ブログ1,910,000アクセス突破記念 死靈解脫物語聞書下(6) 菊が剪髮停止の事 附・「国文学資料館」版手書資料の電子化+国立国会図書館デジタルコレクション山東京伝「近世奇跡考」の現地調査地図/「死靈解脫物語聞書」~了
[やぶちゃん注:本書の解説や底本等は、冒頭の「累が最後之事」を参照されたい。
なお、本テクスト(全)は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、昨夜深更、1,910,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二三年二月一日 藪野直史】]
菊が剪髮(ていはつ)停止(てうじ)の事
去程(さるほど)に、今度[やぶちゃん注:「このたび」。]の助が㚑病(れいびやう)も、頓而(やがて)、本服(ほんぶく)し、菊、たつしやに成ければ、与右衞門・金五郞もろ共に、名主・年寄かたヘ行き、先[やぶちゃん注:「まづ」。]、此間の礼をのべ、さて、菊が願ふやう、
「我をば、尼になして給われ。其故は、いつぞやも申通り、極乐(ごくらく)にて御僧樣[やぶちゃん注:「おそうさま」。]の仰せに、
『汝は、しやばに歸りたらば、名を「妙槃(めうはん)」とつゐて、魚鳥(うをとり)を喰(くら)はで、よく、念佛を申せ。』
とにて候ひしが、とてもの事に、いづれも、樣の御言葉をそへられ、祐天和尚樣の御弟子(みでし)に、なしてたまはれ。」
と、いへば、名主も年寄も、
「実(げ)に。是は、尤(もつとも)也。よくこそ、望みたれ。」
とて、すなはち、此者共を引つれ、弘經寺(ぐきやうじ)へ參りて、まづ、祐天和尚の寮にさんじ、此間の御礼をのべ、さて、菊が、願ひの出家を乞求(こひもとめ)る時、和尚のたまはく、
「菊が剃髮の事、さらさらもつて、無用也。其故は、菊、よく聞け。汝、此度[やぶちゃん注:「このたび」。]、累と助が怨㚑(おんれう)に取付れしゆへ、それ成、与右衞門も、金五郞も、世にたぐひなき苦勞を受(うけ)しなり。その上に、又、その方、出家せば、いよいよ、二人の者に苦をかけんか。自今以後(じこんいご)は、其身も、そくさいにて、与右衞門にも、孝をつくし、夫(おつと)にも、能(よく)したがひ、現世(げんぜ)も安穩(あんをん)にくらし、後生には極乐へ參らんと思ひ、ずいぶん、念仏を、わするな。」
と、いとねんごろにしめしたまへば、其時に、菊、名主・年寄に向(むかい)て申やう、
「只、何とぞ御訴訟(そしやう)なされ、わらわを、出家させてたべ。」
とぞ願ひける。
時に兩人、詞(ことば)をそろへ、和尚に向て、又、申やう、
「只今の仰せ、御尤に候。さりながら、親と夫と二人の事は、我々、何とぞ才覚仕り、いか樣成よめをもむかへ、金五郞にあわせ候ひて、与右衞門をば介抱させ候はん。さて、菊をば、比丘尼に仕、少庵をも、むすびあたへ、村中(むらちう)の齋坊主(ときぼうず)と定め申度候[やぶちゃん注:「まをしたくさふらふ」。]。其故は、羽生村の者ども、年來[やぶちゃん注:「としごろ」。]、因果の道理をもわきまへず、邪見放逸にくらし候所に、此度[やぶちゃん注:「このたび」。]、菊が德により、みなみな、善心を起し、昼夜(ちうや)、後世(ごせ)のいとなみを仕る事、これはひとへに此娘の大恩にて候へば、いかにも、かれが願ひのまゝに、剪髮(ていばつ)なされ候は[やぶちゃん注:「さふらはば」。]、我々の報恩と存じ奉らん。」
などゝ、詞つくして申ける時、和尚のたまわく、
「あら、事くどし。何といふ共、我は剪髮せざるに[やぶちゃん注:ママ。「させざるに」だろう。]。先々(まづまづ)、方丈へも礼にあがり、十念を、もうけ候へ。」
と、寮を、せりたて[やぶちゃん注:「せきたて」に同じ。]給へば、人々、是非なく、
「畏(かしこまつ)て候。」
とて、すなはち、方丈に罷出、兩役者を以て、申上れば、みなみな、召出され、十念、さづけたまひて、さて、方丈の仰せには、
「菊よ、かまへてかまへて、地獄・極乐をわすれず、よく念佛して、後世、たすかれ。さてさて、名譽の女哉。」
と有し時、名主、其御詞に取付、申上るは、
「尊意のごとく、菊も、何とぞ、念佛相續のため、比丘尼を願ひ候故、拙者共も、かやうかやうまで、祐天和尚へ申入候へ共、何と思召やらん、一圓、御承引(せうゐん)なく候。あわれ、願(ねがわく)は、尊前(そんぜん)の御意(い)を以て、菊が剃髮の儀、仰渡(おほせわた)され候はゞ、かたじけなくこそ、候はめ。」
と申上れば、方丈、つくつく聞しめされ、仰せらるゝは、
「いか樣、冥土より、『妙槃(めいはん)』といふ名まて[やぶちゃん注:ママ。]付來りしものを、出家無用といふは、何とぞ、彼(かの)ものも所存あるらんか。とかく此事におゐては、我が[やぶちゃん注:「われが」。]、いろふ[やぶちゃん注:「綺(いろ)ふ」。口出しする。]所に、あらず。たゞ、祐天次第に、せよ。」
と仰せらるゝ時、みなみな、畏(かしこまつ)て、御前を立(たち)さり、又、顯誉上人の寮に來りて、名主、和尚に向て申やう、
「只今、方丈樣にて、菊が出家の事、申上候へば、あなたにも[やぶちゃん注:あちら様でも。]御不審げに仰られ候。何とて、剪髮をゆるしたまわず候や。御所存、いかに。」
と尋ぬれば、和尚のたまはく、
「此者を、俗にて、おき、子孫も、ながくつゞくならば、末の世までの、よき見せしめ、永代(えいたい)の利益(りやく)、何事か、是に、しかん。」
と有ければ、名主が云やう、
「近比(ちかごろ)、憚(はゞか)り多き申事(ごと)に候へ共、只今の仰せは、ひとへに、貴僧、私(わたくし)の御料簡(りやうけん)。さし当(あたつ)ては、菊を、めぐみ給はず。別しては、佛・菩薩の仰せを、背(そむ)き給ふ所、有。そのゆへは、すでに、菊、淨土にまいりし時、菩薩僧(ぼさつそう)の仰[やぶちゃん注:「おほせ」。]にて、比丘尼の名まで下されしを、御もどきあそばさんや。是非、是非、出家させられ候へ。」[やぶちゃん注:「もどき」「紛い物」を言うその語であるが、ここは「非難・批評」を言う。]
といへば、和尚、打わらひたまひ、
「其方は、りくつを以て、我を、いゝふせんとな。いで、さらば、具(つぶ)さに返荅(へんたう)すべきぞや。先、さし当(あたつ)て、菊をふびんに思ふゆへ、われ、出家をゆるさぬなり。其子細は、在家(ざいけ)は、在家の、わざ、あり。出家は、出家の、わざ、あり。跡前(あとさき)しらぬ若輩者、修(しゆ)しもならはぬ比丘尼のわざ、いと、ふびんの事也。又、当來(たうらい)の成佛(じやうぶつ)はもとより、在家・出家によらず、願生西方(くわんしやうさいほう)の心にて、念佛だに申せば、他力本願のふしぎゆへ、十則(そく)十生(しやう)、疑ひなし。さてまた、淨上の菩薩の告(つげ)により、尼になれとの仰せをそむくことは、これ、もつとも、いたむ所也。去(さり)ながら、それは、大かた、時にしたかつて、菩薩方便の敎化にもや、あるらん。我がおさゆる心は、三世常住(じやうおう)の佛勅(ぶつちよく)によつて留るぞ[やぶちゃん注:「とむるぞ」。]。其故は、すでに、此女、三毒具足の凡夫、散乱疎動(さんらんそどう)の女人なり。いかでか、常住の心あらん。縱(たと)ひ、一度(たび)、いか成ふしぎの利益(りやく)に頂(あつか[やぶちゃん注:ママ。])るとも、業事(ごふじ)、いまだ、成辨(じやうべん)せず。何ぞ、不退の人ならん。しからば、比丘尼修行、はなはだ、以て、おぼつかなし。その上、此菊、剃髮して、袈裟衣(けさころも)を着(ちやく)して、此(こゝ)や彼(かし)こと、徘徊せば、隣鄕(りんごう)・他鄕(たごう)の人までも、『是ぞ、地獄・極乐を、直(ぢき)に見たる、お比丘尼樣よ。ありがたの人や。』とて、敬(うやま)ひ、ほめそやされば、本より、愚癡(ぐち)の女人成(なる)ゆへ、我身のほどをも、かゑりみず、鼻の下、ほゝめいて、あらぬ事をも。いゝちらし、少々、地獄・極乐にて、見ぬ事までの、うそをつき、人の心を、とらかし、信施(しんせ)は、かずかず身につみて、冨貴榮花(ふうきゑいくわ)にくらすならば、猒離(ゑんり)の心は出まじぞや。たまたま、後世(ごぜ)を思ふ時は、『我が身、一たび、極乐へ參り、菩薩達に直に約束し置(おき)ぬれば、往生に疑ひなし。』と、後の世、おそるゝ心もなく、三毒の引(ひく)にまかせ、身のゆたかなるまゝに、けだい破戒の者ともなり、慚愧懺悔(さんきさんけ[やぶちゃん注:ママ。「さんげ」が正しい。])の心もなくは、決定(けつてう)墮獄の人と成べし。此事、猶も、疑はゞ、現に世間の人を見よ。或は、冨士山・湯殿山、其外、白山(しらやま)・立山などにて、地獄や極乐の有樣を、此身ながらて、見し者も、家に歸りて、ほど經れば、いつの間にか、忘れはて、あらぬ心も起りて、地獄の業をも造るぞや。是も、三毒具足ゆへ、定めなき凡夫の習ひ也。いわれぬ出家を好みて、破戒念佛の機(き)となりて、下中品(ほん)に降(くだ)らんより、在家十𢙣(あく)の念佛にて、下上品に昇りたまへ。かならず、かならず。お菊どの、比丘尼好みを、したまふな。」
と、いとねんころに敎へ給へば、名主・年寄を始として、皆々、道理につめられ、菊が比丘尼は、やめてけり。
[やぶちゃん注:「十則十生」(じっそくじっしょう)は「十卽十生」が普通表記。専修念仏を修するならば、十回の内で十回とも往生するとする善導の説。専修念仏による往生の確定性を示すものとされる。
「三世常住」前世(過去)・現世(現在)・後世(ごぜ:未来)の三世に亙って永遠不変に仏・菩薩は存在することを言う。
「散乱疎動」煩悩のために心や行動が落ち着かず、不安定であること。
「猒離」「猒」は「厭」の異体字。
「下中品」「下上品」「九品(くほん)往生」(生の機根の違いにより、同じ極楽浄土へ往生するにも、九種のパターンがあると「観無量寿経」に説かれてある。但し、この言い方はちょっと判りにくい。前者は「中品下生」(ちゅうぼんげしょう)であろうか。ウィキの「九品」によれば、それは、『父母両親に孝行し養い、世間に仁義して慈しみ行う者』の往生で、『臨終の時に』至って、確かに『阿弥陀仏の本願や国土の楽を知り、往生した後に勢至菩薩や観世音菩薩から教法を聞いて』、一『小劫の後に阿羅漢となると』される。後者は「上品下生」か。同前で、『因果律を信じ』、『大乗を誹謗せず、ただただ』、『無上道心を起す者』の往生で、『その功徳により』、『廻向して往生を希求し、また』、『往生した後に』一日一夜にして『華が開き、三七』(二十一)『日後に耳目が明らかになり、諸仏の国土へ赴き』、三『小劫の後に歓喜地に往生するという』ものである。]
「尒ば[やぶちゃん注:「しからば」。]、せめての御事に、血脈(けちみやく)なり共、授け給へ。」
と、あれば、
「それは。尤。」
とて、すなはち、方丈へ仰上られ[やぶちゃん注:「おほせあげられ」。]、
「不生妙槃」
と道号を、そへ下され、本(もと)の身がらを改(あらた)めず、念仏相續(そうぞく)せしが、累が怨念、はれし故にや、其年より、次第に、田畑(てんはく[やぶちゃん注:ママ。])も実(み)のり、家も、段々に、さかへ、子共も、二人まで、もふけ、今に安全(あんせん[やぶちゃん注:ママ。])とぞ聞へける。
右、此助が怨㚑も、同じ菊に取つき、あまつさへ
先の累が成仏まで云顯(いゝあらは)せる事なれ
ば、先聞(せんもん)にそへて、終(つい)に一
具となさんと思ひ、顯誉上人直(ぢき)の御物語
を、再三、聽聞仕り、其外、羽生村の者共の咄し
をも、粗(ほゝ[やぶちゃん注:ママ。])聞合せ
書記(かきしる)す者ならし。
元祿三年午十一月廿三日
本石町三丁目山形屋吉兵衞開板
[やぶちゃん注:末尾の著者の附記の二字下げはママ。ブラウザの不具合を考え、適当な箇所で改行してある。前と異なり、「顯誉上人」の改行行頭上げ敬意は行われていない。なお、この記載によって、不明の著者「殘壽」なる者が祐天の直弟子の僧であり、その口述筆記や資料採取を、祐天から直接命ぜられたり、許されて行っていた近侍者であったことが明確に判る。
「元祿三年」「午」「十一月廿三日」グレゴリオ暦一六九〇年十二月二十三日。
「本石町」現在の中央区日本橋本石町三・四丁目及び日本橋室町三・四丁目と日本橋本町三・四丁目相当。
「山形屋吉兵衞」国書刊行会の『叢書江戸文庫』第二十六巻の「近世奇談集成(一)」の解題によれば、『神書、医書、経師』を扱う『本屋で、宗教関係図書を専門にしていた』書肆とある。
最後に、本書の冒頭注で述べたように、「国文学資料館」のこちらに同じ初刊本画像があり、その末尾には手書きで、「法藏寺過去帳之寫(うつし)」や、「𥿻川累(キヌガハカサネ)ヶ淵(フチ)之啚」及び附記がある。重要なオリジナル資料である。図は転載が禁じられているので、リンク先で見て戴く他はないが、前者その他の電子化可能なものを以下に起こしておく。【 】は二行割注。字の大きさが異なるが、それは無視した。太字は底本では黒枠入り。「東」「西」は「○」の中にある。
*
法藏寺過去帳之寫(ウツシ)
理屋松貞信女【俗名るい行年三十五 初 法名
正保四十亥年八月十一日 香誉妙林】
單到眞入(タンタフシンニウ)【俗名助 三歳
寛文十二壬子四月一九日
此年号ハ助得脱ノ年也実ハ
慶長十七年壬子年四月十九日死】
榮譽不生妙槃(エイヨヒシヤウミヤウハン)信女
【俗名きく行年七十二
享保十五庚戌五月三日】
[やぶちゃん注:改ページ。以下は図のキャプション。]
𥿻川累ヶ淵之啚
リヤウゼン寺ト云寺ノ
下ヲリヤウゼン寺ガ
フチトイフカサ子
害セラルヽトキ
此岸ノ柳のカゲニ
テ見トヾケシト云
法思寺村ノ
淸右衞門ト云
モノヽ子孫モ
今ニアリト
ゾ
クヤウゼン寺ガ淵
𥿻川
カサネガフチ
累 此所ニテ
右ノ法藏寺ノ過去帳
ニヨレバカサネガ実名ハ 東
ルイ ナルベシ累(ルイ)ノ字カサネト
訓ズ
羽 生 村
浄土宗
羽生山
法藏寺
本堂
菊墓
累墓
助墓
南向
石碑ノ啚
ナヲ𥿻ノ
累ニ記ス
与右衞門
宅
西
与右衞門宅ヨリカサネガフチヘ
二町余法藏寺ヘモ同ジ
[やぶちゃん注:この下部に陰刻判有り。](落款)
[やぶちゃん注:改ページ。]
○与右衞門は堀越氏也といへ り 後に 剃髪して西入
と云延宝四年六月廿三日市死せり其子孫今な
ほ羽生村に住して堀越与右衞門となのるとぞ
今五六代目及ぶとそ
○菊は享保十五年五月三日七十二年歲にて身まかりしとぞ
○法蔵寺は与右衞門代この菩提寺(ボダイジ)之助成仏の
繪曼陀羅又明顕瑞祥録といふ古書【累が事を録す】
に此寺今もありといへり
右によりて年代をかぞふれは此書世
に出しは元禄之年【天保元年マテ百四十三年ニ及ブ】なれば
西入与右衞門の果(ハテ)しよりわづか十五年の
後なり又菊は此の開板の比はなほ若くし
て世にあり【年代をかぞふれは三十二才なり】
祐天僧正遷化(センゲ)は享保八年なれはきくは
祐天上人より七年後に身まかれり
されば此死霊解脱物語の筆者は某の沙門なるべし
当代の事を筆記せしものなればそが名をあらはさゞりし
ものなりけん顯誉(ケンヨ)上人直(ヂキ)の御物語を聞又羽生
村の土人にも聞合せしるすとあればこれ累が事
件の実記なるべし されども菊が地獄極乐の
物語などは閲人(ミルヒト)の月持にあらむか
天保三辰五月十日之夜
奇跡考之説ヲ補加
与田翁[やぶちゃん注:落款有り。]
*
「月持」は意味不明。当初、「月杵」と判じ、「月」に兎が「杵」を持って餅搗きをすると認識するような、錯覚の気分を言っているかと思ったが、「奇跡考」は山東京伝の考証随筆「近世奇跡考」(文化元(一八〇四)年刊)で、その巻之二にある「羽生村累の古跡」が種本、というより、ここに出る鬼怒川の現地地図や、本文の記載も、かなりの部分が書写転用であることが判った(所持する吉川弘文館随筆大成版で確認)。国立国会図書館デジタルコレクションのここと、ここで原版本を視認出来る。こちらは、画像を使用出来るので、当該図を最後に掲げておく。裏が抜けるので、ちょっと補正をした。
この地図が正確であるとすれば、先に不詳とした助が打ち込まれて、河童になったと噂された「㚑山寺渕」=「靈山寺淵」(りやうぜんがふち(りょうぜんじがふち))は現在の「累が淵」のごくごく上流直近の対岸附近の深み(グーグル・マップ・データ航空写真)を指すことになる。
以上を以って「死靈解脫物語聞書」の全電子化注を終わる。最後までお読み戴いた読者に心より御礼申し上げる。]
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