恒藤恭「旧友芥川龍之介」 「芥川龍之介書簡集」(十五) (標題に「一四」とあるのは誤り・クレジットは明治四五(一九一二)年の誤り)
[やぶちゃん注:本篇は松田義男氏の編になる「恒藤恭著作目録」(同氏のHPのこちらでPDFで入手出来る)には初出記載がないので、以下に示す底本原本で独立したパートとして作られたことが判る。書簡の一部には恒藤恭の註がある。書簡数は全部で三十通である。ただ、章番号には以下のような問題がある。実はこれより前で、「六」の後が「八」となってしまって、その次が「七」、その後が再び「八」となって以下が最後の「二十九」まで誤ったままで続いて終わるという誤りがある。私のこれは、あくまで本書全体の文字部分の忠実な電子化再現であるから、それも再現する。
また、クレジットの大正四年は恒藤恭の勘違いで、明治四十五年の大きな誤りであり、従って「田端」も「新宿」が正しい。従って、本「芥川龍之介書簡集」では、「一」の前に配されるべき、井川(恒藤)恭宛書簡の最古層に配されるべきものである。
底本は「国立国会図書館デジタルコレクション」の「国立国会図書館内/図書館・個人送信限定」の恒藤恭著「旧友芥川龍之介」原本画像(朝日新聞社昭和二四(一九四九)年刊)を視認して電子化する(国立国会図書館への本登録をしないと視認は出来ない)。
本「芥川龍之介書簡集」は、底本本書が敗戦から四年後の刊行であるため、概ね歴史的仮名遣を基本としつつも、時に新仮名遣になっていたり、また、漢字は新字と旧字が混淆し、しかも、同じ漢字が新字になったり、旧字になったりするという個人的にはちょっと残念な表記なのだが、これは、恒藤のせいではなく、戦後の出版社・印刷所のバタバタの中だから仕方がなかったことなのである。漢字表記その他は、以上の底本に即して、厳密にそれらを再現する(五月蠅いだけなのでママ注記は極力控える)。但し、活字のスレが激しく、拡大して見てもよく判らないところもあるが、正字か新字か迷った場合は正字で示した。
なお、向後の本書の全電子化と一括公開については、前の記事「友人芥川の追憶」等の冒頭注を参照されたい。
また、私は一昨年の二〇二一年一月から九月にかけてブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」百四十八回分割で芥川龍之介の書簡の正規表現の電子化注を終えている。そちらにあるものについては、注でリンクを示し、注もそちらの私に譲る。但し、以上に述べた通り、表記に違いがあるので、まず、本文書簡を読まれた後には、正規表現版と比較されたい。
各書簡部分はブログでは分割する。恒藤恭は原書簡の表記に手を加えている。]
一四(大正四年年六月二十八日 田端から松江へ)
新聞を送つて下すつて難有う。幾日か君の帰鄕の道すぢをよむことが出來るのを樂しみにしてゐる。
讀書三昧所か每日半日は何かしら用が出來てつぶされてしまふ。せめて七月にでもはいつたら少しは落つける事だらうと思ふ。
二十六日の晚 OPERA をみに行つた 僕の行つた晚は Tanner と云ふ人の THE QUAKER GIRL と云ふ出し物だつた。每日曲がかはるので、二十九日にはあの Musume をやるんださうだ。見物には西洋人が可成沢山きてゐた。三等にさへ夫婦づれが二組來て居たと云へば、 BOX や ORCHESTRA STALL に沢山きてゐたのはしれるだらう。
藤岡君と一緖になる。予想してゐたより割合に下品で、その上予想してゐたより遙に話す言葉がわからない。笑はせる事は随分笑はせる。僕のうしろにゐた米國人らしい女なんぞは、黃色い薔薇の造花をつけたパナマの大きな帽子が落ちはしないかと心配するほど笑ふ。PINK の襟飾をつけた品のいゝその亭主も時々笑ひ声を何段にも鼻からきつて出す。唯不快だつたのはupper circle や gallery にゐる三等四等の日本人が偶々拍手さへ長くつゞけてゐれば必ず俳優はその技を何度でもくりかへすべき義務があるものと盲信して ENCORE の拍手を長々と何時までもやつてゐる事であつた。
はねて、明い灯のついた玄関を外へ出るときに、浅黃繻子[やぶちゃん注:「しゆす」。]の地へ雲と龍と騏麟との刺繡をした支那めいた上衣の女を見た。その下から長くひいた淡黃色の JUPON も美しい、つれのもつとぢみななりをした年よりの女と自動車まで話しながら步いてゆくのである。話は英語のやうだつたし、OPERA よりもこの女に一人あつたので、余程西洋らしい心もちがした。
二十四日か三日に寮へ行つた。敎室では札幌農大の試驗をやつてゐた。あの廊下の練瓦の壁に貼つてある数学の問題をみると、大槪やさしい。寮には鈴木と八木と黑田と根本がのこつてゐた。藤岡はときくと、西寮の三階に独りで住んでゐるのだと云ふ。anchorite みたいだなと思ふ。
今はもう皆國へかへつてしまつた。藤岡君だけは三十日頃かへると云つてまだのこつてゐる。あの白い壁へ殆半年ばかりぶらさがつてゐた新島先生も、もう鈴木の行李の底へはいつて仕舞つたらう。Adieu
六月二十八日午後
東京にて 龍
[やぶちゃん注:既に「芥川龍之介書簡抄8 / 明治四五・大正元(一九一二)年書簡より(1) 八通」の七通目で電子化注してあるので参照されたい。なお、そちらでは、最後のクレジットと署名は書簡冒頭にある。]
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