恒藤恭「旧友芥川龍之介」 芥川龍之介遺墨(自作自筆漢詩)・「芥川龍之介書簡集」(一)
[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実は「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が「二十九」まで続くという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている(本書のために追加したため、現在は増えている)。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。
本パートの冒頭のここ(左ページ)には、恒藤宛書簡に墨書された芥川龍之介自作の漢詩が載る。これだけは国立国会図書館に申請して掲載許可を得て掲げるつもりであったが、画像調整に好みがあろうと判断されるので、リンクに留める。以下の通り、電子化注は行った。
各書簡部分はブログでは分割する。]
乞玉斧
茅簷帶雨燕泥新
苔砌無人花落頻
遙憶輕寒鳧水上
長隄楊柳幾條春
我鬼
恒 藤 恭 樣
侍史
芥川龍之介遺墨
[やぶちゃん注:最後の「芥川龍之介遺墨」(右手下方画像外の印刷されたキャプション)以外は自筆の墨書風の自作漢詩。これは本パート本文には採用されていない書簡の一部である。私自身、前掲の「芥川龍之介書簡抄」では取り上げていない。それは後に示す私の「芥川龍之介漢詩全集」の一つとして、事実上の紹介をしていたからである。しかし、この際であるから、以下に電子化する。岩波旧全集を用いたが、以上の画像をもとに、「我鬼」「侍史」の位置を変えた。最初のタイトルは私の「芥川龍之介書簡抄」に合わせた。
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大正九(一九二〇)年三月三十一日・消印四月一日 京都市下加茂町松原中の町 恒藤恭樣 三月卅一日 田端より
乞玉斧
茅簷帶雨燕泥新
苔砌無人花落頻
遙憶輕寒鳧水上
長隄楊柳幾條春
我鬼
恒 藤 恭 樣
侍史
二伸 その後御無沙汰した 僕病氣がちで困る 風なども去秋から殆ど引き續けだ 松岡は魚眼眞珠株式會社社長になつた 成瀨は支那へ遊びに行つた 菊池は胃病で困つてゐる 久米はよく働き遊んでゐる 皆さん御變りないだらうね 僕も近々父になる 何だか束縛されるやうな氣がして心細い 拙著一册送る 始の方を少しよんでくれ給へ 頓首
*
この漢詩については、既に「芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈」で訓読・注釈を行っており、ブログでは「芥川龍之介漢詩全集 二十三」がそれである(サイト版のブラッシュ・アップした「芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈」一括横書版もある)。ここでは、特異的にそれらの解説部を転載(一部に追記を施し、不要と判断される一部を省略した)して、本書簡を完全電子化注釈として完成することにする。
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〇やぶちゃん訓読
茅簷(ばうせん) 雨を帶びて 燕泥新たなり
苔砌(たいせい) 人無く 花落つること頻り
遙かに憶ふ 寒鳧(かんすゐ) 水上(すゐしやう)に輕きを
長隄(ちやうてい) 楊柳 幾條(いくでう)の春
[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。大正九(一九二〇)年三月三十一日附恒藤恭宛(岩波版旧全集書簡番号六八六)に所載する。
詩とは直接拘わらないが、邱氏(私が「芥川龍之介漢詩全集」の電子化でお世話になった邱雅芬氏の「芥川龍之介の中国」(二〇一〇年花書院刊)を指す)の解説には、この「松岡は魚眼眞珠株式會社社長になつた」について、非常に興味深い事実が記されているので引用する。『「松岡」とは友人の松岡譲を指すが、「魚眼真珠株式会社」について、新全集の「注釈」は「未詳」としている。実は「魚眼真珠」も中国古来の熟語「魚目混珠」に由来するもので、「にせもの」という意味である。したがって、これが戯れ言であり、芥川流のユーモアなのである。』あるのである。「魚目混珠(ぎょもくこんしゅ)」とは、魚の目玉と珠玉がよく似ていることから、本物と偽物が入り交じっていて紛らわしい喩えである。勿論、私もこの邱氏の解明には驚いた(ただ、龍之介のこうした悪戯好きはよく分かっているので、直ぐに腑には落ちた)が、アカデミックな国文学者として真面目に調べた新全集の注釈者をさえも困らせて――龍之介は今も悪戯っぽい目で、僕らを騙し続けているのである……
「茅簷」茅葺きの屋根。
「燕泥」詩語で燕の巣のこと。
「苔砌」「砌」は階(きざはし)の下の石畳であるから、これは、びっしりと苔生しているそれを描写し、人の訪れの絶えていることをいう。
「寒鳧」「鳧」は野鴨。川に浮んだ寒そうにしている羽毛のほこほことしたカモや水鳥の類いをイメージしてよいが、これは同時に固有名詞としての京の賀茂川のことを指す(日本漢詩では「賀茂川」を「鴨水」としたりする)。ここは従って、新春の未だ寒々とした賀茂川の水の流れを同時に映像化する必要がある(但し、そのスケールは実は、架空の大陸の「鳧水」という河にも変換され、あたかも隠者の棲家とする不思議な山水が、そこに現前するように龍之介は創っているに違いない)。……私などは、つい、ここから東へと目が移って、鴨東(こうとう)――祇園の花街が視界の隅の方に見えてしまうのであるが。……
「長隄」賀茂川の長堤。今の賀茂川堤や高野川堤は、合わせて七百本を越える桜並木の名所となっている。但し、これも西湖の知られた白堤(はくてい)等が、自動的にオーバー・ラップされて、非日本的(だからここは「楊柳」でなくてはならない)な広角のランドスケープが浮かび上がってくるようになっている。起承句の隠者の庵の描写――それは京の山間の隠れ寺のようでもある――から、転結句では、京で読む恒藤の意識に一度、フォーカスを合わせたものが、そこから再びぼやけたかと思うと――広大無辺の静謐なる大陸的景観へと変容(メタモルフォーゼ)する――かく繫げてゆく龍之介の手腕は、やはり只者ではないという気がする。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:「砌qi4」は建築用の煉瓦、またはステップになっているところ。ここはステップか。「鳧fu2」は水鳥の一種。辞書にはマガモとある。他に特に難しい語はないだろう。屈折した表現もない。結構自体にも、特段指摘したい新機軸はない。とても素直な詩だ。ブツブツとひとり口の中で朗誦、反芻すること数十回、イメージが少しずつ膨らんでくる。この懐かしさの原因は何だろう。ひとつは湿り気だ。起句の「雨yu3」と「泥ni2」、承句の「苔tai2」、転句の「鳧」と「水shui3」。水気のある概念が三句に散りばめられている。しかも全て春の陽光を宿した柔らかい水。人は、どうしても水気のあるものに、生き物としての郷愁を感じるようにできているらしい。もうひとつは、柳の緑が眩しい春の堤。この詩の終着点の景色。私が連想したのは中国の詩人ではなかった……。そう、蕪村だ。「春風馬堤曲」。淀川水系の堤で、帰省途上の美しい娘と邂逅し、これに触発されて詠った春の歌。生命の躍動と郷愁と一抹の物寂しさが交じり合った不思議な吟行。そうして蕪村といえば忘れられないのが、「北寿老仙を悼む」。親しくしてくれた老人の死を悼む詠嘆のうた。江戸時代の詩だとは、俄かには信じられないロマンティックな調べ。この詩を読む私の胸には、濃厚に「春風馬堤曲」が、そしてどこかでかすかに「北寿老仙を悼む」が流れる。
――春雨に洗われた茅屋の軒下にも、いよいよ燕の夫婦が帰ってきたね。誰も見ていなくたって、ほら、苔の緑も、盛んに散っていく花も、生命をちゃんと祝福してくれているんだよ。鴨が水の上で余寒に耐えるようにしていたのが、もうかなり昔に思われる。手前からずうっと彼方へ、春霞の中に消えていく堤の柳の並木。時折そよ風に揺れる無数の葉のひと筋毎に春が宿っているのが見えるだろう。いつかは失われる生命。いや、しかしそんな定めなど、今は忘れてしまおう。さあ、あらゆる生命よ。春が来たのだよ。今このときを精一杯、そして思い切り味わおうではないか――
《以下、やぶちゃん補記》蕪村の「北寿老仙を悼む」は私の大好きな俳体詩である。どうしても以下に示しおきたい。
北壽老仙をいたむ
君あしたに去(い)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかなしき
蒲公(たんぽぽ)の黃に薺(なづな)のしろう咲きたる
見る人ぞなき
雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(な)くを聞(きけ)ば
友ありき河をへだてゝ住みにき
へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹にしふく風の
はげしくて子笹原(をざさはら)眞(ま)すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵(わがいほ)のあみだ佛ともし火もものせず
花もまいらせずすごすごと彳(たたず)める今宵は
ことにたうとき
釋蕪村百拜書
「北壽老仙」俳人早見晋我(はやみしんが 寛文一一(一六七一)年~延享二(一七四五)年)。通称は次良左衛門、名は義久、北壽は号。下総結城の結城十人衆と称された代々名主を勤めた素封家で、酒造業を営むかたわら、榎本其角や佐保介我の門下として結城俳壇の中心人物として活躍、自宅に私塾を開いたりもした。与謝蕪村とも親交をむすび、七十五歳で亡くなった晋我の追善集「いそのはな」に蕪村(彼は享保元(一七一六)年生であるから、当時は未だ二十九歳であった)はこの俳体詩を献じ、師とも仰ぎ、兄とも慕った晋我への、その万感の思いを表現したのであった。]
*
なお、以下、底本本文の書簡に入るが、恒藤は全体が自身の文章でない書簡引用であることを考慮して、このパート全体を五字下げにしている。これはブログでは再現することが出来ないので、無視した。また、恒藤恭は読み易くするために、一部の表記等に手を加えている。上付きアラビア数字は恒藤が附した注記番号である。標題は頭の数字がゴシック体で、見かけ上、明かに大きく(半ポイント程)見える。以下の丸括弧内の明朝体は本文と同じポイントであるが、ブログでは標題全体を目立たせるためにポイントを上げておいた。]
一(大正元年八月三十日 新宿から松江へ)
もう二週間で学校がはじまると思ふとうんざりする。ほんとうにうんざりする。埃で白くなつた敎室の机さ。落書きだらけの寮の硝子窓さ。一つだつていい心もちを起させるものはありはしない。VULGAR な SLANG や VULGAR な SCANDAL だけでもぞつとするのに、STORM のすぎた後にはいつも酒のにほひがするんだらう。正直な所僕はもう二週間と思つたら、1八木君の ETERNAL な音読の調子が耳にうかばずにはゐられなかつた。ETERNAL と云ふのは全く善意で、音調[やぶちゃん注:原書簡は「音讀」。]から他に及ぼす迷惑なぞは毛頭考へてゐない。唯あの調子は ETERNAL と形容すると一番いゝやうな氣がするからつけた迄だ。ETERNAL だらう。さうぢやあないか。
更に正直な所このうんざりした心もちは、みんなに逢ふ事が出來ると云ふたのしみよりも遙に力强い。うんざりせずにすむのならば、皆と一つ処に集らなくたつていゝ。第一僕は君と寢ころんで話しでもする外に、そんなに逢ふのを樂しみにする程の人を知らない。(尤も誰でもさうかもしれないけれど)。だから何も二ケ月間の洗練を經た顏を合せて「やあ」とか何とか云ふ必要はないんだ。逢つて見たくなれば訪ねてゆく。実際木曾へゆく前に君の國へ行かうかと思つてゐた。さうして「こいつは少し汽車へのりすぎるな」と思つて煮切らないでゐるところへ KANIPAN が一高へはいつた勢で木曾へゆく PLAN を立てたので とうとう[やぶちゃん注:原書簡もママ。但し、後半は踊り字「〱」。]一緖に蓙[やぶちゃん注:「ござ」。]をきて金剛杖をつくやうな事になつてしまつた。未に出雲の湖と出雲の山とを見る機會を失したのが一寸殘念に思はれる。KANIPAN で思ひ出したが、僕の知つてるものがうまく三人共 PASS した。工科の二十分の一は僕の友だちなんだからえらい。三人ともはいつたときはほんとにうれしかつた。
KANIPAN は今アー、ベー、ツェーを敎はつてるさうだ。アー、ベー、ツェーと云ふと、2ユンケルの細い褐色の頭の毛を思ひ出す。ユンケルを思ひ出すと、3シイモア先生の桃色の禿も思ひ出される。シイモア先生の娘は死んだかしら。
木曾は大へん蚤の沢山ゐる所だつた。福島へ泊つた晚なんぞは體中がまつ赤にふくれ上つて、まんじりとも出來なかつた。これから木曾へゆく旅客は是非蚤よけを持つてゆく必要がある。矢張福島で橫浜商業の生徒と相宿になつた。休格のいい立派な靑年だつたが、驚くべく寢言を云ふ。夜中にいきなり「冗談云つてら。そんなことがあるもんか」とか何とか云はれた時には、思はずふき出しちまつたものだ。
御嶽の頂上の小屋で福島中学の生徒二人と一緖になつた。二人とも寮歌をよく知つてゐる。僕なんぞよりよく知つてゐたかもしれない。きいて見ると、すべての寄宿舍の制度は一高に模倣してやつてるんださうだ。「鉄拳制裁も STORE [やぶちゃん注:ママ。「STORM」の誤植であろう。]もあります」と云ふ。一高なんてえらいもんだと思つた。そんなに影響の範囲が廣いだけでも御互に随分つつしまなくちやあならないと思つた。尤も其時は僕は決してつつしんだ方ぢやあなかつたけれど。「先輩には今どんな人がゐます」つてきいてみたら、隣室の金井君がさうださうだ。一寸奇遇のやうな氣がしたが、直又奇遇でも何でもないやうな氣がした。二人とも氣壓の少いので半熟な飯を何杯も食つた。一杯も食へないで、持つて來た SALT. MEAT の罐詰ばかりつつついてゐた僕には、金井君は好箇の後輩を得たとしか思はれなかつた。
かけはしだの寢覚の床だのに低徊してからやつと名古屋へ行つた。僅少な日子を費しただけだから、精細な事はわからないが、何しろ名古屋はべらぼうな町のやうだ。均一制のない電車は市の一端から他端迄ゆくのに六十枚ばかりの切符を買ふ事を要求する。それも一枚一銭の切符なんだから呆れる外はない。僕たちは伊東屋吳服店の木賊色と褪紅色と NUANCE を持つた食堂で、けばけばしいなりをした女どもを大勢見た。偕樂亭の草花の鉢をならべた VERANDAH であいすくりいむの匙をとりながら、目の下の灯の海をあるく名古屋人を大勢見た。さうしてその中のどいつをとつてみても、皆いやな奴であつた。僕たちは眞晝間に汗を流して方々の工場を訪問した。埃くさい應接室で黃色い西日に照りつけられながら、某々の會社からの紹介狀や名刺を出して参観を賴んだ。帳簿や書類の間から黃疸やみのやうな顏を出す書記や給仕や職工に大勢遇つた。さうしてそのどいつをとつてみても、みないやな奴ばかりだつた。
至るところで旅烏の身になつた不快な印象を負つて、いたるところの工場で参観を拒絕されて、僕たちは三日目にとうとう[やぶちゃん注:ママ。底本は後半は踊り字「〱」。]中京と誇称する、尊敬すべき名古屋を御免蒙つた。僕は名古屋と甲府ほど嫌な都会を見た事がない。尤も名古屋も蚤のゐないだけは木曾より難有つたけれど。
秩序もなくいろんな事を書いた。もうぢき君にもあへる。寮に又半年をくらして瘦せるべく、君は肥つて東京へ來ることだらうと思ふ。 匇々
三 十 日 夕 新宿にて 芥 川 生
註1 一高時代のクラスメート。当時は東大文学部学生。
2 ドイツ人、一高のドイツ語講師。
3 イギリス人、一高の英語講師。
[やぶちゃん注:「芥川龍之介書簡抄11 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(4) 四通」の四通目で全文の電子化注をしてあるので、そちらを参照されたい。]
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