恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その30) /「三十 京都の竹」
[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。傍点はこのブログ版では太字とした。私がブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」で注したもの等については、一切、注は附さない。それぞれのところで当該書簡等にリンクさせあるので、そちらを見られたい。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。
本篇は特異的に文末に「――九四八・二・九――」のクレジットがあるが、これは本篇(或いはそれより前の幾つかを含めて)の記事を書いた日のそれと推定される。現雑誌は確認出来ないが、信頼出来る恒藤恭の著作目録を見ると、初出誌『智慧』での分割発表から見て、昭和二三(一九四八)の六月二十五日発行分が前の「二十八 ゼーランヂヤの丘」からここまでが掲載相当であろうと推定される。
なお、本篇で一部取り上げて引用している「京都日記」は本電子化に先立てて、ブログで正規表現オリジナル注釈版を作成しておいたので、まず、そちらを全文通読されたい。そちらで注したものは、ここでは繰り返さない。言っておくと、恒藤恭は少し表記をいじっている。]
三十 京 都 の 竹
やはり全集第六巻に收められてゐる「京都日記」の中に、
『雨あがりの晚に車に乘つて、京都の町を通つたら、暫くして車夫が、どこへつけますとか、どこへつけやはりますとか、何とか云つた。どこへつけるつて、宿へつけるのにきまつてゐるから、宿だよ、宿だよと桐油の後[やぶちゃん注:「とうゆのうしろ」。]から二度ばかり声をかけた。車夫はその御宿がわかりませんと云つて往來のまん中に立ち止つた儘、動かない。さう云はれて見ると、自分も急に当惑した。宿の名前は知つてゐるが、宿の町名は覚えてゐない。しかもその名前なるものが、甚平凡を極めてゐるのだから、それだけでは、いくら賢明な車夫にしても到底満足に帰られなからう。困つたなあと思つてゐると、車夫が桐油を外して、この辺ぢやおへんかと云ふ。提灯の明りで見ると、車の前には竹藪があつた。それが暗の中に万竿の靑をつらねて重なり合つた葉が寒さうに濡れて光つてゐる。自分は大へんな所へ來たと思つたから、こんな田舍ぢやないよ、橫町を二つばかり曲ると、四條の大橋へ出る所なんだと說明した。すると車夫が呆れた顏をして、ここも四條の近所どすがなと云つた。そこでへええ、さうかね、ぢやもう少し賑かな方へ行つて見てくれ、さうしたら分るだらうと、まあ一時を糊塗して置いた。所がその儘、車が動き出して、とつつきの橫丁を左へ曲つたと思ふと、突然歌舞練場の前へ出てしまったから奇体である。それも丁度都踊りの時分だつたから、両側には祇園團子の赤い提灯が、行儀よく火を入れて並んでゐる。自分は始めて、さつきの竹藪が、建仁寺だつたのに氣がついた。』
と書いてある。
確かなことは分らないけれど、これもおそらく同じ入洛の折りのことだらうと思ふ。右に書きうつした文章の末尾は、『裸根の春雨竹の靑さかな。――大阪へ行つて、龍村さんに何か書けと云はれた時、自分は京都の竹を思ひ出して、こんな句を書いた。それ程竹の多い京都は京都らしく出來上つてゐるのである。』といふ文句で結んである。当時芥川は最大級の賞讃のことばをもつて龍村さんのすぐれた作品について語り「君は京都にゐるんだから、いつか是非龍村さんを訪ねて見たまへ」とすすめてくれたものである。爾來約三 十年を経たが、現代染織界の最高の権威者龍村平藏氏のことについて幾たびか噂をきいたことはあるし、うつくしい作品に接する機会もあつたけれど、誰かに紹介してもらつてお訪ねしたいと時折り思つたことがあるだけで、今日にいたるまで未だその意を得ないでゐる。雜誌「婦人の友」の記者が宝塚に龍村翁を訪問し、同翁の苦心談をつまびらかに聽取した記事が載せてあるのを、昨年の秋のころかによんで、ひそかに同翁の健在をよろこんだものであつた。
――一九四八・二・九――
[やぶちゃん注:最後のクレジットは最終行の下二字上げインデントであるが、ブログ版では改行して引き揚げた。因みに、染織研究家の初代龍村平蔵氏は昭和三七(一九六二)年四月十一日に亡くなっている。恒藤恭は龍村氏と面会する機会を持つことは出来たのであろうか。]
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