恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(二十五)+(二十六) (標題に「二四」及び「二五」とあるのは誤り)
[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。ここから最後までは、総てそちらで注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。
各書簡部分はブログでは分割する(但し、ここは特異的に次の書簡とカップリングする)。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。本ブログ版では、本文丸括弧表記と区別するため、ルビは上付き丸括弧で示した。]
二四(大正七年一月十九日 鎌倉から京都へ)
女の名は
加茂江(カモエ)(下加茂を記念するなら、これにし給へ)
紫 乃(シノ)(子)
さざれ(昔の物語にあり復活していゝ名と思ふ)
茉 莉(マリ)(子)
糸 井(イトヰ)(僕の友人の細君の名 珍しい名だが感じがいゝから)
これで女の名は種ぎれ。男の名は
治 安
樓 蘭(二つとも德川時代のジヤン、ロオランの飜訳。一寸興味があるから書いた)
哲(テツ)。士朗。(この俳人の名はすきだ)
俊(シユン)。山彥。(原始的詩歌情調があるぜ)
眞 澄(マスミ)(男女兼用出來さうだ)
そんなものだね。
書けと云ふから書いたが、なる可くはその中にない名をつけて欲しい。この中の名をつけられると、何だかその子供の運命に僕が交渉を持つやうな氣がして空恐しいから。
僕は來月に結婚する。結婚前とは思へない平靜な氣でゐる。何だか結婚と云ふ事が一のビズネスのやうな氣がして仕方がない。
僕は子供が生れたら記念すべき人の名をつける。僕は伯母に負つてゐる所が多いから、女だつたら富貴子、男だつたら富貴彥とか何とかつけるつもりだ。或は伯母彥もいいと思つてゐる。そのあとはいい加減にやつつけて行く。夏目さんが申年に生まれた第六子に伸六とつけたのは大に我意を得てゐる。実は伯母彥と云ふ名が今からつけたくつて仕方がないんだ。
この頃は原稿を皆断つてのんきに本をよんでゐる。英國の二流所の作者の名を大分覚えた。
爪とらむその鋏かせ宵の春
ひきとむる素袍の袖や春の夜
燈台の油ぬるむや夜半の春
葛を練る箸のあがきや宵の春
春の夜の人參湯や吹いて飮む
この間運座で作つた句を五つ錄してやめる。
龍
二伸、奧さんによろしく。產月は何時だい。今月かね。
[やぶちゃん注:原書簡は「芥川龍之介書簡抄86 / 大正七(一九一八)年(一) 十通」の二通目。次の書簡を参照。]
二五(大正七年二月十五日 鎌倉から京都へ)
御長男の生まれたのを祝す。御母子の健康を祈りながら
春寒く鶴を夢みて產みにけむ
二月十五日 芥 川 龍 之 介
[やぶちゃん注:因みに、恒藤恭の子は大正七年二月十五日、長男が生まれ、名は「信一」と命名されている。しかし、二年後の大正九年七月二日に亡くなった通知が齎されて(逝去は六月二十二日で、死因は疫痢であった)、芥川の家族中がショックを受けている(「芥川龍之介書簡抄98 / 大正九(一九二〇)年(三) 恒藤恭・雅子宛(彼らの長男信一の逝去を悼む書簡)」を参照)。芥川龍之介の案を採用しなかったことは、芥川龍之介にとって幸いであったと断ずることが出来る。何故なら、芥川は、こうした後の偶発的な不幸な状況に対して強い因果を想起する、関係妄想を持ち易い性格であるからである(事実、芥川龍之介が縁談の仲介を世話したり(小穴隆一の場合がそれ)、媒酌人を務めた、縁談や結婚が後に上手く行かなかったり、離婚となるケース(岡栄一郎の場合がそれ)等に於いて、それが強く認められる)。]
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