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2023/01/18

恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十九) (標題に「二八」とあるのは誤り)

 

[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。

 底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。

 本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。

 なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。

 各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えており、カットもある本書簡は特異的にサイトの「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」で電子化注してある(書簡本文だけでよければ、ブログのプレ予告電子化のこちらで見られる)が、両方ともUnicode導入以前のWordで作ったため、漢字の正字化不全があるので、ここで、注を概ね含めて(恒藤恭の注などの不要と判断したものを除去し、一部を訂正・追加もした)総てを正規表現に直した原書簡を特異的に注で掲げておく(恒藤は文中の一部や最後を略してもいるからである)。中国へ『大阪毎日新聞社』特派員として向かう直前の書簡である。

 

    二八(大正十年三月八日 田端から京都へ)

 

 啓

 今この紙しかない。粗紙だが勘弁してくれ給へ。僕は本月中旬出発、三月程支那へ遊びに行つて來る。社命だから貧乏旅行だ。谷森君は死んだよ。余つ程前に死んだ。石田は頑健。藤岡には僕が出無精の爲会はない。成瀨は洋行した。洋行さへすれば偉くなると思つてゐるのだ。厨川白村の論文なぞ仕方がないぢやないか。こちらでは皆輕蔑してゐる。改造の山本実彥に会ふ度に、君に書かせろと煽動してゐる。君なぞがレクチュアばかりしてゐると云ふ法はない。何でも五月には頂く事になつてゐますとか云つてゐた。僕は通俗小說なぞ書けさうもない。しかし新聞社にもつと定見が出來たら、即、評判の可否に関らず、作家と作品とを尊重するやうになつたら、長篇は書きたいと思つてゐる。この頃益々東洋趣味にかぶれ、印譜を見たり、拓本を見たりする癖が出來て困る。小說は藝術の中でも一番俗なものだね。 (中略)

 奥さんによろしく。以上

    三月七日午後                龍 之 介

 

[やぶちゃん注:以下、特異的に原書簡を示し、注も附す 。岩波旧全集の「八六二」書簡を底本とした(新全集書簡番号は「929」)。

   *

大正十(一九二一)三月七日・消印八日・京都市下鴨森本町六 恒藤恭樣・三月七日 東京市外田端四三五 芥川龍之介

 

今この紙しかない 粗紙だが勘弁してくれ給へ 僕は本月中旬出發三月程支那へ遊びに行つて來る 社命だから 貧乏旅行だ谷森君は死んだよ 余つ程前に死んだ 石田は頑健 あいつは罵殺笑殺しても死にさうもない 藤岡には僕が出無精の爲會はない成瀨は洋行した 洋行さへすれば偉くなると思つてゐるのだ 厨川白村の論文なぞ仕方がないぢやないかこちらでは皆輕蔑してゐる 改造の山本實彥に會ふ度に君に書かせろと煽動してゐる君なぞがレクチュアばかりしてゐると云ふ法はない 何でも五月には頂く事になつてゐますとか云つてゐた 僕は通俗小說なぞ書けさうもないしかし新聞社にもつと定見が出來たら即 評判の可否に關らず作家と作品とを尊重するやうになつたら長篇は書きたいと思つてゐる この頃益東洋趣味にかぶれ印譜を見たり拓本を見たりする癖が出來て困る小說は藝術の中でも一番俗なものだね

同志社論叢拜受渡支の汽車の中でよむ心算だ 京都も好いが久保正夫なぞが蟠つてゐると思ふといやになる あいつの獨乙語なぞを敎つてゐると云つたつて ヘルマン und ドロテアは誤譯ばかりぢやないか

奧さんによろしく 頓首

    三月七日午後                 龍 之 介

   恭   樣

 

   *

○やぶちゃん注

・「谷森」谷森饒男(たにもりにぎお 明治二四(一八九一)年~大正九(一九二〇)年八月二十五日)のこと。日本史学者。芥川・恒藤の一高時代の同級生。東京帝国大学史料編纂掛嘱託となり、「檢非違使を中心としたる平安時代の警察狀態」(私家版)等をものすが、夭折した。官報によれば、一高卒業時の席次は、首席の恒藤と次点の芥川に次いで三番であった。父は貴族院議員の谷森真男である。

・「石田」は石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)年)のこと。歴史学者・東洋学者で、芥川・恒藤の一高時代の同級生。

・「藤岡」は藤岡蔵六(明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)年)のこと。哲学者。ドイツ留学中にヘルマン・コーエン(Hermann Cohen 一八四二年~一九一八年:ドイツのユダヤ人哲学者で、新カント派マールブルク学派の創設者の一人。時に「十九世紀で最も重要なユダヤ人哲学者」ともされる)の「純粹認識の論理」を翻訳して注目されたが、先輩であった和辻哲郎の批判を受け、後々まで不遇をかこった。甲南高等学校教授。芥川・恒藤の一高時代の友人。

・「成瀨」成瀬正一(明治二五(一八九二)年~昭和一一(一九三六)年)は仏文学者。横浜市生まれ。成瀬正恭(「十五(じゅうご)銀行」頭取)の長男で裕福であった。芥川・井川(恒藤)の一高時代の同級生で、東京帝大も芥川と同じ英文学科に進み、第三次・第四次『新思潮』に参加した。大正五(一九一六)年八月にアメリカに留学(芥川は「出帆」(リンク先は「青空文庫」(新字新仮名))と題した作品にその船出の様を描いている)するが、失望、ヨーロッパに渡り、帰国後は十八~十九世紀のフランス文学研究に勤しんだ。

・「厨川白村」(くりやがわはくそん 明治一三(一八八〇)年~大正一二 (一九二三)年)は英文学者・評論家。当時は京都帝大英文科教授であった。この頃、成瀬は彼に傾倒していたらしい。因みに、大正七(一九一八)年六月二日頃、芥川龍之介は出張した際に途中下車した京都で、彼と面会している。しかし、この部分、私はちょっと意味を取りかねている。「厨川白村の論文なぞ仕方がないぢやないかこちらでは皆輕蔑してゐる」という部分がそれで、これは或いは、先行する恒藤恭(京都帝大卒で、当時は同志社大学法学部教授であったが、この翌大正十一年には京都帝大経済学部助教授となっている)からの書簡の中に、成瀬の厨川白村論が評判だ、といった伝文があったのに対して、批判したもので――「厨川白村」について成瀬が書いた「論文なぞ」は「仕方がない」ほど評価しようがないもの「ぢやないか」、「こちらでは」、「皆」、彼のその論文を「輕蔑してゐる」ぜ、というニュアンスを私は感じる。「こちら」は京都に対する東京の謂いであり、ごく自然に以上のような意味でとれるからである。無論、そうではなく、芥川龍之介が実は厨川白村自身を評価していなかったというコンセプトとして読むことも可能であるが、厨川は京都帝大の前任者上田敏と同じく、日本における最初にして中心的なイェイツの紹介者であり、アイルランド文学の研究者を輩出するといった功績を考えるに、芥川がまるで評価していなかったというのは、ちょっと考え難い気がするのである。因みに、成瀬は芥川にとっては、所詮、プチブルのお坊ちゃんであり、他の書簡でも、彼をチャラかしたり、厳しい評を加えたりする記載がかなり多く、『新思潮』の同人で友人でもあったが、私は、芥川は彼を文学者としては、一貫して評価してはいなかったように捉えている。但し、碌な才能もない癖に、洋行する彼に、芥川の軽蔑と嫉妬が、綯い交ぜになった心理が、この裏にはあるような気がすることも言い添えておく。

・「山本實彦」(明治一八(一八八五)年~昭和二七(一九五二)年)は当時の大阪毎日新聞社社長であり、芥川も御用達の改造社の創設者である。後の大正一五(一九二六)年に『現代日本文學全集』(全六十三巻)の刊行を開始、円本ブームの火付け役ともなった人物で、芥川龍之介とは自死する直前まで(同全集の強行日程の宣伝部隊に芥川は里見弴と一緒に駆り出されている)いろいろと縁が深かった。

・「何でも五月には頂く事になつてゐますとか云つてゐた」今回、冒頭に掲げた松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」を見たところ、これは恒藤恭の論考「世界民の愉悅と悲哀」であることが判った。この二ヶ月後の大正一〇(一九二一) 年六月一日発行の『改造』に発表されている。

・「同志社論叢」柴田隆行編「L・フォイエルバッハ日本語文献目録」(PDF)によれば、丁度この頃、恒藤は、ドイツの哲学者で「青年ヘーゲル」派の代表的な存在であるルートヴィヒ・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach 一八〇四年~一八七二年)の著作の翻訳を行っている。例えば、「哲學の改革に關する問題」(大正一〇(一九二一)年岩波書店刊のプレハーノフ「マルクス主義の根本命題」所収)、「哲學の改革に關するテーゼ」(大正一二(一九二三)年『同志社論叢』の「マルクス主義の根本問題」巻末)や、「哲學の始點」(昭和二(一九二七)年『大調和』六月号)がそれである。芥川が彼から贈呈された論文も、フォイエルバッハ、若しくは、マルクス主義関連の翻訳か論文であったと考えてよい。

・「久保正夫」(明治二七(一八九四)年~昭和四(一九二九)年)は翻訳家・評論家。芥川・恒藤の一高時代の後輩。京都の第三高等学校講師。デンマークの詩人イェンス・ヨハンネス・ヨルゲンセン(Jens Johannes Jorgensen 一八六六年 ~一九五六年)の「聖フランシス」の訳(大正五(一九一六)年新潮社刊)や、トルストイ「人はどれだけの土地を要するか 外三篇」(大正六(一九一七)年新潮社刊)の訳等がある。

・「ヘルマン und ドロテア」大正七(一九一八)年に新潮社から刊行されたギョオテ(ゲーテ)著・久保正夫訳「ヘルマンとドロテア」を指している。大正九(一九二〇)年にはゲーテの「親和力」(新潮社)も訳しており、久保正夫の訳した本は芥川好みのラインナップではあるが、芥川には、余程、我慢がならない拙い訳であったようだ。

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