゐる

 

   一番末の妹は夫になつた卑しい男が

   ゐなくなると何時でもしくしくと

   泣きながら夕日の赤い空をながめてゐる

   葉の黃いろくなつた橡の木の下で

 

   卑しい男の妻になつた女は

   何時空のはてにあるあの大きな湖ヘ

   六人の姉がまつてゐる湖ヘ

   帰ることが出來るだらう

 

   女の夢には湖の水の音が

   白鳥の歌と共にきこえてくる

   なつかしい湖の水の音が

   月の中に睡蓮の咲く湖の水の音が

 

   卑しい男の妻になつた少女は

   湖の水を恋ひて

   每日ひとりでないてゐるが

   何時あの湖へかへれるだらう

 

   耳をすましてきけ

   おまへのたましひのたそがれにも

   しくしく泣く声がするのをきかないか

 

   耳をすましてきけ

   お前の心のすみにも

   白鳥の歌がひゞくのをきかないか

 

   人がゐないと女はしくしくないてゐる

   葉の黃いろくなつた橡の木の下で

   白い馬のつないである橡の木の下で

 

           (一九一四・六・二)

              R. AKUTAGAWA

 

[やぶちゃん注:最後のクレジットと署名は三字上げ下方インデントであるが引き上げた。というわけで、一連脱落という致命的ミスがあるので原書簡で再度、読まれんことをお薦めするものである。]

 

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(十) (標題に「九」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこの前、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が「二十九」まで誤ったままで続くという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。上付きアラビア数字は恒藤が附した注記番号。

 なお、私は以下の書簡は電子化していなかったので、先ほど、「芥川龍之介書簡抄153 追加 大正三(一九一四)年四月二十一日 井川恭宛」として岩波旧全集底本で正規表現で電子化注しておいた。まず、そちらを読まれる方がよかろうと思う。注無しに読むのは、かなりきついと思われるからである。

 

    (大正三年四月二十一日 新宿から京都へ)

 

 昨夜ノラとハンネレとをみた。

 孔雀のノラ一人で、あとは皆下手だつた。ハンネレに至つては、舞台監督の此脚本の解釈が疎漏であるばかりでなく、道具も、演出法も甚貧弱なものであつた。第一ハンネレのゴットワルドに對する love を省いたのなどはハウプトマンに對する冒瀆の甚しいものであらう。最後に勧工場の二階のやうな天國で寒冷紗の翼をはやした天使が安息香くさい振香爐をもつて七、八人出て來たときにはふき出したかつた位である。

 長田幹彥氏の祇園をよんだ。つまらなかつた。

 シングをよろしく願ふ。山宮さんもかへつて來た。

 

 すゞかけの芽が大きくなつた。今日から天氣が惡くなると新聞に出てゐる。雨がまたつゞくのだらう。

 

 Sはほんたうに退学になつた。何でも哲学科の硏究室の本か何かもち出したのを見つかつて、誰かになぐられて、それから退校されたと云ふ事だ。卒業の時のいろんな事に裏書きをするやうな事をしたから、上田さんも出したのだろ。其後おとうさんがつれに來たのを、途中でまいてしまつて姿かかくしたさうだが、又浅草でつかまつて、東北のおぢさんの所へおくられたさうだ。かはいさうだけど、仕方がなかろ。あんまり思ひきつた事をしすぎるやうだ。

 

 二食にしてから弁当がいらないので甚便利だ。之から少しべんきやうする。

 いつか君がワイルドのサロメの中の「癩病のやうに白い」と云ふ句をいいと云つたろ。あれはエンシェント・マリナーの中の句だ。アアサア・ランサムが「ワイルドの竪琴は借物だつた」と云つたのも少しはほんとらしい。

 

 からだの具合もいゝ。御健康を祈る。

 

[やぶちゃん注:「S」恒藤による伏字。原書簡は「佐野」。前記リンク先の私の注を参照されたい。]

芥川龍之介書簡抄153 追加 大正三(一九一四)年四月二十一日 井川恭宛

 

大正三(一九一四)年四月二十一日(消印)・京都市吉田京都大學寄宿合内 井川恭樣・新宿二ノ七一 芥川龍之介

 

昨夜ノラとハンネレとをみた

孔雀のノラ一人であとは皆下手だつた ハンネレに至つては舞臺監督の此脚本の解釋が疎漏であるばかりでなく道具も演出法も甚貧弱なものであつた 第一ハンネレのゴツトワルドに對する love を省いたのなどはハウプトマンに對する冒瀆の甚しいものであらう 最後に勸工場の二階のやうな天國で寒冷紗の翼をはやした天使が安息香くさい振香爐をもつて七八人出て來たときにはふき出したかつた位である

 

長田幹彥氏の祇園をよんだ つまらなかつた

 

シングをよろしく願ふ 山宮さんもかへつて來た

 

すゞかけの芽が大きくなつた 今日から天氣が惡くなると新聞に出てゐる 雨がまたつゞくのだらう

 

佐野はほんとう[やぶちゃん注:ママ。]に退學になつた 何でも哲學科の硏究室の本か何かもち出したのを見つかつて誰かになぐられてそれから退校されたと云ふ事だ 卒業の時のいろんな事に裏書きをするやうな事をしたから上田さんも出したのだろ

其後おとうさんがつれに來たのを途中でまいてしまつて姿かかくしたさうだが又淺草でつかまつて東北のおぢさんの所へおくられたさうだ かはいさうだけど仕方がなかろ あんまり思ひきつた事をしすぎるやうだ

 

二食にしてから弁當が入らないので甚便利だ 之から少しべんきやうする

いつか君がワイルドのサロメの中の「癩病のやうに白い」と云ふ句をいゝと云つたろ あれはエンシエント マリナーの中の句だ アアサア ランサムが「ワイルドの竪琴は借物だつた」と云つたのも少しはほんとらしい

 

からだの具合もいゝ 御健康を祈る

   恭   君             龍

 

[やぶちゃん注:最後の署名は四字上げ下インデントであるが、引き上げた。

「ノラ」ノルウェーの劇作家で詩人のヘンリク・イプセン(Henrik Johan Ibsen 一八二八年~一九〇六年)の名作「人形の家」(Et dukkehjem :一八七九年執筆で、同年デンマーク王立劇場で初演)のこと。この時の上演は上山草人(坪内逍遙の『文芸協会』を経て、妻の山川浦路らと『近代劇協会』を設立して新劇俳優として活動、大正八(一九一九)に渡米して、映画俳優に転じ、戦前のハリウッドで活躍したが、トーキーになって英語が喋れず、仕事が減り、帰国した。晩年の黒澤明の「七人の侍」の琵琶法師役が知られる)夫妻の『近代劇協会』第五回公演として、同年四月十七日から二十六日まで有楽座で以下のハウプトマンのそれとのカップリング上演として行われ、芥川龍之介は二十日に観ている。こちらは森鷗外の大正二(一九一三)年の翻訳になるもので、邦題は「ノラ」であった。

「ハンネレ」「沈鐘」(Die versunkene Glocke :一八九六年初演の童話詩劇で全五幕)で知られるドイツの劇作家・小説家・詩人ゲアハルト・ハウプトマン(Gerhart Hauptmann 一八六二~一九四六年)の戯曲「ハンネレの昇天」(Hanneles Himmelfahrt:二幕・一八九三年初演)。訳は森鷗外とされるが、ある信頼出来る資料では、実際には小山内薫の代訳か? とあった。私は未読未見。ドイツでハウプトマン生誕七十年記念として一九三四年に製作された映画の梗概が、サイト「映画com.に載るので参照されたい。

「孔雀」女優衣川孔雀(きぬがわ じゃく 明治二九(一八九六)年~昭和五七(一九八二)年)。当該ウィキによれば、『スペイン公使館一等書記官牛円競一の娘で』、『本名を牛円貞子という。横浜市出身。実践女学校卒』。この大正二年に、『カフェで働』いていたのを、『上山草人に見出されて衣川孔雀の芸名を与えられ、草人の「ファウスト」のグレートヒェン役でデビュー。松井須磨子に並ぶ女優との評価を受ける。妻・山川浦路のある草人の公然たる愛人となり、ヘンリック・イプセンの「ノラ」で主演したり』した。翌大正三年には『草人との子である女児を生み、農家に里子に出』したが、『病死』し、『翌年にも女児を生む』も、これも『病死』した。大正四(一九一五)年頃には草人を見限って、『泉鏡花の弟子の歯科医寺木定芳と結婚』した。大正十二年の『年関東大震災の』際、『鎌倉にあって寺木との間に生まれた二児を失』っているが、『草人は』、『この事件を小説』「蛇酒」として書き、『谷崎潤一郎の推薦で刊行された』とある。今回、いろいろ調べるうち、上山草人が甚だ嫌いになった。

「ゴツトワルド」Gottwald。不幸な主人公ハンネレを救わんと気遣う「教師」役の役名。前掲リンクのシノプシスを参照されたい。

「勸工場」(かんこうば)日本特有の百貨商品陳列所。明治一〇(一八七七)年に上野公園で開設した第一回内国勧業博覧会で、閉会後、出品者に売れ残りの品を返したが、出品者の希望により、その一部を残留陳列して販売することになり、翌年、商工業の見本館が開設された。これが勧工場の始まりで、開設場所には、麹町辰ノ口の旧幕府伝奏屋敷の建物が当てられた。 明治一五(一八八二)年頃が最盛期で、東京市内十五区の各中心地を始めとして、大阪・名古屋その他にも設けられた。現在の百貨店の走りとも言えるが、営利を主眼とせず、産業の振興を目的とする極めて独自の形式を持つものであった。ただ、各地に出現するに従って、品質が低下し,明治末には旧来の呉服店から脱皮しつつあった百貨店に取って代られ、関東大震災後に消滅した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「寒冷紗」(かんれいしや(かんれいしゃ))は薄地に織られ、紗によく似た感じに仕上げられた平織の綿織物。元は薄地の麻織物であったが、その風合いに似せて、手ざわりが粗い、強(こわ)めの綿織物が製織されるようになり、寧ろ、木綿のものが一般化するようになった。綿製の寒冷紗は四十番手ほどの単糸で、織る際に経(たて)糸に強糊(こわのり)を附けてあり、漂白した後、さらに強糊仕上げをする。また、色無地・捺染(なっせん)加工したものもある。良質のものはハンカチーフ地に使用され、他にカーテン地・造花用・人形の衣装等にも広く用いられる(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

安息香(あんそくこう)はツツジ目エゴノキ科エゴノキ属のアンソクコウノキ (Styrax benzoin)、またはその他の同属植物が産出する樹脂で、それらの樹木に傷をつけ、そこから滲み出て固化した樹脂を採集する。主要な成分は安息香酸(芳香族カルボン酸)。香料とする。

「長田幹彥氏の祇園」小説家長田幹彦(明治二〇(一八八七)年~昭和三九(一九六四)年)の「祇園」は情話短編集(大正二(一九一三)年・浜口書店刊)。情話作家として吉井勇と併称されたが、大正五年に赤木桁平から『遊蕩文学』と指弾されたことはかなり有名。私は長田の小説は一篇も読んだことがない。戦後に彼は心霊学に凝ったが、数冊を立ち読みしたが、糞物だった。

「シングをよろしく願ふ」先日電子化注した直前の「芥川龍之介書簡抄152 追加 大正三(一九一四)年三月十九日 井川恭宛」の私の「アイアランド文學を硏究してゐる……」の注を参照されたいが、『新思潮』六月号(第五号・大正三(一九一四)年六月一日発行)を「愛蘭文学号」にする計画が山宮らから出ており、龍之介も乗り気であった。結局この特集号化は成らなかったものの、同号には、龍之介が盟友井川恭に慫慂して、アイルランドの劇作家にして詩人であったジョン・ミリントン・シング (John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)の戯曲「海への騎者」(Riders to the Sea:一九〇四年)を訳させたものを掲載し(この作品、確かにどこかで読んだのだが、コピーをとれる状況下でなかったため、手元にない。是非、電子化したいのだが)、芥川も柳川隆之介として翻訳の「春の心臟(イエーツ)」を載せている。「山宮さんもかへつて來た」山宮允(さんぐまこと)のことだが、「かへつて來た」の意味は不詳。山宮は故郷が山形で、何かの都合で帰郷していたか。或いは、やはり先立つ「芥川龍之介書簡抄151 追加 大正三(一九一四)年三月二十一日 井川恭宛」に出る山宮が関わっている「發音矯正會」の方にかかり切りで、暫く『新思潮』の会合には御顔を見せなかったというだけのことかも知れない。

「佐野」後の戦前の日本共産党(第二次共産党)幹部佐野文夫(明治(二五(一八九二)年昭和六(一九三一)年)。菊池寛が一高を退学になった「マント事件」の真犯人である。詳しくは、「芥川龍之介書簡抄19 / 大正二(一九一三)年書簡より(6) 十一月十九日附井川恭宛書簡」を参照されたい。彼には一種の病的な窃盗癖があるように見受けられる。

「卒業の時のいろんな事」東京帝大附属高校に当る第一高等学校の卒業時のごたごたを指す。前記リンク先で注してあるように、「マント事件」の影響で、関係者からも疑われたことから、一旦、休学して山口県で謹慎生活(秋吉台での大理石採掘)を送ってから復学し、通常よりも遅れて大正二(一九一三)年九月に第一高等学校を卒業していることを指しているようである。

「上田さん」上田萬年(かずとし 慶応三(一八六七)年~昭和一二(一九三七)年)は国語学者で、当時は東京帝国大学文科大学学長であった。尾張藩士の子として江戸で生まれた。東京帝国大学名誉教授を退官後、國學院大學学長を務めた。

『ワイルドのサロメの中の「癩病のやうに白い」』は龍之介の言う通り、記憶違いで、芥川の指示する「エンシエント マリナー」(これ、筑摩全集類聚脚注では『不詳』とするが)は、調べたところ、イギリスのロマン派の詩人サミュエル・テイラー・コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge  一七七二年~一八三四年)が一七九七 年から翌年にかけて書いた後に初版を発表した、彼の詩の中で最も長い詩篇「老水夫行」(‘The Rime of the Ancient Mariner’:「古い舟人の吟詠」)の一節である。同作を「Project Gutenberg」のこちらの電子化で調べたところ、パート“PART THE THIRD.”の第十一連の三行目に見出せた。以下に示す。

   *

 

     Her lips were red, her looks were free,

     Her locks were yellow as gold:

     Her skin was as white as leprosy,

     The Night-Mare LIFE-IN-DEATH was she,

     Who thicks man's blood with cold.

 

   *

「アアサア ランサム」筑摩全集類聚脚注では、これも『不詳』とするが、解せない。イギリスの児童文学作家アーサー・ランサム(Arthur Ransome 一八八四年~一九六七年)。ヨークシャー生まれ。評論家を経て、後にロシアに渡り、新聞特派員として「第一次世界大戦」や「ロシア革命」・「干渉戦争」を報道する傍ら、昔話の研究・収集を行ない、「ピーターおじさんのロシアの昔話」(Old Peter's Russian Tales :一九一六年)に纏めた。一九二九年には記者生活にピリオドを打ち、心の故郷の湖沼地方を舞台にした物語シリーズ「ツバメ号とアマゾン号」(Swallows and Amazons)を執筆。以来、伝統的冒険精神を現実味のある物語で展開したこの一連のシリーズを全十二巻出版した。六冊目の「ツバメ号と伝書バト」(Pigeon Post :一九三六年)ではイギリスの図書館協会から贈られる児童文学賞として知られるカーネギー賞を受賞している。一九三〇年代のリアリズムを代表する作家として知られる(日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」他に拠った)。]

2023/01/14

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(九) (標題に「八」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこの前後、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が「二十九」まで続くという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。上付きアラビア数字は恒藤が附した注記番号。

 なお、この書簡は岩波旧全集では『〔前缺〕』とあったので、私は不完全書簡として電子化をしなかった。しかし、今回の恒藤恭のこの「旧友芥川龍之介」の「芥川龍之介書簡集」にも、やはり前部分欠損のままに(但し、その注記はない)収録されており、現在、最も新しいデータである岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」にも同じく前欠損で収録されている(同文庫は岩波の忌まわしい新字の新全集が典拠)ことから、この書簡は恒藤自身が、前部分を紛失して完全形は最早、期待出来ないことが判ったので、以下の電子化に先だって、先ほど、岩波旧全集底本で電子化注をして、「芥川龍之介書簡抄152 追加 大正三(一九一四)年三月十九日 井川恭宛」として公開した。まず、そちらを読まれる方がよかろうと思う。注無しに読むのは、かなりきついと思われるからである。

 

    (大正三年三月 新宿から京都へ)

 

 新思潮の二号を送つた。

 井出と云ふのは土屋、松井と云ふのは成瀨だ。六号にある記事は皆久米のちやらつぽこだから信用してはいけない。僕一人の考へでは大分下等のやうな氣がして不平がないでもない。三号へは山本勇造氏が大へん長いDRAMA[やぶちゃん注:原書簡では小文字。]をかいたので久米が俑[やぶちゃん注:「よう」。人形(ひとがた)。原書簡の私の後注を参照。]を造つたのを悔いてゐる。

 比頃も不相変不愉快だ。新思潮社の同人とも水と油程でなく共[やぶちゃん注:「とも」。]、石油と種油にはちがつてゐる 併しどう考へても、あるがまゝの己が最も尊いやうな氣がする(人の EINFLUSS をうけやすい人間だけに余計こんな氣がするのかもしれないが)。ひとりで本をよんだり、散步したりするのは少しさびしい。

 

 胃病が[やぶちゃん注:原書簡ではここに「又」と入る。]少し起つた。休みはどうしやうかと思つてゐる。

 成瀨や佐藤君は一高の應援隊を利用して、汽車賃割引で京都へゆくと云つてゐる。

 石田君が大へん勉强してゐる。來年はきつと特待になると云ふ評判である。前より少し靑白くなつたやうな氣もする。[やぶちゃん注:以下に石田への悪口があるが、恒藤恭によってカットされており、以下に続くはずの二段落分もカットされてしかも詰めてある。]

 佐藤君はフロオべールとドストエフスキーをよんでゐる。谷森君とは每日大抵一緖にかへる。相不変堅実に勉强してゐる。谷森君のおとうさんは貴族院の海軍予算修正案賛成派の一人ださうだ。尤も内閣の形勢が惡くなる前は權兵衞をほめてゐたが、風向がかはると急に薩閥攻擊にかはつたんだから、少しあてにならない賛成家らしい。

 時々山宮さんと話しをする アイアランド[やぶちゃん注:ママ。]文学を硏究してゐる ひとりで僕をシング(小山内さんにきいたらシングがほんとだと云つた)の硏究家にきめていろんな事をきくのでこまる。アイアランド文学号を出すについても、グレゴリーの事をかく人がなくつてこまつてゐる。著書が多いから仕末が惡いのだらう。

 

 畔柳さんの会は相変らずやつてゐる。今度はダンヌチヨださうだ。

 前には遠慮をしてしやべらなかつたが、僕も此頃は大分しやべる。鈴木君と石田君とが一番退屈な事を長くしやべる。其度に畔柳さんにコーヒーと菓子の御馳走になる。何でもその外に畔柳さんは三並さんや速水さんや三浦さんと一緖に觀潮何とかと云ふ会をつくつて、一高の生徒を聽衆に月に一回づつ講演をしてゐるさうだ。

 芝の僕のうちの井戶の水が赤つちやけてゐて、妙にべとべとする。昔から何かある井戶だと云つてゐたが、此頃衞生試驗所へ試驗を願つたら、わざわざ出張してしらべてくれた。試驗の結果によると、ラヂウムエマナチオン[やぶちゃん注:原書簡では「ラヂウム」と「エマナチオン」の間に一字空けがある。]があつて、麻布にあるラヂウム泉と同じ位の强さだと云ふ。芝のうちのものは皆每日湯をわかしてははいつてゐる。今にこの井戶が十万円位にうれたら僕を洋行させてくれるさうだ。

 

 うちの二階からみると、枯草の土手の下にもう靑い草が一列につづいてゐる。欅の枝のさきにもうす赤い芽が小さくふいて來た。春の呼吸がすべての上をおほひ出したのだと思ふ。雨にぬれた土壤からめぐむ艸のやうに心の底の暖みから生まれるともなく生まれる「煙」のやうなものに、出來るなら形を與へたい。僕は此頃になつてよんでゐるツアラトストラのアレゴリーに限りない興味を感ぜずにはゐられない。

 時々自分のすべての思想、すべての感情は[やぶちゃん注:原書簡ではここに「悉」(ことごとく)と入っている。]とうの昔に他人が云ひつくしてしまつたやうな氣がする。云ひつくしてしまつたと云ふより、その他人の思想、感情をしらずしらず自分のもののやうに思つてゐるのだらう。ほんとうに自分のものと称しうる思想、感情はどの位あるだらうと思ふと心細い。オリギナリテートのある人なら、こんな心細さはしらずにすむかもしれない。

 

 時々又自分は一つも思つた事が出來た事のないやうな氣もする。いくら何をしようと思つても、「偶然」の方が遙に大きな力でぐいぐい外の方へつれ行つてしまふ。全体自分の意志にどれだけ力があるものか疑はしい。成程手や足をうごかすのは意志だが、その意志の上の意志が自分の意志に働きかけてゐる以上、自分の意志は殆[やぶちゃん注:「ほとんど」。]意志の名のつけられない程貧弱なものになる。其上己の意志以上の意志が國家の意志とか社会の意志とか云ふものより更に大きな意志らしい氣がする。何故ならば國家の意志なり社会の意志なりを究極[やぶちゃん注:原書簡では「屈竟」。]の意志とすれば、その上に與へらるる制限の理由を見出す事が出來ない(それがベシュチムメンせらるゝ理由を見出す事が出來ない)からだ。事によると自由と云ふものは絕対の「他力」によらないと得られないものかもしれない。

 

 此頃別樣の興味を以てメーテルリンクの戲曲がよめるやうになつた。空氣のやうに透明な戲曲だ。全体の統一を破らない爲には注意と云ふ注意を悉く拂つてある戲曲だ。美と云ふものに対して最注意ぶかい、最敏感な作者のかいた戲曲だ。それでゐて、おそろしい程 EFFECT がある。僕は其上にあの「ランプのそばの老人」の比喩を哂つた[やぶちゃん注:「わらつた」。]アーチヤーを哂ひたいとさへ思ふ事がある

 独乙語の試驗の準備をするからやめる。あさつて試驗。      龍

 

[やぶちゃん注:最終段落の「EFFECT」は、原書簡では、この部分だけ縦書欧文となっているが、底本はここも横書となっている。]

芥川龍之介書簡抄152 追加 大正三(一九一四)年三月十九日 井川恭宛

 

[やぶちゃん注:この書簡は底本の岩波旧全集では、『〔前缺〕』とあるので、私は不完全書簡として電子化をしなかった。しかし、現在進行中の送られた相手である恒藤恭の「旧友芥川龍之介」の「芥川龍之介書簡集」にも、やはり前部分欠損のままに(但し、その注記はない)収録されており、岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」にも同じく前欠損で収録されている(同文庫は岩波の忌まわしい新字の新全集が典拠)ことから、この書簡は恒藤自身が、前部分を紛失して完全形は最早、期待出来ないことが判ったので、ここで改めて追加電子化注することとした。

 

大正三(一九一四)年三月十九日(消印)・井川恭宛・三月十九日・京都市吉田京都帝國大學寄宿舍井川恭君 直披

 

新思潮の二号を送つた

井出と云ふのは土屋 松井と云ふのは成瀨だ

六号にある記事は皆久米のちやらつぽこだから信用してはいけない 僕一人の考へでは大分下等のやうな氣がして不平がないでもない 三号へは山本勇造氏が大へん長いdramaをかいたので久米が俑[やぶちゃん注:「よう」。人形(ひとがた)。]を造つたのを悔いてゐる、比頃も不相變不愉快だ 新思潮社の同人とも水と油程でなく共[やぶちゃん注:「とも」。逆接の仮定条件の接続助詞。]石油と種油[やぶちゃん注:「たねあぶら」。菜種油。]にはちがつてゐる 併しどう考へてもあるがまゝの己が最尊いやうな氣がする(人のeinflussをうけやすい人間だけに余計こんな氣がするのかもしれないが) ひとりで本をよんだり散步したりするのは少しさびしい

 

胃病が又少し起つた 休みはどうしやうかと思つてゐる

成瀨や佐藤君は一高の應援隊を利用して汽車賃割引で京都へゆくと云つてゐる

 

石田君が大へん勉强してゐる 來年はきつと特待になると云ふ評判である 前より少し靑白くなつたやうな氣もする 僕は顏をみると不愉快になるからなる可くあはないやうにしてゐる 独乙語の時間には仕方がないからあふ

未來の山田アーベントで久保正にあつた 久米がゐたもんだから傍へやつて來ていろんな話しをしてよはつた

あいつの笑ひ方は含蜜の笑だと思ふ やに甘つたるくつて胸の惡くなる所は甘草の笑の方がいゝかもしれない

 

佐藤君はフロオべールとドストエフスキーをよんでゐる

谷森君とは每日大抵一緖にかへる 相不變堅實に勉强してゐる 谷森君のおとうさんは貴族院の海軍豫算修正案賛成派の一人ださうだ 尤も内閣の形勢が惡くなる前は權兵エをほめてゐたが風向がかはると急に薩閥攻擊にかはつたんだから少しあてにならない賛成家らしい

 

時々山宮さんと話しをする アイアランド[やぶちゃん注:ママ。]文學を硏究してゐる ひとりで僕をシング(小山内さんにきいたらシングがほんとだと云つた)の硏究家にきめていろんな事をきくのでこまる アイアランド文學号を出すについてもグレゴリーの事をかく人がなくつてこまつてゐる 著書が多いから仕末が惡いのだらう

 

畔柳さんの會は相變らずやつてゐる 今度はダンヌンチヨださうだ

前には遠慮をしてしやべらなかつたが僕も此頃は大分しやべる 鈴木君と石田君とが一番退屈な事を長くしやべる

其度に畔柳さんにコーヒーと菓子の御馳走になる

何でもその外に畔柳さんは三並さんや速水さんや三浦さんと一緖に觀潮何とかと云ふ會をつくつて一高の生徒を聽衆に月に一囘づゝ講演をしてゐるさうだ

 

芝の僕のうちの井戶の水が赤つちやけてゐて妙にべとべとする 昔から何かある井戶だと云つてゐたが此頃衞生試驗所へ試驗を願つたら わざわざ出張してしらべてくれた 試驗の結果によるとラヂウム エマナチオンがあつて麻布にあるラヂウム泉と同じ位の强さだと云ふ 芝のうちのものは皆每日湯をわかしてははいつてゐる 今にこの井戶が十萬圓位にうれたら僕を洋行させてくれるさうだ

 

うちの二階からみると、枯草の土手の下にもう靑い草が一列につづいてゐる欅[やぶちゃん注:「けやき」。]の枝のさきにもうす赤い芽が小さくふいて來た 春の呼吸がすべての上をおほひ出したのだと思ふ 雨にぬれた土壤からめぐむ艸のやうに 心の底の暖みから生まれるともなく生まれる「煙」のやうなものに出來るなら形を與へたい 僕は此頃になつてよんでゐるツアラトストラのアレゴリーに限りない興味を感ぜずにはゐられない

 

時々自分のすべての思想すべての感情は悉とうの昔に他人が云ひつくしてしまつたやうな氣がする 云ひつくしてしまつたと云ふよりその他人の思想感情をしらずしらず自分のもののやうに思つてゐるのだらう ほんとうに自分のものと稱しうる思想感情はどの位あるだらうと思ふと心細い オリギナリテートのある人ならこんな心細さはしらずにすむかもしれない

 

時々又自分は一つも思つた事が出來た事のないやうな氣もする いくら何をしやうと思つても「偶然」の方が遙に大きな力でぐいぐい外の方へつれ行つてしまふ 全体自分の意志にどれだけ力があるものか疑はしい 成程手や足をうごかすのは意志だがその意志の上の意志が 自分の意志に働きかけてゐる以上 自分の意志は殆意志の名のつけられない程貧弱なものになる 其上己の意志以上の意志が國家の意志とか社會の意志とか云ふものより更に大きな意志らしい氣がする 何故ならば國家の意志なり社會の意志なりを屈竟の意志とすればその上に與らるゝ制限の理由を見出す事が出來ない(それがベシユチムメンせらるゝ理由を見出す事が出來ない)からだ 事によると自由と云ふものは絕對の「他力」によらないと得られないものかもしれない

 

此頃別樣の興味を以てメーテルリンクの戲曲がよめるやうになつた 空氣のやうに透明な戲曲だ 全体の統一を破らない爲には注意と云ふ注意を悉拂つてある戲曲だ 美と云ふものに對して最注意ぶかい最敏感な作者のかいた戲曲だ それでゐておそろしい程EFFECT[やぶちゃん注:ここのみ縦書。]がある僕は其上にあの「ランプのそばの老人」の比喩を哂つた[やぶちゃん注:「わらつた」。]アーチヤーを哂ひたいとさへ思ふ事がある

 

独乙語の試驗の準備をするからやめる あさつて試驗

                  龍

 

[やぶちゃん注:最後の署名は四字上げ下インデントであるが、引き上げた。

「新思潮の二号」刊号で翻訳「バルタサアル(アナトオル・フランス)」を「柳川隆之介」のペン・ネームで発表した(ジョン・レイン夫人の英訳からの重訳)芥川龍之介はこの第二号には作品を発表しておらず、次の第三号(大正三年四月一日発行)で、やはり柳川名義で翻訳『「ケルトの薄明」より(イエーツ)』を発表している。

「井出と云ふのは土屋」「井出」は「井出說太郞」で、歌人土屋文明(明治二三(一八九〇)年~平成二(一九九〇)年)の当時のペン・ネーム。土屋はこの頃は同誌で戯曲や小説を発表していた。同誌創刊号に戯曲「雪來る前」を発表している。

「松井と云ふのは成瀨」「松井」は「松井春二」で、後にフランス文学者となる成瀬正一(せいいち 明治二五(一八九二)年~昭和一一(一九三六)年:脳溢血で満四十三で亡くなった)の当時のペン・ネーム。同誌二号(大正三(一九一四)年三月一日発行)には「未來のために」という小説を発表している。

「六号にある記事」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注に、同誌の『後記「TZSCHALLAPPOKO」。婿になる同人の資格くらべなどが記されている』とある。調子に乗ってあることないことを書くのが好きな久米正雄らしい、おふざけの後記記事らしい(私は未見)。「ちやらつぽこ」(ちゃらっぽこ・ちゃらぽこ)自体が「口から出まかせの噓」或いは「そうした嘘を平気で言う人」の意で江戸後期にはあった語である。

「三号へは山本勇造氏が大へん長いdramaをかいた」同誌第三号(発行前であるが、既に編集印刷作業入っていたから過去形)には山本有三(「勇造」は彼の本名)三幕の戯曲「女親」を発表している。

「久米が俑を造つた」先立つこの第二号で久米正雄は、三幕の戯曲「牛乳屋の兄弟」を発表していた。それが、あたかも「女親」の先払いのようになったことを指している。

「einfluss」「アィンフルス」。ドイツ語で「感化・影響・勢力」の意。

「佐藤君」不詳。新全集の「人名解説索引」に、芥川龍之介の一高時代の同級生で、岩手生まれの佐藤庄兵衛なる人物が載るが、彼か。

「一高の應援隊」筑摩全集類聚版第七巻「書簡一」(昭和四六(一九七一)年刊)の本書簡の注に、『対三高(京都)定期戦の応援』とある。

「石田君」石田幹之助。

「特待」学費が免除される特待生(正式名称は「特選給費学生」)。

「未來」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」の注に、『詩の同人誌『未来』』とし、この『一九一四年二月創刊。同人は山宮允』(さんぐうまこと)、『西条八十、三木露風、川路柳虹、新城和一』(しんじょうわいち)、『山田耕作、灰野庄平ら』が『詩と音楽との融合を試みた。山宮と親しかった芥川は、(第二次)『未来に短歌「砂上遅日」を一九一五年二月に発表』しているとある。その芥川龍之介の短歌「砂上遲日」(全十二首)はサイト版「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」で全歌が読める。

「山田アーベント」この大正四年二月十三日、山田耕作のドイツ遊学からの帰朝を祝って、築地精養軒で開催された、『未来』同人の主催になる音楽会。石割氏の前掲書によれば、『三木露風らの詩も十数編歌われた』とある。

「久保正」不詳。

「あいつの笑ひ方は含蜜の笑」(ゑみ)「だと思ふ やに甘つたるくつて胸の惡くなる所は甘草」(かんざう)「の笑の方がいゝかもしれない」「含蜜」は「がんみつ」で「含蜜糖」のこと。砂糖の製造過程で糖蜜を分けずに、砂糖結晶と一緒に固めて製品にしたもの。黒砂糖・赤砂糖などがそれ。腐れ縁親友久米への歯にもの着せぬ謂いが面白い。そうか? そこから久米の「微苦笑」も生まれたわけだね!

「谷森君」谷森饒男(にぎお 明治(一八九一)年~大正九(一九二〇)年)は一高時代の同級生。新全集の「人名解説索引」によれば、『東京生まれ』で、明治四二(一九〇九)年入学であったが、『翌年入学の芥川と同期にな』ったとある。また、『勉強家で卒業成績は』、『「官報」によると井川恭・芥川に次いで』三番であったとある。東京『帝大では国史学を専攻』したとあって、『父は貴族院議員の谷森真男』(まさお 弘化四(一八四七)年~大正一三(一九二四)年:当該ウィキのリンクを張っておく)とある。「芥川龍之介書簡抄《追加》(63―2) / 大正五(一九一六)年八月二十八日谷森饒男宛(自筆絵葉書)」も見られたい。

「海軍豫算修正案」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」の注に、『一九一四年三月、海軍拡張予算をめぐり、衆議院』(与党が多い)『が大幅な削減を上程したが』、意見が対立した貴族院が『否決』し、不成立に終わった(筑摩全集類聚の注を一部で入れ込んだ)。

「權兵エ」内閣総理大臣(第十六代及び第二十二代:ここは前者)山本権兵衛(嘉永五(一八五二)年~昭和八(一九三三)年)。薩摩藩士の息子。海軍軍人(階級は海軍大将)で政治家。当該ウィキによれば、大正二(一九一三)年、『同じ薩摩閥の元老』『大山巌の支持で山本に組閣の大命が下』った。『松方正義が』明治三一(一八九八)年一月に『辞任して以来』、十五『年振りの薩摩出身者であり』、二月二十日に『政友会を与党として内閣総理大臣に就任したが、『ドイツの国内事件からシーメンス事件が検察によって調査され、海軍高官への贈賄疑惑をめぐり』、『内閣は瓦解』大正三(一九一四)年四月十六日に『総辞職した』とある。

「薩閥攻擊」筑摩全集類聚版の注に、『第三次桂』(長州閥)『内閣と山本内閣の政変により、藩閥出身の政治家や陸海軍が大きな打撃を受け、藩閥攻撃の声が高まった』とある。

「アイアランド文學を硏究してゐる……」前掲の石割氏の同書注に、『『新思潮』六月号を「愛蘭文学号」にする計画が山宮らから出ていたが、実現しなかった』とある。この六月号は第五号で大正三(一九一四)年六月一日発行。特集はならなかったものの、芥川は強く希望していた。その証拠に、盟友井川恭に慫慂して、アイルランドの劇作家にして詩人であったジョン・ミリントン・シング (John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)の戯曲「海への騎者」(‘Riders to the Sea’ :一九〇四年)を訳させたものを掲載し、芥川も柳川隆之介として翻訳の「春の心臟(イエーツ)」を載せている。

「小山内さんにきいたらシングがほんとだと云つた」「小山内さん」は劇作家・演出家で批評家でもあった小山内薫(明治一四(一八八一)年~昭和三(一九二八)年)。彼は近現代演劇の革新に携わった以外にも、多くの小説やロシア作家の小説の翻訳なども手掛けている。ウィキの「小山内薫」を参照されたい。芥川龍之介にとっては、第一次『新思潮』の先輩であったことと、龍之介がかなりの芝居好きでもあったこと、さらに互いの主なテリトリーが、小説と演劇で異なっていた点で、却って常に意識していても平気な芸術家であったことは疑いあるまい。ややおかしいと思われるかも知れないが、芥川龍之介の「小説家嫌い」は、仲間や友人であっても、実は、かなり強いのである。

芥川龍之介のこれ以前の書簡で「シンヂ」という表記で見える。なお、私はサイトのこちらで姉崎正見訳「アラン島」や、芥川龍之介が最後に愛した松村みね子(片山廣子)訳になる戯曲「聖者の泉(三幕)」の全電子化(前者はオリジナル注附き)を終えている。

「グレゴリー」アイルランドの劇作家イザベラ・オーガスタ・グレゴリー(Isabella Augusta Gregory 一八五二年~一九三二年)。民話研究家にして劇場経営者でもあった。当該ウィキを見られたい。

「畔柳さん」畔柳都太郎(くろやなぎくにたろう 明治四(一八七一)年~大正一二(一九二三)年)。山形生まれ。東大英文科卒。在学中から積極的に雑誌『帝国文学』に論文を発表し、文芸批評家として注目された。後に「大英和辞典」などの編纂した。既に述べたが、芥川龍之介が横須賀機関学校に就職出来たのも、彼の口利きのお蔭であった。

「ダンヌンチヨ」伊太利リアの詩人・作家でファシスト運動の先駆とされる政治的活動を行ったことで知られるガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele d'Annunzio 一八六三年~一九三八年)。彼の「會」とは、石割氏の注によれば、彼を先生として『七、八人許りの内輪の会で、近代文学の作家毎月一人ずつ読んでいた』とある。

ださうだ

「鈴木君」不詳。

「三並さん」三並良(慶応元(一八六五)年~昭和一五(一九四〇)年)は一高のドイツ語の嘱託講師。新全集の「人名解説索引」によれば、『愛媛県の生まれ』で、『独逸学協会・新教神学校卒』。『ドイツ人シュレーダーと小石川上冨坂に日独学館を建設』し、『若い学生のために尽くした』とある。

「速水さん」速水滉(明治九(一八七六)年~昭和一八(一九四三)年)は心理学者で一高教授(ドイツ語を教えたものと思われる)。後に京城帝大教授・総長を務めた。

「三浦さん」三浦吉兵衛。筑摩全集類聚版注に、明治三六(一九〇三)年『東大独文科卒。一高教授』とある。前掲の新全集「人名解説索引」によれば大正元(一九一二)年『就任』とする。

「觀潮何とかと云ふ會」不詳だが、森鷗外の終の棲家であった観潮楼に引っ掛けたものであろう。

「エマナチオン」“Emanation”。放射性希ガス元素の総称。ラドン(Rn)はその代表。

「アレゴリー」 “Allegory”。寓話。

「オリギナリテート」“Originalität”。ドイツ語で「独創性」。

「ベシユチムメン」“bestimmen”。ドイツ語で「指定・規定する」。

「EFFECT」効果。

『あの「ランプのそばの老人」の比喩を哂つたアーチヤー』不詳。]

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(八) (標題に「七」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこの前後、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が「二十九」まで続くという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。思うに、ここは書簡の並びがおかしいことに気づく。前の書簡は大正三年三月二十一日附であるのに、その後の本書簡は大正三(一九一四)年三月十日附である。則ち、ここは恒藤が原稿で錯雑したか、或いは校正係が原稿を入れ違えたままに組んでしまった可能性が出てきた。孰れにせよ、恒藤の最終校正のミスではある。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。]

 

    (大正三年三月十日 新宿から京都へ)

 

 先達は早速イエーツを送つて下すつて難有う。又其節の八つ橋も皆で難有頂戴してゐる。

 手紙を出さうと思つてかいたのも、うちの番頭が急病で死んだものだから、いろんな事に紛れて遲れてしまつた。君は知つてゐるだらうと思ふが、なくなつたのはうち(新宿の)の店にゐたおぢいさんだ。成瀨が電話をかけると牛のなくやうな返事をすると云つたおぢいさんだ。

 病氣は心臟の大動脈弁の閉鎖で、発作後十五分ばかりでもう冷くなつてしまつた。それ迄は下女と大正博覽会の話をしてゐたと云ふのだからかはいさうだ。見てゐるうちに耳から額へ、額から眼へひろがつてゆく皮膚の變色を(丁度雲のかげが日向の野や山へ落ちるやうに)見てゐるのは如何にも不氣味だつた。水をあびたやうな汗がたれる。かすれた声で何か云ふ。血も少しはいた。

 今朝六時の汽車で屍体は故鄕(くに)へ送つたが、二日も三日も徹夜をしたので、うちのものは皆眼ははらしてゐる。帳面をぶら下げた壁や、痕だらけの机のある狹い店ががらんと急に廣くなつたやうな氣がする。

 こんな急な死に方をみると、すべての道德、すべての律法が死を中心に編まれてゐるやうな氣がしないでもない。くにから死骸を引取りに來た親類の話によると、なくなつた晚にかけてない目ざまし時計が突然なり出したさうだ。それから夜があけると、うちの前へ烏が一羽死んで落ちてゐたと云ふ。母や叔母や女中は皆氣味のわるさうな顏をしてこんな話をきいてゐた。

 

 一週間程前に巢鴨の癩狂院へ行つたら、三十程位の女の氣狂ひが「私の子供だ、私の子供だ」と云つて僕のあとへついて來た。子でもなくして氣がちがつたのだらう。随分氣味が惡かつた。中に神道に凝つてゐる氣狂ひがゐた。案内してくれた医学士が「あなたの名は何と云ふんです」ときくと「天の神、地の神、奈落の神、天てらす天照皇神、むすび國常立何とか千早ぶる大神」と一息に答へた。「それが皆あなたの名ですか」と云ふと、「左樣で」とすましてゐる。をかしくもあり、かはいさうでもあつた。

 

 そのあとで医科の解剖を見に行つた。二十の屍体から発散する惡臭には辟易せずにはゐられなかつた。其代り始めて人間の皮膚が背中では殆五分近く厚いものだと云ふ事を知つた。

 屍体室へ行つたら、今朝死んだと云ふ屍体が三つあつた。其中の一人は女で、まだアルミのかんざしをさしてゐた。

 死ぬと直ぐ胸の上部を切つて、そこから朱を注射するので、土氣色の皮膚にしたたつてゐる朱が血のやうで氣味が惡い。一緖に行つた成瀨はうちへ帰つても屍体のにほひが鼻についてゐて、とうとう[やぶちゃん注:ママ。原書簡も同じ。]吐いてしまつたさうだ。

  一九一四・三・十 新宿にて    龍

 

[やぶちゃん注:最後のクレジットと署名は下四字上げインデントであるが、引き上げた。但し、原書簡では、本文の前にこれがある。本書簡は「芥川龍之介書簡抄23 / 大正三(一九一四)年書簡より(二) 四通」の二通目で岩波旧全集版から電子化注(この書簡の注ではかなりリキを入れた)してあるので、参照されたい。

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(七) (標題に「八」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこの通り、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が「二十九」まで続くという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。上付きアラビア数字は恒藤が附した注記番号。

 以下の書簡は未電子化であったので、先ほど、「芥川龍之介書簡抄」に「芥川龍之介書簡抄151 追加 大正三(一九一四)年三月二十一日 井川恭宛」として岩波旧全集の正規表現で電子化注しておいたので、そちらを、まず、読まれたい。

 なお、ここでは欧文は総て横書であるが、原書簡は総て縦書である。

 

    (大正三年三月二十一日 新宿から京都へ)

 

 どうしてかう君の手紙と僕の手紙とは行きちがひになるのだらう。今日かへつたら、君のが來てゐた。僕のは昨日出したんだから、今頃やつと君がよんでゐる時分だらう。

 君の手紙をみて大へんうれしかつた。前の手紙にかいたやうに、皆京都へゆく、僕はその人たちとはなれて行かうかと思つてゐた。君の手紙をよんだ時には、すぐにも行くと云ふ手紙を出さうかと思つた位だ。けれども、手紙のおしまひへ來たら、君が東京へ來るとかいてある。けれども、東京で君とあふのはあまり平凡で、あまり PROSAIK なやうな氣がする。君さへ都合がよければ、藤沢あたりで落ちあつて、一緖に鎌倉へ行つて菅先生をお訪ねしやうかと思つてゐるが、どうだらうか。[やぶちゃん注:「PROSAIK」ドイツ語で「散文的・無趣味」の意。但し、原書簡は「PROSAIC」となっており、これは「散文の・散文的な」、「(文章・話などが)詩趣に乏しい」、「平凡な・退屈な・面白くない」の意の英語である。思うに、この書簡は恒藤恭が元版全集のために芥川龍之介書簡を臨書して供出した際、ドイツ語と錯覚して誤記したものであろうと思われる。原書簡の私の注も参照されたい。

 僕の方は二十五、六日頃迄授業がありさうだが、少しはすつぽかしてもいい。なる可く早く君にあひたいと思ふ。人間はあはないでゐると外部の膜が固くなるものだ。誰にでもとは云はない。少くとも君に対して膜が固くなるのは嫌だ。

 

 発音矯正会は山宮さんがやつたのだ。僕があとから訂正を申込んだが、間に合はなかつた。シンヂはまだいいにしろ、山宮さん自身のかいた論文の中の片かなにも誤謬がありさうだ。

 

 僕の生活は不相変單調に不景氣にすゝんでゆくばかりだ。すすんでゆくのだか、止つてゐるのだか、わからない程、緩漫だが、蝸牛の殻は中々はなれない。はなれたらスケッチブックの始の QUOTATION にあるやうな醜いものになるだらう。[やぶちゃん注:この出典などについては、「芥川龍之介書簡抄151」で詳細な注をしておいたので、見られたい。]

 新思潮へかく事は僕は全く遊戲のやうに思つてゐる。(作をする事ではない、出すと云ふ事だ)。從つて同人の一人となつたと云ふ事についても SERIOUS な事として考へてやつたのでも何でもない。が今になつてみると、たとひ一号の卷頭に、同人を結びつけるものが唯「使宜」にある事を声明したにもせよ、全く傾向の異つた人間と同じ名の下に立つ事は誤解を招きやすいのみならず、僕自身にとつても不便があるかもしれないと思つてゐる。僕自身の不便が單に不便に止らず、種々の事情から不便のままで押通す事になるかもしれないと思つてゐる。しかしこれは僕は自由にやぶれる障害だと信じる。

 その外に勿論多少 VANITY も働いてゐたにちがひないけれども、最も力づよかつたのは靜平な生活が靜平すぎるままに化石しやしないかと云ふ惧だつた。

 

 云ひ訳けのやうなものにならないやうに氣をつけてかいたが、結局云ひ訳けに完つたかもしれない。唯体裁のいいうそはついてないつもりだ。それから序に二つかきそへる事がある。一は幸にして僕がまだ何にもかぶれない事、一は接触する機会が前より多くなつた爲に、同人の多くに対する僕の見方が(僕から云つて)正確になつた事、正確になつた結果は不幸にして前よりも以上の尊敬と同情とを失ふに止つた事とである。

 

 此頃は大へん DISILLUSION がつゞいてこまる。記念祭の事でY君と二三度あつたら、すつかりY君が嫌になつてしまつた 其他なまじい口をきかなければよかつたと思ふ人が沢山ある。前にはそんなに思はなかつた人でも大分大ぜいいやになつた。

 三四郞とはまだ一人も口をきいた事がない。

 劍道部の水野と云ふあばれものの兄さんが僕の級にゐる。英語は英文三年を通じて一番出來るかもしれない。クリスチャンで西洋人のうちにゐる。靑山学院の英文科の卒業生だ。語学者のやうな人で今の英文科の模範的秀才のやうな氣がする。人はいゝ人だ。その人だけには、あふとおぢぎをする。

 

 氣がつかずにゐるうちに自分自身に對して寬大になつてこまる。君はそんな事がなささうで、うらやましい。

 

 東京へくる迄にもう一ぺん返事をくれ給ヘ。一には鎌倉へゆく都合がいいかわるいかしらせる爲に。            さやうなら

 

    廿一日朝         龍

 

[やぶちゃん注:「Y君」恒藤の伏字。原書簡は「矢内原君」とある。]

芥川龍之介書簡抄151 追加 大正三(一九一四)年三月二十一日 井川恭宛

 

大正三(一九一四)年三月二十一日・井川恭宛・封筒欠

 

どうしてかう君の手紙と僕の手紙とは行きちがひになるのだらう 今日かへつたら君のが來てゐた 僕のは昨日出したんだから今頃やつと君がよんでゐる時分だらう

君の手紙をみて大へんうれしかつた 前の手紙にかいたやうに皆京都へゆく 僕はその人たちとはなれて行かうかと思つてゐた 君の手紙をよんだ時にはすぐにも行くと云ふ手紙を出さうかと思つた位だ けれども手紙のおしまい[やぶちゃん注:ママ。]へ來たら君が東京へ來るとかいてある けれども東京で君とあふのはあまり平凡で、あまりPROSAICなやうな氣がする、君さへ都合がよければ藤澤あたりで落ちあつて一緖に鎌倉へ行つて菅先生をお訪ねしやうかと思つてゐるがどうだらうか

僕の方は二十五六日頃迄授業がありさうだが少しはすつぽかしてもいゝ なる可く早く君にあいたい[やぶちゃん注:ママ。]と思ふ 人間はあはないでゐると外部の膜が固くなるものだ 誰にでもとは云はない 少くも君に對して膜が固くなるのは嫌だ

 

發音矯正會は山宮さんがやつたのだ 僕があとから訂正を申込んだが間に合はなかつた シンヂはまだいゝにしろ山宮さん自身のかいた論文の中の片かなにも誤謬はありさうだ

 

僕の生活は不相變單調に不景氣にすゝんでゆくばかりだ すゝんでゆくのだか止つてゐるのだかわからない程緩漫だが蝸牛の殼は中々はなれない はなれたらスケツチブツクの始の QUOTATION にあるやうな醜いものになるだらう

新思潮へかく事は僕は全く遊戲のやうに思つてゐる(作をする事ではない 出すと云ふ事だ) 從つて同人の一人となつたと云ふ事についてもSERIOUSな事として考へてやつたのでも何でもない が今になつてみるとたとヘ一號の卷頭に同人を結びつけるものが唯〝使宜〟にある事を聲明したにせよ 全く傾向の異つた人間と同じ名の下に立つ事は誤解を招きやすいのみならず 僕自身にとつても不便があるかもしれないと思つてゐる 僕自身の不便が單に不便に止らず種々事情から不便のまゝで押通す事になるかもしれないと思つてゐる しかしこれは僕は自由にやぶれる障害だと信じる

その外に勿論多少VANITYも働いてゐたにちがひないけれども最力づよかつたのは靜平な生活が靜平すぎるまゝに化石しやしないかと云ふ惧だつた

 

云ひ訣けのやうなものにならないやうに氣をつけてかいたが結局云ひ訣けに完つたかもしれない 唯體裁のいゝうそはついてないつもりだ それから序に二つかきそへる事がある 一は幸にして僕がまだ何にもかぶれない事 一は接觸する機會が前より多くなつた爲に同人の多くに對する僕の見方が(僕から云つて)正確になつた事 正確になつた結果は不幸にして前よりも以上の尊敬と同情とを失ふに止つた事とである

 

此頃は大へんDISILLUSIONがつゞいてこまる 紀念祭の事で矢内原君と二三度あつたらすつかり矢内原君が嫌になつてしまつた 其他なまじい口をきかなければよかつたと思ふ人が澤山ある 前にはそんなに思はなかつた人でも大分大ぜいいやになつた

三四郞とはまだ一人も口をきいた事がない

劍道部の水野と云ふあばれものの兄さんが僕の級にゐる 英語は英文三年を通じて一番出來るかもしれない クリスチヤンで西洋人のうちにゐる 靑山學院の英文科の卒業生だ 語學者のやうな人で今の英文科の模範的秀才のやうな氣がする 人はいゝ人だ その人だけにはあふとおぢぎをする

 

氣がつかずにゐるうちに 自分自身に對して寬大になつてこまる 君はそんな事がなささうでうらやましい

 

東京へくる迄にもう一ぺん返事をくれ給ヘ 一には鎌倉へゆく都合がいゝかわるいかしらせる爲に さやうなら

    廿一日朝            龍

   井 川 君

 

[やぶちゃん注:文中の欧文は総て縦書である。当時は東京帝国大学英吉利文学科一年で満二十二歳。本文にも出る通り、この前月の二月十二日、第三次『新思潮』が創刊されている。当初の同人は一高出身の東京帝大文科大学の学生が中心で、豊島与志雄・山本有三・山宮允(さんぐうまこと)(以上は大正元(一九一一)年入学組)、芥川龍之介・久米正雄・佐野文夫・成瀬正一・土屋文明(大正二年入学組)、松岡譲(発刊の翌大正三年九月入学)の十名であった。

「PROSAIC」 「散文の・散文的な」、「(文章・話などが)詩趣に乏しい」、「平凡な・退屈な・面白くない」の意の英語。筑摩全集類聚版では『写』しで、この書簡が載るが(恐らく恒藤恭の「旧友芥川龍之介」(昭和二四(一九四九)年朝日新聞社刊)の書簡集からの転載)、そちらでは、この部分は『PROSAIK』となっており、注にドイツ語とし、『散文的、無趣味』とある。

「菅先生」菅虎雄(すがとらお 元治元(一八六四)年~昭和一八(一九四三)年)はドイツ語学者で書家。芥川龍之介の一高時代の恩師。名物教授として知られた。夏目漱石の親友で、芥川龍之介も甚だ崇敬し、処女作品集「羅生門」の題字の揮毫をしたことでも知られる。「芥川龍之介書簡抄19 / 大正二(一九一三)年書簡より(6) 十一月十九日附井川恭宛書簡」を参照。

「二十五六日頃迄授業がありさうだが少しはすつぽかしてもいゝ なる可く早く君にあいたいと思ふ」この時、井川(恒藤)恭が上京したかどうかは、年譜では不明である。

 人間はあはないでゐると外部の膜が固くなるものだ 誰にでもとは云はない 少くも君に對して膜が固くなるのは嫌だ

「發音矯正會は山宮さんがやつたのだ 僕があとから訂正を申込んだが間に合はなかつた シンヂはまだいゝにしろ山宮さん自身のかいた論文の中の片かなにも誤謬はありさうだ」よく判らないが、「發音矯正會」というのは、不全な英語の発音を正すという山宮が指導したグループのリーフレットか何かか? 「山宮」は一高・東帝大の一年上級の山宮允(さんぐうまこと 明治二三(一八九〇)年~昭和四二(一九六七)年)で、後に詩人・英文学者。山形県生まれ。県立荘内中学校(現在の山形県立鶴岡南高等学校)から一高に進んだ。一高時代から『アララギ』の歌会に参加している。大正三(一九一四)年、帝大在学中に、中心となって第三次『新思潮』を創刊、大正四(一九一五)年に東京帝国大学英文科を卒業後、大正六年に川路柳虹らと『詩話会』を結成、大正七年には評論集「詩文研究」を上梓した。後、第六高等学校教授・東京府立高等学校教授・法政大学教授を務めた。ウィリアム・バトラー・イェーツやウィリアム・ブレイクの翻訳紹介で知られ、昭和二四(一九四九)年に日夏耿之介・西條八十・柳沢健らとともに『日本詩人クラブ』の発起人の一人として創立、常務理事長を務めた。「シンヂ」“shindig”(賑やかなパーティー)の略か?

「蝸牛の殼は中々はなれない はなれたらスケツチブツクの始の QUOTATION にあるやうな醜いものになるだらう」筑摩全集類聚版第七巻「書簡一」(昭和四六(一九七一)の本書簡の注に、アメリカの作家ワシントン・アーヴィング(Washington Irving 一七八三年~ 一八五九年)が「ジェフリー・クレヨン」(Geoffrey Crayon)というペン・ネームで発表した書いたスケッチ風の物語集(イギリスの見聞記を中心として短編小説・随筆を含む三十四篇から成る)「スケッチ・ブック」(The Sketch Book of Geoffrey Crayon, Gent.:「紳士ジェフリー・クレヨンのスケッチ・ブック」)アメリカでは一八一九年から一八二〇年に亙って分冊で出版されたものの中の一篇、『「自己を語る」に引用されている。ジョン・リリーの「ユーフユーズ」の中の文章。かたつむりは殻を離れるとひきがえるになり、やむなく住み家を自分で見つけなければならなくなる。人も旅に出るとすっかり変わって、どんな所にでも住めるようになるものだというのが大意』とある。「プロジェクト・グーテンベルク」で原文を確認、タイトルは、‘THE AUTHOR’S ACCOUNT OF HIMSELF’で、その冒頭に以下のようにある。

   *

   I am of this mind with Homer, that as the snaile that crept out of her shel was turned eftsoones into a toad I and thereby was forced to make a stoole to sit on; so the traveller that stragleth from his owne country is in a short time transformed into so monstrous a shape, that he is faine to alter his mansion with his manners, and to live where he can, not where he would.—LYLY’S EUPHUES.

   *

ジョン・リリー(John Lyly 一五五四年~一六〇六年)はエリザベス朝イングランドの作家・戯曲家で、この教訓物語「ユーフュイーズ」(Euphues:正編一五七八年・続編一五八〇年刊)で知られる。

「SERIOUS」「真面目な・厳粛な ・言辞が本気である」の意。

「VANITY」「自分に対する過度の自信・賛美または人にほめられたいという過度の欲望・虚飾」の意。

「完つた」「をはつた」。

「DISILLUSION」「幻滅」の意。

「紀念祭」二十日前、卒業した第一高等学校の三月一日の創立記念日の記念祭のこと。芥川龍之介も出席している。

「矢内原君」矢内原忠雄(明治二六(一八九三)年~昭和三六(一九六一)年:芥川龍之介の一つ年下)は一高の同期生。後に経済学者・植民政策学者となり、敗戦後、東京大学総長を務めた。無教会主義キリスト教の指導者としても知られる。

「三四郞」夏目漱石の「三四郎」の主人公のように、地方の高等学校を卒業して東京帝大に入学した人物の意。

「水野」新全集「人名解説索引」に、水野秀とあり、ここに出る東京帝大時代の英文科の同級生豊田実(明治一八(一八八五)年~昭和四七(一九七二)年:福岡生まれ。龍之介より七つ年上。青山学院高等科を経て、大正元(一九一二)年、青山学院神学科卒業後に、東京帝大英文科に進んだ。後に英語英文学者となった。年青山学院大学初代学長でキリスト教徒)の弟。『久留米の水野家に養子として入』り、『一高を経て』、帝大の法科を『卒業後間もなく病没』とある。]

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(六)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実は「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が「二十九」まで続くという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。上付きアラビア数字は恒藤が附した注記番号。

 なお、この標題のクレジットの日付は誤りで、現行では(旧全集データ)大正二(一九一三)年十二月三日発信となっている。本文内註にある通り、書き込まれている図が省略されているので、私の「芥川龍之介書簡抄20 / 大正二(一九一三)年書簡より(七) 十二月三日附井川恭宛書簡」の原文と私の注を参照されたい。なお、標題(「一」と「二」で二度出る)「長安尺素」というのについてのみ、私の注を引用しておくと、「長安」は帝都東京の比喩であろう。「尺素」は「せきそ」と読む。「素」は「帛」(はく)の意。「一尺余りの絹布」の意で、文字を書くのに用いたところから、「僅かの書き物」「短い手紙」の意。「尺牘(せきとく)」に同じである。則ち、「帝都東京短信」という意味の標題である。

 

     (大正二年十二月五日 新宿から京都へ)

 

       長 安 尺 素  一

 

 フィルハアモニイ会があつた。クローンのバツハが一番よかつた。会場は帝劇で、舞台の前に棕櫚竹やゴムの大きな鉢を舞台と同じ高さにならべ、舞台はうすい綠にやゝ濃い綠で簡單なエジプト模樣を出した壁で囲ひ、左右の WING に濃いクリムソンを使つたのが、大へん快く出來てゐた。ユンケルが來てゐた。

 一番出來の惡かつたのは中島かね子のブラームスとトーメ。樋口信平のヴエルヂイも振はなかつた。

 舞台協会が惡魔の弟子と負けたる人とをやつた。ショウの飜訳には大へん誤訳があると云ふ噂がある。皆あまりうまくない 森のリチャアドも貧弱だ。

 林千歲のダッヂョン夫人は更に貧弱だ。金井のスウィンドン少佐になると新派のくさみが甚しい。最よかつたのは佐々木のバーゴィン將軍だつた。負けたる人に至つては言語道断だ。あの脚本をしつてゐるものは誰でもよくかう拙劣に演じる事が出來るもんだと感心するにちがひない。

 

 フューザン会が順天中学のうしろの燒跡の自由硏究所と云ふとたん葺の仮小屋の樣な所でやつてゐる。三並さんの画が一番最初に出てゐる。皆よくなかつた。唯赤い煙突が晴れた空に立つてゐるのが稍よかつた。最も人目をひいたのは小林德三郞氏の江川一座(二枚あるがその一で見物席をかいたもの)と云ふ水彩と北山淸太郞氏の二、三の小品であつた。莊八氏も大分腕を上げた。與里氏[やぶちゃん注:洋画家齋藤與里(より)。]はフューザンの黑田淸輝の如くおさまつてゐる。同氏の作は劉生氏と共にあまり出來がよくない。

 

 独乙人で世界的にヴアイオリンの名手と云はれる DORA VON MOLLENDORFF の CONCERT が帝國ホテルにあつた ぺッツオルドが補助として出演する。

 ヴァイオリンは自分の今迄きいたどのメロヂイよりもうつくしいメロヂイをひいてくれた。自分は今でも水色のきものをきて濃い栗色の髮をかき上げながら彈くひとの姿を目の前に髣髴する事が出來る。實際あの絃の音は奇蹟のやうであつた。

 ぺッツオルドも出來がよかつた。あの婆さんも当夜は黑天鷲絨に銀糸の繡[やぶちゃん注:「ぬひとり」。]のあるきものをきてすましてゐた。久保正夫にあつた。

 

     長 安 尺 素 二

 

 石田君が愈々一高歷史会の FOUNDER [やぶちゃん注:ファウンダー。創立者・始祖・開祖。]として第一会をひらいた。斎藤さんと慶應の何とか云ふ先生とが出席した。其何とか云ふ人はウインデルバンドをよんでゐる人で、石田君が師事してゐる人である。独法と英法と文科とで会員が大分出來たと云ふ事だ。先生さへ來なければ出席して牛耳つてやるんだがなと久米が口惜しがつてゐる。

 

 一高の物理の敎室と攝生室[やぶちゃん注:衛生室。保健室のこと。]との間に廊下が出來た。食堂の方の廊下も立派になつたさうである。瀨戶さんは國民新聞に現代の学生は意氣が消沈してゐるから、もつと自省自奮自重しなければならんとか何とか三日つゞきで論じてゐる。校長としての評判は校内でも校外でも惡くはないらしい。

 

 ガルスウァシイの詩集 MOODS, SONGS AND DOGGERELS はベルグソンの流轉の哲学の思想を随所に見得る点で注目に價すると云はれてゐる。始にある MY DREAM の終の三つのスタンザなぞはいいと思ふ。

 

 大学に希臘印度美術展覽会が開かれてゐる。高楠さんや黑板さんの採集した希臘の古陶器や人形に欲しいものが澤山ある。貝多羅葉に經文をかくペンを陳列して置いた五本のうち二本盜まれたと云つて印哲の助手がこぼしてゐた。[やぶちゃん注:「貝多羅葉」「ばいたらば」と読む。古代サンスクリット語の「木の葉」の意の漢音写。上古のインドに於いて針で彫りつけて経文を書き、紙の代わりに用いたタラジュ(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科コウリバヤシ(行李葉椰子)亜科コウリバヤシ連コウリバヤシ属タラジュ(多羅樹)Corypha utan )の葉を指す。]

 

 とりでがウォーレン夫人の職業とイエーツの幻の海をやる。うまく行かないだらうと思つてゐるが、三等は十五銭だから、皆でみてやらうと久米が云つてゐる。

 

 根本は九月以來一ぺんも出てこない。谷森君はどこかで感化院にはいつてるときいたさうだ。実は耽溺の揚句に日本館にかくれてゐるのである。

 佐野や石原や黑田も大分盛らしい。[やぶちゃん注:「日本舘」「につぽんかん」(にっぽんかん)と読む。かの「浅草オペラ」(大正六(一九一七)年~大正一二(一九二三)年)の時代に浅草公園六区で初めてのオペラ常設館となった劇場・映画館(一八八三年十月開業。一九九〇年前後(既にピンク映画上映館となっていた)に閉鎖)。同所にあった根岸興行部の「金龍館」と競い合った。]

 

 八木君が頭をのばした。わける氣と見える。句あり。「山羊の毛も刈らでくれけり秋の牧」

 

 佐伯君と坂下君とは一日もやすまずに出てゐる。坂下君の鼻の赤いのは每日賄で生姜を食つたからださうだ。成瀨の云ふ事だからあんまりあてにもならない。

 成瀨は本鄕菊坂の何とか日米露(ヒメロ)と云ふ人の二階にゐたが、今月から自宅から通ふさうだ。時計を九月に佐野にかしたのがかへつてこないと云つて悲観してゐる。[やぶちゃん注:底本では「佐伯君と坂下君とは……」の段落と「成瀨は本鄕菊坂の……」の段落の間で見開き状態で改ページとなっている。本文版組を厳密に計測してみても、これと次の段落の間には行空けはおかれていない。しかし、原書簡では一行空けがなされている。成瀨絡みで恒藤が一緒にしたとも考えられるので、以上のように繋げておいた。]

 

 そのあとへ久米が移る筈になつてゐる。久米は月謝を佐野にかしたのがかへつて來ないと云つて悲観してゐる。同人は目下玉乘の女を主人公にした小說起稿中。

 

 山宮さんにまじめにたのまれて、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]又畔柳さんの会へ出た。よむ本は SHAW 久保謙や久保勘や山宮さんや皆 SHAW は嫌ひだと云つてた。むづかしくつてわからないからきらひなんだらうと思ふ。畔柳さんがこんな図をかいた。(図をはぶく)[やぶちゃん注:「山宮」の註番号が、冒頭の「山宮」に打たれず、後にあるのは底本のママ。「(図をはぶく)」は恒藤恭の補注。「芥川龍之介書簡抄20 / 大正二(一九一三)年書簡より(七) 十二月三日附井川恭宛書簡」に載る芥川龍之介の自筆図(旧全集からトリミングしたもの)をリンクさせておくが、そこで私が注したように、正直言うと、私は図とは理解し易くするためのものでなくてはならない。畔柳教授の、こういう判ったような自己満足のチャートは百害あって一利なしとしか思わない人間である。多分、恒藤も私と同意見と思う。]

 

 Aは人間が TRANSCENDENTAL GOD [やぶちゃん注:超自然的・形而上的な神。]を求める時代。Bは IDEAL を人間の本來に求める時代(遠くはプラトー 近くはメーテルリンク)。 Cは無理想の自然主義の時代。Dは現在の生活に理想を求める時代。この時代は大分して二となる(D’)[やぶちゃん注:「’」はないが、意味が通じなくなるので、原書簡で補った。]。 αは社会に對して個人を重くみる個人主義。βは社会を BETONEN [やぶちゃん注:「ベトゥネン」。ドイツ語。「重視する」の意。]する社会主義。これが動くとETGの三方向をとる。Eはプラグマチズムの方向で、どこ迄も平行線でゆく。Fは科学者の人類観で、滅亡を予想する悲観說。Eはベルグソン、オイッケンのネオロマンチックの哲学による樂観說とするのださうだ。

 メエテルリンクの時よりは面白かつた。僕が SHAW AS A DRAMATIST をやつた。

 

 まだあるが、長くなるから切上げる。

 文展の批評でもきゝたい。町三趣はよからう。[やぶちゃん注:原書簡ではここに「海女の半双(海のない方)もよからう 」とある。]あとの半双も僕は人が云ふほど惡くは思はない。

 松本博士は廣業の四幅を日本画に新紀元を與へるものだと云つた。僕にはわからない。

 註1 石田幹之助氏。一高時代のクラスメート、当時は東大文学部学生。

  2 瀨戶虎記氏。当時は一高の校長。

  3 故畔柳芥舟氏。当時は一高敎授、担当は英語。

  4 一高時代では芥川よりも一年だけ上級生。当時は東大文学部学生。

 

[やぶちゃん注:くどいが、この書簡、注無しで全部判るという人は、大変な文化人と思う。「芥川龍之介書簡抄20 / 大正二(一九一三)年書簡より(七) 十二月三日附井川恭宛書簡」で、私はかなり苦しみながら、神経症的に注を附してあるので参照されたい。]

2023/01/13

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(五)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実は「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が「二十九」まで続くという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。上付きアラビア数字は恒藤が附した注記番号。

 なお、この標題のクレジットは誤りで、現行では(旧全集データ)十一月十九日発信となっている。かなり一般に知られていない人物なども登場するので、時に私の「芥川龍之介書簡抄19 / 大正二(一九一三)年書簡より(6) 十一月十九日附井川恭宛書簡」の原文と私の注を参照されたい。

 

   (大正二年十月 帝國ホテルから京都へ)

 

 菅さんの家へついたのは午後五時頃だつた。

 鎌倉から江の島へ行つて、江の島から又由井ケ浜までかへつて來たのである。先生の家は電車(鎌倉・藤沢間の)の停留所から一町ほど離れてゐるが、それもおみやげに江の島から持つて來た栄螺を代る代るさげてあるく藤岡君と僕とには可成長い路のやうに思はれた。

 鼠がかつた紺にぬられた木造の西洋建の窓にはもう灯があかくさしてゐる。ごめん下さいと云ふと、勢のいゝ足おとがして、重い硝子戶があいた。うすぐらい中に眼の凉しいかはいゝ男の子の顏が見える。「先生は御出でですか」とたづねると、「はい」と会釈をして、すぐまたうすぐらい中にみえなくなる。

 靴をことこととならしながら待つてゐると、菅さんの顏が玄關から出た。「おはいり、さあ、おはいり」

 案内されたのは二階の先生の書斎だつた。戶口には斑竹へ白く字をうかせた聯がかゝつてゐる。はいると、四方の壁にも殆𨻶間なく幅がかけてあつた。悉支那人の書で、それが又悉何と考へてもよめさうもない字ばかりである。紫檀の机の上には法帖と藍の帙にはいつた唐本とがうづたかくつんである。隅のちがひ棚の上には古びた銅の置物と古めかしい陶器とがならんでゐる。すべてが寂(じやく)然として蒼古の色を帶びてゐるのである。

 今めかしいのは高い天井から下つてゐる電燈と廣い緣にすゑた籐椅子ばかり。白麻の緣をとつた疊も、唐木の机も、机の周囲に敷いた白い毛皮も、靑い陶器の火入れも、藍のつむぎの綿入をきた菅さんも、何となく漢詩めいた氣分の中にをさまつて見える。

 窓には帷がおりてゐたが、晝は近く松林の上に海を見る事が出來るのであらう。窓のわきに黑い蝕んだ板がたてかけてゐる。上には模糊として文字のやうなものが蝸牛のはつた跡のやうにうすく光つてゐた。あれは何ですときくと、先生は道風ぢやと答へた。自分はしみじみ先生があの靑磁の瓶に幽菊の一枝をさし、あの古銅の香爐に一炷の篆煙を上らせないのを殘念に思つた。奧さんのなくなられたあとの三年間を先生は五人の御子さんと一緖に二人の下女を使つて、此湘南の田園居に悠々とした日月を送つてゐられるのである。先生の書に於ける鑑識が天下に肩随するもののない事は前からきいてゐた。しかし書を作る上から云つても先生の造詣に及ぶものが何人ゐるであらう。「此夏休みには日に一万字づつ書かうとしたが、どうしても六、七千字どまりぢやつた」と云ふ先生にとつて、独乙語の如きは閑余の末枝[やぶちゃん注:原書簡では「末技」。誤植かも知れない。]に過ぎないのであらう。

 僕[やぶちゃん注:原書簡は「自分」。]たちはチョコレートをすひながらこんな逸話をきいた。

 先生が此間なくなつた梠竹[やぶちゃん注:これは書家中林梧竹(なかばやしごちく)の芥川龍之介の誤り。原書簡の私の注を参照されたい。をたづねた事がある。三、四度留守と称して断られたあげくにやつとあへた。あふと、七十余歲の梠竹は白鬚髯[やぶちゃん注:「はくしゆぜん」と読んでおく。しらひげ。]を撫しながら「お前さんは何用あつて來たのぢや」と云ふ。

 「書法についての御話がうけたまはりたくてまゐりました。」

 「わしは書法なんと云ふものはしりませんて。さう云ふ事は世間に沢山話す人がゐるから、その人たちにきゝなさい。」

 「その人たちの話がきゝたくないから、あなたの所へあがつたんです。」

 この會話は先生の語(コトバ)をきいた通りにかいたのである。

 梠竹は何と云つても書法はしらないで押通す。先生もとうとう[やぶちゃん注:ママ。]我を折つて、かへつて來た。さうすると、一日[やぶちゃん注:原書簡は「一月」。誤植かも知れない。]あまりのうちに梠竹が死んだ。所が先生の親友に大井(?)哲太郞と云ふ詩人がゐる。詩の外に書もよくする人ださうだが、梠竹と師弟のやうな關係で、[やぶちゃん注:原書簡にはここに「其上」とある。]意氣相投ずる所から死ぬ迄親しく交つてゐたので、先生がその人にあつた序に梠竹の話しをすると、その人が云ふには

 「そりやあ惜しい事をした。あなたの來たあとで、梠竹がわたしをよんで、菅と云ふ男がこんな事を云つて來たが、お前は同鄕だし、どんな男か知つてゐるだらうと云ふから、知つてる所ぢやあない。支那に三年も行つてゐた。これこれかう云ふ男だと話してきかせると、梠竹は大へん殘念がつて、俺は早速鎌倉へ逢ひに行きたい。お前案内をしてくれと云ひ出した。云ひ出してすぐ病氣になつて、死んだのぢやから、梠竹もあなた同樣殘念だらう」

 と云ふ事だつた。

 自分はこんな話をきいてゐる中に非常に面白くなつた。そこで書家の噂になると、先生は「之はわしの先生がかいたのぢや、ごらん」と云つて、厚い紙にかいた五言の律詩を見せてくれた。字は六朝の正格である。不折の比ではない。自分は感心して見てゐた。「たゞみてゐたつて仕方がない。かうしてみるがいい。」先生はその紙を手にして[やぶちゃん注:原書簡には「して」は、ない。]灯にすかすやうに[やぶちゃん注:原書簡はここに「して」が、ある。前と合わせて恐らくは元版のために恒藤が書き写した際の誤りと推定出来る。]見せてくれた。字の劃が中央は黑く、左右は銀のやうに墨がたまつて、厚紙の上に字を凹彫にしたやうに見える。「どうぢや、かうなれば一家を成したと云へる。日本の書家には一人も之が出來ない。」自分は愈々感心した。

 先生は今度は李瑞淸の法帖をあけて、「香」の字を指しながら

「この※見なさい 内圓にして外方と云ふのが六朝の正体[やぶちゃん注:「せいたい」。ママ。]ぢや 日本の書家は之を能くしない」[★やぶちゃん注:「※」は「┓」の下の縦線を橫線よりごく纔かに長くしたものが入る。しかし、これでは違う。原書簡の方で底本に挿入されてある芥川龍之介の直筆画像をトリミングして示してあるので、そちらを見られたい。「刀」の第二画をカットしたような字である。

 大きな銅硯に唐墨をすつて鋒[やぶちゃん注:「ほこさき」。筆先。]の長い筆をひたすと、そばの半紙の上へ同じ字をかいてみせる。内円にして外方なる鉤が出來る。

 それから沢山の碑文や法帖や手簡や扇面をみせてくれた。その中で「これが漢の古碑文ぢや。不折が複製を手に入れたと云うて、うれしがつてゐたが、わしのは原文だ」と云つて見せてくれたのが、最も古色を帶びたもので、形容したら鳳篆龍章とも云ふやうな字が明滅して並んでゐた。

 かうしてゐるうちにいつか時がたつて汽車がなくなつてしまつた。

 先生は「とまつてゆきなさい」をくりかへす。さう云へば一寸とまつて見たいやうな氣もする。何となく部屋のなかにみちてゐる瀟洒とした風韻が人を動す[やぶちゃん注:「うごかす」。]のだ。そこでとうとう[やぶちゃん注:ママ。]とめてもらう事にした。最後に先生は有合せの紙に

   沿河不見柳絲搖   步向靑谿長板橋

   丁字簾前猶彷彿   更誰間話到南朝

とかいてくれた。

 

 翌日先生と一緖に東京へかへつて、すぐ学校へ出て、五時迄授業をうけたら、へたへたになつた。文展の最終日にも行きそくなつてしまつた[やぶちゃん注:ママ。]

 文展は昨年ほど振はなかつたが、日本画の第二部で牛田鷄村の町三趣と土田麦僊の海女とがよかつた。唯癪にさはるのは久米の外に海女に同情を示す人がない事だ。石田君なんぞは全然不賛成だと云ふ(之は寧[やぶちゃん注:「むしろ」。]光榮に感じるが)谷森君のおぢさん(審査員)は「怪物」だと云つたさうだ。文展は大阪であるんだらう。さうしたら殊にこの二つをみてくれ給へ。海女の海のウルトラマリンには僕も全然は賛成はしないが、左の半雙の色調と海女の運動のよく現はれた点では成功が著しいと思ふ。町三趣は朝もいいが夜が殊にいい(少し遠近法を無視しすぎて「夜」の石垣なんぞに變な所があるが)。谷森君は「驛路の春」がすてきにすきださうだ。

 エレクトラはすこしほめすぎて、大阪迄君をひき出したやうな氣がして、恐縮だ。其後「夜の宿」をみて、役者のどれよりも舞台監督としての小山内氏の伎倆に敬服したが、之はかく迄もない。

 帝國ホテルのヴェルデイの記念会があつた。ドブロボルスキイと云ふ女のひとのうつくしいソロをきいた。ただおしまひの四部合唱に泣き佛の中島かね子さんとザルコリとタムとドブロボルスキイと出た時には、どうしても西洋人が四人で泣き佛をいぢめてるやうで氣の毒だつた。ザルコリの音量は実際豊なものだと思ふ。

 大塚は[やぶちゃん注:「に」の誤読か誤植。]地所をかりた。冬をこして二月頃から普請にかゝる。今より廣くなるから、今度君がくるときにはもつと便利になる。

 石田君が一高へ歷史会を起した。講義をずべつて迄一高へ行つて世話をやいてゐる。

 山本のやつてる野外劇場は泉鏡花の紅玉を田端の白梅園でやつて失敗した。当事者の久米でさへ「見てられない位まづいんだからな」つて云つてた。

 谷森君は不相変眞面目にやつてゐる 佐野と根本とがずべつてゐる。成瀨は月謝を皆にかしてしまつた所へ月謝の催促が來たと云つて悲観してゐる。根本なんぞは國から洋服をこしらへる金をとつて、それを使つてしまひ、洋服は出來るとすぐ二度程きて、勘定は拂はずに質へ入れてしまつたさうだ。その金で今は三崎へ行つてゐる。

 まだあつた。黑田も石原もずべつてゐる。久米と成瀨は可成眞面目に学校へ出てゐる。佐伯君は大学の橡の木の下で午休みによく座禪をくんで腹式呼吸をやつてゐる。

 

   DOVROVOLSKY夫人も秋の夜はさびしと思ふことありや灯を

   S1GJNORIA NAKAJIMAのきる紫の羽織もさむき夜となりにけり

   秋の夜のホテルの廊を画家南薰造のゆくにあひにけるかな

   バアナアドリイチと語る黑服の女はみみづくによく似たるかな

        (帝國ホテルにて――四首)

註1 故菅虎雄氏(当時、一高敎授、担当はドイツ語)

 2 佐野、根本、成瀨、黑田、久米、佐伯――いづれも一高のクラスメート、

   当時は東大文学部学生。

 

[やぶちゃん注:最後の「(帝國ホテルにて――四首)」は二字上げ下インデントであるが、ブログでは引き上げた。くどいが、「芥川龍之介書簡抄19 / 大正二(一九一三)年書簡より(6) 十一月十九日附井川恭宛書簡」の原文と私の注を参照されたい。そちらで読者に必要と思われる注は総て設けてあるからである。

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(四)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実は「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が「二十九」まで続くという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。]

 

   四(大正二年十月十七日 新宿から京都へ)

 

 エレクトラをみに行つた。

 第一、マクペスの舞臺稽古。第二、茶をつくる家。第三、エレクトラ。第四、女がたの順で、第一はモオリス・ベアリングの飜訳、第二は松居松葉氏の新作、第四は鷗外先生の喜劇だ。

 「マクペスの舞臺稽古」を序幕に据へたのは甚不都合な話で、劇場内の氣分を統一するために日本の芝居ではお目見えのだんまりをやるが(モンナヷンナに室内が先立つたのも)、マクベスの舞臺稽古は此点から見て、どうしても故意に看客の氣分を搔乱する爲に選ばれたものとしか思ふことは出來ない。この PLAY は DEMUNITIVE DRAMAS (いつか寮へもつて行つてゐた事があるから君はみたらう)からとつたのだが、あの中にある PLAY 中でこれが一番騷々しい。何しろ舞台稽古に役者が皆我儘をならべたり、喧嘩をしたり、沙翁が怒つたり、大夫元[やぶちゃん注:「たいふもと」。現代仮名遣で「たゆうもと」。]が怒鳴つたりするのをかいたんだから、これ以上に騷々しい芝居があまりあるものではない。大詰にでも、はねを惜む心をまぎらすにはこんな喜劇もよいかもしれないが、エレクトラを演ずるにさきだつて、こんな乱雜なものをやるのは言語道断である。

 「茶をつくる家」をみたら猶いやになつた。舞台のデザインは中々うまく行つてゐたが、作そのものは完く駄目だ。第一これでみると松居さんの頭も余程怪しいものぢやあないかと思ふ。筋は宇治の春日井と云ふ茶屋が零落して、とうとう[やぶちゃん注:原書簡もママ。]老主人が保險金をとる爲に自分で放火をする迄になる。そこで一旦東京の新橋で文学藝者と云はれた、その家の娘のお花が足を洗つてうちへかへつて來てゐたが、また身をうつて二千円の金をこしらへ、音信不通になつてゐた兄から送つてくれたと云ふ事にして、自分は東京へかへる。父や兄は娘の心をしらずに、義理しらずと云つてお花を罵ると云ふのだ。第一どこに我々のすんでゐる時代が見えるのだらう。保險金をとらうとして放火する位の事は氣のきいた活動寫眞にでも仕くまれてゐる。且家運の微祿を救ふのに娘が身をうると云ふのは、壯士芝居所か、古くはお軽勘平の昔からある。お輕が文学藝者に変つたからと云つて、それが何で SOCIAL DRAMA と云へよう。何で婦人問題に解決を與へたと云へやう。作者は解決を與へたと自称してゐるのだからおどろく。

 さてエレクトラになつた。

 灰色の石の壁。石の柱。赤瓦の屋根。同じ灰色の石の井戶。その傍に僅な一叢の綠。SCENE は大へんよかつた。水甕をもつた女が四、五人出て來て水をくむのから事件が発展しはじめる。始めは退屈だつた。訳文が恐しくぎごちないのである。一例を示すと、

   おまへはどんなにあれがわれわれを見てゐたか、

   見たか、山猫のやうに凄かつた。そして………

[やぶちゃん注:以上はブログでは不具合が生じるので、底本とは異なった箇所で改行した。]

と云つたやうな調子である。いくらギリシアだつてあんまりスパルタンすぎる。クリテムネストラが出て話すときも、そんなに面白くなかつた。之も訳文が祟りをなしてゐるのである。唯クリテムネストラは緋の袍に宝石の首かざりをして、金の腕環を二つと金の冠とをかがやかせ、 BARE ARMS に長い SCEPTRE をとつた姿が如何にも淫婦らしかつた。第一この役者は顏が大へん淫蕩らしい顏に出來上つてゐるのだから、八割方得である。殘念な事に、声は驢馬に似てゐた。

 オレステスの死んだと云ふ報知がくる。クリテムネストラが勝誇つて手にセプタアをあげながら戶の中に走り入る。かはいいクリソテミスがエレクトラに、オレステスが馬から落ちて死んだとつげる。エレクトラが独りになつてから、右の手をあげて「ああとうとう[やぶちゃん注:原書簡もママ。]ひとりになつてしまつた」と叫ぶ。其時、沈痛な声の中に海のやうな悲哀をつたへるエレクトラがはじめて生きた。河合でないエレクトラが自分たちの前に立つてゐる。その上に幕が急に下りた。

 前よりも以上の期待をもつて二幕目をみる。幕があくと、下手の石の柱に紫の袍をきた若いオレステスが腕ぐみをしてよりかかりながら立つてゐる。上手の戶口――靑銅の戶をとざした戶口の前には黑いやぶれた衣に繩の帶をしたエレクトラが後むきにうづくまつてゐる。エジステスが父のアガメンノンを弑した斧の地に埋まつてゐるのを掘つてゐるのである。二人の上にはほの靑い月の光がさす。舞臺は絵の樣に美しい。

 オレステスとエレクトラと妹弟[やぶちゃん注:ママ。原書簡は「姊弟」。エレクトラはオレステスの姉である。誤植かも知れない。]の名のりをする。オレステスの養父が來る。事件は息もつけない緊密な PLOT に從つて進んでゆく。靜な部屋のうちから叫声を起る[やぶちゃん注:原書簡もママ。]。クリテムネストラが殺されたのである。エレクトラは「オレステス、オレステス、うて、うて」と叫ぶかと思ふと地に匍伏して獸のやうにうなる。

 エジステスが來る。エレクトラに欺かれて部屋のうちへはいる。再び「人殺し、人殺し」と云ふ叫声が起る。窓から刺されて仆れるエジステスの姿が見える。

 靜な舞台には急に松明の火が幾十となくはせちがふ。劍と劍と相うつ音がする。人々の叫び罵る声がする。オレステスの敵とオレステスの味方と爭ふのである。其叫喚の中にエレクトラは又獸の如く唸つて地に匍伏する。松明の火[やぶちゃん注:原書簡では「光」である。]は多きを加へる。人々は叫びながら部屋のうちに乱れ入る。劍の音、怒号の声は益々高くなる。エレクトラは醉つたやうによろめきながら立上る。さうして手をあげて、足をあげて、ひた狂ひに狂ふのである。

 遠い紀元前から今日まで幾十代の人間の心の底を音もなく流れる大潮流のひびきは此時エレクトラの踊る手足の運動に形をかへた。やぶれた黑衣をいやが上にやぶれよと靑白い顏も火のやうに熱して、うめきにうめき、踊りに踊る。エレクトラは日本の俳優が扮した西洋の男女の中で其最も生動したものの一つであつた。クリソテミスがひとり來て、復仇の始末をつげる。エレクトラは耳にもかけず踊る。つかれては仆れ、仆れては又踊る。クリソテミスはなくなく靑銅の扉をたたいて「オレステス、オレステス」と叫ぶ。誰も答へない。幕はこの時泣きくづれるクリソテミスと狂ひ舞ふエレクトラとの上に下りる。

 自分は何時か淚をながしてゐた。

 「女がた」は地方興行へ出てゐる俳優がある溫泉宿で富豪に部屋を占領される業腹さに、女がたが女にばけて、その富豪の好色なのにつけこんで一ぱいくはせると云ふ下らないものである。唯出る人間が皆普通の人間である。一人も馬鹿々々しい奴はゐない。悉く我々と同じ飯をくつて、同じ空氣を呼吸してゐる人間である。ここに鷗外先生の面目が見えない事もない。

 兎に角エレクトラはよかつた。エレクトラ、エレクトラと思ひながら其晚電車にゆられて新宿へかへつた。今でも時々エレクトラの踊を思ひ出す。

 

 芝居の話はもうきり上げる事にする。

 牛込の家はあの翌日外から大体みに行つた[やぶちゃん注:原書簡も「体」はママ。移転しようと目星をつけた家を「外」則(そとがわ)「から、大体(だいたい)、見に行(い)つた」。後の同書簡のリンクの私の注を参照されたい。]。場所は非常にいゝんだが、うちが古いのと、あの途中の急な坂とで、おやぢは二の足をふんだ。所へ大塚の方から地所とうちがあるのをしらせてくれた人がある。そのうちの方は去年建てたと云ふ新しいので、恐しい凝り方をした普請(天井なんぞは神代杉でね)なんだが、狹いので落第(割合に價は安いんだが)。地所は貸地だが、高燥なのと、靜なのと、地代が安いのとで、八割方及第した。多分二百坪ばかり借りて、うちを建てる事になるだらうと思ふ。大塚の豊島岡御陵墓のうしろにあたる所で狩野[やぶちゃん注:ママ。原書簡もママ。]治五郞の塾に近い。緩慢な坂が一つあるだけで、電車へ五町[やぶちゃん注:五百四十五メートル強。]と云ふのがとしよりには誘惑なのだらう。本鄕迄電車で二十分だから、そんなに便利も惡くない。

 

 学校は不相変つまらない。

 シンヂはよみ完つた。DEIDE OF SORROWS と云ふのが大へんよかつた。文はむづかしい。関係代名詞を主格でも目的格でも無暗にぬく。独乙語流に from the house out とやる。大分面倒だ。

 Forerunner をよみだした。大へん面白い。長崎君が本をもつてゐたと思ふ。あれでよんでみたまへ。割合にやさしくつていゝ。

 

 大学の橡はすつかり落葉した。プランターンも黃色くなつた。朝夕は手足のさきがつめたい。夕方散步に出ると、靄の下りた明地に草の枯れてゆくにほひがする。

 文展があしたから始まる。

 每日同じやうな講義をきいて、每日同じやうな生活をしてゆくのはさびしい。

 

   ゆゑしらずたゞにかなしくひとり小笛を

   かはたれのうすらあかりにほうぼうと

   銀の小笛を

   しみじみとかすかにふけば

   ほの靑きはたおり虫か

   しくしくとすゝりなきするわが心

   ゆえしらずたゞにかなしく

[やぶちゃん注:以上の詩篇は、原書簡とは表記方法が異なるので必ず比較されたい。また、「すゝりなき」は「すゝなき」であるのを恒藤が訂したものである。

 

 京都も秋がふかくなつたらう。寄宿舍の画はがきにうつゝてゐる木も黃葉したかもしれない。

 

   われは織る

   鳶色の絹

   うすれゆくヴィオラのひゞき

   うす黃なる Orange [やぶちゃん注:原書簡では以上に「模樣……」が続いている。]

   われは織る われは織る

   十月の、秋の、Lieder[やぶちゃん注:原書簡では最後にピリオドが打たれてある。]

 

     十月幾日だかわすれた。

     水曜日なのはたしかだ。

 

                       龍

 

[やぶちゃん注:本書簡は「芥川龍之介書簡抄17 / 大正二(一九一三)年書簡より(4) 十月十七日附井川恭宛書簡」で電子化注してあるので参照されたい。]

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(三)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実は「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が「二十九」まで続くという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷っ