恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(三十)(標題に「二九」とあるのは誤り)・「旧友芥川龍之介」奥附 /「芥川龍之介書簡集」~了 + 恒藤恭「旧友芥川龍之介」全篇電子化注~了
[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。最後なので、原書簡(「芥川龍之介書簡抄88 / 大正七(一九一八)年(三) 五通」の三通目)に附した私の注も一部を追加して示しておく。
なお、標題に発信地を「田端」とあるのは誤りで、「每日海へはいつたり」で判る通り、「鎌倉」(発信地を「鎌倉町大町辻」と記す)である。
さらに、これを恒藤恭が時系列を無視して、本章=本書の掉尾に置いた意図は判らない。単に、挿入し忘れたのを、現行の最後に追加で置いただけのようにも思える。特に意図を以って配したとは思えない。いや、或いは、恒藤は、この日常的なシークエンスをモンタージュしたそれに、逆に「時々僕が癇癪を起して、伯母や妻をどなりつける」けれど、「每日海へはいつたり、人と話しをしたりして、泰平に暮してゐる」として、「一家無事」と記した、なんだかんだ言っても、芥川龍之介の確かな幸福な一瞬間をここに見出だし、それを最後にさりげなく画像として配したと考えるべきなのかも知れない。ただ、結婚した後、龍之介が文に対して、急にぞんざいな口をきくという暴露的特異点の一通ではあり、私も、鎌倉発であることから、幾つか思いに浮ぶ彼の書簡の中の一つではあるのである。そうして、これは、実は、この内容が、遺稿「或阿呆の一生」の以下を直ちに無条件反射で想起させるものだからでもある(但し、そのロケーションは田端の自宅なのであるが)。
*
三 家
彼は或郊外の二階の部屋に寢起きしてゐた。それは地盤の緩い爲に妙に傾いた二階だつた。
彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰たれよりも愛を感じてゐた。一生獨身だつた彼の伯母はもう彼の二十歲の時にも六十に近い年よりだつた。
彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か氣味の惡い二階の傾きを感じながら。
*
因みに、芥川龍之介の妻文の「二十三年ののちに」(昭和二四(一九四九)年三月発行の『図書』所収。岩波文庫石割透編「芥川追想」で読める)には、『亡くなる年の前あたりに、何を思い出したか、急に「鎌倉を引きあげたのが一生の誤りであった。」といったことがあります。』とあるのである(太字は私が施した)。
本篇を以って「芥川龍之介書簡集」は終わっており、これで底本「旧友芥川龍之介」の本文パートは終わっている。
最後に奥附を電子化しておいた。
さても、これより、本書全篇の一括縦書ルビ版(PDF)の製造にとり掛かる。相当な時間がかかることは、御理解戴きたい。無論、その過程で発見したブログ版の誤字は、修正し、また、注も補正・追加する。]
二九(大正七年八月六日田端から京都へ)
拜 啓
こないだ東京へかへつたら、おやぢの所へ君の手紙が來てゐた。寫眞は今一枚もないから、燒き增して送る由。京都からかへるとすぐ手紙を出したつもりでゐたから、その催促だと思つた。所がうちへ帰つて見ると、妻が君の所へ出す筈の手紙を未に出さずにあると云ふ。封筒の上書きがしてないから、まだ出しちやいけないんだと思つたんださうだよ[やぶちゃん注:この「よ」は原初書簡には、ない。]。莫迦。してなきや、してないと云ふが好いや。こつちも[やぶちゃん注:原書簡は「は」。]忙しいから忘れたんだと云ふと、私莫迦よと、意氣地なく悲観してしまふ。そこで、この手紙を書く必要が出來た。そんな事情だから君にはまだお茶の御礼も何も云はなかつた訳だらう。甚恐縮する。奧さんによろしくお詫びを願ふ。僕等夫婦はずぼらで仕方がないのだ。寫眞もおやぢに至急燒き增しを賴んだから、その中に送るだらう。
この頃は每日海へはいつたり、人と話しをしたりして、泰平に暮してゐる。一家無事。時々僕が癇癪を起して、伯母や妻をどなりつける丈。
晝の月霍乱人の目ざしやな
八月六日 龍
井 川 樣
[やぶちゃん注:「寫眞」二月二日の芥川龍之介と塚本文の結婚式の写真と思われる。
「京都からかへるとすぐ手紙を出したつもりでゐた」これは二ヶ月前の六月五日、横須賀海軍機関学校の出張で広島県江田島の海軍兵学校参観に行った帰りに京都に滞在したことを言っている。但し、この時、龍之介は恒藤(井川)恭とは逢っていないと思われる。龍之介が鎌倉へ戻ったのは六月十日頃であるから、一月半近くも文は表書きのない手紙をそのままにしていたということになる。確かにちょっと唖然とするが、しかし、それ以上に、結婚した途端、「文ちやん」への言葉遣いがド荒くなるのは、かなり、興醒めである。「時々僕が肝癪を起して伯母や妻をどなりつける丈」とあるのは、龍之介の書簡の中でも、かなり知られた一文である。また、この時期、伯母フキが鎌倉に滞在していたことも判る。なお、この六日後の八月十二日に名作「奉敎人の死」(九月一日『三田文学』発表)を脱稿(私の偏愛する作品で、私はサイトとブログで、
原典 斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人伝」より「聖マリナ」
を完備させてある)、翌十三日からは、かの「枯野抄」を起筆している(九月二十一日脱稿で、十月一日『新小説』発表。同じく偏愛する一篇で、
本文+「枯野抄」やぶちゃんのオリジナル授業ノート(新版)PDF縦書版
を完備している)。
「霍乱」(かくらん:原書簡でも「乱」はママ)は現在の「日射病・熱中症」の類い。昼の月を「白目を剝き出した病人の目」に喩えたもの。この句はこの年の「我鬼窟句抄」に載っているから、旧作の使いまわしではない。「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」参照。老婆心乍ら、「目ざし」は字余りでも「まなざし」と読んでいよう。
以下、奥附。上部に本文は最小ポイントで「著者略歷」が載り(五行目の字空けはママ)、下方にやや縦長の罫線に囲まれて、書誌が載る。「著者」の姓名には「つねとう きよう」のルビがあるが、省略した。なんとなく見た目似せただけで、字のポイントの違いはブラウザの不具合が生じるので再現していない。]
著 者 略 歷
大正五年兄弟法學部卒、
昭和十三年法學博士、京
大敎授、大阪商大學長を
經て現在大阪市立大學總
長、 著書「法の基本問
題」「法律の生命」「ハル
ムス法哲學槪論」その他
昭和二十四年八月一日 印刷
定 價 二 百 五 十 圓
昭和二十四年八月十日 發行
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介 著 者 恒 藤 恭
之 大阪市北區中之島三丁目三番地
龍 朝日新聞大阪本社
川 發 行 者 藤 原 惠
芥 兵庫縣津名郡志筑町一五八九ノ一
友 株式會社井村印刷所
旧 印 刷 者 井 村 雅 宥
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發 行 所 大阪市中之島
朝 日 新 聞 社
東京都丸の内
(電話北濱一三一、丸の内一三一)
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