恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介のことなど」(その39) /「三十九 一高生活の終りのころ」
[やぶちゃん注:本篇は全四十章から成るが、その初出は、雑誌『智慧』の昭和二二(一九四七)年五月一日発行号を第一回とし、翌年七月二十五日を最終回として、全九回に分けて連載されたものである。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本篇「芥川龍之介のことなど」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
また、全体を一遍に電子化注するには本篇はちょっと長く、また、各章の内容は、そこで概ね完結しているものが多いことから、ブログ版では分割して示すこととした。]
三十九 一高生活の終りのころ
クラスメートの中で最初に知り合ひになつたのは菊池寬だつたけれど、その後さまで親しくなつたわけでもなかつた。一年生のあひだ居た南寮十番には、法科、文科、理科、工科、医科の学生が十二人ばかりゐて、はじめの一年間はむしろそれらの人々と親しく交はつた。第一学期のあひだはあまり芥川と接触しなかつたが、第二学期になつてから次第にお互ひに親しみをもつやうになつた。
二年生になると、英文科一年生だけが南寮四番に起臥することとなつた。これは自治寮の一般的しきたりに從つたものであつた。芥川は――どういふ理由でゆるされたのか知ららないけれど――一年のあひだは新宿の自宅から通学することをゆるされてゐたが、二年生になつてからは入寮して、南寮四番の連中に加はつた。(菊池、久米などといふ人々は別の室だつた)そんなやうなわけで同じ室に起臥するやうになつてから芥川との交はりはほんたうに親密なものとなつて行つた。
自治寮の慣例で三年生に対しては全寮主義をあまり励行しなかつたので、三年生になると芥川は再び自宅から通学することとなり、私も退寮して、彌生町の下宿から通学することとした。翌年の四月には、ドイツ大使館づき牧師エミール・シュレーダー氏が小石川区上富坂に新しく設立した日独学館に居をうつし、第三学期――高等学校時代の最後の学期はそこから通学した。
卒業試驗は六月十二日から始まり、十日ばかり続いた。それに先立つて六月二日の夕かた、上野の精養軒で、新渡戶校長をはじめ、英語の村田、石川、畔柳の三敎授、シーモーア、クレメントの二講師、ドイツ語の速水、丸山の二敎授、ユンケル講師、西洋史の斎藤敎授、東洋史の箭内敎授、漢文の塩谷、島田両敎授、國文の今井敎授、法学通論の棚橋講師、休操の米田講師と合せて千六人の先生を招侍して、謝恩会をひらいた。
在学三ケ年のあひだ始終日記を書きつづけてゐたわけではないけれど、たまたま最後の学期は別のノートブックに日記をかいてゐる。六月二日のはじめの部分には次のやうなことをかいてゐる。
[やぶちゃん注:以下は一行空けで、全体に二字下げとなっているが、ブログでは引き上げた。]
午後の漢文がすんでから芥川君と寮の二階にいつてねころんだ。けふの先生と生徒との席の配り方などを相談する。三時半ごろ出かけてゆく。不忍池のほとりに出る。カラタチの垣がのぞかれた。上をロールにしたらいいと芥川君が前々からの腹案をくり返す。
精養軒にくると、店の人が二階のスピーキングルームや食堂をみせてくれる。先生と生徒との配列法が中々その人のあたまにはいりかねた。一番から四十七番までこさヘて、二十四番をのぞく外は偶数は先生の席にすることにきめた。番号を芥川君がかきはじめてゐると、中島、加藤、北條、ついで谷森、石田の諸君がきたので、あとの二人に接侍係をやつてもらふ。出來た札を二つの盆にわけてのせ、玄関で先生にも生徒にもとらせる。先生では村田さんが眞先にきて、ショウの「ウォレン夫人の職業」の批評をはじめられた………。
[やぶちゃん注:「彌生町」東京都板橋区弥生町(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)か?
「牧師エミール・シュレーダー氏」ドイツ人牧師エミール・シュレーデル(Emil Schroeder)。新全集の「人名解説索引」によれば、『普及福音新教伝道会教師』で、明治四一(一九〇八)年に『来日』し、『小石川上富坂町』(ここ)に、三田の統一教会牧師で一高のドイツ語教師でもあった『三並良』(みなみはじめ)『の協力を得て』、『日独学館寄宿舎を開設した』人物で、『井川恭』・『長崎太郎』・『藤岡蔵六らが寄宿しており』、『芥川もたずねたことがある』とある。
「日独学館」正式な同学館の学生寮は大正二(一九一三)年に建てられた。
「卒業試驗は六月十二日から始まり、十日ばかり続いた」新全集の宮坂年譜によれば、卒業試験は大正二(一九一三)年六月十二日から二十日まで。
「村田」村田祐治(元治元(一八六四)年~昭和一九(一九四四)年)。一高の英語教授。千葉県生まれ。東大英文科卒。
「石川」不詳。
「畔柳」畔柳都太郎(くろやなぎくにたろう 明治四(一八七一)年~大正一二(一九二三)年)。山形生まれ。東大英文科卒。在学中から積極的に雑誌『帝国文学』に論文を発表し、文芸批評家として注目された。後に「大英和辞典」などの編纂した。既に述べたが、芥川龍之介が横須賀機関学校に就職出来たのも、彼の口利きのお蔭であった。
「シーモーア」ジョン・ニコルソン・セイモア(John Nicholson Seymour)。イギリス人のお雇い英語講師。「国立公文書館DIGITALアーカイブ」のこちらの文書画像で、「第一髙等學校教師」として、明治四〇(一九〇七)年九月十一日から明治四十二年七月十日までの分の「雇入」簿冊が確認出来る。
「クレメント」これは前注の同じ簿冊にあるドイツ人お雇いドイツ語講師のウィルヘルム・グンデルト(Wilhelm Gundert)のことではあるまいか?
「速水」速水滉(明治二五(一八九二)年~昭和一八(一九四三)年)。新全集の「人名解説索引」では、岡山生まれの一高教授とし、心理学者とある。この当時の一高ではドイツ語教授をやっていたらしい。後に京城帝大教授ともあった。
「丸山」不詳。
「ユンケル」エルンスト・エミール・ユンケル(Ernst Emil Junker 一八六四年~一九二七年)。同じく「国立公文書館DIGITALアーカイブ」の文書画像で確認出来る。「芥川龍之介書簡抄11 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(4) 四通」の四通目の『大正元(一九一二)年八月三十日・「卅日夕 芥川龍之介」・出雲國松江市田中原町 井川恭樣・「親披」』の私の「ゆんける」の注を参照されたい。
「斎藤」斎藤阿具(あぐ 慶応四(一八六八)年~昭和一七(一九四二)年)は歴史学者で夏目漱石の友人として知られる。当該ウィキによれば、『武蔵国足立郡尾間木村(現・埼玉県さいたま市)出身』。明治二五(一八九三)年、『東京帝国大学史学科卒業』後、『大学院に進み』、明治三十年に『第二高等学校教授』となり、明治三十三年から三『年間ドイツ、オランダに留学』した。その『留学中に本郷区駒込千駄木町の家を漱石に貸し』ている。『漱石はここで』「吾輩は猫である」を執筆した『ため、「夏目漱石旧宅跡」として区指定史跡とされ』、『旧居記念碑が建っており、旧居は明治村に移築された』とある。『帰国後』、『第一高等学校教授となり、芥川龍之介、久米正雄、山本有三らを教えた』。昭和八(一九三三)年に『定年退官』し、『名誉教授』となっている。『日本とオランダの交渉を研究し、ヘンドリック・ドゥーフ(ヅーフ)、フィッセルの日本見聞記を訳した』ともある。
「箭内」箭内亘(やないわたり 明治八(一八七五)年~大正一五(一九二六)年)は福島県生まれで東京帝大卒の東洋史学者。明治四一(一九〇八)年、に満鉄歴史地理調査部員となり、白鳥庫吉の指導で調査に当った。帰国後、一高教授・東京帝大講師となり、大正十四年には教授となった。著作に「東洋読史地図」「蒙古史研究」がある(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。
「塩谷」塩谷時敏(しおやときとし 安政二(一八五五)年~大正一四(一九二五)年)は江戸青山の生まれの漢学者。塩谷宕陰(とういん)の嗣子となって後を承けた簣山(きざん:宕陰の弟)の子として生まれ、家学を継いだ。昌平黌に学び、維新後、芳野金陵・島田篁村・中村敬宇らに学んだ。明治八(一八七五)年、内閣修史局に出仕したが、翌年、辞し、明治十七年に再び、修史局に戻っている。明治二二(一八八九)年より、第一高等中学校教授となり、大正九(一九二〇)年まで勤めた(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。
「島田」島田均一なる人物である。
「今井」「棚橋」「米田」不詳。
「上をロールにしたらいい」宴会場の席を教員と生徒が交わるようにロール状に配するという案か。
「中島」「加藤」「北條」不詳。
「谷森」谷森饒男(にぎお 明治(一八九一)年~大正九(一九二〇)年)は一高時代の同級生。一高への入学は芥川龍之介の入学の前年であるが、同期となった。非常な勉強家で卒業時の成績は官報によれば、井川・芥川に次いで三番で、東京帝大入学後は国史学を専攻し、大正五年七月に論文「検非違使を中心としたる平安時代の警察状態」を提出して東京帝国大学文科大学史学科を卒業、その後、東大史学会委員として編纂の任に当たり、優れた平安時代研究をもものしたが、惜しくも、結核のために満二十八で夭折した。芥川龍之介との交流を考証したものは、高重久美(くみ)氏の論文「歴史学者谷森饒男と芥川龍之介 ―第一高等学校時代の交友と文学―」(大阪市立大学国語国文学研究室文学史研究会『文学史研究』二〇一七年三月発行。リンク先で視認・印刷が可能)が恐らく唯一である。
「石田」まず、後の歴史学者で芥川龍之介とも親しかった石田幹之助であろう。
『ショウの「ウォレン夫人の職業」』アイルランド出身の文学者ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw 一八五六年~一九五〇年)が一八九三年に書いた戯曲‘Mrs Warren's Profession’(一九〇二年ロンドン初演)。売春と結婚制度をテーマとした問題作で、検閲によって上演禁止となった。]
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