室賀文武 「それからそれ」 (芥川龍之介知人の回想録・オリジナル注附き)
[やぶちゃん注:先にブログで電子化注した恒藤恭の「旧友芥川龍之介」の「芥川龍之介のことなど」の「三十一 室賀老人のこと」及び「三十三 室賀老人の俳句と短歌」と「三十五 俳人としての芥川龍之介」で私は、彼が自殺を決意した後、「西方の人」の資料提供を求めて、室賀に逢って、室賀からキリスト教徒になることを強く勧められた事実から、或いは、どこかで自死を回避するためのキー・マンとして、室賀に縋った可能性を述べたが、そこで芥川龍之介と幼少期から自死直前まで親交のあった年長の室賀について注をした際、彼が芥川龍之介の実父新原敏三と同郷であることから、室賀の書いた文章があることを思い出したので、以下で電子化することとした。
それは、昭和一〇(一九三五)年二月と三月に普及版(新書版)「芥川龍之介全集」の月報第四号と第五号に分載された「それからあれ」という一文である。初出原資料に当ることは出来ないので、新字新仮名の憾みはあるが、二〇一七年岩波文庫刊の石割透編「芥川追想」に載るそれを底本とする。読みは特に編者の追加注記がないことから、そのままに再現した(ちょっと五月蠅いぐらいある)。
以下、室賀の事績について、既注のものを少し加工して、以下に掲げる。
室賀文武(むろがふみたけ 明治元或いは二(一八六九)年~昭和二四(一九四九)年二月十三日:老衰で逝去)は、芥川龍之介の幼少期からの年上(二十三歳以上)の知人で、後に俳人として号を春城と称した。山口県玖珂郡室木村(現在の山口県岩国市室の木町(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)の農家に生まれた。同郷であった芥川の実父敏三(彼は周防国玖珂郡生見村湯屋、現在の山口県岩国市美和町生見(いきみ)の生まれであった)を頼って政治家になることを夢見て上京、彼の牧場耕牧舎で搾乳や配達をして働き、芥川龍之介が三歳になる頃まで子守りなどをして親しんだ。しかし、明治二八(一八九五)年頃には、現実の政界の腐敗に失望、耕牧舎を辞去して行商の生活などをしつつ、世俗への夢を捨て去り、内村鑑三に出逢って師事し、無教会系のキリスト教に入信した。生涯独身で、信仰生活を続けた。一高時代の芥川と再会して後、俳句やキリスト教のよき話し相手となった。芥川龍之介は自死の直前にも彼と頻繁に逢っている。これは「西方の人」執筆のための参考にする目的が主であったものであろうとは思うが、私はその心の底には、自死回避の僅かな可能性をキリスト者であった彼に無意識に求めたものと考えている。俳句は三十代から始めたもので、彼の句集「春城句集」(大正一〇(一九二一)年十一月十三日警醒社書店刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇が読める。リンク先は芥川龍之介の書いた「序」の頭)に芥川龍之介は序(クレジットは先立つ四年も前の大正六年十月二十一日であるが、これは室賀が出版社と揉めたためである。なお、その「序」でも芥川龍之介は彼の職業を『行商』と記している)も書いている。晩年の鬼気迫る「歯車」の(リンク先は私の古い電子テクスト注)「五 赤光」に出る「或老人」は彼がモデルであり、晩年の芥川にはキリスト教への入信を強く勧めていた。新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、翌年の自死の年の一月には、芥川龍之介は執筆用に帝国ホテルに部屋を借りてそちらに泊まることがあったが、その折りには、『しばしば歩いて銀座の米国聖書協会に住み込んでいた室賀文武を訪ね、キリスト教や俳句などについて、長時間熱心に議論した』とある。私は不思議なことに、この時、室賀を訪ねた龍之介のシークエンスを、実際に見たことがある錯覚を持っている。恐らく、若き日の冬の一夜、この龍之介の室賀への訪問を帝国ホテルから銀座まで歩いて踏査した経験があるからであろう。私の「芥川龍之介書簡抄131 / 大正一五・昭和元(一九二六)年三月(全) 二通」で「大正一五(一九二六)年三月五日・田端発信・室賀文武宛」も電子化してある。なお、彼の「春城句集」の芥川龍之介の序文は未電子化のようなので、「三十一 室賀老人のこと」で電子化しておいた。]
それからそれ
室賀文武
周防の国の岩国川を、遡(さかのぼ)ること五、六里にして、山代に達す。山代とは、北は石見の国、東は安芸の国に隣接したる一区域の、五、六箇村の汎称(はんしょう)である。名は実(じつ)の賓(ひん)。山代は山代と称せらるる程(ほど)に、山嶽重畳、また重畳。そして、平地らしい平地は、殆(ほと)んど見当らないといってもいい程である。その山代地方から、維新の頃有名だった御用商人の山代屋和助が、呱々(ここ)の声を揚げたのである。が、その山代屋和助の他に、も一人卵の殼を割って、世に飛出した男がある。その男こそは、明治になって牛乳屋耕牧舎主人の、新原敏三その人である。然(しか)もその腰から、長男として登録されたる一人の嬰児(えいじ)こそ、彼(か)の芥川竜之介君だった。
[やぶちゃん注:「実(じつ)の賓(ひん)」字の古い通称か。「Stanford Digital Repository」の当該地区を含む戦前の地図「大竹」を見たが、見当たらない。但し、何となく親和性があるのは、「生見」の名が記された南西直近に「志(シツ)谷」があり(現在は「したに」と読んでいる)、また、生見川を遡って、東の尾根を越えたところに「賓田山」のように見えるピークの名がある。
「山代屋和助」(天保七(一八三六)年) - 明治五(一八七二)年)は陸軍省御用商人で、元は長州藩奇兵隊隊士であった。明治初期に起こった公金不正融資事件に関与し、割腹自殺したことで知られる。詳しくは当該ウィキを見られたい。
「呱々の声を揚げた」「呱々」は 特に生まれてすぐの赤ん坊の泣き声で、赤子が生まれることを言う。]
「俺が子にどうしてあんな子が出来たのであろうか」と、彼の父に不思議がられた程に、彼芥川君父子程、体格なり、性質なりを異にして居た者は、世に稀(まれ)であるといっても可い程である。要するに、彼はお母さん肖(に)である。そして、そのお母さんという方は、痩形のすらりとした、美人型の方だった。そのお母さんは、後には発狂されたけれども、まだ病の発(おこ)らなかった前には、極(ご)く淑(しと)やかで、それに読書きも相当に出来そうな、一見誰が目にも、閨秀(けいしゅう)の面影が漾(ただよ)うて居た。丁度(ちょうど)それが、芥川君そっくりといっても可い程だった。
しかし私が、何故この様の事を詳しく知って居るのであるか、それは私が芥川君の当歳(とうさい)の頃から丸三年、彼のお父さんに仕えて、牛乳を搾(しぼ)ったり、また配達などをして居た関係からである。
[やぶちゃん注:「当歳」生まれたその年。]
私は何を忘るる事が出来ても、芥川君の幼少の頃の澄み切った鮮やかな眼だけは忘るる事が出来ない。それは実に愛すべきものであった。彼の幼時に就(つ)いての私の知るところは、ただこの位のものである。しかし、彼が小中学時代の事になると、必ずや何か見るべき者があったに相違あるまい。が私はそれに先だって、故(ゆえ)あって彼の家を立去って了(しま)ったのであるから、何一つ知る筈(はず)がない。つまり私に取っては、その時代の事は、封じられたる一巻の巻物に過ぎない。
因縁とでもいうのであるか、一旦離れた芥川君と私との機縁は、不思議にも、期せずして自ら繫(つな)がって来た。それは彼が新宿の牧場の往宅から、一高の何年かに通学時代だった。その時私は、なよなよとひょろ長い若竹の彼を、十何年振りかに見出した。そして彼より、兎(と)も角(かく)も二階へ上れと云わるるがままに、私は彼のあとについて二階へ上った。座に着くと、話は勿論(もちろん)文学談だった。そして彼は何をいわるるかと思った所が、「僕は夏目先生の宅へ往ける様になっては居るけれども、まだなかなか以(もつ)て往く訳(わけ)にはゆかない」と云わるるのであった。それを聞いて私は、何という気の弱い青年であろう、そんなに尻込みすべき要があるであろうか、と思ったけれども、それに対しては、敢(あえ)て追窮(ついきゅう)もしなかった。それから私は、自分の近什(きんじゅう)を七、八句書き並べて、彼の批判を仰いだ。すると、彼は一読の上、「この句は好(よ)いなア」と春雨の句を賞揚せられた。それには自分も喫驚した。何故かとなれば、実はその春雨の句は、変なことをいう様であるが、私の自信句であるにかかわらず、或(あ)る二、三の大家達の選に漏れた句である。然るに、三四郎としてはちゃきちゃきであったとは申せ、彼の目にとまった事は、実に意想外の感なき能(あた)わずであった。そこで私は、それ以来彼を、後世畏るべき三四郎視して、先生ともつかず、また友人ともつかず、無二の親しい関係が生じて来た次第であった。
[やぶちゃん注:「それは彼が新宿の牧場の往宅から、一高の何年かに通学時代だった」この室賀の芥川龍之介宅への訪問は年譜に記載がないが、「一高」生であることから、明治四三(一九一〇)年四月の一高進学から、大正二(一九一三)年七月一日の卒業までの閉区間となる。芥川龍之介は満十八から二十一歳、室賀は四十一以上である。
「僕は夏目先生の宅へ往ける様になっては居るけれども、まだなかなか以(もつ)て往く訳(わけ)にはゆかない」芥川龍之介が夏目漱石に初会するのは、東京帝大文科大学三年の大正四(一九一五)年十一月十八日のことで、漱石門下であった林原耕三(明治二〇(一八八七)年~昭和五十(一九七五)年:英文学者・俳人。福井県出身。旧姓は岡田。芥川より五つ年上)に伴われて、久米正雄とともに漱石山房を訪れている。
「近什」最近作った詩句文を言う。
「春雨の句」自身作であるから、当然、「春城句集」に収録されていると考えてよい。国立国会図書館デジタルコレクションのここにある八句の孰れかである。
*
春雨や芹生の里の八つ下がり
春雨や晴なんとして日の見ゆる
糸芝に音もなく降る春の雨
小集を催す亭や春の雨
電車待つ男女の群や春の雨
春雨や蒲團剝れて申分
金堂の内陣暗し春の雨
春雨や芝居見にゆくすまゐ取
*
頭に配した一句目か。個人的には私ごのみの叙景句である。「芹生」は歴史的仮名遣「せれふ(「せりふ」の音変化)、現代仮名遣「せりょう」、京都市左京区大原の西方に古くあった地名で歌枕である。大原川(高野川上流)西岸の野村・井出附近。「八つ下がり」午後二時を過ぎた頃である。また、芥川我鬼好みは最後の句のモンタージュも入りそうではある。]
それから五、六年後の事であるが、私は私の分際、否技倆(ぎりょう)としては、赤面に値すべき程度のものではあったが、『春城句集』と名づくる、自選句集なるものを公にするに当って、芥川君に序文を依頼に及んだ所が、彼は快諾されて、私は日ならず彼の草稿を受取った。
[やぶちゃん注:『春城句集』(大正一〇(一九二一)年十一月十一日警醒社書店発行)の序は、最後に「大正六年十月廿一日」のクレジットがある。既に横須賀海軍兵学校の教授嘱託で、横須賀市汐入に下宿していた。当時は満二十五歳。]
春天の二月になったばかりの、某日の事だった。私は芥川君から藪(やぶ)から棒に、「僕は結婚した」との通知に接した。それには、私も一寸面喰(ちよっとめんくら)った。しかし、心からの喜びを禁じ得なかった事も申すまでもない。私は、直ちに筆を取って、第一に極(きま)り文句の祝辞を書いてから、その次に、「不日(ふじつ)新夫人への初対面の為(た)めに参上いたします積(つも)りですが、就いては、其に先(さきだ)って新夫人の御顔を、早く拝見仕度(した)いのでありますから、新婚の御写真の御贈与を乞う。云々」――そしてその末尾に、俚謡(りよう)を二句附加えておいた。その俚謡は、
啼くが鶯役目ぢやないかこちの花嫁をなぜ覗く
二人揃うて梅見もよいが伊達の薄着はせぬがよい
というのであった。しかるに、私の希望は容(い)れられて、程なく大型の写真らしいものが、郵送されて来た。ところで、その写真を受取るや否や、私の考(かんがへ)は瞬間的に一変して、その写真を袋から取出して見る事を欲せなくなった。私の考の一変した理由は、私がもし新夫人と初対面前に、予備知識、即(すなわ)ち写真にてお顔を拝見して知って居るとなると、他日初対面の挨拶(あいさつ)を交わす際に、興味が――失礼な申分(もうしぶん)かも知れないが――半分以上殺(そが)がれて了うという、ただそれだけを恐れたばっかりの事だった。私はどんな事があろうとも、新夫人と初対面前には、一切拝見しない事に極めて了った。
[やぶちゃん注:「不日」日ならずして。近いうちに。]
それから十日も経たない中(うち)に、私は短冊(たんざく)に祝句を揮毫(きごう)し、それと共に写真も持参して、夜分だったが、新夫人と初対面の挨拶を交わした。そしてまた家族の方々には、「お写真はここに持参して居りますが、実はまだ拝見しないのですよ」、と話した所が、お母さんが忽(たちま)ち目を丸くされて、「なぜ見ないのですか」と詰問(きつもん)に及ばれた。が、私はそれには笑って答えずに、二階へ上って了った。そして書斎へ這入(はい)って初めて、芥川君に向ってその写真をまだ見ない理由を説明し、且(か)つ持参のそれを初めて見参した。芥川君彼も、成程(なるほど)と首肯(うなず)かれて、「それは先に見て置かない方がいいな。」と、満足げににやりと笑われた。私もそれで大満足だった。
その晩私は、十一時過(すぎ)まで話してまかった。その帰り際に、私は紙片を乞うて、
野暮と知れどもつい長話立てば箒(ほうき)の立たぬうち
と、また戯(ざ)れ事を書きつけた、すると芥川君は送って下に降りながら、早速家族の方一同に向って御披露に及ばれたので、私は頗(すこぶ)る恐縮した。猶(なお)その上、先日呈した戯書も、「みんなが諳誦(あんしょう)して居るよ」と聞かされて、私は這々(はいはい)の体(てい)でまかった。
鶏 頭 花 鳳 仙 花 鶏 蹴 合 ひ つ ゝ 春城
私は曽(かつ)てこういう句をものして、芥川君に見て貰(もら)った事があった。すると、彼は「いけない」といって取られなかった。で私はその理由を質(ただ)すと、「僕は殺伐(さつばつ)の事を好まないからだ」との答だった。その程に彼は女性の様な、美(うる)わしい情愛の豊かな人だった。
それから、夏夜彼と対談中の事だったが、いろいろな虫が座中に飛来すると、彼は白紙にそれをぐるぐると包んで、闇中に投(ほう)り出(だ)されたのを、私は幾度となく見て知って居る。そしていつの場合でも、彼は世の多くの人達がやる様に、憎々しげに叩(たた)きつけて殺して了うなどの残忍な振舞は、曽て一度も間違ってもされた事はなかった。しかしそれは彼が人間以外の生物に対する濃厚なる愛の現れであるが、もしそれが人類愛になると、更(さら)に更に濃厚の度の加わる事は、今更贅弁(ぜいべん)を要しないのである。
或日(あるひ)の事だった。二階の書斎の隣の間に、彼の伯母さんが、感冒にかかって仰臥(ぎょうが)して居られた事があった。それを彼は下へ降り乍(なが)ら見舞われたのを、私は見て居たのだった。すると彼は自分の手を伯母さんの額に当て、熱度を計り、すぐその手を自分の額へ当てて熱度の高下(こうげ)を比較せらるるのだった。事はただそれだけの事であって、何の変哲もなく、世間一般の茶飯事に過ぎないのであるが、それを側で見て居た私に取っては、何となく美しく感ぜしめられた。しかもその一事は彼の金玉(きぎょく)の美辞麗句よりも、より以上の美しさを感ぜしめられたのだった。一寸した事すら斯(かく)の如き彼だったから、彼の死後に於ける彼の家族の方々の、殊に老人達の哀借の情の甚(はなは)だしき事ったら、一通や二通ではなかった。で、お母さん達の「竜ちゃんが優しくして呉(く)れたので」がはじまると、急にその話を転向せしむべきの要があった。なぜかとなれば、私は老人達の涙に、いつも釣込まれる事を恐れたからであった。
哀れっぽい話の序(ついで)に、も一つ書いて見よう。しかし、其は私という一個人の事であるから、申訳(もうしわけ)の無い事を予(あらかじ)めお断りしておく。私は或晩彼にこういう事を話した。「私は御存じの如く孤独者である。けれども私の性分として、人様のお世話になる事は大嫌(だいきらい)である。たといそれが親兄弟であろうが、また親戚であろうが、もしくは朋友その他何人であろうとも、私は絶対的に援助だけは受けない覚悟を極めて居る。しかし、それにしても将来の事は予想が出来ないから、どんな貧困という鬼が、私を待ち受けて居るかも知れない。しかしそういう場合に対する、私の取るべき道は決まって居る。そしてそれは他でもない、私は多くの知人の迷惑を避くるが為めに、旅に出るまでである。そして、多少の物でもある程の物にて衣食し、それが尽きたら餓死する覚悟である。それには如何(いか)なる場合と雖(いえ)ども、私は絶対に乞食はせぬ。また自殺もせぬ積りである」と私は平素考えて居た通りの事を、さ程の重大事でも何でも無いかの様に、包まず隠さず前後の思慮もなく言って退(の)けた。私がこの話をする中に、彼の面色は幾度も変じた。――私はそう意識した――そして言畢ると、彼の声音(こわね)は急遽(にわか)におろおろ声と化した。そして彼は何を言わるるかと思ったところが、彼は、「そういう場合には僕にだけは知らせて下さい」といわるるのだった。が私は容易に諾(うん)といわなかった。で彼は一層激しく、「僕にだけは是非知らせて下さい」と追窮して已(や)まれなかったのだった。果は「誓って下さい。屹度(きつと)知らすと誓って下さい」と畳みかけて迫らるるその真剣さ。その意気込さ。それは実に意外だった。私は全く面喰ってしまった。私はとうとう根負けして、「では知らせます」と、遂に誓約した。ああ良友今はなし。
最後に、彼対宗教――特に基督教だに就いて、芥川君と私との間にどういう交渉があったかをいささか述べて見たい。私は早くから彼に基督教の必要の事を、幾度となく繰返し繰返してすすめたのだった。が聴かれなかった。でまた或時は、恩師内村鑑三先生著の、『宗教と現世』という本を持って往って、彼に読ませた所が、それも「不可ない」といって返された。が私はそれにも懲りず、今度は三崎(みさき)会館に於ける、恩師の連続講演に誘って見た。がそれも彼は「暇が無い」との理由の下に応ぜられなかった。其所(そこ)で私は、これは急がず焦心(あせ)らずに、時期を俟(ま)つより他には仕方がない。それがのろくて却(かえ)って早道と考えて、それに決めた。そして自然に一任している中に、彼の文名はますます天下に高まった。同時にまた彼の肉体は日々に蠹(むし)ばまれて、早くも衰頽(すいたい)の微(きざし)さえほのめいて来た。多分それが為でもあろう、彼は次第に宗教に興味を感ぜらるる様になって来た。しかもそれが、死期に先だつ事一、二年前頃になると、殊に甚だしくなって来た。果せるかな、来るべき者は遂に来たのだった。
[やぶちゃん注:「三崎(みさき)会館」「東京三崎会館」。旧「バプテスト中央会館」のことで、現在の東京都千代田区神田三崎町一丁目にあった。米国北部バプテストが経営したキリスト教伝道と社会事業を一体的に推進した施設で、明治四一(一九〇八)年に「バプテスト中央会館」として設立し、その後、「東京三崎会館」に改名した。昭和一九(一九四四)年に会館が接収され、活動を終えた(当該ウィキに拠った)。]
其は、大正十五年三月三日の事だった。私はその暁に、夢を見た。私は何所(どこ)かしらを歩いて居た。すると疲れ切った弱々しげな一匹の蜻蛉(かげろう)が、ふらふらと寄るべなげに、私の足元へ落ちて来た。で私は、その蜻蛉をどこか安全な場所へ移してやらんと見廻した所が、幸(さいわい)にも其所に一本の何かの大樹があったので手でつかんで移してやった。すると、今までは蜻蛉だったのが、いつしかそれが家鳩らしい者に化(かわ)って居た。仏はその家鳩が辛うじてではあったが、するすると大樹の梢(こずえ)高く昇って行ったのを見たのであるが、遂にその姿を見失った。申すまでもなく、それは昇天したのだった。で私はまたその昇天した家鳩の為めに、祈りをささげた。しかもその上また奇態の事には、その家鳩の脚には、手紙らしいものが結びつけてあったのであるが、家鳩はそれを地に落して行った。で私はそれを早速拾い取ったけれども、読みはしなかった。夢の由来はざっと斯(こん)なものだったが、それにしても非常に心持の好い夢だった。私はその晩、また彼の家の雛祭(ひなまつり)を見んが為めかたがた彼を訪問した。そしたら彼は、「いい所へ来て呉れられた、明晩だったら不在だったのであるが」といって迎えられ、直ちに書斎へ通された。そして座に着くと、彼は眼を輝(かが)やかしながら、「今晩君が来られた事は、実に不思議で堪(たま)らぬ。僕はどうしても奇蹟としか思われない。という次第はこうである。今日僕は聖公会出版の祈禱書を古本屋で買って来て、それを読んで見て、その内容の優(すぐ)れて居るのに感心して居た所へ、同じ日にまた聖○協賛会という封書が来た。でそれを見ると、頭文字の聖の字が一番に目について、はッと思った。しかしその封書は何か皇室に関する者であって、全然聖書とは無関係の者だったから何でも無い様なものの、それで居て、最初に一瞥(いちべつ)した瞬間に、はッと何かしら頭に来たのは不思議だった」。「それからまた僕は近ごろ聖書は最良の書である事に気附いたから、聖書を読んで見たいなアと思ったが、誰かに貸し失って今手元にはない。でそれを買い度(た)いなアと思って居た所へ、ひょっくり君が来られたのだから、これはどうしても奇蹟としか思えない」という様な言だった。私のその夢物語と、彼の魂を揺り動かした二、三の話とを切離して、全然没交渉の者として片附けて了う事は、出来ない様な気がしてならぬ。その晩私は芥川君から早速聖書を送って呉れとの依頼を受けて、その翌朝、直ちに彼に宛てて聖書を送った。私は其等の事の為めに大分面白くなったと思った。ここまで来ればもう一息だと思った。昔の本の中に、鎡基(じき)ありと雖ども時を待つに如(し)かずとある。味あるかな言やである。
[やぶちゃん注:「鎡基ありといえども、時を待つに如かず」「孟子」の「公孫丑章句上」にある一句。「齊人有言曰、『雖有智慧、不如乘勢、雖有鎡基、不如待時。』。」(齊人(せいひと)言へる有り。曰く、『智慧、有ありと雖も、勢ひに乘ずるに如かず。鎡基、有りと雖も、時を待つに如かず。』と。)。「鎡基」は畑を耕す農具のことを言う。人が個人個人で内包する真の実力の喩え。]
それから幾月かの後の事だった。私は芥川君に、矢張(やはり)内村先生著の『感想十年』という本を貸与して、後日になって読後の所感を訊(き)いて見た。すると、彼の答はこうだった。「内村さんは実に偉い。明治の第一人者である」と大いに激賞され、更に言を継いで、「僕もなア、早くから内村さんに就いて学んでおくと好かったのだがなア」と大いに遺憾がられたのだった。それを聞いて、私もまた大いに遺憾がったのであった。それからまたその時だった様に思うが、彼は、「僕は今は聖書中に出ている奇蹟は悉(ことごと)く信ずる事が出来る」とさえ明言されたのだった。私もそれを聞いて、そう来なくてはならないとうなずきつつも非常な喜びを感じた。
私が芥川君を最後に訪問したのは、彼の死に先だつ事十日前だった。――後に家族の方から聞かされた話であるが、同夜は或る近しい方の訪問されたのだったが、事に託(かこつ)けてそれを帰し、ただ私一人にだけ面談されたのだとの事だった。――その時も矢張基督教に就いて、互に熱心に語り合ったのだった。それからまた、彼は「僕は近頃「西方の人」というのを書いて、それを――社に送って置いたから、出たら見て呉れ」との頼みだった。そしてまたそれに附加えて、「実はそれを君に先に見て貰う積(つもり)だったが、日が無かったので、とうとう止めて了った」と云われたのだった。そしてその夜もまた例に由(よ)って例の如く、私は電車に乗り後れる事を気にしながら、話をいい加減に切上げてまかったのだった。が、が、それが彼と永別になろうとは、どうして知る事が出来よう。噫(ああ)。
[やぶちゃん注:この最後の面会は新全集の宮坂年譜によれば、昭和二(一九二七)年七月十四日頃とする。
』『「西方の人」というのを書いて、それを――社に送って置いた』「西方の人」及び「續西方の人」は自死後、昭和二年八月及び九月発行の『改造』に遺稿として掲載された。私の「西方の人(正續完全版)」を参照されたい。]
芥川君の絶筆にして、出たら見て呉れと頼み置かれた「西方の人」は、彼の易簀(えきさく)後旬日(じゅんじつ)余にして、世に発表せられた。正直にいえば、私はそれには非常な期待をかけて居たので、一目が千秋(せんしゅう)の思いで待ちに待ちつつあったのだった。然るに、それを一読するに及んで、大いなる失望を感ぜざるを得なかったのだった。なぜか、それは彼の聖書に対する観点と、私の二十余年来信じ来った観点との間には、全然一致し難い、白と黒との相違を少(すくな)からず発見したからだった。というよりは寧(むし)ろ、私は彼の書かれた者の大半が、不可解だったからであるといって差支(さしつかえ)ない。従ってその不可解の理由は、天才と凡才との彼我(ひが)の相違、もしくは修養の如何(いかん)が、私をして彼の縄張(なわばり)内に、一歩も足を踏込むことを許さなかったのであるともいえる。要するに彼の作品は、一種の高等批評であるといえなかったならば、或(あるい)は超高等批評とでもいえるかも知れぬ。いずれにしても彼の観方は、空前の新(あた)らしい観方であるに相違あるまい。従って我々如き世紀違いの古い頭脳の、古い造作(ぞうさく)を改造しない以上は、容易に彼の説の受入れ難いのも当然である。その事に就いて何より好い証拠は、「それで可いのだ」といって、極新らしい現代人の中には、彼の説を支持さるる実例のある事を見ても判る。で私は、その事を附記して置いて、彼の説の当否、是非の判断は、畏るべき後世の人達に一任して、ここにこの稿を終る。
(昭和九年十一月十九日)
献芥川竜之介君之霊
蹴つて飛ぶおのがむくろや夏嵐 春 城
帷子に拭ひかねたる泪かな 同
[やぶちゃん注:本文の最後のクレジットは最終行一字上げ下インデントであるが、改行した。]
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