ブログ1,900,000アクセス突破記念 梅崎春生 文芸時評 昭和二十六年六月分
[やぶちゃん注:本評論は底本(後述)の解題によれば、三月三十一日・四月一日・同二日附『東京新聞』に連載されたものである。本文の二行空け部分がその切れ目と考えよかろう。
私は梅崎春生と同時代のここに挙げられる作家の作品はあまり読んだことがない。私は近現代の作家については、死んでいない人物に対しては冷淡で、共時的に読むことはなかった(現在でも特定の作家を除き、概ね同じである。梅崎春生が亡くなったのは小学校三年生で梅崎春生は知らなかった。但し、私は三~六歳の時期、大泉学園に住んでおり、梅崎春生の家はかなり近くにあったことを後年知った。梅崎との最初の出会いは一九七一年八月七日のNHKドラマ「幻化」で、中学三年の時であった)、従って、注は語句や、特に私がよく知らない作家については、高校の「現代文」(ちょっと以前は「現代国語」と称した)の私の嫌悪する注のような、生年月日の毛の生えた程度の注をするしかないからやりたくないし、私の知っている作家の場合は、没年を示す必要があると考えた場合を除いて、一切、注しない。悪しからず。
既に述べているが、梅崎春生の短編小説は、最早、上記底本全集のものは、「青空文庫」(ここ)で私よりも先行電子化された分の以下の私の底本全集中の十一篇(「日の果て」・「風宴」・「蜆」・「黄色い日日」・「Sの背中」・「ボロ家の春秋」・「庭の眺め」・「魚の餌」・「凡人凡語」・「記憶」・「狂い凧」。以上は順列を私の底本全集の並びに変えてある)を除き、これで、総て電子化を終えている(全リストは私のサイトのこちらの「■梅崎春生」、及び、ブログ・カテゴリ「梅崎春生」及びブログ版梅崎春生「幻化」附やぶちゃん注【完】・梅崎春生「桜島」附やぶちゃん注【完】・梅崎春生日記【完】を参照)。残るのは、長編「つむじ風」のみである。彼の著作権満了の翌日である二〇一六年一月一日から始めた、私のマニアックに五月蠅い注附きの梅崎春生の電子化も、七年目にして、もう遂に終わりに近づいた。
底本は昭和六〇(一九八五)年四月発行の沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。太字は底本では傍点「﹅」。
なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、三十分ほど前、1,900,000アクセスを突破した記念として公開する。【二〇二三年一月十五日 藪野直史】]
昭和二十六年四月
「どん底の独裁国」というグラビヤ(改造)がある。フランシスコ・フランコ治下の人民の、貧困と圧制にあえぐ、絶望的な生活がうつし出されている。たくさんの小説を読んだあとこれを見ると、なんだかぎょっとするほど生々しい。どうもよそごとではないような感じである。活字と写真の訴え方の相違なのかも知れない。
しかし今月読んだ数多の小説の中には、日本の現実を取扱いながら、よそごとめいた感じの作品が、少なからずあったような気がする。一読者としての私の印象は、そうであった。充たしてくれるものが乏しい。
「歴程」三十六号に、こんな詩がある。
風 景
水のなかに火が燃え
夕露のしめりのなかに火が燃え
枯木のなかに火が燃え
歩いてゆく星が一つ
作者は原民喜。狭くとも、小さくとも、彼が見たこのような風景に、私の内の読者は感動する。この風景が、現実の死に裏づけられているせいなのか。必ずしもそうではあるまい。しかし末期(まつご)の眼にこそ、風景がこんなに澄明に結晶しているので、人が生きてゆく現実は、もっと荒々しく濁っている、と言えるかも知れない。
火野葦平の「動物」(群像)も、そのような濁りを追求した作品。動物園を舞台にして、鳥獣の生態と、その間における人事の軋轢(あつれき)。題名が示すように、鳥獣的動物との対比において、人間という動物の生態を浮き出させようとしたらしい作品であるが、その対比がうまく行っていないと思われる。
読後二三日経つと、鳥獣のイメージだけが頭に残っていて、なぜか人間の姿は蒸発したように印象が稀薄になっている。たとえば孔雀(くじゃく)と七面鳥のいきさつなどは、なかなか興味深く印象的なのに、それを眺めている信彦や関良吉の姿は、切抜き絵みたいに平板で影がうすいのだ。もっと執拗に緊密に両者をからませることで、人間獣または人間虫の生態を、うまく定羞できなかったものか。
そしてこの作者の眼は、鳥獣に対するときは公平であたたか味があるのに、それを囲む人間たちに対しては、なにか不均衡で偏頗(へんぱ)なところがあるようだ。ある人物をひどくいたわり過ぎていたり、別の人物を不当な悪玉として割切っていたり、つまり善玉悪玉みたいな類型的な描き方をしているふしがある。
やはり人間に対しては、属種や分類としてではなく、個人個人の動静や生態を基準として、作者は追求すべきであろうと、読者の私はそう考える。
丹羽文雄「爛れた月」(中央公論)。現実にたいする無感動。それからくるエゴイズムや冷酷さ。そういう中年の男を主人公として、妻や情婦をからませてある。最後のところで主人公の「『ああ』笑うより他ないではないか。哄笑ではないが、当分笑いは私の口許を消えそうにない」こういう笑いの発生の根源を、やはりこの作者はつかみかねているような気がした。この作品の行文は、なかなか流暢で手慣れているのに、時々ふっと不要な説明みたいなものが入ってくる。それが主人公の心理なり性格なりを、とたんに低俗な、ありふれたものにしてしまう傾きがある。どうしてこんな尻尾を、あちこちくっつける必要があるのか、私にはよく判らない。
すこし感じは違うが、「禁色」三島由紀夫(群像)にも、不要な尻尾をたくさんぶら下げている感じがある。これらは現実の断片を、模糊たる断片のままでおくのが不安で、いきなり言葉で裁断しようという、不逞にして無意識(?)の焦慮から来るのではないか。だとすれば、それは才華の豊富さよりは、むしろ末梢的な部位における衰弱を示しているように、私には感じられるのだが、どうだろう。
上林暁の「姫鏡台」(群像)、「雪解」(日本評論)を読む。他のきめの荒い小説にくらべると、手打うどんみたいな滋味が、ここにあると言えば確かにある。また同時に、ぬけぬけと安心している感じも、なくもない。
自ら(?)の生活を描き、広汎な市民層の共感をあつめるところに、この作者のひとつの特微があるようである。狭い範囲の鑑賞にしか適しなかった私小説を、その共感の幅においてここまで拡げたということは、やはり上林暁という作家の特色であり、功績でもあると言えるだろう。しかしその為には、必然的に、常軌を逸しない生活感情の起伏と、読者をして親狎(しんこう)させるほどの凡人性が、そこに常に用意されていなくてはならぬ。[やぶちゃん注:「親狎」親しみなれること。近づき馴染むこと。]
この作家は、よく飲屋などで見知らぬ読者から、気軽に話しかけられることを書くが、確かにそのような親狎性をこの人の作品は多分に持っているようだ。これがたとえば葛西善蔵であったら、読者の大多数は、「やあ葛西さん」と気易く杯を突出すことに、ためらったりはばかったりするに違いなかろう。
しかし、その凡人的な、時には押しつけがましいほどの愚人的な生活感情の中で、作家が作家として発すべき根本のものを、彼はどうして求めて来ているのだろう。そういう疑問や問題がどうしても残る。答えは簡単である。「雪解」の武智も「姫鏡台」の柏木も、上林暁とは違う。
武智という人間は、上林暁において長いことかかって綿密に設定され、作者と柔軟な距離を保って動作し生活する作中人物である。しかし彼の作品の中では、その効果上、作者とイコールの擬体を常に保っているようである。ずるいと言えばずるい。
もちろん、どんな私小説家も、作中の「私」に対する距離は確実に保持している。密着したところで作品が出来るはずがない。尾崎一雄には尾崎一雄的な距離、外村繁には外村繁流の距離。しかし上林暁の場合、その距離や角度の設定は、なかなか手がこんでいて、きわめて大胆にして、しかも細心を極めているように思われる。もう少し距離を伸ばして「私」を戯画化することもせず、もう少し近づいて泥沼に手足をとられることもしない。ある一定の長さと幅を、伸縮自在に踏み外さず動いている。そしてその上において、読者の生々しい共感をぴたりとつかんでいる。
その操作はやはり、嘆賞に値する。「自分の作品はすべて遺書のつもりで書く」。こういう彼の言葉も文字通りのそれではなく、作中の「私」に迫真性と切実感を付与しようとする、作家としての心構え又はテクニックと解すべきであろう。そう私は思う。
こういうことはなかなか大変なことで、私小説だと簡単に片付けてしまう訳には行かない。たとえば私小説でない作家、丹羽文雄と「紋多」の関係、林房雄と「越智英夫」との関係などを見れば、よく判る。これらの関係は、あまりに手軽に設定されていて、しかもその距離は不器用に硬化しているように見える。
上林暁の第二の「私」の大胆細心な設定に比べれば、まるで竹の筒のように芸がない。「姫鏡台」「雪解」の如き作品が、手打うどんの如く万人に愛される所以(ゆえん)である。日本中で最も誠実にしで老獪(ろうかい)なる作家が、ここにいる。
高見順の「呟く幽鬼」(文芸春秋別冊)、「インテリゲンチア」(世界)。それぞれ面白かった。しかしこの二つの小説では、かつての何もかも吐き出そうとする文体から、はなはだしく変貌して、発想も抒情的にすらなっている。抒情という方法によって物に即(つ)こうとする気配がある。つまり自分の生理に逆らってまで嘔吐しようという抵抗は、この作者からはもう消え失せているように見える。それはそれで、いいことかも知れない。しかしそういうことを言っても始まらない。
もろもろの現実を、彼がどんな風に受け止め、せき止め、どんな具合に処理したり流したりするかは、今後の彼の生理や健康や周囲の現実の抵抗が決定することだろう。でも今のように、心象の夾雑物を排除して物に即こうというやり方は、心象や現実そのものの衰弱をかえってもたらしはしないか。読者としてそういう危惧は残る。
結城信一「螢草」(群像)。奇跡のように清純な恋物語。それがひたむきに描かれているので、その点の感動を読者に与える。しかし実際にこのような、意地悪さを全然欠如した、汚濁を見ない(あるいは見えない)人間を想像すると、私はすこし不安になる。
この作品を私は全然うそだとは思わないが、他のいろんな現実の対比において、大きなうそを感知する。
椎名麟三「福寿荘」(文芸)。この作家としてはすこし軽すぎる感じ。流れ動としても、水銀のような重さがあってもいいだろう。しかしこの作品では意識的にその重さを切り離そうとしているようにも見える。すり切れた厚い手帳を出して、メンタルテストをしてあるく森安という男、これなどに錘をつけて定着すれば、もっとよかったのにと思う。それをわざと膜のむこうに追いやっている。
宇留野元一「あぢさいの花」(文学界)。かゆいところにもう一息で手が届かない。不必要なところに筆を費しすぎて、肝腎なところでは節約しているという感じ。こういう形式で、こんな女を描くのは、無理じゃないかな、とも思う。以上、印象に残った小説の一部分だけ。
小説以外の文章では、青山二郎「上州の賭場」(新潮)を読み、大そう感心した。なみいる小説よりは、ずっと面白かった。題名通り上州の賭場を描いた文章であるが、作者の眼が過不足なく行き届き、見るべきものはちゃんと見ているような、つめたい正確さがある。偏った見方で大向うをねらうはったりは、ここにはない。曇った眼で見たような小説を数多読んだあとで、こんな文章に接すると、胸が少しはすがすがしくなる。小説の面白さとは違う別の面白さ。
それに力を得て、つづけて大岡昇平「文学的青春伝」(群像)、石川淳「ジイドむかしばなし」(文学界)を読む。しかしこれらは何だかざらざら引っかかってくるものがあって、「上州の賭場」などに比べると、よほど面白くなかった。読後三十分ほど経つと、ジンマシンがたくさん出た。文章の姿勢や魂胆が、私の体質に合わなかったのだろうと思う。
[やぶちゃん注:『「歴程」三十六号』「風景」「原民喜」私のサイト版「原民喜全詩集」を見られたいが、異同はない。『歷程』の《XXXVI》号は確かに昭和二六(一九五一)年三月一日発行のそれの二十三ページに所収していることを、オークション・サイトの目次画像で確認出来た。また、梅崎春生と原民喜が邂逅したことがあることは、彼のエッセイ「その表情――原民喜さんのこと――」(『近代文学』昭和二八(一九五三)年六月号に発表)で確認出来る。そんなことより、実は――原民喜は――ここで梅崎春生が書いている――その前月の三月十三日午後十一時三十一分――国鉄中央線の吉祥寺駅 と西荻窪駅の間の線路に身を横たえて鉄道自殺していた――のである。これは第一回の連載分であるとして、三月三十一日の記事で、自死後十八日目に当たる。これを冒頭に述べたところに、梅崎春生の強い彼への追悼の念が感じられるのである。
『火野葦平の「動物」』「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」でこちらから視認出来る。私は火野が好きで、カテゴリ『火野葦平「河童曼陀羅」』で全電子化注を完遂している。
『「禁色」三島由紀夫』私は三島の思想人としての存在には全く関心も興味もない。但し、彼の文章の若き日の計算された彫琢力には感心はする者ではある。「禁色」も読んだが、梅崎春生と全く同様の感じしか持たなかった。と言っても、三島の代表作を文庫本であらかた読んだのは、彼が自決してから五年後の大学一年の夏休みのことだったが。三島というと特異的に忘れ難いのは、彼の評論「小説とは何か」(昭和四三(一九六八)年五月から二年後の一九七〇年十一月まで『波』(新潮社)に連載されたが、著者の自死によって中絶)の中の一節である。私の『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 一七~二三 座敷童・幽霊』で解説と引用をしてあるので見られたい。]
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