下島勳「芥川龍之介終焉の前後」
[やぶちゃん注:本篇は『文藝春秋』昭和二(一九二七)年九月発行の『文藝春秋』の「芥川龍之介追悼號」に寄稿されたもので、後の下島氏の随筆集「芥川龍之介の回想」(昭和二二(一九四七)年靖文社刊)に収録された。最後のクレジットは執筆のそれであろう。
著者下島勳(いさをし(いさおし) 明治三(一八七〇)年~昭和二十二(一九四七)年:芥川龍之介より二十二年上)は医師。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川家の主治医で、その友人でもあって、本文にある通り、芥川龍之介の末期を診たのも彼である。芥川も愛した俳人井上井月の研究家としても知られ、大正一〇(一九二一)年十月二十五日発行の下島勳編「井月の句集」(出版は空谷山房で奥附の住所が下島と同じであるから自費出版である)には芥川龍之介が「序」を寄せている(ブログで電子化済み)。自らも俳句をものし、「空谷」と号した。また、書画の造詣も深く、能書家でもあった。芥川龍之介の辞世とされる「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の末期の短冊は、彼に託されたものであった。私は既に古くサイト版で下島氏の「芥川龍之介氏のこと」(昭和二(一九二七)年九月発行の『改造』の「芥川龍之介特輯」に初出。同前の随筆集に所収)を筑摩全集類聚版「芥川龍之介全集」別巻を底本に電子化している(新字。近々、正規表現に直す)。
底本は「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」で上記「芥川龍之介の回想」原本の当該部を視認して電子化した。幸いなことに、戦後の出版であるが、歴史的仮名遣で、漢字も概ね正字であるので、気持ちよく電子化出来た。踊り字「〱」「〲」は生理的に嫌いなので正字化した。一部に注を挿入した。
なお、芥川龍之介の自殺に用いた薬物については、私は一般に知られているジャールとヴェロナールではなく、青酸カリと考えており、少なくとも、下島だけは、その使用した致死薬物が何であったかが判っていた可能性が高いと思っている。それは、例えば、『小穴隆一「鯨のお詣り」(36) 「二つの繪」(25)「彼の自殺」』に見られる、下島の対応が、「自殺」でも、「病死」でも、どちらでも構わないといった、医師として奇体な忖度を加えていることからも、激しく疑われるのである。]
芥 川 龍 之 介 終 焉 の 前 後
七月半ばから暑氣のために胃を病んでゐられる老人(父君)の診察に行つたのは、二十日のたしか午後四時少し過ぎごろであつ記。診榔を了つてから二階の應接間兼臨時の書齋へ這入と、内田百間氏が歸りがけとみえて椅子から離れたところであつた。内田氏を玄關に見送つて上つて來た芥川氏は、元氣ではあつたが、内田氏の何か一身上の問題をひどく案じてゐられた。又宇野浩二氏の病氣も案じてゐられた。
私は直ぐお暇するつもりでゐたところ、『今日は先夜の敵討ちを是非するから』と云つて、猪鹿蝶の道具をサツサと並ぺはじめるのである。私は『昨夜寢不足してゐるから御免だ』と逃げを張つたが、仲々聽かばこそ、『今日は小穴にも全勝した。今日は誰にでも勝てる自信があるから逃がさない』と非常な勢ひで、もう親極めの割札をしてゐるのであつた。
私は逃げ出すわけにも行かず、椅子から離れて机の脇の座蒲團の上に座を占めた。が、果せるかな、その物凄いほどの猛威に壓せられて、たちまちの間に三番立て續けに敗けてしまつた。氏は頗る大得意のニコニコもので、『今日は幾回やつても駄目です』と凉しい顏である。茶を持つて來てくださつた奧さんも笑はれたぐらゐであつた。私は、『どうも不思議だ、こん筈はない』と云へば、例の薄笑ひを漏らしながら、『どういふわけでせう』と皮肉な反問を浴びせるのである。
『どうも斯うもない。憑きものの加減で頭がはつきりしてゐるからでせう』と云へば『然り、札がわかる』と云つて意氣軒昂である。私は電燈が灯つてから歸つたのであつた。
それから一日置いて二十二日の午後三時半頃、老人の診察が了るか了らぬうちに伯母さんが出て來られて、『どうも二階のが胃が惡さうだから診てやつてくれ』と云つて、間もなく二階から下座敷へ引ぱつて來た。
『何、昨日午後睡眠藥を飮んで晝寢をしてゐるところを、突然起されたんで例の腦性嘔吐をやつたんです。まるで關係もない雜誌の記者が來たと云つて、用事も無いのに起すんですから…………それだからまだ今日もフラフラしてゐます。ほかには何も故障はないのです』と不平たらたらである。
そこで老人の枕を借用、そのまゝ仰臥の位置で一診した。(實は胃と腦の合劑の散藥は常に用ひられてゐたが、正式に診察するのはこゝ暫く振りであつた)その結果は外觀上それ程にも思つてゐなかつた肉體が、一般に衰弱してゐることで、殊に心臟の力も例の過敏であるべき筈の膝蓋腱反射も力が足らず、それに瞳孔も少し大きいやうに思つたので、これは睡眠藥の飮み過ぎに違ひない、あとで充分忠告の必要があると思つたのである。
それから複製の長崎屛風を見せるから二階へ來いと云ふ。いつものやうにに階の圓卓子の上で屛風繪を見ながら、鵠沼へは何時行かれるかと聽くと、明日か明後日頃だと答へられた。そこで、餘り睡眠藥を濫用してはいけない、どうもそんにな症狀があるから充分氣をつけたまへ』と忠告すると、不愉快さうな苦笑を漏らして、『大丈夫です。大丈夫です』と云つてゐられた。
そこへ小穴君がやつて求て雜談を始めたのであるが、――
『昨日の嘔吐は苦しかつた。胃に吐くものがないのに吐くのは實に苦しい』と頻りに訴ヘるのである。そこで我々の方では乾嘔と云つて苦しい理由を說明すると、乾嘔と云ふ言葉が妙だとでも思つたのか『乾嘔、乾嘔』と小兒のやうに口ずさんでゐた。
それから小穴君が何のことからであつたか、生命と創作のことについて心細いことを云つたので、老人の冷水を浴びせたやうに覺えてゐる[やぶちゃん注:ママ。「の」は「に」であろう。]。だが、主人公は一向興味がない陰氣さうな顏をして、例の通り、後頭部を籐椅子の背に摺りつけて、左右前後に動かしてゐた。
また改造八月號所載の『西方の人』と『東北、北海道、新潟』を讀めと云つて示された。そこで一應ざつと通讀したが、殊に『東北、北海道、新潟』は眞に駭くべき簡潔と、刺すやうな不思議な暗示の魅力とに、思はず感嘆の聲を發すると、さも滿足さうな表情を浮べるのであつた。
[やぶちゃん注:私のサイト版で「西方の人」はこちらで「正續完全版」で、「東北、北海道、新潟」は私のマニアックな推理頭注を添えて古くにここに公開してあるので未見の方は是非見られたい。]
その日の氣温は華氏の九十度[やぶちゃん注:摂氏三十二・二度。但し、これは下島の記憶違いで、この昭和二(一九二七)年八月二十二日は華氏九十五度=摂氏三十五度であった。]といふ、本夏最高のレコードを示した實に暑苦しい日であつた。が唯暑苦しいばかりでなく、變に重苦しく寂しい厭な心持ちがした日であつた。
私はそれから間もなくおいとまをした。梯子段の上まで送つて來て體がフラフラすると云ふから固く見送りを辭退したが仲々聽かない。いつもの通り玄關まで下りて來て、叮嚀にチヤンと手をついて送つてくれた。が、これが今生のお別れであつた。……
歸宅して夕食を濟ませたが、どうも鵠沼行きが氣になり出した。そして下の四疊半の簞笥の前のバスケツトが變に氣に掛るのであつた。この日の朝、輕井澤に居られた室生犀星氏への手紙の端にも、たしか芥川氏の鵠沼行きのことを書いた筈である。
[やぶちゃん注:不審。「芥川龍之介書簡抄147 / 昭和二(一九二七)年七月(全)/芥川龍之介自死の月 三通」には、そのような犀星宛書簡はない(年月未詳書簡も調べた)。思うに、これは大正十五年の九月の鵠沼からの犀星宛書簡を、錯覚しているもののように感じられる。「芥川龍之介書簡抄137 / 大正一五・昭和元(一九二六)年九月(全) 九通」の一通目がそれではないか? 本文に「ちよつと東京にかへつたがまだ中々暑い今明日中に鵠沼へかへるつもり」とあることと、「二伸」にある『僕もこの間催眠藥をのみすぎ夜中に五十分も獨り語を云ひつづけたよし』というのが、医師としての下島の目に止まり易い内容であるからである。なお、下島が芥川龍之介の鵠沼行きを気にしているのは、後に理由が書かれている。漠然とした自殺の虞れなどによって気にしているのでは毛頭ないことをここで事前に述べておく。]
二十三日は午前に久保田万太郞氏が息耕一君を連れて診察に來られた。そして芥川氏のことを聽かれて答へたのか、私から云つたのか、多分明日あたり鵠沼へ行かれるだらうと云つたやうに覺えてゐる。
夕食後兩國の花火見と云ふより、散步かたがた上野まで筆を買ひに行つた。十六曰の夜澄江堂で俳人室賀春城さんに久振りでお目にかゝつたとき、彼の有名な唐の魏徵の述懐、中原還逐鹿といふ詩を書いてくれとの依賴であつた。拙筆だからと辭退したが、是非と云ふのでお受けをした。その事を二十日に行つた時に話して、『妙な詩を好まれるものだ』と云ふと『イヤ、その心持ちは私によくわかる。あの人は靑年時代政治家志望だつたから』と云はれた。それから曾て聞いた話しであつたが、室賀氏は自分の幼時子守りをしてくれたことや、資性温厚篤實、後クリスチアンとなり、行商などして六十に近い今日まで獨身を守り、獻身謝恩に燃ゆるうちに、禪僧のやうなところのある、俳句の好きな一種の奇人だと賞揚し、是非それを書いて遣つてくれと云ふのだつた。そんなわけから、實は鵠沼に行つてしまはぬ前に一度見てもらつてからと思つたので、所藏の筆を檢べて見たが、役に立ちさうなのがない。そこで池の端の筆屋までいつたのである。
[やぶちゃん注:「室賀春城」芥川龍之介の幼い頃からの知人である室賀文武(むろがふみたけ 明治元或いは二(一八六九)年~昭和二四(一九四九)年)の俳号。先般、電子化注した『室賀文武 「それからそれ」 (芥川龍之介知人の回想録・オリジナル注附き)』の注を参照されたい。
「魏徵」(五八〇年~六四三年)は初唐の詩人で政治家・学者。山東省出身。諫議大夫・檢校侍中・鄭國公に封ぜられ、直言を以って、皇帝太宗を補佐し、善政「貞観(じょうがん)の治」(六二七年~六四九年)に導いたことで知られる。不遇であったのが、抜擢を受け、朝廷で高位の役職に就いた唐室創業の功臣である。
「述懷」は魏徵の代表的詩篇で、その第一句が「中原還逐鹿」(中原 還(ま)た鹿を逐(お)ひ)で二句目に「投筆事戎軒」(筆を投じて 戎軒(じゆうけん)を事(こと)とす)と続く。但し、一句目を「中原初逐鹿」(中原 初めて 鹿を逐ひ)とする一本がある。詩篇全体は「詩詞世界 二千七百首詳註 碇豊長の漢詩」のこちらを見られたい。充分な語句注釈がなされてある(前注もその記載を参考にさせて貰った)。]
筆を求め次手に福神漬を買ひ、廣小路の角の時計屋の前まで來ると、人混みの中から『先生!』と呼ぶ聲がする。よく見ると伊藤貴麿君ではないか。『ヤア暫く』『暑いですなあ』の挨拶が濟んで、これも聽かれたのか、或はこちらから云ひ出したのか兎に角、芥川氏は明日頃多分鵠沼へ行かれるだらうと話しした。伊東君は『大分御無沙汰をしてゐるから、ことによると明日頃お伺ひするかも知れぬ』と云ふてお別れした。
[やぶちゃん注:「伊藤貴麿」(たかまろ 明治二六(一八九三)年~昭和四二(一九六七)年:芥川龍之介より一つ下)は児童文学者・翻訳家。大正十三(一九二四)年に新感覚派の『文藝時代』に参加したが、その後は児童文学界で活躍、その後は『文藝春秋』系の作家となり、少年向けの「西遊記」「三国志」「水滸伝」を始めとする中国文学の翻案物を得意とした。この年の正月、昭和二(一九二七)年一月十五日・田端発信・伊藤貴麿宛の芥川龍之介書簡がこちらにある。下島は芥川を訪ねた彼と知り合いになったのであろう。言うまでもないが、ここで「明日頃お伺ひするかも知れぬ」というのは、芥川龍之介の家に伺うの意である。]
二十四日は、未明から雨が降り出し久し振りに冷味を覺えながら、よい心持ちにまだ夢うつゝを辿つてゐた。すると、玄關の方で、確かに聞きなれた芥川のお伯母さんの聲がする。家内が出て應答の慌たゞしい聲の間に、變だとか、呼んでも答へがないなど響くので私はギヨツとして床の上に起き直つた。家内の取次ぎの終らぬうちに急ぎ注射の準備を命じ、臺所へ飛んで口を嗽[やぶちゃん注:「すす」。]ひでゐると、また老人の聲がする。いきなり手術衣を引かけるが早いか、鞄と傘を引たくるやうにして家を出た。
近道の中坂へかゝると、雨の爲、赭土[やぶちゃん注:「あかつち」。]は意地惡く滑り加減になつてゐる。焦燥と腹だたしさの混迷境を辿つて、漸く轉がるやうに寢室の次の間一步這入るや、チラと蓬頭[やぶちゃん注:「ほうとう」。方々に伸びた髪。]蒼白の唯ならぬ貌が逆に映じた。――右手へ𢌞つて坐るもまたず聽診器を耳にはさんで寢衣の襟を搔きあげた。左の懷ろから西洋封筒入りの手紙がはねた。と、同時に左脇の奧さんが、ハツと叫んで手に取られた。遺書だなと思ひながら、直ぐ心尖部に聽診器をあてた。刹那、――微動、……素早くカンフル二筒を心臟部に注射した。そして更に聽診器を當てゝ見たがどうも音の感じがしない。尙、一筒を注射して置いて、眼孔を檢し、軀幹や下肢の方を檢べて見て、體温はあるが、最早全く絕望であることを知つた。そこで近親其他の方々に死の告知をすましたのは、午前七時を少し過ぎてゐた頃かと思ふ。
死の告知がすむと、急に何とも云はれぬ空虛を感じたが、ふと枕元に置いてあるバイブルに眼が付いた。手に取つて無意識に開いてゐると、小穴隆一君を思ひ出した。そこで急いで義敏君(甥君)を煩はすことにした。
[やぶちゃん注:「義敏君(甥君)」芥川龍之介の実姉ヒサ(当時は西川ヒサ)と先夫葛巻義定(当時は離婚。但し、再婚相手の西川豊が自殺した後、ヒサと再々婚している)との間に生まれた葛巻義敏。]
すると、伯母さんが何にか紙に包んだものを手にせられて『これは昨夜龍之介から、明朝になつたら先生に渡してくれと賴まれました』かう云ひながら手渡された。早速上包みを開いて見ると、短册に「自嘲。水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の一句が達筆に書いてあるではないか。――今は魂去つて呼べども應へぬ故人の顏と句を見較べてゐるちに嚴肅とユーモラスが入り乱れて、泣くにも泣かれぬ寂寞の感に打たれるのであつた。
手續きの上にも菊池寬氏に來て貰はねばならぬ事情があるので、直ぐ文藝春秋社へ電話を掛けさせた。間もなく小穴君が來た。私がもう駄目だと告げたときの同君の顏は、何とも名狀し難い悲痛そのものだつた。
[やぶちゃん注:「手續きの上にも菊池寬氏に來て貰はねばならぬ事情がある」恐らくは、遺書(リンク先は私のサイト版「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」)の中にあった全集について既に一度決まっていた新潮社との契約を全面破棄し、師漱石と同じ岩波書店と新たに契約するという、ちょっと大きな問題があったからであろうと私は考えている。]
そこで最後の面影を寫すべく、直ぐ畫架を椽近くの適所に据えた。雨は音をたてゝ降り出した。薄暗い室内に電氣の灯つてゐるのを氣づいたのはその時である。
[やぶちゃん注:小穴の描いたデス・マスクは、それを表紙カバーにした小穴隆一の「二つの繪 芥川龍之介の囘想」 の第一回に、そのカバーの画像を掲げてある。]
私は私の職務の上から死因を探求しなけれぱならない。そこで先づ齋藤茂吉氏の睡眠劑の處方や、藥店から取つて來た包數や日數を計算して見たが、どうも腑に落ちない。そこで奧さんや義敏君に心當りをきいて見ると二階の机の上が怪しさうだ。直ぐ上つて檢べて見て、初めてその眞因を摑むことが出來たのであつた。
[やぶちゃん注:ここでその「眞因」を具体にさらっと書かないところの方が、よっぽど「怪しさう」じゃないか!?!]
電話は菊池氏が雜誌婦女界の講演に、水戶へ行つたことを報じて來た。で、近親の方々と相談の上直に法律上の手續を取ることにした。
間もなく警察官が來る。檢案やら調査やらが始まる。諸方へ電報を打ち通知をする。その中に鎌倉から久米正雄、佐佐木茂索、菅忠雄の諸氏が驅けつける。菅氏は菊池氏の迎へに上野停車場へ行く。谷口喜作氏が來る、次で久保田万太郞、小島政次郞、犬養健、野上豊一郞、野上彌生子、香取秀眞の諸氏その他友人知己の方々が續々來る。また關係諸雜誌書店等の社長や社員の方々が來る。その中に菊池氏が漸くやつて來る。輕井澤から室生犀星氏が驅けつける。各新聞記者が押し寄せる。南部修太郞、北原大輔、齋藤茂吉、土屋文明、山本有三の諸氏が見える。新聞記者諸君に手記の發表をする。一方葬儀その他の協議も始まる。――といつたやうな混雜裡に、納棺を了つたのは翌二十四日午前二時頃であつた。
附記したいのは、瀧野川警察署の司法主任畑警部
補は、芥川氏の藝術及び人物に深い理解があるら
しく、種々の點につき新説叮嚀であつた。殊に手
記を讀まれるとき畑氏の眼には、たしか泪の露の
一滴を宿してゐた。
(昭和二・八・五)
[やぶちゃん注:附記は底本通り、一字下げを行った。一行字数はブラウザの不具合が生ずるので、適当な字数で改行しておいた。最後のクレジットは下方インデントであるが、引き上げた。なお、一人だけ、私が今までのサイトやブログで注していない人物名が出ているので、それのみ注する。
「北原大輔」(明治二二(一八八五)年~昭和二六(一九五一)年)は日本画家。長野県生まれ。東京美術学校予科日本画科卒。下島勳の紹介で、芥川と面識を持った。龍之介も参加していた文人・財界人の「道閑会」にも加わっており、龍之介の大正一四(一九二五)年二月『中央公論』初出の「田端人」の掉尾に彼が挙げられ、寸評されてある(リンク先は「青空文庫」。新字旧仮名)。]